ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

6月の会津 御薬園と武家屋敷を見物

みなさんおはこんばんちは。

今回は、咲花温泉を出発して会津へ行きます。

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ビクティニ:おはよう!新潟の朝はとても清々しいね。

ミュウ:今日はどこまで行くの?

ビクティニ:今日は会津まで行くよ。

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 朝食もそこそこ美味しかったです。・・・というか、どこか昭和感のある感じでした。

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こちらの旅館の玄関は古めかしい感じですが、シャンデリアが良い感じにレトロです。

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咲花温泉には若宮八幡宮という小さな神社がありました。

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石碑もあります。かつては戦場だったのでしょうか。

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朝の咲花駅です。周りの環境が自然に囲まれているので、とても静かです。

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この駅にはSuica清算機が無いため、JRを利用する際にはこちらの券売機で切符を買っておく必要があります。・・・とはいえ、私はすでにフリーパスがあるのでそのまま乗車できますがw

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9:06発 快速あがの 会津若松行き キハ110系

ビクティニ:この快速で会津まで行きます。

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沿線には田んぼや民家などの田園風景がのどかな環境です。

 

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また、『阿賀野川』という河川に沿っているため、このように途中で何ヶ所か鉄橋を渡っています。

ビクティニ:川が綺麗だ~。新緑の磐越もまた良いものだね。

ミュウ:森も良い感じに緑色になっているよ。

 

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途中でキハ47系とすれ違います。こちらのキハ40・47系の引退も近いでしょう・・・。

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磐越西線で一番有名な鉄橋を渡っています。『一ノ戸橋梁』という高い鉄橋です。明治41(1902)年に施工され、高さ24m、全長445mに16径間(橋脚・橋台間)の鉄橋が架かり、中央部は上路式のボルチモア・トラス橋になっています。この橋梁は当時、「東洋一の規模」の鉄橋と言われ、橋脚には地元産出の花崗岩が使われています。夜にはライトアップされ、地元の方々にも親しまれています。

ビクティニ:この鉄橋とても高いね。

ミュウ:鉄橋を渡る音がリズミカルに響くね~。

 

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会津盆地に入ると、田んぼが一気に広がっています。

 

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喜多方駅には只見線のキハ40系が停まっていました。

 

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ビクティニ会津盆地に入ったんだね。

ミュウ:このあたりも長閑だね~。

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会津若松駅到着しました。左の車両はまさか・・・?

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四季島だ~! まさかここで四季島に出会うとは思ってもみませんでした・・・。あまりの人気でツアーが満員になることがよくあるのですが、四季島の旅行代金はとても高いということもあり、80万円はするそうで・・・。私にはあまり縁が無いというか・・・。まあ、私にはSLの旅で十分楽しめると思いますが・・・(^^;

 

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「ようこそ会津へ」という歓迎幕が四季島になっていますねw

 

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久々に会津若松駅にやってきました。6月の会津はなかなか暑かったです。

 

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駅前に置かれているC57形の動輪のモニュメントもおなじみですね。

なお、この後は周遊バスで回ってきました。

ビクティニ会津は暑いね~。

ミュウ:日陰で涼しみたい・・・。

 

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ということで、御薬園にやってきました。私は何度も会津に旅行に来ていますが、鶴ヶ城飯盛山は良く行ったものです。でも、実は御薬園に来たのは初めてです。

ちなみに周遊バス(ハイカラさんまたはあかべぇ号)は1日フリーパスだと600円(子供300円)で、1回乗車だと210円(子供110円)です。なお、1日フリーパスを会津若松の観光地の受け付けで見せると割引になります。

ビクティニ:御薬園か・・・。なんか風流な感じだな・・・。

ミュウ:涼しそうな所だね。入ってみようよ。

 

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ビクティニ:蓮の池に古民家・・・。風流のある光景だ・・・。

ミュウ:涼しい~。

 

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御薬園に菖蒲も咲いております。6月の花と言えば、『菖蒲』ですね。菖蒲と蓮の池はとても絵になります。暑い日に菖蒲を見ていると、涼しさを感じてしまいます。

 

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こちらの古い建物は重陽閣(ちょうようかく)です。松平家子氏の孫、秩父宮勢津子妃殿下ご家族が、昭和3(1928)年に会津若松に宿泊された、東山温泉にある新滝旅館の別館の一部だったようです。
昭和48(1973)年にゆかりの深い御薬園に移設され、妃殿下の誕生日が重陽氏の節句であることから、『重陽閣』という名前になったのだとか。建物の内部の意匠は、大変凝った造りになっていて、移築後は一般に開放され、披露宴にも利用されたようです。

ビクティニ:植物の楽園って感じだね・・・。

ミュウ:落ち着いた空間だよね・・・。

 

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ガガイモ

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ヨモギ

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ゼンマイ

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ヘクソカズラ

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キンミズヒキ

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ベニバナ

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ニラ

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クララ(マメ科)とハンゲショウ(ドクダミ科)

このように御薬園では多種の薬草を栽培しています。その他に我々が普段食べている野菜も栽培されていました。これらの薬草はドクダミ茶やハーフ茶などに使われるものが多いですね。

 

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広い庭園に池や茅ぶき屋根の平屋も風情を感じさせます。

ちなみにあの平屋は『楽寿亭(らくじゅてい)』といい、『中島』という小さな島に建っています。主に藩主や藩重役などの、納涼や観光の場でもあり、茶席や密議などの場としても使われていたようです。
楽寿亭の命名は、三代・松平正容(まさかた)氏によるもので、 平素から仁知の二字を座右の銘としていた正容氏は、自然のなかにも 仁者の『寿』と、智者の『楽』のあることを感じ、この御亭に『楽寿亭』の名を付けたと言われています。
なお、当初は橋が架けられておらず、中島(亀島)へ行くには、舟で行き来をしていたようです。

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こちらの庭園はもともと大名に関わっているだけあって名勝庭園に指定されているようです。こちらの池は『池泉回遊式』になっていて、永享4年頃に葦名盛久氏が室町時代に霊泉の湧きだしたこの地に別荘を建てたのがはじまりといわれています。また、その霊泉の水(その池の水)で村人を救ったという説もあるようです。

 

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こちらは『お茶屋御殿』という藁葺のお茶屋です。元禄9年に建てられ、藩校時代には藩主の憩いの場として使われました。他にも、上席役人らがお褒めの言葉を賜る時などにも利用されていました。質素を旨とする藩主の意図から、古木素材を用い、池泉式庭園には欠かせない数奇屋造りの建物になっています。
当時の戊辰戦争に西軍戦傷者の治療所にあてられていたことから、御茶屋御殿や池の中島に建つ楽寿亭は焼失を免れています。

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なお、こちら御茶屋御殿では、鶴ヶ城の茶屋(あちらは饅頭を提供)と同様に手作り胡麻羊羹(ようかん)付きの「お抹茶席(一席600円)」があり、庭園を眺めながらお抹茶を楽しむ事ができます。(3月中旬~11月末)

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ビクティニ:ようかんおいしい~!

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ミュウ:庭園を観ながら食べる抹茶にようかんは最高だよ。

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元気に泳ぐカルガモ

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優雅に泳ぐ鯉

池には鯉やカルガモが優雅に泳いでいます。こうして鯉やカルガモが泳いでいる姿を見ていると、一層癒されますね・・・。


ビクティニ カルガモや鯉に餌やり

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御茶屋御殿の内装も畳敷きで涼しげな感じです。なお、この平屋には当時の刀傷は今も残っているようです。

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お昼はこちらの東山庵で食事に・・・。先程の御薬園から武家屋敷まで歩いている最中に雰囲気がよさそうだったので、寄り道してしまいました。

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昼食は盛りそばとソースかつ丼をいただきました。そばの香りが良く、かつの衣がちょうどいいくらいサクサク感があり、おいしかったです。ただ、休日で人が多かったのか注文をしてから料理が来るのに20分以上かかってしまったようです・・・。料理はなかなか本格的ですが、予定で時間があまりなければ、鶴ヶ城武家屋敷のレストランやちょっとした軽食で喜多方ラーメン会津ラーメンで済ましておくのも良いでしょう・・・。

 

なお、参考までにURLを張っておきます。会津観光の際に食べに行きたい方はご検討していただければと思います。

aizu.mypl.net

 

 

 

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さて、会津武家屋敷までやってきて参りました!武家屋敷と言えば、京都や城下町ではお馴染みのイメージがありますよね。ちなみにここにも周遊バスが通るのでアクセスは良いでしょう。ただ駅からだと鶴ヶ城よりかなり離れた所にあるので、周遊バスで回るのには飯盛山周りの方が早いと思います。また、駅からレンタサイクルで行くのであれば事前に地図等で調るのが良いでしょう。

さて、こちらの武家屋敷ではいわゆる会津にまつわる歴史の博物館のようなもので、当時の歴史の文化を知ることが出来る他に『赤べこ』や『起上り小法師』などの伝統工芸の絵付け体験、弓道体験も出来るので、大変おすすめです。また、宿泊される際に『東山温泉』も近いのでここを観光した後に東山温泉に宿泊するというプランを立てるもよし、宿泊してからここを観光に行っても良いでしょう・・・。

入園料:大人850円 中高生:550円 小学生:450円

開館時間

【4~11月】8:30~17:00
【12~3月】9:00~16:30
 

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さて、会津ではお馴染みの『あいづっこ宣言』が有名です。

一、人をいたわります

二、ありがとう ごめんなさいを言います

三、がまんをします

四、卑怯なふるまいをしません

五、会津を誇り年上を敬います

六、夢に向かってがんばります

やってはならぬ やらねばならぬ

ならぬことは ならぬものです

ビクティニ:『あいづっこ宣言』って感謝の気持ちと礼儀正しさが伝わってくる・・・。

ミュウ:会津の人って心が清らかなんだろうね・・・。

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敷地内には西郷四郎氏の銅像が鎮座しています。

西郷四郎氏は会津藩士・志田貞二郎の三男で、西郷家の養子として講道館柔道で活躍し、自ら創案した山嵐の大業を駆使して近代柔道の礎を築き上げた心強い持ち主だったようです。なんでも小説『姿三四郎』のモデルにもなっているそうです。また、新聞特派員として大陸で日露戦争辛亥革命の報道に活躍、孫文らと関係があったといわれているようです。 f:id:okuchichibu551:20180804101758j:plain

家老屋敷 正面玄関

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家老屋敷についての説明書き

さて、門をくぐると『家老屋敷』があります。こちらの家老屋敷は、かつて西郷家が生活を営んでいた藩邸だったともいえるでしょう。西郷家は会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職を務めてきた1700石取り家柄だったといいます。
江戸時代中期に和洋建築という豪華絢爛な屋敷には、けやき・ひのき・杉材の木材が用いられ、敷地面積2400坪、建築面積280坪にわたり、38の部屋に328枚の畳が使われています。38の部屋を有しているということはそれだけ広いのかがうかがい知れます。なお、こちらの武家屋敷はNHK大河ドラマ『八重の桜』のロケにも使われていたそうです。

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家老屋敷の入り口は『式台玄関』という表玄関になっています。

公式の出入り口ということもあり、お客様や挨拶の場としても使われたようです。

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また、四脚門や式台玄関、冠振りぐしには九曜の紋章を付けた鬼瓦などは、西郷家特有の格式の高い仕様になっています。

f:id:okuchichibu551:20180804113406j:plainこちらは『御成りの間』といい、藩公や上級武士といった身分の高い方々をお迎えする際に設けられたもので、『書院壱の間』『次の間』『茶の間』『鎖の間』などの構成からなった書院造りになっています。

ビクティニ:この部屋ではよく時代劇などで「お~な~り~」って迎え入れている場面は良く見かけるね。

ミュウ:この部屋で打ち合わせや作戦会議が行われていたのかな?

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それらの書院造りの部屋のうちの『書院壱の間』だは、お客様を受け入れるための部屋であることから、畳に『高麗縁』が用いられた格式の高い仕様になっています。

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木製のレール上に置かれた箱車に砂が敷かれています。これは、『厠(かわや)』といい、現代でいうトイレのようなものです。こちらは御成りの間専用のもので、使用後にはお客様や大名様などの健康状態を診るためにこの箱車を引き出す構造になっているようです。

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また、厠には外部と内部があり、こちらの内部は敵が忍び込むのを防ぐためのもので、幕府の間者への備えとして設けられました。

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ここも書院造り部屋の一つである『鎖の間』は、名前からすると、「処刑に使われるんじゃないか」と思われる人もいらっしゃるのかもしれませんが、そうではありません。実は、お茶を沸かす際に使用される『釣釜』を引っ掛けるための鎖がこの部屋にあった事からその名がついたそうです。いわば、『お茶の間』といったところでしょうか・・・。なお、来客が多い時にはこの部屋でもお茶をたてていたようです。

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こちらは『使者の間』といい、鶴ヶ城からの使いの者などが通され、この屋敷の主と対面されたといいます。

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そして、使者の間の隣には『槍の間』が隣接されており、こちらは常時2・3人ほど槍を常備した武士が控えていて、緊急時に備えるための部屋として機能していたようです。なお、この部屋の畳が横に敷かれているのにはある理由があります。それは緊急時に畳の『縁(へり)』に躓いて転ばないように工夫がされていました。そのことから『通り畳』といわれています。

 

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こちらの『客待の間』では家老の応接間として使われ、この部屋も格式の高い書院造りが採用されています。また、真鍮でできた大きな火鉢には唐草文という芸術的な模様が高級感を醸しています。

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家老屋敷の間取図です。大きなお屋敷でそれぞれ四つの役割を分担する事ができたのですね!

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ビクティニ:ここのお屋敷の庭園も広いし、灯篭や植えこみも良い感じに整備されていて風流だね。こないだ行った竹原市の古い町並みを思い出した・・・。

ミュウ:庭園が綺麗だよね~。でも外は暑い~(~~;)

 

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この部屋は『自刃の間』といい、戊辰戦争で西軍(いわゆる長州・薩摩藩)からの攻撃を受けた際、大半の白虎隊が飯盛山会津城(現在の鶴ヶ城)が崩壊するのをかみしめて自刃したという悲しいエピソードは有名ですが、こちらの家老屋敷でも西郷家の娘方も自刃されたエピソードもあったんですね・・・。

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『奥一の間』も書院造りになっていて、家老の寝室の他に子供たちの遊び場にもなっていたようです。当時は鞠で遊んでいたのでしょう。また、寝室ということもあり、掛け軸や付け書院も当時の伝統文化が感じられます。

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隣の『奥二の間』はおばあちゃんや子供たちの部屋のようです。

部屋には琴や山水図蒔絵書棚が展示されています。当時は琴の稽古をしていたのでしょうか。

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風呂場1

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風呂場2

家老屋敷には『風呂場』も当然あります。こちらの風呂場は檜造りで、かまどが無かったことから、台所で沸かしたお湯を手桶で運んで使っていたようです。どうやら火災防止のために、邸内で火を使うのは台所だけに限られていたようです。こうした工夫もされていたんですね。

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子供部屋や化粧の間もあります。子供部屋では長男が家督を継ぐことから、床の間がある右側の部屋が与えられたものの、次男や三男などは中央の部屋を一緒に使用されたようです。化粧の間では頼朝の妻、千重子が化粧や身支度をしていたようです。

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精米所もありました。この精米所はもともと藩米のために精米が行われていたもので、白河藩で使用していたものがここに移築されたようです。この精米所では、170年前に作られたとされる『水力式』で今でも動いています。

ビクティニ:昔は水力を利用してこうして精米していたんだね・・・。まさに古風な構造って感じだ・・・。

ミュウ:水車小屋でも来ているみたい・・・。

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水力式の精米所は、河川から採取された水力で水車と歯車に動力を伝えて杵のように米を精米していたのです。一日で4斗俵(約60kg)の玄米を16俵(約960kg)程の量で精米されていたようです。

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これは『唐箕』という機械で、稲穂を玄米と殻に仕分けるためのものです。


ビクティニとミュウ 藩米精米所を見学

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『女中頭部屋』では女中頭一人に一部屋が与えられ、奥の二畳間は女中頭付き女中の部屋のようです。

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こちらは台所のようです。こちらには土間、溜り、料理の間、配膳の間から構成されています。天井の木組みが美しく、左右に走る梁には表面をちょうなで削って仕上げる『ちょうな削り』が施されています。そして、雪の重さに耐えられるように梁が緩やかな弧を描いています。

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土間では炊事をしたりする際に使われていました。囲炉裏に似ていますね。

ビクティニ:これは南部鉄器かな?

ミュウ:田舎の家にあるよね。

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台所にはかまどや練鉢など、調理に使う道具が多く使われていました。これらの調理道具が当時の生活を支えていたんですね。

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『片長屋』 江戸時代の武家邸宅には長屋を設けて下級の家臣を住まわせて屋敷の警備に当たっていたようです。この長屋は、表門の片側についている所から、片長屋といわれています。

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番所』 表玄関の近くに位置しており、ここで家臣が警備していたようです。

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この部屋には『駕籠』という二人で且つぐような乗り物(?)が常駐されており、その駕籠の重さは約30kgもあり、当時は家老でも特別な儀式以外は使われることはなかったようです。f:id:okuchichibu551:20180804192341j:plain

『家臣の居宅』独身で家を持たない家臣が警備を兼ねてこの部屋にすんでいました。

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日進館は「白虎隊が学んだ藩校」として、先程述べたように「ならぬことはならぬ」でお馴染みの『什(じゅう)の掟』について教育していたとされています。授業内容は『学問』『稽古』『訓練』がメインでした。会津藩の幕末のエピソードがうかがい知れますね。

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こちらは、戊辰戦争に使われていたと思わしき大砲が鎮座しています。

これは『アームストロング砲』といい、官軍が使っていた世界的に水準的なものでした。この大砲で進攻してきた西軍に砲撃する際に使われたと思われます。なお、このアームストロング砲は従来の大砲でかかっていた手間と弾を込める時間短縮に成功したそうです。また、移動させる時も容易で連続で弾を発射させる上、射程距離も伸ばすことができるという利点から重宝されていたようです。

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こちらは、西郷一族の自刃を再現しています。慶応四年の事、西軍に追い詰められた際に頼母が登城した時の留守宅では白虎隊と同じように全員で自決するという大変悲しいエピソードがあったのです・・・。この様子は弾両を避け邸内に入った西軍藩士が死にきれずに息絶えの少女から介錯を求められたことに応じた哀悼なシーンです。幕末って恐ろしいですね・・・。

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他にも『中畑陣屋』といういわゆる「財政時代の役所(代官所)」のようなものです。これは福島県矢吹町中畑にて建てられたもので、その当時の代官は旗本松平軍次郎だったとか。f:id:okuchichibu551:20180804204618j:plain

武家屋敷内にも鶴ヶ城と同じように茶室(嶺南庵麟閣)も展示されています。もともと『麟閣』は鶴ヶ城本丸内に建てられたもので、戊辰戦争の戦火に巻き込れることなく元の鶴ヶ城が取り壊される際に移築されたものの、こちらの茶室はその遺構から再現されたものだそうです。

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こちらは弓道が実際に体験できます。実は以前なにかしらの旅番でこの体験が放送されていたのを観た記憶があったので、自分もやろうと思いました。ただ、時間が無かったのか全部スカ・・・orz

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その後は赤べこの絵付け体験もしてきました。色付けされていない赤べこに黒と白で『漆(うるし)』という塗料で色付けしていきます。この時は時間があまり無かったのか若干雑になったかもしれませんが・・・。ちなみに自分はビクティニをベースとした仕様に色付けしましたw

 

 さて、この後は『SLばんえつ物語』に乗車します!

次回 SLばんえつ物語号へ・・・。