皆さん、こんにちは。
今回は、木古内駅からレンタカーを借りて、北海道で唯一の城下町『松前』までドライブしてきました。
晴れ渡った朝、昨日泊まったブルトレ『北斗星』とはお別れです。
始発で出発するため、朝早い出発です。
ビクティニ:さらば『北斗星』!
ミュウ:ばいばい!
朝の茂辺地駅はとても静かです。
ホーム越しに咲く桜が風光明媚です。もともとJR江差線だった路線が道南いさりび鉄道になってからというものの、JR時代とはあまり変わりません。しかし、道南いさりび鉄道を走る列車は1両編成のディーゼルカー、キハ40系です。やってきたのはタラコ色(首都圏色)です。
ビクティニ:7時26分発の列車が木古内方面の始発列車だ。
ミュウ:やはり昔ながらのディーゼルカーだね。
道南いさりび鉄道の始発列車で木古内へ進みます。
車窓からは津軽海峡が見えます。朝日に照らされた海面が輝かしいです。海の向こうに見える島のようなシルエットは函館山でしょうか。
ビクティニ:朝の海が綺麗だ。
ミュウ:このあたりは津軽海峡かな・・・
さて、茂辺地駅から約30分ほどで木古内駅に到着です。
函館方面から道南いさりび鉄道の列車はここで終わりです。このホームはかつての江差線のホームですが、今や道南いさりび鉄道の列車の発着場です。JR江差線時代は、函館~江差間を走っていたローカル線で、さらにここから江差方面へと続いていましたが、平成26(2014)年には木古内~江差間が廃止され、残った木古内~五稜郭間も平成28(2016)年に『道南いさりび鉄道』へ移行されています。
ビクティニ:ここが木古内駅か・・・。昔は特急がたくさん通っていたのを覚えているけど、ずいぶん変わっちゃった・・・。
ミュウ:構内が広い割にはホームは狭いね・・・。
在来線時代の木古内駅のホームはもっとあったのですが、北海道新幹線が開業すると、津軽海峡線(現在は北海道新幹線)の蟹田~木古内間は廃止になり、木古内駅のホームは新幹線と道南いさりび鉄道のみとなっています。写真右側のホームのない線路は、青函トンネルを通る貨物列車の通過線で、かつてそこにあったホームは撤去されているようです。恐らく道南いさりび鉄道の列車が走らない時間帯に貨物列車が通過するのでしょう。
かつて津軽海峡線で使われていた木古内駅の駅名標が駅本屋に保存されています。
札苅駅は道南いさりび鉄道の駅なのでまだありますが、もう片方の知内駅は北海道新幹線の開業に伴い廃止されているため、今はもうありません。青函トンネルができる前の国鉄時代は、木古内駅から先は江差線の他に松前線も松前駅まで続いていましたが、国鉄民営化後の昭和63(1988)年2月には廃止にされています。駅名標下には当時の写真が展示されています。
また、当時使用されていた行き先サボも展示されています。
在来線時代の青函トンネルを通った快速『海峡』のサボをはじめ、江差線のサボなどが展示されています。江差線に使われていたサボはキハ40系に装備されていた他、それより古いディーゼルカーにも装備されていたことを考えれば、時代を感じさせますね・・・。
木古内駅から海の方へ歩いてみます。
すると、あたり一面に津軽海峡が広がっています。ここは『みそぎ浜』という場所で、毎年1月になると『寒中みそぎ祭り』という木古内町の伝統神事が行われます。これは、天保2(1831)年1月15日に神社守の夢枕に『御神体を潔めよ』というお告げがあり、御神体とともに佐女川の氷を砕いて身を切るような冷水で身を清めた後、この浜で海中沐浴を行ったのが始まりです。そのため、村の豊漁豊作が続いたことから、このような祭りが今でも開催されています。
みそぎ浜では津軽海峡や函館山、天気の良い日には青森県の下北半島や津軽半島が眺められます。
さて、朝の散歩をしているうちに道の駅が開きました。
道の駅きこないは朝9時に開店します。
ここで朝ごはんを食べてから出発しようと思います。ここの道の駅は、駅からすぐ近い場所にあるため、買い物や食事ができます。
朝食は、カレーパンにフライドポテト、塩ラーメンをいただきました。
いずれも北海道名物のものばかりです。テラスでの食事は心地よいです。しかも海に近いのか潮の匂いがします。
ビクティニ:今日はどこにいくのかな?
ミュウ:松前の方へ行くって言ってたね
ゴンベ:うまいっぺ~!
にょろもう:ポテト美味しい!
ビクティニポンチョのピカチュウ:このラーメンさっぱりしていて美味しい!
道の駅でレンタカーを借りてドライブ旅をします。
松前へ向かう前に、『サラキ岬』にも寄り道してみましょう。
『サラキ岬』は、木古内駅から東へ6kmほど行った海岸線にあります。5月になるとここのチューリップが花を咲かせ、北海道の春を感じさせます。
チューリップ畑の向こうには『咸臨丸(かんりんまる)』のモニュメントが展示されています。ここでチューリップの花壇が整備されているのは、かつて咸臨丸がオランダで建造された縁からなのだそうです。毎年5月になると、チューリップの開花を迎え、数万球のチューリップで春の北海道を彩ります。
サラキ岬は、『咸臨丸(かんりんまる)』の最期を迎えた場所でもあります。
『咸臨丸』は安政4(1857)年、オランダで建造された日本初の軍艦で、幕末の混乱する安政7(1860)年、初の太平洋横断の快挙を成し遂げ、日本近代化の一躍を担いました。晩年は数奇な運命をたどり、蝦夷地開拓移民を乗せた咸臨丸は、明治4(1871)年には、ここサラキ岬の沖で座礁沈没し、栄光と悲劇の幕を閉じたのです・・・。
ビクティニ:この下にカンリンマル?が眠っているのね・・・・。
ここで多くの人たちが亡くなっちゃったのかな・・・南無三・・・。
日本の近代化と蝦夷地の開拓を支えてきた咸臨丸の詩も詠まれています。日本の文化と蝦夷の未来を運んできた栄光の思い出を刻み、この海の底で静かに眠っていることでしょう・・・。
さて、気を取り直して松前方面へ車を走らせます。
木古内から松前までは概ね西方向へ60km弱・・・。国道228号線にて車で行くと約60~70分くらいです。福島町を通り過ぎたあたりから進行方向左側には津軽海峡が見える景観です。晴れの日にドライブするととても楽しい気分です。
松前方面へ車を走らせていると、小さな展望台のような場所が見えてきました。
そう、ここは北海道最南端の岬『白神岬』です。
『北海道最南端』と刻まれた石碑が立派です。松前方面へ行った途中にあり、白神岬トンネルの東側を抜けたあたりの場所に展望台がありますが、実際の最南端は灯台真下にあります。ここは国内でも有数の渡り鳥の中継地点であり、越冬のために本州へ渡る鳥、あるいは春にシベリアへ渡る鳥が渡ります。ウミネコが見られる他に、メジロやシジュウカラ、ハヤブサなどの鳥も観察できます。
ちなみに『白神岬』という地名は、アイヌ語で『シラル・カムイ』(sirar・kamuy=神が住む岩/シラル=岩・平磯・岩礁、カムイ=神)、あるいは『シラル・トウカリ』(sirar・tukari=岩の手前/トウカリ=の手前)という由来から来ているそうです。
ビクティニ:ここは『白神岬』という場所みたい。
ミュウ:目の前が津軽海峡なんだね!
岬から海を見てみると目の前には本州の津軽半島が見えます。
津軽海峡を越えた津軽半島の竜飛岬までは19.2kmほど離れています。そして、この真下を北海道新幹線、すなわち青函トンネルが通っているというわけです。この海峡の下にトンネルを通したことを考えれば、青函トンネルの工事がいかに過酷だったかが伺い知れます。
ビクティニ:向こうに本州が見える海峡とはいえ、とても深そうに見える・・・。波もすごいなあ・・・。
ミュウ:この下に新幹線が通っているなんて考えられないよね・・・。
さて、木古内から1時間弱・・・、松前公園(松前城)に到着しました。
松前城の入り口の1つである『馬坂』から入ります。この入口では太鼓橋になっていて、この下に大松前川が流れています。
坂の道端に植えられた桜は見事な開花を見せてくれます。
ここが『馬坂』という名前になったのは、江戸時代に松前藩士が登城したとされるこの場所は『数馬坂(かずまさか)』と呼ばれたのが縮まり、今の馬坂と呼ばれるようになったといわれています。
松前家五世こと藩主松前慶廣の四男・数馬之介由広が大坂冬の陣(1614年)が起きる直前に慶廣の意に反して豊臣秀吉側につこうとしたことから、家臣におそわれた場所でもあるという皮肉な場所でもあります。
かつて城内に通じる坂は5つあり(馬出口・天神坂・馬坂・湯殿沢口・新坂)、そのうち『馬坂』もその1つです。
ビクティニ:ここの桜はとても綺麗に咲いているよ!
ミュウ:きれいだね・・・
北海道で唯一存在する日本名城とされる松前城はもともと『福山城』というお城だったのです。
ちなみに広島県にも福山城とありますが、そのお城とは別物です。
これは先日訪れた五稜郭と同様、嘉永2(1849)年、幕府が蝦夷地近海に出没する外国船に脅威を感じ、17世崇廣(たかひろ)に北方警備の重要性ならびに要害を固めるため、幕府が特旨をもって築城を命じられました。高崎藩の兵学者市川一学の設計および家老松前こと蔵廣当(くらまさひろ)を総奉行として工事を嘉永3(1850)年に着工し、安政元(1854)年に完成した、国内最北にして最後の日本式城郭でもあります。
松前城(福山城)の石垣と桜の風景も道南の春の風物詩の1つです。
松前城の石垣に使われている石は『神明石切り場』から産出された緑色凝灰石で、切込接で積み上げられています。
松前城の塀です。
石垣の上に建つ塀は木材でできています。お城ではおなじみの丸や三角の穴の鉄砲狭間も設けられています。
松前城の本丸と桜との組み合わせはとても絵になります。
まさしく道南の春ならではの景観です!
松前城は、『本丸』『二の丸』『三の丸』からなり、本丸東南隅には三層の天守が築かれています。
楼櫓6箇所、城門16箇所を備え、三の丸には海に向けて7基の砲台が置かれていました。天守は独立式層塔型三重三階で、天守や櫓、門の屋根には、寒さで凍み割れやすい粘土瓦のかわりに銅板を葺いているのが特徴的です。城郭構造は平山城で、城跡は国の史跡に指定されています。
箱館戦争では、明治元(1868)年11月5日に土方歳三が率いる旧幕府軍によって攻め落とされたものの、その翌年に新政府軍によって侵略されました。明治維新後、天守などを除く城の大半が解体されましたが、天守だけは国宝保存法に基づく国宝に指定されました。ところが、戦後の昭和24(1949)年には焼失してしまいます。そのため、創建当時から現存する建造物は切妻造りの本丸御門、本丸表御門玄関および旧寺町御門のみとなっており、いずれも国の重要文化財に指定されています。
現在の天守は当時と同じく独立式層塔型三重三階で、昭和36(1961)年に鉄筋コンクリート造りで再建され、外観は焼失前の姿を忠実に復元されています。
ビクティニ:本丸に植えられた桜はきれいに咲き誇っているぞ(・∀・)
ミュウ:今日は晴れていて、まさにお花見日和だね~(*^^*)
搦手二ノ門は、二の丸へ至る重要な門としての役割を担っていました。
この門の扉に銅板が張られ、扉のすぐ横に塀が設けられ、狭間も設けられているため、かなり厳重に守られていたことが伺えます。この門は平成12(2000)年に木造で復元された高麗門です。
松前城資料館の入り口です。
天守自体が資料館になっており、松前城や松前藩に関する資料や展示物などが見られます。入り口の石碑には松前町出身の書家こと金子鷗亭先生による『松前城』の文字が刻まれています。
入り口で入場券を購入したら地下から見学します。
資料館内では、様々な遺物が展示されています。
磁器から杯、目録、掛け軸、扇子などの遺物が発見されています。福山城跡(松前城)から出土された陶器は中国製のものをはじめ、伊万里焼、瀬戸・美濃焼、唐津焼などの磁器が使われていたようです。日本における磁器はもともと中国からの移入に頼っていました。ところが、豊臣秀吉の文禄・慶長(けいちょう)の役で朝鮮半島から連行された陶工の技術によって現在の佐賀県有田町で初の国産磁器が作られ、それらを伊万里の港で積み出したことから、いわゆる『伊万里焼』のはじまりです。それらはここ松前にも運ばれていたといいます。
資料館内では、『松前屏風』も展示されています。
18世紀中頃の松前城下の秋を描いたものとされています。当時の松前藩の財政基盤は、松前城下に出入りする船舶からの徴税や蝦夷地各場所の経営を請け負わせた商人から納められる運上金(うんじょうきん)によって成り立っていたといいます。
松前町は、北海道最南端の自治体で、西側には日本海、南側には津軽海峡に面しています。また、対馬海流の影響を受けているため、気候は北海道の中でも温暖な環境です。
北海道松前町と福島県伊達市(旧梁川町)とのまちは、昭和59(1984)年に姉妹都市となっています。
これには『松前藩を通じての歴史的絆をもとに、両町は経済・文化・観光の各分野で交流と親善を深めます』と盟約書にあるように、古くから様々な分野で交流を深めてきた関係でもあります。
江戸時代の後半期の日本では、外国船の出没という危機にさらされている中、蝦夷地におけるアイヌ民族との衝突など、広大な蝦夷地で松前藩だけでは治めるのには困難だったといいます。しかし、後に様々な書籍によって松前藩の内情が暴かれ、幕府による対ロシア政策の強化に伴う蝦夷地直轄の動きから、松前藩は段階的に領地取り上げられます。日本海側で『西蝦夷地』、太平洋側で『東蝦夷地』に分けて領地経営が行われました。
天守の3階には、廃城から復興までの当時の様子が撮影された福山城(松前城)の古写真が展示されていました。
天守自体こそ残存していたものの一時期は小学校や公会堂の敷地内に転用されたことがあったようです。昭和24年の大火の後は次第に復興が進み、昭和30年代には復元されていきました。そして、松前城は現在の形で元の姿を保っています。
松前城の天守からは松前町と津軽海峡の景色が見えます。
まるで北海道とは思えないほどの風景です。山と海に囲まれた町という感じです。桜の咲いている風景もまたいいものです。
松前公園の桜はとても見事に咲いています。
特に八重桜は鮮やかなピンク色で道南の春を彩っています。
ここは、北海道の中でも温暖な環境にあるため、『日本さくら名所百選』に選出された桜の名所です。しかも、松前の桜は種類がとても多く、4月下旬から5月中旬頃にかけて、250種1万本の桜の開花が楽しめます。ここのさくら園に植えられている桜には『松月』『麒麟』など様々な品種名が付けられています。
ビクティニ:ここでは桜がたくさん咲いているよ。
ミュウ:きれいだね。本当にお花見に来たみたい。
『大山桜』は、北海道の山野でよく見かける代表的な桜です。
ここ松前で咲く大山桜は染井吉野(ソメイヨシノ)より早く咲き誇るため、浅利政俊氏および松前町桜保存子ども会では、昭和30年代に紅色が濃い松前神社裏にあった木や昭和7(1932)年植栽の厚岸国泰寺『老桜樹』由来の木などから種を採取し育成したものが松前公園に植えられています。この時の桜が同公園の『大山桜』の主体となっています。
この『大山桜』は別名『蝦夷山桜』ないし『紅山桜』、北海道から九州にわたり分布している他、サハリン南部でも分布しています。花径は3.2~4.2cmと大きめ、一重咲き、『山桜』より紅色が濃いのが特徴です。
天守から15分程歩いた場所に『松前藩屋敷』があります。
松前城の敷地内はこれまた広く、天守からここまでは1.5kmほど離れています。
松前は北海道唯一の城下町で、幕末期に6千人あまりの人口がありました。近江商人や北前船により、日本海沿岸から瀬戸内地方にわたる港間で盛んに交易が行われ、主に昆布やニシンなどの蝦夷産の物資が移出され、本州からも味噌や米などの物資とともに、方言や食文化などの移入など、大いに栄えてきました。
ところが、箱館戦争に入ると城下の3分の2が焼失。廃藩後は士族や商人が離散し、さらに幾度の火災によってかつての街並みは失われていったのです・・・。
そして、当時の松前の歴史を後世に伝えるべく、かつて栄えた往時の特色のある14棟を復元(再現)し、平成3(1991)年に整備されたのが現在の『松前藩屋敷』なのです。
ビクティニ:なんか昔に行った日光みたい・・・。
ミュウ:江戸時代の町並みだったからね。
蝦夷地に出入りする船改め、積荷、出入り人を改め、税役を徴収するための役所で、奉行の他に、吟味役、吟味下役、小使、足軽、手代などの役人が配置されていた場所です。
城下町ならどこにでもあった商家は時代系の映画やドラマなどではよく見かけます。
松前城下にあった商家は、近江や北陸地方出身の商人が殆どで、本州から仕入れた様々な商品を北前船に積んできてここで物を売っていたのです。今で言うなら100円ショップ、あるいはどこぞの雑貨屋みたいなものです。
商家で売られていたものといえば、大坂をはじめ北陸、新潟、佐渡、酒田、秋田、津軽(青森)などの日本海沿岸でとれた産物が多く、呉服をはじめ米や穀物、太物(綿織物など太い糸の織物)、調味料、竹細工、漆器、銅釜、瀬戸物、鉄器類、漁網、薬品、縄などを取り扱っていたそうです。また、このような店舗を張る商人の中には場所請負人となって、巨万の富を築く者もいたのだそう。
松前の城下町にも旅籠や宿屋は存在していました。
文字通り、今で言う旅館のことです。
この建物は、主に表入り口と帳場を再現したものです。これに2つの客室のみを付しているものの、本来はそれに多くの客室が続いていたそうです。この旅籠は丁や越後屋で復元したものです。
旅籠に泊まる宿泊者は『宿帳』に生国、住所、氏名、年齢、職業、旅行の目的などを記入すつことが義務付けられていました。これは、今のホテルや旅館のチェックインとほぼ同じシステムですね。他にも人馬継立てなどのあっせんもしていたようです。
旅籠の客室です。部屋の中は広く、火鉢や屏風などがおいてあるのが気品を感じさせます。かつては多くの旅人たちが寛いでいたのでしょうか。
これは髪結(かみゆい)といいます。
近世時代の当時、文字通り男性は必ず髪を結い、女性の多くは島田髪を結っていたのです。今で言う床屋さんみたいなものです。
髪の場合は、月代を剃って髪を『固め髪』に仕立てるのが主流だったようです。
そのような作業は個人ではできないことから髪結に行き、男性の月代剃りや髪結いは男性の床屋が行い、女性の髪結いは女性が行っていました。また、店には待合室があり、待合の合間に将棋やお話をする社交場でもあったそうです。
松前藩内三湊(松前、江差、箱館)では、沖之口奉行所に従属する三つの問屋制度があったといいます。
この問屋では、松前から出入りする船の積荷の取り扱いをして二分の口銭をとり、その積荷の内容を奉行所に申告し、廻し船の手配を行う業務をしていたのです。また、その問屋は株式性であるため、松前において10~15軒程の問屋があったことから、荷捌きや廻し船で賑わっていたようです。
藩時代の民家は居間と寝室のみの二部屋程度の棟割長屋のものが多かったのです。
当時は水道の代わりに井戸水を汲んだ水甕(みずかめ)が使われ、居間には囲炉裏が用いられた、いわば典型的な『庶民の民家』というイメージです。屋根は石置屋根で長家の奥に井戸があり、そこで食器洗いや洗濯をしていたようです。
松前における自身番小屋は、火の見番所だったのです。
そのため、番所内には火の見番が常駐しており、夜になると拍子木をカチカチ鳴らしながら「火の用心」と叫びながら見回っていた光景が当たり前のように見られたといいます。ただ、松前においては海岸線に位置しているため風に強く、一度出火すれば消火が難しい環境であり、延焼しそうな民家を潰す『破壊消防』が主な消火活動だったそうです。緊急時とはいえ、当時の防災方法がいささか破天荒だったんですね・・・。
この漁家は、松前の中流漁家を表現したもので、長柾葺に板シャクリ(板外壁)、石置屋根でできています。
漁家は、文字通り漁に使う用具の集積および漁網の修理の作業を便利にするために、土間を通し庭にしています。松前の場合、中流漁家は磯舟あるいは保津船を持ち、にしん刺し網五反、一反は網の長さ二丈七尺(約8m10cm)、深さ十尋(約18cm)を一放としたものをもってニシン漁を行い、2・3人の出稼者を使用し、一漁期およそ三〇漁程度の利益があったそうです(当時、江戸庶民の年間生活費は十両程度であった)。
松前藩の家臣は、寄合、準寄合の重臣から、中書院席、中ノ間席、御先手組席の士分の侍が待機する広大な屋敷を構えていました。
松前の町に構える武家屋敷は、藩士籍の最末席の御先手席組(百十石高)家臣の屋敷を再現したものです。屋敷内には武家門をはじめ、武者堀を配置した屋敷には式台、茶の間、台所、来客の間を配置しています。本来の武家屋敷にありがちな家人の居室や寝室、土間は最初から配置されていないようです。
中庭に咲く枝垂れ桜が見事に咲き誇っています。
枝垂れ桜を見ながら団子を食べるのは、まさしくお花見の風物詩です。近くに売店があり、休憩ができる他、名物の松前漬けまで売られていました。
ビクティニ:城下町に団子は美味しい!
ミュウ:コーヒーも美味しい!
松前公園には、城跡や藩屋敷がある他、神社やお寺も点在しています。
松前神社も松前城にある神社の1つで、武田信広を祭神とする神社です。明治12(1879)年、地元から武田信広を祭神とする神社の創建の願いが開拓使に出され、旧松前城北の丸を境内地として建立されました。いわば、ここは松前藩の先祖である武田信広をまつった神社なのです。
ビクティニ:世界が平和になりますように・・・
ミュウ:2人で楽しく旅行ができますように・・・
さて、ぼちぼち帰宅するため、木古内駅へ車を走らせます。
途中で、北海道新幹線の見える『道の駅しりうち』でしばしの休憩です。
展望台があるので上がってみると、そこから北海道新幹線の線路が見えます。そして、この先には『青函トンネル』の入り口が見えます。青函トンネルは青森県東津軽郡今別町と北海道上磯郡知内町を53.8kmで結ぶ海底トンネルで、昭和36(1961)年より工事が始まり、27年間の大工事にかけて昭和63(1988)年3月13日に開通しました。
津軽海峡の真下を通る海底トンネルというだけあり、海面より240メートル(そのうち海底まで100メートル、海底からトンネルまで140メートル)を通過します。これは、日本一・・・もとい世界一の海底トンネルとも言われています。このトンネルが開通するまでは、『青函連絡船』を利用して列車を本州と北海道を行き来していましたが、昭和29(1954)年の『洞爺丸事故』を機に青函トンネルの建設のきっかけになったと言われています。開業当初は『津軽海峡線』という在来線でしたが、このトンネルの設計にあたってはすでに新幹線が通れるような設計が施されているため、のちに新幹線用のレールも敷設されます。平成28(2016)年に北海道新幹線が開業すると、『津軽海峡線』および『北海道新幹線』の共用が運用され、新幹線の他に貨物列車も通過します。
なお、道の駅の近くにあった知内駅は新幹線の開業に伴い廃止となり、今は貨物列車退避用の信号場になっています。
ということで、レンタカーを返却し木古内駅から新幹線で帰宅します。
これにて今回の旅行は終わりです。
長い間ご閲覧いただき、ありがとうございました。
ビクティニ:なんとか間に合ったよ!
ミュウ:道南だけなのに松前からここまで戻るのに結構時間かかったね。本当に北海道は広いよね~。
16:33 木古内駅を出発したはやぶさ40号は青函トンネルに吸い込まれるよに進んでいき、北海道を後に本州へ駆け抜けてゆきます。そして、3月の東北地方の地震ということもあり、速度を落としつつ無事に帰路についたのでありました・・・。
ビクティニ:さらば北海道・・・。
ミュウ:桜がきれいだったよ・・・。
『GW青森&函館旅』篇 おしまい