ビクティニと昔ロマンのブログ

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熊本旅行記5日目 日本三名城!熊本城を見学

みなさん、こんにちは。

今回は、日本三名城の一つとされる熊本城の見学をします。

 

朝食

市内のホテルに宿泊し、朝食を済ませ、熊本城に行きます。

熊本城に近いオークス通りで朝食を食べています。

ビクティニ:いただきます。今日は雨のようだけども、熊本城は見れるかな?

ミュウ:熊本城はここからだとすぐ近くなんだよね

ビクティニポンチョのピカチュウ:熊本城って結構広いんだよね。なんでも2つ天守閣があるみたい

トトロ:トトロ~(お城が見たい)

 

藤崎八旛宮
まずは藤崎八旛宮に参拝します。

藤崎八旛宮は、承平5(935)年に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、山城国(京都)石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請され創建した勅願社です。鎮座の日、勅使が神馬の鞭に京都男山の藤でできたものを携えてきたことに始まり、『藤崎宮』の名称が起こったと伝えられています。

藤崎八旛宮は八旛宮の旛に『旛』の字をあてる全国唯一の社でもあります。これは天文11(1542)年、後奈良天皇から賜った勅額に『八旛藤崎宮』と刻まれていたことに由来しているからだそうです。

創建以来、歴世朝廷の御尊崇はもとより、世々の国司、地頭、藩主から万民に至るまで広く信仰をあつめ一国の宗廟と称されています。往時の社殿は壮大を極め、修造は常に勅命によって、時の国主が承平草創の例にならい造営する伝統が踏襲されていたています。南北朝時代と戦国時代には、群雄の陣営となり或いは戦場と化して荒廃した時期もあったものの、加藤氏や細川氏が肥後の国守として任に就き、共に代々崇敬殊の外篤く、当宮の造営に力を尽くし、13年を期とする式年造営修復の旧例をも復活され、江戸時代の250年間、諸事欠けることなく整備されたといいます。

明治維新後は、明治10(1877)年に南西の役が勃発、熊本城とともに社殿は、兵火によって焼かれ、社地は熊本鎮台用地となったため、現在の井川渕町に移転ののち、翌年に仮殿を造営し、明治17(1884)年にようやく本殿の造営されました。昭和10(1935)年、御鎮座1000年を迎えた際、国幣社にふさわしい造営計画を設定し、国費の補助と氏子崇敬者の浄財とによって新たな造営に着手。ところが、間もなく戦時となり、工事ははかどらず未完成のまま終戦となったため、戦後は本殿以下の社殿、次第に腐朽し尊厳を損なう状態となったことから、、昭和60年の御鎮座1050年式年大祭を目処に、修復整備並びに新規施設の諸工事を進め、逐次竣成し、今日の壮麗を拝められます。

ここは、安産祈願を中心に様々なご利益があります。

 

白玉ぜんざい

八幡宮の通りにある和菓子屋さんでぜんざいもいただきました。

冷たくて美味しかったです。

ビクティニ:白玉おいしい!

ミュウ:夏のおやつにいいかも

 

熊本城

さて、目当ての熊本城が見えてきました。

熊本城は、加藤清正(かとうきよまさ)の手により、慶長12(1607)年、当時ここにあった『茶臼山』を中心に築城されました。その後、寛永9(1632)年には細川忠利(ほそかわただとし)が熊本藩主として入城。廃藩置県ならびに明治維新とともに、熊本城に鎮西鎮台が置かれ、明治10(1877)年の戦地となり、開戦直前の火災によって天守および本丸御殿一帯が焼失してしまいます。そして、第二次世界大戦後には天守再建の気運が高まり、昭和35(1960)年に大小の天守が鉄筋コンクリート造にて外観復元されました。

こうして熊本城は数多くの歴史が残された舞台となり、築城以来、多くの人々が訪れる観光地となっているのです。

 

熊本城稲荷神社
熊本城の麓には稲荷神社も点在しています。

熊本城稲荷神社は、天正16(1588)年、加藤清正公が肥後の国主として入国するにあたり勧請した神社です。清正公は、神使である2匹の狐(霊狐)を連れてきて、居城となる熊本城に守り神としてこの神社に奉りました。この2匹の狐を従えるのが、当神社のご祭神である生活守護神の白髭大明神です。

現在では、安産祈願をはじめ、様々なご利益があり、多くの参拝者が訪れます。

ビクティニ:ウクライナが平和になりますように・・・・

ミュウ:北朝鮮のミサイルの恐怖が終わりますように・・・・

 

熊本城 長塀
熊本城の外堀は、現在の坪井川が流れています。
城側にある『長塀』は全長242メートルあります。

かつて加藤時代には花畑屋敷と熊本城を往来するための橋と入り口が長塀の中央付近にありましたが、細川時代になると、その入り口は封鎖され、現在のように一直線の長い塀が造られています。高さ2メートルの木造本瓦葺きに加え上部は白漆喰仕上げ、下部は下見板張りの重圧かつ堅固な構造です。また、高さ6メートルの石垣の上にあり、内側に流れる坪井川が流れ、『北側の竹の丸』と呼ばれていたのだそうです。しかしながら、平成28(2016)年の熊本地震により東側80メートルが倒壊し、背後の石製の控え柱も多くが倒壊されてしまいましたが、令和3(2021)年には復旧が完了しています。この長塀は『国の重要文化財』に指定され、熊本城では唯一の重要文化財となっています。

 

熊本城は、もともと15世紀中の応仁の乱の頃、菊池氏の一族こと出田秀信が茶臼山に築城したことから始まります。

かつての熊本(以下隈本)は菊池一族の支配下にあったものの、居住者や耕作地は大変少なかったのです。実は、坪井川と白川の二つの川が一年中氾濫をおこしていたことから、平地で人々が生活できる場所は限られていたようです。当時はわずかに丘陵地に畑が作られる程度で、辺りは一大湿地帯を形成していたそうです。しかし、守護菊池重朝はこの小さな場所に出田秀信を代官として派遣し、隈本を治めさせるべく茶臼山の東側に城を築かせます。これは当時は唯一商工業都市として栄えていた二本木付近(国府)を確保する事、ならびにこの地にすでに祀られていた八幡宮(現在の藤崎八旛宮)の祭祀の存続をはかることの2点のためであったといわれています。出田秀信は80町歩程度の領地を持つ武将であったものの、当時の隈本はまだ大きな町ではありませんでした。お城も当時は『千葉城』だったのですが、後の熊本城(新城)とは比べるもない小規模なものだったといいます。ちなみに千葉城の名前の由来は山の端にあることから端(つば)城、それが次第になまってちば城になったと推定されるようです。
それから少し時代が下ると九州では次第に有力な豪族が台頭するようになり、南には島津氏、東には大友氏が、北には竜造寺氏が着実に力をつけ始め、地理的に九州の中心地であった隈本はその勢力にさらされるようになったのです。そこで変わって飽田、詫麻、玉名の3郡にわたって560町歩を領していた鹿子木寂心が隈本へ代官として派遣され、昔の隈本城(千葉城)に入ります。ところが、出田氏の7倍の経済力と政治力と軍事力を持つ寂心にとって千葉城は狭すぎたのかもしれません。彼は着任するとあらたに茶臼山の西に隈本城(現在の第一高校と国立病院)を築いています。


天正16(1588)年、肥後25万石の領主として加藤清正が入国し、根本的な都市改造から始まりました。新田開発、干拓、河川改修等、清正が行った工事は千ヶ所以上にのぼると言われ、中でも秀逸なのは熊本城築城およびそれに付随する河川改修が行われました。
清正は当時連結していた坪井川と白川を切り離して白川を城の外堀にし、また、坪井川と西の井芹川を結んで全く別の川にしこれを内濠にしました。これは外敵を防ぐための目的だけでなく、川の流れを変えることで湿地帯は人々が住居できる土地、そして新田へと見事に生まれ変わることができたのです。清正はこのようにして熊本城を拠点に次々と都市計画を推し進めていきました。そのことから、『土木治水の神様』と言われるようになったといわれています。近代熊本の歴史の第一歩はまさにこの時代から始まったということですね。写真の外堀もまさにその1つです。

 

行幸橋
熊本城への入口となるのが『行幸橋(みゆきばし)』となります。

この橋を渡ると熊本城の本丸内に入ることになります。明治35(1902)年に天皇の2度目の熊本行幸(ぎょうこう)が決まると、天皇の馬車が通れるよう南坂の斜面を緩やかにし、坪井川上流にあった下馬橋を南坂に超苦心できるようにこの場所に架替えました。かつては『新下馬橋』と名付けられていましたが、天皇行幸を記念したことで『行幸橋』と呼ばれるようになったのです。

 

熊本城の歴史と改革

まずは、『熊本城ミュージアム わくわく座』から見学していきましょう。

ここでは、熊本城の歴史や改革などが分かりやすく解説されています。

当初、茶臼山の東側の丘陵に『千葉城』として応仁元(1467)年に築き、さらに明応5(1496)年には茶臼山南側に『隈本城』が築城されました。天文19(1550)年には『大友二階崩れの変』で城親冬が城主となり、天正11(1583)年には加藤清正公が『関ヶ原の戦い』における七本槍の活躍を見せ柴田勝家に勝利します。天正15(1587)年には豊臣秀吉公が九州を平定し、城久基から佐々成政が城主になり、その翌年には隈部親永ら国衆の一揆が起き、秀吉公の平定後、加藤清正公が肥後半国の領主となります。そして、慶長5(1600)年には『関ヶ原の戦い』が勃発。清正公が小西行長領地を加増され肥後一国の領主となります。やがて、慶長12(1607)年に加藤清正公が茶臼山一帯に築城の熊本城が落成され、当初は『隈本』と名乗っていた名称も『熊本』に変わります。これをきっかけに『熊本城』の誕生となったのです。

 

熊本城の石垣技術
熊本城の石垣には『穴太積み(あのうづみ)』『算木積み(さんぎづみ)』の2種類の石積みが用いられていたようです。

まず、『穴太積み』とは堅牢さが特徴的で石の内側に積み、大きく分けて『野面積』、『打込みハギ』、『切込みハギ』の三種類に分けられます。また『穴太衆積』ともいわれ、いわば野面積を代表する積み方であり、一見粗野に見えますが、堅牢さは比類なきものがあります。その秘密は積み石の比重のかけ方にあって、表面から1/3位奥のところに重力がかかるように設計され、さらに土の水ぶくれによる崩壊を防ぐために石垣の奥に『栗石層』、その奥に小石をつめていくなどして排水をよくする工夫が施されているそうです。

第二に『算木積み』とは、長方体の石の長辺と短辺を交互に組み合わせる方式のことをいい、いわば日本の城の石垣を築くのに一般的に用いられる積石方式です。計算や占いに用いる算木の形に似ていることから、この名が付けられたと言われています。この方式を用いることによって、お城の強化を遂げることができたからなのです。

ここでは、それぞれの石垣の積み方の違いが体験できます。

 

熊本城の立体模型
2016年の地震によって被災した熊本城の復旧状況を立体模型で再現しています。

被災前の状況から復旧までのイメージを5分間隔で立体模型を通して今の状況を伝えています。地震によってもたらされた熊本城への被害は過去に類を見ない甚大なものであり、概ね20年の復旧期間ならびに約634億円の復旧費用がかかるのではないかという説があるようです。さらに復旧するには、高い専門知識や技術、人員が必要になってくると言われています。ここまで専門知識がないと修復できないと考えると、元の姿になるのにはまだまだ先の話になるでしょう・・・。我々は少しでも早く復旧してくれることを祈るばかりです・・・。

 

西南戦争の場面を再現
西南戦争は、熊本城の運命が左右される戦でもあり、日本最後の内戦でもあったのです。

当時、この戦争で熊本鎮台司令長官を務めていた谷干城(たにたてき)は『薩摩不穏』との情勢をつかみ、素早く籠城を指揮し、薩摩軍の攻撃に備え、熊本城を守っていたのです。その『西南戦争』の行方を左右したのが“熊本城籠城戦”であり、明治維新の立役者こと西郷隆盛を中心にした薩摩士族と名将谷干城が率いる政府軍との攻防戦です。この戦によって熊本城の運命をかけることになったのです。西南戦争において最大の激戦区となったのが『田原坂(たはるざか)』という場所で、かつては交通の要所であったのです。この場所で17日間におよぶ死闘を繰り広げました。また、民謡『田原坂』で「雨は降る降るじんばは濡れる」と歌われるように、17日間のうち6日は雨だったほど雨の降りやすい環境だったそうです。その田原坂では西南戦争の激しさを物語る史跡がいくつか遺されています。

 

御入国御行列を再現した模型

これは、熊本藩11代藩主こと細川慶順(ほそかわよしゆき)が江戸から帰国し、熊本へ入国する様子を描いた『御入国御行列図』をもとに、藩主を駕籠に乗せた行列を再現しています。

それは『参勤交代』といい、江戸幕府が武家諸法度により藩主に定めた、大名を江戸と国元とに一定期間ごとに交代で居住、あるいは領国に帰る義務制度のことをいいます。諸大名が江戸に伺候することを『参勤』、領国に戻ることを『交代』とよぶことから『参勤交代』といわれています。細川家の参勤交代は千人以上の大行列で海路や陸路を越えた過酷なものだったといいます。熊本から大阪までは豊後街道を歩き瀬戸内海を船で渡り、大阪から江戸までは陸を歩いていきました。このように参勤交代は外様大名は毎年4月、譜代大名は6月ないし8月が主に行われた時期です。

参勤交代では、各大名は江戸ないし領国で1年を交互に過ごすことになっているのが基本ですが、領国によっては対馬藩では3年に1度、蝦夷地(北海道)の松前藩では5年に1度の参勤といった遠隔地では特別な配慮もなされたようです。

しかし、その参勤交代は従者や旅の費用が藩財政に影響するため、大層な行事だったといいます。そこで忠利公は、西国と東国大名であるため、江戸と領地(熊本)を隔年ごとに住居する制度として3月の交代を進言しています。これは西国である熊本にとって海上の波静かな時期となり、海路で大阪へ向かうのに適しており、雪深い東国では雪解けを待ち江戸に行けるからだそうです。江戸末期になると負担増の軽減がなされ、参勤交代が一番多い時期は3代藩主綱利公の22回、少ないのが慶順時代の1度きりのみで、慶順公は初めて江戸で生まれ藩主となり万延元(1860)年に初めて熊本に戻ります。

 

参勤交代の陸路および海路

歴代藩主の参勤・下国回数ならびに所要日数
寛永9(1632)年には、これまで熊本藩を司った加藤家より細川家の時代へ変貌します。

細川忠利が初代熊本藩主となり、寛永13(1636)年には花畑屋敷が国許屋敷となります。寛永17(1640)年、宮本武蔵、忠利公の招きにより熊本へ、その翌年には光尚公が2代藩主に、慶安3(1650)年には綱利公が3代藩主になり、寛文11(1671)年には水前寺趣園が完成しました。

このように、細川時代になると、武術やら茶の湯、能楽まで幅広く『古今伝授』の歌人として有名な細川幽斎(藤孝)が伝えたもので、まさに趣のある時代だったのです。さらに3代藩主綱利公によって水前寺趣園を完成させ、6代藩主重賢公は動植物図鑑を残しています。花畑屋敷を中心に、歴代藩主が生み出してきた文化が今の『永青文庫』に受け継がれています。

 

熊本城の構成
熊本城は、加藤清正公が築いたお城ということもあり、城内はかなり複雑に構成されています。

熊本城には大きく分けて『本丸』をはじめ『平左衛門丸』『東竹之丸』『数寄屋丸』『飯田丸』『竹之丸』『西出丸』に分かれています。また、城郭の濠に白川から分岐するように流れる坪井川が流れています。

 

熊本城における統治の改革

熊本城では、そのお城の生みの親でもある加藤家は2代で細川家に受け継ぎ、1632年から1871年の廃藩置県まで11代目にいたって細川家の統治が2世紀にわたり続いていました。この改革から見るに殆どが細川家時代が長い間熊本藩を司ってきたことが伺い知れます。

 

熊本城 忍び返し
熊本城には、敵の侵入から防ぐために様々な工夫がなされていました。

城内の櫓の壁面にはすべて下見板張りであり、外側の角には石落としが設けられているのはお城では見受けられます。櫓から突き出た出っ張りは狭間と石落としで、敵が攻めてきた状況の確認と文字通り石を落として敵の侵入を防ぐ機能を持っていた他、視覚的な装飾効果もあったようです。

そして、天守下部に設置された針のようなものは『忍び返し』といい、石垣を登ってきた敵の侵入を防ぐために設けられました。小天守の1階の下部分、ならびに石垣と接する場所に鉄串(両刃の槍穂)が短間隔で並んでいます。2尺近い鉄串は下向きに付けられ、さらに防御を強固なものにしているのです。城内で特に厳重な警備がされていた小天守においては東、北、西の3方向に付けられていました。

このようにして、熊本城の警戒態勢はかなり強固であったことが伺い知れます。

 

明治維新や西南戦争とともに焼失した熊本城
明治期には、陸軍の軍事基地になったほど難攻不落のお城でした。

しかしながら、明治10(1877)年2月のこと、薩摩軍は鹿児島を発ち東京へ向けていた道中に政府軍と熊本城でぶつかります。その時に熊本城は瞬く間に火の海に包まれました。天守閣と本丸御殿は全焼しお城は見る影もなく焼失。原因としては政府軍による戦略上の自焼、薩摩軍による放火という諸説があるようですが、いまだ謎のままです。当時は谷干城が熊本城にて籠城戦を喫します。薩摩軍は熊本城に総攻撃を仕掛けます。政府軍も砲撃にて応戦。それとともに熊本城は戦火に見舞われ、たちまち火の海と化していきました。薩摩軍の攻撃に耐えつつ、城は50日に及ぶ籠城戦に持ちこたえました。

 

四斤山砲

これは、幕府がフランスより購入した大砲を薩摩藩が国産化したものであり、西南戦争にて官軍や薩摩軍が使用していたものです。

『四斤』とは、砲弾の重さが4㎏あるという意味です。山砲は持ち運びに便利なよう、分解可能に造られています。西南戦争当時、薩摩軍ないし政府軍はこの大砲で熊本城への砲撃に使用していたと思われます。

 

西南戦争の概略
明治初期に勃発した『西南戦争』は、田原坂や熊本城の戦いをはじめ、九州中南部の至るところで戦が繰り広げられていました。

九州の半南部が中心でしたが、北部の福岡や長崎も例外なく関係があったそうです。西南戦争はどちらかといえば薩摩軍と政府軍が対峙していた戦争のようです。まさに明治維新をかけた戦とも言えるでしょう・・・。この戦争の参戦者だけでも9万人いて、そのうち1万4千人が犠牲になったそうです。そのため、戦闘で傷ついた兵士は治療が余儀なくされ、病院だけでなく見知らぬ民家を借りて治療してもらったこともあったそうです。

このように、西南戦争は多くの人々に深く大きな傷を遺したのです。この惨禍とともに仁愛と平和の尊さを人々の心に刻みました。

 

飯田丸五階櫓跡

飯田丸一帯は、加藤清正の家臣で『築城の名手』といわれた飯田覚兵衛が築いたと伝えられ、その南西角に五階櫓が建てられていました。櫓は明治時代に軍によって撤去されたものの、2005年に木造にて復元されます。しかしながら、2016年の震災によって石垣の大部分は崩落したものの、角石のみで櫓を支えるように耐えました。今では櫓も石垣も撤去されていますが、解体中に築城当初の石垣が確認されています。

 

数寄屋丸
正面からは、天守南西に位置する数寄屋丸の石垣が見えます。

『数寄屋』という名称から、かつては茶会などが催されていたとみられます。平成元(1989)年に木造にて復元されていた数寄屋丸2階御広間の西側には、数寄屋丸5階櫓台石垣があります。しかしながら、2016年の熊本地震で一部の石垣が崩落し、その爪痕が今でも残っています。果たして元の姿に復旧されるのはいつになることやら・・・。

 

特別史跡 熊本城跡

正面から見る熊本城の天守は威風堂々たる姿でそびえ立っているのが力強く感じます。

熊本城は、加藤清正公によって慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの前には現在の場所に築城が始まり、本丸は慶長12(1607)年に完成しました。周囲5.3㎞、総面積約98haにも及ぶ広大な城郭です。これは東京ディズニーランドと東京ディズニーシーを合わせた面積に匹敵する広さだと言われています。大小天守を中心に、櫓49箇所、櫓門18箇所、城門29箇所あったようです。現在、宇土櫓をはじめ13棟が国の重要文化財建造物に指定され、全体のうち57.8haが特別史跡に指定されています。

 

二様の石垣
天守の右側には、『二様の石垣』といわれる、文字通り2つ重なった石垣が見られます。

傾斜が緩い古い石垣(右側)に傾斜が急な新しい石垣(左側)が築き足されています。これも熊本城の特徴的なチャームポイントでもあります。従来の古い石垣は加藤清正が、新しい石垣は細川忠利によって築いたものとされていましたが、近年の研究によると、新しい石垣は清正の息子こと忠広が築いたという説があるようです。

 

東竹の丸の櫓群

東竹の丸は、本丸の東側を囲む南北に長い平坦地で、国指定の重要文化財建造物13棟のうち10棟が集中しています。中でも南東部分には5棟が連続しており、北側から見ると『源之進櫓』少し空き『四間櫓』『十四間櫓』『七間櫓』『田子櫓』と並び、連続する櫓として本丸南東方面を防衛していました。

 

本丸御殿
正面から見て天守の右側に見える大きめの建造物が『本丸御殿』です。

本丸の最上段に設けられた本丸御殿は、主に儀礼や藩主の政務などが行われました。石垣と石垣をまたぐように建てられ、床下には『闇がり通路』と呼ばれる地下通路がありました。本丸御殿の南東部分にあたる『大御台所』のすぐ外に井戸があり、使い勝手が良かったそうです。

 

本丸御殿の『闇がり通路』
本丸御殿は二つの石垣をまたぐように建っているため、地下通路を有する特異な構造になっています。

その地下通路は昼間でも暗いことから、『闇がり通路』と呼ばれています。闇がり通路の入り口は写真のように暗いのかがお分かりかと思います。そのため、『闇がり御門』と呼ばれ、その上部の屋根は唐破風となっています。

 

熊本城 天守閣
本丸御殿のエントランスを抜けると、正面に2つの天守閣が威風堂々とそびえ立っているのが見えます。

そう、ここが熊本城の本丸にして天守閣です!

大小2つの天守閣があるのが特徴的で、大天守に施された2段の千鳥破風に最上階の唐破風が見事な風格を醸し出しています。茶臼山の上部に築かれた石垣によって2つの天守を支えており、大天守は3層6階地下1階建ての構造になっています。内部は戦闘に備えた造りになっているため、『部屋割り』となっているのが特徴的です。明治の初めに天守閣に登ったジェーンズ(熊本洋学校の教師)いわく「巨大な中世の武器庫である」と書き残しているそうです。確かにこれだけ巨大かつ強固な城なら、どんな戦にも応戦できたというのが想像できます。

一方、右側の小天守は大天守が完成した後に増築されたもので、景観を保つため西側に建てられています。こちらは2層4階地下1階建てで、内部は住居を意識した造りになっています。地下には井戸も掘られ、城内に敵が攻め込んできた状況でも、天守閣のみでの籠城も想定された構造になっているのだそうです。

しかしながら、2016年の震災で一部の石垣が崩落しているのは皮肉な話ですが、今でも復旧工事は進められています。

ビクティニ:これが熊本城か!でっかい!しかも天守が2つもあるなんて珍しい!

ミュウ:麓にいると改めて迫力を感じるね

ビクティニポンチョのピカチュウ:これだけ大きなお城だと、このお城がいかに難攻不落だったかが分かるよ・・・

トトロ:トトトロ~!(大きいお城だ!)

 

被災時の熊本城の様子
被災後当時の熊本城の様子です。

写真を見ればお分かりのように、甚大な被害を受けています。天守の屋根瓦や鯱などは崩落し、大天守の柱が損傷、小天守1階の床が沈下するなどの被害に見舞われました。特に小天守の石垣は崩落が激しく、大いに震災の爪痕が残っていたことが伺い知れます。

 

小天守の石階段

お城の入口には、かつて出入り口として使用されていた『石階段』が眼下に見えます。

この階段は江戸時代に小天守の地階(穴蔵)へ通づる通路の一部分であり、小天守から階段を下った先には二手に分かれており、城内の東側(東竹の丸)と西側(平左衛門丸)の区域へ至ります。文化財に指定されています。

 

熊本城 小天守地階(穴蔵)の内部
ということで、熊本城の内部へ入ってみましょう。

熊本城の入り口は小天守の地階から始まります。ここは『穴蔵』という場所で、井戸やかまどがあったことから、かつては籠城に必要な機能が備わっていました。これは18世紀末の絵図に基づいて、中央の土間や南北の板敷きの空間を平面で表現されています。

 

熊本城天守閣 工事銘板
かつて加藤清正公によって築かれ、日本三大名城として名を馳せた熊本城ですが、明治維新の進行とともに明治10(1877)年に焼失してしまいました。

そして、消失してから80年あまり、昭和34(1959)年4月に着工し、翌年9月に復元されました。現在の熊本城は鉄筋コンクリート造になっています。熊本城の再建は市民の念願だったそうで、市制70周年を機に大小2つの天守を原型に基づいて再建されています。標高50メートルの茶臼山に建てられ、城の総工費は1億8千万円とされていますが、当時の市長は再建に熱心的ということもあり、5千万円も寄与したそうです。

 

石階段と石垣
当時の熊本城は木造で、1階と小天守地階(穴蔵)の往来には、この石階段が使われていました。

石段の一番上から1階床までは1メートルの段差があり、2段の箱段が置かれていました。これは緊急時に段箱を取り外せば天守1階に登ることが困難になるという工夫だそうです。

天守の石垣も明治10年の火災で焼損してしまいましたが、築城時からの石垣を見ることもできます。さらに大天守と小天守それぞれの穴蔵をつなぐ開口がありましたが、昭和31(1956)年に塞がれています。

 

隈本城の改革
築城時は『隈本城』として14世紀に初めて歴史上に君臨したとされています。

当初、『千葉地区』にあったとされ、のちに『古城地区』に移ったとされています。また、茶臼山の周辺には中世から築城された要所であり、当時はその地区が政治の中心となった場所でもあります。その場所に築城された隈本城は、豊臣秀吉公からも『名城』と称していたのだそうです。

 

豊臣秀吉の朱印状

豊臣秀吉の朱印状には「肥後は良い国なので羽柴陸奥守に与える」というように、隈本城を『名城』として評価されたことから、居城にするように命じたといいます。

 

領土を奪い合っていた九州
当時の九州地方では、龍造寺隆信をはじめ、大友宗麟、島津義弘の将軍で領土を奪い合っていました。

龍造寺は肥前から肥後、大友は豊前や豊後、島津は薩摩や大隅を攻略していました。その中で龍造寺は島津に敗れ、肥後は島津によって支配されていったのです。

戸次川の戦い 豊臣秀吉が『惣無事令(そうぶじれい:「大名同士で戦してはいけません!」というお触れ)』を出します。これは、島津の勢いに危機感を抱いた大友が豊臣秀吉公に助けを求めたのが発端だといわれています。

しかし、島津氏はこれを無視、戦を続ける事を選びます。

そこで豊臣秀吉が長宗我部元親・仙石秀久らを大友氏の援軍として九州に派遣、豊後の戸次川で弟・家久がこれを迎え撃ち得意の『釣り野伏』で撃破します。この後、義弘は豊後の統治の為に府内城に入り、弟・家久は大友が守る臼杵城を包囲。

九州征伐 豊臣秀吉が20万もの大軍を率いて九州に上陸。

薩摩が狙われているとの事でやむなく豊後を捨てて撤退する事になったうえ、九州の諸大名・国人達が続々と豊臣軍に降っていきます。

 

根白坂の戦い 義弘と弟・家久が日向で豊臣軍と戦い、島津軍はほぼ壊滅状態となるほどに惨敗しました。

この後、義弘はまだ戦う姿勢を見せていたものの、兄・義久が豊臣秀吉に投降した事で戦は終結。

 

秀吉に仕えていた加藤清正

当時、九州を平定していた豊臣秀吉公は、天正15(1587)年6月、佐々成政へ肥後一国を与え、隈本城を居城とするため城の改修を命じます。ところが、任命から1ヶ月もせぬうちに領内の国衆が検地に反発して一揆をおこしたため、秀吉はその一揆を起こした罪として成政を切腹。そして、成政に代わり肥後北半国の領主に大抜擢されたのが加藤清正です。

 

肥後を与えた理由

豊臣秀吉が清正に肥後を与えた理由がここに記されています。

秀吉は清正の努力ぶりが認められ、大いに信頼されていたことから肥後国の領主となったのです。この理由から秀吉は清正の発展に大いに期待していたことが伺えます。

 

加藤清正
熊本城の生みの親でもある加藤清正は、尾張国(愛知県)にて生まれ、10代の頃より豊臣秀吉に仕えていたのです。

秀吉と柴田勝家との間で繰り広げられた賤ヶ岳の戦いで『七本槍』の一人として戦功をあげました。このように勇猛果敢な武将として活躍した清正。実際は秀吉の直轄地の管理を任されるなど、行政能力にも長けていたようです。

 

隈本城と城下

当時、隈本城の主要部は三段の地形からなり、中段の本丸には天守があり、西側と南側は水堀、東は白川、北は堀切で囲まれていました。

城の西側は武家屋敷で、川や堀・土塁・塀で囲った惣構がつくられ、その南側に置かれた町には上方(京・大坂)の商人が店を構えたといいます。

 

肥後入国までの清正のエピソード

清正が肥後への入国までに、10代の頃から豊臣秀吉公に仕えてきたのですが、秀吉から彼の努力が認められ、最初は120石だったのが、3千石と次第に上がり・・・最終的には19万5千石が与えられました。ちなみに19万5千石を米の量で表すと、1石が米150kg(2.5俵)なので、なんと2,925万石という換算になります。これだけ高い給与額が秀吉から与えられるほど、清正の信頼度の高さが図り知れます。

 

肥前名護屋城
天下統一を果たした秀吉公は、以前から構想していた明(中国)への進出のため、朝鮮半島へ出兵していたのです。

約7年間、二度に渡る出兵を『文禄・慶長の役』といい、清正も朝鮮に渡りました。出兵の拠点として大名らが共同で築いた『肥前名護屋城』た『倭城(わじょう)』ではこれまでの技術が合わさり、その後の日本の城の土木・建築技術に大きな影響を与えました。

その中で、天正19(1591)年10月、明(中国)進出の足がかりとして、豊臣秀吉の命令で名護屋城(佐賀県唐津市)の築城が始まります。加藤清正・小西行長・黒田長政を中心とした九州の大名らにより、翌年3月には完成したとされています。招集された160家の大名の陣が、城の周囲を取り囲んでいました。

 

西蒲生城の想像図と登り石垣

倭城は、秀吉の命令で朝鮮半島の南岸に築かれた約30箇所の石垣づくりの日本式の城です。

朝鮮に渡った清正は、以前からの築城技術に加え、これまであまり築城に用いられなかった石割りのような新しい技術を駆使し、さらなる試行錯誤を重ねて築城していきました。このように日本から大工や石工を呼び寄せ、他の大名と協力して行われたことから、その後に日本で広く城が造られるきっかけとなったのです。

 

朝鮮から持ち帰った屋根瓦

これは、全国の大名が朝鮮にて文禄・慶長の役に参戦した際、朝鮮半島の寺院や宮殿などかに葺かれた屋根瓦を船積みにし、日本へ持ち帰りました。中には、瓦職人を連れて帰ることもあったそうです。文禄・慶長の役は、その後の日本の瓦生産にも大きな影響を与えたといいます。そのため、清正をはじめとする大名たちは、城郭の屋根瓦として朝鮮的なデザイン瓦を多く使用したといいます。

 

慶長3(1598)年、豊臣秀吉公の死去とともに、国内の情勢は次第に不穏になっていきます。その最中、加藤清正はこれまで培った技術を結集し、茶臼山を本丸として新たに築城したのが、新城『熊本城』なのです。

 

関ケ原の戦いの前の九州の勢力図

関ヶ原の戦いの最中、九州においても各大名が東軍(徳川家康)か西軍(石田三成)か、それぞれを支持する立場を取りました。清正は早い段階で徳川家康公を維持したものの、肥後南半国の小西行長や肥後の立花宗茂などの西軍大名に包囲されていたようです。つまり、当時の隈本を支配した清正は徳川の味方だったということでしょうか。

 

熊本城(新城)築城
熊本城の新城は、茶臼山に築かれることになりました。

築城の地となった茶臼山は、9万年前の阿蘇火山の火砕流噴火によって、その堆積物が積もってできた山です。細長い台地の先端がやや広がったような地形で、坪井川や井芹川、白川の侵食によって高さ25~45メートルの崖が形成され、まさしく『天然の要害』にもなっていたのです。

 

天守の完成(石垣からみた各曲輪の形成時期)
慶長4(1599)年、茶臼山頂部にてまず天守の石垣(現在の天守台)が築かれ、それを土台にし、天守の建築が始まりました。
翌年10月には、ほぼ完成を迎えた天守の姿は大天守のみで、清正の死後に小天守が増築されました。

新城の築城がはじまると、現在の大天守や平左衛門丸・飯田丸などが石垣で造られます。続いて、西側の西出丸一帯が土作りの曲輪が完成、慶長7(1602)年には大黒櫓が完成、その4年後に本丸東側の拡張工事などが進められました。清正の死後も石垣の拡張が続けられ、息子の忠広の時代に現在の熊本城として完成しました。

この背景には、島津義弘を攻めるため薩摩へ向かう途中で、黒田如水を熊本の『新城』にてもてなすために天守の完成を急ぐよう指示をします。これは「黒田如水を新城で振る舞いたいので天守の建築を急ぎ、畳を準備しておくように」とあるように、慶長5(1600)年10月に畳を敷けるまでに大天守の建築は進んでいったのです。

これが、茶臼山に築かれた『新城』が初めて記録した姿だといわれています。

 

熊本城天守の軸組模型
これは熊本城の軸組模型です。

昭和35(1960)年の天守再建にあたり、復元設計を行った藤岡通夫(東京工業大学教授)の監修で制作された模型です。外壁や屋根の一部は取り外され、内部の部屋の間取りや建具、床、付書院なども見られます。この模型で細かな意匠を確かめ、鉄筋コンクリート造の図面に反映させることで、忠実な外観復元が実現したのです。

 

熊本城天守解剖図絵
熊本城を解剖した図絵です。
見ての通り、大変複雑な構造になっています。

天守の各階には畳が敷かれており、小天守の1・4階や大天守の6階のふすまや壁には狩野派や京都の絵師による障壁画で飾られていました。また、小天守の地階では、籠城に備えるため井戸やかまどが設けられていました。

 

望楼型と層塔型の違い
天守閣の形には『望楼型』『層塔型』の2種類があり、熊本城は『望楼型』という古い形式が使われています。

清正時代に建てられた大天守および息子の忠広時代に建てられた小天守が続櫓でつながったような形をしています。

 

天守の平面

大小の天守がそれぞれ異なる時期で建てられ、両者の天守は1階でのみつながっています。

一部の部屋には床や付書院などの座敷飾りを備えており、各部屋には武具にまつわる名前がつけられています。これには、細川時代の歴代藩主の武具が収められていたといいます。

 

天守と櫓
熊本城は2つの大小の天守の他に、他の城郭では天守に匹敵するほどの五階櫓が5基もあったそうです。

各々の曲輪の防衛拠点であり、シンボルでもある五階櫓は、熊本城の中の『小さな天守』ともいえるのだとか。天守や五階櫓の形を比べてみると、デザインに共通性や独自性が感じ取れます。このため、ここでは天守と似たような櫓が見られます。この規模から見ると、加藤清正と息子の忠広の築城技術が大変優れているのかが伺い知れます。

 

破風・懸魚・回縁も違い
2つの天守と櫓は、一見似たような形に見えます。

しかし、良く見てみると細部の違いが感じ取れます。例えば、破風では天守が美しい曲線を描くような反りがあるのに対し、五階櫓は直線的になっています。懸魚では、天守には華やかな装飾があるのに対し、五階櫓ではシンプルなものが用いられています。回縁は天守と宇土櫓のみで、天守は建物内部に回縁が取り込まれていますが、宇土櫓は部屋の外部に突き出るように設けられています。

 

天守と宇土櫓との高さ比較
熊本城のシンボルでもある2つの天守の大天守が一番大きいものです。

一方、宇土櫓の高さとしては小天守とほぼ同じのようです。

天守は、反りのある入母屋破風と同規模の千鳥破風を配置することで、四面とも同じように見せています。最上階には南北に唐破風が用いられ、回縁をめぐらせています。

一方で、宇土櫓は唯一の五階櫓。国の重要文化財にもなっています。こちらは直線的な破風を四面に均等に配置され、最上階の部屋外には回縁および高欄をめぐらせています。

 

天守破風原寸模型
これは、大天守最上階にある入母屋破風の破風板の原寸模型です。

破風の芯となる木地に漆喰の接着をよくするために竹に藁を巻いたものを巻き(巻竹)、更にその上に漆喰を塗り重ねて仕上げています。破風の中央には梅鉢懸魚があり、懸魚の中心には六葉があります。懸魚は破風と同様に仕上げられ、六葉には木に黒色の塗装が施されています。

 

熊本城大天守の破風と懸魚
熊本城の天守には入母屋屋根を重ねており、外観的には屋根のデザインに重点が置かれています。

城内の他の櫓とは違い、屋根の端の入母屋破風をゆるやかに反らせ、同様に大きな千鳥破風を二面に配置することで、四方とも同じような形に見せています。破風の細部には懸魚や狐格子などの意匠をこらしています。

 

御上段模型

御上段 見取り図
大天守6階の御上段の模型です。

これは江戸時代の平面図および古文書をもとに復元されたものです。障壁画には南側に『若松』、北側に『秋野花』が描かれています。部屋の北側には5階へ降りる階段があり、外側には敷板の縁を回しています。この模型は平面図の解釈から、中央の畳敷きの部屋が一段高く表現されています。

 

大天守と小天守の石垣
熊本城の石垣には、加藤清正のセンスが盛り込まれています。

その石垣は別名『清正流石垣』とも言われ、反りが見事な曲線を描いていることから、『武者返し』という異名を持っています。特に天守の石垣は、関ヶ原の戦いの前に完成した『大天守』、ならびにその十数年後に築かれた『小天守』で各々異なる特徴を持ち、勾配や石材の加工、積み方の技術の進化が感じ取れます。

 

石垣の構造
熊本城の場合、茶臼山に築いた城です。
これらの石垣群は、近江国(滋賀)から石工集団『穴太衆』によって造られました。

もともとあった茶臼山に『盛土』といわれる人工的に盛られた土をかぶせ、外側に『栗石』といわれる裏込め石を敷き詰め、さらに『築石』および『間詰め石』を敷き詰め、築石の間に『介石』を挟みます。こうすることで、初めて石垣の構造が出来上がります。

石垣の隅にも積み方の工夫が盛り込まれています。

この積み方には、『重箱積み』および『算木積み』がありますが、熊本城の場合、大天守には『重箱積み』、小天守には『算木積み』が用いられています。また、小天守の石垣の勾配が急であるのに対し、大天守の勾配は緩やかです。このように緩やかな曲線を施すことで、上部に行くほど勾配は急になり、敵が石垣を登るのが困難となるのです。さらに大天守では、天守を石垣の外側にはみ出させることで更に敵の侵入を困難にさせていたという工夫がなされたようです。また、大天守の築石があえて形が整わないようにしたのも、目地が不安定であるため、敵の侵入を困難にさせる工夫がなされたということが考えられます。そのため、西南戦争においてこの構造を持つ石垣群は非常に有利なものと言っても良いでしょう。

 

熊本城の防御仕掛け
熊本城には、敵から身を守るための仕掛けも数多く設けられていました。
一方で、それらの仕掛けにも、ただ敵から身を守るだけでなく、天守の外観美も保たれています。

もともと熊本城は、戦になった時に立て籠もるような建物にするために、壁や窓・忍び返し・狭間・石落としなどに様々な工夫がなされています。このように、実戦に備えるための各々の仕掛けにも外観を形どっているのです。外観は美しくも強固な防御態勢を保った力強さが感じ取れます。

 

鯱瓦
熊本城の大小の天守には鯱瓦の装飾が施されています。

『鯱』は、あくまで想像上の生き物ですが、頭は龍ないし虎でありながら、魚の体をしており、口から水を吐くための火除けとして天守の屋根に設けられます。これは古代寺院の大棟に用いた『鴟尾(しび)』が変化したものとも考えられ、やがて安土城を皮切りに全国の天守に飾られるようになりました。むろん、熊本城にも施され、瓦製の他に銅製のものもあったようです。まさしく、天守を守る装飾ともいえるでしょう。

熊本城の鯱の顔にはつり上がった眉、眉間のしわ、大きな丸い眼、横に広がった鼻、尖った牙、三日月形の耳など、力強さを感じさせます。全体的に反り返った形で、鱗は弧線を描き、背鰭や尾鰭が本体と一体化しています。なお、前鰭と後鰭は別々に製作されたもので、四箇所の穴に差し込むパーツとして造られたようです。

写真の鯱瓦は、宝暦13(1763)年に製作されたもので、前鰭と後鰭が失われているものの、残存状態は良好のようです。

現在の天守に飾られている鯱瓦は、2016年の震災後に復元された『平成の鯱瓦』で、宝暦の鯱瓦をモデルに復元製作されたものだそうです。

 

天守の瓦

熊本城で出土された瓦
天守の屋根には、古写真や出土品から『本瓦葺き』が用いられていたという記録が残っています。

熊本城の屋根には、大半が丸瓦や平瓦で覆い、軒部分には軒丸瓦や軒平瓦を交互に並んでいるの特徴的です。また、出土された瓦には加藤家の桔梗紋、細川家の九曜紋の家紋の他、三つ巴紋・桐紋・蓮華文などの文様が見られます。それらの瓦は明治10年の火災で焼失した際、片付けられた状態で見つかったことから、中には天守の屋根に使用されたものも含まれています。

 

城下町の変遷
これは、熊本城(新城)完成後の城下の変遷を表しています。
加藤清正は、城だけでなく城下の町づくりにも携わったというエピソードがあります。

加藤清正による熊本城の築城が一段落すると、城の南側を流れる『白川』にも変化が訪れます。もともと大いに蛇行するように流れていた白川は、城下の発展とともに清正の土木工事によって直線化が施されました。蛇行する白川は、地形によって城下の一部が分断されているため、洪水が起きるリスクがあったことから、河川の一部を直線化するように改修し、『外堀』として整備されました。また、旧流路は埋め立てられ城下の一部となり、かつて蛇行していた河川の一部も坪井川となり、内堀にあたりました。

坪井川と白川の間は、清正の別邸である花畑屋敷をはじめ家臣らの屋敷が建ち並ぶ新興住宅地となり、次第に城下が拡大していきました。そして、清正の死後も城下の発展は息子にも引き継がれ、護摩の石垣が設けられ、坪井川と白川を完全分離、さらに城下内に水路が設けられました。また、蛇行していた頃の白川に架けられていた『長六橋』も直線化された白川に架け替えられ、それを護摩街道の一部として整備され、細川時代には対岸に迎町が完成しました。

このような町づくりの背景から、加藤清正ならびに息子の忠広は『土木の神様』とも言われていたのだそうです。

 

新熊本藩主 細川忠利

細川家の略系図
天正14(1586)年に、丹後(京都北部)にて生まれた細川忠利は、15歳の頃に人質として江戸に狩り出され、徳川秀忠に仕えていました。
信頼を得た忠利は、元和7(1621)年に父の跡を継ぎ小倉藩主となり、さらに寛永9(1932)年には加藤家にかわり新たなる熊本藩主として君臨しました。

近世時代に、細川家は初代の藤孝(幽斎)は室町幕府将軍の側近より織田信長公に仕え、のちに豊臣秀吉公および徳川家康公に重用されました。2代忠興の時、関ヶ原の戦いの戦功から豊前・豊後国(福岡県および大分県の一部)に合計30万石を与えられ、細川家の基盤として成り立っていきました。忠興と妻・玉(ガラシャ)の息子・忠利が肥後国54万石を与えられ、寛永9年に熊本城に入りました。

 

細川忠利自筆書状

その際、忠利は「江戸城のほかにはこれほど広い城はみたことがない」とあるように熊本城のあまりのインパクトに感嘆したようです。

その後、細川家は11代にして239年間にわたり、熊本を治め、そして熊本城を守り続けてきたのです。

 

細川家の発展

細川家が熊本城に入るまでの動きです。

肥後国に入る前、忠利と忠興は、京都や九州北部を中心に、徳川家の家来として活躍しました。豊前および豊後の領主、小倉の藩主にまで成り上がり、やがて肥後国に入り熊本城領主として200年以上も治め続けてきました。

 

細川時代における石垣修理位置

細川家入国後の城改修 絵図

加藤家から細川家に引き継がれた後の熊本城は築城以来、地震をはじめ大雨や洪水など様々な被災をもたらし、その度に修理が余儀なくされました。

細川時代に行われた修理は少なくとも20回に及ぶ記録が残されています。そのうち半数近くは災害からの復旧のために行われました。

築城から25年たった熊本城では多くの箇所で修理が必要なほどであり、地震が頻発したことで石垣が崩落する被害は少なくありませんでした。そのため、忠利が熊本城を引き継いだ後は、この広大な熊本城を修復しなければならなかったのです。当時、忠利はこれだけ広い熊本城の修復を行うのに頭を抱えていたほど悩まされていたに違いありません。

そこで、寛永11(1634)年、熊本城の修復するにあたり、櫓や塀などの修復に加え、西側の空堀の拡張ならびに新たな櫓の設置など、城の防衛強化を望みます。幕府からの許可を受け、工事に取り掛かろうとします。ところが、徳川家光の病気に加え、島原一揆など当時の情勢から延期となり、工事が思い通りに実現しなかったようです。

 

詳細な熊本城の姿

江戸幕府が定めた『武家諸法度』では、新たな築城を禁止とし、その代わり修理だけは許可制としました。

そして、正保4(1644)年に幕府は全国の大名に『正保城絵図』の提出を命じました。城の構造は防衛にかかわる重要な軍事情報ですが、図は幕府に提出させ、城下や大名の城の詳細を把握するためのものだったのです。

この図は、空堀の深さ、石垣の高さや長さ、河川・水堀の水深や幅も記入され、更に城を攻める際に拠点となるに晴らしの良い山、行軍する時に必要な渡瀬の位置、馬を乗り入れる事ができる田地など、城の防衛に関わる情報まで書かれています。

 

熊本城と城下の模型

これは、熊本市役所新庁舎の完成を記念して昭和56(1981)年に製作したジオラマです。

令和3年に古町や山崎・幸田原なども追加されています。このジオラマでは熊本城およびその城下、坪井川や白川の変遷なども見ることができます。

加藤時代に造られた熊本城および城下は、新たに入国した細川家に引き継がれ、さらに拡張していきました。総面積約370万平方メートルにおよぶ熊本城下は、武士が住む武家屋敷地区、町人が運営する町、そして寺が効果的に配置され、当時としては一大都市にまで発展していきました。

 

城下の変遷

城下には、二の丸・千葉城・宮内・桜馬場・古城・内坪井・山崎には中上級の家臣屋敷があり、手取・京町・千反畑・高田原・外坪井・建部・子飼などの周辺部に下級家臣の屋敷がありました。新町・古町・坪井・京町の4地区には町屋があり、町人の代表が町を運営しました。城下は時代を経るごとに東に武家屋敷を拡大、白川の対岸に町が広がっていったのです。

 

細川家に伝わる甲冑

細川忠興(三斎)は、自らの経験に基づいて軽量化し機能性を高めた実戦的な甲冑を造り上げました。

これは、『三斎流』と呼ばれ、甲冑の1つの手本とされていたのです。この甲冑を装備し、出陣した関ヶ原の戦いにて忠興が戦功を上げていたため、細川家はこれを『御吉例の具足』として大切にされ、歴代藩主の甲冑にも引き継がれました。

 

あんたがたどこさ
熊本城下の船場地区にまつわる歌の1つとして『あんたがたどこさ』という日本の古い童歌が有名になっています。

「あんたがたどこさ 肥後さ・・・」というように、熊本の地名が出てくることから、熊本県が発祥とされています。一方で、埼玉県川越市が発祥なのではないかという説もあるようですが、定かではありません。この歌に登場する船場地区は坪井川が新町の南側でカーブする一帯のことで、熊本城の堀の役目を果たすとともに、舟で物資を運ぶのにも利用され、その付近に船着き場があったようです。その周辺に住み着いたタヌキたちもこの歌に登場していることから、この歌はタヌキにまつわる歌ともいわれています。

 

天守最上階
さて、天守最上階にやってきました。

ここからは東側には県庁や街並み、そして遠くには阿蘇火山の外輪山・中岳などの山々が見渡せます。熊本城で一番大きい大天守は高さ30メートルあります。これだけの高さがあると、周囲の敵の監視はおろか景色が眺望も素晴らしいです!当時の細川忠利もこの景色に感動していたことでしょう。

ビクティニ:うわあ~、とても高い!阿蘇山が見えるよ!

ミュウ:ちょっと雲がかぶってるけどね・・・

 

熊本城西側(金峰山と宇土櫓)
西側は、金峰山をはじめとする山々がすぐ目の前に見え、写真右下には『宇土櫓』が見えます。

一見するとたしかに天守に見えなくもないのですが、あれは『櫓』という建造物に含まれます。

宇土櫓は城内で唯一の五階櫓で、3層5階地下1階を持つ高さ19メートルあり、小天守とほぼ同じ高さです。分かりやすい違いでいうと、千鳥破風を見ると天守と比べて直線的になっているのが分かります。また、最上部の屋根もひさしのように突き出ています。あの規模の大きさを他のお城の天守に例えるならば、島根県の松江城と互角といったところでしょうか。

 

熊本城おもてなし武将隊
熊本城の見学を終えた頃には、『おもてなし武将隊』によるトークショー(?)が行われていました。

お城の前で武士たちとの共演はとてもよく似合います。まるでNHKの大河ドラマを見ているかのようです。しかし、武将隊のお姉さんが「ディズニーと同じ広さ」とか言っていましたが、熊本の人はディズニー好きが多かったりするのでしょうか(笑)

なお、このおもてなし武将隊のショーは2012年からやっているようです。

他にも、このお城を見学する人たちの殆どが熊本はもちろん福岡や鹿児島などからの訪問者が多いようです。

ビクティニ:すげえ!これが武士の格好なのか!かっこいいな!まるで時代劇を見ているかのよう。

ミュウ:武士らしく刀が出てきた!実に時代劇って感じ!

 

熊本城の脇に生えるイチョウの木
熊本城の脇には、加藤清正公が植えたとされるイチョウの木が植えられています。

ところが、明治10年の大火によって天守や本丸御殿はもちろん、このイチョウの木も焼失してしまいました。写真の右側の木の幹を見れば分かるように一部が黒くなっています。これが大火の時に焼けた跡がその部分なのです。その写真からすると、当時の大火の凄まじさを物語っていますが、今では新たな芽を吹き出し、大イチョウの木として成長しています。このような背景のエピソードにまつわることから、熊本城は『銀杏城(いちょうじょう)』という別名で親しまれています。なお、当時の加藤家や細川家はイチョウの木からギンナンの実がなると思われていたようですが、このイチョウの木は雄なので実にはなりません。

 

昼食
『桜の馬場 城彩苑』にて昼食をいただきました。

・・・というより軽食みたいな感じですが、ハンバーガーとウニコロッケをいただきます。

『桜の馬場 城彩苑』は熊本城のふもとにある観光施設で、熊本でしか味わえない食文化や特産品などが売られています。食事や軽食ができる他、様々な熊本のお土産が買えるので、熊本城の観光がてら立ち寄ってみるといいでしょう。

ビクティニ:熊本城はとても奥が深いお城だった。あれだけ大きな城はおろかその城下でさえも築いた清正と息子はすごかったんだな・・・

ミュウ:城内もすごく広かったね。1つ1つ見ようとすると日が暮れちゃうもの・・・

ビクティニポンチョのピカチュウ:おもてなし武将隊のショーも演出がすごかったね

トトロ:トトロ~(おいしい!)

 

城彩苑のくまモン
城彩苑にもくまモンがいます。

熊本にいると、至るところでくまモンに出くわす気がします。くまモンは熊本を代表するゆるキャラということもあり、熊本はおろか全国的に有名になっていますね。

ビクティニ:ここもくまモンがいる!

ミュウ:熊本にいると必ず見かけるよね

 

豊肥本線 肥後大津駅
さて、熊本城の見学が終わったところで、今日の宿泊先へ向かうため阿蘇駅へ進みます。

阿蘇駅までは豊肥本線を進むことになります。しかし、普通列車の場合、一部を除いて熊本駅からは途中の肥後大津駅にて必ず乗り換えになります。肥後大津駅までは電車で、ここから阿蘇方面はディーゼルカーによる運行になります。

18:20 肥後大津発 普通 宮地行きに乗車

 

熊本地震に見舞われた豊肥本線と南阿蘇鉄道
途中の立野駅には熊本地震の復旧復興の看板が掲げられていました。

豊肥本線も2016年の熊本地震の波を受けていたのです。

豊肥本線は令和に入ってようやく復旧が完了しましたが、第三セクターの南阿蘇鉄道は来年に復旧が完了するそうです。

ここ立野駅は南阿蘇鉄道(旧国鉄高森線)の乗換駅ですが、今は一部が代行バスで運行されているようです。

 

立野駅のスイッチバック
立野駅では、『スイッチバック』が特徴的です。

ここは、阿蘇カルデラの外輪山の一角に当たる部分であるため、その外輪山が白川の浸食によって、唯一途切れる場所です。そのため、ここで高低差188メートルが生じます。そこで、立野駅~赤水駅間はこの『スイッチバック』を利用し、標高を稼いでいきます。立野駅のスイッチバックは、最大33‰(パーミル)という急勾配を克服しているのです。

スイッチバックとは、鉄道で険しい坂道を上り下りするための鉄道設備の1つで、本線とは別に敷かれた引き込み線で助走をつけさせるタイプ線路をZ字を描くようにジグザグ状になっているタイプがあります。

豊肥本線は阿蘇カルデラの北部を通るローカル線です。標高170メートルの瀬田駅から標高277メートルの立野駅まで急勾配を登り、更に標高465メートルある赤水駅まで188メートルをこのスイッチバックを用いて進んでいきます。熊本方面からやってきた列車は立野駅に到着した後、一旦進行方向を逆方向に進ませて転向線まで進み、そこで再び進行方向を変えて赤水駅まで登るように進んでいきます。

立野駅のスイッチバックは『三段式(Z型)』で、日本のスイッチバックとしては最大級だそうです。

ビクティニ:すごい坂道だ。どんどん標高が高くなっていく。反対側の車窓に阿蘇山が見えるよ。

ミュウ:見晴らしがいいね。

 

阿蘇盆地の車窓

赤水駅を過ぎると、『阿蘇盆地』に入ります。

このあたりは『阿蘇くじゅう国立公園』であり、『阿蘇ジオパーク』にもなっています。

車窓の空は夕焼け色に染まり、いい感じに日が暮れてきました。夕焼け空と田園風景がいい感じです。

ビクティニ:夕焼け空がきれいだね

ミュウ:田んぼの景色もいいよね

 

阿蘇駅に到着

19:09 阿蘇駅に到着

今回の旅行で鉄道はここまでになります。

阿蘇駅で下車し、列車を見送ります。列車は終点の宮地駅へ走っていきました。

ビクティニ:バイバイ、豊肥本線。

ミュウ:田舎の駅って感じだね。

 

阿蘇駅
阿蘇駅は、言わずもがな阿蘇ジオパークの玄関駅です。

駅舎自体もいい感じに田舎の駅舎としての雰囲気を醸し出しています。

ここでレンタカーを借り阿蘇を回りますが、この日はホテルへ向かいます。

ビクティニ:まるで田舎に帰ってきたような気分。

ミュウ:でも田舎にいる割に、目の前にコンビニとかがあったり賑やかだね。

 

ホテル 阿蘇の司

さて、今宵の宿は『ホテル阿蘇の司』にて宿泊です。

阿蘇駅から徒歩約15分ほどの場所にあるため、アクセスは良い方です。

ビクティニ:今夜泊まるホテルか。いい感じだね。

ミュウ:駅から近い場所にあったんだね。

 

ホテル阿蘇の司の夕食

ホテルに到着したのが19時半過ぎであったため、チェックイン後はすぐに夕食にしました。

どれも阿蘇の食材をふんだんに使われており、とても美味しかったです。

ビクティニ:阿蘇のごはんはおいしい!

ミュウ:ステーキも美味しい!

ビクティニポンチョのピカチュウ:おいしい!

トトロ:トトロ~!(美味しい!)

 

ホテル阿蘇の司の部屋

このホテルは大浴場がいくつかあり、露天風呂もあったので、とても寛げました。

ビクティニ:おやすみなさい。明日は阿蘇カルデラを回るんだね

ミュウ:阿蘇山か・・・火山なんだよね噴火したら怖いかも

ビクティニポンチョのピカチュウ:火山と言っても火口まで行かない限り大丈夫だと思うよ。・・・でも確かに噴火が起こったらと思うとね・・・

トトロ:トトトト・・・(阿蘇山か・・・)

 

『日本三名城!熊本城を見学』をお伝えしました。