皆さんこんにちは。
今回は、函館市内の観光として、春の『五稜郭』を散策し、函館近郊にある寝台列車に宿泊してきました。
ということで、湯の川温泉に宿泊し、毎度おなじみの市電で五稜郭公園へ行きたいと思います。
やってきたのは、やはり小さくてレトロな1両の路面電車。これで五稜郭公園へ向かいます。
路面電車で15分ほど、五稜郭公園にやってきました。
五稜郭タワーには鯉のぼりが飾られています。この時期は桜が咲いているはずなのですが、このあたりの桜はすでに散りかけています。
ビクティニ:下から見ると五稜郭タワーが大きい!
ミュウ:桜はもう散っちゃったのかな・・・
タワーの入り口近くの交差点に函館商業高校の石碑が鎮座しています。
『五稜の丘よ私達に』というメッセージが刻まれています。
ということで、上空から見た五稜郭を見るべくタワーの展望台まで行ってみましょう。
展望台へは、エレベーターで一気に昇ります。
エレベーターから出ると目の前には星型の五稜郭が広がります。
五稜郭は、『箱館御役所』の移転とともに造られたもので、今や函館を代表する観光地です。
このように、星型の五稜郭ができたのは徳川幕府の『鎖国政策』の背景にあった時代のことです。嘉永6(1853)年、当時はペリー艦隊の来航、いわば『黒船来航』により、徳川幕府は200年余りの歴史を刻み幕を閉じました。こうした米国(アメリカ)側の開国要求に屈し、翌年の安政元(1854)年・・・食料や薪水などの欠乏品の補給および遭難民の保護・引き渡しを保障する『日米和親条約』を締結。伊豆の下田とここ函館(当時は『箱館』)を『開港場』として、同年に米国につづき、英国(イギリス)、ソ連(ロシア)とも同様の和親条約を締結しました。
開港をを目前に、開港の場となる箱館において徳川幕府は外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当する『箱館奉行』が配置されます。しかしながら、当初は役者や役宅が集まる市街地に配置され、港に近いことから寒気が厳しいなどの生活環境ならびに上陸してきた外国人に役所が見透かれるなどの問題があること、そして艦隊から標的にされやすい場所にあることことから、いずれも内陸の平坦部へ移転することとなります。その時に、四方に土塁を巡らした中に役所が建てられ、付近の川から水流を引き込み周囲を水堀で囲むような形態で計画されることとなったのです。
設計は、当時、幕府の蝦夷地巡検に同行していた『蘭学者』こと武田斐三郎が担当し、移転計画の際に役所の外郭施設である『土塁』の設計を幕府から命じました。武田斐三郎は、箱館に入港していたフランス軍艦の軍人からの情報や教授をもとにヨーロッパで発達した『城郭都市』をモデルに土塁が設計されました。これは、近世ヨーロッパにおいて銃や大砲などの火器の発達に対抗するため、考案された土木技術でフランス軍人からの助言に独自の工夫が加えられたといわれています。
こうして、安政4(1857)年に着工した築造工事は、堀や石垣などの土木工事、付近の河川から水流を引き込むための治水工事および土塁内への役所や附属施設の建築、土塁北側一帯への役宅の建築などが進められました。ほぼ工事が完成した元治元(1864)年には箱館山の山麓市街地にある旧役所が移転し、『箱館御役所(通称『箱館奉行所』)』として蝦夷地の政治を担う中心地となったのです。それが、いわゆる現在の『五稜郭』なのです。
このように、一般的に使われている『五稜郭』という呼称は、近世ヨーロッパ式城郭にある特徴的な構造『稜堡』が五箇所設置されている五稜星型の平面形状からの通称のことで、当時の築造場所の地名『柳野』より『柳野城』という別称もあったといいます。
ビクティニ:星型の五稜郭だ!桜は散りかけているものの、まだ花は残っているみたいだ。
ミュウ:星の形が大きいね。
五稜郭の模型も展示されています。
今は箱館奉行所はもちろん土蔵や兵糧庫のみ復元されています。かつては、用人長屋や手附長屋など様々な建造物があったのが分かります。
五稜郭タワーには、ペリーの来航から幕府の廃止まで人形模型で表現されています。
安政元年に『日米和親条約』が締結され、200年以上も続いた『鎖国』は廃止され、箱館が開港されます。これは、箱館港を調査するためにやってきたペリー提督と応接役である松前藩の家老が軍艦ミシシッピ号の艦上で対面している時の様子です。
開港の場となった箱館の通りには、買い物や散歩をする外国人たちの姿が見受けられるようになります。このように、町の人々と交流し、八百屋で買った国産の野菜を頬張りながら歩いたり、木魚をたたいて陽気に踊る姿もあったそうです。
幕府が箱館および蝦夷地を治めるために任命した箱館奉行は、開拓や産業の育成を目指すとともに防備強化も計画されました。蘭学者である武田斐三郎がヨーロッパ式の城郭都市をモデルにした新たな要塞の設計図を奉行に説明しているところです。
西欧の学問を教育・研究するための機関『箱館諸術調所』には、日本各地より学問を志す若者たちが集まるようになります。教授である武田斐三郎は、航海学、測量術、造船、化学などの専門的な技術や知識を熱心に教え、明治の指導者たちの育成として成り立っていきました。
かくして、安政4(1857)年、五稜郭の築城工事が始まりました。土木工事および石垣の工事、役所の建築など、各地から集った職人や多くの労働者の努力によって着工から七年後の元治元年には箱館奉行所が移転、五稜郭は蝦夷地の政治・外交・防衛の中心となったのです。
旧幕府海軍の副総裁榎本武揚(えのもとたけあき)は、徳川家臣による蝦夷地の開拓を目指して、大政奉還により仕事を失った旧幕府の家臣らを戦艦に乗せて江戸湾を脱走していきました。江戸城無血開城ののち、幕府の海軍として活躍していた榎本武揚は、それに納得がいかず、新政府に対抗するべく、蝦夷地へ向かいます。これは明治元(1868)年10月20日(新暦12月3日)、箱館の北方にある鷲ノ木沖に到着した彼らは吹雪の中で上陸し、五稜郭を目指す様子です。また、途中の東北で土方歳三(ひじかたとしぞう)と合流することになります。
旧幕府脱走軍は箱館へ亡命する途中で、新政府軍の軍隊である箱館府兵らの攻撃を受けるも打ち破ります。これによって箱館府知事は青森へ退却。これは10月26日(新暦12月9日)、無人となった五稜郭を占領した脱走軍は『日の丸』の旗を先頭に入城する様子です。
これは、脱走軍が箱館に上陸してきた時の様子です。その時、松前藩に平和共存を提案するも、松前藩は戦う姿を見せたことから、陸軍を派遣し浄化を占領しました。松前藩の新しい砦である館城も脱走軍の攻撃を受け、まな板を盾代わりに奮闘する三上超順ら松前藩兵の激しい抵抗もむなしく攻め落とされています。
さらに松前藩を攻撃する陸軍を海から支援するべく出撃した旧幕府軍の軍艦『開陽』は、冬の日本海の嵐によって、江差港で座礁してしまいました。これは、陸軍を率いて江差に到着した土方歳三が、荒波によって砕かれていく『開陽』を見て言葉も何もなくただただ立ち尽くしている様子です。それをみて歳三は無念さを感じたのでしょうか。
しかしながら、軍艦がなくなっても松前藩を撃破します。全蝦夷地を手にした脱走軍は、明治元(1868)年12月15日(新暦1月27日)、箱館港にて101発の大砲を発泡し、勝利を祝いました。彼らは選挙(入札)によって、榎本武揚を総裁とする仮の政権を樹立しました。
しかし、そんな祝も束の間の明治2(1869)年4月9日(新暦5月20日)、新政府軍による反撃が始まります。日本海側に面する乙部の海岸より上陸してきた新政府軍は陸軍を三つに分け、三方より脱走軍の本拠地である箱館・五稜郭へ向けての進撃が始まります。
箱館への最短ルートである江差山道では、脱走軍陸軍奉行並である土方歳三の率いる部隊が陣地を築きます。押し寄せる新政府軍の部隊を迎え撃ち、激しい銃撃戦で撃退します。しかしながら、新政府軍は他の2つのルートで勝利を収めたことで、増援部隊とともに五稜郭へ迫っていきます。
5月11日(新暦6月20日)、ついに箱館や五稜郭を包囲した新政府軍は、総攻撃を始めます。崖を登り箱館山の裏側から攻め込んできた新政府軍による怒涛の進撃によって箱館の街は占拠されてしまいます。それを知って土方歳三は箱館の奪回に向かうも、銃弾を受け戦死してしまいました。
新政府軍の一隊が脱走軍の入院する箱館病院にも容赦なく突入を図ります。しかし、入院長であった高松凌雲は、身動きが取れない病人やけが人の命を助けるべく、赤十字精神の大切さを訴えました。これにより、新政府軍の薩摩藩兵も患者たちを救うことを約束し、この後、高松凌雲を通して脱走軍に降伏を勧めます。
5月17日(新暦6月26日)、榎本武揚ら脱走軍の幹部は、新政府軍の陣地に出頭し亀田八幡宮の神前で降伏を誓いました。翌日、彼らは五稜郭を明渡し、箱館戦争は終結しました。ここに幕末維新の動乱は終了し、明治時代が本格的に動く出すことになります。これが、明治時代の幕開けとも言えるべき光景ともいえるでしょう・・・。
箱館戦争が終わった後、五稜郭の濠では、冬期の間に天然氷の切り出しが行われ、明治4(1871)年には本州へ送られ、『五稜郭氷』の名で売り出すほどの産業にまで発展しました。また、大正3(1914)年には公園、昭和27(1952)年には『特別史跡』に指定され、激動の歴史を今に伝えています。
展望台には土方歳三ブロンズ像が鎮座されています。
五稜郭の歴史には、旧幕府軍とともに戦った土方歳三も欠かせない存在です。
新選組において副長であった土方歳三は、天保6(1835)年5月5日(新:5月31日)に武蔵国多摩郡(東京都日野市)で農家の土方隼人の末っ子として生まれます。当時の局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争において旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、また『蝦夷島政府』では、軍事治安部隊の責任者として指揮を執っていたのです。
土方歳三は新選組の厳しい掟まで作り、掟を破った者には容赦なく切腹を命じるほど。中でも新選組隊員の死亡原因として一番切腹が多かったのはそのためで、敵より身内を殺した人数の方が多かったようです。そのため、土方歳三は『鬼の副長』と呼ばれ、恐れられていたそうです。
箱館戦争では、東北の折浜(宮城県石巻市)で榎本武揚と合流し、蝦夷地へ向かいます。箱館および五稜郭を選挙した後、松前藩と対峙し松前城を陥落させ、江差まで残兵を追撃。その際、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、『開陽』で江差港へ向かうも、当時は暴風雨だったため、座礁。その姿を見た榎本と土方はあまりの無念さに大いに悔しがります。
それでも江差を占拠した土方は松前城に戻り、榎本が各国領事を招待し蝦夷地平定祝賀会を催しました。同時に選挙で榎本が蝦夷地における総裁として抜擢され、土方も幹部として陸軍奉行並となりました。
明治2年の新政府軍による箱館侵略の際、榎本とともに戦いましたが、この戦争で命を落としました・・・。しかも、享年35年という若さで亡くなったとのことです。これを機に旧幕府軍こと榎本は降伏し、幕府と維新の戦いは幕を閉じたのです。
日本における珍しい星型をした要塞は『稜堡式城郭』と言われています。
それもそのはず、真上から見ると確かに星の形をしています。
旧幕府脱走軍が江戸から脱出してきたルートです。
さて、五稜郭タワーを見たら『五稜郭公園』も歩いてみましょう。
ここは『五稜郭跡』で、いわゆる幕末における箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設です。
五稜郭は、基本的に星型の城郭と言う形ですが、よく見ると入り口には小さな三角のような地形があります。
それは、『半月堡』と言われる部分で、いわば西洋式土塁にありがちな三角形状の出塁です。またの名を『馬出し塁』ともいわれ、郭内への出入り口を侵入者(または敵)から防御する役目を担っていたそうです。
その入口に当たる石垣にも、ちょっとした工夫がなされています。
これは『刎ね出し(はねだし)』といわれるもので、『武者返しの石垣』といわれるものです。その名の通り、武者が登れない石垣で、敵や侵入者から身を守るための仕掛けですが、こちらは上部より二段目の石がせり出すように積まれているような構造になっています。敵から身を他にも、防火対策のために用いられたものだとも言われています。
半月堡を抜けると、五稜郭へのエントランスになります。
ここが『箱館奉行所』の入り口です。ここに門があるということは、恐らく当時は『詰所』として使われていたものと思われます・・・。
ビクティニ:ここが五稜郭の入り口みたいだね。
ミュウ:ここに門があるのは、昔は見張りとかいたのかな?
4月下旬から5月上旬にかけては、五稜郭の石垣と桜が楽しめます。
五稜郭こそ函館の桜スポットとしては代表的なエリアです。
さて、ここが五稜郭の目玉である『箱館奉行所』にやってきました。
箱館奉行所に入ってみましょう。
ここが玄関です。正面の式台から通じて奉行所内に入った畳敷きの場所が『玄関』になります。この玄関は、普通の家とは違う格式の高いもので、奉行の交代時および江戸幕府から明治政府への引き継ぎなどといった特別の時にしか使用されないほどだったそうです。正面にある大きな床の間は『槍床(やりとこ)』といい、槍がかけられていた場所です。
奉行所の『大広間』です。
ここは箱館奉行所庁舎の中でも特に格式が高く、床の間と異なり、棚や付書院のある壹之間(いちのま)、弐之間(にのま)、参之間(さんのま)、四之間(よんのま)の四部屋がふすまで仕切られています。このように格式が高いのは、年中行事の際の交礼でしか使われないようになっていて、役職の格によって入室できる部屋を制限していた程だそうです。
一番奥にある『一之間』は、大広間の四部屋の中でも最上位の場所です。
書院造りに違い棚がいかにも格式が高い部屋です。ここで奉行が着座し、奉行の左手に奉行所機構の第二位の組頭、右手側に第三位の調べ役が鎮座し、年中行事時に奉行所下級役人、箱館の町役人、御用達、寺社関係者などへの対面交礼、事例交付などが行われた場所です。
表屋敷は表居間(未復元)と合わせて、外国領事との応接および上級役人との交礼行事に使われていた場所です。
表居間の次の間(予備室)としての役割もあったようです。奉行が着座する背後の床の壁は、茶色塗りの大津壁となっています。
奉行所の中には『中庭』も設けられています。
中庭とはいっても、普通の庭とは違い、観賞用でなく採光や雨水処理をするために設けられたものです。これは四方の屋根から集まる雨水を溜枡(ためます)や樋(とい)を利用して大広間の床下を通し、南庭に排水する構造となっていたようです。また、ここからは『太鼓櫓』が見えます。
この部屋は調役および調役並などの役職の執務室にあたります。
調役は、箱館奉行所の役職では奉行・組頭の次に位置づけられます。ここは箱館奉行所庁舎の中では一番広い45畳の部屋になっています。
ペリー提督の来航から、箱館にも西洋文化を取り入れるようになり、初めて国際都市として発展してきたのです。その際、蝦夷地を統治するのに必要な箱館奉行が置かれることになりました。これが箱館奉行所が作られるきっかけになったのです。
こうして箱館が開港したことで、奉行所が置かれることになります。当初は、海沿いの箱館山の麓に置かれる予定でしたが、外国からの防衛策から、奉行所の移転が計画され、内陸の亀田地区に置かれることになります。それは、港から離れていることや市街地や川に近いことから、五稜郭の建設は内陸に造られ、その中に箱館奉行所が置かれることとなったのです。
函館の五稜郭はもともとヨーロッパの星型城郭がもととされていますが、世界中にはそのモデルとなった城塞都市が今でも残されているのです。
特にヨーロッパには、多くの星型城郭が残されています。こうして函館も含めて星型城郭が造られたのは、近世代のヨーロッパ諸国による植民地政策によって、世界中の色んなところに星型城郭が造られることになったのです。なお、函館にある五稜郭や西洋式台場(いわゆる函館や東京湾にある『台場』)は、西洋文化を積極的に取り組んだ国策による築造であるのが特徴です。
奉行所庁舎の建設にあたっては約3,000㎡の規模があります。
どこぞのお城と同様、奉行所の大屋根両端には鬼瓦が載っています。これは模型で実物の5分の1の大きさですが、ここまでの表現は見事です。
奉行所に設けられた『太鼓櫓』は五層造りになっており、最上部には時を知らせる太鼓が設置され、定刻には時を知らせていたようです。
当時は港が見渡せる場所にあり、太鼓櫓の屋根は銅板葺きで、箱館湾から土塁越しに太鼓櫓が見えていた場所にありました。そのため、箱館戦争の時には艦砲射撃の標的にされ、今でも軍艦からの砲弾が命中した記録が残されています。
箱館奉行所の復元にあたって古写真や文献資料などを参考に当時の姿で再現するべく、日本伝統の建築技術を駆使しています。
特に日本の建築技術として伝統的な木材の接ぎ方の手法にはこだわりが詰まっています。例えば、天井の梁には継手のようなものがあるのが分かるかと思いますが、これも伝統的な建築法の1つです。これは、あえて金具などは使わず、木材同士で組み合わせることで、本来なら隠すべき骨組みを露出しても可能なのも特徴的です。また、長さが限られている木材同士をつなぎ合わせて延長したり古くなった部分を取り替えて補強することができるのも魅力的です。
奉行所と枝垂れ桜との景観も絵になります。
やはり和の歴史的建造物と桜との調和が取れているようで、まさしく函館の桜スポットです。特に休所の前に植えられている枝垂れ桜は見事な咲き具合で昔から親しまれています。
ビクティニ:見事な桜だ!
ミュウ:弘前城の桜とどっちがきれいかな?
五稜郭を見たところで昼食にします。
五稜郭タワーの近くにある回転寿司で食事にしました。
ビクティニ:寿司うまい!!カニ汁が最高!さて、とある宿泊施設に向かうべく、函館駅から道南いさりび鉄道の列車で茂辺地駅へ行きます。
道南いさりび鉄道は、函館駅から木古内駅まで約38kmで結ぶ、北海道で唯一の第三セクター鉄道です。
函館駅を出た1両編成の列車は、函館湾を眺めながら進んでいきます。
茂辺地駅の時刻表を見てみると、概ね1~2時間毎に1本の本数で運行されています。
茂辺地駅から数分歩くと・・・・なんと『北斗星』というブルートレインが鎮座されています!
デビューから27年間、上野駅と札幌駅の1,215kmを毎日のように走り続けた寝台列車『北斗星』・・・。
昔は日本中にあった『SLホテル』で使われた客車は老朽化で取り壊されていく中、この『北斗星』に関しては新車に近いほど大変綺麗に修繕されています。
使用されていた客車は『24系』というものです。その活躍を終えた北斗星の車両はほとんどが廃車になる中、一部の車両が保存されることが決まり、ホテルないし宿泊施設として再スタートすることとなったのです。
もともと『北斗星』は昭和63(1988)年3月13日に青函トンネル(津軽海峡線)が開業したことで、東京と北海道を結ぶ寝台列車として運行されることになったのです。そして、その『北斗星』こそ当時としては豪華な内装で、ビジネスのみならず観光ニーズにも応えられる寝台列車なのです。ということで、受付にてチェックインを済ませたら車内に入ってみましょう。
ここは『スハネ25-501』の車内です。ロビーがある他、シャワー室やB個室ソロが併設されています。ただし、ソロはボストンバッグやキャリーバッグなどを保管する荷物置き場になっているようです。あとは自販機もありますが、やはり現役当時のままなのか今は使えないようです。せめて自販機も使えるようにすればもっと便利になるのですが・・・。
ビクティニ:『北斗星』の車内だ・・・。思えば、昔はこれに乗って函館に行った記憶があるんだ・・・。
ミュウ:へえ~、『北斗星』に乗ったんだ。
茂辺地に保存されている『北斗星』の客車は2両保存されています。
これが『北斗星』で使われていた『B寝台』です。
何もかもが当時の状態で保たれているのは鉄道ファンなら素晴らしい限りです。まさしく地元の人たちからのご厚意で保存されているのが分かります。もっとも私は鉄道ファンでもあるので、『北斗星』の車内でまた泊まれるのは、まさしく夢のようです。
車内の奥も見てみましょう。
ここは車掌室のようです。当時はここで車掌さんが色々案内放送をされていたでしょう・・・。
ロビーには『北斗星』が実際に活躍していた映像のDVDが見れるようになっています。
いろんな撮影場所から『北斗星』が駆け抜ける姿が収録されているのは、今となっては貴重なものです。
函館駅で撮影した『北斗星』です。
函館駅は、片方が行き止まりになっているスイッチバック仕様の駅なので、この駅で進行方向が変わります。これは、本州から走ってきた『北斗星』の機関車を交換するところです。写真に写っているのは『ED79型電気機関車』で、いわゆる青函トンネル向けの電気機関車です。
上野駅から函館駅までの東北本線、いわて銀河鉄道線、青い森鉄道線、津軽線(津軽海峡線)、江差線では電気機関車で運行されていました。
使用される電気機関車は『EF81型』が使用され、東北本線では黒磯までは直流区間で黒磯以北は交流区間で電化されています。それらの区間によって使用される電気機関車は限られていますが、『EF81型』は交直両用の電気機関車です。そのため『北斗星』をはじめ上野から東北方面へ行くブルートレインでは重宝されていました。また青森~函館間は『ED79型』という電気機関車が使用されることがあったようです。なお、2010年代では『EF510型』が使用されていたようです。
函館駅から先の北海道内では『DD51型』のディーゼル機関車が重連で牽引されていました。
このディーゼル機関車は『北斗星』の他に『トワイライトエクスプレス』や『カシオペア』の牽引でも大活躍していました。そして、寝台列車の運用が終了した後はミャンマーへ譲渡されたようです。
引退した後、当面の間はJR北海道の苗穂工場で保管されていましたが、保存が決まるとトレーラーで運ばれます。
保存および輸送が行われる際は、本当に大掛かりな作業だったかと思います。客車1両は長さ20メートルもあるので、札幌からここまで運ぶだけでも大変だったかと思われます。トレーラーで保存先へ運ばれた後、改修や再塗装が施されます。
『北斗星』の窓から見る夕暮れの景色はとても綺麗です。
車内のロビーで食べるお弁当も美味しいものです。
周辺には飲食店は少ない(無い)ので、食事は自分たちで用意しておくといいでしょう。今回は函館駅のお弁当屋で購入したお弁当を夕食にしました。
ビクティニ:昔は食堂車で食事したのが懐かしい。
ミュウ:美味しい!
ゴンベ:このお弁当うまいっぺ!
にょろもう:美味しい!日が暮れて夜になるとあたりは静かになります。
外から『北斗星』の客車を見るとまさしく往年の寝台列車を彷彿させられます。当時は上野と札幌を結ぶ寝台列車として活躍していたと思うと、勇ましい姿だったことでしょう・・・。
GW青森・函館旅5日目 終わり
最終日へ・・・