ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

【GW青森&函館旅5日目】函館観光 五稜郭を散策&寝台特急“北斗星”に宿泊!

皆さんこんにちは。

今回は、函館市内の観光として、春の『五稜郭』を散策し、函館近郊にある寝台列車に宿泊してきました。

 

市電で五稜郭へ

ということで、湯の川温泉に宿泊し、毎度おなじみの市電で五稜郭公園へ行きたいと思います。

やってきたのは、やはり小さくてレトロな1両の路面電車。これで五稜郭公園へ向かいます。

 

五稜郭タワー
路面電車で15分ほど、五稜郭公園にやってきました。

五稜郭タワーには鯉のぼりが飾られています。この時期は桜が咲いているはずなのですが、このあたりの桜はすでに散りかけています。

ビクティニ:下から見ると五稜郭タワーが大きい!

ミュウ:桜はもう散っちゃったのかな・・・

 

五稜郭の石碑

タワーの入り口近くの交差点に函館商業高校の石碑が鎮座しています。

『五稜の丘よ私達に』というメッセージが刻まれています。

 

タワー展望台から見た五稜郭

ということで、上空から見た五稜郭を見るべくタワーの展望台まで行ってみましょう。

展望台へは、エレベーターで一気に昇ります。

エレベーターから出ると目の前には星型の五稜郭が広がります。

五稜郭は、『箱館御役所』の移転とともに造られたもので、今や函館を代表する観光地です。

このように、星型の五稜郭ができたのは徳川幕府の『鎖国政策』の背景にあった時代のことです。嘉永6(1853)年、当時はペリー艦隊の来航、いわば『黒船来航』により、徳川幕府は200年余りの歴史を刻み幕を閉じました。こうした米国(アメリカ)側の開国要求に屈し、翌年の安政元(1854)年・・・食料や薪水などの欠乏品の補給および遭難民の保護・引き渡しを保障する『日米和親条約』を締結。伊豆の下田とここ函館(当時は『箱館』)を『開港場』として、同年に米国につづき、英国(イギリス)、ソ連(ロシア)とも同様の和親条約を締結しました。

開港をを目前に、開港の場となる箱館において徳川幕府は外国との交渉や蝦夷地の防衛などを担当する『箱館奉行』が配置されます。しかしながら、当初は役者や役宅が集まる市街地に配置され、港に近いことから寒気が厳しいなどの生活環境ならびに上陸してきた外国人に役所が見透かれるなどの問題があること、そして艦隊から標的にされやすい場所にあることことから、いずれも内陸の平坦部へ移転することとなります。その時に、四方に土塁を巡らした中に役所が建てられ、付近の川から水流を引き込み周囲を水堀で囲むような形態で計画されることとなったのです。

設計は、当時、幕府の蝦夷地巡検に同行していた『蘭学者』こと武田斐三郎が担当し、移転計画の際に役所の外郭施設である『土塁』の設計を幕府から命じました。武田斐三郎は、箱館に入港していたフランス軍艦の軍人からの情報や教授をもとにヨーロッパで発達した『城郭都市』をモデルに土塁が設計されました。これは、近世ヨーロッパにおいて銃や大砲などの火器の発達に対抗するため、考案された土木技術でフランス軍人からの助言に独自の工夫が加えられたといわれています。

こうして、安政4(1857)年に着工した築造工事は、堀や石垣などの土木工事、付近の河川から水流を引き込むための治水工事および土塁内への役所や附属施設の建築、土塁北側一帯への役宅の建築などが進められました。ほぼ工事が完成した元治元(1864)年には箱館山の山麓市街地にある旧役所が移転し、『箱館御役所(通称『箱館奉行所』)』として蝦夷地の政治を担う中心地となったのです。それが、いわゆる現在の『五稜郭』なのです。

このように、一般的に使われている『五稜郭』という呼称は、近世ヨーロッパ式城郭にある特徴的な構造『稜堡』が五箇所設置されている五稜星型の平面形状からの通称のことで、当時の築造場所の地名『柳野』より『柳野城』という別称もあったといいます。

ビクティニ:星型の五稜郭だ!桜は散りかけているものの、まだ花は残っているみたいだ。

ミュウ:星の形が大きいね。

 

五稜郭の模型
五稜郭の模型も展示されています。

今は箱館奉行所はもちろん土蔵や兵糧庫のみ復元されています。かつては、用人長屋や手附長屋など様々な建造物があったのが分かります。

 

ペリー来航の様子
五稜郭タワーには、ペリーの来航から幕府の廃止まで人形模型で表現されています。

安政元年に『日米和親条約』が締結され、200年以上も続いた『鎖国』は廃止され、箱館が開港されます。これは、箱館港を調査するためにやってきたペリー提督と応接役である松前藩の家老が軍艦ミシシッピ号の艦上で対面している時の様子です。

 

開港後の箱館の様子

開港の場となった箱館の通りには、買い物や散歩をする外国人たちの姿が見受けられるようになります。このように、町の人々と交流し、八百屋で買った国産の野菜を頬張りながら歩いたり、木魚をたたいて陽気に踊る姿もあったそうです。

 

箱館奉行の様子

幕府が箱館および蝦夷地を治めるために任命した箱館奉行は、開拓や産業の育成を目指すとともに防備強化も計画されました。蘭学者である武田斐三郎がヨーロッパ式の城郭都市をモデルにした新たな要塞の設計図を奉行に説明しているところです。

 

箱館諸術調所の様子

西欧の学問を教育・研究するための機関『箱館諸術調所』には、日本各地より学問を志す若者たちが集まるようになります。教授である武田斐三郎は、航海学、測量術、造船、化学などの専門的な技術や知識を熱心に教え、明治の指導者たちの育成として成り立っていきました。

 

五稜郭築城の様子

かくして、安政4(1857)年、五稜郭の築城工事が始まりました。土木工事および石垣の工事、役所の建築など、各地から集った職人や多くの労働者の努力によって着工から七年後の元治元年には箱館奉行所が移転、五稜郭は蝦夷地の政治・外交・防衛の中心となったのです。

 

旧幕府の家臣らが脱走する様子

旧幕府海軍の副総裁榎本武揚(えのもとたけあき)は、徳川家臣による蝦夷地の開拓を目指して、大政奉還により仕事を失った旧幕府の家臣らを戦艦に乗せて江戸湾を脱走していきました。江戸城無血開城ののち、幕府の海軍として活躍していた榎本武揚は、それに納得がいかず、新政府に対抗するべく、蝦夷地へ向かいます。これは明治元(1868)年10月20日(新暦12月3日)、箱館の北方にある鷲ノ木沖に到着した彼らは吹雪の中で上陸し、五稜郭を目指す様子です。また、途中の東北で土方歳三(ひじかたとしぞう)と合流することになります。

 

松前の館城を攻める様子

旧幕府脱走軍は箱館へ亡命する途中で、新政府軍の軍隊である箱館府兵らの攻撃を受けるも打ち破ります。これによって箱館府知事は青森へ退却。これは10月26日(新暦12月9日)、無人となった五稜郭を占領した脱走軍は『日の丸』の旗を先頭に入城する様子です。

 

松前の館城を攻める様子

これは、脱走軍が箱館に上陸してきた時の様子です。その時、松前藩に平和共存を提案するも、松前藩は戦う姿を見せたことから、陸軍を派遣し浄化を占領しました。松前藩の新しい砦である館城も脱走軍の攻撃を受け、まな板を盾代わりに奮闘する三上超順ら松前藩兵の激しい抵抗もむなしく攻め落とされています。

 

軍艦『開陽』が沈没するのを見る土方歳三ら

さらに松前藩を攻撃する陸軍を海から支援するべく出撃した旧幕府軍の軍艦『開陽』は、冬の日本海の嵐によって、江差港で座礁してしまいました。これは、陸軍を率いて江差に到着した土方歳三が、荒波によって砕かれていく『開陽』を見て言葉も何もなくただただ立ち尽くしている様子です。それをみて歳三は無念さを感じたのでしょうか。

 

榎本武揚を総裁抜擢に記念撮影をする様子

しかしながら、軍艦がなくなっても松前藩を撃破します。全蝦夷地を手にした脱走軍は、明治元(1868)年12月15日(新暦1月27日)、箱館港にて101発の大砲を発泡し、勝利を祝いました。彼らは選挙(入札)によって、榎本武揚を総裁とする仮の政権を樹立しました。

 

新政府軍による反撃の様子

しかし、そんな祝も束の間の明治2(1869)年4月9日(新暦5月20日)、新政府軍による反撃が始まります。日本海側に面する乙部の海岸より上陸してきた新政府軍は陸軍を三つに分け、三方より脱走軍の本拠地である箱館・五稜郭へ向けての進撃が始まります。

 

江差山道における銃撃戦の様子

箱館への最短ルートである江差山道では、脱走軍陸軍奉行並である土方歳三の率いる部隊が陣地を築きます。押し寄せる新政府軍の部隊を迎え撃ち、激しい銃撃戦で撃退します。しかしながら、新政府軍は他の2つのルートで勝利を収めたことで、増援部隊とともに五稜郭へ迫っていきます。

 

箱館への総攻撃の様子

5月11日(新暦6月20日)、ついに箱館や五稜郭を包囲した新政府軍は、総攻撃を始めます。崖を登り箱館山の裏側から攻め込んできた新政府軍による怒涛の進撃によって箱館の街は占拠されてしまいます。それを知って土方歳三は箱館の奪回に向かうも、銃弾を受け戦死してしまいました。

 

赤十字精神の大切さを訴える高松凌雲

新政府軍の一隊が脱走軍の入院する箱館病院にも容赦なく突入を図ります。しかし、入院長であった高松凌雲は、身動きが取れない病人やけが人の命を助けるべく、赤十字精神の大切さを訴えました。これにより、新政府軍の薩摩藩兵も患者たちを救うことを約束し、この後、高松凌雲を通して脱走軍に降伏を勧めます。

 

亀田八幡宮の神前で降伏する脱走軍

5月17日(新暦6月26日)、榎本武揚ら脱走軍の幹部は、新政府軍の陣地に出頭し亀田八幡宮の神前で降伏を誓いました。翌日、彼らは五稜郭を明渡し、箱館戦争は終結しました。ここに幕末維新の動乱は終了し、明治時代が本格的に動く出すことになります。これが、明治時代の幕開けとも言えるべき光景ともいえるでしょう・・・。

 

箱館戦争後の五稜郭

箱館戦争が終わった後、五稜郭の濠では、冬期の間に天然氷の切り出しが行われ、明治4(1871)年には本州へ送られ、『五稜郭氷』の名で売り出すほどの産業にまで発展しました。また、大正3(1914)年には公園、昭和27(1952)年には『特別史跡』に指定され、激動の歴史を今に伝えています。

 

土方歳三の像
展望台には土方歳三ブロンズ像が鎮座されています。

五稜郭の歴史には、旧幕府軍とともに戦った土方歳三も欠かせない存在です。

新選組において副長であった土方歳三は、天保6(1835)年5月5日(新:5月31日)に武蔵国多摩郡(東京都日野市)で農家の土方隼人の末っ子として生まれます。当時の局長・近藤勇の右腕として組織を支え、戊辰戦争において旧幕軍側指揮官の一人として各地を転戦し、また『蝦夷島政府』では、軍事治安部隊の責任者として指揮を執っていたのです。

土方歳三は新選組の厳しい掟まで作り、掟を破った者には容赦なく切腹を命じるほど。中でも新選組隊員の死亡原因として一番切腹が多かったのはそのためで、敵より身内を殺した人数の方が多かったようです。そのため、土方歳三は『鬼の副長』と呼ばれ、恐れられていたそうです。

箱館戦争では、東北の折浜(宮城県石巻市)で榎本武揚と合流し、蝦夷地へ向かいます。箱館および五稜郭を選挙した後、松前藩と対峙し松前城を陥落させ、江差まで残兵を追撃。その際、榎本武揚は土方軍を海から援護するため、『開陽』で江差港へ向かうも、当時は暴風雨だったため、座礁。その姿を見た榎本と土方はあまりの無念さに大いに悔しがります。

それでも江差を占拠した土方は松前城に戻り、榎本が各国領事を招待し蝦夷地平定祝賀会を催しました。同時に選挙で榎本が蝦夷地における総裁として抜擢され、土方も幹部として陸軍奉行並となりました。

明治2年の新政府軍による箱館侵略の際、榎本とともに戦いましたが、この戦争で命を落としました・・・。しかも、享年35年という若さで亡くなったとのことです。これを機に旧幕府軍こと榎本は降伏し、幕府と維新の戦いは幕を閉じたのです。

 

五稜郭の概要図
日本における珍しい星型をした要塞は『稜堡式城郭』と言われています。

それもそのはず、真上から見ると確かに星の形をしています。

そもそも、星型要塞とは15世紀のイタリアから始まったとされ、いわばヨーロッパ各地に広まった築城方式であり、代表的な建築家の名から『ヴォーバン様式』とも呼ばれています。
五稜郭の広さは、外周が約1.8kmならびに敷地は約12.5ヘクタール(12万5千㎡)です。これは東京ドームの約3倍分に匹敵します。
では、なぜ五稜郭が星の形をしているかといえば、実は濠で囲んだ星型の先端に砲台が設置できるようになっているからです。これにより、蝦夷地の中心である箱館奉行所を敵から防御していたというのが想像できます。
 

旧幕府脱走軍の進軍ルート
旧幕府脱走軍が江戸から脱出してきたルートです。
8月19日に江戸を出港し、銚子沖から回ります。台風に巻き込まれつつも、宮城県の松島と石巻で土方歳三と合流した後、宮古港経由で道南の鷲ノ木に到着します。その時、旧幕府脱走軍の中には大鳥圭介も含まれており、土方歳三隊と大鳥圭介隊で分かれていたようです。さらに松前藩へ攻め込みます。しかしながら、降伏した松前藩兵に対して、藩主のもとに行くか、農民を志すか、脱走軍に参加するかを自由に選ばせたものの、みな藩主を慕って津軽へ渡っていきました。
 

五稜郭跡の入り口

さて、五稜郭タワーを見たら『五稜郭公園』も歩いてみましょう。

ここは『五稜郭跡』で、いわゆる幕末における箱館開港に伴い設置された箱館奉行所の防御施設です。
当初は、海岸防備のために数か所の台場築造に必要性を幕府に訴え、港を守るため『弁天台場』の建設が許可。これは武田斐三郎が設計し、海中の暗礁を埋め立てて大砲を備えた台場が建設され、外国船が入ってくる港の守備態勢に入ります。さらに港に近い場所に建てられた奉行所も軍艦の大砲が届かない内陸部に移転することとなります。
そこで、箱館奉行配下の諸術調所教授役の蘭学者こと武田斐三郎によって中世ヨーロッパで発達した城塞都市を参考に設計された西洋式土塁が建築されます。これは、銃や大砲による攻撃に対処するために『稜堡(りょうほ)』といわれる五つの角を持った星型の五角形を形成した、いわゆる『五稜郭』という形で呼ばれるようになります。その郭内には日本伝統建築の箱館奉行所庁舎および付属建築物20数棟が建てられました。
安政4年に築造が開始、七年後の元治元年に竣工、同年6月に奉行所が移転し、蝦夷地における政治的中心地となったのです。後に明治維新によって明治新政府の役所となりますが、明治元年10月に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠し、翌年の明治2年5月に終結する箱館戦争の舞台と化します。戦争後は、明治4年に開拓使によって郭内の建物はほとんど解体されましたが、大正時代以降は公園として開放されています。
このように五稜郭跡は、築造当時の形態が鮮明に残っており、日本城郭史上重要であるとともに、幕末期の洋学採用の一端を示すものとして学術上きわめて価値が高いことから、北海道唯一の国の特別史跡に指定されています。
 

五稜郭の『半月堡』

五稜郭は、基本的に星型の城郭と言う形ですが、よく見ると入り口には小さな三角のような地形があります。

それは、『半月堡』と言われる部分で、いわば西洋式土塁にありがちな三角形状の出塁です。またの名を『馬出し塁』ともいわれ、郭内への出入り口を侵入者(または敵)から防御する役目を担っていたそうです。

刎ね出しの石垣

その入口に当たる石垣にも、ちょっとした工夫がなされています。

これは『刎ね出し(はねだし)』といわれるもので、『武者返しの石垣』といわれるものです。その名の通り、武者が登れない石垣で、敵や侵入者から身を守るための仕掛けですが、こちらは上部より二段目の石がせり出すように積まれているような構造になっています。敵から身を他にも、防火対策のために用いられたものだとも言われています。

 

箱館奉行所の入り口
 半月堡を抜けると、五稜郭へのエントランスになります。

ここが『箱館奉行所』の入り口です。ここに門があるということは、恐らく当時は『詰所』として使われていたものと思われます・・・。

ビクティニ:ここが五稜郭の入り口みたいだね。

ミュウ:ここに門があるのは、昔は見張りとかいたのかな?

 

五稜郭の石垣と桜
4月下旬から5月上旬にかけては、五稜郭の石垣と桜が楽しめます。
石垣にこそ桜の開花と桜吹雪のコントラストが美しいものです。
五稜郭に使われる土塁や石垣には、堀割から『揚げ土』を積んだもので、土を層状に突き固める『版築(はんちく)』という工法が用いられています。
郭内への出入口となる三箇所の本塁は、一部が石垣造りになっているのが特徴。特に正面の出入口である南西側の本塁石垣は、他の場所の石垣より高く築かれており、上部に『刎ね出し』があります。また、
石垣には箱館山麓の立待岬より切り出された安山岩および五稜郭北方の山の石が用いられています。
 

五稜郭の桜

 

五稜郭こそ函館の桜スポットとしては代表的なエリアです。
五稜郭に植えられたソメイヨシノは約1千5百本あり、お花見のシーズンであるGWにはとても賑わいます。
4月下旬から5月上旬にかけて咲き誇ります。しかし、我々が五稜郭に訪れた当日は、すでに花が散りかけており、葉桜状態になっていました。
 

箱館奉行所
さて、ここが五稜郭の目玉である『箱館奉行所』にやってきました。
箱館奉行所は、日本で初めて開港の地となった函館において幕末の警備ならびに対外折衝の重責を担ってきたのです。かつては日本初の洋式城郭である五稜郭にあった奉行所の広大な建築物は、箱館戦争が終結した2年後の明治4(1871)年に解体されました。あれから約140年たち、4年間の工期をかけて、建築技術を駆使し、見事に往年の姿で再現させて完成し、当時の箱館奉行所の姿を後世に伝えています。
 

箱館奉行所 玄関

箱館奉行所に入ってみましょう。

ここが玄関です。正面の式台から通じて奉行所内に入った畳敷きの場所が『玄関』になります。この玄関は、普通の家とは違う格式の高いもので、奉行の交代時および江戸幕府から明治政府への引き継ぎなどといった特別の時にしか使用されないほどだったそうです。正面にある大きな床の間は『槍床(やりとこ)』といい、槍がかけられていた場所です。

 

箱館奉行所 大広間

 奉行所の『大広間』です。

ここは箱館奉行所庁舎の中でも特に格式が高く、床の間と異なり、棚や付書院のある壹之間(いちのま)、弐之間(にのま)、参之間(さんのま)、四之間(よんのま)の四部屋がふすまで仕切られています。このように格式が高いのは、年中行事の際の交礼でしか使われないようになっていて、役職の格によって入室できる部屋を制限していた程だそうです。

 

一之間

一番奥にある『一之間』は、大広間の四部屋の中でも最上位の場所です。

書院造りに違い棚がいかにも格式が高い部屋です。ここで奉行が着座し、奉行の左手に奉行所機構の第二位の組頭、右手側に第三位の調べ役が鎮座し、年中行事時に奉行所下級役人、箱館の町役人、御用達、寺社関係者などへの対面交礼、事例交付などが行われた場所です。

 

表屋敷

表屋敷は表居間(未復元)と合わせて、外国領事との応接および上級役人との交礼行事に使われていた場所です。

表居間の次の間(予備室)としての役割もあったようです。奉行が着座する背後の床の壁は、茶色塗りの大津壁となっています。

 

中庭

奉行所の中には『中庭』も設けられています。

中庭とはいっても、普通の庭とは違い、観賞用でなく採光や雨水処理をするために設けられたものです。これは四方の屋根から集まる雨水を溜枡(ためます)や樋(とい)を利用して大広間の床下を通し、南庭に排水する構造となっていたようです。また、ここからは『太鼓櫓』が見えます。

 

御役所調役

この部屋は調役および調役並などの役職の執務室にあたります。

調役は、箱館奉行所の役職では奉行・組頭の次に位置づけられます。ここは箱館奉行所庁舎の中では一番広い45畳の部屋になっています。

役職のランクとしては、高い順でいうと・・・
『箱館奉行』『組頭』『調役』『定役』『与力』『同心』『足軽』になります。
 

国際都市となった箱館

ペリー提督の来航から、箱館にも西洋文化を取り入れるようになり、初めて国際都市として発展してきたのです。その際、蝦夷地を統治するのに必要な箱館奉行が置かれることになりました。これが箱館奉行所が作られるきっかけになったのです。

 

五稜郭ができたきっかけ

こうして箱館が開港したことで、奉行所が置かれることになります。当初は、海沿いの箱館山の麓に置かれる予定でしたが、外国からの防衛策から、奉行所の移転が計画され、内陸の亀田地区に置かれることになります。それは、港から離れていることや市街地や川に近いことから、五稜郭の建設は内陸に造られ、その中に箱館奉行所が置かれることとなったのです。

 

世界中にある五稜郭
 函館の五稜郭はもともとヨーロッパの星型城郭がもととされていますが、世界中にはそのモデルとなった城塞都市が今でも残されているのです。

特にヨーロッパには、多くの星型城郭が残されています。こうして函館も含めて星型城郭が造られたのは、近世代のヨーロッパ諸国による植民地政策によって、世界中の色んなところに星型城郭が造られることになったのです。なお、函館にある五稜郭や西洋式台場(いわゆる函館や東京湾にある『台場』)は、西洋文化を積極的に取り組んだ国策による築造であるのが特徴です。

 

箱館奉行所の見取り図
奉行所庁舎の建設にあたっては約3,000㎡の規模があります。
内部は儀式や裁判などを行うための部屋、執務室、炊事部屋などの公的な空間、奉行とその家族が住む奥向(役宅)に分かれていたようです。
もとの規模のうち、約3分の1にあたるオレンジ色の部分だけ復元されています。
 

箱館奉行所の鬼瓦(模型)

どこぞのお城と同様、奉行所の大屋根両端には鬼瓦が載っています。これは模型で実物の5分の1の大きさですが、ここまでの表現は見事です。

 

太鼓櫓入り口

太鼓櫓の構造

 奉行所に設けられた『太鼓櫓』は五層造りになっており、最上部には時を知らせる太鼓が設置され、定刻には時を知らせていたようです。

当時は港が見渡せる場所にあり、太鼓櫓の屋根は銅板葺きで、箱館湾から土塁越しに太鼓櫓が見えていた場所にありました。そのため、箱館戦争の時には艦砲射撃の標的にされ、今でも軍艦からの砲弾が命中した記録が残されています。

 

箱館奉行所の天井
箱館奉行所の復元にあたって古写真や文献資料などを参考に当時の姿で再現するべく、日本伝統の建築技術を駆使しています。

特に日本の建築技術として伝統的な木材の接ぎ方の手法にはこだわりが詰まっています。例えば、天井の梁には継手のようなものがあるのが分かるかと思いますが、これも伝統的な建築法の1つです。これは、あえて金具などは使わず、木材同士で組み合わせることで、本来なら隠すべき骨組みを露出しても可能なのも特徴的です。また、長さが限られている木材同士をつなぎ合わせて延長したり古くなった部分を取り替えて補強することができるのも魅力的です。

 

五稜郭の枝垂れ桜と箱館奉行所
 奉行所枝垂れ桜との景観も絵になります。

やはり和の歴史的建造物と桜との調和が取れているようで、まさしく函館の桜スポットです。特に休所の前に植えられている枝垂れ桜は見事な咲き具合で昔から親しまれています。

ビクティニ:見事な桜だ!

 ミュウ:弘前城の桜とどっちがきれいかな?

 

昼食

五稜郭を見たところで昼食にします。

五稜郭タワーの近くにある回転寿司で食事にしました。 

ビクティニ:寿司うまい!!カニ汁が最高!
ミュウ:おいしい!
ゴンベ:うまいっぺ!
にょろもう:おいしい!
ビクティニポンチョのピカチュウ:おいしい!
 

道南いさりび鉄道の列車

 

さて、とある宿泊施設に向かうべく、函館駅から道南いさりび鉄道の列車で茂辺地駅へ行きます。
函館駅に停車している1両編成のキハ40系気動車が道南いさりび鉄道の列車です。
道南いさりび鉄道は、函館駅から木古内駅まで約38kmで結ぶ、北海道で唯一の第三セクター鉄道です。
かつてはJR江差線の一部だった路線で、北海道新幹線が開業するまで特急列車も通っていましたが、今や普通列車の気動車のみが活躍しています。ただし、貨物列車もその路線を通ります。
ビクティニ:さて、とある場所が今回の旅最後の宿らしい。
ミュウ:どこへいくんだろうね・・・
 

道南いさりび鉄道の車窓
函館駅を出た1両編成の列車は、函館湾を眺めながら進んでいきます。
進行方向左側には函館湾や津軽海峡を見渡せる風光明媚なローカル線です。道南いさりび鉄道の路線は一見なんの変哲のないローカル線に見えますが、実は木古内駅より先の方も線路が青函トンネルに続いており、北海道と本州の物流を支える役割にもなっています。そのため、この路線には時々貨物列車が通ります。
ビクティニ:海が見える!
ミュウ:函館山が見えるよ!
 

茂辺地駅
茂辺地駅に到着しました。
ここもかつてはJR江差線の駅でしたが、平成28(2016)年3月26日の北海道新幹線開業で旧JR江差線の函館~木古内間が同日に『道南いさりび鉄道』へ移管されています。そのため、この駅も道南いさりび鉄道の駅です。ホームの線路は3本ありますが、真ん中の線路はあまり使われていないようです。おそらく貨物列車の退避専用で設けられたものと思われます。
ビクティニ:茂辺地駅に来たけど、ずいぶん閑静な所だな・・・。駅員さんもいない・・・。
ミュウ:本当に宿なんてあるのかな?
 

茂辺地駅の時刻表

 

茂辺地駅の時刻表を見てみると、概ね1~2時間毎に1本の本数で運行されています。
どちらも1日9本ほどしか列車が来ないようです。かつては特急列車やブルートレインといった寝台列車も通っていましたが、今や普通列車と貨物列車しか来ない寂しい駅です。もっとも列車が来ない時間帯をぬって貨物列車が通過するのでしょうが・・・。
 

茂辺地駅の近くに列車が?!

茂辺地駅から数分歩くと・・・・なんと『北斗星』というブルートレインが鎮座されています!

どうやら、ここは旧茂辺地中学校グランド跡地を『茂辺地北斗星広場』として整備されています。地元の人たちからの要望で引退したブルートレイン『北斗星』の一部の車両がここ茂辺地で保存されることとなったようです。これは、この地域を走っていた『北斗星』とこの地域との組み合わせが実現したということです。そして、当時の寝台設備を宿泊施設として今年の4月22日より再利用されることとなり、かつての寝台列車の雰囲気を想いながら実際に泊まれるようになりました。鉄道ファンならまさに夢のような宿泊体験ができるということです。
 

ブルートレイン『北斗星』の外観
デビューから27年間、上野駅と札幌駅の1,215kmを毎日のように走り続けた寝台列車『北斗星』・・・。

昔は日本中にあった『SLホテル』で使われた客車は老朽化で取り壊されていく中、この『北斗星』に関しては新車に近いほど大変綺麗に修繕されています。

使用されていた客車は『24系』というものです。その活躍を終えた北斗星の車両はほとんどが廃車になる中、一部の車両が保存されることが決まり、ホテルないし宿泊施設として再スタートすることとなったのです。

もともと『北斗星』は昭和63(1988)年3月13日に青函トンネル(津軽海峡線)が開業したことで、東京と北海道を結ぶ寝台列車として運行されることになったのです。そして、その『北斗星』こそ当時としては豪華な内装で、ビジネスのみならず観光ニーズにも応えられる寝台列車なのです。
大阪からの寝台列車も運行されることになり『トワイライトエクスプレス』と並んで、本州と北海道を結ぶ寝台列車のスターとなりました。さらに平成11(1999)年には『カシオペア』も運行されますが、一部の北斗星が臨時列車扱いされます。そして、北海道新幹線の開業を機に平成27(2015)年3月14日のダイヤ改正により『北斗星』は運行終了することとなりました。
その後、『北斗星』の車両が次々と廃車される中、『オハネフ25-2』『スハネ25-501』の2両が保存されることが決まり、北斗市および商工会が中心となり保存活動が行われることとなり、クラウドファンディングによって輸送および資金調達が行われました。平成29(2017)年には『北斗の星に願いをプロジェクト』の一環から『茂辺地北斗星広場』としてリニューアルオープン、さらに車体の錆落としや再塗装がされ、北斗市内の合同会社『靑(あお)』による運営から、併設のトレーラーハウス2棟とともに『ゲストハウス』として営業が始まりました。
なお、宿泊料金は素泊まりで5,000円弱で宿泊できるので、とてもリーズナブルです。しかも、受付の方はとても親切で快く案内されました。ただし、チェックインできる時刻は17:00までなのでご注意ください。列車でくる場合は茂辺地駅に15時台で到着する便で訪問されることをおすすめします。
 

『北斗星』のロビー車内
ということで、受付にてチェックインを済ませたら車内に入ってみましょう。

ここは『スハネ25-501』の車内です。ロビーがある他、シャワー室やB個室ソロが併設されています。ただし、ソロはボストンバッグやキャリーバッグなどを保管する荷物置き場になっているようです。あとは自販機もありますが、やはり現役当時のままなのか今は使えないようです。せめて自販機も使えるようにすればもっと便利になるのですが・・・。

ビクティニ:『北斗星』の車内だ・・・。思えば、昔はこれに乗って函館に行った記憶があるんだ・・・。

ミュウ:へえ~、『北斗星』に乗ったんだ。

 

『北斗星』の車内

茂辺地に保存されている『北斗星』の客車は2両保存されています。
もう1両の『オハネフ25-2』は寝室になっています。車内の洗面台は使えますが、トイレは使用できません。トイレを使用する場合は外のコンテナハウスのトイレを使うことになります。また、飲み物を購入する時は、車内の自販機が使えなければ周辺にコンビニはありません。なので、茂辺地駅の自販機を利用するようです。
 

『北斗星』のB寝台(オハネフ25)の車内
これが『北斗星』で使われていた『B寝台』です。

何もかもが当時の状態で保たれているのは鉄道ファンなら素晴らしい限りです。まさしく地元の人たちからのご厚意で保存されているのが分かります。もっとも私は鉄道ファンでもあるので、『北斗星』の車内でまた泊まれるのは、まさしく夢のようです。

 

『北斗星』の車掌室

車内の奥も見てみましょう。

ここは車掌室のようです。当時はここで車掌さんが色々案内放送をされていたでしょう・・・。

 

現役時代の『北斗星』の映像

ロビーには『北斗星』が実際に活躍していた映像のDVDが見れるようになっています。

いろんな撮影場所から『北斗星』が駆け抜ける姿が収録されているのは、今となっては貴重なものです。

 

車内に飾られた『北斗星』の写真

函館駅で撮影した『北斗星』です。

函館駅は、片方が行き止まりになっているスイッチバック仕様の駅なので、この駅で進行方向が変わります。これは、本州から走ってきた『北斗星』の機関車を交換するところです。写真に写っているのは『ED79型電気機関車』で、いわゆる青函トンネル向けの電気機関車です。

 

『北斗星』を牽引する電気機関車

上野駅から函館駅までの東北本線、いわて銀河鉄道線、青い森鉄道線、津軽線(津軽海峡線)、江差線では電気機関車で運行されていました。

使用される電気機関車は『EF81型』が使用され、東北本線では黒磯までは直流区間で黒磯以北は交流区間で電化されています。それらの区間によって使用される電気機関車は限られていますが、『EF81型』は交直両用の電気機関車です。そのため『北斗星』をはじめ上野から東北方面へ行くブルートレインでは重宝されていました。また青森~函館間は『ED79型』という電気機関車が使用されることがあったようです。なお、2010年代では『EF510型』が使用されていたようです。

 

『北斗星』を牽引するディーゼル機関車

函館駅から先の北海道内では『DD51型』のディーゼル機関車が重連で牽引されていました。

このディーゼル機関車は『北斗星』の他に『トワイライトエクスプレス』や『カシオペア』の牽引でも大活躍していました。そして、寝台列車の運用が終了した後はミャンマーへ譲渡されたようです。

『北斗星』の移送経緯

 

引退した後、当面の間はJR北海道の苗穂工場で保管されていましたが、保存が決まるとトレーラーで運ばれます。

保存および輸送が行われる際は、本当に大掛かりな作業だったかと思います。客車1両は長さ20メートルもあるので、札幌からここまで運ぶだけでも大変だったかと思われます。トレーラーで保存先へ運ばれた後、改修や再塗装が施されます。

 

『北斗星』の窓から見る夕日


『北斗星』の窓から見る夕暮れの景色はとても綺麗です。

この景色を窓から見ると、まさに寝台列車に乗っているような感覚です。昔は函館をはじめ道南を走っていたと思うと感慨深いものです。
 

『北斗星』の車内で食べるお弁当
車内のロビーで食べるお弁当も美味しいものです。

周辺には飲食店は少ない(無い)ので、食事は自分たちで用意しておくといいでしょう。今回は函館駅のお弁当屋で購入したお弁当を夕食にしました。

ビクティニ:昔は食堂車で食事したのが懐かしい。

ミュウ:美味しい!

ゴンベ:このお弁当うまいっぺ!

にょろもう:美味しい!
ビクティニポンチョのピカチュウ:おいしい!
 

夜の北斗星広場
日が暮れて夜になるとあたりは静かになります。

外から『北斗星』の客車を見るとまさしく往年の寝台列車を彷彿させられます。当時は上野と札幌を結ぶ寝台列車として活躍していたと思うと、勇ましい姿だったことでしょう・・・。

 

GW青森・函館旅5日目 終わり

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