ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

富岡製糸場を見学してきました!

皆さんおはこんばんちは。今回は富岡製糸場を見学してきたので、紹介していきたいと思います。

 

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久々の高崎駅です。

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高崎駅では上越北陸新幹線高崎線両毛線上越線信越本線吾妻線上信電鉄が集うターミナル駅です。こんなに構内が広いといかにもターミナル駅って感じですね。

ビクティニ:久々の高崎駅だ~。やはりターミナル駅は開放感があって賑やかだな。

ミュウ:広い駅だね~。

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改札出口から右へ進み…。

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西口付近の階段を下ると…。

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上信電鉄の入り口に到着です!

ここから世界遺産の一つである『富岡製糸場』に行けます。やはり玄関口というだけあって歓迎板もありますね。

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長い通路を進むと乗り場になります。

ビクティニ富岡製糸場はここから上信電鉄上州富岡駅で下車すると行けるよ。

ミュウ:こんなに広いのね・・・。

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上信電鉄の券売機は食券売場のような感じになっています。

富岡製糸場の観光向けに往復切符があり、より安く行けるようですが製糸場を見学した後にレンタカーで移動するため、そのまま普通に上州富岡までの切符を買います。

なお、本数は1時間おきに2本あるかないかぐらいです。

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さて、上信電鉄の乗り場です。上信電鉄のホームは0番線にあります。JRや新幹線から乗り換える際、一度改札を出て駅舎の通路を通り、階段を下るとその乗り場になります。手前の鉄道むすめはやはり沿線特有の『富岡製糸場』と群馬ではお馴染みのだるまがモチーフになっているようです。

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上信電鉄の電車は基本的に西武系や東武系の車両が多いです。こちらの車両は150形で元西武鉄道701系ようです。

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ビクティニ:この電車で上州富岡まで行って富岡製糸場を見学します。

ミュウ:わ~僕も見たいよ~(^^

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上信電鉄ではJR東日本から譲渡された107系が留置されていました。107系の活躍はまだまだ続きそうです。

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上信電鉄の沿線はこのような田園地帯が広がります。また、いくつもののカーブが続き、やや低速で進んでいきます。富岡製糸場の他にも様々なスポットもありますが、こういった長閑な田園風景もいいものです。この日は昨日は大雨だったため、山々に雲がかかっています。

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さて、高崎駅から電車に揺られながら上州富岡まで30分で到着します。

ビクティニ:さて、上州富岡駅に到着したよ!

ミュウ:ここが製糸場の最寄駅なのね。

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電車は引き続き下仁田まで行きます。f:id:okuchichibu551:20180626165848j:plain

上州富岡駅です。製糸場に合わせてモダン調のレンガ仕立ての感じになっています。

ここでボストンバックを預けて出発です。

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駅前の様子です。目の前にはレンガ造りの建物が建っています。倉庫として活用していたのでしょうか。

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こちらは市役所のようです。世界遺産に認定されたのか、おしゃれな外観ですね。

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商店街には、飲食店やお土産屋の他に昔ながらのお店もありました。

ここでは、『シルク』を元にした『まゆこもり』というお菓子が名物になっています。葛粉を使用しており、血行を良くし、冷え症やむくみ、そして高血圧を改善させるという、いわゆる病気にも効果があるようです。お湯をちょっとかけるだけで『食べるくず湯』としての新感覚かつ画期的なアイディアですねw

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さて、真打の富岡製糸場です!1872年(明治5年)に明治政府が日本の近代化のために最初に設置した模範器械製糸場で、日本の近代化とともに絹産業の技術革新、交流などにも大きく貢献し、敷地全体が国指定の史跡、初期の建造物群が重要文化財に指定され、さらに『富岡製糸場と絹産業遺産群』の構成資産になったことから2014年6月21日、世界文化遺産に登録されました。群馬県では古くから養蚕・製糸・織物といった絹に関する営みが盛んで、絹産業に関する文化遺産が数多く残された遺産の一つにもなっています。他にも田島弥平旧宅や高島社跡・荒船風穴も登録されています。この製糸場ではフランスの導入技術から始まり、日本独自の自動繰糸機の実用化まで製糸技術の進歩が絶え間なく発展していきました。これらの『富岡製糸場と絹産業遺産群』は高品質な生糸の大量生産に貢献し、19世紀後半から20世紀の日本の養蚕・製糸分野における世界との交流・技術革新を示した絹産業に関する遺産の一つです。また、日本が開発した生糸の大量生産技術はかつて一部の特権階級のものであった絹を世界中に広め、その生活や文化をさらに豊かなものまで発展できたのです。見ての通り明治期に建てられたということもあり、郵便ポストも丸型ととてもレトロ感を醸し出しています。

ビクティニ:平日なのにも関わらずツアー客の行列も半端ないな~。

ミュウ:世界遺産に登録されたからね~。

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こちらが富岡製糸場の顔とも言うべき部分に東置繭所です。こちらは明治5(1872)年に建てられ、1階は事務所や作業場、2階では乾燥させた繭を貯蔵していたのです。木材で骨組を造り、壁に煉瓦が用いられた『木骨煉瓦造り』という建築法を採用し、これらの煉瓦は甘楽町に窯を築いて造られたようです。煉瓦積みの目地には下仁田町から採掘された『石灰』から造られた漆喰を使用されています。礎石は甘楽町から砂岩が使われています。煉瓦造りという事から考えると、西洋の建築技術を採用したという事になりますね。

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こちらは原料課だった所ですね。ここでは歴史をパネルや映像で紹介しています。

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ここではフランス式繰糸器の実演が行われています。複数の繭を沸騰した鍋に入れ、繭の口から吐き出される複数の糸を寄り合わせる事で生糸が出来上がっていくのです。当時、製糸技術が先進国だったフランスから300釜を日本に輸入したといいます。なんでも明治になると生糸の品質改善が強く望まれるようになったことから、海外の優れた製糸技術を導入するためにこの方式が採用されたのだとか。ボイラー・エンジンを据え付けて動力源・熱源はすべて蒸気力とし、給水も機械化されていきました。簡単に言えば蒸気機関車と同じような構造ですね。また、繰糸鍋や繰糸台、ひしゃくなどは銅や真鍮製、車は鉄製を採用していました。繰糸機1釜当たりの総費用は当時の女子工員の給料300ヶ月分だったそうです。相当高価だったんですね。その後、大正になってから改良がなされ、実用化されたようです。なお、富岡製糸場では、フランス式操糸器のレプリカで、繰糸の実演を毎週月~金(祝日を除く)行っています。また、土・日曜日・祝日には座繰りの実演・体験が行われます。

ビクティニ:繭を煮る事で糸を吐き出し、本格的な生糸が出来上がっていくのか・・・。

ミュウ:こうする事で生糸の生産が出来たんだね。

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こちらの機械が座繰り器 のようです。江戸時代末期から上州(旧群馬)で発明された繭から生糸を取るための道具です。さらに歯車を使う事で動きがスムーズになり、絡交装置により生糸を小枠に交差させながら巻き取っていくことができるのです。

ビクティニ:この機械はシンプル感があるけれど、これが基礎になってその後の生糸の生産技術は発展していくんだよね。

ミュウ:日本の生産技術も進歩していくのかな。

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こちらは『富岡シルク』についての展示のようです。生糸から高級品の絹糸までの種類が豊富ですね。中でも『ぐんま黄金』というものがブランド品のようです。

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この機械は揚返器といって小枠に巻き取った生糸を枠周約150cmの大枠に巻き返すための機械です。生糸は小枠に巻き取られ乾燥すると糸同士が互いに接着してしまい、生糸の質が悪くなってしまいます。それを防ぐために大枠に巻き直すことで取り扱いがしやすい状態になります。これを『揚返し』といいます。

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東置繭所の外側からの様子です。煉瓦造りは『フランス積み』といい、煉瓦の向きを長いものと短いものを交互に並べていく積み方のことですね。この積み方をすることで外観が美しいですが、その反面壊れやすいという材質をもっています。それを防ぐために木材から骨組みを作り、『木骨煉瓦造り』という建築技術を採用したことから、当初からその美しい外観が現在も保ち続けているのです。そして、この製糸用の敷地内の広さはなんとサッカー場の7つ分あるのだとか。

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こちらの小さい建物は高圧変電所のようです。

上毛かるた』に『理想の電化に電源群馬』とうたわれる群馬県は明治期から水力発電が進みました。高崎にあった製糸場は明治後半に電化が進みますが、富岡製糸場大正9年に『モートル』といわれる電動機の設置が行われました。当時の富岡町に電力が本格的に導入されるのは大正13年で、旧西毛電気から給電されたそうです。

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こちらは『女工館』です。日本人の工女に、器械による糸取りの技術を教わるために雇われたフランス人の女性教師の住居のために明治6(1873)年に建てられました。こちらの建物も木骨煉瓦造り構造で、二階建て廻廊様式のベランダ付きの住宅風の建築物です。板が格子状に組まれたベランダの天井やガラス戸の外側に設けられた直射日光から避けるための一つとしての工夫と考えられる『鎧戸』も当時の日本の建築技術には見られない大変珍しいものだったようです。

ビクティニ:日本でこんな西洋風な建物ってなかなか見られないよね・・・。

ミュウ:古い建物ってロマンがあるよね~。

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こちらが富岡製糸場の要ともいうべき部分である『繰糸場』です。繰糸場は繭から生糸を取る際に行われ、創業当初からフランス式の繰糸器300釜が設置され、世界大規模の製糸工場で明治5(1872)年に建てられました。小屋組みには『トラス構造』という従来の日本にはなかった建築法が用いられていたことから、建物内部には柱のない広い空間が保たれています。さらに採光のため、多くのガラス窓、屋根上の蒸気抜きの越屋根が設置されました。

ビクティニ:大きい建物だなあ~。

ミュウ:体育館のような大きさだね~。

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これが『自動繰糸機』です。これは日産プリンス製のもので、群馬県安中市にある『碓氷製糸場』でも同じものが現在でも稼働しているそうです。

ビクティニ:この機械になってから日本の製糸技術は大きく進歩していったんだね。しかもこの機械が1987(昭和62)年まで動いていたのはたまげたなあ・・・。

ミュウ:当時としては最先端だったのかな?

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こちらの機械は『ニッサンHR型自動繰糸機』で昭和39(1964)年に開発された当時としては最新のもので、富岡製糸場では昭和41(1966)年に設置されました。自動繰糸機は煮た繭から目的の太さを繰糸する全行程を自動化した機械です。こうする事で大幅に省力化され、人が行う作業では繰糸全体の管理・調整、枠の交換など、また糸が切れた時や節が詰まったりした時に直すのが主な作業でした。なお、この製糸場には1セットで480本の糸を巻き取ることが出来るニッサンHR型自動繰糸機が10セット設置されています。こうすることで作業の効率化が貢献されたのが分かります。

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こちらの機械では『索緒』が行われる機械のようですね。索緒とは射形した繭玉の表面を稲穂箒などで熱湯から取り出し、数本の繭糸を解れた状態で引き出します。この工程を『緒糸』といいます。さらに『抄緒』という工程があり、緒糸をたどって1300mにも及ぶ繭糸の10本の『正緒』を探り出します。正緒を出した繭玉を熱湯に浸し、直径0.2mm~0.4mmと目的に合わせた繭糸に合わせていたのです。

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これが自動繰糸機の概略図のようです。まず、回転式の接緒器を使って操糸槽の繭から吐き出される繭糸を寄り合わせます。途中で糸が切れたり、節が詰まったりした際、生糸が細くならないよう、『接緒かん』というもので別の繭から繭糸を繰り出し、補給されます。また、繭糸に『節』があると巻き取りが自動停止され、節は人の手により取り除かれ、操糸が引き続き行われるのです。

ビクティニ:なるほど~。こうして生糸やシルクが生産されるのね。

ミュウ:複雑な機械というだけあって高性能だったのかな。

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これは自動繰糸機の各部品です。一番下から『給繭機』といい、正しい糸口の出た繭を運ぶための容器で機械の周りを回転寿司のように常時回っていたのです。ちなみに繰糸機1セット(24台)に対して全部で311台あります。

プロペラのような羽の部分を『回転接緒機』といい、正緒繭の糸口が接触すると取られている他の繭糸に巻きつけさせ、一緒に引き上げることで接緒させます。

真中のスプーンのようなものは『集緒機』といい、複数の繭糸を小さな隙間に通し、1本の生糸にまとめます。その穴を通す際、大きな節はその穴につまり、生糸の巻取りを停止させる働きがあります。

さらに滑車のようなものは『ケンネル式』といい、生糸を取る途中に糸が重なる部分を作ることで1本の生糸のみで撚り掛けをする方法の一つです。

そして一番上の大きな緑色の滑車は『小枠』といい、繭から引き出された生糸を巻き取るための枠です。一度この小枠に巻き取られたのち、大枠に巻き返すとても重要な部分です。

これらの部品がそろう事で、自動繰糸機として成り立ったのです。

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こちらの繰糸場の小屋組はトラス構造で、こうして三角形状に部材を組み立てる事で、安定感かつ広々とした空間が確保できたといいます。

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こちらは繰糸場の作業風景と座繰りのイラストが展示されていました。

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こちらはフランス式の繰糸機、横形単気筒蒸気機関(ブリュナ・エンジン)です。ヨーロッパから輸入されたエンジンです。石炭を燃やして、ボイラーで蒸気の力を利用してエンジンを動かし、300人体制で繰糸器を動かしていたのです。簡単に言えば蒸気機関車と同じ構造ですね。はずみ車の直径は2.4mほどと大きめです。右の写真の『繰糸器械』は25人繰が一連となっていましたが、この器械には輸入当初のものに改良が加えられています。なお、この器械もフランス式で後の座繰り機のプロトタイプにもなったそうです。

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こちらは人物像ですが、当時の富岡製糸場で技術を学んだ工女の一人である『横田 英』です。明治6(1873)年に16・17歳でこの製糸場に入所し、工女さんとして勉学や仕事に取り組みました。そして長年働き、後にこの工場の先生として活躍していたようです。また、結婚して『和田』になっています。実際、この製糸場で働いてきた工女さんの中で長年働いてきた工女さんは少なかったようですが、その中で彼女は何十年も働いてかつ地方の製糸場においても先生として活躍した経緯があった事から、このように大きな写真になっています。また、『富岡日記』も著しており、当時松代藩士(長野県松代町)の横田数馬の次女としても有名です。

余談ですが、繭から生糸を取るために女性の繊細な指で作業する必要があった事から、工女が重宝されたといいます。富岡製糸場の完成が近づくと、次第に明治政府からは女工の募集を始めたものの、フランス人が生き血を取って飲むという噂が流れていたことから、なかなか集まらなかったようです。明治政府が女工を必要とするのかという理由も何度も聞いたといいます。

当時は初代工場長であった尾高惇忠氏は自分の娘を最初の工女にしたという説もあります。そのような努力を積み重ねていった結果、ようやく工女が集まり、習得した工女らは、地元に戻ったのち、指導者と器械製糸普及に貢献されたのです。

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これは当時の繰糸場内の様子です。当初はフランス式の繰糸機が使われていて、写真の真ん中の操糸器械と小枠台の隙間に多くの女工さんが入って作業をしていたようです。さらに、小枠から写真の左側の大きな枠に巻き直すことで、糸同士がくっつかないようにするために「揚返し」という工程を経て外国に出荷していたようです。また、写真に入っている人物は見回りのようです。ちなみに、繭を煮ると虫の独特な臭いや湯気が充満し、蒸気音や器械音が工場内に響き渡っていたそうです。

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生糸づくりの工程はこのようになっています。搬送された繭はすぐに羽化してしまうのに加えカビが生えてしまうため、それを防ぐために乾燥させてから保管されます。その後、繭を煮こみんで糸を抽出させ、繰糸して仕上げ・検査を実施する流れになります。

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これが作業工程です。基本的には荷受け→乾燥→選繭→煮繭→操糸→揚返し→仕上げ・束装という流れになります。

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また、品質の良い製品に仕上げるため、徹底的な検品・検査も求められます。こうする事で信頼性の高い製品が出来上がっていくわけなんですね!

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製糸場では様々な賞も受賞しています。

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こちらは診療所のようですね。こちらは昭和15(1940)年に建てられたようですが、三代目の診療所になっています。当初の診療所は敷地内の北東部分に建てられ、名前も「病院」と名乗っており、フランス人医師が治療にあたりました。また、官営時代では治療費や薬代は工場側から負担していたようです(要するに医療費がかからなかった)。官営から片倉時代までの全期間を通して厚生面が充実していたことから、御用達にもなったといいます。

 なお、『片倉診療所』という名前で残っているのは当初は明治5年に寄宿舎側に診療所があり、片倉時代の最後の診療所が三代目ということでここにあったことからだそうです。

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こちらはブリュナ館(首長館)といい、指導者として雇われていたフランス人のポール・ブリュナ氏が家族と暮らしていた住居です。この建物は明治6(1873)年に建てられ、のちに宿舎や女工の読み書きや裁縫などを教える学校として利用されたようです。これは企業内教育のパイオニアともいうべきでしょう。こちらの建物も東置繭所と同様、木骨煉瓦造りを採用しており、高床で風通しの良い開放感のある回廊風のベランダが印象的です。また、床下には建設当初から造られていた煉瓦造りの地下室が現在も残っているようです。

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こちらの木造建築の建物は『寄宿舎』といい、いわば工女の寝泊り場といった感じでしょうか・・・。昭和15(1940)年に建設され、二階建て建築の長大な建物が2棟立ち並んでいます。北側に廊下がつき、部屋は1室15畳、1棟16部屋で、計32部屋あります。南棟が『浅間寮』(写真左側)で、北棟が『妙義寮』(写真右側)とそれぞれの名称になっています。

創業当初の女工寄宿舎は東繭倉庫の北側にあり、木造二階建てで2棟並んで建てられたようです。三井に経営が移った際、老朽化に伴って従来の寄宿舎を解体した後、新たにブリュナ館の脇に新設され、その寮名も『榛名寮』に改名されたようです。この頃にはブリュナ館も寮として使われ、原時代においてもブリュナ館に接している榛名寮の南側に1棟建て、さらに片倉時代に太平洋戦争寸前の昭和15年に浅間寮と妙義寮を建てて女子従業員の確保に努めていたのです。

ちなみに、これらの建物には2階東端に娯楽室が設けられており、休みの日には賑わっていたそうです。 なお、工女の給料は『能力給』だったことから、技術が優れるほど誰でも一等工女になれるぐらいやりがいがあったといいます。また、宿舎や食事、寝具なども提供され、医療費も無料でした。
さらに日曜休日制が採用されるなど、昭和初期であっても労働環境はとても先進的だったようです。こういった職場環境を考えると、当時としてはいかにホワイト企業だったかがうかがい知れますね。

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これがブリュナ館の脇に新設された『榛名寮』です。その建物の西側には隣接して建てられた女性従業員のための寄宿舎のうちの1棟で、もう1棟の寮もかつては存在していたようですが、現在は解体されています。こちらの建物は養蚕農家と思われる民家を移築・改造したと思われます。2階はもともとは間仕切りや天井の無い大広間で、各部屋は20畳以上ある大部屋4室に区切られているようです。なお、寄宿舎の女工たちは休みの日にはこちらの調理室で料理を楽しんだりと当時としては楽しみの一つにもなったほどだったといいます。そのことから調理室には調理器具や食器類がそのまま残り、この建物には当時の生活感が現在でも感じられますね。f:id:okuchichibu551:20180627175113j:plain

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入り口付近にある建物は『検査人館』といい、生糸の検査などを担当したフランス人男性の技術者の住居として1873年(明治6年)に建設されたものです。しかし、2人の検査人は、無断欠勤や素行不良が多かったことから解雇され、実際に監査人館で暮らした可能性は低いとされているようです。 後に改修され、現在では1階が事務所として使用されており、2階には皇族や政府の役人が訪れた際に使用された『貴賓室』があります。また、 外国人宿舎の建物は周囲にベランダを巡らした造りが特徴的です。 さらに内部には大理石製のマントルピースが現在でも当時の状態のまま残されています。こういうことから考えるとかなり価値のある遺産だということが分かります。こちらの建物も『木骨煉瓦造り』構造になっています。

ビクティニ:この建物もおしゃれだよ。なんでも当時の明治天皇が訪れられたことがあったんだって。その時には生糸の品質などの打ち合わせなどがあったのかな。ちなみに貴賓室にはマントルピースが当時のままで残されているんだ。

ミュウ:西洋の建物はロマンがあるよね~。

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東置繭館の正面です。やはり、富岡製糸場の顔にあたるというだけあってシンボル感がありますね。

さて、女工さんのお給料と労働時間はどんな感じなのかというと以下の通り・・・

☆勤務時間☆ 
朝の7時~夕方の4時半まで 実働時間 7時間45分(ただし、季節によっては勤務時間が異なる)
 
休日 年間76日 
     内訳 日曜日 50日 
     祭日 6日 
     年末 12月29日~12月31日 
     正月 1月1日~1月7日
     暑休 10日

☆給料☆

一等工女 25円 二等工女 18円 三等工女 12円 等外工女 9円

 給料は月割りで支給。別に作業服代として、夏冬5円支給される。
 明治8年には4段階から8段階に変更へんこう年功序列ねんこうじょれつ(※1)でなく能率給のうりつきゅう(※2)。

※1 勤続年数きんぞくねんすう年齢ねんれいが増すにしたがって地位や賃金が上がること。
※2 仕事の成果、効果等に応じて賃金を決定するという方式。

以上のことを考えると、仕事は日の出から日の入り前30分までと決められていた。もっとも、明治の初期当時は電気が普及ふきゅうしていない時代。
日の光をたよりに女工たちは作業をしていた。季節によっては勤務時間が異なるというのは、夏場では昼が長いので勤務時間が長くなり、逆に冬の様に昼が短いと、それだけ勤務時間が短くなったようである。

「一等工女でも25円しかもらえない・・・」と思うのはあくまで現代人の感覚で、明治時代当時では25円といえば大金だったようである。
その一方で外国人の待遇たいぐうはよかった。たとえば、ある外国人の教師は月給50ドル(※3)+賄料まかないりょう(※4)として56円もらっていた。教師は外国人の中では給料が安い方であるものの、それでも女工さんよりはめぐまれていた。

※3 当時の1ドルは一円。
※4 賄料まかないり・・・・おそらく食事代。


一見すると不公平ですが、ある意味では「外国に追いつけ、追いせという立場から見るとやむをない」ことだったようです。

ビクティニ:それでも当時の人から見れば優遇された方なんじゃないかな・・・。もっとも最近の日本はブラック企業とか増えているからなんとも言えないかなあ・・・。

ミュウ:それとはまた別じゃない?・・・とはいってもそれなりのフォローが充実してたからある意味ホワイトだと思うな~。

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西置繭所は2019年の完成に向けて工事が進められているようです。なお、西置繭所は基本的に東置繭所と同じ構造です。

ビクティニ:なんでも2020年の東京オリンピックに合わせてリニューアルするんだって。

ミュウ:楽しみだね~。

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こちらは東置繭所の2階、いわゆる繭の貯蔵所のようです。ここで乾燥させた繭を保管していました。他にも『荒船風穴』という蚕の卵を貯蔵し、繭を大量生産するという役割がありました。あちらは岩のすきま風を利用し、卵がかえる時期をずらすことで養蚕な回数を増やすことに成功したのです。こちらも同様に繭の乾燥のために風通しを良くしています。また、先程の製糸場と同様に、天井にはトラス構造の小屋組を採用しています。広大な空間に太い柱と梁。そして、重圧な煉瓦造りこそ、長き操業の歴史にロマンを感じさせます!

ビクティニ:体育館みたいな広さだな~。この広さがあったからこそ、大量の繭が保管できたんだね~。

ミュウ:先が暗いね。やっぱり倉庫だからなんだね。

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ビクティニ:この倉庫も国宝の一つになったんだね~。やはりあの大きなトラスを用いることで、広大な空間が確保できてかつ大量の繭が確保できたということだ!

ミュウ:本当に昔の人は工夫しているね~。

さて、この後は地元のガイドさんに色々と解説をしてもらい、この製糸場にまつわる貴重なお話も聞くことが出来ました。ガイドさん、貴重なお話をありがとうございました!

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富岡製糸場の動画はこちら!☆


ビクティニたちが富岡製糸場を見学

 

〇おまけ〇

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岡重肉店にてカレーパンをいただきました。このお店はテレ東の「夢旅いい気分」で紹介されたようです(と言ってもずいぶん昔ですがw)。

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お店で購入したカレーパン。中にチーズが入っていて味は濃厚で美味しかったです。

 

碓氷峠へ続く・・・。