ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

2023年 正月旅行 山陰・長崎方面 門司港レトロ観光 九州鉄道記念館・唐戸地区を見学

皆さん、こんにちは。

今回は、門司港レトロならびに関門エリアを観光します。

 

朝の門司港

朝の門司港です。

港街の向こうに見える山の景色が九州らしい風景です。

 

門司港のホテル 朝食

門司港で泊まったホテルの朝食です。

洋食系のものが多くて、門司らしくハイカラなメニューが多いです。

ビクティニ:門司港の朝ごはんはおいしい!さすが九州!

ビクティニポンチョのピカチュウ:焼きカレーおいしい!

くまモン:九州の食文化は洋食が魅力だモン!

 

朝の関門海峡

関門海峡の港も賑やかです。

港には何隻か船が停泊しています。

門司港はかつて貿易の中心でもあった場所であり、関門海峡は、本州と九州の境界線にして多くの外国船が行き来する、世界史の中でも重要な場所です。

門司港の歴史が始まったのは明治のこと、当時は明治維新とともに近代化が始まり、この地を拠点に貿易港として明治22(1889)年に開港しました。主に石炭をはじめ、米や麦、硫黄、麦粉の特別輸出港に指定され、次第に日本の貿易の拠点となっていきます。のちに日本の富国強兵とともに多くの鉄が必要となったことから、八幡に製鉄所が建設されました。20世紀前半には戦争や国際貿易としての役割を担ってきた門司港には、多くの銀行や会社、工場などが設けられ、わずか30年の間に急速な発展を成し遂げていったのです。これは全国的に見ても珍しい発展です。

昭和17(1942)年には関門トンネル(鉄道)が開通しましたが、1940年代は激しい戦争の惨禍に見舞われ、度重なる空襲や機雷が透過され、爆撃された沈没船が多く、海峡は封鎖されました。そして、戦後になると徐々に復興は進み、昭和33(1958)年には関門トンネル(国道)が開通、さらに昭和48(1973)年には関門橋が開通し、門司港の姿として現在に至っています。

かくして、かつて貿易港として担ってきた門司港は平成7(1995)年に『門司港レトロ』という観光地として人気を集めています。

ビクティニ:海峡にはたくさんの貨物船が行き交っているね。やはり昔から貿易の要所として栄えているんだ

ビクティニポンチョのピカチュウ:いかにも港町って感じだね

くまモン:門司港は古くから貿易港として発展してきたけど、今は観光地だモン!

 

門司港駅

門司港駅も関門海峡の歴史とともにあり、また貿易を支える役割を担ってきました。

この駅は、駅としては日本初の国の重要文化財に指定されています。

大正3(1914)年に建てられた木造2階建ての駅舎です。左右対称な造りが特徴的なネオルネサンス様式で、建物の中央部は門司港の『門』の文字を表現しているとも言われています。

平成24(2012)年から保存工事が行われ、平成31(2019)年3月に大正時代への姿に復元され、往年の姿を今に伝えています。

ビクティニ:とても大きくてレトロな駅舎だ。門司港駅は昔、貿易の役目を担っていたんだ。

ビクティニポンチョのピカチュウ:まるでフランスの凱旋門のように大きい!

くまモン:九州は昔、炭鉱が盛んだったので、ここで採れた石炭は外国へ輸出するために、この駅と港を経て送られたんだモン。

 

門司港駅の連絡通路跡
門司港駅の脇から通路跡があるのが見えます。
それもそのはず、かつては本州と九州を結ぶ『関門連絡船(鉄道連絡船)』が通っていました。

九州から鉄道を経て、門司港にて鉄道連絡船に接続し、本州へ様々な物資や人を運んでいたのです。関門連絡船は明治34(1901)年より運航をはじめ、貨物列車の荷物を本州と九州の間を行き来してきました。昭和17年に関門鉄道トンネルが開通すると、幹線輸送ならびに鉄道連絡としての役割は薄らいだものの、関門トンネルを通らない門司港と下関を行き来する地元の人たちの足として旅客輸送は継続されます。しかし、民間航路の発達や関門国道トンネルの開通とともにバスへの旅客へ移行したことから、昭和39(1964)年に廃止されました。

写真の通路は、関門トンネルが開通する前、連絡船が活躍していた頃の名残を思わせます。

 

旧みかど食堂のソース瓶

これは、門司港駅の開業とともに駅舎の2階にて営業をしていた『みかど食堂』で使われたソース瓶です。

昭和26(1951)年に食堂が1階に移転した時、駅が移築されるまで、屋根裏の食料倉庫にて約60年間放置されていたようです。

かつて門司港のシンボルとして誇れる洋食レストランとして親しまれてきましたが、残念ながら2023年1月30日には閉店してしまったようです・・・。どうせなら、みかど食堂の洋食を食べてみたかったな・・・・。

 

門司港駅に使われていた部材
門司港駅が開業した当初から使われていた当時の部材が展示されています。

初代の門司港には、当時の建築材料や工法が用いられていたそうです。そして、100年間も建物の随所に使われた瓦や天然ガラス、石盤など当時物の部材が使われてきました。2011年までの門司港駅は歴史的建造物としての価値観はもっとあったのかもしれませんね・・・。

 

文化財の調査
門司駅は駅舎として初めて重要文化財に指定された貴重な歴史的建造物です。

そして、文化財の修理は『保存修理工事』と呼ばれ、一般的な建物で行われる改修工事とは違います。それは、建物に使用される部材の全てに番号を振り、1つ1つ丁寧に調査しながら分解を行い分析しているのです。これが、今回の修理工事で行った調査記録の一部なのです。

 

みかど食堂で使われた食器や伝票など
かつて門司港駅の2階には『みかど食堂』という洋食レストランがありました。

当時としては高級レストランだったそうで、なんでも駅構内や列車の食堂車で営業を始めたのも『みかど株式会社』が運営していたのです。写真の食器や伝票、営業札などはいずれも開業当時から使われたものです。

 

貴賓室の壁紙など
門司港駅の2階にはレストランの他、貴賓室も設けられていました。

貴賓室は、ホームから駅舎に入り、吹き抜けのある貴賓用階段を昇り廊下を進むとあります。当時、駅舎2階の南側半分は貴賓のための用途に供されていたのです。大正時代には天皇陛下をはじめ皇太子陛下や皇后陛下も行幸啓でお越しになられた記録があり、その際に休憩所としても使われたと考えられます。

写真の壁紙は、貴賓室に使われた当時物のようです。

 

門司港駅のホーム
門司港駅のホームはターミナル駅らしくとても広いです。

開業当時とはほぼ変わらぬ姿で保たれ、長いホームもかつては多くの優等列車が発着していた名残を思わせます。

まさしくターミナル駅としての役割を担った歴史が詰まっていますね。

鹿児島本線の起点駅にもなっています。

ビクティニ:改めて見ると大きな駅だよね・・・。

ビクティニポンチョのピカチュウ:ホームの屋根も古い作りのままなんだね

くまモン:九州の駅には開業当時のままで残されているのが多いモン

 

かつては“門司駅”を名乗っていた門司港駅

大正3年に開業した現在の門司港駅は、もともと『門司駅』として名乗っていましたが、関門トンネルの開通した昭和17年には『門司港駅』に改称されます。

九州側の関門トンネル入口付近にある駅も、当初は『大里駅(だいりえき)』として開業し、関門トンネルの開通とともに『門司駅』に改称され、現在に至っています。

 

九州鉄道記念館

九州鉄道記念館にも見学してみましょう。

ここでは、九州の鉄道についての歴史を知ることができ、鉄道省から国鉄時代、そしてJR九州にわたって様々な列車が紹介されています。また、JR九州の車両をあしらったミニ列車の運転もできます。関東で言う大宮の鉄道博物館みたいなものですね。

ビクティニポンチョのピカチュウ:入り口に古そうな機関車がいるよ

ビクティニ:キューロクだね。これは“9600型蒸気機関車”といって、日本初の国産機関車で、主に貨物列車で活躍していたんだ

 

9600型蒸気機関車(59634号)
入り口に展示されているSLは、“大正の名機”ともいわれた『キューロク』こと9600型蒸気機関車

9600型蒸気機関車は、日本初の国産貨物機として大正2(1913)年~大正15(1926)年にかけて770両が製造されました。九州においても活躍範囲に及び、主に貨物列車や石炭列車などで活躍。貨物機の特徴として、動輪上にボイラーが設置されていることから、車体高が高いのが特徴的です。

写真の“59634号機”は大正11(1922)年に川崎造船所で製造され、昭和49(1974)年まで東北地方で活躍した後、ここ九州の後藤寺機関区に転属し、石炭列車などで活躍しました。引退までわずか1年足らずしか九州(筑豊)で活躍しなかったとはいえ、北九州において最後の蒸気機関車の1両となっています。

 

C59型蒸気機関車
C51型やC53型に代わる旅客機関車として登場したC59型蒸気機関車

東海道本線および山陽本線の特急機として昭和16(1941)年に登場しました。九州では主に鹿児島本線で活躍していましたが、戦後になると次第に電化が進み、蒸気機関車の活躍の場も徐々に減っていきます。写真のC59-1号機は、1960年代当時、熊本機関区に配置され、主に特急『みずほ』号などの優等列車で活躍してきましたが、昭和40(1965)年には、熊本機関区に配置されていた10両は廃車になったものの、この1号機だけはここで静かに余生を送っています。なお、この機関車は『準鉄道記念物』に指定されています。

 

EF10型電気機関車
関門トンネルの開通時に下関駅~門司駅(旧大里駅)間のみ電化され、同時にトンネル区間専用にEF10型という直流電気機関車が配置されました。

主に門司駅および下関駅にて列車に連結し、関門トンネル区間通過時に使用されましたが、昭和36(1961)年には九州側が交流2万ボルト、本州側が直流1,500ボルトにて電化され、交直両用電気機関車(EF30型)にその役目を譲ることになります。後に東海道本線や山陽本線など、本州の幹線にて昭和54(1979)年まで活躍。現在では写真の35号機のみが保存されています。

 

ED72型電気機関車
鹿児島本線を中心に九州の電化区間で活躍するために開発された交流型電気機関車ED72型

旅客列車牽引を目的に暖房用ボイラーを搭載し、車体中央に載せるため中間台車を配置しているのが特徴的です。これまでの蒸気機関車時代、蒸気でまかなってきた暖房供給方法を電気に切り替わったことでボイラーは不要となったことから、旅客用のみならず、晩年は貨物列車にも使用されました。こちらのED72型は九州初の交流型電気機関車として登場した形式です。

 

キハ07形 機械式気動車
戦前は機械式の気動車が数多く走っていました。キハ07形もその1つです。

機械式気動車は、クラッチで変速しながら制御する方式で動かしていたのです。

いわばバスの鉄道版で、数両連結可能で道路を走るバスと比較して定員を増やすことができたのだそうです。ただし、その場合は1両ごとに運転士が乗務しなければならなかったそうです。出発時に汽笛を鳴らしクラッチをONにしていたのだとか。

また、機械式には軽量化というメリットがあり、エンジンとトランスミッションのみで動かすことができたのです。

写真の『キハ07 41』は、当初『キハ42055』として登場し、車両の国産化ならびに標準化など、当時としては技術発達史で高評価を受けていたことから、国の重要文化財に指定されています。

 

481系電車(クハ481)
東海道本線を走った151系電車特急『こだま』をもとに、熊本電化に合わせて昭和33(1958)年に登場した481系電車

この車両は直流・交流区間の両者の電化区間で運転できます。

この車両は『クロ481-5』として昭和44(1969)年に誕生し、東北地方で活躍していましたが、昭和58(1983)年より鹿児島車両所に配属、更に普通座席車への改造とともに『くは481-603』に改番されています。九州では特急『にちりん』『かもめ』『有明』として活躍し、平成9(1997)年に引退し小倉工場にて保存され、現在ではここで余生を送っています。

ビクティニ:大宮の鉄道博物館にもこれと同じ車両が展示されているよね

ビクティニポンチョのピカチュウ:昔はこんな車両がたくさん活躍していたんだね

 

581系電車
581系電車は、世界初の寝台電車ならびに夜行特急『月光』としてデビュー。

昼間は座席特急として日夜運転できる、まさに万能型の特急形車両です。

1970年代には後に登場した583系とともに、『つばめ』『はと』など関西方面から九州へ結ぶ特急として活躍しました。更に昭和59(1984)年には普通電車用として715系に改造され、鹿児島本線の他に長崎本線や佐世保線などでも平成12(2000)年まで使用されました。写真の『クハネ581-8』は晩年まで普通電車の『クハネ715-1』として活躍し、引退後は元の車番への変更ならびに登場時の特急塗装に塗り替え小倉工場に保存した後、ここで余生を送っています。

 

ブルートレイン車両 14系客車
かつて日本中を駆け抜けたブルートレイン・・・。

その2世代寝台特急用の客車として昭和47(1972)年に登場したのが14系客車です。

こちらに保存されている『スハネフ14-11』は床下に発電用のディーゼルエンジンを搭載し、自車両含む5両に給電することができます。また、製造時には3段寝台客車の車掌室付きでしたが、昭和57(1982)年から寝台が2段に改装されています。JR化後の1990年代には、平成6(1994)年には『みずほ』、平成17(2005)年には『さくら』が廃止。さらに平成21(2009)年には『富士』および『はやぶさ』を最後に九州方面の寝台特急は廃止され、ブルートレインの歴史に幕を閉じることとなったのです。

 

鉄道記念館本館(旧九州鉄道本社)
レンガ造りの本館では、九州の鉄道についての歴史を学べます。

この建物は、かつて九州鉄道の本社として使われたもので、門司港レトロ地区で保存されている建物の中でも古いものです。

九州鉄道は、九州における鉄道会社としては初で明治21(1888)年に設立されました。

当初は明治22(1889)年に博多~千歳川仮停車場間にて営業を開始、明治24(1891)年に門司(現在の門司港駅)~高瀬(玉名駅)を開業した時点でここを起点とし、ここから九州各地への鉄道網を形成しました。当初は博多に仮本社を置いていましたが、門司駅の開業とともに本社として建てられたのがこの建物です。以後、鉄道院、鉄道省、日本国有鉄道(国鉄)、九州旅客鉄道(JR九州)などと名前は変わりましたが、鉄道の中枢機能を担う建物として長く活躍してきたのです。

 

明治時代から活躍してきた客車と当時の乗客や車掌の再現人形
本館に入ると、明治時代の客車が展示されています。
これは乗客や車掌で賑わう光景も再現されており、音響演出で当時の旅情を演出しています。

展示されている客車は、九州鉄道が設計した客車で、合計47両製作されたもののうち37両目の車両です。

これは、かつての鉄道院時代の車両番号『チブ37』として明治42(1909)年に登場した客車です。約20年間活躍した後、昭和4(1929)年に耶馬渓鉄道(大分交通耶馬渓線)に譲渡されました。昭和46(1971)年まで同線で活躍し、中津市の『汽車ポッポレストラン』で保存されていましたが、記念館の建設にあたって寄贈され、製造元の小倉工場で開館とともに約95年ぶりに往年の姿に復元されたものです。

 

九州鉄道の御料車 車内

車内の座席は畳敷きになっています。

復元時には、当時の資料を元に復元したものの、正確に分からない部分があり、当時の類似車両の写真などを参考にし、推定しながら復元しているものと思われます。

シートは、誕生当時の10組クロスシートを配置、当時の類似写真を参考にして『茣蓙(ござ)シート』になっています。車内灯は旧式の小型室内灯、屋根は改造されていた凸型断面から、誕生時の完全二重屋根に戻されています。

 

列車の行先サボ
館内にはかつて国鉄時代に使われた『行先サボ』も展示されています。

今でこそ、LED方向幕が当たり前の時代になっていますが、当時は『行先サボ』を列車の側面に掲げたりしていたのです。主に客車列車や気動車などに装着されていました。

 

58654号機の備品
この前に乗車した『SL人吉』の機関車58654号機のナンバープレートやスタフ、ヘッドライトなどの備品も展示されています。

当初は豊肥本線で『SLあそBOY』として平成17(2005)年まで運行していましたが、平成21(2009)年からは『SL人吉』として運行されています。しかし、2020年の台風で肥薩線が不通となったことから、現在は鹿児島本線で運行されているようです。そして、製造から百年経っているということもあり、老朽化していることから、2023年度には58654号機が引退するそうです。

 

ブルートレインのサボ
寝台特急『あかつき』で使われたサボも展示されています。

これは、さよなら運転の時に使われたもののようです。特急『あかつき』は京阪神と九州を結ぶ寝台特急として昭和40(1965)年10月に大阪~西鹿児島(現:鹿児島中央)間にて運行開始。その後、昭和50(1975)年には山陽新幹線が博多まで開通し、西鹿児島を発着する便を『明星』として系統分割、事実上、『あかつき』は京都・大阪から九州の長崎・佐世保方面を3往復で結びました。平成12(2000)年には佐世保発着は廃止になり、『彗星』と併結運行されるも、平成17(2005)年10月からは『彗星』廃止にともない『なは』と併結していましたが、平成20(2008)年には廃止され、京阪神と九州を結ぶ42年のブルトレの歴史に幕を閉じることとなったのです。

 

寝台特急 富士・はやぶさの歴史

富士・はやぶさに使われたヘッドマーク
昭和30年代に登場した『富士』『はやぶさ』はかつて九州へ行く花形ブルートレインとして親しまれていました。

復興が順調に進んだ戦後の昭和30年代のこと、経済の好調は国鉄の輸送量増加に拍車をかけます。そこで東海道本線の全線電化工事完成に伴い昭和31(1956)年11月19日のダイヤ改正で、東京〜博多間に特急7・8列車こと『あさかぜ』が誕生します。

これまで東京〜九州間を結ぶ急行列車は、京阪神地区での乗降を考慮し東海道区間が昼行、山陽区間が夜行というダイヤが組まれていましたが、この列車の登場で京阪神地区を深夜に通過するという初のダイヤが組まれました。東京駅を夕方に発車し、翌日の午前中に博多駅に到着するダイヤは好評を博したことで、その後に登場する東京〜九州間の寝台特急列車の運転時刻の基本になっていったのです。

『あさかぜ』の誕生と同じく、昭和33(1958)年10月1日の改正で、東京〜鹿児島間を結ぶ特急9・10列車こと『はやぶさ』が誕生しました。当初は、華やかな『あさかぜ』誕生の陰に隠れていたものの、それまで最速を誇った急行『霧島』の所要時間が3時間10分も短縮され、東京〜鹿児島間は22時間50分で結ばれるようになったのです。

『富士』もブルトレの仲間ですが、列車愛称自体は日本初という由緒あるもので、もともと昭和4(1929)年9月に東京〜下関間の1・2等の特別急行列車として付けられました。東海道新幹線の東京〜新大阪間が開業した昭和39(1964)年10月1日のダイヤ改正で、東京〜熊本・大分間の寝台特急『みずほ』の大分編成が独立したことで、東京〜大分間を結ぶ寝台特急『富士』が誕生しました。これは東京〜九州間を結ぶ寝台特急列車としては新参者になります。

昭和40(1965)年10月1日の改正では、運転区間を東京〜西鹿児島間に拡大し、これまで鹿児島本線経由の『はやぶさ』が日本一長距離を走る特急列車として君臨していました。ともに日豊本線経由の『富士』も日本一の座を獲得。こうして日本一の座は運転区間が宮崎発着に短縮された昭和55(1980)年10月1日改正まで続いたのです。

昭和39(1964)年10月1日の改正から1・2列車『さくら』3・4列車『みずほ』5・6列車『あさかぜ』7・8列車『はやぶさ』9・10列車『富士』の5往復が運転され、さらに昭和43(1968)年10月1日のダイヤ改正(ヨンサントオ)で東京〜博多間の11・12列車『あさかぜ(2・1)号』が増発され6往復体制と発展していきます。

登場以来“走るホテル”として好評を博した20系ブルートレインも、次第に日本経済の発展とともに寝台設備のグレードアップが求められるようになってきました。昭和46(1971)年9月30日、B寝台車のベッド幅を52cmから70cmに広げた14系客車の試作車が誕生し、昭和47(1972)年3月15日のダイヤ改正から『さくら』『みずほ』『あさかぜ(2・3号)』が14系客車に置き換えられます。さらに昭和50(1975)年3月10日のダイヤ改正で『はやぶさ』『富士』が24系客車に置き換えられ、九州ブルートレインの新時代が到来したのです。

JR発足後には、時代のニーズに応えるためB寝台1人用個室『ソロ』を『はやぶさ』ならびに『富士』に各1両連結し、A寝台1人用個室『シングルデラックス』とあわせて自由にくつろげる個室空間が人気を博しました。

しかし、新幹線の登場や夜行バスの普及などといった時代の流れの中で、東京〜博多間の元祖ブルートレインこと『あさかぜ』は平成17(2005)年に引退し、その役割を静かに終えることになります。さらに長らく東京と九州を結んできた名門寝台特急『はやぶさ』および『富士』も平成21年3月14日のダイヤ改正とともに姿を消すこととなったのです・・・。

 

腕木式信号機
ローカル線で使われた腕木式信号機も展示されています。
信号機は、鉄道の運行をする上で欠かせないものです。

この信号機はいわゆる『機械式信号機』といわれるタイプで、主に駅構内や信号所に設置された転轍機とともに連動する構造をもっています。このタイプの信号機は遠方信号、場内信号、出発信号に用いられました。

これは、列車本数の少ない線区で使用され、信号機の切り替えは駅員の手によって操作していました。運転士や機関士からの視点は腕木が下がっている(夜間は青の表示灯)の場合は『進め』腕木が水平になっている(夜間は赤の表示灯)の場合は『止まれ』という意味になります。

 

通票授受器と転轍機標識
鉄道を安全に運行させる上でポイントの標識や信号方式は欠かせません。

手前の標識は『転轍機標識』というもので、ポイントを切り換えるとこの標識も連動し、運転士や機関士に転轍機の方向を示すためのものです。

転轍機とは、列車や機関車の進行方向を変えるためのものです。列車の方向を分岐するレールはいわゆる『ポイントレール』あるいは『分岐器』と呼んでいますが、その真横に設置されていいるものが転轍機になります。この標識には青い丸に白線が引かれたもの(前者)矢のような黄色と黒の模様のついたもの(後者)で運転士や機関士に見えるように配置されています。前者の青い丸の標識が表示された時は『定位』といい、いわばポイントがまっすぐになっていることを表しています。後者の矢のような標識は『反位』といい、ポイントが引き込み線や側線などに入線することを表しています。この標識を用いることで、列車や機関車が安全に入線できるようにしています。

左側のてっぺんに渦状の針金がついているものは『通票授受器』といいます。

列車の運行をする上で、閉塞区間ごとに信号を使って列車を安全に運行させるために用いられるものです。路線によっては信号機の設置がない、あるいは設置ができない場合があります。この場合、『通票』『タブレット』、あるいは『スタフ』といわれるものが用いられます。これらを総して『通票』と呼ぶ場合があります。

 

閉塞器
単線の区間では主に通票を用いた閉塞方式が用いられることが多いです。

これを『非自動閉塞方式』といい、1つの閉塞区間ごとに定めてこれら通票なしで列車を閉塞区間に入れることができないようにします。例えば、単線の路線である交換駅に1つの列車が駅に到着しここで反対側の列車を待つ(これをAとする)とします。この場合、反対側の列車が駅に入線するまで発車できないことになります。そして、反対側の列車が入線します(これをBとする)Bの列車が持っている通票を反対側のAの列車側の乗務員に渡します。これを持つと初めてその閉塞区間を通過できるようになるのです。いわば通行手形のようなものです。

この方式を用いることで列車同士の衝突事故を防ぐことができたということです。ちなみにこの方式は地方路線のローカル線などで用いられています。

 

国鉄時代の駅で使われた備品
国鉄時代の駅では、主に切符の発券や販売や列車の時刻の確認が行われていました。

当時の切符は『硬券』といわれる厚紙の切符が用いられ、乗客に切符の手渡しも行われていました。また、構内の広い駅では、列車の誘導も行われ、主に列車同士の連結作業や発車合図なども駅員の業務として行われていたのです。

 

蒸気機関車に使用された計器やブレーキ弁など
これは蒸気機関車に使われたブレーキ弁、速度計、圧力計、安全弁です。
蒸気機関車は、電車と違って高度な操作技術が必要になります。

蒸気機関車の場合、水蒸気をエネルギーとして動くため、給水や石炭などの燃料が必要になります。動かす時は逆転機や加減弁を操作し蒸気の量を調節しながら動かします。

ブレーキには2種類あり、左側の小さなブレーキ弁は『単独ブレーキ』といい、直通空気ブレーキを用いて機関車のみにかけるものです。もう1つの大きなブレーキ弁は『自動空気ブレーキ』といい、機関車はもちろん列車全体にブレーキをかける貫通ブレーキです。このように2つのブレーキを使い分けることで、客車や貨車への衝撃を減らすことができます。

また、速度だけでなく圧力も確認しなければなりません。

蒸気機関車の場合、機関士と助手の2名が必要で、機関士は逆転機や加減弁、ブレーキ弁を操作しつつ、速度計やブレーキ圧力計の確認、前方の確認をしなければなりません。助手は常に投炭をし注水器を使って水量を調節して蒸気を作り、圧力計で蒸気圧の確認をしながら操作しなければなりません。

蒸気機関車を動かすのにはそれだけの準備が必要になるので、電車より難しいともいえるでしょう・・・。

 

特急『つばめ』のヘッドマーク

歴代の特急『つばめ』
特急『つばめ』は、かつて東京~神戸間を結ぶ特急として昭和5(1930)年に登場しました。

この列車の登場で、これまでかかっていた所要時間を2時間以上も短縮することができたのです。そして、東京~神戸間を9時間を切るスピードで走ったことから、『超特急』という異名が付けられました。登場時は『C51型蒸気機関車』を牽引機として展望車には二羽のつばめをあしらったテールマークがついた、当時としては豪華絢爛な優等列車だったそうです。ところが、1940年代の第2次世界大戦で戦況が悪化し、昭和18(1943)年に廃止にされてしまいます。

・・・そして、特急が復活した昭和24(1949)年、東京~大阪間にて特急『へいわ』が運行を始め、その翌年には『つばめ』に愛称変更。この時、『C62型蒸気機関車』や『EF58型電気機関車』で運行され、最後尾のテールマークだけでなく先頭の機関車にもヘッドマークが装備されました。これは、ヘッドマークが装備された特急列車としては最初の列車でもあります。

その後は、日本を代表する特急として活躍し、東海道新幹線の開業まで東海道を駆け抜けました。さらに新幹線開業後も山陽と九州を結ぶ特急として運行されましたが、昭和50(1975)年の山陽新幹線開業とともに特急『つばめ』の名前も鉄道業界から姿を消すことになります。

そして、長いこと『つばめ』がなくなり、国鉄が民営化してからしばらく経った平成4(1992)年、JR九州の特急として復活します。その頃は787系で運行されていましたが、九州新幹線の開業とともに『つばめ』の名前が新幹線に引き継がれ、現在に至っています。

 

展示されている鉄道模型
九州で活躍した機関車の模型も展示されています。

蒸気機関車からディーゼル機関車、電気機関車まで、九州で活躍した車両を中心に展示されています。

九州で活躍した蒸気機関車は9600型や8620型をはじめ、C50型、C55型、C10型、C11型、C56型、D51型、C57型、C61型などが活躍しました。

そして、九州で活躍した電気機関車にステンレスあるいは赤色になっているものが多かったのですが、九州の電化区間のほとんどが交流電化されていることから、ED76やEF81といった交流電化に対応した電気機関車が活躍しています。中でもEF81-300番台はステンレス車体になっているのは、関門トンネルは関門海峡の下を潜るため、海水による防錆対策のためと言われています。

 

CTC(列車集中制御方式)司令盤
従来、各駅で駅員の手によって行われた信号機や分岐器の操作を1つの装置で集中管理し、更に列車運行の安全化を図る、CTC(列車集中制御方式)が導入されました。

CTCは“Centralized Train Control”の頭文字をとったものです。これは、コンピューター制御によって信号やポイントの操作などを管理ならびに操作できるようになっています。写真のものは、門鉄ビル6階の門司鉄道管理局に設置されていたもので、昭和61(1986)年から平成13(2001)年まで使われていたものです。

 

硬券
国鉄時代には『硬券』といわれる厚紙の切符が使われていました。

今でこそ磁気の切符またはICカードが使用されていて当たり前の時代になっていますが、昭和末期までは当時の国鉄に限らず各私鉄においても硬券に駅員または車掌にハサミを入れて改札が行われていたのです。

硬券には種類があり、普通の乗車券の他に特急券、急行券、寝台券、そして入場券など、様々な切符が発券されていました。JR時代こそ特急券や指定券はマルス券で発行されますが、国鉄時代の特急券や急行券などはそれよりも一回り小さい硬券のようです。普通の乗車券(短距離切符)の場合は『エジソン券』といわれる小さな切符で発券されますが、当時の硬券もエジソン券の大きさで発券していました。

現行の磁気切符は機械で発行されますが、当時の硬券は『活版』または『凸版印刷』にて印刷していたのです。

他にも記念乗車券や記念入場券、乗車証明書などの硬券も作成されていたようです。

今では、JRや大手私鉄ではほとんど硬券は見れなくなっていますが、一部の地方私鉄では未だに硬券が使われている鉄道会社があります。秩父鉄道や大井川鐵道、近江鉄道、三岐鉄道、小湊鐵道などの地方私鉄では現役の硬券切符を目にすることができます。

 

★JR九州の鉄道ジオラマ★


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運転シュミレーター(811系電車)

鉄道記念館ではJR九州の鹿児島本線の普通電車で活躍する811系の運転シュミレーターが2区間で運転できます。

ビクティニ:出発進行!!ぼくはノッチを動かすからピカチュウはブレーキを

ビクティニポンチョのピカチュウ:OK!

ビクティニ:停車駅だ!ブレーキをかけて!

ビクティニポンチョのピカチュウ:ブレーキ全開!!・・・・停車位置より少しズレちゃった・・・

 

下関唐戸エリア 旧秋田商会ビル

連絡船で下関側にも行ってみます。

下関側にも、門司港と同じように随所、西洋建築が目立ちます。

こちらの建物は秋田寅之介により明治38(1905)年に設立された秋田商会のもので、日清・日露戦争時に大きく飛躍を遂げた総合商社です。

国内や中国の満州、朝鮮、台湾など25カ所に支店・出張所を開設し、建築用の木材や食料などを運搬し、莫大な資産を築きました。旧社屋が手狭になったことから、大正4(1915)年に下関港に面した交通の要所に建てられたのが『秋田商会ビル』です。
鉄筋コンクリート造の建物は社屋兼住居で、1階は建物の約3分の2を占める広さ、事務室や応接室、小室、階段室が設けられた事務所です。洋風の建築でありながら2・3階の住居には書院造が取り入れられた和洋折衷な造りになっています。
ひときわ目立つ屋上にある庭園は『離れ座敷』です。建物の周囲には樹木が植えられ、今から百年以上も前に屋上庭園が造られました。
他にも和風のシャンデリアを自在に上げ下げできる装置をはじめ、トイレや浴室の華やかなタイル、そして料理や荷物を運べる小型のエレベーターなど、当時としてはハイテクかつ最新鋭の設備が設けられているのだそうです。

 

旧下関英国領事館
赤レンガの洋風な建造物がおしゃれな『旧下関英国領事館』は、平成11(1999)年に重要文化財に指定された貴重なものです。

明治後半の頃、当時、駐日公使にして英国大使であるアーネスト・サトウは、西日本において外交・経済・交通の発展が著しい下関に英国領事館を設置することが決まります。その後、設置のため本国へ申具し、明治34(1901)年9月には下関に設置されました。そして、明治39(1906)年には、領事業務の拡大とともに領事館が新たに建設されたのが、写真の建物です。

現存最古の領事館建築物であるとともに、明治期の外交関連施設の典型を示すものとして歴史的価値が極めて高いことから、国際都市として発展してきた下関を象徴するにふさわしい建造物です。

赤煉瓦に包まれた建物は、昭和16(1941)年まで使用され、領事室や領事の居室などに使用された主屋、使用人室や厨房などに使用された附属屋から構成され、この領事館の設計者は、当時の英国工務局上海事務所技師長ことウィリアム・コーワンと推定されています。

領事館として使用されるのを目的とした建造物としては、日本最古のものだと言われています。

現在では市民の憩いの場や観光の拠点として利用され、1階には展示室、2階では喫茶やギャラリーがあり、ティータイムで寛ぐことができます。

 

下関南部町郵便局
洋風の建物がレトロな雰囲気を醸す『下関南部町郵便局』

明治33(1900)年建造の下関で最古の西洋建築物で、現役の郵便局としては日本最古です。堅固なレンガ造りにモルタル仕上げで、ルネサンス様式が取り込まれたちく00年を超える歴史的建造物です。

かつては明治4(1871)年に赤間関(現下関市)西之端町にて赤間関郵便取扱所が設置されていましたが、明治16(1883)年には赤間関郵便局へ改称し、局舎を外浜町に移転しました。
さらに明治21(1888)年には赤間関電信局の統合とともに赤間関郵便電信局に改称され、明治33年に移転したのが現在の建物です。1階では郵便、2階では電信の業務が行われていました。

平成13(2001)年には国の登録有形文化財に指定されており、1階にはカフェと展示コーナーが設けられています。

 

はいからっと横丁の遊園地
下関の唐戸地区にはレトロな街並みがある他に『はいからっと横丁』という遊園地もあります。

入園料は無料で、各アトラクションが数百円で楽しめるので、観光の息抜きにはいいのかもしれません。他にも『海響館』という水族館もあります。

ビクティニ:ぐるり森のカード迷路をプレイするのも久しぶり。でも2回も挑戦したのに敗れた・・・

ビクティニポンチョのピカチュウ:なぞなぞもクイズみたいで楽しかったけどね

 

山口名物『瓦そば』他
遅め昼食ですが、山口名物の瓦そばをいただきます。

下関の唐戸市場では、瓦そばの他に名物のふぐの唐揚げなどが味わえます。

昼食には瓦そばとふぐの唐揚げ、天丼のセットをいただきました。

ビクティニ:瓦そばは美味しい!ふぐの唐揚げも美味しい!

くまモン:焼きそばみたいで美味しいモン!

ビクティニポンチョのピカチュウ:天丼も美味しい!

 

関門海峡
関門海峡は、本州と九州を隔てる海峡です。

これは馬関(下関)の『馬』と門司(北九州)の『門』から取ったもので、約6千年前に本州と九州が分断され、海峡が形成されたという言い伝えがあります。

その海峡の水深は最大47メートルあり、この海峡には1日千隻ものの国内外の貨物船が行き交うため、『関門航路』として活用されています。また、運が良ければイルカが見れることもあります。

かつてより陸上および海上交通の要所でもある関門海峡は、幕末の下関戦争の舞台となりましたが、下関・門司両港の開港とともに、洋式灯台の設置ならびに沿岸部には近代建築物が徐々に建てられていき、やがては外国船が行き交う貿易の場として発展していったのです。このように日本が近代国家を形成を助長したレトロな建造物が当時の歴史を物語り、現在に至っています。

ビクティニ:海峡の上にいるとやっぱり風が強いね!ここにたくさんの貨物船が行き交うのはすごいよね!

くまモン:まあ、ここは本州と九州を結ぶ交通の要所だモン!

 

 門司レトロ 海峡プラザ
海峡プラザは、関門海峡にちなんだご当地グルメを堪能したり買い物ができる複合施設です。

ここでは、関門名物のおみやげが購入できるので、洋物好きな人にはイチオシなお店が多いかと思います。もちろん、名物の焼きカレーも食べられます。作者も、ふぐや瓦そば、洋食系は好物なのでなおも好みです。今回は、焼きカレーの素とガラス製品をお土産として持ち帰りしました。

 

門司港からハウステンボスへ

さて、ぼちぼちハウステンボスへ向かうことにします。

15:41発 普通 大牟田行きに乗車。ここからも18切符を活用するため行けるところまで普通電車や快速電車で進んでいきます。

途中で快速電車に乗り換えたりして博多まで進みます。

ビクティニ:ハウステンボスって長崎にあるはずだから、福岡よりさらに西へ行かないといけないのだけど・・・。あの辺はどうも路線図が複雑で時刻を調べるのには難しい・・・。どうしても分からないなら・・・

ビクティニポンチョのピカチュウ:普通電車だけじゃなくて新幹線や特急を使うのね

作者:いや、ハウステンボスへ行くには鳥栖まで鹿児島本線で、江北まで長崎本線で、さらにそこから佐世保線ではい・・・?なんて読むの?『そうき』・・・?・・・とまあその駅から大村線に乗り換えてハウステンボスまでがそのルートらしい。ずいぶんややこしい・・・。

 

博多ラーメン(夕食)

17:03に博多駅に到着。

ここから新幹線で新鳥栖まで行き、そこから長崎本線・佐世保線に乗り換えてハウステンボスまで進もうと考えみどりの窓口に相談してみたのですが、どうやら特急『みどり』で行くようです。ちなみに我々が乗車するのは18:12発『みどり51号(リレーかもめ)』です。その時間まで45分もあるため、博多駅にて夕食を済ませてから出発することにします。

博多といえば、とんこつラーメンが名物だそうですが、とんこつ以外にも醤油ベースのものも結構あるみたいなので、『かぼすラーメン』というのを注文しました。醤油ベースということもあり、スープがあっさりしていて美味しかったです。

ビクティニ:かぼすの酸味に醤油の塩加減が効いてうまい!とんこつより醤油ベースがいいね

ビクティニポンチョのピカチュウ:食べやすくて美味しい!

くまモン:熊本のとんこつラーメンだったら最高だけど、醤油味も美味しいモン

 

早岐駅

特急『みどり51号』で進み、19:49早岐駅に到着。

博多から早岐までの特急・乗車券で合計の3,970円かかりました。ここで大村線に乗り換えてハウステンボスへ向かいます。ここからは18切符が使えます。ハウステンボスはこの駅から1駅なので、20:15発の快速『シーサイドライナー』で進みます。

作者:なるほど、『はいき』って読むのか・・・

ビクティニ:確かに長崎エリアの鉄道網って意外と分かりにくい・・・。とにかくハウステンボスまではあと少し!

ビクティニポンチョのピカチュウ:大村線って普通のローカル線だと思ってたけど、意外と本数あるね、快速もあるみたい

 

ハウステンボス駅

ということで、20:25にハウステンボス駅到着。

ハウステンボスの入り口ということもあり、駅舎が洋風をまとっています。

ビクティニ:ようやく着いたな・・・。長かったよ・・・。

ビクティニポンチョのピカチュウ:ここがハウステンボスだね!

 

ハウステンボスの入り口

駅から出ると、ハウステンボスは目の前です。

到着したのが20時半なのでだいぶ遅めですが、夜景の明かりが煌めいています。

ビクティニ:初めてきたけど、何やら明るいBGMが流れている。まるでディズニーランドみたい。

ビクティニポンチョのピカチュウ:ディズニーランドの九州版って感じかな・・・。

作者:ようやく到着しましたね・・・。あとは、ホテルの方に迎えに来てもらい、チェックインをするだけ。

 

ハウステンボスのホテル(ウオーターマークホテル)

ということで、ハウステンボス園内にある『ウォーターマークホテル』に宿泊です。

至るところでヨーロッパ風の建築物が見られるので、もはや日本にいるとは思えないと言わんばかりに、あたかもヨーロッパにいるかのような感覚になります。

さて、園内に温泉施設があるようなので、ホテルから入浴券をもらったのでこれから温泉に行こうと思うのですが、ここからは専用のバスで行くことになります。しかも、この日はかなり混雑しているとのこと。なので、混まないうちに早めに温泉に行くことにしました。そして遅くなるほど混みそうなので入浴時間は10~15分程度で済ませます。その後はホテルの部屋でゆっくりしました。

ビクティニ:これはまた楽しそうなところだな。関東にはなかなか無いよね。あ、地元にはムーミンバレーパークがあるから・・・。まあ、こっちの方が楽しいかもね

ビクティニポンチョのピカチュウ:ホテルのイルミネーションが素敵だね

くまモン:子供の頃、よく行ったモン。懐かしいモン・・・。実はボクにとっては思い出のある場所なんだモン

 

ハウステンボスのホテル 部屋

ハウステンボスのホテルは、部屋が予想以上に素晴らしい部屋でした。

いかにもヨーロッパのホテルに泊まっている感覚です。

ビクティニ:部屋もなかなか豪華!まさしくヨーロッパにいるよう

ビクティニポンチョのピカチュウ:おしゃれな部屋だね。こんなにおしゃれなホテルは初めてだよ

くまモン:ハウステンボスはやっぱり最高だモン!明日はハウステンボスで遊ぶモン!

作者:さっきフロントでもらったパンフによると『フラワーロード』の花畑と風車の景色が定番のスポットのようです。そこで記念撮影もいいですね・・・。ハウステンボスは初めてだから、とりあえず色々回ってみましょうかね

 

門司港レトロ観光 九州鉄道記念館を見学』をお伝えしました