こんにちは。秋が深まり・・・というよりもう冬です・・・。時が経つのは早いものですね・・・。ということで、今回は会津の宿場町である『大内宿』に訪れました。
まずは大宮駅から新幹線で郡山駅へ向かい、そこでJR磐越西線に乗り換えます。
ビクティニ:雪の積もった磐梯山は初めて見た!
ゴンベ:もう冬だっペね・・・。
さて、会津若松駅に到着です。ここから会津鉄道で大内宿へ行こうと思いますが、次の列車まで時間があるので、七日町まで散策してみようと思います。
会津といえば鶴ケ城や城下町として有名な観光地ですが、医学者として有名だった野口英世のまちでもあるのです。
野口英世は1876(明治9)年11月9日、猪苗代湖の湖畔に生まれ、その後は黄熱病の研究を重ねて、多くの患者たちを救った人物です。その黄熱病の研究のため、メキシコやペルーなどの外国に足を運び、そこで多くの患者を黄熱病から救いました。その経緯から、帝国学士院会員にもなったといいます。また、医学に対する勉学は大変熱心たったことから、ノーベル賞を取ってしまうほど(実際は候補だけで終わっているようです)。
野口英世通りにある福西本店は100年ほど前の大正に建てられた蔵と商家建築で構成された建造物群です。中でも、大通りに面した店蔵、仏間蔵、炭蔵のそれら3棟の蔵の外壁は、大変手間のかかるとされる「黒漆喰」で建てられているのです。これは18世紀はじめに奈良から若松へ入った福西家は、江戸時代後半、七代伊兵衛の時代に荷綿打綿の大店となり、会津藩から士分へ取り立てられ、その後は明治から昭和初期にかけて、五棟の蔵を中心とする豪勢な商家建築を完成させたのがそのはじまりです。また、国登録有形文化財にも登録されています。
いくつか蔵を持っているということもあり、敷地内は広いです。こちらの座敷蔵はお客様をもてなすための空間です。
こちらの茶室は会津
さて、今回は大内宿方面に行く列車の時間なので、すぐに七日町駅へ。ここではJR只見線と会津鉄道が通っています。
ここからは会津鉄道で南下していきます。
芦ノ牧温泉駅では猫駅長にちなんでアニメ『ノラとと』とコラボしているようです。
大内宿へのアクセスはこちらの湯野上温泉駅が最寄り駅です。ここからバスが出ています。バスのりばは駅舎から出てすぐ左を歩くとあります。
大内宿へ向かう道中には『大川』という小さな川が流れています。ちなみにこのあたりは鮎釣りの名所なんだそう。
湯野上温泉駅からバスで20分・・・。『大内宿』でございま~す!
かつては会津における『宿場町』としての栄えていた国の文化財の1つで、昭和56(1981)年『国選定重要伝統的建造物群保存地区』に指定されています。宿場町の雰囲気が江戸時代当時から色濃く残り、年間約120万人の観光客が訪れます。
江戸時代、会津藩主の保科正之によって会津城下と下野(しもつけ)の国(現在の日光市及び今市)を結ぶ32里(約130km)に及び整備されたのが、いわゆる『会津西街道』で、別名『下野街道』『南山通り』などとも呼ばれていました。その宿場町のひとつとして栄えていたのがこの大内宿なのです。この宿場町に本陣(大名や旗本、幕府の役人などが使用した宿舎)や脇本陣(本陣の予備)が設けられ、会津藩をはじめ新発田藩、村上藩、庄内藩、米沢藩などの参勤交代や江戸廻米の運搬路として重要な役割を果た場所でもあります。
しかし、延宝8(1680)年に幕府は五街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)以外の街道(脇住環)の通行に対する取り締まりを行ったことで、大内宿を通る会津藩の参勤交代がなくなってしまったといいます。それでも会津西街道は行商人の運搬路としての活路を残してはいたものの、天和3(1683)年の日光地震による山崩れで通行不能となり、運搬路という活路まで断たれてしまいます。その後亨保8(1723)年に復旧はしたものの、運搬路の代替となった他の街道が新しい街道として開通したことから、人馬の往来が途絶え、『宿場町』としての活気が次第に薄れていきました。しかし、江戸時代から「宿駅としての顔」と「農村としての顔」の2つの顔を併せ持つ「半農半宿」が代々続いたことで、農業と出稼ぎで生計をたてることができたといいます。
こうして『宿場町』としての賑わいを見せていた大内宿は次第に寂れていき、明治17(1884)年の日光街道の開通とともに衰退していき、やがて完全に宿駅としての役割を終えることとなったのです・・・。
ビクティニ:ここが大内宿なんだね。なるほど、いかにも宿場町って感じだね。
ゴンベ:屋根に雪が被ってるっぺ。
大内宿に点在する民家が茅葺きになっているのが、まさに宿場町の名残にして半農半宿の生活をしていた感じがあります。何より雪を被った茅葺きの建造物こそ、冬の宿場町という雰囲気ですね。
宿場町には30件以上立ち並ぶかつて多くの通行人や行商人で賑わっていた宿場町の茅葺き屋根の民家は、蕎麦屋や土産物屋、民宿などに様変わりし、今となっては観光名所になっています。
蕎麦屋として活用している民家には、囲炉裏があります。こうして昔の民家にはこういった囲炉裏があってこそ、厳しい冬の寒さをしのげています。
ミュウ:寒かった~。
ビクティニ:囲炉裏のある家っていいな・・・。
ゴンベ:暖かいっぺ~。
大内宿といえば、『ねぎそば』が名物となっています。これは箸の代わりに葱でそばを丼から掬って食べることから、『ねぎそば』という名になっています。最後は葱をかじりながらそばといっしょにいただきました。
ビクティニ:そばの硬さがちょうど良くて美味しい!やっぱり葱とそばの相性が良いね!
ゴンベ:田舎のそばはやっぱりさっぱりしているっぺ!
ミュウ:でも、葱がちょっと辛い・・・。
宿場町には会津の焼き物の名物である会津本郷焼も売られているようです。江戸時代の当時では本郷焼も商売でやっていたのでしょうか。
ちょっとした高台からは宿場町全貌が見渡せます。上から見てみると、まるでタイムスリップでもしたかのような感じです。やはり茅葺きの屋根に被った雪が冬の宿場町という雰囲気を醸しています。どこぞの昔話に出てきそうです。
ビクティニ:11月なのに、屋根に雪が積もっているんだな・・・。会津の初冬って感じだ。
ミュウ:なんか昔話の世界にでもいるみたい・・・。
大内宿を後にして、『塔のへつり』にやってきました。
南会津を流れる阿賀野川水系大川が織りなす渓谷の一つで、大川鳥羽県立自然公園に位置しています。なぜ、『塔のへつり』というのかというと、「へつり」は会津弁で「川に迫った険しい渓谷」という意味から、その名前がついたそうです。昭和18(1943)年、河食地形の特異例として国の天然記念物に指定されています。これは大昔に火砕流が堆積し、それが水の浸食を受けてできた独特の景観から出来たものと考えられています。凝灰岩や礫凝灰岩など、粒が細かくて柔らかい岩石、いわゆる硬軟互層で出来ているため、侵食されやすい地層です。そのため、長年の歳月による侵食や風化の作用によって形成された柱状の断崖であるといわれています。
ビクティニ:結構深い谷だ!もう冬だから、紅葉は終わっちゃったのかな。
ミュウ:水面が鏡みたいに写ってる。
吊橋を渡って向こう岸まで来ました。向こう岸の遊歩道は岩肌になっています。さらにここから階段を登ると祠があります。
シャワさん:4時になると会津は日が暮れるのが早いね・・・。
階段を登った先には虚空蔵菩薩が祀られている祠があり、自由に参拝が出来ます。
塔のへつりの「へつり」は漢字で書くと『岪』なんですね。先程訪れた虚空蔵に参拝すると縁起のいいことがあるとか?
ここは福島県の内陸のはずなのに、海の中にあったという根拠は考えにくいのですが、大昔の自然によって成形されたからこそその地形になったのでしょう。自然の力というのは、本当に不思議な現象が起こるものです・・・。
『塔のへつり』へのアクセスとしては会津鉄道塔のへつり駅から5分ほど徒歩で行けます。しかし、土休日ダイヤになると、若干本数が少なくなるのは不便性を感じてしまうのは無理も無いでしょうか・・・(^^;)
4時半を過ぎると辺りはたちまち暗くなってきました・・・。その時、この駅の待合室にいたのは私だけでなく、何人か待っていて、列車到着待ち時間の合間に温泉宿へのタクシーの手配をやっているようでした(もちろん私も温泉宿に宿泊するのでタクシーの手配をしました)。
ということで、芦ノ牧温泉駅からタクシーで温泉宿まで送ってもらいました。
ビクティニ:ようやく旅館のお部屋だ~。後で温泉に入りに行くか。
ミュウ:外は寒かった・・・。
ビクティニ:お風呂の後は、お待ちかねの夕食だ~!
ゴンベ:美味しいっぺ~!
今回は、『野口英世青春通り散策&会津の宿場町“大内宿”と“塔のへつり”』をお伝えしました。