ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

GW道東紀行3日目前半 ルパンでも脱獄不可能?!日本最恐の刑務所 網走監獄の秘密

みなさん、こんにちは。

3日目は日本最恐といわれた『網走監獄』を観て、その後は知床へ向かいます。

 

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朝の網走駅

これから、レンタカーを借りて網走監獄や知床へ行く予定なのですが、網走駅前のレンタカーは9時からとのことなので、それまで網走駅のホームを見学してみます。

ビクティニ:随分レトロな駅だね。まるで当時のままで残っているかのよう・・・。

ミュウ:主要駅のわりには古い駅だね・・・。

 

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網走駅に停車中の普通列車

網走駅は、JR石北本線釧網本線の発着駅です。

ここは石北本線の終着駅ということもあり、札幌からの特急列車もここまでやってきます。そして、ここから釧網本線が釧路まで続いています。国内での乗換駅としては、最北端です。実は、当初の網走駅は、現在とは別の場所に初代網走駅として建てられましたが、ここから釧路方面へ続く釧網本線が輸送力に期待されることから、釧網本線の全線開通と同時にこの場所に現在の網走駅として移転し、当初あった旧網走駅は『浜網走駅(貨物駅)』となり、昭和59(1984)年には廃止になります。また、かってはこの駅から湧網線も分岐されていましたが、それも昭和62(1987)年に廃止となっています。石北本線の普通列車はキハ40系およびキハ54系が活躍しています。

ビクティニ:昔の網走駅は蒸気機関車がたくさん活躍していたんだろうね・・・。

ミュウ:東京と全然違って、みんなディーゼルなんだ・・・。

 

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網走駅 改札口

網走駅の改札は、東京や首都圏とは違って常時改札が行われているのではなく、列車が到着した時だけに行われるようです。ただ、入場券を買うと駅構内を自由に見学できます(ただし列車には乗れない)。どちらも本数が少ないので、どこぞのローカル線の駅のごとき、列車の到着時間に合わせて駅員さんが検札をします。もっとも令和でも自動改札でないいわゆる駅員改札が残る駅は、まさに昔ながらの駅という雰囲気が残っています。

 

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当時の石北・釧網本線の写真

昭和40年代の石北本線と釧網本線には多くの蒸気機関車が活躍していました。

特に旭川方面から来た石北本線には多くの急行や特急、貨物列車が行き交っていたようです。

 

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網走刑務所の作業製品

駅には網走刑務所の作業製品が展示されています。

刑務所で作られた日常品や調度品などがグッズとして販売されています。これらのグッズは、この駅から女満別方面へ1キロぐらい行った網走刑務所で売られていて、中にはそこらのホームセンターのものより安い値段で家具や調度品も販売されているようです。

 

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網走名物 かにめし弁当
さて、網走の名物といえば、やはり『かにめし弁当』が美味しいです。

網走に来たら、ぜひとも食べてほしい逸品です。今回はホテルで素泊まりした分、網走名物である『かにめし』を朝食としていただきました。しかも朝ということもあり、炊きたてで美味しかったです。

ビクティニ:いただきます!・・・うまい!(煉獄さん風)やはり炊きたては違うね!

ミュウ:カニの匂いが香ばしくて美味しい!

ゴンベ:いただきますだ~!ガツガツ・・・うまいっぺ~!

シャワさん:うまい!これぞ北海道グルメの醍醐味ってやつだな。

にょろもう:こんな美味しいものが朝ごはんなのは、最高!

 

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石北本線と釧網本線の存続へ・・・

JR東日本JR東海は優秀である一方、JR北海道九州四国貨物は国鉄民営化から赤字傾向になっているといわれています。

特にJR北海道は、他のJR会社の中では一番経営状況が芳しくないと言われています。

JR北海道の鉄道網は、札幌圏や函館圏を除くと、ほとんど利用者が少ない区間が多いのが現状です。昭和30~40年代当時はまだ、クルマの普及が進んでおらず、道路の整備が進んでいない時代でもあったことから、鉄道の需要がまだまだあり、たくさんの鉄道路線が存在していたのです。しかし、モータリゼーションの進行とともに、道民の生活がこれまでの移動手段である鉄道から自家用車へと次第に変わっていきました。そのため、末端路線いわゆる『特定地方交通線』といわれる路線は次々と廃止になっていき、令和に入ってもなお、廃線や廃駅が進んでいるというのがJR北海道の現状です。

そして、それらの多くの路線が『単独維持困難線区』いわゆるJR北海道単独での維持が厳しい路線がほとんどで、石北本線や釧網本線もその部類に含まれています。特に石北本線は、札幌から北見・網走などの都市間輸送においては重要な路線なのにも関わらず、JR北海道だけでは維持するのが難しいそうです。一方、釧網本線では沿線にオホーツク海沿岸の流氷世界遺産の知床阿寒摩周国立公園釧路湿原などといった景観的な観光資源に恵まれていることから、道東の観光路線として存続しているため、観光の振興としては大いに発揮できる可能性があります。しかも、沿線にこれだけ魅力的な観光地があるのは国内的に見ても非常に稀だそうです。そのため、時期のよってはノロッコ号や冬の湿原号などの観光列車で賑わいます。

そして、令和に入って間もない時期に、少子高齢化による人口減少社会はもちろんのこと、例の病気の影響で『緊急事態宣言』とともにJR北海道の経営は更に悪化しつつあるのが皮肉な状況下でもあります・・・。この状況下で鉄道を支えるためにも、沿線自治体の援助や我々旅行者が鉄道を活用することが重要です。なので、北海道の列車本数が少ないからと行って、なんでもレンタカーだけに頼るのでなく、鉄道の旅も楽しんでこそ、真の北海道の魅力が伝わるかもしれません。

 

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網走監獄入り口(鏡橋)

さて、網走駅でレンタカーを借りて『博物館網走監獄』へ足を運んでみます。

この橋は、網走刑務所の囚人たちが収容される時も出所の時も、『川面に我が身を映し、襟を正し、心の垢をぬぐい落とす目的で岸に亘るように』と刑務所の外堀に沿って流れる網走川に架かる橋を必ず渡らければならないのです。そのため、この橋は『鏡橋』といわれています。ちなみに、鏡橋は4回にわたりかけ替えられていますが、この橋は2代目で五条大橋で有名な擬宝珠を模倣して造られたものです。

 

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博物館網走監獄 入り口

『博物館網走監獄』の入り口で、ここから先が凶悪犯罪者も恐れる『網走監獄』になります。

当時の網走村に『網走監獄』が設置されたのは明治23(1890)年のことで、その10年後、『網走区裁判所』も設置されたのが始まりです。当時、この地方の村に行刑施設や司法施設が各々の役割を担って歴史に刻んできました。これは「法のもとで裁かれ、行刑施設で罪を償う」という秩序に基づき、網走は罪を憎み、正義と向き合ってきた街であるということです。博物館内にある施設は旧構築物を移築した上で復元し、北海道開拓の基盤として築き上げてきた功績を行刑資料などとともに顕彰し、当時の構築物の保存公開を通して北海道における教育的な文化の発展を後世に伝えています。

 

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博物館 網走監獄について

『博物館 網走監獄』は昭和58(1983)年7月6日に開館した公共的博物館で、公益財団法人『網走監獄保存財団』が運営しています。

これは昭和48(1973)年から網走刑務所の全面改築が始まったのを契機に多くの市民の間から『網走監獄』と呼ばれていた明治当時の建造物を『文化財』として移築復元すべく財団法人として設立されました。この財団法人の手によって貴重な遺構がまさに後世へ伝えているということですね。

 

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網走監獄 正門

入り口から入ると、一際目立つ大きな赤レンガの門が立っています。

これは『赤レンガ門』という、網走刑務所の正門です。大正13(1924)年に建築され、全長は23.2メートルあります。重厚で威風堂々とした大きな赤レンガの門が、いかにも『最果ての刑務所』といわれるだけあって、当時は恐れられた時代の刑務所としての威厳を感じさせられます。門の左右には部屋が設けられ、一人が正門の担当看守が受付として配置され、もう一人が面会に来た家族などの待合室や申込みに使われていました。

そして、この建造物に使用されている煉瓦・・・実は普通の煉瓦より20~30%小さいのです。それは煉瓦を焼成する時に窯の中に塩を入れ、塩が分解する1,160℃以上の高温で焼き上げることで、釉薬をかけた黒褐色となり、このような小さく黒い煉瓦が出来上がるのです。ちなみに、この焼き方は今では使われていないため、かなり貴重なものだそうです。

 

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網走監獄 庁舎

網走刑務所において管理部門は欠かせません。

そこで、刑務所の管理部門の主軸としての役割を担う『庁舎』が建てられました。最高責任者の典獄室をはじめ、会議室、総務課、戒護課、用度課、教育課、作業課の各課に区切られていました。

この建物は明治45(1912)年に建てられ、木造平屋建てで、寄棟瓦葺き屋根に屋根窓があるのが特徴で、半月型のアーチに窓が設けられ、中央の破風には紋章である『旭日章』が飾られています。屋根窓は左右両端後方に両翼を延ばし、正面4箇所、両端にそれぞれ1箇所ずつの合計6箇所に半円アーチのドーマー窓も設けられています。

 

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フィニアル風(頂華)の鬼瓦
上部にはフィニアル風の鬼瓦を掲げた切妻破風やアーチの破風板意匠を見せ、洋風の窓が奥に埋め込まれ、その下の鬼瓦を掲げた入母屋屋根の車寄せポーチも洋風の建造物を物語っています。

このように明治期に建てられた建造物は、当時の学校や官公庁の建築に見られた様式であり、いわば和洋折衷の『擬洋風建築』といわれ、水色やグレーを纏った庁舎に明かりが灯れば、網走の人々からは『最果ての不夜城』といわれるほどだったといいます。しかし、初代の庁舎は明治42(1909)年の火災で焼失してしまいます。その3年後に二代目の庁舎として再建され、監獄の管理棟として活躍し、昭和63(1988)年に博物館網走監獄に移設保存され、重要文化財に指定されています。

 

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囚人苦役論および苦役本文論

網走監獄の歴史は、明治維新後の近代国家への脱皮を目指して邁進する明治維新新政府にとって、アジアへ進出する列強の動きに乗り出す時代から始まります。

当時はロシア帝国の南下政策に対する危機感が強いため、北海道の防備強化のため、開拓を推進することが新政府の急務となっていたのです。そこで、当時膨大な数に膨れ上がっていた長期重罪囚らを開拓の先兵として送り出されることになります。これは、当時の太政官大書記官金子堅太郎による発想で、「もともと彼等は暴戻の悪徒であって、尋常の工夫では耐えられぬ苦役に充て、これにより斃れても監獄費の支出が減るわけで万やむを得ざるなり」という要約としてこの『囚人苦役論』が提案されました。それこそが、内務卿山縣有朋の廉価な労働力で北海道開拓を進め、さらに刑が終了した囚人が住み着くことで、北海道の人口増加を促進するというのが『苦役本文論』として引き継がれ、初代北海道庁長官こと岩村通俊によって囚人による北海道開拓が推し進められることとなったのです。

 

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樺戸集治監 建設予定地の見取り図

北海道に建設される集治監の建設地は、石狩川沿岸、胆振後志方面、そして十勝川沿岸の中から選ぶこととなります。内務卿の一人である伊藤博文は、月形潔を団長とする8名の調査団を北海道へ派遣し、それら三候補の中から調査を行いました。その結果、札幌に近い場所ながら豊かな土地が広がり、なおかつ水運の便を持つ石狩川に近い立地から、樺戸郡石狩川上流にある『須部都太(すべつぶと)』が最初の集治監建設地として選ばれたのです。その集治監は2千人の囚人が収容できるもので、明治14(1881)年に完成。この集治監の初代典獄が月形潔で、その場所が現在の『月形町』になったのもその由来になったと言われています。

 

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監獄開拓と集治監

明治に入る前の北海道は、まだ未開の地でもありました。

当時は『蝦夷』といわれていたこの大地に住む人々は野草を摘み、鳥獣や魚を捕るといういかにも原始的な生活をしていたのです。そこで、未開の蝦夷の地に『監獄の開拓』『屯田兵開拓』『移住民開拓』の三つの段階で進められ、中でも『監獄の開拓』によって道が敷かれたり、家が建てられたり、森だった土地に農耕地として拓かれるなど、屯田兵や移住民の入植を進めるための基礎的条件が整備されることになったのです。

その開拓の拠点として『集治監』が設置され、明治14年に監獄則が規定されました。この集治監は内務省直轄の大規模な監獄で、フランス刑法典の流刑植民地で用いられた中央監獄方式で、本監をもとに分監を配置し、囚人労働による殖産の実を挙げることを目指した重罪流刑囚の刑執行方法です。このように、道内においては明治14年に樺戸集治監、その翌年に空知集治監、道東へ飛んで明治18(1885)年に釧路集治監、その分監が明治23(1890)年に網走囚徒外役所、明治26(1893)年に帯広外役所が設置されることになったのです。それらの拠点として送られた大勢の囚徒たちが、道路の開削や屯田兵屋建設、農地開拓、石炭や硫黄の採掘など、様々な開拓事業に使役されたのです。

 

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釧路監獄署網走囚徒外役所の開設

釧路集治監典獄こと大井上輝前は、網走より北見や石狩地方へ伸びる国道中央道路の建設を、北海道庁から請負い、工事の起点が網走村から始まりました。外役所の設置場所の調査にあたったところ、原始林に囲まれ、網走川に沿った地形が最適な環境であったために、この場所に設置されました。先遣隊50名による仮監と仮事務所が2か月間かけて建設され、釧路より囚徒1,200名および看守173名が、網走村への移動が始まり、ロシア帝国からの南下政策に備えるべく、中央道路の開削拠点地として『釧路監獄署網走囚徒外役所』が開設されたのです。

その収容施設には囚徒1,500人が収容できる一大監獄であり、後に網走囚徒宿泊所、釧路集治監網走分監、さらに北海道集治監網走分監に改名され、その動きから独立した集治監として発足することになったのです。

 

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囚人労働によって大地に拓かれた道路と土地

囚人労働によって拓かれた土地は総面積7千k㎡で、拓かれた道路も724kmという長大な距離におよびました。そして、道路だけでなく、土地や田畑などの開墾も囚人たちの重労働よって北海道の開拓が進行されたのです。しかし、未開拓地ということもあり周辺はヒグマが出没しやすく、なおかつ北海道は非常に広大な原野での超重労働はまさに過酷な作業環境でもありました。加え冬期には雪や厳しい寒さに耐えられなくなって死亡した囚人も少なくありません。しかも、その重労働によって耐えられず死亡する極悪人が次々と処分されることで、刑務所にとって都合がようで、まさに『地獄の監獄』というのはこういうことです・・・。

その後、囚人労働はあまりにも過酷であったのか批判を浴び、大正に入ると一段落しますが、それでも開拓するべく労働力が必要で『拘禁労働』が生まれます。これは内地から騙されて連れてこられた若者たちを雇い、非常に過酷な肉体労働に従事していたのです。主に鉄道建設や土木工事などが主流でしたが、安全性や衛生などを完全に無視した長時間労働で、残酷な言い方をすると自分の体を食べて生きのびるタコに例えられ、もしくは他の地域から雇われたことを意味することから『タコ』と罵しられながら労働することから『タコ部屋労働』と言われています。しかも逃げ出そうとすると処刑され、中には生きたまま人柱にされた者もいたようです・・・。

これが恐ろしいほど惨状な背景にあった『北海道開拓』の歴史です。

 

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網走刑務所二見ケ岡刑務支所 小屋組

網走刑務所の二見ケ岡刑務支所は木造の刑務所で、日本最古のものです。この舎房は明治29(1896)年に創設され、三翼からなるT字型の建築物です。移築時の調査によれば小屋組み形式が三翼とも異なっていることが確認されています。それら三翼のうち二翼が洋風、一翼が和洋折衷という形式です。それらの形式の中で『和洋折衷』をはじめ『キングポストトラス』『クイーンポストトラス』の三種類が用いられました。特に『和洋折衷』『クイーンポストトラス』は構造としてはよく似ており、いずれも無柱構造としては安定しています。

 

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釧路集治監 網走囚徒外役所 正門

刑務所の門塀は、受刑者の逃走を防ぐことで、社会の治安を守ることが目的で必要なものですが、社会の目から受刑者を遠ざけるために造られたものです。この塀は、明治5(1872)年の監獄則に基づいて石造りか煉瓦造りにすることが定められていましたが、監獄設置の永久性や仮設性、資材の調達関係など、地域の事情によって造られていました。網走の場合は、資材の調達が困難であったことから、創設当時は木造だったのです。

 

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教誨堂

釧路監獄署網走外役所として設置されて以来、農業監獄として整えられた明治30年代の網走監獄建物群は、樺戸集治監や釧路分監の建造物をしのぐほど優れたものであったといわれています。

ところが、これらの建造物は明治42年の火災によって焼失してしまいました。

こちらの『教誨堂』は明治45年の復旧時に建てられたもので、作業で切り出した木材を使って造ったものです。

受刑者いわく『神仏の宿る家』ということで、どの建物よりも精魂こめて造られたものだそうです。屋根は桟瓦葺入母屋造りで、小屋組みは二重梁より上に『キングポストトラス』を組み込んだ大スパンのクイーンポストトラスで、柱や陸梁を方杖で固め、無柱の大空間を実現しています。また、屋根の瓦も網走監獄の窯を使って焼いたもので、妻飾りの破風には植物の葉をあしらった独特な鰭付懸魚が吊るされています。これは、和洋折衷の意匠や技法を組み合わせた建築技術が込められています。

教誨事業の行われた講堂であり、教誨とは収容者に対して精神的、倫理的、宗教的な強化指導が行われます。僧侶や牧師さんなどの宗教者が刑務所を訪れ、受刑者に人の道を説き、犯罪で荒んだ気持ちを和らげ、更生へ導くことに尽くしたといいます。このように「宗教心を持つことが大切であるということ」が説かれることで獄則を守り、希望を持って再生への道を歩むことが教え導かれたのです。

この建物は、昭和56(1981)年に移築復元され、平成17(2005)年に国の有形文化財に認定されました。

 

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三眺ブラスバンド

 戦前までは教誨事業による仏教の浄土真宗本願寺系の宗派が行っていたことから、正面には仏壇をこしらえ、阿弥陀如来像が安置されていました。戦後になると、多目的の場となった教誨堂では、軽スポーツをはじめ、仏壇が置かれていたスペースが舞台へ様変わりし、演芸会や映画会が開催されるなど、受刑者たちにとっては、まさに憩いの場となったのです。

中でも、演芸会は受刑者たちには楽しいひと時でもあり、収容者の情操教育の一環として職員の指導による『網走刑務所三眺ブラスバンド』が結成されました。正月の元旦にはその『三眺ブラスバンド』による娯楽演芸大会が開かれていたのです。そして、その演奏に使われた楽器は、昭和24(1949)年当時から使われていたものです。

 

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書写

演芸会やスポーツの他に、書写も行われていました。自分たちで書写を書くことで、自らの心を清めていたのでしょう。

 

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教誨堂では図書の貸出しも行われていた
教誨堂では図書の貸出しも行われていました。

教誨堂(刑務所)に保管されている図書は『官本』といい、貸出簿に記入してから貸し出され、または閲覧カードに読みたい本の名前を記入し、それを閲覧カード入れに提出すると、教育課から居房に本が届くという感じになっていたようです。これらの図書は、辞書や学習書をはじめ『石盤』という受刑者の漢字練習や算数の計算練習などに使ういわばドリルのような練習学習本まで用意されるなど、受刑者の教育に関するジャンルが用意されていました。他にも刊行物まで用意されていたようです。

 

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網走刑務所の歌

そして、網走刑務所には刑務所の歌まであります。ここまで用意されていると、受刑者たちの教育というか、まるで学校のようです。

 

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教誨堂の教育沿革と図書利用についてなど

教誨堂は、文字通り受刑者たちに教誨を行う場所で、原則として休業日や日曜日に行われます。教育は基本的に18歳未満の受刑者に行われますが、一般の受刑者でも場合によっては受けることもあるのだとか。教誨堂が憩いの場でも、階級によってできることが限られているようです。また、図書の閲覧でもそれぞれ決まりがあるようです。

 

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行刑史に見る監獄教誨・教育の改革

教誨の歴史は、以前にお話した『安政の大獄』のあまりの残酷な出来事からはじまります。明治に入ると牢獄の改善をなすべく、教憲三条『国民教化運動』進出して神職や僧侶によって初めて『教誨』が行われました。その三条には、神国の旨、天理人道、そして皇上を奉戴し朝旨の遵守というもので定められていたのです。これは、『教誨』の語意として父母の慈愛と仏陀の慈悲、あるいは詩経晋書にある語句で仏典で使われるようになったといいます。そして、時代が進むごとに次第に『受刑者たちの憩いの場』として変わっていくのでありました。

 

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懲罰房

これは樺戸集治監にあった懲罰房ですが、これは、獄内で規則を犯した受刑者に対して七日間、重湯だけの生活をさせて懲罰を与えるために設けられたものです。

このような房が立ち並ぶ周囲に木塀で囲むことで、その房の中は『闇堂』といい、さらに房の中には日光など外からの光が入らないことから『闇室』とよばれていました。

 

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煉瓦造り独居房

さらに監獄内で規則を守らない受刑者に対しては、もっと重い罰が課せられていました。

それは、一定の期間に食事の量を減らすという罰があったからなのです。

そこで、明治末期に造られた『独居房』には屋根が全く無く、扉は二重になっており、さらに煉瓦造り(イギリス積み)という重圧なもので40cm以上はあります。正面に前室があり、その先には鉄格子で隔てた独居室が設けられています。

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独居房の内部

これは、明治期当時の監獄の決まりには「規則に違反した者は窓の無い暗闇の部屋に閉じ込め、さらに食事を減らして反省させる」というとても厳しい罰則があったことから、その目的で建てられたものと思われます。・・・確かに狭い暗闇の中での生活は辛いでしょうし、食事も殆どないというのを考えると、かなり苦しい罰だったでしょうね・・・。夏になると分厚い壁で余計に暑く、冬になると極寒でしょうし・・・。ちなみにこれは明治45年に建てられたもので、登録有形文化財に指定されており、明治期の行刑施設の現存としては非常にまれだそうです。

 

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網走監獄の浴場
監獄には、浴場も用意されています。

これは、千人近い受刑者を効率よく入浴させるため、入浴時間は15分と決められ、刑務作業のグループごとに入浴させていました。脱衣場で服を脱ぎ終わると、一つ前の浴槽の前に並び、看守の号令とともに浴槽へ入ります。一つ目の浴槽には三分間入り、次に体を洗い、さらに二つ目の浴槽に入った後、髭を剃ります。こうして各々の工程時間を三分刻みで行うことで、合計15分間という入浴時間になるのです。浴槽は、立ち膝で手を上げた状態で入浴させるために深くなっています。おまけに看守の監視で私語や愚痴などが許されない空気に包まれながらも、この入浴の時間は受刑者たちにとっても日課といっていいほど楽しみの一つだったようです。

そして、入浴するのに必要なタオルや石鹸は官給品として支給されます。さらに成績優良者には官給品の他、所内で指定された物の中から選んで購入することができます。それを『自弁品』といいます。石鹸は盗んだり無駄遣いをさせないようにするため、吊るしたり袋に入れるなどして使わせていました。

 

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網走監獄 五翼放射状平屋舎房

網走監獄で代表的なスポットで、受刑者たちが脱獄することが困難といわれた『五翼放射状平屋舎房』です。

当初は明治42(1909)年の火災で焼失されてしまいましたが、後に復旧工事が急がれ、五つの舎房からなる『五翼放射状平屋舎房』として明治45年に建て直されました。

上空から見ると、その名の通り見張り台を中心に五方向の放射状に各々の舎房が伸びており、庁舎と並んで網走監獄における主要施設です。そして、明治期に建てられた木造監獄建築としては稀少なもので、歴史的価値が高いとされています。この舎房は明治45年から昭和59(1984)年まで使用されており、まさに明治からの獄舎としては、完全に原型を留めた国内最大規模なものだったといいます。そして国内の監獄としては最北端ということもあり、歴史的・学術的にも非常に貴重な遺構であるということが窺い知れます。

 

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中央見張所
舎房の中に入ってみましょう。

中央に見張所が設けられています。これは受刑者が逃亡や脱獄できないようにするため、看守が五つに延びた通路を180°見張ることができるようになっていたのです。

ビクティニ:なるほど、たしかにこれじゃ例のルパン三世でも脱獄できないわけだ・・・。

ミュウ:しかし、24時間も見張り続けるってなるとね・・・。

 

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網走監獄 舎房の内部

舎房の内部は、いかにも監獄らしく薄暗い空間です。

まさに『網走刑務所』のイメージそのものです!

見張り台から延びる五つの舎房の廊下は、ベルギーの監獄をモチーフにしたもので、いかにも受刑者たちが逃げることができない空間にするためだといわれています。また、五翼放射状平屋舎房ということもあり、中央見張所を起点とした五棟の舎房が放射状に造られているため、少人数でも監視しやすいという利点があったといいます。こうして明治から昭和末期まで70年以上も『現役の獄舎』として網走刑務所で使用されていたというのを考えれば、歴史を感じさせられますね・・・。ちなみに現存する木造舎房としては世界最古だそうです。確かにここまで薄暗いと日本最恐と言われるのも頷けます・・・。

 

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舎房廊下の天井

舎房には、第1~5舎があり、舎房の廊下の長さも違います。第1・3・5舎が約58メートル、第2・4舎が約73メートルあり、明かり窓が第1・3・5舎に2箇所、第2・4舎に3箇所設けられています。廊下の天井には、下弦材を鉄筋で繋いだクイーンポストトラスの小屋組み、中央部には逆Y字の鉄筋の開き止めが露出されています。

 

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舎房の廊下に設置されたストーブ
網走は極寒地であるため、ストーブや暖房は欠かせません。

いくら極悪人を収容するための施設でも、やはりストーブといった暖房機器を設置しないわけにもいきません。そこで監獄内でもストーブが設置されることになります。当初は薪ストーブが使用されていましたが、時代が進むとともに石炭、石油、スチーム暖房へと近代的に整備されていきます。第5舎に設置されているストーブは2台設置され、これは均等に暖気が伝わるようにするために、非常に神経を使うことから、決められていたといいます。こちらの薪ストーブは、かつて網走刑務所で使用されていたものと同じものを受刑者たちで製作したのだそうです。

 

 

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雑居房

受刑者を収容するための部屋である『雑居房』『独居房』が2種類で合計226室あります。

雑居房は六畳分の広さがあり、定員は3~5名ほどで126室あります。

 

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斜め格子

この刑務所の第1・3舎房室の廊下側には、暖房、換気、通気、監視を兼ねた独特の菱型の斜め格子になっています。これは収容者同士で向かい合う部屋の中を見ることができなくし、廊下から監視する看守からはいずれの部屋の監視ができる構造になっています。

 

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独居房
 文字通り定員1名の居房もあります。

これは『独居房』というもので100室あります。当然ながら雑居房より狭いので、窮屈な感じがします。また、監獄の中で規律違反を繰り返す受刑者に対して懲罰が与えられ、些細なことであれば、典獄の判断によって職員の訓戒で済ませられる場合があります。しかし、その違反行為があまりにも酷い場合は『屏禁罰(へいきんばつ)』というとても厳しい罰が与えられ、この狭い独居房の中に日夜一定の期間に入れられ、部屋から出さずに減食させて反省させられます。さらに『重屏禁』になると、暗闇の房内に閉じ込め、寝具すらも与えられません。さきほどの煉瓦造りの独居房と罰が似ていますが、暗闇の中に閉じ込められると思うと・・・。

 

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くの字格子

先程の『斜め格子』は向かい合った受刑者同士で耳打ちしないように作られていますが、第2・4・5舎房室の一部の廊下壁には格子の断面が『く』の文字になっているものがあります。これは受刑者が完全に廊下への視界を完全に遮断するためで、さらに廊下からも見れないようにしつつ、廊下からの暖房などの暖かい空気を入れるような構造になっています。また、扉の穴は受刑者が不審な行動や規則違反などをしないように監視するために設けられた穴で、これを『視察孔』と呼んでいました。

 

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網走監獄について
網走監獄は、網走の50人の先遣隊によって創設されたもので、これは『農業監獄』を意図に設計されたことから、他の集治監より優れていたのです。

当初は網走刑務所から2kmほど離れた二見ケ岡に大農場を開墾します。しかし、明治42(1909)年に大火に見舞われ、ほとんどが焼失してしまいます。その翌年に監獄の復旧が始まり、復旧工事は収容者たちによって行われました。そこで、新たに建てられた監獄は、建物の配置や質素など、保安の看視および経営の得失を考慮したものと思われます。また、網走監獄を再建する際、中央から放射状に獄舎を見張る形式にするのですが、ある記録によれば、十字型の獄舎にするという案もあったようです。

 

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天才脱獄魔 白鳥由栄

そして、いくら日本一最恐かつ脱獄不可能と言われた網走刑務所でも、やはり脱獄した強者はいました。

それもそのはず天才脱獄魔とうたわれたこの男・・・白鳥由栄だったのです。

それは、緻密な計画を企てることはもちろん、大胆不敵な行動力人並み外れた体力、そして、人心掌握術などを使って何度も脱獄を繰り返していたのです。さらに特別厳重な監視の中でも成功しており、府中刑務所で最初は反抗的な態度でしたが、それがうそのごとく変貌し模範囚になります。こうして脱獄不可能と言われた監獄を抜け出し、天才的な脱獄術を持つ強者は、まさにルパン並の能力です!そんな脱獄を繰り返しつつも、懲役を科せられ、府中刑務所で13年間過ごし、昭和36(1961)年には仮出所となり、その後は真面目に働きました。

 

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明治の脱獄王 西川寅吉(五寸釘寅吉)

明治期にも、この刑務所から脱獄した強者がいました。

それは、五寸釘を使って脱獄を企てた西川寅吉という脱獄王で、『五寸釘寅吉』というあだ名を持っていました。

彼も白鳥由栄と同様、人並み外れた身体能力や囚人仲間の手を借りて脱獄を6回も成功させたといいます。彼は三重県出身で、若い頃は伊勢で丁半博打のいかさま師といわれ、盗みを見つけた巡査から逃げるとき、土塀を越すために五寸釘を踏み抜いて12kmも走り追跡からまいたことからその異名が付けられていました。こうして窃盗や強盗を重ね、投獄されては何度も脱獄し、6回も逃走を成功させたといいます。しかし、その後は埼玉で捕まり、釧路分監に移送されてから反省の態度を示しました。そして網走監獄では表門を清掃する晒掃夫という一番信頼のある囚人が用いられる約に取り立てられ、大正13(1924)年には高齢を理由に、長かった監獄生活が終わりました。そして、彼の息子に引き取られ平穏な日々を送ることができたのです。

 

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二見ケ岡農場の農作業

二見ケ岡農場は、受刑者たちに『働く』という喜びを体験させ、健全な心身を作ることを目標に明治29(1896)年に設置されました。

これは独自の農園訓練規定を設け、寒冷地農業に取り組むというものです。この刑務所の農場は16.18k㎡(1,618ヘクタール)という日本一広い面積を持ち、これは東京ドーム約76個分に匹敵します。この広大な農場で、受刑者たちは働く大切さや、農業の大切さを学んでいったのでしょう・・・。ここに展示されている人形の模型は春の開墾から種まき、夏の草刈り、秋の収穫を再現し、農機具や馬橇、金輪荷馬車は実際の農作業で使われていたもので展示されています。

 

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登り窯
明治時代当時の日本は、西欧に倣って近代的な獄舎を建築するため、受刑者たちに刑務作業として建築材料である煉瓦の製造が行われました。

網走監獄でも例外なく煉瓦が使用され、所内の建造物や懲罰房、サイロ、倉庫などもその煉瓦で造られています。網走監獄の窯は、三眺山の傾斜を利用した『登り窯』が使われました。これは傾斜を使うと効率よく大量の煉瓦が作れるようにするためと言われています。また、監獄内で煉瓦が大量に生産でき、作業も受刑者たちに作業させることで、効率的かつ費用がかからなかったそうです。

 

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二見湖畔神社

この神社では、二見ケ岡農場で働く受刑者が、二見ケ岡を見下ろすような位置に桜の木を植え、社を建てました。神明造りの小さな社でありますが、これは受刑者たちが春の種まきから秋の収穫にかけての豊作を祈願し、さらに作業を行う上で安全を祈るために建てられたとても大事な社です。

 

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二見ケ岡刑務支所

これは網走刑務所における農園作業の先導的施設として、明治29(1896)年に網走の西方丘陵地にて『屈斜路外役所』として建てられたものです。

この建物が建てられた時、網走湖や能取湖の湖が眺望できる位置に建設され、後に『二見ケ岡刑務支所』に改名。1世紀を超えてもなお、網走刑務所の収容者たちの食糧を担うための場所として、あるいは広い農場で収容者たちが作物の管理から収穫まで自立的に行うための開放的処遇施設として重要な役割を果たしていたのです。そして、現存する木造刑務所としては最古で、平成11(1999)年にこの博物館へ移設されました。各々の建物の建築年代は、庁舎、舎房、炊場が創建当時の明治29年、教誨堂および食堂が大正15(1926)年、鍵鎖附着所が昭和5(1930)年とそれぞれ違います。明治期当時はそれぞれ独立して建っていましたが、大正以降になると、次第に施設の重要性が高まるとともに必要な建物を整えて渡り廊下でつなぎ、庁舎も改築され、ほぼ現状の586坪の農場施設にもなっていったのです。そのため、農園を持つ刑務所の建築群は他にない位、全国的に珍しいものとされています。また、一連の施設を残している点から、非常に貴重で、刑務所としての構外農場施設の発展過程をよく表しているため、行刑史上高い価値が認められています。

 

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二見ケ岡刑務支所 庁舎

二見ケ岡刑務支所の庁舎は、先程の網走刑務所の庁舎より小規模な感じになっています。小ぶりな洋風建築に外壁が下見板張り、屋根は寄棟造鉄板葺き、小屋組はキングポストトラスで、突出部は和小屋になっています。南面中央に玄関を配置し、南北に廊下を通し、東側に事務室、西側に宿直室、休憩室という構造です。床中央部にレンガ敷き、他はコンクリートの土間、天井には鏡天井で廻縁に繰形を施しています。

 

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二見ケ岡農場施設 彫刻作業場

二見ケ岡農場で作業する受刑者たちは、受刑者自身の責任や自立心を養うことが目的で開放処遇が行われます。写真は、彫刻の作業場のようです。奥のポスターには「いらいらするな くよくよするな ぎすぎすするな おおらかに おおらかに」のメッセージが見えます。おそらく受刑者たちの心を和らげて作業に集中させるためのものなのでしょう。

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二見ケ岡農場 食堂

毎日の食事は、翌日の労働への意欲と備えとして、受刑者たちにとっては欠かせないほど、大変大切な時間でもありました。これは、二見農場にて自分たちが育てた作物を収穫したものを毎日の食事に使うことで、農業や労働の尊さを学ばせることができたのです。また、受刑者の決められた席で配膳係が配る食事を残さずに食べたといいます。これが『食へのありがたみ』というものなのですね。

 

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二見ケ岡農場の作業風景(ジオラマ)

これは、二見ケ岡農場で働く受刑者たちの1日の様子を再現したジオラマです。職員に監視されながらも、広大な農場で作業させるために、監視は比較的穏やかで、受刑者たちに農業で働かせることで、自然や食へのありがたみを学ばせているのです。また、農業への関心が高まることも効果があったといいます。

 

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二見ケ岡農場 舎房
 中でも歴史的価値が高いと言われているのが『舎房』です。

ここも一見すると先程の『五翼放射状平屋舎房』と同様に両側に房が並んでいることから似ていますが、そちらとは打って変わって天井が低く、第2舎房までしかありません。しかし、明治中期の歴史を物語る獄舎建築としては歴史的価値が十分に高いと思われます。

 

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二見ケ岡農場 舎房 雑居房

雑居房も壁が斜め格子になっていますが、天井観察窓や窓が若干大きいためか五翼放射状平屋舎房と違って、少し明るく感じます。

 

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懲罰用具
刑務所内で使われた戒具は様々ですが、これは受刑者が脱獄や暴行などを防止するために、行為当事者に課せられた懲罰用具が使われていました。

右側の座っている人の戒具は防声具、真ん中は鎮静具、そして左端の戒具は、数ある戒具の中でも、最も恐れられたといわれた『カニ錠』というもので、身体を『くの字』に曲げさせ、手足を鎖で固定させる怖い戒具です。身体がエビのように曲げられると腹部は締め付けられ、背中や腰に激痛が走るからです。そのあまりの苦しさに汗を流し、口からカニのように泡を吹いて気絶してしまうことから、『カニ錠』の由来になっているのだそうです。

 

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教戒師からの説教

これは受刑者たちに教戒師から説教を聞いている場面です。旧網走監獄でいう、教誨堂と同じで受刑者たちに人の道を説き、更生への道へ導くという法話を聞きます。

 

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伝書鳩
明治期当時はまだ電気が普及されていない時代であったため、通信手段の1つである電話も普及されていませんでした。

そこで、緊急を要する連絡および定期的な報告手段として、『伝書鳩』が用いられていたのです。数百キロも離れた場所から、何日間も迷うことのなく巣へ帰ってゆく伝書鳩こそ、まさに電話のない時代において有効的な通信手段だったといいます。二見ケ岡では伝書鳩を調教し、脚環に電文(収容人員や異常なしの報告など)を入れて、二見ケ岡と網走刑務所の間を伝書鳩を通して連絡し合っていました。そのため、電気や電話のない通信手段が限られた当時において、伝書鳩は非常に重宝されていたのです。

 

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稲架掛け
農場内で収穫した稲は、木で組んだ『稲架(ほさ)』に掛けられます。

これを『稲架掛け』といい、束ねた稲を棒などに吊るして約二週間ほど天日や微風によって乾燥させます。地方によって『いねかけ』『とうか』『かかけ』など様々な呼び方があります。網走刑務所の住吉農場では、秋の収穫時にこのような光景が見られたのは、二見ケ岡ならではの風物詩でもありました。

 

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網走刑務所水門

網走刑務所の前方には『網走川』という川が流れており、この川を利用して、生活物資や農場に使う肥料などを刑務所に運ぶための貴重な水路として使われていました。これは、いかだで肥溜めを農場へ運ぶ当時の様子を再現したものです。

 

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休泊所(動く監獄)

どんなに監獄から離れた現場でも、短期間のうちに自分たちで寝泊まりする場所を確保しなければなりません。そこで現地で丸太や茅などの建築材料を集め、大急ぎで建築を進ませて作業が終わるまではこの小屋で寝泊まりをしていたのです。

 

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ニポポ

網走の民芸品である『ニポポ』北方民族の守り神であり、網走刑務所の受刑者が製作しています。

『ニポポ』は、アイヌ語で『木の小さな子』、あるいは『人形』という意味で、どんな願いでも叶えて幸せになるという意味があります。

例えば、ニポポに向かって「今日はたくさんの獲物をください」とお願いをして出かけ、得てきたものを料理し食事前にニポポの口に与えて感謝していたといいます。これは網走市の民芸品として考古民族学研究家米村喜男衛氏の考証から、素朴かつ優雅な手彫りのニポポを皆の幸福のためにという意味で世界的に紹介したのです。

 

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釧路地方裁判所 網走支部
これは、釧路地方裁判所網走支部及び網走簡易裁判所が新庁舎建設のために、旧庁舎を取り壊すのに際して、単独法廷、合議法廷、合議室、勾留質問室および仮監置室などの部分を譲り受けて復元および保存したものです。

この建物の外観は、明治33(1900)年から昭和27(1952)年まで使われた旧網走区裁判所の外観を再現していますが、内部の移築物は昭和27年から平成3(1991)年まで使用されていたものを再現しています。かの有名な『梅田事件』からこの地域で発生した多くの事件など、ここで裁かれ、実刑判決を受けた被告人の多くがこの網走刑務所で服役しました。

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合議室

合議裁判の途中で当事者からの異議申し立てなどがされ、その場で即断できない場合、三人の裁判官がこの部屋で合議した場所です。

 

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単独法廷

この法廷は釧路地方裁判所網走支部および簡易裁判所で、平成3年まで使用された単独法廷です。刑事裁判では、重罪(死刑あるいは無期、短期1年以上の懲役、ならびに禁錮に当たる罪)については原則、合議法廷(三人の裁判官)で審理されます。その他の罪については単独法廷(一人の裁判官)で審理されます。特に簡易裁判所における審理は常に単独で行われるため、犯罪発生率の高い窃盗事件などの処理が多いことから、この法廷は使用回数が多かったのです。そのため、事実上重要な役割を果たしたといえるでしょう。

 

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合議法廷

重罪事件があった場合は、こちらの合議法廷で行われ、ここも三人の裁判官によって審理されます。傍聴席から見て正面が裁判官席(中央に訴訟を指揮する裁判長で、その両鱗に陪席裁判官が着席)で、その手前には書記官と速記官が着席し、裁判の経過を記録を行う他、裁判の補助を行います。左奥には廷吏(法廷内の秩序維持を担当)が着席しています。証言台をはさみ左側は検察官席、右側は弁護人席です。通常はいずれも一人ずつですが、事件の内容によっては複数の検察官が、あるいは被告人の希望などによっては複数の弁護人が、各々出廷する場合があります。証言台の手前には被告人席、拘置所から護送されてきた刑務官が同席しています。これは法廷で検察官が証人尋問を行っているのを再現しています。

 

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梅田事件
それらの事件の中で『梅田事件』という有名な重大事件がありました。

これは無関係の犯罪に巻き込まれ、間違った裁判によって無期懲役を言い渡された梅田さんが、仮釈放後も無実を訴え続け、ようやく34年後には再審によって無罪を勝ち取りました。再審とは一度有罪判決を受けても、確定した刑事裁判をやり直す制度のことです。この時、梅田さんは無実であることを認められるべき新たな証言や鑑定証言を提出し、釧路地方裁判所網走支部に再審の請求を行った結果、第一次再審請求においては、上訴裁判所においても請求は認められませんでしたが、34年という長い歳月をかけてようやく仮釈放後の第二次再審請求ではそれが認められたことで、梅田さんは『無罪放免』を勝ち取ったのです。このように、事実上事件とは関係もない人を闇雲に疑っては、挙げ句の果てに拷問や暴力などによる自白、そして真実にもならない自白を裏付ける不十分な証拠のまま有罪判決されるといういわゆる『冤罪が問われる事件』として悪い意味で有名になりました。こういった理不尽な事件は、もはや他人事では済まされない、まさに梅田さんがこれだけ重篤な被害者であったかがよく分かります。この教訓を通して、慎重に判断を下さなければならないというジレンマがあるというのを肝に命じておくべきだと思いました。

 

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網走監獄に棲むエゾリス

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エゾヤマザクラ

網走監獄の敷地内には時折エゾリスを見かけることがあります。

また、GWや5月上旬~中旬にかけてはエゾヤマザクラの開花も楽しめます。

国内最恐と謳われた監獄とはいえ、やはり自然の中ということもあり、網走監獄の腹黒い歴史が刻まれている一方で、森の自然が楽しめるのも網走監獄の魅力でもあったりするのです。

 

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耕耘庫

ここは農機具や肥料などを保管する倉庫として、あるいは収穫された作物を保管するための小屋です。農園刑務所としての役割を持つ網走刑務所に開墾された広大な農地で使用されるため、このような小屋が多く必要で、板葺きのものもあれば草葺きのものまで10棟ほどあったといいます。

 

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味噌蔵

自給自足が要求される監獄においては経費削減が必要で、創立後間もない明治25(1892)年に工場が建てられ、味噌や醤油が自給されていました。この小屋では、醤油や味噌の製造経験のある受刑者が専属にあたり、耕作面積も麦についで大豆が広く、仕込みの手加減で微妙な味になるからです。当時使用された樽は『五十石』といわれるもので、約9千リットルものの醤油が入れる大きな樽が使われていました。

 

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哨舎
網走刑務所も含めて、全国にある刑務所には看守が受刑者たちを見張るための施設が必要でもありました。

そこで、明治13(1880)年に内務省が制作した図式に基づき、刑務所の出入り口や作業場などで『哨舎(しょうしゃ)』といわれる見張所を設けて、外からの侵入防止受刑者たちが良からぬことをしていないかの監視を行っていました。哨舎の配置方法は刑務所によって異なりますが、網走刑務所の場合は八箇所設けられていました。網走刑務所の哨舎は六角形になっており、360°ガラス窓を配置することで効率よく監視できたのです。また屋根はドーム状、屋根先に鉾状の装飾、下見板張りとした、小ぶりながらも洋風な仕様で、登録有形文化財に指定されています。

 

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以上で『博物館 網走監獄』の見学は終わりますが、いかがでしたか?

『網走監獄』は北の方にあるというだけあり、冬になると厳しい寒さに見舞われ、受刑者たちにとってはもはや地獄という言葉に他ならぬ、たしかに『日本一恐ろしい監獄といわれています。しかし、網走監獄は過酷なイメージがある一方で、受刑者たちの心を清め、なおかつ農業や様々な作業をさせることで、仕事への有難みはもちろんのこと、自分たちで育てた作物を食卓にすることで食への有難みが伝わり、あるいは教誨堂による人の道を教えてくれる、有難みを学ぶ場所でもありました。このような経緯があることから『網走監獄』は邪心を打ち払い、自ずの過ちを糧にして物事に対する感謝の気持ちを持たなければならないということを後世に伝えるべきだと思っています。

さて、『網走監獄』の見学が終わったところで、これから知床半島へ向かいたいと思います・・・。

 

『GW道東紀行3日目前半』終わり

3日目後半へ・・・。