ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

令和初の正月旅行 北海道&東日本パスで函館へ 5日目

こんにちは。今回は、冬の函館を散策していきます。

 

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冬の函館市街

函館は相変わらず雪に包まれています。凍結した道路を走る路面電車や自動車もこんな厳しい気候の中でもたくましく活躍しています。

 

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朝食に海鮮丼をいただく

 函館の朝ごはんといえば、海鮮丼に限ります。海鮮丼は函館駅前の海鮮市場にある飲食店でいただくことにします。海鮮丼に入っている魚介はうにやほたて、サーモンにボタンエビ、いくらなどが入ったものです。函館の海鮮ものといえば『活イカ』で有名ですが、この日は活イカはあまり獲れていないのか、メニューには提供されていないようです。

ビクティニ:函館の朝ごはんは海鮮丼だね!うになんてなかなか食べられないから美味しい!

ミュウ:青さの味噌汁も美味しい!

ゴンベ:いただきますだ~!ガツガツ・・・サーモンうめ~っぺ!

 

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函館市電で元町へ

 朝食を終えたら、元町エリアを散策しようと思います。元町は函館駅前からは市電で『末広町』で下車すると行けます。

 

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元町エリア

元町エリアはいくつもの坂道があるのが特徴的です。

もともとは『国際貿易港』として開港されたということもあり、嘉永7(1854)年には函館山麓、現在の元町公園付近に箱館奉行所が設置されたといいます(後に明治3(1864)年に五稜郭へ移築)。蝦夷地開拓や外交などを担うための行政中心地だったことから、各国の領事館や洋館、異なる宗派の教会などの西洋建築が多く見受けられます。さらに異文化を取り入れた和洋折衷、純和風な建造物も所々見られます。

 

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船魂神社
元町エリアにある神社でも初詣と行きましょう。融通念仏宗を広めるために、良忍という高僧がこの地にて保延元(1135)年に観音堂を建てたのが始まりとされています。これは北海道最古の神社と言われているようですが、それが明らかとはされていないようです。また、源義経が津軽から渡航してきた際、遭難しそうになったのを船魂明神の加護によって無事に上陸したという伝説もあるようですが、もともとは観音菩薩を祀るための観音堂と呼ばれていたようです。江戸時代末期には『船魂大明神』と称され、明治12(1879)年には村社になり、後に『船魂神社』になりました。

ビクティニ:今年も平和に過ごせますように・・・。

ゴンベ:美味しいものが食べられますように・・・。

 

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義経伝説 童子岩
船魂神社には、『義経伝説』に纏った『童子岩』があり、湧き水が湧き出ています。この湧き水の入った石鉢に願い事を書いた祈願符を入れると願いが叶うとか・・・?

 

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船魂神社の御朱印

御朱印ももらいました。

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旧函館公会堂(工事中)

元町には『旧函館公会堂』があることで有名ですが、残念ながら現在は工事中のようです。

 

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元町の散策案内
元町にはハリストス正教会旧函館公会堂をはじめ、カトリック元町教会、旧イギリス領事館など、和洋折衷か建造物が立ち並んでいます。

 

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旧イギリス領事館

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領事館の門章

函館には幾つか領事館がありますが、中でも『イギリス領事館』が元町にあります。

函館に領事館が置かれたのは安政6(1859)年に日本初の貿易港として開港した当時は、アメリカやロシアに次いで3番目の領事館として初代領事ホジソンによって弥生坂にあった称名寺に開設したといいます。文久3(1863)年に現在の元町のハリストス正教会の西隣に領事館を新築しましたが、数々の火災にあい、大正2(1913)年にイギリス政府工務省上海工事局の設計で竣工したものが現在の領事館です。これが昭和9(1934)年の閉鎖まで領事館として使用されていたのです。現在では、開港の歴史を伝える資料館として、また館内にはイギリスにちなんだ各種ティーが楽しめるカフェも併設されています。

 

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領事館館内
イギリス領事館は、国際貿易港として開港して安政6(1859)年から75年間、ユニオンジャックを掲げ続てきた、異国情緒に満ち溢れた港町のシンボルでもあります。これは研修室の写真ですが、今でも会議室として使われているようです。

 

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領事執務室1

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領事執務室2

かつてリチャード・ユースデン領事が使っていた領事執務室です。

リチャード・ユースデン領事は、歴代のイギリス領事の中では特に市民に親しまれ、この函館の地に大きな足音を残してきたのです。何でも、かなり身体が小さかったことから、市民から『豆コンシロ』と親しまれていたのだとか。明治元(1868)年に箱館戦争が勃発した中、ユースデン領事は旧幕府脱走軍の榎本武揚や永井玄蕃と会談した最中、イギリスは不干渉な立場をとりながらも、意見を求める榎本に対して、領事は「武装をとかない限り徳川の蝦夷地開拓は許されないだろう」と助言しました。また、明治初期は小学校の授業料がかかると言われていた時代、貧しい子供たちのために無月謝の小学校の設立にユースデン領事の協力もあったといいます。他にも、明治9(1876)年に明治天皇が函館に巡幸された際、ユースデン領事は領事館前の基坂に「WELCOME(ようこそ)」のアーチを掲げるなど、歓迎したという光栄なエピソードもあったのです。

 

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望遠鏡で港町を覗くユースデンの像
 外を覗いている様子のユースデン領事の像です。望遠鏡で港町を覗いているのは、ペリーの来航を意図しているものなのでしょうか。

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領事が使用していたと思われる備品
棚には、領事が使用していたと思われるカメラや万年筆などが展示されています。また、ペリー提督が来航時に贈られた壺も展示されています。

 

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領事室に飾られた古時計と絵
領事室に飾られた古時計はおそらく明治初期のものと思われます。かなりの骨董ものなのではないでしょうか。ユースデンの肖像画もかなり古そうです。

 

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暖炉
ここは寒冷地でもあるため、領事館には暖炉が設けられています。茶色のタイルが鮮やかです。焚口には鉄のひさしが付いているのは、暖炉としては少し変わったスタイルですね。おそらく大正初期に造られたものだと思われます。

 

 

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家族居室
居室もユースデン領事が使っていたものです。居室に設置されたテーブルやティーカップがいい雰囲気です。これは、往年のティータイムを表現しています。昔はユースデン夫人がここでティータイムを楽しんでいたのでしょうね・・・。

 

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年代を感じさせる窓枠や備品
領事館の内装自体は大正当時のままで、家具やカーテン、窓枠も年代を感じさせられます。

 

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ユースデン夫人が旅行に使っていた鞄
ユースデン夫人が使っていたであろう旅行鞄です。昔の鞄って硬かったんですね。

 

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箱館開港の歴史

江戸時代、北海道はかつて『蝦夷地』と呼ばれ、昔の函館は『箱館』という地名でした。江戸幕府のもと、松前藩は交易の基盤として蝦夷地を支配し、松前江差箱館の3つのこれら地名を『松前三藩』として、蝦夷地における主要な貿易港として栄えていたのです。

 

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西洋文化に富んだ函館
 函館は、ペリーの来航をきっかけに異国の文化を受け入れ、街には西洋の雰囲気が漂ったといいます。さらに多くの外国人が函館を訪れるようになり、『北の港町“HAKODADI”』という名前で世界的に知られるようになりました。これが、日本と西洋がコラボした、函館オリジナリティの『ハイカラ文化』です。

 

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明治期の箱館
明治期当時の港町の様子です。この写真を見れば分かる通り、洋風の建物が目立っています。

 

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ペリー提督の黒船来航

 ペリーの来航は学校の歴史の授業で習ったことがあるかと思いますが、嘉永6(1853)年に横須賀の浦賀港に『黒船』という蒸気船に乗ったペリーが来航したのがいわゆる『黒船来航』です。

これはペリー提督こと代将マシュ・ペリー率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、来航した事件です。しかし、来航の目的は『測量』と称して江戸湾奥深くまで侵入した結果、幕府はペリー一行の久里浜上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡されたのを皮切りに『日米和親条約』を締結したのがペリー来航のはじまりとされています。なお、日本ではこのペリーの来航から明治維新までの時期を『幕末』と呼んでいたのです。
その翌年の嘉永7(1854)年3月、2度目の日本に来航で日米和親条約を締結し、下田と箱館の開港が決定されました。ペリー一行は視察のために箱館へ、同年4月15日に3隻のアメリカ艦隊が入港。さらに4月21日、ペリー提督を乗せたポーハタン号ミシシッピ号が入港。そして安政2(1855)年3月、箱館は開港し、外国船が入港出来るようになったのが、『函館開港の街』のきっかけとなったのです。

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ペリーが見た函館の印象
ペリーは、日本を遠征する際、詳しく日記を付けており、画家や写真技術を伴い、寄港地のさまざまな風物も記録し、各地の生物や鉱物などの調査も行われていました。これらの記録がまとめられた『ペリー日本遠征記』によると、「荷を積んだ馬の群れがゆっくりと通りを歩き 数百もの帆船が港に停泊し 数え切れないほどの舟が湾内を行き来し 二本の刀を差し立派な身なりをした 大勢の紳士や役人が威風堂々と歩きまわり 豪華に飾られた馬に乗っているのを見ると 訪れた人は 箱館が繁栄しているという印象を受ける」・・・というように漁業・建造物・職人技術・水産環境がいずれも優れているかが伺い知れます。

 

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函館に西洋の文化が広まる
また、『食文化』においても、西洋料理も普及できるようになり、幕末から箱館に多くの外国人が訪れるようになってからコーヒー豆が導入されるなど、庶民の食生活にも西洋料理が広まりました。さらに、レストランも開店し、パンや牛肉、洋酒なども提供できるようにもなったのです。これらのハイカラ文化こそ、まさに文明開化の幕開けとも言えるでしょう。

 

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箱館開港時代の地図
開港当時の箱館から世界を見回した鳥瞰図です。ペリーの来航と開港によって、大海原の向こうに広がる世界とつながり、国際として発展していく箱館の街を表現したものです。地図にかかれた地名は慶応4(1868)年当時の絵図をもとに描いたもので、ペリーの航路も描かれています。

 

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ペリー来航に使っていた『黒船』
ペリー提督が箱館に来航した際に使われた『黒船』です。船自体は蒸気船で、いかにも黒い船です。

 

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旧イギリス領事館 カフェ
領事館のカフェでは、箱館の西洋文化イギリスにちなんだティータイムを異国情緒な雰囲気とともに楽しむことが出来ます。

ビクティニ:異国情緒な雰囲気を楽しみながらのティータイムはまた格別だ。

ミュウ:スコーンも美味しい!

ゴンベ:サンドイッチがうまいっぺ!

シャワさん:たまにはティータイムもたまにはいいものだ。

 

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ハリストス正教会

ハリストス正教会は安政6(1859)年、敷地内に建てられた初代ロシア領事館の付属聖堂として建立したのがはじまりで、正しくは『箱館復活聖堂』といわれています。

文久元(1861)年、青年司祭ニコライが、ロシアから来函し説支円禁断を持って日本で最初にギリシャ正教を布教しました。明治40(1907)年の大火で類焼したものの、大正5(1916)年、聖堂はロシア風ピザンチン様式で再建されました。この聖堂内部に、丸天井を装架しているのがこの様式の特徴です。これは屋根に設置された複数の十字架と、その装飾部を飾る冠状の構造が独特の形状をつくっており、緑色の銅板屋根は昭和43(1968)年に改装され、緑青を合成的に熟成したものです。再建当時の大鐘(重さ2トン)は、大正12(1923)年の関東大震災で大破した東京ニコライ堂復興の際に移され、代わりに大小6個1組の鐘と交換され、リズムとともにメロディを送る音色から『ガンガン寺』として市民から親しまれましたが、その鐘も戦時中供出されてしまったようです。現在の鐘は三重県桑名市の美術鋳造家から昭和58(1983)年6月に献納されたものです。同時に国の重要文化財に指定されました。

ビクティニ:ハリストス正教会だ。屋根にそびえ立つ十字架がたくさんあるのは珍しい。

ミュウ:大きな教会だね。

 

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八幡坂

函館の元町エリアは坂道が多いことで有名です。

『基坂』をはじめ、『八幡坂』『日和坂』『魚見坂』など、18の坂道があります。中でも『八幡坂』CMやドラマのロケ地として使われてきたのが有名です。何でもCMの影響で『チャーミーグリーンの坂』と呼ばれたこともあるとか。洋風な街並みや港町のある坂道はまさに明治期当時のロマンを感じさせられる雰囲気です。

ビクティニ:坂道からは海が見えるよ。

ミュウ:雪景色もまたいい雰囲気だね。

 

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函館護国神社

函館護国神社にも参拝しました。

 

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函館名物 塩ラーメン

函館は塩ラーメンも美味しいです。寒い冬の時期にはちょうどいいです。

ビクティニ&ゴンベ:いただきまーすだ!

 

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雪景色の五稜郭

さて、今度は五稜郭タワーに行ってみます。五稜郭タワーからは雪景色の五稜郭が見下ろせます。五稜郭はもともと箱館御役所としての役割を持っていたのです。タワーから見る雪景色の五稜郭はまるでモノクロのようです。五稜郭の中央にある建物は『箱館奉行所』という建物を復元したものです。

先程も記述したように、嘉永6(1853)年のペリー艦隊による『黒船来航』によって『日米和親条約』を締結し、箱館の開港を宣言しました。そんな開港を前にした徳川幕府は、開港場となる箱館での外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当するため、『箱館奉行』を配置することになりますが、その役所や役宅が密集した市街地にあることや港に近く寒気が厳しいなどの生活環境、さらに上陸した外国人による市街地の遊歩に伴い役所が見透かされるといった幕府の威厳の問題があること。そして港に近い位置にあるということもあり、艦船からの標的になりやすいという防衛上のリスクがあることから、役所・役宅ともに内陸の平坦地へ移転させることとなります。移転にあたっては、四方に土塁を巡らした中に役所を建設し、附近の河川から水流を引き込み周囲を水堀で囲むという形態が計画されました。それが星型の形状をした堀が特徴的な『五稜郭』のはじまりとされているのです。

 


五稜郭タワーを見学するミュウとビクティニ

 

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ペリー提督が来航した時の様子
 嘉永7(1854)年、箱館にペリー提督が来航した時の様子です。これは幕府がアメリカ大統領からの親書を受け取り、『日米和親条約』を締結している様子と思われます。

 

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外国の文化を受け入れる市民
 これは幕末の市民の様子です。ペリー提督の来航によって開港が決まると、これまでの市民の生活が一変し、西洋文化を受け入れることになります。

 

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五稜郭の設計に手掛ける奉行
 その一方で、開港を悟った徳川幕府は、開港場となる箱館での外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当する箱館奉行を配置するための設計が行われます。その際、艦隊からの攻撃を避けるため、内陸に設置し、かつ周りを水路で囲むように設計されたのです。その際、武田斐三郎はヨーロッパの城郭都市をモデルとする要塞を考案していたようです。

 

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五稜郭建設時の様子
これは、五稜郭が建てられている時の様子です。五稜郭は、堀で囲まれた五芒星型の堡塁と半月堡(馬堡塁)で構成するように約7年の歳月をかけて築城されたのです。

 

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旧幕府脱走軍 蝦夷地に侵入

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旧幕府脱走軍 五稜郭入城及び箱館占拠
 『鎖国政策』とともに維持されてきた徳川幕府の権力は、『開国』を巡る国内対立を発端として陰りをみせ始め、薩摩長州両藩に討幕の密勅が出されたことで、慶応3(1867)年、徳川慶喜は政権を朝廷に戻した『大政奉還』によって徳川幕府は崩壊。その一方で、箱館御役所(五稜郭)では、明治元(1868)年5月、箱館奉行から明治政府の箱館裁判所総督へと事務の引継ぎが整然と行われ、幕府による蝦夷地統治の中心であった五稜郭は、元治元(1864)年6月の業務開始から、わずか4年で幕を降ろすこととなりました。
箱館での平和の裡に行われた政権移譲とは異なり、明治元(1868)年正月、京都では薩摩長州連合軍と旧幕府軍が衝突(鳥羽伏見の戦い)し、『戊辰戦争』が勃発。江戸に向けて進軍を続ける薩摩藩長州藩などの連合軍に対して旧幕府軍の劣勢はあらわかで、江戸城の無血開城、上野の山に立て籠もった彰義隊の潰走(上野戦争)などにより、陸軍はほぼ壊滅したのです。
江戸城の無血開城を潔しとしない旧幕府陸軍の残存諸隊が、新政府に抵抗を続ける東北地方の諸藩を目指して相次ぎ江戸を脱走する最中、旧幕府海軍の副総裁である榎本武揚は、当時最強といわれた軍艦『海陽』を始めとする無傷の幕府艦隊を江戸湾の品川沖に集結させます。これは新政府からの再三の軍艦引き渡し命令にも従わなかったほどです。そして、徳川家の石高が十分の一に減らされたものの駿府での存続が認められたことを確認すると、艦隊を率いて江戸湾を脱走します。艦隊は、東北地方の諸藩が新政府に対抗して結成した『奥羽越列藩同盟』の支援のため仙台の松島湾にて来航。しかし時既に列藩同盟は相次ぐ同盟離脱・落城降伏により瓦解寸前。ここで、北関東から東北地方を転戦してきた土方歳三に率いられた新選組などの旧幕府軍の諸隊や抗戦を叫ぶ東北諸藩の部隊を艦隊に加え、蝦夷地へ向かいました。

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箱館戦争
明治元年10月20日、3,000名ほどに膨れ上がった旧幕府軍は、開港場であり諸外国の領事館や商社も存在する箱館への上陸を避けつつ、箱館から十里ほど北に位置する内浦湾(噴火湾)の鷲ノ木(現、森町)へ上陸。明治新政府の箱館府(箱館裁判所から改称)のある五稜郭を目指して南下を始めます。その時、榎本武揚は蝦夷地渡航を前に明治新政府に対して、生活の糧を失った旧幕府家臣達の生活安定のための蝦夷地開拓の趣意嘆願をしており、同様の嘆願書を箱館府へ提出しようとしますが、10月22日、箱館府との間に戦端が開かれてしまいます。戦闘経験の豊富な旧幕府軍に対して迎撃する箱館府兵の抵抗はあまり効果なく、敗報に接した箱館府は青森へ退避し、26日に旧幕府軍は無人となった五稜郭を占拠しました。五稜郭はついに旧幕府軍の本営となり、明治維新動乱の最後の舞台となってしまいます。これがいわゆる『箱館戦争』す。
箱館を抑えた旧幕府軍は、明治新政府に与する松前藩に対して平和共存を訴えたものの、松前藩は抵抗の動きを見せたことから、土方歳三を長とする陸軍部隊を松前攻撃に派遣して11月5日、松前藩の福山城を制圧し、松前藩主一行は津軽へと脱出したのです。この間に、陸軍支援のため、松前へ向かった旗艦『開陽』が日本海の冬の風波によって江差沖で座礁沈没、さらにその救援に向かった軍艦『神速』も沈没するといった失態もあったものの、旧幕府軍は蝦夷地から新政府の勢力を一時的に駆逐しました。

 

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明治新政府軍の反撃
 旧幕府軍は箱館在留の諸外国の領事に対して、従来通りの権益を認めるなどの懐柔政策で対外関係を維持するとともに英仏軍艦の艦長に託し、蝦夷地開拓の請願書を新政府へ届けたものの、ついに受け入れられることはなかったのです。その一方、上等士官以上の者による入札で総裁以下の役職を選出、12月15日には蝦夷地領有の宣言が為され、暫定的な軍政機構が整えられました。しかし、当時最強の軍艦であった『開陽』の沈没による戦力低下から、旧幕府軍は明治新政府と対等な勢力である『交戦団体』とは認められなくなり、諸外国は『局外中立』を撤廃。旧幕府軍は、新政府に対する単なる叛徒として、征討の対象となったのです。新政府軍は、局外中立の撤廃とともにアメリカから引き渡された軍艦『甲鉄』を旗艦として征討軍を編成し、明治2(1869)年3月9日、蝦夷地へ向けて品川沖から艦隊が出航したのです。
蝦夷地への北上途中、宮古湾での旧幕府軍による『甲鉄』奪取のための奇襲作戦を撃退した新政府軍は4月9日、日本海側の乙部に上陸を開始し、瞬く間に江差を奪還、三方向から箱館へ向かったのです。圧倒的な戦力で迫る新政府軍により脱走軍守備隊が次々撃破されていく最中、江差から箱館への最短経路である江差山道の山中に布陣した土方歳三の指揮する部隊は、増強される政府軍を激しい銃撃で撃退し続けたものの、残る二方面の脱走軍が敗走したことから、退路を断たれることを恐れた五稜郭本部からの命令で撤退したのです。
5月11日、箱館と五稜郭を残すのみとなった旧幕府軍に対して、新政府軍は総攻撃を開始。箱館山の裏側の断崖を登攀した奇襲部隊が箱館市街地を一気に奪還。箱館の北方山手からと箱館湾の海岸沿いには、軍艦からの艦砲射撃の支援を受けた新政府軍の陸軍本隊が進み、五稜郭に迫ります。陸軍奉行並として土方歳三は、市街地奪還のために一隊を率いて五稜郭を出撃したものの、市街地の境界を突破する際に銃撃を受けて絶命したのです。海上でも両軍の軍艦による砲撃戦が繰り広げられ、波の静かな天然の良港である箱館港が大火に包まれる惨禍に見舞われました。
旧幕府軍の海軍が全滅した後、新政府軍は軍艦を港内の奥深くへ進入させ、『甲鉄』の七十斤アームストロング砲による五稜郭への艦砲射撃を開始、旧幕府軍の本部に多くの被害を与え戦意を奪う一方で、箱館病院の医師・高松凌雲を仲介として降伏を勧告しました。

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箱館病院で新政府軍に降伏を乞う医師
箱館の住民にも大きな被害を出す最中、新政府軍に味方をする住民組織による旧幕府軍に対する破壊工作などもあり、降伏勧告にも最後まで抵抗していた『千代ヶ岱台場』の玉砕により箱館戦争の全ての戦闘は終息し、榎本武揚ら旧幕府軍の首脳は、5月17日、新政府軍の斥候所に出頭し降伏の条件を話し合いました。翌18日の早朝、五稜郭内に整列した旧幕府軍将兵の見送りを受けた榎本以下の幹部四名は、新政府軍の会議所へ赴き護送されていったのです。将兵は武装解除された上、寺院などへ収容され、箱館周辺と北海道南部、渡島半島全域を半年間にわたって戦火に包んだ箱館戦争は、旧幕府軍で約800名、明治新政府軍で約300名の犠牲者を出して終結しました。これは徳川家臣団による蝦夷地開拓の夢は儚く潰え去り、多くの人々の命と引換えに、近代日本の基礎が造られていくことになります。

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亀田八幡宮の神前にて降伏する様子
榎本ら旧幕府軍の幹部は東京へ護送され投獄されたものの、明治5(1872)年には赦され、多くは北海道開拓使への出仕を命じられました。中でも榎本武揚は、開拓使を皮切りに明治政府の要職を歴任し大臣としても活躍、日本の発展に力を尽くしていくことになったのです。

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箱館戦争終結後の五稜郭の様子
箱館戦争の終結後、五稜郭は再び明治政府の兵部省の所管となったものの、二度と行政府として歴史に現れることはありません。明治4(1871)年には、郭内の御役所庁舎は解体され、広場となった跡地は明治の陸軍の練兵場として使用されていたのです。その一方で人々は五稜郭の水堀を積極的に利用していました。五稜郭の水堀では冬期間の結氷を伐り出す採氷事業が行われ、明治4年の厳冬期に採取した氷670トンを本州各地へ送り出し、当時は高価なアメリカからの輸入氷を市場から駆逐することで、函館の一大産業ともなったエピソードもあったようです。
その後は大正3(1914)年から公園として一般開放され、五千株の桜の苗木が植樹されています。これは北海道でも有数の桜の名所として現在に至っており、現在では、市民による、歴史を題材としたイベントの会場として四季を通じて利用され、現在に至っています。

 

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星型にライトアップされた五稜郭

・・・と五稜郭の歴史を語ったところで、17:00から五稜郭のライトアップです!星型に光る五稜郭の明かりは幻想的に輝いています!周辺の夜景と星型に光る五稜郭はまるで銀河の世界のようです。御役所もライトアップされています。さらに五稜郭には「ようこそ函館へ!」の文字が映し出されています。

 

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函館駅前のイルミネーション
 函館駅前のイルミネーションもとても素敵です。やはり雪とイルミの組み合わせはまさに北国ならではのコラボレーションですね。

ビクティニ:函館のイルミネーションが幻想的だ。

ミュウ:素敵だよね。

 

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二度目のプリンスホテルに宿泊

さて、この後ははこだてライナーで新函館北斗駅まで移動し、そこからバスでプリンスホテルにてチェックイン。2度目の宿泊となります。最初は函館で夕食にしようと思っていたのですが、五稜郭の夜景も見たかったので、プリンスホテル内での夕食となりました。

 

5日目終わり

6日目に続く・・・