ビクティニと昔ロマンのブログ

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世界遺産の城下町“萩”を観光しました その2

皆さんこんにちは。今回は萩の続きで、城下町の方を散策していきます。

 

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世界遺産に登録された城下町

萩の町並み自体が『城下町』として当時から残っているということで、『明治日本の産業革命遺産』かつ『世界遺産』に登録されています。

これは幕末に日本が産業化を目指した当時の地域社会における政治・行政・経済をあらわすもので、城跡・旧上級武家地・旧町人地の3地区から構成されています。 

 

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萩城下町
いかにも当時から残る城下町の遺構が残る建築物群こそ、それら3地区のうち『旧町人地(萩城城下町の大部分)』に含まれています。
これは萩藩の産業化や西洋技術の導入にあたっての政策形成が行われ、また当時の城下町における高度な匠の技があって日本の産業化が急速に進んだと思われます。萩城下町は、日本の産業化を試みた幕末における地域社会が有していた江戸時代の伝統と身分制、あるいは社会経済構造の成長を物語っています。

 ビクティニ:これが城下町か・・・建物も当時のままだ・・・。

ゴンベ:塀がいかにも城下町だっぺ。

 

 

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萩といえば夏みかん
昔から城下町らしい塀越しや、武家屋敷の庭園に生える夏みかんの木と実が萩の風物詩にもなっています。5月上旬~中旬頃には、白い小さな花を咲せ、甘い香りに包まれた城下町に情緒を感じさせます。萩城下町を包み込む夏みかんの花のかおりは、環境省選定「かおり風景100選」に選ばれています。

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木戸孝允の旧宅1

 

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木戸孝允の旧宅2

 『桂小五郎』の名でも知られ、“維新の三傑”と詠われた木戸孝允の旧宅です。天保4年(1833)にこの家に生まれ、嘉永5年(1852)に江戸に出るまでの約20年間、この家で過ごしていました。

当初は7歳まで生家の和田家でつけられた名前で名乗っていましたが、その後桂家の養子になってから前者でもあったように『桂小五郎』という名前がつけられ、これは「通称の名前」として使っていたようです。しかし、『木戸』と改名されたのが幕末期の長州藩の立場と深く関わっていたからだといいます。
・・・意外なことですが、幕末期当時、彼は幕府の指名手配犯とされ、新選組や会津藩の手から逃れるために、「広戸孝介」など十数個の名前を使い分けていたようです。後に「木戸」姓に改名されたのが1865年とのこと。

ちなみに、長州藩は藩の要職として桂小五郎を登用したかったようですが、幕府の指名手配であったことから、長州藩が「桂」に改名するように命じたのです。いわば「木戸」という姓は長州藩から賜ったものなのです。

その後1868年、彼は自らの諱(いみな)である「孝允」を使って「木戸孝允」と正式に名乗るようになったのです。

 

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旧宅の雰囲気

旧宅や庭はほぼ当時のままで残っています。

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敷地内に設置された『井戸』

かつては武家屋敷や旧宅の敷地内には、このような井戸が配置されていました。当時は水道が無かったため、地下水からこの井戸を使って水を汲み上げていたと思われます。

 

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木戸孝允の生涯

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萩城下町の絵図

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「今日」の手習い

座敷には「今日」という手習いは桂家の養子となる前の「和田小五郎」という幼き頃に書いたもので、朱書きで「以っての外よろしい」と褒め言葉が書かれています。これは上出来なものにしか書かれなかった言葉なのです。その言葉があると城下では大評判になったそうです。

 

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木戸孝允の肖像画と写真

屋敷内には木戸孝允の写真と肖像画が飾られています。

 

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桂小五郎の像と手習い

木戸孝允の像と手習いがありますが、こちらの手習いは「桂小五郎」として11歳になってから書いたものです。

よく見ると書状冒頭の決まり文句である「一筆致啓達候」(いっぴつけいたついたしそうろう)と書いた行間の下方に「桂小五郎」と署名されています。また上部中央に「癸八月七日」とあることにより、書いた日付までが明確で署名の上には師匠が朱で「天晴見事々々」(あっぱれみごとみごと)と書き入れがされています。当時の萩城下の習わしとしては飛び切り上出来の評価とされています。ちなみに上出来は「見事」、上々出来は「見事々々」という意味だったとのこと。

 

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木戸孝允旧宅の庭

庭園には灯籠をはじめ、南国で見られるような植物や植え込みが見られます。中には樹齢が1000年を超える松の木も植えられていました。

 

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玄関口

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旧宅の鴨居

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二階へ続く階段

鴨居の高さは約160cmあります。私の身長は175cmくらいありますが、身を低くしないと通れないくらいです。しかし、この屋敷が設計された当時は昔の人の身長に合わせたもので、梁や引き戸などはほぼ当時のままで残っています。また、第二次大戦中は人があまり住んでいないために奇襲されなかったことから、こうして当時のままで旧宅が残っているのです。そういうことを考えれば、世界遺産に選ばれている理由としてはふさわしいのではないかと思われます。

 ちなみに管理人の話によると、江戸時代は二階から萩城がよく見渡せたとのことです。

 

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庭に置かれた水琴窟

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植え込みの松の木

 

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錦絵1

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錦絵2

日本史の中でも大きな転換期となったと言われているのが明治維新です。その中で征韓論は近代化に向けて政治的・社会的変革が進む明治初期に巻き起こり、その結末は大きな政治事件へと発展していったといいます。
征韓論を唱えていたのは、明治維新に関わっていた江藤新平や板垣退助らで、大久保利通や木戸孝允ら岩倉使節団の欧米視察の際に日本に残っていた留守政府の首相だっあのです。征韓論といえばかの有名な西郷隆盛が中心人物とされますが、考え方としては江藤新平や板垣退助らとは若干違っていたのです。西郷は朝鮮への主戦派を抑える側に回っていたのです。征韓派の主な人物としては西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・副島種臣・後藤象二郎です。

それに対して反対したのが大久保利通・岩倉具視、そして木戸孝允などの岩倉使節団として欧米視察に携わった政治家たちだったといいます。彼らは欧米と日本の国力の違いを見てきて、その当時の日本は内政の充実と国力の増強が優先的で国外のことに干渉したり戦争をしたりする余裕がないと感じていたことから、朝鮮への出兵は時期早々と反対していたといいます。その人物が大久保利通・岩倉具視・木戸孝允・大隈重信・大木喬任です。

 

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青木周粥 旧宅

青木家の旧宅です。

青木周粥は大島郡和田村(現周防大島町)の医家として生まれ、藩主毛利敬親の侍医や医学館の館長を務めました。日本屈指の蘭学者で、青木家を継ぐ実弟・研蔵も長崎で最新の医学を学び、各地から集った多くの弟子を育てました。種痘の技術を初めて藩にもちかえり、天然痘を予防することに成功したことから、明治2年(1869)に明治天皇の大典医に任命されたのです。

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萩城下町の絵図

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青木家の灯り

先程の木戸孝允旧宅の照明は、硝子仕様の小ぶりなものでしたが、こちらの照明は和紙仕様の一回り大きいものになっています。

 

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萩城の古写真
青木家には萩城が残っていた当時の写真も展示されています。このお城は廃藩置県に伴い、明治7年に払い下げられたとのこと。解体される前に撮ったもので萩城が丸々写った写真は大変貴重なものかと思われます。毛利36万石の居城として栄華を誇り、また明治維新の原動力として近代日本の礎を担ったお城でもあります。現在では本丸は残っていませんが、石垣などは残っているとのこと。

 

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萩城下町の変貌1

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萩城下町の変貌2

萩城下町の変貌を描いた絵図には、江戸時代初期から中期・終わり頃に書いたもので、それら3種類の絵図で城下町の道路や建物などの位置の移り変わりが示されています。

侍屋敷はそれぞれ三角州北西部の堀内、北東部(古萩・浜崎)、南部の平安古・江向・土原・金谷などの配置されています。町屋は三角州北東部の北東部に古萩に集中しています。北東の端にある浜崎、南部の平安古・唐樋・橋本・椿などに配置されています。また、三角州内には田畑があり、農家もあったようです。寺院は小高い場所にあります。
江戸時代中期になると田畑から宅地に、侍屋敷も増えていきます。また町屋も増え、享保4年(1719)に藩校「明倫館」も完成します。

 

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炊事場

昔はかまどで炊事がされていました。

 

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萩人形

書院造には「萩人形」も飾られています。萩人形は針金、綿、布を用いて、すべて手作りにより製作された高さ約12㎝の日本人形です。これもいわゆる萩の伝統工芸の1つにもなっています。

 

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掛け軸と生花

掛け軸や生花も展示されていて素敵です。生花の花瓶は萩焼でしょうか。

 

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書院造の引き戸は江戸時代当時もの

書院造には江戸時代からずーっと残っているものもあります。居間にある小さな引き戸の絵図は、色の褪せ方から見れば江戸時代当時に描かれたもので、復元したものではありません。ちなみに、管理人の話によると「江戸時代から使われたもので仕舞い込んだもの」とのこと。確かにこの色の褪せ具合から見ると、江戸時代からよく残ったなあと感心してしまいます。

 

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青木家の庭園

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円政寺

城下町にある円政寺は伊藤博文ゆかりのお寺です。博文の母親はこのお寺の住職とは従兄弟関係にあったことから、息子の博文は教育のためにこのお寺に預けられたといいます。

 

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コナンの舞台にもなった円政寺
意外なことに、このお寺は名探偵コナン「明治維新ツアー」の舞台にもなっていたようです。

 

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大河ドラマの舞台にもなった円政寺
また、このお寺の近くにはNHK大河ドラマ花燃ゆの大沢たかおが演じた小田村伊之助、群馬県令(県知事)かとり素彦が住んでいたようですが、その家は無くなっているようです。

 

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大天狗の面
また、円政寺の境内には金毘羅社社殿(市指定有形文化財)があり、全国でも珍しい神仏習合の形態が今でも見られる点で貴重なものになっています。その1つが『大天狗の面』で天井にあります。これは高杉普作が小さい頃、病弱でその母親がこの金毘羅社にて健康を祈願し、拝殿の大天狗で勇気づけたといいます。

 

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普作と博文が遊んだ木馬
高杉普作と伊藤博文が幼少時代では近所の遊び友達で、この木馬の上に乗ったり頭をなでたりしたというエピソードもあったようです。

 

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マンホールが案内表示に

城下町のマンホールにも観光案内がされています。城下町ではよく見られるなまこ壁や夏みかんのイラストが印字されています。

 

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旧久保田家 住宅

旧久保田家住宅は、江戸時代後期に建てられたもので、呉服屋・酒造業を営んできた、いわば町屋の1つです。旧御成道(いわゆる大名行列が往来した道)に面しており、この通りに対して菊屋家旧宅に対峙するかのように並んでいます。幕末期から明治前期にかけての建造物として、意匠・構造・技術に優れていたことから、酒造業で繁栄した当時の状況がよく伝わり、萩城下町を構成する非常に重要な萩市文化財として保存されています。

久保田家は、初代庄七が江戸時代後期に近江から萩に移って呉服商を開き、2代目の庄次郎から酒造業に転じたと伝えられます。以来明治30年代まで造り酒屋「あらたま酒店」として営業していたようです。明治時代には、来萩した名士の宿所としてもしばしば利用されていたといいます。

 

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鴨居が高いのが特徴的
旧久保田家住宅の主屋は、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、立ちが高いのが特徴的です。そのため、写真の鴨居が先程の木戸孝允旧宅などと比べて鴨居が高くなっています。また、屋敷自体も結構広いです。こんなに広いのは、おそらく商売を前提とするためだと思われます。

 

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久保田家の城下町絵図

ここにも城下町絵図があります。

 

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旧久保田家住宅の敷地内に蔵がある
旧久保田家の特徴としては「町屋」という呉服屋・酒造業を営んできた名残もあってか、蔵があります。

 

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漆塗り

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ランプ(?)

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会計に使われたと思われるそろばん

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物品の測量に使用されたと思われる竿秤(さおばかり)

蔵の中には漆塗りやランプなどが展示されています。呉服屋や酒造業の他に様々な物品で商売していたかと思われます。

 

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久保田家旧宅 庭園

 庭園も先程の青木家や木戸孝允旧宅と比べるともっと広いです。

 

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旧久保田家 居間

居間も広い空間で、掛け軸や生花も立派です。

 

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茶室

四畳半になっている部屋は茶室のようです。中央にある畳は、おそらくお湯を沸かすための囲炉裏があると思われます。

 

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久保田家の炊事室

 炊事室です。屋敷内に井戸がありますが、これは商売を前提としていることから、屋敷内に設置したものと思われます。また、当時は水道が無かった時代でもあったので井戸から汲み上げた水は「水瓶」に貯蔵していたのです。

 

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小さな箪笥

昔はこの箪笥で商売道具を管理していたのでしょう・・・。

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杵と石臼

この道具を使って純米の酒造をしていたと思われます。あるいはもち米を使って和菓子を作っていたのでしょうか。

 

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旧菊屋家住宅

菊屋家住宅です。こちらは久保田家の萩市の文化財とは対照的に重要文化財になっています。

 

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菊屋家住宅が重要文化財に
菊屋家の構造としては、主屋・本蔵・新蔵(金蔵)・釜場・米蔵の五棟があります。主屋は家に残る古文書や言い伝えによると、慶長9年(1604)に敷地を拝領し、慶長11年に家が出来上がり、完成祝に輝元公を招待していることから、その頃と思われ、現存する町屋においては全国的に最古に属している建造物と思われます。

 

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御成門

長屋門から入られた御上使はこの門を経て書院に通られたとのこと。

 

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立派な井戸

井戸も一回り大きいです。

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貯水槽

もしもの火災時のために設置されたもののために貯水槽も設置されています。

 

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菊屋家 居間

主屋の居間には行灯、火鉢、掛け軸などが展示されています。

 

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菊屋家 庭園

庭園はかなり広いです。松の木や紅葉などの植物に趣が感じられます。

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書院造

書院造の掛け軸や扇子などは立派です。

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萩焼

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琵琶や尺八、法螺貝など

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陣笠、短筒、遠眼鏡、鉄扇など
萩の伝統工芸の代表とされる萩焼をはじめ、琵琶・尺八・法螺貝などの楽器。戦で使うような陣笠や短筒、鉄扇などが展示されています。

 

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みせ
菊屋家はもともと豪商ということもあり、御成道に沿うように部屋をとり、前に深い土庇を設けていました。これが「店」としての役割を持っていたのです。

 

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古萩
萩焼は一般的に京都の楽焼、九州の唐津焼とともに茶道における道具として使われましたが、初期から多量の日曜雑器が焼かれています。こちらの「古萩」といわれる焼物の中では茶道・水指・香合・置物等でも様々な作品に趣が感じられます。

 

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本蔵
 菊屋家でも先程の久保田家と同様に商品を保管するための蔵も存在します。こちらの「本蔵」は江戸時代から同じ場所に建っているものの、19世紀後半頃に建て替えたもののようです。

 

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釜場
 ここでは、商売のために醤油や味噌などの製造に使われていたものの、火事になった際には炊き出しにも使っていたようです。

 

 

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久々の津和野へ

続いて津和野にやってきました。以前津和野駅の駐車場にD51がありましたが、最近は津和野駅前に展示されるようになりました。

 

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鯉が泳ぐ津和野の町

秋の津和野はやはり鯉が似合います。萩には旧湯川屋敷の水路に鯉が泳いでいますが、津和野の鯉は城下町通りの水路で泳いでいます。

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弥栄神社

弥栄神社で久々に参拝しました。

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太鼓谷稲成神社

太鼓谷稲成神社でも参拝。

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お供え物の油揚げも添えておきます

稲成神社のお供え物といえば油揚げですね。

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SLやまぐち号に乗車

この後はSLやまぐち号に乗車しました。今回は貴婦人のC57-1号機が令和初の乗車になります。

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湯田温泉にて下車

SLやまぐち号で湯田温泉駅にて下車しました。

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湯田温泉は白狐が見つけた美白の湯

開湯は約600年前といわれ、白狐が毎夜温泉に浸かっていたところを権現山の麓のお寺のお師匠さんが発見したとされています。田んぼの真ん中から金色のお地蔵さんや、源泉が湧出したことから、「湯田」という名前の由来なんだそうです。

 

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湯田温泉 足湯

湯田温泉街には足湯があり、足湯に浸かるとがん細胞を殺す作用がある「NK細胞」の活性度がアップすることから免疫力を上げる効果があるといいます。

ビクティニ:温泉はいいね~。

ゴンベ:良い湯だっぺ~。

 

“世界遺産の城下町“萩”を観光しました その2”をお伝えしました。