ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

正月旅行 興雲閣と松江城を見学

皆さん、こんにちは。

出雲大社を参拝し、松江城興雲閣を見てきました。

去年も松江城を見学しましたが、今年は『興雲閣』という洋館も見てきました。

 

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興雲閣
松江城のすぐ近くに建てられている洋風な建築物が『興雲閣』です。

松江市が『松江市工芸品陳列所』として建てられたもので、明治36(1903)年に完成しました。当初、明治天皇の行在所に使用する目的で造られたことから、装飾や彫刻を多く用いた華麗な仕様となっています。しかしながら、結果的には天皇の巡幸は実現しなかったものの、 明治40年(1907)、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)の山陰道行啓にあたり、同年5月22日から25日までの間、御旅館ならびに迎賓館としての役割を果たしたエピソードがあります。

明治45(1912)年には正面の階段を奥へ移動するなどの改修が行われ、松江市の公的な歓迎所として、また各種の展覧会場ならびに会合に使用されました。昭和48(1973)年からは『松江郷土館』として活用されてきたものの、平成23(2011)年には閉館しました。その後、保存修理工事が行われ、その建物自体の歴史的価値があることから、新たなる観光資源として現在に至って保存されています。
ビクティニ:立派なお屋敷だね。

ミュウ:松江城の近くに風変わりな洋館があるのは不思議だよね。

 

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興雲閣 階段ホール

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興雲閣 廊下
興雲閣の中に入ってみましょう。

館内はほぼ明治当時のままで保たれています。玄関に入ると、正面には階段ホールがあり、左側には廊下が続いています。その廊下の両部屋には展示室とカフェスペースで仕切られています、まるで舞踊会のような雰囲気です。床は赤い絨毯が敷き詰められ、木材や漆喰の壁など、明治時代の状態で保存されています。この建物は木造2階建てになっており、昭和44(1969)年2月18日には島根県指定有形文化財、さらに平成23(2011)年7月20日には歴史的風致形成建造物に指定されています。

明治期においては、度重なる申請にも関わらず天皇陛下の巡幸こそ実現しなかったのです。明治36(1903)年に皇太子嘉仁親王の学業の一環として山陰行啓の願いを鳥取・島根両県知事の連名で提出し内定したものの、日露戦争から中止。戦争終結後に再び願い出て明治40(1907)年5月に山陰道行啓が内定しました。その内定に伴い、工芸品陳列所を行啓の御旅館としてふさわしい建物とするための改修工事および松前城の大手門から陳列所まで馬車で行くための道路の工事も行われました。工事は明治40年1月に完成し、皇太子は5月22日より25日までの間、2階の南隅の部屋にて宿泊されました。なお、御旅館としての設備は後に撤去されています。

これから行啓が終わった後の明治42(1909)年、工芸品陳列所から『興雲閣』に名称が変更されます。これは旧松江藩主家の当主である松平直亮によって命名され、新聞上では明治42年7月28日に発表されました。

さらに、行啓後の興雲閣は各種の会合や展覧会場、そして迎賓館としての役割を果たすことになります。明治45(1912)年に鉄道開業を祝賀するため、松江城山一帯で開催された『山陰鉄道連絡記念 物産共進会』の際、美術会場に充てるため、階段室の増築し、2階を大広間にするための工事も行われました。工事は明治45年2月より始まり、同年3月末には完成し、こうして現在の興雲閣の形として、現在に至っています。

 

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保存修理工事に際しての興雲閣活用イメージ

~保存修理工事~

明治45年当時の姿に復旧整備するにあたり、解体を行いながら修理を行いました。その際、建物の傷跡や仕様などの調査を実施、その調査結果に基づいて修理方針を確定した上で組立作業が行われました。

~耐震補強工事~

保存修理後に内部を公開ならびに活用するため、一部鉄骨を用いた耐震補強を行いました。その際、文化財としての価値、特に外観を損ねない工法や仕様を採用しました。

~活用関連工事~

便所や飲食スペース、エレベーター設置など、観光資源としての活用のための設備も施されています。

これらの工事を施すことで、古い文化を残しつつ新たな活用ならびに観光客への一般公開が行われるようになります。こうして歴史的価値のある建造物が様々な分野で活かされているのです。

 

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興雲閣 大広間
2階も見てみましょう。

2階の大広間は開放的な造りになっています。明治期に造られたこともあり、まさに明治ならではのハイカラ感な雰囲気が醸し出しています。確かにここまで気品が高い仕様だと明治天皇が来県される目的に合わせているという姿勢が感じ取れますね。明治期では、ここで会合や展覧会場として使われていましたが。現在はライブや結婚式、コンサートなどで使われています。また、貸切がある場合は見学できませんので、見学される場合は予めイベントの有無をHPなどで確認した上で訪問されるのをおすすめします。ちなみに、大広間のどこかに『ノヴィー』という名前のついた100年以上前の古いピアノがあるそうですが、訪問時にはどこにも見当たりませんでした・・・。

 

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貴顕室(きけんしつ)
大広間の奥の方には『貴顕室(きけんしつ)』があります。

ここは、明治40年の大正天皇(皇太子嘉仁親王)が山陰道行啓の際に宿泊された部屋です。そのため、他の部屋よりもさらに豪華な仕様になっています。建具やシャンデリアは当時使われたものを修復した上で展示されています。また、カーテンボックスや絨毯、照明ガラスシェード、机や椅子は当時のものがないので、古写真をもとに復元されているようです。貴顕室では三つの小部屋に仕切られ、『御座所』『拝謁ノ間』『御寝所(畳部屋)』で構成されています。特に『御座所』の絨毯やカーテン、シャンデリア、机や椅子は重圧感があり、いかにも豪華絢爛です。この部屋の内装を見れば、当時の天皇の価値観は非常に高かったということを物語っています。

 

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興雲閣 バルコニー
バルコニーにも出てみましょう。

ここも明治40年当時の状態で保たれています。バルコニーからは松江の町並みが見下ろせます。手すりや柱、窓枠、扉は木製と当時のままで、状態床も木張りになっています。そして、正面玄関側のバルコニーには『興雲閣』の文字を反対側から書いた看板が威風堂々としています。しかも、松江城に近い立地に建てられたというのを考えれば、天皇をおもてなしするのに最適であったということが伺えます。

ビクティニ:バルコニーからは街並みが見えるよ!

ミュウ:でもここからお城は見えない・・・。

 

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興雲閣に併設されているカフェ

見学後は、1階に併設されている『亀田山喫茶室』でお茶とおやつをいただきました。明治時代当時の雰囲気を肌で感じ取りながら、ティータイムをしたりするのも癒やされます。

ビクティニ:明治時代にタイムスリップしたような気分・・・。

ミュウ:これも松江ならではの雰囲気かもね・・・。

 

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興雲閣 外観
外観も見てみると、明治期に建てられた貴重な建造物であるという雰囲気です。

玄関や廻廊の軒下に纏った装飾や彫刻がまさしく美術品のように気品の高さを物語っています。竣工時の松江市工芸品陳列所は、現在の興雲閣とは異り背面には階段がなく、階段は建物の中に組み込まれていたのです。他にも、2階は南隅の三部屋と玄関上以外に七つの部屋に別れていました。この建物は一見洋風に見えますが、実際は下見板を張ったバルコニーを巡らせた洋風な外観や洋式トラス構造、コロネードの廻廊を採用しつつ、入母屋造りの瓦屋根など、随所に和風の意匠を取り入れた『擬洋風建築』になっています。これは全国的に見ても明治20年頃には造られなくなっていた擬洋風建築の最晩年期に造られたものとしては非常に建築史上価値のある建物なのです。

 

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松江城

続いて、松江城も見学してみます。

松江城の天守は、四重五階地下一階の構造で、高さおよそ30メートルもある貴重な現存天守の一つであることから、昭和10(1935)年に国宝に指定されました。その後、文化財保護法の施行から、重要文化財に指定、さらに平成27(2015)年に改めて国宝に指定されています。

前面に『付櫓(つけやぐら)』を設け、最上階より四方を見渡せる『複合式望楼型天守(ふくごうしきぼうろうがたてんしゅ)』が特徴的で、白壁が少ない黒い厚い板で覆われた下見板張りで、石垣は『ごぼう積み』といわれる方式が取られています。

軸組は、長さ2階分の通し柱、周囲に包板(つつみいた)を鎹(かすがい)や帯鉄(おびてつ)で取り付けられた柱が多用されるなど独自の構法が用いられており、近世城郭最盛期を代表する城郭建築物として、極めて高い価値があるといわれています。

ビクティニ:松江城に来た時に雪が降り出してきた・・・。

ミュウ:寒い・・・*1

 

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塩蔵
松江城に入ると、地階に入ります。

ここは『塩蔵』といい、文字通り領内より納められた塩が蓄えられます。昭和の解体修理工事の際、ここから『塩札』が発見されています。生産地で塩俵にくくりつけられた荷札用と考えられるものが36枚、塩蔵での管理用と考えられるものが4枚と合計40枚見つかっています。荷札用の片面には郡名・浦名、更に庄屋名や年寄名が記され、もう一面には塩の重さと生産者名などが記されています。管理用もは嘉永3~5(1850~1852)年などの年号と『塩二十五俵』と記され、塩蔵に塩俵25俵あるということを2年毎に確認していたと思われます。これは、実践を重視しているのではないかという、いわば有事に備えるためのものであることが考えられます。

 

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祈祷札
松江城内は、地階に2枚の祈祷札がそれぞれの通し柱に打ち付けられているのもこの城ならではの特徴でもあります。

2枚の祈祷札は、昭和12(1937)年に城戸久博士が天守内で確認されて以降、所在がわからなくなっていたようですが、平成24(2012)年には松江城地内の松江神社で再発見されたものです。天守落成の際、天台・真言宗による祈祷が行われた可能性を示すものであり、調査によると祈祷札や釘に残る釘穴の位置が一致していたことなどから、誓いの2本の通し柱に打ち付けられていたということが判明したのです。『慶長十六』や『正月吉祥日』の墨書文字から天守完成が慶長16(1611)年正月以前であるということが確定したものであり、それが国宝指定の要因になったといいます。なお、地階にある祈祷札はレプリカのようです。

 

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井戸

地階には『井戸』が設けられ、深さは24メートルあります。国内にある現存天守の中で唯一井戸があるのは松江城のみです。これは実戦を強く意識するために備えられていたという名残が感じ取れます。ここまでの用意を考えれば、松江藩の用心深さがうかがえますね。

 

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石打棚

松江城内には安定した姿勢を保ちつつ狭間や窓から鉄砲や矢を放つための棚状の台も設けられています。松江城天守には附櫓南東方向と地階南東、南西隅の三箇所の石垣の上に設けられ、天守の防御力を高めています。これも敵から身を守るための工夫の一つなんですね。

 

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天守内にある『祈』の筆文字

国宝登録記念に『祈』の文字が展示されていました。脇に描かれたしまねっこのイラストが可愛らしいです。

 

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天守最大柱

地階から1階までの東西に配置された2本の通し柱は包板を持たない松江城天守最大の柱で、天守国宝の証でもある祈祷札も、この柱の地階に打ち付けられていました。これは天守を支える柱としては一番重要なものです。

 

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彫り込み番付

『番付』は、木造建築で建物を効率よく組立作業を行うことができるようにするため、部材に予め印などをつける符号のことです。松江城天守の番付には、彫り込みと墨書の2種類あり、彫り込み番付は地階から2階で柱の根元などに刻まれているのを九箇所で確認できます。

 

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包板

地階から4階の柱には、柱の周囲に板で包んだものが含まれます。柱の一面のみ、あるいは2~4面に板を張ったものが『包板』という技法が使われています。天守内に使われている308本の柱のうち、103本がこの技法で使われています。板は柱に『鎹(かすがい)』で固定され、さらに鉄輪で締められていますが、通し柱に施された包板も2階分を貫いておらず各階ごとの施行になっています。粗悪材や柱の割れ隠しなど体裁を整えることを目的としつつ、補強効果を期待したものと考えられていますが、包板は築城当時に用いられたものでない、後年の天守修復時に順次加えられたものと考えられます。これは現存天守におけるこの技法が用いられているのは、ここ松江城のみです。

 

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『富』の文字が打ち込まれた古材

昭和25~30(1950~1955)年の修理工事の際、解体された天守1階の床梁に使用されていた古材には、分銅文(家紋)や『富』の文字が刻まれています。これは慶長5(1600)年の関ケ原の戦いの後、堀尾氏が出雲国に入部した時に居城とした富田城(島根県安来市)を意味するものと推測されています。

 

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松江城天守に葺かれた鬼瓦

松江城天守の屋根の大棟や降棟、隅棟などの側端に葺かれていた鬼面の鬼瓦です。鬼面でないものも鬼瓦と呼ばれていますが、松江城の天守屋根には現在も鬼面の鬼瓦が乗っています。他のお城の屋根には家紋や吉祥文様の鬼瓦が多いのですが、松江城では鬼面を用いられていることから珍しい例といえます。

 

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松平直政の像

松平直政は京極家から引き継いだ松平家初代松江藩主で、徳川家康の次男・結城秀康の三男であり、二人の天下人・徳川家康と豊臣秀吉の孫にあたります。直政は18万6千石の松江藩主となり、松平家が司る松江藩の歴史は、明治維新を迎えるまで約230年に及び、藩主は10代目まで続きました。

大坂の陣で初陣を飾る松平直政像は、安来市出身の彫刻家である米原雲海(1869~1925)制作の原型を彫刻家特能節朗氏によって移されています。これは、真田信繁が守る真田丸を攻める14歳の松平直政が初陣をとった時の姿で創られたもので、その勇姿に軍扇を投げ与えていたというエピソードがあります。

逸話によると、信州松本藩より松江へ移封となった直政は稲荷への信仰が厚かったというエピソードが有ります。移封直後、夢枕に美しい少年が直政に『私はあなたが松本で厚く祀ってくれた稲荷の化身です。あなたと共に松江にやってきましたが住むところがありませんので作ってほしい。作ってくれた暁には、あらゆる火事から松江を守って差し上げます』というお告げを信じ、城内にあった八幡社に稲荷を合祀した『御城内稲荷八幡両社(現在の城山稲荷神社)』を建立したという逸話がありました。その神社は現在でも多くの参拝者が訪れています。

 

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長崎での人参輸出

松平家9代目斉貴(なりたけ)が藩主をつとめたころの天保2(1831)年、松江藩は長崎より人参の売出し3千貫を許可され、江戸時代には高価な生薬であった御種人参を清(しん)国へ輸出することで、松江藩は莫大な利益を得たというエピソードがあったといいます。

 

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松江や牡丹を愛した松平綱近

松平三代目藩主である綱近は隠居後、松江城の北之丸で暮らしている一方で、網近以外の藩主は隠居後江戸に暮らしていました。松平家で唯一最後まで松江で暮らしていた綱近は家巨から愛され、失明していた綱近に好きな牡丹の花を見せたいと、小姓が自ら眼玉を差し出そうとして、綱近は落胆したという逸話もあるようです。

 

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文化の茶町大火

松江の城下町には様々な災害に見舞われていたことがあります。

江戸時代には何度も大きな水害にあったことがありましたが、水害だけでなく火災にも見舞われていたことがありました。文化5(1808)年2月11日の午前、茶町より出火し、南西の風にあおられて城下東端の御船屋まで1200軒に及び延焼したようです。

 

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石落とし

天守には、『石落とし』『矢狭間』『鉄砲狭間』など、敵から守るための仕掛けも設けられています。例えば『石落とし』と言われる仕掛けは、石垣に近づいてきた敵に石を落とす仕掛けで、外からは見えにくくなっているのが特徴的です。他にも、弓矢や鉄砲などを使って天守を敵から身を守っていました。

 

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刻を知らせた太鼓

この太鼓は、松江城二之丸の太鼓櫓にあったもので、毎日登城の時刻を知らせるために使われていたものです。時刻の他に非常呼集も行う際にも使われていたようです。

 

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全国のお城が飾られている写真と花頭窓がある松江城天守3階
3階に上がると、松江城の模型の他に全国にあるお城の写真などが展示されています。

2階までは、敵から身を守るための仕掛けなどが組み込まれた構造でしたが、3階からは内装がガラリと変わります。ここまで質実な造りをしている松江城天守ですが、3階の南北張出部にある『花頭窓』は外観上のアクセントとして風格を与えています。これは装飾を目的に施されたものと思われます。

 

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国宝松江城の写真

3階に飾られているお城の写真のうち、松江城だけは大きく飾られています。

 

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二階分を貫く『通し柱』
松江城は、望楼型に区分された構造で、中でも二階分を貫き通した『通し柱』が特徴的です。

これらの通し柱をを各階ごとに交互配置することで、長大な部材を用いる必要がなく四重五階地下一階の大規模天守の建築を実現できました。『互入式通し柱』といわれるこの方式と4階の四隅の梁から立ち上がる柱に見られるように、上階の荷重を下階の柱が直接受けず、横方向にずらしつつ下に伝える方式の2つの構法を駆使したもので、後の丸亀城や宇和島城などの天守に受け継がれて『層塔型天守』へ進展。古式な外観や意匠とは反対に先駆的な技法が駆使され、城郭建築史における天守構造や工法の発展過程を知る上で非常に価値のあるものであることが考えられています。

 

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廃城令をつたえる書

明治4(1872)年1月、松江藩は松江城を廃城したいとの伺いを太政官に提出しました。松江藩庁の申し立てによると火器類の高性能化ならびに兵制の変化が、かつて必要であった城郭も意味をなくし贅物になった理由から、伺いが認められ廃城が決定したのです。これはその伺いが認められ、松江藩庁が領内に知らせるための文書です。

その内容によると、『昨今、兵隊の制度は一変した。古い城郭は無用の贅沢な物となり、傷もあるので、松江城を廃城として、無駄を省いて、今の時代にあった使い方をしたいと、東京の太政官へ伺いを立てたところ、その通りに廃城にするとの指示があったので、そのように心得ておくように』というものです。

全国にある12城の天守は、様々な人々の努力によって残されています。明治2(1869)年の全国の藩主が旧来領有していた土地や人民を朝廷に返還した版籍奉還をへて松江城は明治6(1873)年に陸軍省の所轄となり、明治8(1875)年5月に廃城となりました。

全国の諸城が売却され解体される中、松江城の天守を除くすべての建造物が4~5円で払い下げられ、処分されたといいます。天守も入札にかけられ180円で売却されたものの、旧松江藩士の高城権八は、出雲郡(出雲市斐川町)の豪農、勝部本右衛門親子(栄忠・景浜)とともに、天守だけでも残そうと落札高180円を納め天守の処分を免れることができたといいます。なお、高城権八は明治22(1889)年4月の松江市議会第一回選挙で二級選出議員に選出され、明治25(1892)年には講義長に選出されています。

こうして、松江城天守は明治8年の解体処分の危機は乗り越えたものの、旧藩時代とは異なり、管理が不十分であるため、荒廃が進みました。明治21(1888)年には荒廃を見かねてから修理を求める声が強くなり、天守の登閣料でもって部分的な修繕が行われます。その翌年には島根県知事によって松江城天守閣景観維持会が設立され、さらにその翌年には市民の公園とするため、旧藩主松平家に城内が払い下げられ、天守を中核に整備していく機運が盛り上がります。そのような中で、明治25年8月頃の暴風雨などによって天守は大きな被害を受けるも、市民の寄付によって明治27(1894)年に大修理が行われました。このように松江城天守は創建以降、何度も補修や修理の手が加えられ現在でも残っています。

 

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4階の四隅の梁から立ち上がる柱
天守4階まで来ると、柱の数が一気に減ってきます。

ここでは、四隅の梁から更に上の5階を支える隅柱が立ち上がっているのが見られます。このような構造を取り入れることで、下階の柱に負担を掛けずに梁を通し横方向にずらしつつ下に伝える構造になっています。このように通し柱をバランス良く配置し長大な部材を使わない大規模な天守建築を可能としたものであり、松江城天守の建築技術を語る上では非常に特徴的なものです。

 

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5階へ至る階段

松江城天守は、もともと実戦本意に築かれたお城ということもあり、全体的に簡素な造りになっていますが、4階や最上階の5階だけは藩主を迎えるための特徴的な意匠が施されています。4階には西側の大破風の内側を利用した『箱便所』が設けられています。そして5階へ通じる階段や手すりには至るところで装飾的な部材が用いられ、その横には藩主に従う小姓用と思われる上り口が別に設けられています。また、手すりには曲線や彫込などの意匠も施されています。

 

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松江城天守5階から見える宍道湖
天守の最上階まで上がってきました。

ここからは、宍道湖松江の街並みなどが見渡せます。

5階の内装は住宅風になっていて、柱は下階よりきれいに製材され、寸法も均一に揃えられています。また、敷居の痕跡や鴨居も残されており、かつてはここに建具があったと思われます。

ビクティニ:宍道湖だ!夕日は見れるかな・・・?

ミュウ:今は晴れてるみたい・・・?

シャワさん:天守閣から見る景色は最高だ!

ゴンベ:お城のてっぺんまで登ったらお腹すいたっぺ。

 

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国宝指定書

5階には、『国宝指定書』の写しも展示されています。これは言うまでもなく、国宝指定の証になります。なお、原本は国宝に附指定された祈祷札2枚、鎮宅祈祷札4枚、鎮物3点とともに松江歴史館に収蔵されています。

 

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松江城についての解説

松江城の構内図とその解説です。松江城ができた経緯は、現在の安来市にあった『富田城』では戦が不利であったことや、侍などを住ませるための城下町が必要だったことから、宍道湖のある現在の松江市にお城が建てられたということなんですね。

 

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松江城天守は望楼型の砦に見える
改めて天守を見てみましょう。

空の晴れた松江城天守の姿は美しく威風堂々としています。山陰地方において唯一残る天守というだけあって貴重であるということがわかります。

松江城は、堀尾氏、京極氏、そして松平氏の居城であったということですが、実際には実用的な望楼型の砦の例の1つのようです。『しかめっ面をした黒くそびえる屋根の下から、東と南を望むと、空の舞う鷹になったように、全市を一目で見渡すことが出来る』ということにあるように小泉八雲の『知られぬ日本の面影』でも登場しています。

ビクティニ:青空の下で観る松江城は立派だな。

ミュウ:ほんとほんと。よく木の素材でお城が建てられたよね。

 

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松江城の石垣

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石垣に刻まれた刻印の種類
松江城の石垣には『打込み接ぎ』が用いられています。

『打込み接ぎ』は、石切り場で切り出した石の平坦な面の角をたたきつき合わせやすくした積み方がほとんどであり、慶長年間に築かれた城ではよく見られる工法です。また、自然石やその石割を積んだ『野面積み』や石を全面加工した『切り込み接ぎ』も一部見られます。ここの石垣台をよく見てみると分銅のような形をした記号のみがたくさん刻まれています。これは松江城を築いた堀尾家の紋です。他にも二之丸下ノ段の西側石垣にも△印など、様々な刻印が見られます。それらの刻印は工事の分担や石切り場の区別、合わせ印など土木工事をスムーズかつ組織的に行うために付けられた記号であることが推測できます。

 

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二ノ丸番所跡

松江神社の正面は、かつて『番所』だった場所であり、お城の入り口でもあることから、ここで警備をしていたようです。松江市教育委員会の調査によると、台状の張り床が検出されたことから、ここには番所跡があったということが推測されています。

 

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松江の城下町
通りの中央を流れる堀川が松江らしい城下町の雰囲気が出ています。

この川の右側に建っているのは『カラコロ工房』という建物で、かつては昭和初期に旧日本銀行松江支店として建てられたものです。そこでは、和菓子作り体験をはじめ、彫金体験や勾玉づくり体験、ステンドグラスづくり体験など、松江ならではの様々な体験を味わうことができます。

ビクティニ:今日は夕日見れそうにないけど、夕方の城下町もほのぼの感があっていい感じ。

ミュウ:小さな川が流れている街並みもなかなか風情あるよね。

 

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松江の夕食

松江駅に戻り、夕食をいただきます。島根といえば、出雲そばや海鮮ものが名物ですが、しまね和牛のすき焼きも美味しいものです。

ビクティニ:松江に来たら、島根名物の和牛も外せないね!いただきます!・・・うまい、うますぎる!!

ミュウ:大晦日にすき焼きが食べれるとは思わなかった。美味しい!

ゴンベ:うんまいっぺ~!

シャワさん:たこ焼きもうまいぜ!

 

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玉造温泉
年越しは、玉造温泉の旅館で過ごしました。優しい灯りに包まれた温泉街は素敵です。

玉造温泉は奈良時代に開湯した島根県を代表する温泉地です。ここは 日本でも最古の歴史を持つ温泉で、天平時代の書物『出雲国土風土記』にも登場し『いで湯に一度入ると容姿が端麗になり、再び入れば万病が治る』と綴られていることから、『神の湯』とも呼ばれています。平安時代に入ると京の都にまでその噂が広まり、清少納言作『枕草子』にも『玉造』の名前が登場しているほど有名になっています。

ビクティニ:あ~、やはり温泉の匂いは癒やされる・・・。とまあ、厳冬の山陰でした!みんな良いお年を!

ミュウ:バイバイ!

 

『興雲閣と松江城を見学』をお伝えしました。

 

★おまけ★

宿泊先の玉造温泉の旅館に宿泊した際、島根県を代表する民謡である『安来節』をはじめとする伝統的な民謡ショーが開催されていたので、よろしければ御覧ください。

 


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