ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

熊本旅行記3~4日目 キリシタン文化が息づく“天草諸島”をドライブ旅!

みなさん、こんにちは。

今回は、2日間かけて天草諸島をドライブします。

 

朝食

玉名温泉の旅館の朝食です。

熊本ならではの食材がふんだんに使われていて美味しいです。

ビクティニ:うまい!熊本の朝ごはんは最高に美味しい。

ミュウ:おいしい!

ビクティニポンチョのピカチュウ:おいしい!

トトロ:トトロ~!(美味しい!)

 

鹿児島本線の普通電車

ということで、旅館からタクシーで駅まで送ってもらい、そこから鹿児島本線の電車で熊本へ向かいます。

普通電車は817系です。

ビクティニ:これで熊本へ行こう

ミュウ:2両なんだね

 

熊本駅では至るところにくまモン

熊本駅に到着しました。

ここでは、必ずと言っていいほどくまモンを目にします。さすが日本一有名なゆるキャラというだけのことはありますね・・・。

ビクティニ:あ!くまモンだ!日本一有名なゆるキャラなだけあって、アピールしまくっているね

ミュウ:くまモンがいっぱいだね

 

熊本にクレヨンしんちゃん?

熊本をはじめ、秋田と埼玉の3県クレヨンしんちゃんの家族都市プロジェクトが結成されています。

まさか自分の地元がクレしんの家族都市になるとは思いませんでしたね。埼玉の他に秋田や熊本もクレしんの家族都市になっているのには、しんちゃんの父ひろしは秋田出身、そして母のみさえはここ熊本出身であることから、3つの県が『家族都市』として紹介されているそうです。

乗車予定の三角線の出発時間まで時間があるため、熊本駅のお土産店で買い物をし、土産物を自宅へ配送してもらいました。

 

三角線の列車
さて、これから天草方面に行くため、三角線の列車に乗車します。

三角線ののりばは駅のホーム南側にあります。三角線の列車はここのホームから出発します。

ビクティニ:ここが三角線のりばか。これで天草へ出発しよう

ミュウ:赤い電車がそうみたい

10:02 熊本駅発 普通列車 三角行き

 

三角線の車窓

三角線は、宇土駅~三角駅を25.6kmで結ぶローカル線です。

この路線は天草諸島方面へ進んでいることから、『あまくさみすみ線』という愛称がつけられています。

熊本駅を出発した三角線の列車は、しばらく鹿児島本線の線路を走りますが、途中の宇土駅からは三角線に入ります。三角線は非電化の路線であるため、車両はキハ200系やキハ47系などのディーゼルカーが活躍しています。また、特急型観光列車『A列車で行こう』も運行されています。車窓の風景は、最初は田園風景が広がりますが、半島の端へ進むにつれ海の景色が広がります。

ビクティニ:まるで田舎の家へ行くかのような気分・・・。あれは金峰山みたい・・・

ミュウ:のどかな風景がひろがるね・・・

 

三角線の車窓から見る有明海
しばらく進んでいくと、進行方向右側には有明海が広がります。

海の向こうには、長崎県の島原半島が見えます。三角線の車窓は、有明海や長崎県の島原半島の景色が見れます。

鹿児島本線の宇土駅から分岐された三角線は、宇土半島の北側を走り、田園地帯や海の景色を眺めながら半島の先端へ続く天草方面へ向かうように進んでいきます。そして、赤瀬駅~波多浦駅にて半島を横断し、天草の玄関口となっている三角駅まで走ります。

ビクティニ:あれは長崎県の島原半島みたい・・・。陸地の山は雲仙岳かな

ミュウ:海の向こうに陸地が見える光景は西日本に行くと見れるんだね・・・

 

三角駅

10:50 三角駅に到着。

熊本駅から50分ほどで三角駅にやってきました。

ここは三角線の終着駅で、天草の玄関口にもなっています。

教会のような駅舎がとてもおしゃれです。

周辺には産業遺産の『三角西港』をはじめ、大矢野島や維和島、戸馳島などのスポットがあります。

ビクティニ:ここが三角線の終着駅なんだね。

ミュウ:まるで教会みたいな駅だね。他の地域ではあまり見ないな・・・

 

三角駅のすぐ目の前には海と島々が広がる
三角駅の目の前にある海浜公園からは、海と島々が見渡せます。

写真の右側には船舶が停泊しているのが見えます。

駅の目の前は、まさに入り江の港という印象を受けます。ここからは戸馳島や維和島などの島々が見渡せます。

ビクティニ:駅から出れば目の前に海、そして海に浮かぶ島々・・・。まるで瀬戸内海に似ているね

ミュウ:この風景、関東じゃあまり見ないね

 

ということで、三角駅からすぐ近くにあるお土産店兼ねレンタカー屋にてクルマを借り、天草諸島へ向かいます。

もし三角駅まで鉄道旅を楽しみ、レンタカーで天草をまわることを検討するのであれば、以下のリンクからどうぞ↓

9分90円!の三角駅前うきうきレンタカー

 

★三角駅から崎津教会へのルート★

ということで、まずはクルマでカトリック崎津教会へ向かいましょう。

三角駅からは、国道266・324号線を通り、崎津集落へ進んでいきます。三角駅から崎津集落への所要時間は概ね1時間半程度です。

天草は『上島』および『下島』という大きな島が主島として定義されています。

九州西部にある天草諸島は熊本県から鹿児島県にかけて点在しています。北側には『有明海』、南側には『八代海(不知火海)』、そして西側には『東シナ海』が広がっています。天草は大きく分けて『大矢野島』や『上島』などの島々が点在しているエリア『上天草市』、そして西側の大きな陸である『下島』および『上島』の一部『天草市』が統轄しています。他にも下島北部は『苓北町』、牛深寄りにある長島は鹿児島県の『長島町』が統轄しています。

上島と下島の他にある周囲の島々は、『御所浦島』や『獅子島』など、大小120ものの島々が浮かんでいます。天草諸島の面積は約1,000k㎡あり、中でも一番大きい『下島』の面積はなんと574k㎡あります。これは日本の離島で8位の面積にあたり、淡路島とほぼ匹敵する面積です。

機構としては比較的暖かく、主にクルマエビをはじめ、マグロや岩牡蠣、トラフグなどの水産業が盛んな環境でもあります。

 

道の駅上天草さんぱーるにて昼食
三角駅を出発したところで、ちょうどお昼時ということもあり、途中の道の駅で昼食にすることにしました。

しかし、この時間帯ではさすがに人が多く、20分ぐらい待ったかと思います。今回注文したのが、鱧(はも)天丼です。鱧は上天草では名物のようで、『黄金のハモ』と言われています。ビタミンA、B2、カルシウム、コンドロイチン硫酸など栄養が豊富で、血中コレステロールを調整する骨粗鬆症予防や、高血圧、動脈硬化等の予防にも効果的です。

ビクティニ:ハモ天丼とはこれまた珍しい!いただきます!・・・最高!!

ミュウ:おいしい!

ビクティニポンチョのピカチュウ:ハモなんてなかなか食べられない!・・・おいしい!

トトロ:トトロ~!(おいしい!)

 

道の駅上天草さんぱーるのソフトクリーム

道の駅上天草さんぱーるのソフトクリームも美味しいです。

ここの道の駅はいかにもリゾートという雰囲気が感じられます。道の駅周辺には『天草四郎ミュージアム』や日帰り温泉があります。

 

崎津集落

さて、道の駅上天草さんぱーるからクルマを走らせて1時間あまり・・・『崎津集落』に到着しました。

『﨑津集落』は、天草市河浦町に位置あります。ここは禁教期において仏教や神道、キリスト教が共存し、漁村特有の信仰形態を育んだ場所です。

崎津および今富地区は漁村と農村が織りなす『キリシタン文化が風吹く町』として、文化的景観になっています。

このあたりは山や海に囲まれた環境にあることから、少ない平地で生活する工夫が戦国時代から行われています。江戸時代に入ると、崎津からは豊富な海産物、今富からは農産物をはじめ木材や石炭などの生活物資を互いに交換しながら生活を営んでいたのです。そのため、『崎津浦』とも呼ばれ、一つの地域として認識されていたのです。

さらに明治時代になるとキリスト教が公に認められ、崎津や隣町の大江にも教会が建てられ、現在の風景がつくられます。当時、大江教会に赴任していたガルニエ養父は、崎津教会の神父も兼任しており、布教の際には『神父道』と呼ばれる峠道を使い、往来していたといいます。

その道は崎津の『メゴイナエ』と呼ばれる行商が往来し、大江や高浜、苓北まで特産品の販売を行っていました。崎津や今富は、流通往来の要衝であり、貿易の拠点として栄えていったのです。この時代から崎津は、陸や海上の交通の要衝となり、昭和初期には、海産物や隣村の農産物、木材、木炭を長崎をはじめ五島列島や福岡へ積み出すための交易拠点となり、港町として栄えていくこととなったのです。

 

崎津集落の概略図
崎津集落は、『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』の構成資産の一つとされていることから、その集落自体が『世界文化遺産』そのものになっています。

東シナ海に開口し、羊角湾の北岸に位置する『天草の崎津集落』は、西欧や東南アジア諸国から“Saxinoccu”と呼ばれ、日本におけるキリスト教布徒の拠点として認識されていたのです。崎津にキリスト教を布教したルイス・デ・アルメイダ修道士は、崎津の重要性を記した書簡をヨーロッパに送っています。

16世紀後半、いち早くキリスト教の布教が開始されたこの地は、村人の殆どがキリスト教徒になりました。ところが慶長19(1614)年の禁教令によって、キリシタンへの迫害が強まると崎津の信者は『潜伏キリシタン』となり、独特の信仰を生み出しました。中でも漁村のある崎津では、漁村と信仰が密接に結びつき、キリスト教信仰が今日の崎津の文化的景観の形成に大きな影響を与えているのです。

天文18(1549)年、フランシスコ・ザビエルによって日本に伝わったキリスト教は海外交流の窓口でもあった長崎・天草地方にまたたく間に広がり、宣教師から直接指導を受けたことにより、他の地域より強固な信仰組織が形成されました。

幕府時代の寛永21(1644)年には、江戸幕府の海禁政策により、すべての宣教師が国内から不在となりますが、多くのカトリック教徒は仏教徒や神道信者のように振る舞いつつ、小規模な信仰組織を維持します。これがいわゆる『潜伏キリシタン』となり、信仰組織ごとに海岸沿いないし離島に集落を形成しながら信仰を維持し続けます。そして、約250年におよぶ禁教のさなか、日本の在来宗教のように見える固有のキリスト教信仰が育まれていったのです。

この経緯に関わるものがいわゆる『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』で、これは約250年におよぶ江戸幕府の海禁政策の時代でありながら、『潜伏キリシタン』を密かにキリスト教信仰を継続し続け、辺境や離島で既存社会や宗教と共生しつつ、独特の文化的伝統を継承してきたことを物語る貴重な文化遺産なのです。それらの遺産が後世にその歴史を伝えているということなのです。

さて、この様な場所で見学や観光する際、注意しなければならないことがあります。

キリシタン潜伏の歴史がある遺産とはいえ、やはり生活されている方々がいらっしゃるので、住民の方々の迷惑にならぬよう、注意書きが書かれています。また、教会ということもあり、信者の方々が祈りをささげるための場所でもあるので、拝観時は慎みを持ち拝観をしましょう。当然、教会内では撮影することはご法度です!

 

崎津集落 内部
崎津地区は、かつての漁村としての雰囲気が漂っています。

ここは漁村特有の狭い土地に、家屋が密集しているのが特徴的で、殆どの家には庭がないのです。だからこそ、この地域ならではの生活における工夫が今でも生かされているといいます。

例えば、この民家同士の軒が重なり合いできた小路は『トウヤ』といい、海やカケへつながることができます。その幅はわずか約90cmと狭い小路でありながら、漁村の生活に密着した交流の場にもなっているのだそうです。カケは棕櫚の木や竹で海上に建てる船舶の係船(けいせん)や漁具の手入れなどを行うための作業場として使われていたものです。

 

崎津教会(崎津天主堂)
ここが天草を代表する歴史的スポットであり、世界遺産にも登録されている『崎津教会(崎津天主堂)』です。

この教会は、長崎県出身の建築家こと鉄川与助によって設計されたゴシック様式の教会でしたが、現在の教会は昭和9(1934)年にフランス人宣教師ハルブ神父の時代に再建されています。また、尖塔の上に十字架を掲げた重圧なゴシック様式であり、堂内は国内において数少ない畳敷きになっているのが特徴です。教会を建てる場所を決める際、ハルブ神父の強い希望で、かつてキリシタンの取締りでもあった『絵踏み』が行われた場所である吉田庄屋役宅跡が選ばれました。これは、禁教時代に厳しい絵踏みが行われた場所に、現在の祭壇が配置されたということになります。

永禄12(1569)年、ルイス・デ・アルメイダ神父によってキリスト教の布教が行われたこの場所では、寛永15(1938)年の禁教令以降、激しい弾圧を受けつつ、約250年間にわたる『潜伏キリシタン』として信仰が守られてきたのです。

そのため、この教会は『海の天主堂』とも呼ばれ、教会が建つ漁港一帯は、平成8(1996)年、日本の渚百選『キリシタンの里 崎津』に選ばれ、平成13(2001)年には、日本のかおり風景百選『河浦 崎津天主堂と海』、平成23(2011)年には、天草市崎津の農村景観が『国の重要文化的景観』にも選ばれています。

ビクティニ:ここが潜伏キリシタン発祥にして世界遺産にも登録されている『崎津教会』なんだね!まるで日本にいるとは思えないくらい立派な教会だね!

ミュウ:てっぺんの十字架も立派だね

 

崎津集落のジオラマ
教会のすぐ近くにある『崎津資料館』にも立ち寄ってみます。

ここでは、崎津集落におけるキリスト教の歴史やキリシタン信仰について紹介されています。

写真のジオラマは昭和初期の崎津集落を再現したものです。この資料館もかつては『みなと屋』という旅館だった建物なのだそうです。崎津の街並みは、江戸時代後半に作られた絵図と比べても、土地の変化は殆どないように感じ取れます。

 

潜伏キリシタンにおける信仰の対象となった物
これらは、崎津集落における潜伏キリシタンの信仰の対象となった物です。

幕府時代、当時の日本は江戸幕府から海禁政策を受けている中、崎津の潜伏キリシタンは、表向きは仏教徒や神社氏子となりながら、密かに信仰を続けていたのです。

その信仰の対象となった物は、主に海や海岸などで拾ったものが主だったのです。特に海で拾ったアワビやタイラギなどの貝殻は信心具となり、中でもアワビは信仰指導者である水方屋敷に継承されています。内側の模様がマリア像のように見えることから、潜伏キリシタンの崇拝の対象となりました。

貝殻の他にも、海で拾った石や古銭も信仰の対象となったようです。

 

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 一覧
『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』は天草の崎津集落を含めて、長崎県の長崎半島や島原半島、平戸島、さらに五島列島などの離島にも潜伏キリシタンに関する集落が点在していました。

そのうち、唯一熊本県にある潜伏キリシタン関連遺産は、ここ崎津集落のみです。このように宣教師のない中で育まれた日本独自の宗教的伝統が長崎県と天草地方にあった文化ともいえるでしょう・・・。幕府時代、いわゆる日本が鎖国であった当時、長崎や天草地方は海外の文化ならびに交流を受け入れ、宣教師から直接指導を受けたことで、他の地域よりも強固な信仰組織が形成されたのです。そのため、国内において見る機会が少ない教会が長崎や天草に点在している理由ともいえるでしょう・・・。

 

天草崎津における潜伏キリシタンの年表
天草のキリシタンにおける布教から潜伏・復活にかけての年表です。

年表を見る限り、天草にキリシタン布教が始まる前、すでに日本にキリスト教が伝来されていたようです。まず鹿児島にサンフランシスコ・ザビエルが上陸し日本に初めてキリスト教伝来、のちに平戸にて布教ならびに開港、さらに山口や筑豊にも布教、長崎も開港され安土桃山時代にはキリスト教がすでに浸透していたようですね。

そして、江戸時代に入ると、天草ではキリシタンの崩壊が始まります。禁教令が始まって以来、日本は鎖国になったり、『絵踏み』が始まったり、あるいは島原や天草では一揆が起こるなど、まさに動乱の時代を迎えていたということが伺えますね・・・。むろん、天草ではキリシタンの検挙がされるなど、もはや外国の文化を否定しているような背景が感じられます。

しかし、嘉永7(1854)年に日米和親条約が締結されると、これまで鎖国状態であった日本にも変化が起こります。それは、ペリーの来航によって下田や函館などが開港されていくのを皮切りに、日本は開国と化します。さらに明治維新ならびに王政復古の大号令とともに幕府は廃止され、これまで禁教されていた長崎や天草に再びキリシタンが復帰していきました。

このような背景から、天草の崎津教会をはじめキリシタンの文化の守ってきた人々のことを感謝しながら静かに拝観してあげられるのが有り難みを感じます。

 

キリシタンの布教から潜伏にかけての背景

日本に初めて西洋文化が受け入れられたのは、室町時代のことです。

天文18(1549)年にイエズス会宣教師ことフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を通じたことで、日本とヨーロッパは初めて交流が始まりました。その20年後の永禄12(1569)年、崎津でも同じくイエズス会修道士アルメイダによって布教が始まり、天草や長崎では異文化の受け入れが行われました。そのため、当時の崎津では教会堂や宣教師の布教施設などがつくられ、村人たちの殆どがキリスト教徒となり、次第にキリスト教の文化が浸透していったのです。

ところが、豊臣秀吉は天正15(1587)年に『伴天連追放令』を発布。これによってキリスト教信仰は禁止されるものの、当時は南蛮貿易を継続するという背景にあったことから、国内の信徒数は30万人以上とまだキリスト教は浸透していたのです。しかしながら、慶長19(1614)年にはついに『禁教令』が発布され、宣教師は次第に追放され、教会も解体されました。これによってキリシタンに対する迫害・探索ならびに多くの信者は殉教・棄教されていきました。

そのさなか、各地のキリシタンらは密かに信仰を続けるも、当時、飢饉や重税に苦しんでいた島原や天草の領民らは武装蜂起し、寛永14(1637)年に『島原・天草一揆』が勃発します。領民らは原城に立てこもり88日間ものの戦いが続きました。

この一揆を機に江戸幕府はキリシタンが関与する事件を重く見て教徒へさらなる迫害をはじめます。さらに『鎖国』によって南蛮船の寄港も禁じ、すべての宣教師を国外へ追放されました。これにより、キリシタン信者は激減し、崎津の村人も毎年のように吉田庄屋役宅で行われる『絵踏み』でキリスト教や聖母マリアの像を踏まされます。しかし、信者たちは自宅に帰っては信仰の教義書『こんちりさんのりやく』をとなえ、神の許しを得ていたのだそうです。

このような厳しい弾圧によって日本人と宣教師の交流は絶たれたものの、潜伏キリシタンは、表向きは仏教徒や神社氏子となりながら、密かに独自の信仰が育まれました。中でも崎津では、宣教師が不在となった中でも信仰組織は存続していたのです。『宿老(しゅくろう)』といわれる組織の指導者、司祭にかわる『水方(みずかた)』といわれる信仰指導者が祭札を行っていました。また、ひそかにキリスト教を信仰するため、日々の生活にキリスト教の影響が見られます。漁業の神様としてゼウスを崇拝、海に関するものを偶像崇拝の対象としていたのです。

ところが、ひそかに信仰を深めたキリシタンもついに発覚、クリスマス間近に牛を殺したり仏像でないものを拝んでいることから、文化2(1805)年に『天草崩れ』が起こり、崎津では村人全体の約7割が信徒として検挙されました。取り調べを受けた際、どこに参詣するときも『あんめんりゆす=アーメンデウス』と唱えていたという記録があったようです。

 

信心具として使われたメダイ
キリスト教布教に伴い、信仰の拠り所となった信心具が崎津では多く残されています。

信者や聖職者が身につけていたロザリオやメダイ、祈りの言葉“おらしょ”、聖遺物容器などが今日まで大切に守られてきたのです。当時、禁教時代であった崎津では、独自の信仰を生み出し、アワビやタイラギなどの貝殻はおろか、鏡や土人形、そして『メダイ』といわれる貝の螺細(にしさい)で作られたものも信仰の対象としていたことも崎津ならではの信仰ともいえます。

 

ウマンテラさま

これは、かつて旧今富村の志茂地区にあった石像です。

これも潜伏キリシタンの信仰対象になっていたのではないかと考えられています。

制作年代や作者は不詳ですが、『ウマンテラさま』と呼ばれ、その石像が建立されていた地名も、付近に聖水組場などがあることから、聖地として集落の人々からもその聖地として認識し、その名前で呼ばれていたようです。ウマンテラさまは、頭部は坊主頭で背後に生えた翼があり、額に浅い彫りの前髪が特徴的です。他にも長い錫杖(あるいは剣?)をもち、生物の上に立っているなどの点で、通常の近世石造物とは異なる容姿を備えています。これはバテレンを模した天使の像という伝承があり、今日まで伝わっています。

なお、キリシタン時代の静画『大天使ミカエル』に影響を受け制作されたのではないかという可能性が指摘されているのだそうです。

 

キリシタンの復帰

幕末になると、これまで鎖国状態であった日本がついに嘉永7(1854)年の『日米和親条約』を機に開国となり、下田や函館を皮切りに、安政6(1859)年には長崎を含む三つの港が開かれ、宣教師たちは長崎を拠点に宣教活動が行われます。

明治6(1873)年、明治政府はキリスト教禁止の高札を取り除き、信者らは次々とカトリックに復帰していきます。こうして明治21(1888)年、崎津では赴任していたフェリエ神父により復活後、初めて木造の教会が崎津諏訪神社の下に建てられました。建設地はかつて『絵踏み』が行われた場所である役宅跡に決まり、神父の私財や信者の寄付金、労働奉仕によって完成しました。

教会内部は建設当初から畳敷きとなっている珍しい事例です。崎津集落におけるカトリック復帰の経緯を物語る象徴にして、まさに天草の歴史に刻むシンボルとして現世に伝えているということですね。

 

世界遺産一覧表記載認定書

世界遺産としての価値

こうして、『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』が神道や仏教などの日本の伝統的宗教ならびに一般社会との関わりを保ち信仰を続けた潜伏キリシタンの伝統としての価値が認められ、世界遺産に登録されたのです。

それは、『宣教師不在と潜伏キリシタンのきっかけ』『潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み』『潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み』『宣教師との接触による転機ならびに潜伏の終わり』という四つの経緯から、世界遺産に登録された理由にもなっているということです。

 

崎津諏訪神社

崎津諏訪神社の鳥居
崎津教会からすぐ近くにある『崎津諏訪神社』は、禁教時代に潜伏キリシタンの取り調べの舞台となった場所です。

そして、崎津集落の守り神として受け継がれ、日本の伝統宗教と潜伏キリシタンの共存を物語る独特な文化的伝統をあらわしています。

ここでは異物(異仏)取り調べのため、所有していた信仰遺物をこの境内に設置した箱に捨てるよう当時の代官所の役人によって指示し、キリシタンから殉教するために指定されました。それでも、崎津の信者らは『あんめんりゆす=アーメンデウス』と唱えていたといいます。

もともとは大漁・海上安全祈願のため、正保4(1647)年に創建されたのだそうで、創建当時とは変わらぬ配置です。文献によれば、キリスト教布教後に崎津で初めての教会が建てられた場所と推定されているようです。また、本殿の入り口にある鳥居は天草で一番古いものだそうで、慶安2(1649)年に肥後国の石工が建てたことが記されています。

ビクティニ:一見すると普通の神社だけど、この神社は他の神社とは違う歴史が秘められているみたい。・・・ウクライナが平和になりますように・・・・

ミュウ:世界中、戦争がなくなりますように・・・

 

岩陰のマリア像
集落の奥へ進んでいくと、東シナ海を眺めるようにマリア像がそびえ立っているのが見えます。

崎津の南側の海岸には“うどん鼻”と呼ばれる岩壁があります。ここには「岩陰にマリア様の御陰が浮き出る」、「対岸からマリア様が番傘をさし高下駄をはいて海を渡り歩いて岩壁に宿った」などのマリア様にまつわる伝承が残っているのです。現在では、崎津の漁師が航海の安全・豊漁祈願のために祈りを捧げています。なんでも、この海を行き来する船人・漁人たちに海の道標、心の灯となるよう多くの人々の協力を得て建てられたものだそうです。

 

西平椿公園から見る大ヶ瀬
さて、崎津集落を後にし、東シナ海の見えるサンセットラインを走り、西側の夕日を見てみましょう。

ここは『西平椿公園』という場所です。

国道389号線から入り組んだ細い道に入り、案内板にしたがいながら延々と進んでいくと、ようやくたどり着いた場所にあります。ここはバスといった交通機関は通らない場所ということもあり、まさしく秘境にいるような気分でさえも感じ取れます。西の空へ傾いた陽の光が海面に反射し、美しい景観を醸し出しています。

写真の海に浮かぶ小さな岩場は『大ヶ瀬』の岩礁です。大ヶ瀬は海上1.1kmの位置にあり、塔状の岩礁が10あまり集まって成り立っています。地質としては縁泥片岩、石英片岩、砂岩ホルンフェルスなどによって構成されています。このあたりの岩礁付近の海中では多様なサンゴ類、色鮮やかなウミトサカなどの熱帯魚も見られることから、ダイビングスポットにもなったりするそうです。大ヶ瀬周辺の海水は透明度が高く、海中の景観は大変優れ、妙見浦とともに天草海中公園にも指定されています。

 

西平椿公園

西平椿公園には、文字通り至るところに椿の木が植えられています。

まるで秘境の中にいるような雰囲気です。

この公園に植えられた椿は国内の椿が119品種、世界の椿が22品種を含む141品種と『ヤブツバキ』の約2万本の椿が鑑賞できます。ここ西平椿公園は、雲仙天草国立公園の区域として指定、恵まれた資源、海、緑、豊かな環境、そして椿はこの公園のシンボルとしてのこすべき自然遺産です。

 

ヤブツバキ
公園内に植えられている『ヤブツバキ』は日本の温暖な土地に自生し、古くから日本人に親しまれてきた椿の木です。

これを原種とし、近世より観賞用として盛んに品種改良も行われてきたのです。この公園に生えるヤブツバキは観賞用というより人々の生活に深く関わり、群生地が形成されたようです。ヤブツバキの実は多量に油分を含んでおり、上質な油をとることができ、主に整髪料として使用されました。そのため、古くからヤブツバキは大切に守られ、熊本県有数の群生地ができたということが考えられます。

 

あこうの木(ラピュタの木)
公園を散策していると、あこうの木の根が巨岩に巻き付く光景が飛び込んできます。

鬱蒼とした場所に生える無数の木の根がまさしくジブリの『天空の城ラピュタ』のようです。

あこうの木は、海岸付近にて見られる半常緑樹でクワ科に属しています。大地に無数の根を張り、枝や幹から多数の気根を垂らしています。天草では、古くから防風樹としての役割があり、天草市のシンボルとして『市の木』に指定されています。

この巨木は高さ約20メートル、幹周り6.1メートル、樹齢は不明ですが、地元の方の話いわく「百年以上は経過したあこうの巨木から、生きる力をもらっている」とあるように、まさに生命力を感じさせます。

 

展望所から見た大ヶ瀬

公園の階段を延々と下った先には、展望所があります。

ここからは大ヶ瀬と東シナ海が見えます。西へ傾いた陽光が海面を照らし、美しい景観です。天候が良ければ夕日が見られるはずなのですが、この日は曇っていたため夕日がきれいに見れるかどうかは微妙のようです・・・。

 

十三仏公園から見る妙見浦
十三仏公園から妙見浦を見てみましょう。

ここの展望台もこれまた高く、夕日を見るのには最適で、北側の妙見浦を眺める絶景スポットです。

ここからも東シナ海(天草灘)は見渡せ、天気の良い日は夕日が見られることがあります。北側には『妙見浦』があり、名勝ならびに天然記念物に登録されています。さらに近くには白い砂浜で有名な『白鶴浜』があり、この展望台から見下ろす断崖が織りなす景観の変化に富んだ海岸線です。ここで、歌人こと与謝野寛(鉄幹)、晶子夫妻は、この美しい夕日と磯の風景に感動したことから、歌碑も建てられています。また、近くには四国八十八箇所の札所があるため、十三仏のお堂もあります。

 

天草の公共宿『愛夢里』に宿泊
今宵の宿は、天草で有数の温泉宿『愛夢里』に宿泊しました。

日帰り温泉にして宿泊施設にもなっていますが、大浴場は夜9時までなのと、朝は貸切風呂のみとのこと。温泉は丁度よいぐらいのぬるさです。お部屋はロッジ並みに広かったです。また、世界遺産の崎津集落へのアクセスとしてはこの宿からが一番近いのだそうです。

ビクティニ:今夜はここでお泊まりか。いい雰囲気だ。

ミュウ:温泉があるのはありがたい。

 

天草の夕食

天草の夕食です。

公共の宿ということもあり、普通の定食です。天草の魚介を使った物が多いので美味しかったです。

 

大江天主堂
翌日になりまして、天草をドライブしながら三角駅へ向かいます。

この日は、天候はあまりよろしくないようなので、基本的にはドライブのみになります。

昨日訪れた『崎津天主堂』とは別に『大江天主堂』へ訪れました。
大江天主堂は、崎津集落より国道389号をさらに西へ行った『大江集落』にあります。

ここも崎津天主堂と同じように、徳川幕府の禁教時代にも『かくれキリシタン』としてひそかに信仰を続けた場所でもあります。

ここはキリスト教解禁後、天草で一番早く造られた天主堂です。現在の天主堂は昭和8(1933)年、フランス人宣教師ことガルニエ神父が地元信者とともに建立しました。ガルニエ神父は、明治25(1892)年、32歳にこの地を訪れ、昭和16(1941)年、82歳でなくなるまで49年間布教に努め、天草言葉を巧みに使いこなしたことから、村人から『パーテルさん』と親しまれていたといいます。『五足の靴』の旅は、『パーテルさん』に会うのが主な目的とあり、天主堂を訪れ、ガルニエ神父に会っています。

敷地内には、ガルニエ神父の像やルルドの聖母マリア像があり、今でも天草キリシタンのシンボル的な存在になっています。また、天主堂内部は、ステンドグラスや素材で温かみのある天井や窓の装飾などが見られます。

 

ありあけタコ街道
大江集落からクルマを走らせて下島を横断し、上天草方面へ戻ります。
しかし、上天草に戻る頃にはすでにお昼で、休憩のために途中にある『道の駅ありあけ』に寄り道しました。

向こうには有明海と長崎県の島原半島の陸地が見えます。

このあたりは『ありあけタコ街道』として親しまれ、有明海ではタコの産地として有名になっています。有明海の沖合は、日本最大級の干満の差があり、タコの餌である貝類やカニ類などが多く生息しているため、タコにとっては棲みやすい環境になっているからなのです。また、有明海沖合の急流で育つため、肉付けがよく質の良いタコがとれるのです。事実、昭和38(1963)年に、兵庫県の明石海峡で大冷害が起こり、明石海峡のタコが死滅するほどの被害にあった際、天草有明のタコが放流されたことで、危機を救ったというエピソードがあったそうです。

ビクティニ:ここにタコの像があるけど、ここはタコの漁業がさかんだったのかな

ミュウ:大昔、瀬戸内海のタコが冷害で死滅したからここでとれたタコを放流したんだって

 

四郎ヶ浜のサンドアート

四郎ヶ浜の砂浜には、いくつかのサンドアートが展示されていました。

モンスターズ・インクやアンダー・ザ・シー、七福神のサンドアート作品が海水浴客や観光客を出迎えてくれます。

 

四郎ヶ浜
南国の雰囲気に包まれた『四郎ヶ浜』は、道の駅からすぐ近い場所にあるため、海水浴をするのにはアクセスは比較的良いです。
有明海の向こうに見える島原半島を眺めながら海水浴が楽しめます。

ここは、天草・島原の乱の際、周辺の海岸にキリシタン軍の総大将『天草四郎時貞』が上陸したと伝えられることから、四郎ヶ浜ビーチと名付けられました。人工ビーチでありながら、きれいに整備された美しい砂浜です。雲仙の山並みを望めるため、県内有数の景観を誇っており、環境省認定の『快水浴場百選』に天草で三つ選ばれた海水浴場の一つだそうです。また、2箇所の休憩施設もあるため、シャワー室やコインロッカー、水飲み場、トイレ、更衣室、遊歩道も整備されているので、気軽に天草で海水浴を楽しみたい人にはおすすめなスポットです。

ビクティニ:ほのおタイプのぼくでも泳ぎやすい!向こうに島原半島が見えるのも楽しい!

ビクティニ&ミュウ:ハハハ・・・(水をかけあう)

 

道の駅ありあけ名物 天草ちゃんぽん
さて、海水浴を楽しんだところで、昼食にしましょう。
道の駅ありあけのレストランで『天草ちゃんぽん』を注文しました。

具材にはあさりや有明産のタコ、エビの魚介類に野菜、あっさりした塩味のスープにクセがなくておいしかったです。

ビクティニ:天草のちゃんぽんも美味しそう!いただきます!・・・うまい!

ミュウ:おいしい!

ビクティニポンチョのピカチュウ:おいしい!

トトロ:トトロ~!(おいしい!)

 

天草四郎ミュージアム
天草四郎ミュージアムにも見学してきました。

ここでは、天草についての歴史や天草四郎のエピソードについて学ぶことができます。

むろん、キリシタンについての歴史も語られているので、天草の歴史を知りたい人はぜひ現地に足を運んでみてください。

 

三角駅へ戻ってきた

さて、乗車予定の列車の時刻が迫ってきたため、三角駅前のレンタカー屋にクルマを返却しました。

ここで『ある列車』に乗るために、三角駅にて待機します。

ビクティニ:三角駅に戻ってきたけど、何の列車に乗るのかな?

ミュウ:なんか洒落た列車らしいけど。

ビクティニポンチョのピカチュウ:この駅いつみてもおしゃれだ。

トトロ:トトト?(何の列車かな?)

 

三角線の観光列車『A列車で行こう』

ということで、お目当ての列車に乗車するべく改札に入ります。

そして、入線してきた列車は・・・そう、『A列車で行こう』という観光列車です!

『A列車で行こう』はJR九州が運行する観光列車で、JR三角線の熊本~三角間を1日3往復で、土日祝を中心(8月中は毎日)に走ります。

 

★『A列車で行こう』の乗車の様子★


www.youtube.com

 

 

A列車で行こうの車内 展示物
A列車で行こうの車内には、様々な展示物が展示されています。

キリシタン関連のものからA列車で行こう関連のグッズなどが主に展示されているようです。車内に設置されたベンチもいい味を出しています。観光列車の割りにはそこまで混んでいなく、乗客も少なかったため、ベンチは貸切状態になってしまいましたw

 

A列車で行こうの内装
車内は、窓のステンドグラスにモダンな内装になっています。

この内装は『16世紀の天草に伝わった南蛮文化』をテーマにし、車内に流れるジャズのBGMが列車旅の雰囲気を盛り上げてくれます。列車名が『A列車で行こう』なのは、ジャズの曲名の一つ『Take the “A"Train』が由来だそうです。

ビクティニ:なるほど・・・これが例の『A列車で行こう』という列車なのか。内装はとてもレトロでいい感じ、そして車内に流れるBGMがまた最高!

ミュウ:車窓から見る海の景色もいいね!

ビクティニポンチョのピカチュウ:田園風景に海の車窓がいい感じだよ!

トトロ:トトトロ~(楽しい旅♫)

 

車内でジャズの音楽とともに軽食も楽しめる

“A列車で行こう”の乗車時間は40分足らずの短い旅ではありますが、1号車の売店でジュースやおやつなどが購入ができ、ジャズの音楽とともに軽食も楽しめます。

これも観光列車ならではの醍醐味というものです。また、アテンダントの方から飴もプレゼントしてくれます。

ビクティニ:列車内での軽食はスーイツ系に限るな~、おいしい!おまけに飴までくれた!JR九州は結構太っ腹だね!

ミュウ:こんなに最高な列車旅は初めてかも(^^

ビクティニポンチョのピカチュウ:夏には熊本もいいね!

トトロ:トトトロ~(クリームソーダおいしい)

 

熊本駅に到着

17:01熊本駅に到着。

ここで、40分の短い三角線の旅は終わります。

ビクティニ:最高の列車旅だった!

ミュウ:天草の旅では道に迷ったりとかいろいろだったもんね・・・

 

熊本市電

さて、今回はキリシタン文化が息づく天草の旅をお送りいたしました。

次回は熊本城を見学します。

ビクティニ:みんな、いつも見てくれてありがとう!

ミュウ:次の熊本城までお楽しみに!

 

『キリシタン文化が息づく“天草諸島”をドライブ旅!』をお伝えしました。