ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

正月旅行 厳冬の山陰旅 冬の松江城を観光

皆さん こんにちは。

今回は雪が激しく降る中、松江城を観てきました。

 

f:id:okuchichibu551:20210206155222j:plain

 国宝 松江城

松江のシンボルともいうべき存在感を放つ松江城国宝に指定されています。

松江城は全国における名城の中で現存天守が12箇所しかないうちの1つです。

それらの天守は江戸時代、あるいはその時代以前(安土桃山時代)に建てられたものとされ、当時建築の姿は現在なおも残る非常に貴重なシンボルです。そのうち、慶長16(1611)年に完成した松江城は彦根城や姫路城とともに、近世城郭最盛期を代表する天守であることから、国宝に指定されています。一時期は明治維新以降では城内の建築物等は民間に払い下げ、あるいは第二次世界大戦の最中、数々の城が戦災で次々と消失していった中で、建築当時の状態から残ったお城は全国的に見て12箇所だけ残りました。そのうちの1つである松江城が国宝に選ばれた理由でもあるのです。

ビクティニ:今年の松江城はちょっぴりさみしい・・・。

ミュウ:この後雪が降るものね・・・。

 

f:id:okuchichibu551:20210207150546j:plain

祈祷札

松江城には、通し柱に『祈祷札』が掲げられています。

よく見ると祈祷札に「慶長拾六年」と書かれているので、その当時に建てられたということがお分かりいただけるかと思います。この祈祷札には2階分の通し柱や包板の技法を用いた特徴的な柱構造であることが示されています。すなわち、天守建築においては優れていたものとされていることが分かります。2枚の祈祷札は昭和12(1937)年に城戸博士が天守内で見つかって以来、所在は不明でしたが、平成24(2012)年に松江城敷地内の松江神社で再発見されたのです。この天守が築かれた際、天台、真言の二宗による祈祷が行われたもので、その2枚の祈祷札はそれぞれ地階の2本の柱に掲げられていました。そして、その祈祷札に墨で書かれた「慶長拾六年」「正月吉祥日」慶長16年正月以前に完成した確かなる証であることから、国宝に選ばれた理由の1つでもあります。なお現在、柱に掲げられた祈祷札はレプリカのようです。

 

f:id:okuchichibu551:20210207154843j:plain

井戸

天守内に井戸が設置されているのも松江城の特徴でもあります。

かつては24メートルほどの深さがありましたが、現在はその半分が埋められているようです。松江城天守内に井戸があるのは国内の天守では唯一のものです。

 

f:id:okuchichibu551:20210207161344j:plain

塩蔵

天守の地階には領内から納められた塩を保管しておくためのスペースとして用いられていました。

これは『塩蔵』と呼ばれ、昭和の解体・修理工事の際、塩札が発見された他、生産地で塩俵に添付されていた荷札と思わしき札が36枚、管理用に使われた札も4枚発見されていることから、ここが塩蔵として使われていたとされています。この階は石垣で積まれており、籠城に備えて塩の他に様々な物資が保管されていたようです。このように、倉庫、あるいは塩などを保管するためのスペースとして活用されていた塩蔵は、他に鶴ヶ城(会津城)などで見られます。

 

f:id:okuchichibu551:20210207170420j:plain

石打棚

附櫓入り口上部および地階の南側に石打棚が設けられています。

これは天守に侵入した敵を鉄砲などで迎撃する際、足下を安定させるために石垣の上に設けられた棚上の台で、天守の防御を高めていました。

 

f:id:okuchichibu551:20210207171254j:plain

天守最大柱

松江城は『通し柱』という建築技法が用いられているのが特徴です。

日本名城の建築において至難の業ともいうべき天守の技法の一つで、2階分の柱を階ごとに分散するように組み合わせることで、建物を崩れにくくしています。地階から1階の東西二本の通し柱は包板を持たない松江城天守最大の柱で、先ほどの祈祷札もこの柱の地階に打ち付けられていました。これは天守を支える柱としては一番重要な柱であることを物語っています。

 

f:id:okuchichibu551:20210207172958j:plain

松江城天守の古材に刻まれた刻印

昭和の解体・修理工事において新材に交換する際、不要となった古材に分銅文と『富』の文字が刻まれています。

この分銅文は、この松江城を構築する時に刻まれた堀尾氏の代表的な家紋とされています。この刻印に刻まれた『富』の文字には、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の後、堀尾氏が出雲国へ入部した際に居城とした富田城(安来市)を意味するという説があります。この古材は天守1階の床梁に使用されていたもので、いかだで運搬されたと思わしき痕跡があることから、松江城構築の際、富田城で使われていた部材を転用したということも考えられています。

 

f:id:okuchichibu551:20210207183158j:plain

鉄砲狭間

f:id:okuchichibu551:20210207183232j:plain

矢狭間

2階には外部から敵の侵入を防ぐために、城内から鉄砲や弓矢を放つため『狭間』という穴が設けられています。

この天守各階360度に設けられたこれらの穴は標的の位置を想定したもので、特に鉄砲狭間は真下や左右の広範囲に銃眼が開いたものが多く、石垣を伝って登ってくる敵を狙うことを前提に設計されています。これは実戦を想定して作られたものとされています。

 

f:id:okuchichibu551:20210207184710j:plain

包板技法

地階から4階を支える柱には、単にそのまま柱を組むのでなく、柱の周囲を小さな板で包むように組み合わされたもので支えられています。

柱の一面のみ、または二面、三面、四面に板を張って組み付けた柱を『包板』と呼んでいます。この天守には総数308本の柱が用いられていますが、それらのうち103本がその技法で使われているのです。板を柱に『鎹(かすがい)』と呼ばれる金具で固定され、さらに鉄輪で締めて固定するという工法が用いられていますが、通し柱に施された包板も二階分まで貫いていないので、各階ごとにこのような技法が用いられているということです。その材木の中には一部粗悪材や柱の割れ目などがある材木も含まれているため、この技法で体裁を整えることで、材木が悪くても、補強効果に期待できたとされています。ただし、この技法が用いられたのは建築時には用いられたものではなく、天守を修復する時に用いられたもののようですが、国内の城の中では松江城が唯一この技法が用いられています。

 

f:id:okuchichibu551:20210207201050j:plain

彫り込み番付

『番付』は木造建築にて建物を建てる時に予め部材につけるための符号で、いわば印付けです。

松江城天守の地階から2階までのいたる所の柱やその根本などに九箇所刻まれているのが確認できます。これらの番付け方法には『彫り込み』『墨入れ』の2種類あります。時間があれば探してみては?

 

f:id:okuchichibu551:20210208204606j:plain

石落とし

敵から守るための仕掛けは穴から弓矢や鉄砲で攻撃する仕掛けの他に、石を落として石垣を登ってくる敵を落とすための『石落とし』という仕掛けも設けられています。

この仕掛けは松江城の天守には四隅、西側・東側、北壁、附櫓の南側の合計八箇所設けられています。また、松江城の石落としは床面に設置されているため、外部からでは見つけにくいという特徴もあることで、効率よく敵の攻勢から防ぐことができたのです。

 

f:id:okuchichibu551:20210208223235j:plain

出雲松江藩の初代藩主 松平直政

f:id:okuchichibu551:20210209213842j:plain

出雲国拝領の歓びを知らせた手紙

f:id:okuchichibu551:20210209230104j:plain

大坂の陣で初陣を飾った松平直政の像

江戸時代前期の大名にして出雲松江藩の初代藩主とされるのが松平直政です。

徳川家康の孫で、結城秀康の三男でありながら、霊元天皇の即位にあたり、将軍徳川家綱の名代として上洛し、宮中に参内されました。14歳で初陣し、上総・姉崎(千葉県)、越前大野(福井県)、信濃・松本(長野県)をへて、大坂冬の陣の真田丸攻めで大活躍し、見事に勝利を収めました。そして、敵将であった真田信繁(のちの幸村)は、その勇姿に軍扇を投げ与え、彼に称賛を送っていたといいます。さらに直政は寛永15(1938)年に出雲松江藩の松平家初代藩主として君臨し、出雲国18万6千石を支配しました。ここまでの経緯をたどってみると、直政はとても勇敢な武将であったということを伺わせます。

 

f:id:okuchichibu551:20210208231305j:plain

堀尾忠氏による松江の築城地を選定する様子
慶長5(1600)年、堀尾忠氏が関ヶ原合戦にて勝利を獲得したのち、出雲・隠岐の両国を拝領しました。その後、彼は月山富田城(安来市)にて出雲国を治めようとしますが、立地や交通の便が悪いなどの問題があったといいます。そこで、統治の改善のため、もともとあった富田城から別の場所として、宍道湖の東側である現在の松江市の土地へ城地移転しました。これがいわゆる現在の松江城として建てられることになります。堀尾忠氏とその親子がこの松江の地に築城する際、松江の城下町を見渡す事ができるようにするため、『亀田山』という小さな山のてっぺんに築城するという検討がされていたと思われます。こうして、その場所に5年の歳月をかけて慶長16年にはじめて松江城が完成することになったのです。そして、堀尾吉晴の孫とされる忠晴(ただはる)初代城主となったのです。

 

f:id:okuchichibu551:20210209204921j:plain

後藤又兵衛所用と伝わる甲冑
松平直政が大坂の陣で激闘を繰り広げていく最中、後藤又兵衛黒田長政の後に豊臣秀頼に仕えていた武将の一人で、彼もその戦の中で戦死しました。その甲冑彼の弟が所持していたものであり、のちに後藤家の親戚にて松江藩士の土岐円大夫家に伝来していたものとされています。兜の前立てには松江藩の合印である『猪の目』がついています。

 

f:id:okuchichibu551:20210209214100j:plain

松江藩で使用した鉄砲と火縄銃の銃弾

松江城の狭間を伝い、敵を攻撃する際に使用された鉄砲の大きさは口径5匁(約1.5センチ)で、銃の長さが1.5メートルほど長い火縄銃が使用されていました。

これは敵を直接攻撃するというよりこの城の防衛のために使用したものと思われます。松江藩では橋南地区の雑賀町に鉄砲を扱う足軽(武家で、ふだんは雑役に従い戦時には兵卒となった者のこと。いわば雑兵)を集住させていたようです。右の銃弾は城北地区で出土された火縄銃の銃弾で、大きさの異なる銃弾には『球型銃弾』『洋式銃の紡錘型銃弾』つぶれたものや銃弾をつくるための鉛の塊も発見されています。これらはおそらく訓練に使用されていたと思われますが、松江藩には砲術の流派が六つあり、城北地区には稽古場があったようです。ここまで訓練がしっかりしているということは、松江藩も相当な強者であったことを伺わせます。

 

f:id:okuchichibu551:20210209221106j:plain

松江城の太鼓

松江城二の丸に『太鼓櫓』があり、毎日登城の時刻を知らせる他、非常呼集の際にも使用されました。

この太鼓は太鼓櫓が解体される時に見つかったものです。廃城後には有志が買い取って阿羅波比(あらわい)神社に奉納されましたが、のちにこの天守内に移動されたようです。かつて使われていた代物が現在でも当時の形のままで現存しているのは奇跡的ともいえますね。

 

f:id:okuchichibu551:20210210211143j:plain

松江城 歴代城主

松江城は、松江藩の歴代藩主の居城です。

初代城主は堀尾吉晴の子にあたる忠氏で、二代藩主は子がいないことから、堀尾家による藩主初代で幕を閉じました。その後、京極氏が入るもそれも初代で終わります。一方、九州では島原・天草一揆が起こるという不安定な世情の中、中国地方において外様大名しかいないため、当時の幕府は徳川家康の孫である松平直政をこの出雲国に入国させ以後233年かつ十代に渡るという長き間出雲国を支配しました。その時の流れの中で、松平家七代目(1751~1818年)の不昧公(松平治郷)松江藩主中興にして大名茶人として親しまれてきたといいます。治郷は家老に朝日丹波郷保を起用し、『御立派の改革』という財政再建策を進めさせ、藩内における債務整理、藩の人員体制、あるいは薬用人参の栽培などによる産業振興策など、松江藩の財政を立て直したといいます。さらに松平家十代目のころより茶道禅学を熱心に学ばれました。特に茶道である茶の湯においては非常に関心があり、様々な流派を見習い、自らの茶道観を極めていたのです。他にも陶芸や漆工、木工など、美術工芸に関しても関心を抱いていました。

・・・なるほど、どうりで松江の城下町は和菓子やお抹茶が有名な所以の一つというわけですな・・・(・∀・)

 

f:id:okuchichibu551:20210210215304j:plain

f:id:okuchichibu551:20210210215336j:plain

松江城 廃城の文書

明治に入ると、時代の変化いわゆる『明治維新』という文明開化ともに松江城にも廃城令が下されます。

これは火器類の高性能化および兵制の変化、そしてかつて必要であった城郭ももはや無駄な贅物という理由から廃城になった経緯ともいわれています。これには明治という時代に沿った使い方をしたいという旨を東京の太政官へ伺いを立てたところ、『廃城にせよ』という指示が出たのでそれを心得ることだったのです。すなわち、この文書は伺(うかがい)が認められたものとして、廃城と決定したことを領内に知らせた手紙のようなものですね。

 

f:id:okuchichibu551:20210210232833j:plain

松江城の天守だけでも残したいという想い

松江城も含めて、全国12ヵ所ある天守は、人々の努力によって今日も残されています。

全国の藩主がこれまで領有していた各々の土地および人民を朝廷にもどすべく、明治2(1869)年に版籍奉還という改革が行われ、のちに明治4(1871)年には廃藩置県が下されます。松江城では明治6(1873)年に陸軍省の所轄となり、やがて明治8(1875)年、ついに松江城は廃城となりました。こうしてかつて全国にあったお城は次々と解体、あるいは売却処分されていく中、松江城も例外なく天守を除いた建造物はほとんど処分・解体されていったのです。そして、天守も売却されますが、元松江藩士だった高城権八は出雲郡の豪農、勝部本右衛門親子とともに「天守だけでも残したい」という想いとともに落札高180円を納めて、天守の解体は免れたといいます。ちなみに高城権八は明治22(1889)年の松江市議会第1回選挙にて2級選出議員に選出し、のちに副議長にもなったそうです。

 

f:id:okuchichibu551:20210211210017j:plain

f:id:okuchichibu551:20210211210048j:plain

松江城の大修理

明治の大革命とともに松江城のほとんどが解体される中、天守だけが唯一残ったとはいえ、旧藩時代の美しさは失われ、次第に荒廃が進んでいたのです。

そこで、あまりの荒廃っぷりに修理を求める要望が強くなり、天守の登閣料により、部分的に修繕が行われます。さらに島根県知事から松江城天守閣景観維持会が設立、明治22(1889)年には市民の公園にするため、旧藩主松平家に城内が払い下げられ、天守を整備する機会が持ち上がります。暴風雨などで被害を受けても、市民の寄付で何度も修理や補修が余儀なく行われ、令和になってなおも当時のままで残っているということです。

 

f:id:okuchichibu551:20210211224815j:plain

梁の上に立つ柱(通し柱)

天守4階まで来ると、天井には梁の上に柱が立っている骨組が確認できます。

これは柱や梁を逆T字形に組み合わせることで、短い柱を巧みに利用でき、建物の中心に直接負荷がかからない構造になっているのです。このような通し柱構造は途中の階段などでも見ることができます。建築当時は大きな木材の入手が困難であったため、所々に小さな木材が使われていたと思われます。ちなみに階段には桐の木やクリ材などの木材が使われています。これは敵が攻めてきた時にその階段を簡単に外せるようにするため、比較的軽い桐の木が使われていたということだと考えられています。

 

f:id:okuchichibu551:20210211235618j:plain

松江城から見た宍道湖

松江城の天守閣からは宍道湖城下町が見渡せます。

歴史ある天守閣から見る宍道湖の景色はとても素敵です。さらに宍道湖の夕日まで見れれば最高です。霧の中に映える宍道湖もいい雰囲気ですが、この日は未曾有なほどの大雪らしいので、幸か不幸かの天候です・・・。宍道湖は先日に訪れた日御碕と同様、夕日スポットにもなっており、しじみが採れることでもよく知られています。

 

f:id:okuchichibu551:20210212212658j:plain

『千鳥城』という別名を持つ松江城

国宝に指定されている松江城は『千鳥城』という別名を持っています。

それは、このお城を建てる時に『千鳥破風(ちどりはふ)』と呼ばれる三角形の装飾が当時の天守の屋根にあったのではないかという説があるようです。江戸時代の絵図によれば、天守の一部にその装飾を固定するための柱穴の痕跡が発見されました。『千鳥破風』は、屋根に載せるとあたかも羽を広げた千鳥の姿に見えることからその由来になったと言われています。なお、現在の松江城は破風と屋根が一体化した『入り母屋破風(いりもやはふ)』になっています。

 

 

f:id:okuchichibu551:20210213004932p:plain

入母屋破風と千鳥破風の違い
『入母屋破風』は、屋根の裾に沿うように一体化しています。逆に『千鳥破風』屋根の上なら自由にどこにでも取り付けることができるというわけです。いわば、『千鳥破風』は典型的な三角形の装飾と解釈していいでしょう。写真を見ればお分かりいただけるように、現在の松江城の天守の破風と屋根が一体化しているので『入母屋破風』ということになります。すなわち、江戸時代の松江城天守の破風現在のものより小さかったのではないかと推測されます。

 

f:id:okuchichibu551:20210213011403j:plain

松江城 北惣門橋


松江城の大手門から少し歩いた所には『北惣門橋』という木造の橋があります。

松江城への玄関口となった橋で、江戸時代には内堀の東側にあった家老屋敷と城内を結ぶための重要な通路として使われていました。明治に入ると石造りのアーチ橋に掛け替えられ、長いこと『めがね橋』として親しまれましたが、平成6(1994)年には史跡としてふさわしいものにするため、江戸時代当時の木橋として復元されています。また、松江城にある松江護國神社、城山稲荷神社への参拝道としても使われています。

 

 

f:id:okuchichibu551:20210213121114j:plain

松江名物 抹茶と和菓子

松江といえば、和菓子も楽しみの1つです。

こちらの松江歴史館では和菓子がいただけます。他にも自分で和菓子を作る『和菓子作り体験』があり、和菓子の歴史を知りながら実際に自分の手で和菓子が作れます。また、自分で抹茶を点てる『抹茶体験』もできます。

松江は京都や金沢と並ぶほど日本三大菓子、茶処のまちとして有名です。

これには先ほども説明したとおり、松江藩松平家七代藩主・松平治郷(不昧公)不昧流茶道を披露したことで、この松江の地にも、茶の湯文化が浸透したとされています。こうして不昧公が茶会で使われた和菓子や茶道具などは現在でもなお受け継がれ、今日も四季折々のお茶と和菓子がこの松江の城下町で楽しめるのです。歴史館の他にも、月照寺や普門院内の茶室、明々庵などでも和菓子体験和菓子とお抹茶が楽しめます。松江に訪れた際に、おやつやちょっとした休憩などで和菓子をいただいてみては?

ビクティニ:雪が降る中の松江城見学は寒かった・・・。松江といえば和菓子も隅には置けないね。マカロンも美味しいけど、和菓子はもっと好物なんだ。いただきます!

ミュウ:外は雪が降り出してきたね。寒い時にはあったかい抹茶が美味しいね。

 

 

『正月旅行 厳冬の山陰旅 冬の松江城を観光』をお伝えしました。