ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

北海道紀行2023GW 2日目 アイヌ文化の息吹く“二風谷コタン”を見学&夜の富良野でショッピング

皆さん、こんにちは。

今回は、新冠を後にして富良野へドライブします。

ちなみに、新冠ホロシリ乗馬クラブを出たのが10時半ごろなので、富良野に着くのがだいたい16時頃になります。今回はほとんど車での移動がメインです。

 

★新冠温泉から富良野へのルート★

 

新冠町から国道235号と国道237号を経由し、富良野へ目指します。

日高町で国道237号に入り、富良野まで北上します。この日はほとんど移動だけで終わってしまうかと思いますが、よろしゅうお願いします。

 

道中で見かける馬の放牧場

日高地方では、多くの放牧場が点在しているのが見受けられます。

このあたりは、馬の放牧場が多いようです。

 

二風谷コタン
ドライブの途中で、多くの古い家がたくさん建っている公園を見つけました。

ここは平取町にある“二風谷コタン“という場所です。

北海道各地では、アイヌ文化が伝わったとされるのがほとんどで、ここ平取町もアイヌ文化が伝わった場所の1つです。

ここでは、アイヌ文化に関する博物館や関連施設が集まっており、かつての営みを見せたアイヌ民族の人々の暮らしを学んだり、アイヌ文化ならではの作品なども購入できます。

“コタン“はアイヌ語で“集落”のことをいいます。

なぜここにこのような集落があるのかと言うと、この集落のそばには『沙流川』という川が流れており、この流域において食料や飲水が確保しやすく、なおかつ災害にも遭いにくい場所であることから、集落を形成するにふさわしい場所だからだといいます。

ビクティニ:ようやく休憩かと思ったら・・・。ここは集落かどこかの村?

ビクティニポンチョのピカチュウ:集落にしては、きれいだね・・・。

ぐんまちゃん:ここは博物館みたいだ。ここは『コタン』という集落があって、当時の集落を再現してるんだよ。

アルクマ:わらの家がいっぱいだクマ!

 

チセ(家)

ここの公園にあるチセ群も、当時の伝統的なアイヌ集落として再現しており、5月から10月にかけて内部の一部が見学できるようになっています。

“チセ“とはアイヌ語でいういわゆる『家』(『チ』=私たち、『セッ』=寝床)のことです。

一見すると、わらで作った竪穴式住居のように見えますが、外壁には『ヨシ』で覆われています。かつて蝦夷地だった北海道アイヌにつたわるチセは、長方形の外郭をベースとし、部屋はたった1つしかありません。地面を踏み固め、その上に茅を敷いて、更にその上にキナ(ガマで織ったござ)を引いて床となります。茅で葺いた壁の上にはチタラペ(花ござ)で覆って仕上げられています。また、内部の真ん中には囲炉裏が設けられています。

 

プ(倉庫)

写真の建造物は“プ(アイヌ語で『倉』)”といわれる食料庫で、チセの周りに設けられていた建造物の1つです。

高床式倉庫のアイヌ版といった感じでしょうか。

そこでは、食料となるサケやシカなどの肉といった食料が保管されていたそうです。

 

イタの製作の流れ
チセの中では、職人さんが“イタ“といわれる、アイヌの模様を纏った製品の製作を行っています。

“イタ“は、お盆のことで、主に食事などを運ぶお盆として使われるのはもちろん、湯呑などのコースターやまな板、装飾品などにも使われるのが殆どです。しかし、当時のアイヌ民族の人たちは、直接食べ物を盛るお皿として使われていたという説があります。木材には、クルミやカツラ、シナノキ、ホオノキが使われています。

それらの種類から切り出された木材は、それぞれの用途に合わせた大きさにカットし、ある程度の深さでくぼみを彫り、さらにそのくぼみに“文様“といわれる模様を彫っていきます。

その文様を彫るのには、緻密かつ繊細な作業なので、かなりの時間をかけて模様をつけているのだと思います。この工程で、アイヌならではの文様にこだわりが感じられますね。

 

チセの内部
チセの内部には囲炉裏が設けられており、ここで、食事や団らんをしたりする姿が思い浮かびます。まさしく昔ながらの民家ですね。

囲炉裏の上には干されたサケやイナキビ、オントゥレプアカム(オオウバユリの根でつくった保存食)などが吊り下げてあったりします。

チセは、上から見ると、だいたい長方形の形に建てられます。カシワ(アイヌ語でコムニ)やハシドイ(ブンカウ)などの丸太を柱にし、骨組みにはヤチダモ(ピンニ)などを使用し、壁や屋根にはヨシやススキなどの草の茎が厚く張られます。

復元されたチセで実際に暮らしてみた人の話によれば、夏は涼しく過ごしやすい、冬は囲炉裏で火を起こし、常に焚いた状態ならば寒くないとのこと。

それは、この厚い草の壁が『断熱材』となり、厳しい冬の寒さをしのぐことができたのだそうです。

 

チプ(丸木舟)
これは、“チプ”といわれる丸木舟です。

アイヌ民族に古くから伝わる技法で作られたもので、“チプサンケ(アイヌ語で言う“舟おろし”)”といわれる、舟に魂を入れる儀式が行われます。ここ平取町においては、アイヌ文化への理解を人々に伝えるために、毎年8月には伝統行事として、沙流川にて舟おろしが行われます。

 

チセとプの模型

平取町立二風谷アイヌ文化博物館にも見学してみましょう。

館内にはチセとプの模型が展示されています。

チセは、大きさによって異なり、小さいもので約33㎡(10坪程度)、大きなもので100㎡(30坪程度)だったといいます。チセは、釘を使用しない堀立式住居で、柱などはブドウヅルやコクワのツル、シナ縄などで固定されます。屋根や壁を葺く材料には、その土地で手に入りやすい素材が使われていたのだそうです。

蝦夷地においてヨシや茅が使われるのがほとんどでしたが、地域によって道央部の上川地方ではササ、道東部では木の皮が使われていた地域もあったそうです。材質や住み方にもよりますが、20~30年は住むことができたそうです。一軒のチセには一家族が住み、結婚すると独立して別の家を建てるのです。

 

チセの内部の再現

 チセの内部は長方形の一間で、入り口寄りに炉があり、この炉を中心にして主人夫婦、子供たち、客の座る場所に厳格に決められていたのです。炉で燃えている火は、アペフチカムイ─火の姥神とも呼ばれ、日々の生活を見守るための重要な神ともいわれていたのだそうです。儀礼を行うときや狩猟に出かけるときなど、まず最初にこの神に祈ります。また、屋内には、チセコロカムイ─家を守護する神が祀られ、アペフチカムイとともに、家族の日々の生活を見守っているのです。

 

木彫り工芸
北海道に行くと、よくクマの木彫りが土産屋で売られるのを見かけたりするのがしばしばかと思います。
この地域においても、木掘り工芸の伝統が深く根付いているのです。

平取町の伝統的な物質文化の面では、伝承するための活動が日常化している、現代社会において数少ない普及分野だといっても過言ではありません。

平取町だけでも木彫工芸家の職人が多く、今日でも多くの作品が生み出されています。しかも、その彫り手の技術は大変優れ、全国規模のコンクールでしばしば受賞されるほどなんだそう。

このように、蝦夷地時代から代々受け継がれてきた木彫りの文化は今でも息吹き、現代社会の21世紀において残すべきアイヌの伝統文化の1つでもあるのです。

 

ラムラムノカ(うろこ彫り)
蝦夷地では、お盆や箱などに付けられる模様(『文様』ともいう)として、“ラムラムノカ”といわれる“うろこ彫り”が施されます。
これも他の地域では見られない、アイヌ文化ならではの特徴でもあります。

当時のアイヌ民族の人たちは、彫刻刀を使い巧みなる木彫りをこなしていたのでしょう。このように大昔から木彫りの技術に浸透してきた文化が、現在にわたり引き継がれていったのが、まさに現代に生かした伝統工芸文化ともいえるべきではないでしょうか。

なお、このようなうろこ彫りが施された伝統工芸は、『二風谷工芸館』で購入することができます。

 

アイヌ民族が生活に使ったとされる様々な道具
ここでは、アイヌ民族が生活に使ったとされる様々な道具が展示されています。
狩りをするために使った弓矢や小刀、食事に使う食器など、アイヌらしくすべて草木からできています。

このようにアイヌ民族の人たちが、この地域しかないものを拾っては生活のための道具として変換していたようです。これがいわゆるアイヌ文化ならではの原始的なものばかりですが、昔の人はこうして知恵を活かして当時の生活として成り立っていったことが分かります。特に、“イタ”や刀の柄、箱などについている“文様”は見事な彫刻技術で、この芸術的な伝統工芸は、現代でも通用する代物です。

 

シンタ(ゆりかご)

どんな時代でも、子育ては欠かせないものです。

これは、アイヌ民族が使ったとされるシンタ(アイヌ語で言う“ゆりかご”)という道具です。

このゆりかごで赤ちゃんを安らかに眠らせていたことでしょう・・・。

 

アイヌ文様
衣類やイタなどには“アイヌ文様”といわれるアイヌ地方特有の模様が施されています。

先程の“イタ”などの木材は、彫刻刀を用いて模様が施されますが、衣類にはその文様を縫い込むことで施されていたのです。

その衣類に模様を縫い込む作業もまた、細かい作業であったかと思われます。手縫いの針を使って模様を付けていたのもまたアイヌ文化ならではの特徴でもあり、文様なしでは服として成り立たなかったほどだといいます。

特に、求愛を受け入れた相手に対し、自分で刺繍した手甲や脚半を贈ることで、一通りの仕事をこなせるようになった、妻として立派にやっていけるという証にもなるほど“文様”はかかせないものだったといいます。

アイヌに伝わる文様はいつごろからあったのかわからないぐらいに古いもので、紀元前より伝わったものではないかと思われます。しかし、古くから丹精を込めた文様だからこそ、大切な人を守り、いつまでも飾りたいなどの思いが込められ、その心とともに先祖代々継がれていったのでしょう・・・。

 

樹皮や草の繊維を用いた衣類
植物の繊維を利用した、織物や編物、そして衣類が作られ、当時のアイヌ民族の生活に役立てていたといいます。

木の内皮や草の繊維を素材とし、織物や衣類に仕立てたり、あるいはゴザを編んだり、はたまた袋など運搬用の道具をこしらえる方法は、今でもそのまま伝わっています。さらに、それに応用・工夫がなされた新しい手法やデザインなど、オリジナルの製品まで作られ、現代の生活でも通用するような伝統工芸も作られています。

とりわけ、アイヌ民族に伝わる衣装の代表的な存在として扱われる“アットゥシ織りの服(厚司)”を作り上げる工程については、材料の『オヒョウ』の樹皮の採取と処理から文様を施し仕上げる技法です。

これもアイヌ地方を代表する伝統工芸の1つといっても過言ではありません。

 

アットゥシアミブ(あっし織りの着物)

アットゥシアミブ(あっし織りの着物)もアイヌ文化ならではの伝統工芸の1つです。

 

チセができるまで
コタン(集落)に建てられるチセ(家)が完成するまでの工程です。

まず、建てる前に囲炉裏の位置を決め儀式(地鎮祭)を行った上で、チセが建てられます。

柱を立て、“ケトゥンニ(三脚柱)”をのせ縄で固定します。

さらに屋根組みののち、茅で葺いていきます。屋根葺きが終わったあと、今度は板を使い茅をそろえていきます。木を並べた上に茅とトマ(ござ)を敷き、熊皮を広げ『寝床』をつくります。

上の写真の真ん中の図は、出入り口や囲炉裏、窓の配置図です。

チセは、コタンの近くにある川の流れと平行方向に建てられます。

“川上の窓(ロルンプヤル『上座の窓』=図で言うF)”はカムイ(アイヌで言う“神”)が出入りするいわゆる“カムイプヤル『神の窓』”として大切にされるため、簡単に外からのぞけないような窓配置になっています。このようにして、チセを建築する際、窓の配置が決められていたそうです。

そして、チセが完成すると、お祈りが行われ、その後は魔除けの弓矢を射られます。

 

アイヌ民族が生活に使ったとされる様々な道具(料理)
アイヌの人々が使ったとされる料理道具です。

料理と聞くと、我々が普段の生活でよく行われるのが、現代こそ欠かせないものかと思います。しかし、アイヌ地方においては、限られた環境の中で食材を集めるために、動物の狩りをしたり、野草を採取したりしなければならない環境でもありました。そして、この地域ならではの食材を活かし、食に対する『あたりまえ』でなく『いただく』というありがたみが感じられます。また、調理器具や食材を確保するための道具を作るために必要な木材や草、石材、鉄などもこの地域では貴重な材料でもあります。

北海道に限らず、ある地域では『郷土料理』として親しまれるのがほとんどですが、実は、その地域で限られた食材をふんだんに使っているからです。蝦夷地の北海道でも、食文化に対するありがたみを理解するために、アイヌ民族時代から限られた食材を採取し、料理に至るまでの工程を行う伝統的な食のあり方の体験は、現代において必要なことだと思わせます。今でこそ、電子レンジや調理器具で簡単に料理ができる時代ですが、昔は食材を集めたり料理をする苦労こそが、『食へのありがたみ』として解釈できます。また、食材の保管方法も、今でこそ当たり前に使う冷蔵・冷凍庫も、当然ながらその時代にはありません。そこで、食材をとったらすぐに調理するか間をおいて処理をした上で蓄え、季節ごとの食材を考慮しながら使う分だけ消費していくというスタイルが、当時の暮らしとしては一般的だったといいます。中でも『山菜採り』は食材の取得方法として典型的で、家族同士で山菜採りに出かけたりするのが日課だったほどだそうです。

こうした伝統的な食文化が現代でも生きているのが、季節ごとの食材の把握、調理方法は、今でこそ現世に伝えるべき“伝統的な食文化”なのではないでしょうか。

 

クワリ(仕掛け弓)
獲物である動物を捕るために、仕掛けが必要になります。
そこで、“クワリ”といわれる仕掛け弓が使われます。

この道具を使うことで、一番多く熊を仕留めることができた狩猟用具です。アイヌ民族たちが頼りにしていたものだそうです。まずは、熊の足跡を見つけたり、あるいは熊が通らなけれなならない細いやせ尾根や獣道のそばの草むらなどにこの罠をしかけます。

この罠には、Y字型棒、弓、矢、ヘチャウエニ、糸、房目の板などの形状があります。

このクワリに仕掛ける矢はマカニッアイといい、遠くにいる獲物を射るのではなく、目の前にいる熊に射こまれる先なので、矢羽も軽さも必要なく、代わりに重くかつ丈夫に作らなければならないのです。そこで、木の中で一番堅く重いとされている“さびたの木”(のりうつぎ)で作ります。

 

イヨマンテ(熊送り)
“イマヨンテ”は、ものの魂を神の国へ送り返す儀式のことです。
アイヌ語で“熊送り”を意味します。

アイヌの人たちにとって、大切な動物や、使えなくなった道具に対して、丁寧な感謝といたわりを込めて祈るのです。特に、1~2年の間、家で飼育した子熊を送る時は盛大に執り行われたそうです。また、近くのコタンだけでなく、遠くからもお客を招くこともあったり、はては前もって酒をこしらえたり、準備が大変だったそうです。

“イヨマンテ”というお祭り自体も、みなで“ユカラ”を聞いては歌い、踊り明かしたりの賑やかなお祭りだったそうです。

 

カムイミンタラ(神々の祭り場)

火の神や水の神は位が高く、先祖代々の神々は人間と同じ姿で暮らしているのです。

クマやタヌキの神は、時々、肉や毛皮を身にまとい、人間のところへ遊びに来ることを、アイヌの人たちから考えられてきたのです。ここに建つチセは人が住む場所でなく、神々が集い遊ぶ神の国の祭り場であるからなのです。

ここに展示されている捧げ物を使い、神々とともに祭っていたのでしょう。

 

アイヌの様々な伝統工芸品
アイヌの伝統工芸品は、木工品から織物までセンスの良さが伝わってきます。

当時のアイヌ人たちの生活に使っていたことはもちろん、現代では“伝統工芸品”として大変価値の高いものであることが感じ取られます。かつて日用品として使われていたこれらアイヌの工芸品も今や“美術品”ですら思わせます。

ここに展示されている工芸品は地元の職人たちが作ったものだそうです。

 

アットゥシ(あっし織り)
アイヌの人々は、限られた環境の中で草木を集め、それらを巧みに活かしながら日常の生活に発展していったのです。

これは“あっし織り”といわれる織物を作るための道具です。

オヒョウの木の皮から繊維を取り出し、それを糸にして“あっし”という織物に使用されます。5月から6月にかけての時期が、この作業を行う上ではちょうど良い季節とされ、沙流川の上流の谷間のものが質の良いことから、わざわざそこへ行って集めたりしていたそうです。

工程としては、木の皮をはぐ時は丸裸にせず、4分の3以上は残し、あとは紐で縛っておくのです。そうすることで、枯れにくくします。自然の草木の特性をよく理解したアイヌ人らしい工夫が感じ取れますね。

 

儀式に使った冠や飾り
儀式に使われた冠や飾りが展示されています。
これらは、かつてアイヌ地方において“儀式”が執り行う際に、欠かせないものだったといいます。

飾りには、真珠やシカの角、金属などが使われていますが、冠はヨシやカヤなどの植物から作られているようです。

アイヌの伝統的儀式は、カムイノミなど古くより伝わる儀礼でもあります。

“アイヌプリ”と言われる古来の精神と作法を踏まえた儀礼が執り行われること自体も今や珍しいものになっています。現在、平取町で毎年執り行われる儀式は、“二風谷チプサンケ”と“ポロマップ(旭)イチャルパ”の2例があります。二風谷チプサンケは、新造した丸木舟の安全祈願の儀礼がもとになったお祭りで、旭のイチャルパは、強制移住をさせられたアイヌの人々の慰霊祭として執り行われます。

ただ、これはあくまで公開で行われている事例で、それとは別に例えば家の新築や新車購入に伴うお祓いなどの日常生活に関する儀礼がアイヌプリで行われる事例もあるそうです。

 

チェプコイキ(川の漁)に使用された丸木舟
これは、沙流川のサケ漁に使われたとされる丸木舟の模型です。

平取町を流れる沙流川には、秋から初冬にかけてサケが遡上します。

今でもそうですが、当時のアイヌの人たちにとってもサケこそ食に欠かせないものでもありました。そこで、2艘の丸木舟を用いて、両舟の間に網を仕掛け川の流れに逆らうサケの習性を利用し、川の流れる方向へ2艘の舟と網を動かし、サケを捕っていたのです。もちろん、とったサケは長期間保存はできないので、必要な分だけ捕っていたようです。保存用として卵を産んだ後の個体が使われます。沙流川のサケはアイヌ人の他に、キツネやカラスなどの餌にもなったりします。

 

トゥキパスイ(捧酒箸)
儀式でお祈りをする際には、“パスイ”といわれる箸の先端に酒をつけ、神々に捧げます。

当時のアイヌの人々はこれを“ただの道具”として取り扱うものでなく人間の願いを神へ伝えるための“特別な生き物”として考えられていたといいます。いわば、人間と神との仲介役だと思っていたのでしょう。

このように、大事なものだけには、工夫をこらし作ったものがたくさん残されているのです。

 

アイヌ語
アイヌ語は、北海道において必ずと言っていいほど馴染みのある語源です。
蝦夷地時代から伝わる“アイヌ語”は、今でも使われています。

写真の単語コーナーは、基本的な挨拶や様々な単語をアイヌ語にしたもので、この地域ならではのアイヌ民族の会話が成り立っていたことでしょう。

このように、アイヌ語を絶やさず受け継いでいこうという気運が次第に広がり、とりわけ二風谷アイヌ語教室では、アイヌ語を現世に伝えるべく、『アイヌ語教室』が催されます。

これは、萱野茂氏が主宰し、近所の友だちを対象に昭和58(1983)年より実施され、二風谷を拠点に次第に発展していきました。さらに、昭和62(1987)年より北海道教育委員会の補助金が交付されたのを機に、発展的に改編、北海道ウタリ協会の事業として各地の支部にて取り組まれたのが、ここ平取町と旭川市です。この2教室をはじめ、2019年9月現在では、札幌や日高、十勝、道東、オホーツクなど、道内のアイヌ協会数は50、地区連合会は4に及ぶなど、日常生活においてもアイヌ語を活かそうという動きが強まっているようです。

こうして、かつてアイヌ民族の間で馴染みのあったアイヌ語が現世に語り継がれ、日常生活でもそれが生かされ、北海道ならではの特徴的なアイデンティティとして受け継がれていくことでしょう・・・。

もちろん、JR北海道の鉄道駅名でもアイヌ語が使われているのがほとんどです。

 

アイヌ民族が生活に使った様々な道具
アイヌ文化における衣住食の生活の営みは、蝦夷地ならではの自然の恵みを活かし、彼らアイヌ民族の生活として成り立っていたのです。

植物からはもちろん、食用として使われるサケの皮も、靴などの履物にも使われたり、火起こし用の石や、“ちぎり”といわれる獲物の肉を取り出すための道具として鉄がつかわれるなど、アイヌ民族の生活には欠かせない道具が使われてきたことが感じ取れます。他にも、植物や獲物を使って魔除けやお守りなどにも使われていたようです。

 

アイヌの文化として語り継がれる伝統工芸品
職人によって生み出されたアイヌ地方の様々な伝統工芸品が作品として展示されています。

お盆をはじめ、置物、木鉢、捧酒棒、小物入れ、小刀などの作品が、日用品用途とはいえ、他では見られないアイヌ文様は然り、他の木工作品にもアイヌならではの素朴さが感じられます。見ているだけでも楽しいものです。

 

現代における二風谷の工芸たち

アイヌの伝統文化において、木彫りや織物、編み物、チセ、刺繍、伝統的儀式、アイヌ語、狩猟、料理、舞踊など、様々な分野にわたって、現世でも工夫しながら新たな取り組みとしてその文化が活かされています。

平成4(1992)年以降、毎年2月に実施されるアイヌ文化祭の伝承活動発表会を通して、アイヌ文化に関する研究や実践が随時行われています。

ここに展示されているものは、シシリムカの匠たちによって作られた工芸品です。

 

トゥキ・オユシペ(杯・天目台)

この漆塗りの器は、一見普通の塗器のように見えて、実はアイヌの歴史を語る上で欠かせないものだそうです。

あるアイヌ人が若い時に厚岸の漁場に行き1年間働いた報酬がこのお椀だったそうで、過酷な環境な中で働いていたのでしょう。当時のアイヌにおいて、漁場などで奴隷のように働かされていたようです。この1個のお椀が1年間の報酬であることを考えれば、当時のアイヌ人にとっては最高な代物だったのでしょうね。

 

『21世紀に受け継ぐアイヌ伝統文化』として、様々な分野にわたって、“失われつつあるもの”というイメージが先行しがちだったアイヌ文化ですが、いまだ生命力を保ち、活力を回復し、かつ増大させつつあります。今でこそ発展途上であると見なすことさえもできる“アイヌ伝統文化の今目的継承”が今後の課題ともいえます。

というのも自然に自ずとそうなるわけでなく、様々な努力の重ねが必要になってくることでしょう。多様かつ複合的な伝承活動上の課題を根本から解決するためにも、『イオル』と称されてきたアイヌの伝統的生活空間を現代の状況に合わせて再生させていくことが重要であるということです。この土地ならではの生活文化ならびに生業文化としての継承を礎に、新たなアイヌ文化の創造が温故知新の試みとともに発展していくことでしよう。

 

富良野の一本桜(上御料)
さて、平取町から車を走らせてかれこれ1時間半・・・ようやく富良野にやってきました。

富良野の上御料という場所に、緑の原野の中にぽつんと生えている一本桜が見事な満開を迎えています。上御料の一本桜は、我々が宿泊する新富良野プリンスホテルよりやや南寄りに位置しています。

晴れ渡った青空に、背後の山の風景、そして緑の原野に生える一本桜のコントラスト・・・これぞGWの時期しか味わえない“北海道の春”そのものです!

ビクティニ:あの桜、見事な咲き具合だよ!まさに北海道の春だ!

ビクティニポンチョのピカチュウ:まるで原風景のよう・・・。

ぐんまちゃん:群馬の方はもう桜は散っちゃったのにここでは満開になっているんだね。

アルクマ:長野の方も桜の季節は終わったけど、北海道の桜はちょうどいい見頃だクマ。

 

新富良野プリンスホテルに到着
16時頃、新富良野プリンスホテルに到着です。

新冠町を出発し、ここまでの走行距離は約150km、所要時間は二風谷コタンでの滞在時間も含めて約5時間。かなりの長距離ドライブとなりました。

ビクティニ:昨日、帯広を出発して、襟裳岬や日高地方を回って富良野まで来たのね。日高地方からここまで来るだけでも1時間半もかかったのね。

ビクティニポンチョのピカチュウ:北海道って広いから移動時間もかかるよね。

ぐんまちゃん:お部屋から十勝岳が見えるよ!

アルクマ:これが富良野の風景なんだクマ。向こうに見える山が長野みたいだクマ!

 

富良野・ドラマ館
ホテルのすぐ近くには『富良野・ドラマ館』という素朴な建物があります。

まるで田舎の駅舎のようにも見えます。

ここでは、『北の国から』をはじめ、『優しい時間』『風のガーデン』のオフィシャルグッズが売られています。

ビクティニ:雰囲気のいい建物があるよ。なかなか素敵な雰囲気だ。

ビクティニポンチョのピカチュウ:あたたかみが感じられるね。まるで故郷に帰ってきたみたい。

 

ニングルテラス
ホテルの敷地内にある『ニングルテラス』は富良野の観光名所になっています。
素朴なログハウスが立ち並ぶ、温かみのある雰囲気です。

ここでは、北海道ならではのお土産品がショッピングができ、様々な木工作品が売られています。木のお人形をはじめ、かざぐるま、切り絵、ろうそく、竹とんぼ、鉄細工、万華鏡、様々な作品を見ているだけでも楽しいものです。また、予約をすると木工品を自分も手で作ることができたりします。しかし、この時期はまだ例の病気が影響していたため、体験できないのは残念・・・orz

とまあ、お店の木工品には興味深いので、いくつか買い物をしました。

ビクティニ:あ!この椅子、いい作品だね!休み場にちょうどいいかも!作者さん、これ買ってよ!

作者:いいですよ。・・・なるほど、これは良い出来栄えですね。・・・これにしましょう。

ビクティニ:ありがとう!

ビクティニポンチョのピカチュウ:みんないい作品で、どれも欲しそう・・・。

ぐんまちゃん:この時計すてき!これも買っていこう。

アルクマ:木のお人形もすてきクマ!これにするクマ!

作者:はいはい。わかりました。

 

新富良野プリンスホテルでの夕食

ホテルの夕食もとても美味しいです。

カニはもちろん、寿司やラーメン、様々な北海道名物が並べられています。

まさに北海道ならではのグルメが勢ぞろいです!

ビクティニ:いただきます!・・・とても美味しい!さすが北海道!

ビクティニポンチョのピカチュウ:なにもかも美味しい!

ぐんまちゃん:ラーメンも美味しい!

アルクマ:長野ではカニなんてなかなか食べられないクマ!おいしいクマ!

 

夜のニングルテラス
夜のニングルテラスです。
あたりが真っ暗な空間に浮かぶ明かりが幻想的です。

この光景を見ていると、やすらぎを感じるのが不思議です。北海道にまた来る機会があるなら、ぜひ訪れたいものです。

 

新富良野プリンスホテルのお部屋

さて、今夜は新富良野プリンスホテルにて宿泊。

明日は、帯広までドライブし、帯広からJR根室本線で釧路まで進みます。

ビクティニ:明日は美瑛まで行ってみようよ!

ビクティニポンチョのピカチュウ:青い池はやめといた方がいいかな。渋滞してしまうらしいから。

ビクティニ:いや、牧場の方へ行くんだよ。ヤギや羊が見たいんだ。それに明日は帯広に戻って釧路へ行く旅程だし、移動距離も時間も馬鹿にならないくらいかかるからね。

ぐんまちゃん:まあ、基本的にドライブを楽しむ形かな。

アルクマ:時間に余裕を持ってドライブするといいクマ。

 

『アイヌ文化の息吹く“二風谷コタン”を見学&夜の富良野でショッピング』をお伝えしました