ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

伊豆急のアロハ電車で行く開国のまち“下田”への旅

みなさん、こんにちは。

今回は、伊豆急のアロハ電車で下田へ行ってきました。

 

ということで、熱海駅に来ています。

 

熱海駅

新幹線で熱海駅に来ました。

ここからJR伊東線および伊豆急行線に乗り換え伊豆急下田駅まで向かいます。

ビクティニ:熱海まで来たよ。伊豆急で走っている『アロハ電車』で下田へ行くよ

くまモン:熱海って温泉で有名だモン!熊本にも温泉が多いけど、伊豆も温泉が多いんだモン

 

伊豆急8000系
伊豆急行線には特急『踊り子』をはじめ、黒船電車ロイヤルエクスプレスなどの観光列車の他、8000系の普通列車なども走っています。

この電車は、元東急電鉄8000系として走っていた車両です。

ビクティニ:この電車は伊豆急の電車だけど、お目当ての電車はこれじゃないんだ

くまモン:え?その次がお目当ての電車だモン?

 

伊豆急3000系(アロハ電車)

そう、お目当ての電車はこれです!

この電車は何を隠そう元はJR東日本の209系電車として走った車両なのです!

この電車がデビューしたのは平成5(1993)年のことで、当初は京浜東北線の車両として活躍していました。しかし、後継車両への置き換えとともに平成22(2010)年に京浜東北線から姿を消します。置き換えられた209系に次々と廃車が出る中、一部の編成が房総地区へ転属。更にその一部の編成が伊豆急行への譲渡が決まり、『3000系』としてデビューし『アロハ電車』という愛称で令和4年4月に登場しました。帯には伊豆ならではのイラストが盛り込まれ、イルカ・ハイビスカス・ウミガメなどの模様がつまっています。

かつて通勤電車だった車両が観光電車としてデビューすることになったのは、ある意味奇跡に近いかも知れません。

ビクティニ:そう、これが『アロハ電車』なんだ!

くまモン:ずいぶん派手なデザインだモンね!

 

★アロハ電車で行く下田旅の映像★


www.youtube.com

 

伊豆急3000系 車内
さて、この電車で伊豆急下田へ向かいます。

車内は、先頭車はセミクロスシート、中間車はロングシートと房総地区で活躍していた時とは変わりませんが、車内の内装は観光列車らしく施されています。例えば、ドアに伊豆をイメージした写真がプリントされていたり、広告の代わりにアロハ電車についての案内が綴られています。

ビクティニ:昔は通勤電車だったはずなのに、観光列車として走っているのは不思議な気分・・・

くまモン:窓も大きくて見晴らしがいいんだモンね・・・

 

伊豆急行の車両の窓には伊豆七島の案内
伊豆急行の車両の窓には、伊豆七島の案内が表示されています。

伊豆急行は東伊豆の海岸線を走るため、車窓からは太平洋に浮かぶ島々が見れるのもその路線の景観の特徴なのです。

熱海駅から乗車した伊豆急の車両はJR伊東線を通り、伊東駅から更に南は伊豆急行線に入ります。

 

伊豆急行線の車窓から見る伊豆大島
伊豆急行線は、伊東駅から伊豆急下田駅を45.7kmで結ぶ路線です。

その路線は、伊豆半島東部の海岸線に沿って走ります。途中の片瀬白田駅~伊豆稲取駅では、車窓から太平洋に浮かぶ伊豆七島が見渡せます。伊豆急行線の車窓から正面に見える大きな島は『伊豆大島』です。伊豆大島は伊豆七島で一番大きな島で、面積は約90㎢あります。東京から約120km、伊豆半島からは約25km離れた場所に位置しています。伊豆七島には伊豆大島の他に『利島』『新島』『三宅島』『神津島』などが見渡せます。

ビクティニ:電車の車窓から島々の景観が見れるのは、ちょっと不思議な光景かもね・・・

くまモン:熊本でいう三角線みたいなところだモンね・・・

 

209系からアロハ電車になるまでの経緯
車内の天井には209系からアロハ電車になるまでのエピソードが綴られています。

京浜東北線時代から千葉地区での普通列車運行。そして、第三の人生として伊豆急行で活躍中のエピソードまでの写真が飾られています。

 

伊豆急下田駅に到着
熱海駅から1時間半ほど・・・伊豆急行線の終着駅『伊豆急下田駅』に到着です。

ここは『南伊豆』というエリアで、伊豆急下田駅は伊豆半島で一番南にある駅です。北緯34度40分44.85秒 東経138度56分39.20秒の場所にあり、北緯としては離島である伊豆大島とほぼ近い位置にあり、房総半島の野島埼灯台よりさらに南にあります。ここまで来れば十分南国といってもいいでしょう。

ビクティニ:伊豆急下田駅に到着したよ。まるで気候が違うみたい

くまモン:雰囲気が熊本と似ているモン

 

ホームに鎮座されている100系電車の車輪
ホームの端にはかつて伊豆急行線を走っていた100系電車の車輪がモニュメントとして展示されています。

そして、下田市の位置が記されたボードも設けられています。このボードを見てみると、下田市が各都市からだいぶ離れていることがわかります。

ビクティニ:半島とはいえ、まるで離島にいるような気分・・・

くまモン:天草みたいに遠いモン

 

伊豆急下田駅にて昼食
さて、下田に到着したところで、昼食です。

伊豆急下田駅にあるレストランにて刺身定食をいただきました。

ビクティニ:いただきます!・・・うまい!現地で食べる魚はやはり

違う!

くまモン:伊豆の魚も美味しいモン!

 

伊豆急下田駅前にあるサスケハナ号のモニュメント
伊豆急下田駅の広場には、『黒船』として人々から恐れられた『サスケハナ号』のモニュメントが展示されています。

言わずもがな、下田はペリーが来航してきた町にして初めて開港された町として有名です。

『サスケハナ号』は、主にペンシルベニア州を流れるサスケハナ川から由来し、『サスケハナ』はインディアンの言葉で『広く深い川』を意味しています。

嘉永7(1854)年には、開国を要求するため下田に七隻の黒船が訪れるのですが、これには以下の経緯で下田が開国の地になるきっかけとなったのです。

嘉永6(1853)年6月のこと、アメリカの東インド艦隊司令長官兼米使提督マシュー・ペリーは軍艦4隻を率いて大西洋を横断、喜望峰を経由し、インドや中国、琉球を経て浦賀に来航しました。これは開国を要求する大統領の国書を幕府に受け取らせるためです。その圧力に敗れた幕府は、一旦ペリーを退去させて翌年まで回答を延期させます。
そして、約束の嘉永7年(1854)1月、ペリーは軍艦9隻を率いて江戸湾へ入港してきます。幕府を威圧しながら条約締結を迫り、やがて同年3月3日、『日米和親条約(神奈川条約)』が締結されます。
その条約の内容としては・・・
(1)アメリカ船に燃料や食料等、欠乏品を供給すること
(2)下田および箱館を開港ならびに下田への領事の駐在を認めること
(3)アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること
などの計12箇条によって、日本はその条約を結ぶこととなり、200年以上続いた鎖国政策は廃止されていったのです。

ビクティニ:この船、学校の教科書で見たことがあるよ。たしか黒船だったかな・・・?

くまモン:江戸時代の日本はまだ『鎖国』だったんだモン。要するに外国の文化は一切受け入れないという政策だったんだモン。そして、1854年にペリーという人がここに来て日米和親条約を結んだから、ここが開港されたことで初めて外国人が入れるようになったんだモン。もちろん当時の熊本城も『鎖国』態勢だったモン

 

伊豆下田の観光案内図
ということで駅でレンタサイクルを借り、下田の町を回ってみます。

地理的には、山や海に囲まれた港町という印象です。

有名な下田公園やペリーロードの他に、了仙寺をはじめとするお寺、下田ロープウェイ(寝姿山)、遊覧船、海中水族館、吉田松陰ゆかりの地などもあります。いずれも歩いていけそうな距離なので、コンパクトな港町といってもいいぐらいです。また、沖には伊豆七島も見れるので、まさにジオパークに近い景観です。

 

寝姿山
下田の町でまず目にするのは『寝姿山』です。

寝姿山は、文字通り女性の寝姿に似ている姿からその名前の由来になっています。山頂は自然公園として整備されており、寒桜やノボタン、ツワブキなどの花が見れます。山頂までは駅からすぐ近い場所にロープウェイのりばがあるので、気軽に頂上へ登れます。

 

ペリーロード

ここが、下田で一番有名な観光スポット『ペリーロード』です。

小川に沿って並ぶ柳や街灯、昔ながらの建物が素敵な風景です。

そして、この小道こそ黒船で来航したペリー提督一行が了仙寺にて日米和親条約あらため下田条約締結を行うために行進した道なのです。そのため、かつては三千隻の船が出入りしていた港町として当時の面影をよく残しています。平滑川(ひらなめがわ)沿いを石畳の道、伊豆石やなまこ壁の家並み、柳並木など、まさに異国情緒な雰囲気を醸し出しています。

ビクティニ:とても素敵な通りだね。まるで明治にタイムスリップしたかのように不思議な雰囲気だね

くまモン:こういうのを『異国情緒』っていうんだモン

 

伊豆石でできた建造物群
ペリーロード沿いの建造物は『なまこ壁』や『伊豆石』が用いられているのが特徴的です。

城下町などで見られる『なまこ壁』は、土壁等の壁塗りの様式の1つであり、壁に平瓦を並べ、その目地に漆喰を盛り付けて塗っていくことでできます。盛り付けられた目地が『なまこ』に似ている由来からつけられています。
そして、洋風建築物に用いられている『伊豆石』は、文字通り伊豆半島で取れる石材であり、一般的には軟質で、耐火性に優れ、なおかつその軟らかさから加工しやすいといわれています。

江戸末期から明治、あるいは大正あたりまで残っていた建物は、いずれも貴重であり、下田のシンボルにもなっています。

 

了仙寺
ペリーロードから入り組んだ路地に入ると『了仙寺』というお寺が現れます。

一見何の変哲もないお寺のように見えますが、実はこのお寺にはペリー・開国にまつわるエピソードが隠されているのです。

それもそのはず、この了仙寺こそ、下田における開国ならびに日米和親条約ゆかりのある寺院なのです。

幕末にさかのぼると・・・・

嘉永7(1854)年3月31日、アメリカ全権ペリーおよび日本幕府全権・林大学頭によって『日米和親条約』が締結されます。この条約により、下田は鎖国以来、日本で最初の開港場になったのです。そして、下田に入港してきたペリーは日本側と条約における細かい規定を定めたのが、日米和親条約の追加条約ともいえる『下田条約』です。その規定を決めるために行われた場所が、この了仙寺の境内なのです。ところが、横浜では日本側が英文の条約文への署名はしませんでした。そこで、下田においてオランダ語を第三言語と決めることで日本側が英文の条約文へも署名したため、日米和親条約は正式に調印ならびに成立したのです。

その背景が以下のようにあります。

~遊歩権~

下田条約の中でアメリカ人に認められた権利です。街中を自由に歩き、下田の町民と交流することがアメリカ人に公式に認められたのが『下田条約』なのです。この条約が締結したことで、下田は日本の民間異文化交流が正式に始まった場所となったのです。

~日本最初の洋楽コンサート~

了仙寺では、ペリー艦隊の音楽隊による演奏会が行われました。これには下田の一般の町民でも見物することが許され、境内やその周辺が多くの人で埋まったといいます。そして、一般に公開された演奏会はここ下田で行われたのが初めてであり、日本で最初の西洋音楽のコンサートが行われた場所がまさにここ了仙寺なのです。

~最近では黒船の歴史が変わっている~

日本側の交渉役である林大学頭は最強の外交官であり、準備万端でペリーを迎えました。日本側はペリーにほとんど譲っていません。貿易・開港場の数・アメリカ人の行動範囲・日米最初の為替のレートはすべて日本側の要求が通ったのです。したがって、ペリーが交渉の中で言い負けられていたのです。最近までは、幕末の歴史は明治政府から見たものが教科書で教えられていたのが、近年の研究によって変わりつつあります。

 

こういった背景から、この了仙寺も開国のエピソードが刻まれたスポットでもあるのです。

 

長楽寺
その開国の背景にあった寺院は了仙寺だけではありません。

このお寺もペリーロードの近くにあるのですが、こちらの長楽寺にも似たような出来事があります。

そう、このお寺はペリー二度目の来航ならびに下田開港の際、日米和親条約の批准が行われた後、当時のロシア政府と江戸幕府の間で日露和親条約が結ばれた場所なのです。

安政元(1854)年12月、このお寺にて日本全権筒井政憲・川路聖謨(としあきら)とロシア使節海軍中将プチャーチンと数回におよぶ交渉の結果、日露和親条約(日露通好条約)が締結されました。この締結で国境が定まり、択捉島とウルップ島の間に境界線を設け、択捉島・国後島・歯舞諸島・色丹島は日本領土、ウルップ島以北の千島列島はロシアに属し、樺太は日露両国人の雑居を認める形で締結されました。

また、翌年の安政2(1855)年、米国使節アダムズ中佐と日本側との間で先に締結された日米和親条約の批准の交換がこのお寺で行われました。

なお、長楽寺は伊豆国四十二番・伊豆国三十三観音二十三番札所にもなっています。

 

下田公園

ペリーロードから港の方にある下田公園にも訪れてみます。

この公園は、初夏になると紫陽花の花々が咲き誇り、6月にはあじさい祭が開催されます。

開国記念碑や下岡蓮杖の碑などがあり、下田の歴史を感じ取りながら散策できます。
中でも開国記念碑は、下田の象徴を想わせる雰囲気が感じ取れます。

この広場は、黒船祭の式典メイン会場であり、広場奥にある開国記念碑は昭和28(1953)年5月、下田開港100周年を記念し建立されたものです。碑中央に刻まれている「開国記念碑」の文字は当時の内閣総理大臣「吉田茂」によるもので、右にはペリー、左にはハリスのレリーフ像と二人の言葉が刻まれています。

ペリーの言葉はマッカーサー元帥、ハリスの言葉は駐日政治顧問官ウィリアム・J・シーボルトが選んだもので、まさしく当時の日米の要人のご協力により完成されたものといえます。開国広場手前には、昭和54(1979)年、東京サミットでの来日中に下田を訪れたジミー・カーター第39代大統領の下田来訪の記念碑、開国記念碑の手前には、そのカーターの下田来訪に尽力され、黒船祭に協力した「下田市名誉市民」元駐日米国大使マンスフィールド氏の記念碑も建立されています。

まさしく下田公園は、日米交流を築いたシンボルともいうべき場所と言えるでしょう。

 

下田公園から見る下田港
下田公園の高台からは、下田港が見えます。

港には漁船やらフェリーやらの船が停泊しています。

下田港はかつて、江戸時代から江戸(現在の東京)へ向かう船舶の寄港地として繁栄していました。 しかし、下田の港に2度もわたりペリーが来航し、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に締結された日米和親条約によって下田港は函館港とともに同日開港されます。これにより、下田港は外国船へ薪炭・食糧・水を供給する補給基地港となったのです。

現在では、漁港、あるいは伊豆諸島の利島や新島、神津島などへ向かうフェリーの発着場になっており、下田からフェリーで伊豆諸島へ行くことができます。

 

ペリー艦隊来航記念碑

下田公園のふもとにある『ペリー艦隊来航記念碑』は、1854年の下田条約締結のため、ここに上陸したマシュー・ペリー提督一行の来航を記念して建てられたものです。

ペリー提督の胸像とアメリカ海軍から寄贈された大きな錨が飾られています。

ここで上陸したペリー提督一行はここで上陸し、先ほどの『ペリーロード』を通り、条約締結の場所となった了仙寺へと歩いて行ったのです。そして、了仙寺にて条約を締結したことで、日本とアメリカをはじめとする外国との交流を深めたというエピソードが刻まれました。

下田港に鎮座している胸像は、ハリスとともに下田にゆかりある人物であるマシュー・カルブレイス・ペリーにまつわるものです。

ペリーといえば、歴史の授業で一度は聞いたことはあるはずですが、マシュー・カルブレイス・ペリーは、1794年4月10日にアメリカ東北部にあるロードアイランド州ニューポートで生まれ、アメリカ海軍の東インド艦隊司令長官として、当時は鎖国状態にあった日本を総力つくして開国へ導いた人物です。

当時の文献では、オランダ色の強かった幕府の影響もあり、『彼理・ペルリ』という表記で数多くその名前が登場し、日本人と異なる顔たちから、『天狗』あるいは『赤鬼』などと呼ばれ、風刺画の数多く残されています。

ペリー艦隊はアメリカから大西洋を横断し、アフリカの西海岸を南下、喜望峰を回ってインド洋に入り、さらにシンガポールを通って香港、上海に至り、そこから琉球に寄港し日本に向かいました。

1853年には、黒船を率いた圧倒的な力関係と文明の利器を武器に、日本を開国に追い込み、1854年3月31日に、神奈川県横須賀市にある浦賀にて全12箇条におよぶ『日米和親条約』を締結させます。そして、2ヶ月後の5月25日、下田の了仙寺にて細則付加条約として全13箇条の『下田条約』が締結されました。

1853年6月、ペリー提督は軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、幕府に開国を要求する大統領の国書を受け取らせます。

しかし、これまで鎖国を続けてきた幕府は対応に苦慮していたため、一旦ペリーを退去させ翌年まで回答を延期します。そして、翌年の1854年1月、ペリーは軍艦9隻を率いて再び来航し、約束の返事を迫ります。幕府は苦渋の決断の末、同年3月3日に『日米和親条約(神奈川条約)』を結び、下田港および函館を開港場とし、外国船の出入りを許します。

ところが、もともとペリーが開国を要求した港に下田港は含まれていなかったのです。

どういうことなのかというと・・・

下田が東京や横浜のような湾内にある港でなく、外洋に面した港だったこと。そして、来航の目的は日本との交易をはじめ、太平洋を隔てて中国との航路を確保、ならびに捕鯨船への食料や薪炭の補給、乗員の休憩場、漂流した場合の救助保護拠点を確保すること。すなわち、外洋に面している下田の地勢はペリーの目的に適していたと思われます。幕府側としても、当初開港を迫られていた浦賀に比べて、将軍のいる江戸から距離がある下田なら許可してもいい、という思惑があったそうです。

 

黒船『サスケハナ号』
下田に来た外国船といえば、いわずもがな『黒船』です。

1854年、ペリーがアメリカ海軍を率いて、多くの艦体がこの港に入ってきたのです。

そして、日米和親条約(下田条約)が結ばれたことで、下田は日本で初めて開港場(外国船の出入りが許されること)となり、外国人と日本人との交流が始まった地とされています。これまで鎖国を続けてきた日本の常識をまさに覆したエピソードが下田の港に刻まれているのです。

日本に2回も来航をしてきたわけなのですが、1853年に浦賀へ4隻の黒船が来航し、幕府に開国を求める大統領の国書の受理を迫ります。1年後に回答することを約束し、翌年にペリー提督は浦賀に再来。前年は4隻でしたが、再来時はなんと12隻の艦隊でやってきたのです。 かくして、横浜で下田の開港などを取り決めた日米和親条約を締結しました。 この条約に基づき、1854年4月14日には7隻(そのうち蒸気船は2隻)の黒船艦隊が下田に入港しました。そして下田は開港され、これまでの鎖国文化は廃止となり、日本は外国の文化を受け入れるようになったのです。

こうして、下田開港に尽した内外の先賢の偉業をたたえ、更に世界平和や国際親善を深めるため、『黒船祭』が今でも開催されています。

 

写真の黒船は『サスケハナ号』といい、1853年にペリーが来航してきた4隻の軍艦のうちの名前の1隻です。

当時の『サスケハナ号』は蒸気船で、江戸時代の千石船の20倍の大きさがあったそうです。また、蒸気船であったため、船には食料庫や長官室の他に石炭庫なども備えられていました。これは、石炭を燃やすことで、発達した蒸気で車輪を回して船を動かしていたからなのです。当時、ペリーはアメリカから『サスケハナ号』で4ヶ月ほどの長い航海をかけて日本にやってきたわけです。

現在の『サスケハナ号』は遊覧船として運航されています。

ビクティニ:なるほど、これが『黒船』というわけか・・・。当時はすごい数でここに来たんだろうね・・・

くまモン:熊本には黒船は来なかったけど、隣の長崎はオランダと深い関係があったんだモン

 

黒船遊覧船から見る下田湾
せっかくなので、遊覧船で下田湾を回ってみましょう。

下田港は、かつて江戸へ向かう船舶の寄港地として栄え、多い時には3千隻ものの千石船が行き来していたといいます。

先ほども述べたように、幕末には1854年に締結された日米和親条約によって函館港とともに同日開港され、日本初の開港場となります。下田港は外国船への薪や食料・水を供給するための補給基地となったのです。ところが、5年後の安政6(1859)年の日米修好通商条約によって神奈川港などが開港したことで、安政6年12月12日(1860年1月4日)に開港が解かれました。

昭和8(1933)年には東海汽船の客船が就航すると、下田港は『観光港』として栄え、更に昭和9(1934)年には開港80周年を記念し第一回黒船祭が開催されました。1945年には第二次大戦の基地になったものの、戦後は再び観光港として歩み現在に至っています。

下田港は、陸地に囲まれた入り江に、周囲の半島や島々が複雑な地形をしているのが特徴的です。また、古くからキンメダイの水揚げ量が日本一であるため、キンメダイは下田のグルメとしては定番なものとなっています。

他にも、地形が複雑なこともあり、気象条件が変わりやすい環境下にあるため、海難事故が多いことから、下田港は『避難港』としての役割も担っています。

ビクティニ:カモメがたくさん飛んでいる!

くまモン:似ているけどカモメじゃないモン。あれは『ウミネコ』っていうんだモン

 

遊覧船の周りを飛来するトビやウミネコ
遊覧船についてくるようにトビやウミネコが飛び回っています。

中でも茶色く目立つ鳥はトビ(鳶)です。

海の鳥といえば、大抵ウミネコやカモメだったりするのですが、トビが海で見れるのもまた珍しくありません。トビはタカの仲間でその大型種で、日本ではほどんどが生息域です。

 

下田港から見る犬走島
下田港の入り江から見ると小さな島が浮かんでいます。

『犬走島』という島です。

犬走島は、来航の際に『ペリーが眺めた島』として親しまれていますが、あの島こそ黒船を泊める拠点にもなったともいわれています。すなわち、犬走島を中心として周辺7里内(約28km)の遊歩権を保障することなどが定められていたからだそうです。そして、沖には伊豆諸島のシルエットが見えます。

 

下田バーガー
さて、遊覧船で回ったところで、おやつがてら名物と思われる『下田バーガー』をいただきます。

しかし、このバーガーだけでも1,100円と高めで、なかなかボリュームがあります。下田バーガーはキンメダイの切り身のフライにチーズ、サラダをバンズで挟んだものだそうですが、見るからに大きくバンズからはみ出しています。

ビクティニ:いただきます!・・・うまい!けど手がソースでベトベト・・・

くまモン:こういうの大好きだモン!ビックなのが食べごたえあるモン!いただきます!・・・これは最高だモン!

 

ホテル伊豆急
この日の宿は、『ホテル伊豆急』にて宿泊しました。

伊豆急下田駅からタクシーで5分くらいの場所で、白浜海水浴場の近くにあります。

ビクティニ:今夜の宿はここだね。いかにも海が見えるホテルだ

くまモン:伊豆にも素敵なホテルがあるんだモンね

 

ホテル伊豆急の部屋から見る太平洋

ホテルの部屋からは、太平洋の海が見えます。

夕焼けの空と海の景観がとても美しいです。伊豆諸島のシルエットもかすかに見えます。

手前に見える砂浜は『白浜海水浴場』で、夏になると海水浴でにぎわいます。秋とはいえ海水浴をしている人の姿も見られます。この雰囲気からするとまるで沖縄かハワイに居るような感覚になります。

ビクティニ:夕焼けの海が美しい・・・。まさに沖縄にいるようだ

くまモン:ヤシの木に夕焼けのビーチが素敵だモン

 

ホテルの夕食

ホテルの夕食は、海の幸やらで豪華です。

伊豆ならではの食材が使われ、刺し身や天ぷら、鮑の踊焼き、そしてキンメダイの煮付けも出ていました。

ビクティニ:美味しい!やはり伊豆の食べ物は最高!

くまモン:熊本の食べ物に似ていて美味しいモン!

 

伊豆七島の島々
伊豆半島の南東には、『伊豆諸島』が点在しています。

伊豆大島をはじめ利島や新島、三宅島、神津島、御蔵島、そして八丈島があります。白浜海岸や下田港からは神津島までは見れますが、御蔵島や八丈島はかなり離れた場所にあるため、見ることはできません。下田からは利島から神津島まではフェリーで行けますが、御蔵島や八丈島へは東京からでないと行くことはできないでしょう・・・。

 

伊豆の朝焼け
下田の朝焼けも美しいです。

下田は伊豆半島の東側にあるため、朝日が見れるスポットでもあります。

ただただ聞こえてくる波の音に美しい朝焼けがいかにも伊豆の景観です。

 

欠乏所跡
今日は下田海中水族館に行きます。

その道中で下田の町並みを散策してみましょう。

散策してみると、ペリー来航の名残と思わしきスポットが点在しています。ここは『欠乏所』だった場所です。日米和親条約の締結によって開港場となった下田において、薪や水・食料・石炭などの欠乏品を入港してくる外国船に供給する中で、その条約の第六条(「必要な物品その他相叶うべきことは、双方の談判の上、取り決めを候事」)とあいまいな条文があったことから、ペリー艦隊が入港すると貝細工・塗り物・瀬戸物・小間物・反物などといった『欠乏品』をここで売られていたようです。

 

下田海中水族館

ペリーロードから下田公園の遊歩道を歩いていくか、トンネルを通って行くと『下田海中水族館』に到着します。

下田海中水族館は、下田公園の入り江にある水族館です。

伊豆急下田駅からバスで行くか、30分ぐらい歩くと到着します。

ビクティニ:こんなところに水族館があるなんて・・・

くまモン:天草の水族館に似てるモン!

 

ウミガメ
水族館の入り口にはウミガメが泳いでいます。

ウミガメは、6月になると産卵のために海岸に上がります。産卵する姿は、九州や沖縄などで見られますが、伊豆でもウミガメの産卵が見られることもあります。最近では、南伊豆でも見られるようになっており、シュノーケリングやダイビングに参加すると見られることもあります。

 

入り江にある水族館
下田海中水族館は、下田湾の地形をそのまま活かした水族館です。

昭和42(1967)年に開業した歴史ある水族館で、ここは世界的に見ても入り江にある珍しい水族館でもあります。そして、入り江の中央には『アクアドームペリー号』が浮かんでいるのもこの水族館の特徴です。

ビクティニ:水族館なのに入り江があるよ!

くまモン:天草にも似たような水族館があるけど、ここは入り江の中にあるんだモンね

 

入り江にイルカ
そして、水族館の入り江には数頭のイルカたちが棲み着いています。

しかも、イルカとのふれあいプログラムも設定されているので、他の水族館ではできない体験ができるのもこの水族館の魅力です。入り江に泳いでいるイルカは『バンドウイルカ』という種類で、先端のクチバシが特徴的ないわゆる一般的によく見るイルカです。

 

バンドウイルカの特徴
入り江で暮らしているバンドウイルカは当然ながら海の生き物ですが、実は我々人間と同じ『哺乳類』なのです。

もともとイルカは『鯨類』いわゆるクジラの仲間であり、海洋哺乳類の中でも早い時代に陸上生活から水中の暮らしに適応した種であると考えられています。更にイルカは超音波を発する生き物で、なんと最大100kHzの周波数を発します。我々人間が聴ける周波数は概ね20kHzと言われているので、イルカの超音波は優れています。この音波でサメやシャチなどの天敵を警戒したり、あるいは仲間同士でコミュニケーションをとるのに役立っているのだそうです。

 

ゴマフアザラシ
イルカの他にもゴマフアザラシやフンボルトペンギン・コツメカワウソなどの生き物も屋外に展示されています。
こちらのゴマフアザラシは、先ほどのイルカと同じ様に海の生き物ながら哺乳類です。

ゴマフアザラシは、体全体に黒色または白色の斑点があるのが特徴的であることから、その名前の由来になっています。しかし、生まれたてのゴマフアザラシは全身が白色で新生児毛に覆われています。繁殖期は2月~5月とされ、流氷上で出産し、10kg前後で生まれた新生児は、濃厚な母乳を3週間哺乳し、30~40kg位に成長して独立します。

アザラシの仲間は約1,500万~2,000万年前、イタチ類との共通祖先が餌を求め海に進出したグループとされています。先ほどのイルカと同じく海の生活に適応するため、前肢および後肢がヒレ状になっているのが特徴です。また、体は水の抵抗を減らすため『紡錘形(ぼうすいけい)』になっています。水中では後肢を左右に振りながら泳ぎますが、陸上では前肢や後肢は使わず、尺取り虫のように全身をくねらせながら進みます。主にオホーツク海からベーリング海にかけて分布し、北海道の知床などの沿岸では流氷とともに見ることができます。北の海に生息するため、体温が奪われないように厚い皮下脂肪に覆われているのです。

 

フンボルトペンギン
池で楽しそうに泳ぐ姿はフンボルトペンギンです。

フンボルトペンギンは、ペリーやチリの海岸ないし沿岸の島々に生息する生き物です。ペリー海流(フンボルト海流)が流れている地域に分布しています。フンボルトペンギンの由来となっているのは、餌をフンボルト海流に依存しているからなのです。

体長は67~72センチあり、体重は約4kg、一本の黒い帯にクチバシが黒く薄い斑点が特徴的です。餌である魚類で、潜水し魚を捕食しています。産卵は2月~3月にかけて行われ、オスがメスより2~3日早く営巣地にやってきて巣を作ります。雛は頭部から背面にかけては茶色の腹面は白色で、成鳥になると1度換羽します。また、ペンギンは群集性で、常に集団で行動をする習性があります。

 

入り江に棲み着くイルカたち
入り江のイルカはいずれもバンドウイルカで、2022年現在では合計6頭が棲み着いています。

紹介によるとほとんどがメスで、『ジョイくん』だけが唯一オスのようです。また、説明板にはありませんが、6年前にオスのイルカ『レオくん』が誕生し、バンドウイルカは合計7頭に増えたようです。そして、これから入り江にシュノーケリングすることになるのですが、今回は4頭のイルカとふれあうことになるでしょう・・・。

 

ドルフィンビーチ
アクアドームペリー号の向こう岸には『ドルフィンビーチ』『マリンスタジアム』、『アザラシ館』などの施設があります。

そこは『赤根島』という島の一部です。この入り江も実質、海に等しいでしょう。

向こうに見える『ドルフィンビーチ』では、間近でイルカとふれあえる場所になっています。浜辺でイルカとふれあえたり、シュノーケリングでイルカと泳いだりすることができるのもこの入り江という地形を活かした水族館ならでは。泳ぐのが苦手な人でも、イルカたちとふれあえるので、気軽にイルカが間近で見れるのではないでしょうか。

ビクティニ:なるほど、あの浜辺から海に入ってイルカたちと遊べるってわけか・・・

くまモン:熊本ではイルカウォッチングやってるモン。天草に行くと見れるモン

 

シュノーケリングでイルカが間近に見れる

この水族館で一番の売りは、『間近でイルカとふれあえること』です。

特にシュノーケリングでイルカたちを間近で見れるのが魅力的です。シュノーケリングには午前の部と午後の部がありますが、泳ぐのが苦手な人やシュノーケリングが初めてな人には、午前の部が良いでしょう。当然、午前の部を選択しました。まして私は今までシュノーケリングをした試しがなく、最初はいささか緊張しましたが、インストラクターの方が丁寧に泳ぎ方やイルカたちとのふれあい方も教えてくれたので、問題はなく泳げました。水深5メートルほどの入り江には3頭はいるであろうイルカたちが我々の前に現れます。どうやら人間観察をしているようです。日によってはイルカたちの気分次第で見れないこともあるそうですが、今回は思いの外、自分の方に容赦なく近寄ってきたのはいい思い出です。

とまあ、間近でイルカたちを観察する機会はなかなか無いと思うので、良い経験になったのではないでしょうか。

 

入り江で泳ぐイルカ

こうして、事故などがなくシュノーケリングでイルカの観察を終えることができました。

そもそも、イルカのすみかは概ね深い海に生息している事が多いので、どこぞの水族館のショーでも見ない限り、なかなか実際に見れることはないかと思います。しかし、ショー以外でイルカが間近で泳いでいる姿が見れるだけでも、我々人間からすれば十分貴重な光景かと思われます。そして、自然の形がそのまま生かされた入り江は、ショーのための狭い水槽と違って広いため、ゆったり泳ぐ姿が見れるのも、まさに他の水族館ではなかなか見れない光景です。

 

コツメカワウソ
カワウソも水族館ではおなじみの存在です。

コツメカワウソは、主にインドネシアやベトナム、ミャンマー、インドなどの東南アジアに生息し、河川や沼地、海岸、マングローブ林、水田などをすみかにしています。また、肉食動物であるため、甲殻類の他に貝類、昆虫、魚、爬虫類などを餌にしており、主に浅瀬で狩りを行い、前足で泥や石の下を掘って獲物を探っています。体長は41~64センチ、体重は1~5.4kg、妊娠期間は2ヶ月、1年に2回出産する場合もあります。成熟するまでには1年と6ヶ月かかります。寿命は12年とされていますが、個体によっては15年も長生きした記録もあるそうです。

 

下田海中水族館でのランチ
下田海中水族館でも、キンメダイが使われたグルメが充実しています。

これは、昨日食べた『下田バーガー』に似ていますが、ほぐしたキンメダイの身をコロッケの具材と混ぜたバーガーのようです。南国の水族館でバーガーを食べていると、まさにハワイか沖縄にいるような感覚です。

ビクティニ:今日もバーガーだ!しかもポテトもついてる!いただきます!・・・うまい!キンメダイとポテトの組み合わせも意外といける!

くまモン:これは美味しいモン!今日もキンメダイが食べれるなんて至福だモン!

 

ゴマフアザラシのショー
ゴマフアザラシのショーも見てきました。

ショーで見れるゴマフアザラシは3頭います。更にゴマフアザラシの習性を活かしたショーもなかなかおもしろいものです。

ビクティニ:一見するとあたかもキ○をしているように見えるけど、あれは自分のヒゲを使ってコミュニケーションをとっているらしい

くまモン:大胆というか、アザラシの生態系って知らないことばかりだモン

 

南伊豆の海をイメージした水槽
通常の水族館では、主に伊豆半島や南伊豆に生息している魚が展示されています。

南伊豆では、様々な熱帯魚が見れるのですが、これは黒潮の流れの影響からきたものだと考えられます。また、西伊豆の海に行くとサンゴ礁が見れます。もっとも西伊豆は伊豆急行沿線とは違い、交通網はそれほど発達していないこともあってか、なかなか遠い場所にあるかと思いますが、その分西伊豆の海は澄んでいて見ごたえがあるのではないでしょうか。むろん、伊豆のサンゴ礁も黒潮の影響で発達しているものと見られます。

 

伊豆の海に生息している生き物たち
伊豆の海中には、主にタイ類やイセエビ、ウツボなどが生息しています。

伊豆半島の地形は富士山などの溶岩によって、岩礁の地形が多く、その岩礁がイセエビのすみかとして適しているのです。そのため、伊豆ではイセエビ漁が行われているのがしばしばで、南伊豆では全国9位の水揚げ量(年間33トン)を誇ります。

 

クマノミ
伊豆の海にも『ファイニング・ニモ』でお馴染みのクマノミが生息しています。

ですが、クマノミと言っても、地域によって模様がまちまちで、日本ではクマノミ、ハマクマノミ、カクレクマノミ、セジロクマノミ、ハナビラクマノミ、トウアカクマノミの6種類を見ることができます。クマノミは、基本的にイソギンチャクとともに生活しています。すなわち、イソギンチャクの持つ触手の刺胞で天敵から身を守るために、一緒に生息していると考えられます。沖縄で見られるクマノミは『カクレクマノミ』という種類ですが、伊豆で見られるクマノミは一般的なもので、千葉県の房総半島やここ伊豆、紀伊半島などで生息するタイプが写真の模様のものです。

 

タカアシガニ
伊豆や駿河湾の深海ではタカアシガニなどが生息しています。

また、伊豆の名物とされるキンメダイも深海に生息しています。キンメダイは、深海の魚であるため、他のタイ類と違って目が非常に大きいのが特徴です。また、水深数百メートルの深海に棲み着いているということもあり、水揚げするのにはかなり難しいため、下田をはじめ熱海や伊東などの温泉旅館やレストランでで出されるキンメダイの煮付けの値段が高いのは、その理由であると考えられます。

 

ミズクラゲ
他にもクラゲコーナーもあります。

海水浴をする時に気をつけなければならない生き物の1つです。というのも刺胞には毒液を持っており、刺胞に触れるだけで火傷のような痛み、刺されたような痛みなどでかゆみや腫れる症状に見舞われます。特に夏季は繁殖しやすい時期でもあるので、夏の海水浴や磯遊びなどで海に入るときは尚更注意が必要です。伊豆でも、当然クラゲは出没します。写真のミズクラゲは比較的毒は弱いですが、もし見かけても近づいたり触ったりしないようにするのが良いでしょう。万が一刺されたら、すぐに医師に治療してもらうのが吉です。

 

カワハギ

しかし、そんなクラゲにも天敵はいます。

こちらは『カワハギ』という魚はクラゲを餌として好物としています。そしてクラゲを捕食する生き物は、カワハギの他に、マンボウやウミガメなどもクラゲを捕食しています。更にエチゼンクラゲのような大型のクラゲでも群れをなして捕食します。地方によっては、クラゲを餌にしてカワハギを釣る漁が行われている地域もあるようです。

 

トラザメ

伊豆半島や伊豆諸島の周辺では『トラザメ』をはじめ『ネコザメ』や『ジンベエザメ』などの小型のサメが生息しています。

そして、最近では『フカミトラザメ』という新種が見つかったそうです。特徴としては伊豆諸島の深海で発見され、トラザメの卵殻はなめらかなのに対し、『フカミトラザメ』の卵殻はしわ状で凸凹しているのが特徴です。

 

バンドウイルカのショー
先ほどシュノーケリングで泳いだ入り江で4頭のバンドウイルカによるショーが催されました。

アクロバットからトルネードまで、様々なジャンプ芸が迫力を感じさせます。狭いプールとは違い、大きな入り江でのジャンプはより野生のイルカを感じさせます。

ビクティニ:やはり大きな入り江でジャンブするイルカたちの姿は、かっこいいよね!

くまモン:やはり環境が違うんだモンね!天草のイルカウォッチングをしているみたいだモン!

 

アクアドームペリー号の特徴
入り江に浮かぶ『アクアドームペリー号』は『船』ですが、動かすためのエンジンなどは無いので自走はしません。

ただただ和歌の浦に浮かんでいるだけで、中は深さ6メートルの大型水槽があるのみ。これを『係留船』といいます。このように、海の上に浮かぶ係留船自体も水族館になっているのはかなり珍しいのではないでしょうか。ちなみに、この『アクアドームペリー号』二代目で平成5(1993)年から運用されており、下田造船所で最後に造られたものなのだそうです。

 

アクアドームペリー号の水槽
高さ6メートルもある大水槽には、ウミガメをはじめ、ウツボやエイ、サメ、イシダイなど、伊豆の海に生息する生き物たちが飼育されています。

中でもウミガメが一番大きく、よく目立ちます。この大水槽は季節によって水温が変化し、太陽光が降り注ぎ、伊豆の自然そのものを表現しています。そのため、遊泳する魚や繁茂する海藻など、まさに自然の環境そのもので生命力を感じさせます。

 

伊豆の名物 イセエビ
伊豆の海産物として代表的なのがイセエビです。

イセエビは、南東北から薩摩地方にかけて分布し、伊豆の他に房総半島や南三陸、日本海側でも捕獲されています。そして、イセエビの水揚げ量が一番多いのが、三重県で年間288トン、2位は・・・なんと千葉県で198トンが水揚げされています。以前は茨城県以南の本州沿岸沿いに生息していたのですが、近年の温暖化の影響もあってか、北日本の方でもイセエビの捕獲が確認されています。昼間は岩陰などに身を隠しますが、夜行性なので日没後に活動を始めます。また、イセエビは雑食性なので魚や貝、ウニなどを捕食します。天敵はタコやサメなどです。

 

奇妙なヤドカリ

他にも、貝殻にイソギンチャクが付着した奇妙なヤドカリも展示されていました。

そういえば、昔テレ朝でやっていた『無人島0円生活』でもこれが出ていた記憶があります。おそらくイソギンチャクが貝殻に寄生していると思われます。

 

マリンスタジアムのショー
最後は、カリフォルニアアシカとカマイルカのショーを見ました。

小さなアシカから大きなアシカのパフォーマンスはなかなか見事です。特に水中でらせん状に遊泳するアシカとダイバーさんの演技はかなり難しいので、見事の一言につきます。そういえば、昔に広島の水族館でもアシカのショーを見たのを覚えています。しかし、アシカのショーの途中で雨が降り出し、風も強くなってきました。

最後には、2頭のカマイルカが出てきて、すごいジャンプ芸を披露してくれました。

 

最後の見送りをしてくれるイルカ

さて、ショーを見終わった後は、もう閉館時間となりました。

1頭のイルカが我々を見送ってくれました。まるで「また来てね」と言われているかのようです。とても充実した2日間の伊豆旅でした。

 

夕食
今回は夕食を食べてから帰ることにします。

最後の夕食は、伊勢海老を使った豪華な料理をいただくことにしました。伊豆急下田駅からすぐの場所にあるレストランで、伊勢海老御膳が3,800円です。

なかなか豪華な夕食でした。鍋の味噌汁は伊勢海老の殻から出汁を取り、海鮮丼は伊豆の海の幸に黄色いご飯です。最後はお茶漬けにしていただきました。

ビクティニ:最後のは豪華な食事だね!いただきます!・・・伊勢海老の味噌汁が最高にうまい!!

くまモン:海鮮丼も美味しいモン!

 

帰路へ・・・

さて、かつては『開国の地』といわれた下田市を後にし、帰路についたのでありました・・・。

ビクティニ:さらば・・・下田・・・そして、イルカたちよ達者でな・・・(´;ω;`)

くまモン:楽しい2日間だったモン。連れて行ってくれてありがとうだモン

作者:どういたしまして

・・・そして自宅に着いたのは、夜の11時となったのであります・・・。

 

おわり

『伊豆急のアロハ電車で行く下田旅』をお伝えしました