みなさん、こんにちは。
今回は、映画“名探偵コナン100万ドルの五稜星”の舞台となった函館を観光します。
ただ、この後は関東地方に台風が来ているという情報が入っているため、函館ではほぼ半日で観光し一泊した後、そのまま帰宅するという流れになります。
5日目後半 8月14日
大沼公園から列車で移動し、函館駅に到着したのが午後2時ごろ。
これから函館を観光する形になるのですが、実質半日だけ函館のうち一つのエリアだけ観光して終わりという流れになります。なぜ函館にしたかといえば、映画“名探偵コナン 100万ドルの五稜星”の舞台になり注目されたことで興味を示したからです。
本来なら明日まで函館を観光した後、深夜便のフェリーで青森へ向かい、そこから進める所まで在来線で進んで途中駅から新幹線で帰るというプランでしたが、残念ながら明後日(8月16日)には関東地方に台風が直撃するという情報が来ている上、東海道新幹線や首都圏の電車も止まってしまうという可能性があるということから、この日のうちに函館を観光してその後日に帰宅するという流れになります。
ビクティニ:さて、函館にやってきたよ。短い時間だけど観光していこう
ヤドキング:うむ、この写真を見る限り素敵そうじゃのう。たしか夜景が綺麗だとは聞いたが・・・、まあ行ってみようぞ
JR函館駅は言わずもがな函館の玄関口です。
ここも名探偵コナンの映画に登場しますが、エンディングのみ登場します。この駅こそJR函館本線の起点駅です。もっとも、途中の区間で廃止になると函館本線自体もめちゃくちゃになりかねませんが・・・。
ビクティニ:ようやく函館に来たけど、着いたのが2時過ぎ・・・。観光できる時間はあまりないけど、どこから行こうか?
ヤドキング:そうじゃな・・・とりあえずベイエリアへ行ってみようかのう
函館駅前には、素敵な花壇が整備されています。
洋風なガーデニングに癒やされます。
函館市内を走る函館市電の路面電車もお馴染みです。
函館市電の路面電車もコナンの映画では登場します。映画では十字街付近を走行する路面電車からコナンが犯人を追跡中に乗客たちが驚愕する場面、そして蘭たちが乗車するシーンでも登場しています。函館市電の路面電車には、古典的だが今どき珍しい吊り掛け駆動の単車タイプのものもあれば、低床の連接タイプもあります。また、運が良ければハイカラ電車も目にすることもできます。ちなみに訪問当時はキャンペーン期間中なので名探偵コナンのラッピング電車も運行されていました。
函館市電で十字街にやってきました。
ここは赤レンガ倉庫をはじめ元町公園、函館山ロープウェイへの玄関口となるエリアです。赤レンガ倉庫のある港町では、当時幕末の時代における有数の貿易港として栄えてきましたが、現在では様々なファッションや物産品などをショッピングができる他、オルゴール体験などの体験施設が充実しています。また、ラッキーピエロというハンバーガーショップも大人気で、時期問わず行列をなしているそうです。
いずれもコナンの映画で登場し、ここ十字街でも映画中で登場します。
ここでは確か犯人を追跡する時に出てきたエリアだったかと思います。
函館市地域交流まちづくりセンターでは、函館に関する観光情報などを共有したり、観光マップや路面電車の時刻表などもここでもらえます。
観光協会の方に聞いたところ、旧函館公会堂をはじめ函館山から見る100万ドルの夜景がおすすめだそう。やはり定番ですよねw ちなみにここの建物は、大正12(1923)年に丸井今井呉服店函館支店として、当時としては珍しい鉄筋コンクリート3階建てで、外観は洋風を基調とした『近世復興式』という建築様式が用いられているそうです。その後、函館市役所の末広町分庁舎として平成14(2002)年まで使われました。
ビクティニ:とりあえず、観光マップゲット!さ~てどこ回るかな・・・?
ヤドキング:わしとしてはやはり旧函館公会堂じゃな。あとはイギリス領事館でおいしい紅茶も飲めるそうじゃ。
ということで、函館山の麓にある『西部地区』を散策します。
このあたりは、『坂の街』として有名で、すべて19箇所の坂道があります。このように坂のてっぺんから下の市街地や港が見れるのが魅力的です。ここはそのうちの1箇所で『十二間坂』という坂の名所の1つです。
ビクティニ:改めてみると結構急な坂だ!碓氷峠の坂より急かも
ヤドキング:やはりここは函館山の麓じゃからのう。坂も急なはずじゃ
ゴンベ:すごい坂だっぺ!
マネネ:うわ~ここから見るとなかなか高い場所ですね!
ところん:こんなに坂が急な街並みも珍しいですね!でも自転車でこの坂を登るのには一苦労しそうです
トトロ:トトロ~(おお、すごい坂じゃ・・・)
ここは亀井家の長男として勝一郎が生まれた場所です。
文芸評論家ならびに思想家として活躍し、1937年には『人間教育』、1943年には『大和古寺風物詩』など不朽の名著を残し、1965年に日本芸術院会員に推挙されたそうです。
『大三坂』は19ある坂道の中でも一段と雰囲気の良い坂です。
洋風な石畳にそれを挟むように洋風建築と和風建築がいい具合にマッチしています。
坂自体は小規模でありながら、日本の道百選にも選ばれるほどなかなか素敵です。道の街路樹や植え込みもいい感じですね。
ビクティニ:枯れかけているけどあじさいがまだ咲いている
ヤドキング:緑の街路樹も雰囲気が出とるのう
函館の西部エリアでは、教会など洋風建築が目立ちます。
こちらの建物は、初代ロシア領事館の付属聖堂として安政7(1860)年に建立されたハリストス教会です。
文久元(1861)年、青年だった聖ニコライがロシアから付属聖堂付司祭として来函、その後日本で初めて正教会(キリスト教の教派の一つもしくは東方正教会のこと)を伝えたといいます。彼は明治5(1872)年に東京へ移り、日本全国で正教会の伝道を初めていました。
初代聖堂は明治40(1907)年に函館大火により焼失したものの、大正5(1916)年に2代目となる現聖堂が再建されました。聖堂内部では、高い丸天井や当時ロシアからもたらされたイコン(聖像)やイコノスタス(聖障)が、聖堂外部では真白な漆喰壁や鐘楼と聖堂の緑青をふいた屋根に独特の装飾で据えられた十字架などが特徴的です。
再建当時の大鐘(重さ約2トン)は、大正12(1923)年の関東大震災で大破した東京神田のニコライ堂復の際に移され、代わりに大小6個の鐘が贈られたものです。それらの鐘がリズムとともにメロディを奏でたことから『ガンガン寺』として市民に親しまれていたそうです。当時の鐘は戦時中に供出され、現在の鐘は昭和58(1983)年6月に三重県桑名市在住の美術鋳造から献納されたものです。同時に国の重要文化財に指定されました。
函館のベイエリアで洋風な庭園という雰囲気を放つ元町公園。
階段の花壇にはマリーゴールドが植えられ、階段の向こうには旧函館公会堂がそびえ建っています。レンガ造りの花壇と明治レトロな建物がなかなか素敵です。
ビクティニ:洋風な花壇と函館公会堂を見ると、門司港を彷彿させるようで懐かしい・・・
ヤドキング:おお、あれが旧公会堂かね?
ゴンベ:とてもいい雰囲気だっぺ~
ところん:レンガ造りなのがまたおしゃれですね
マネネ:花壇も素敵ですね
トトロ:♪(楽しい)
元町公園から港町へ下る『基坂』も有名な坂です。
江戸時代では、亀田番所や箱館奉行所、明治時代には開拓使の支庁、函館県庁、北海道庁支庁などの建物があったことから一帯が箱館(現在の函館)の中心だった場所です。そして、明治維新後に、坂下に『里程元標』が立てられたことがその名前の由来となっています。ここも名探偵コナンの舞台にもなった場所ですが、やはり犯人追跡のシーンで出てきた場所だったかと思います。
ビクティニ:このあたりはとても広い坂だ。おそらくこのあたりがベイエリアの中心なのかも
ヤドキング:なんでもかつてはここに北海道庁支庁とか県庁とかがあったそうじゃ
街灯の至る所に“名探偵コナン100万ドルの五稜星”の宣伝旗が掲げられています。
やはり函館が名探偵コナンの聖地となると、多くの観光客で注目されていますね。実際、スタンプラリーに参加している家族連れの姿も見受けられました。ちなみに、旅行当時は名探偵コナンのスタンプラリーをやっていて、自分も参加するつもりでしたが、あいにく台風ラッシュというかこの後、関東にも台風が来るのを懸念しているために断念せざるを得なくなったのが残念ですorz
函館の港町は、幕末の時代における屈指の開港地ならびに国際貿易港として栄えてきました。
こちらの函館市旧イギリス領事館もその名残の1つで、当時は国際貿易における領事館として重要な役割を持っていました。安政6(1859)年6月に箱館が開港したことで同時に国際貿易を開始。その“ユニオンジャック”を75年もの間、異国情緒を漂わせる港町として外国からの文化を受け入れてきたのです。
文久3(1863)年には領事館が今のハリストス正教会付近にて落成されたものの、慶応元(1865)年1月には火事によって消失。さらに仮領事館を設置するも明治12(1879)年2月では、今度は大火によって焼失しました。明治18(1855)年、現在の場所に新築の領事館が落成するがまたしても明治40(1907)年8月でも大火で焼失しました。そして、大正2(1913)年9月に現在の領事館が完成し、昭和9(1934)年12月まで領事館として使われました。ここまで何度か火事や大火に巻き込まれたという悲しいエピソードもあったんですね・・・。
昭和54(1979)年11月には函館市有形文化財に指定され、平成4(1992)年からは函館市旧イギリス領事館(開港記念館)として公開しています。
ビクティニ:ここが、函館の開港の歴史が学べる『旧イギリス領事館』だよ。建物自体もかなり昔からあるものみたい
ヤドキング:この建物を見る限り、ざっと築110年といった感じか。かつて国際貿易をやっていた時代こそこの領事館の存在は欠かせなかったのじゃろう・・・
当時のイギリス領事館の門章です。
両端に施された馬とライオンの彫刻がなんとも言えない芸術を生み出しています。真ん中の彫刻はいかにもイギリスを象徴するようなものです。
函館は、安政5(1858)年に日英修好通商条約が結ばれたことによってイギリスと日本との自由貿易が始まり、安政6年以降、ここが国際貿易港として開港しました。これを機にイギリス領事館が出来たきっかけとなったのです。
函館における領事は、イギリスの他、アメリカやロシア、フランス、オランダ、ポルトガル、ドイツなどの14カ国が参加していました。なお、イギリス領事館がフランス領事も兼務していたそうです。ここでイギリス領事館を開いたのは、ロシアやアメリカに次いで3番目だったものの、幕末から昭和までの間、途切れることなく領事館として維持していたのがイギリスだけだったのです。
イギリス領事における主な役割としては、以下の通りです。
- イギリス人の保護
- 日本人とのトラブルの調停
- イギリス船舶への援助
- 貿易や商業の支援
こうしたユニオンジャックの間、イギリス東洋艦隊が毎年夏に入港し、多いときには10隻以上も入港したりで、領事もその対応に追われたといいます。しかし、住民たちも歓迎ムードでにぎわう一方で、トラブルもあったようで、領事による裁判も行われたそうです。
ここが領事館の執務室です。
この部屋で、イギリスに関する様々な領事を執り行っていたことがわかります。
歴代のイギリス領事な中でとりわけリチャード・ユースデン領事は、函館の人々から親しまれ続けてきた存在で、彼は函館の街を大いに愛していたといいます。また、体が小さかったことからも、『豆コンシロ(consule=領事)』の愛称で親しまれ、幕末から明治にかけてイギリスと函館の『かけはし』役の存在感として尽力しました。帰国の際、函館公園にて開かれた送別会には、大勢の市民が参加していたそうです。
この部屋は、家族居室という、品のある調度品にテーブルのティータイムセットが置いてある、ちょっとしたプライベートな空間です。
壁にはお祝いのライラックの写真が飾られています。
明治12(1879)年、ユースデン夫人は函館公園の開園記念に、イギリスからライラック2株と西洋クルミの苗木を取り寄せて直樹しました。これが北海道における最初のライラックで、ユースデン夫人のお気に入りだったそうです。また、函館公園に植えられた西洋クルミの木も直樹から90年以上経ったことから名木と呼ばれ、現在はその子孫木が今でも大切に育てられています。
函館市旧イギリス領事館は、イギリス政府の設計をもとに函館の職人によって建てられたものです。
煉瓦壁に漆喰を塗った耐火建築で、イギリスの植民地に見られるコロニアル・スタイルが採用されています。洋風建築の中に瓦屋根や石垣など和風の意匠が見られ、異文化が交錯する港町・函館を象徴する建物として、開港の歴史を今に語り継いでいるのです。
旧領事館では、研修室も設けられており、ここでは会社などの会議場として利用されています。
研修室の壁には、函館やその周辺の観光地が描かれた絵画が展示されています。
どれも素晴らしいセンスで描かれています。
かつて北海道は『蝦夷地』と呼ばれており、当時は『箱館』と記されていました。これがいわゆる現行の函館市になります。
江戸幕府のもと松前藩は交易を基盤として蝦夷地を司り、松前・江差・そして箱館の3つの港こそ、蝦夷における主要な港町として栄えてきました。当時、千島列島をロシアが支配し、ここ蝦夷にもロシアの支配が迫っていた時代であったため、鎖国であった日本は様々な政策を打ち出すこととなったのです。
箱館に外国との交易が始まるのがペリー来航以降からですが、それより前にも、箱館に外国人の姿があったのです。
寛政5(1793)年6月にロシア使節ラスクマン一行を乗せた船が箱館に入港。これは、初の外国船入船したことになります。ラスクマンは漂流民と引き換えに、日本との交易を要求したものの、当時、唯一外国との交渉窓口であった長崎へ行くよう、許可証を渡しました。それ以降、イギリス船も松前にやってきたときには、大騒ぎになったそうです。この出来事をきっかけに、幕府は本格的な北方の警備を固め、政策に乗り出しました。
当時、幕府の直轄地となった箱館は、東蝦夷地の産物を集荷するための基地として、江戸(現在の東京)や大坂(現在の大阪)への流通が発達していきました。
その中で、高田屋嘉兵衛は、箱館と兵庫を拠点に北前船を走らせ蝦夷地の産物を交易していました。また、択捉にも航路を開き、蝦夷地定雇船頭として幕府の船を管理することで、海運業を発達させました。これにより、港町として繁栄する函館の礎を築いたのです。
鎖国の時代下にあった日本は、ペリー来航によって大きく運命を変えることになります。
ペリーが初めて日本に来航したのが嘉永6(1853)年のこと、神奈川県の浦賀港に黒船が入港してきました。これは教科書にも載るほど有名な話ですね。
そして嘉永7・安政元(1854)年3月、ペリーは二度目の日本来航として“日米和親条約”を締結。さらにここ箱館と伊豆の下田の開港が決定されます。同時にペリーは視察のため箱館に向かい、同年4月にはペリーを乗せたポーハタン号とミシシッピ号が入港。やがて、安政2(1855)年3月に箱館は開港したことで、多くの外国船が箱館へ入港するようになったのです。
ちなみに、来航時のペリーは見物しては買い物を楽しみ、箱館の街を満喫されたそうです。
こうして、ペリーによる日米和親条約締結ならびに箱館の開港によって、箱館の町に西洋文化が訪れました。
さらに、明治2(1869)年、明治政府の開拓使による行政が始まり、これまで『箱館』だった地名も『函館』に改められます。まさに函館は、黒船から贈られた西洋文化と日本の文化が混じり合う、『ハイカラ文化の街』として現在に至っています。
旧イギリス領事館での楽しみといえば、見学後のティータイムです。
これこそ、ハイカラ文化ならではの函館でしかできない体験です。洋風なティーカップに茶器がなかなか洒落ています。
ビクティニ:この紅茶、すごく優しい香りでケーキとよく合う・・・
ゴンベ:とっても美味しいっペ~♪
ヤドキング:和やかな匂いじゃな・・・これぞ函館の思い出にふさわしい・・・
マネネ:紅茶がおいしいです♪
ところん:狭山茶にも劣らぬ香り・・・たまりませんね~
トトロ:トトロ~(よきかな・・・)
元町公園に建てられた立派なレトロ建築物が一際目立ちます。
これは旧北海道庁函館支庁庁舎で、明治42(1909)年に建てられたものです。公園造成とともに昭和57(1982)年に修復整備され、二階に張り出された屋根、柱頭飾り(コリント式)と中央部に膨らみのある(エンタシス風)巨大な四本の柱で支えられた柱廊玄関が特徴的です。こちらの明治末期の函館を伝える洋風建築物こそ、北海道開拓の歴史を伝える価値が高いことから、昭和60(1985)年に北海道有形文化財に指定されています。
実は、ここ元町公園には松前藩の亀田番所があった場所で、19世紀はじめの幕府直轄時には箱館奉行所が置かれていました。しかし、1854年の日米和親条約で箱館の開港が決まると、当時松前藩が復領していたこの地は再び幕府の直轄となったことで箱館奉行所が再置されたものの、港湾が近く防備上不利だったため元治元(1864)年に亀田の地(五稜郭)に移転しています。
そして、『旧函館区公会堂』こそ函館を代表すべき有名な観光地です。
北海道における明治洋風建築物としては代表的なもので、左右対称になっているのが特徴的です。2階にバルコニーを配し屋根窓に玄関、左右入口のポーチ円柱に柱頭飾りがあるという特徴的な様式になっています。
この建物は、明治43(1910)年に完成した公会堂です。それより前は、町会所があったのですが、明治40(1907)年8月の大火で、函館区のほぼ半数の1万2千戸余りが焼失しなくなってしまったのです。そこで、『公会堂建設協議会』を結成し建設資金調達のため区民の寄付を募るもなかなか集まりませんでした。そんな中、函館の豪商こと初代相馬哲平氏は自分の店舗など多くを焼失したにも関わらず5万円の大金を寄付したため、これをもとに今の公会堂が完成しています。
もちろん、ここも名探偵コナンの舞台の1つで、毛利小五郎や蘭たちが観光で訪れた際に登場しています。
ビクティニ:いつ来ても立派だよね。何年ぶりだろうか・・・。
ヤドキング:おお、これが例の旧公会堂かね。素晴らしい!
ゴンベ:お~、立派だっペ~!
マネネ:素敵!わたしはこういう建物が大好きなんです!
トトロ:トトロ~(見事じゃ)
ところん:なるほど、とっても美しいです!北海道における明治建築としてはなかなか貴重なものだと思います。
旧公会堂の内部も、何度も改修工事を受けながらもほぼ当時の姿で蘇っています。
ここは球戯室として使っていた部屋で、当時はビリヤードといった娯楽で賑わっていたのでしょう。
ここでは函館公会堂に関する歴史や資料などが展示されています。
旧函館区公会堂の変遷です。
竣工当初より、一部を商業会議所とし、区内唯一の集会所として使用されてきました。また、当時は皇太子行啓による御旅館としても使われた記録があるようです。商業会議所が移転したのち、演奏会や娯楽的な催しなど、まさに当時の函館においてエンターテイメントのような空間と化していました。
昭和20(1945)年の戦時中は、函館市内各地で空襲を受ける中、旧公会堂は1回も被害を受けず残りました。当時、建築材料が不足していた戦後約10年の間には様々な仮事務所として使われていたという記録もあります。また、昭和29(1954)年に起こった『青函連絡船・洞爺丸事故』の海難審判も開かれていたそうです。
そして、昭和32(1957)年になってからというもの、戦後において改めて公会堂として市民たちが利用するようになりました。昭和49(1974)年には国の重要文化財に指定、さらに昭和55(1980)年から約2年間の大規模な修理工事を経て、一般公開され、今や函館を代表する観光名所として生まれ変わっています。現在でも何度も改修を受けながら、当時とはほぼ変わらぬ形で様々なイベントや演奏会などで賑わっています。
ここまで旧公会堂の歴史を見てみると、まさに波乱万丈な時代を乗り越えてきた“奇跡の明治建築物”ともいえるでしょう・・・。
ここはもともと大食堂として使われた部屋です。
戦後10年間では公会堂ではなく審判所兼ね仮事務所として使われていた頃、『青函連絡船・洞爺丸事故』の審判が行われた部屋でもありましたが、再び公会堂として使用される頃にはもとの大食堂になりました。現在ではカフェとして食事もできます。
ここは会議所兼ね事務室として今でも企業の会議などで使われています。椅子やテーブル、デスク、周りの家具なども明治製という大変貴重かつ素敵なものです。特に、デスクにのったバンカーズランプなんかが素敵だと思います。
階段もほぼ当時のままで保っています。
この階段自体も築110年以上という明治建築物らしさが感じ取れます。階段を歩くたびに床が軋むような音が伝わるほど年季が入っています。
ここは貴賓(身分の高い人)が過ごすための部屋です。
貴賓室の中では一番広く、高級な家具が多数置かれ、旧公会堂の中でも最上級格の部屋です。皇太子行啓の際にも使われたのでしょう。
明治44(1911)年8月に皇太子行啓(大正天皇)が行啓の際に御旅館として泊まった部屋で、大正11(1922)年7月にも摂政宮殿下(昭和天皇)も行啓の際に休憩されました。さらに平成元(1989)年10月には、当時の天皇・皇后両陛下も行幸啓の際に休憩されています。
部屋のベッドは当時高級品だった真鍮パイブ製のセミダブルベッドが使われています。
部屋の右側に設けられた暖炉のマントルピースは、皇太子行啓の御旅館として使われることが決まった時に増設されたものです。
ここは建築当初は予備室だった部屋を、行啓時には御食堂として使っていた部屋です。
旧公会堂で一番広い部屋である大広間です。
建設当時は、区内における唯一の集会所であり、様々な用途に使われ、1927年に開催された作家の芥川竜之介と里見弴による講演会には千人もの聴衆が集まったそうです。現在では建物の保存ならびに災害時の安全確保のため200人まで入れるようになっています。
ここの大広間では、演奏やイベントの会場として今でも使われています。
ビクティニ:開放的な空間だ。ここで演奏やイベントが行われるみたい。
ヤドキング:天井のシャンデリアも大きくて立派じゃな。
ステージにはピアノも置かれています。
ここでは、何かの演奏会などのイベントのために置かれているものと思われます。
大広間のステージ前に“名探偵コナン”のパネルが設置されています。
ここも名探偵コナンスタンプラリーの対象エリアで、訪問時にスタンプラリーに参加している方々が見受けられ、自分も参加したいと言わんばかりに羨ましい限りです。しかし、今後の台風情報から考えれば・・・・仕方がないですねorz
ビクティニ:ここが名探偵コナンの舞台になった場所か。・・・思いつく限りではなんか毛利や蘭たちがここで観光していたような気が・・・。
ヤドキング:ちなみにラブライブとかいう人気アニメの舞台にもなったことで、一層注目されたそうじゃ
旧公会堂のバルコニーから函館の港町が見えます。
この日は港までは眺望できますが、山の景色は雲でよく見えません・・・。ここのバルコニーでもコナンの映画で出てきた場所です。
ビクティニ:ここから見る港町はいいもんだな。夜になると漁火で綺麗だろうな・・・
ヤドキング:じゃが、向こうは雲で山が見えんのう・・・
函館西部の港町の風景は、洋風建築や教会の他に神社やお寺も立ち並ぶ、まさにハイカラな雰囲気です。
石畳の通りや夕闇で灯る街灯もまた明治ロマン漂う雰囲気を醸しています。
ビクティニ:ああ、この風景も懐かしくなった・・・
ヤドキング:なかなかいい雰囲気じゃけんど、明日帰らなきゃならんと寂しいのう
函館山の山頂へはロープウェイでアクセスできます。
そして、山頂から見下ろす100万ドルの夜景こそ函館ならではの醍醐味で、コナンの映画ではまさにクライマックスのシーンとして登場します。
この後、夜景を見るためにロープウェイで山頂へ行こうと思ったのですが、残念ながら山頂は霧や雲で包まれていて、夜景を見れるのが難しい状況のようなので諦めましたorz
ビクティニ:せっかく夜景を見ようと思ったのに霧のせいで見えないみたい・・・。あ~あ、それこそ見たかったのにorz
ヤドキング:残念・・・。1往復1,800円で夜景が見れないと分かるとがっかりじゃ・・・。しかも明後日に関東へ台風が来るという予報が出ている以上、帰らないといけない状況とは・・・。仕方がない、諦めようビクティニよ。
『八幡坂』は、函館の坂スポットの中では一番有名な場所です。
この坂は函館山の麓と赤レンガ倉庫を結び、坂の頂上から見下ろす眺めは抜群です。かつてCMで年配夫婦が手をつなぎながらスキップするシーンのロケ地として評判だったことから、『チャーミーグリーンの坂』と呼ばれることがあります。坂名は、河野政通の館跡地(現在の元町公園付近)から移設された函館八幡宮があったことに由来すると伝えられています。大火の被害を受け明治13(1880)年に現在の谷地頭に移りましたが、その後もそのまま坂の名前になっています。
現在こそ多くの観光客が撮影に来るスポットですが、交通量は多いので車に注意して撮影します。ちなみに夕暮れ時は交通量が比較的少ないので、その時間帯が狙い目で撮影しました。
函館山の夜景が見れないのは残念ですが、十字街にある『函館市地域交流まちづくりセンター』のライトアップが見れました。
むしろ、市街地から撮る夜景の背景に霧が映るのは、逆に薄暗いという意味で雰囲気が出ているような・・・。
函館で最初で最後の夕飯は、函館駅前にある『どんぶり横丁』で海鮮丼をいただきます。
その時間帯では、ほとんどの店舗ではやっていない中、『道下商店』だけはやっているようなのでそこで夕食に。そこで、このお店の名物である『道下丼』を注文しました。具材にはいくらやタラバガニの身がのった、まさに北海道ならではのグルメを満喫できました。
6人:おいしい!!
ビクティニ:結局、夜景まで見れなかったのは残念だけど、海鮮丼のおいしさだけは思い出になりそう
ヤドキング:函館にいられるのが半日限りだからこその美味しさじゃ!
マネネ:とっても美味しいです!ありがとうビクティニさん!
ところん:これは美味しいですね!まさに北海道ならではの名物ですよ
ゴンベ:これが食べたかったっぺ~。最高に美味しいっペ~!
トトロ:トトロ~♪(おいしい~)
函館旅行最後の宿泊は、五稜郭付近にある『十字屋ホテル』にて宿泊しました。なんでもここはかつて百貨店だった建物を宿泊施設に改修したそうです。
ビクティニ:さて、明日はこのまま帰宅か・・・。長いようで短かったな・・・。
ヤドキング:まあ、何あともあれ今回の長旅も終わりじゃな。
マネネ:とはいえ、今回は台風に追われるような旅でしたね・・・。
ところん:でも、函館以外でも色々楽しめたので良しとしましょう。
ゴンベ:今回の旅で色々美味しいものが食べられて幸せだったっぺ~
トトロ:トトロ~(楽しかったのう)
最終日 8月15日
この日は、8月16日に関東地方に台風が近づいているという理由から、1日中帰路へ着くという流れになります。
ということで、あらかじめ予約したタクシーで函館フェリーターミナルへ送ってもらいました。タクシーの運転士さんに台風が来ているという理由で帰らなければならないという話をしたら「もったいないね」と言われたものの、「函館はいいところなのでまた来てくださいね」と言われました。いつかまたリベンジしたいですね。
函館フェリーターミナルへ到着しました。
ここで、あらかじめ変更した便に乗船するべく受付を済ませます。本来ならこの日は函館をもう少し観光し、翌日の3時20分発の深夜便で帰路につくという予定でしたが、台風が関東に来ているということで直ちに帰路へ着くことになったために、変更手続きする羽目になりました・・・。ということで、今回は9時20分発の便へ変更して青森へ向かいます。そして、そこから在来線の青い森鉄道といわて銀河鉄道を経由して盛岡駅から新幹線で帰るという形になります。
ビクティニ:あれがぼくたちが乗るフェリーだね
ヤドキング:そうじゃな。ともかく、さらばじゃ函館・・・・
9時20分 津軽海峡フェリー“ブルールミナス号”青森港行きが出港し、青森港へは13時ちょうどの到着になります。
函館から青森まで約3時間の船旅になります。
函館を半日しか観光できなかったとはいえ、津軽海峡を渡る船旅もまた楽しいものです。函館と青森を行き来する北海道新幹線なら約1時間で到着できるのに対してフェリーでは約3時間かかりますが、その分ゆったり津軽海峡の景色を眺めながら船旅が楽しめます。
ビクティニ:さようなら美しき大沼公園、さようならロマンの街函館・・・。
ヤドキング:今日、函館は天気が良いのに、関東では台風とはのう・・・。
松前方面を見た津軽海峡です。
海上には漁船やタンカーなどが行き交っています。そして、あそこには松前半島と津軽半島を結ぶ青函トンネルもあの海底下を通っています。
ビクティニ:あそこには先日通った北海道新幹線の青函トンネルがあるのね・・・。
ヤドキング:しかし、こんな深い海峡によくトンネルが造れたものじゃな・・・。
東側には下北半島が見えます。
あそこは青森県で、半島の先端にある大間岬が本州最北端です。
西側の津軽半島が北へまっすぐ突き出たような形状に対し、下北半島は鉤のような形状をしています。しかも下北半島には恐山という大きな火山があるためか面積が大きいです。
ビクティニ:とうとう青森県まで来たね・・・。
ヤドキング:函館から青森まで3時間とはいえ、あっという間じゃったな・・・。
13時ちょうど、青森港フェリーターミナルへ到着しました。
ここでもあらかじめ予約しておいたタクシーで青森駅(西口)まで送ってもらい、そこから13時18分発の青い森鉄道の八戸行きに乗車します。
ビクティニ:さて、青森駅から在来線で盛岡へ進み、そこから新幹線で帰宅だ。
ヤドキング:長い道のりになりそうじゃが、『北海道&東日本パス』があれば乗り通せるぞ。
青森駅に到着後、すぐ青い森鉄道の普通列車八戸行きに乗車します。
青森駅に到着したのが13時15分頃だったので、わずか3分で乗り換えなくてはなりませんが、西口からだとのりばが比較的近く、青い森鉄道では『北海道&東日本パス』が適用できるため、すんなり乗車できました。乗車寸前に発車ベルも鳴り出していましたが、JRと違って乗車を待ってくれたのには感謝です。
13時18分に青森駅を出発した八戸行きで進んでいきます。さらに八戸駅でいわて銀河鉄道の列車に乗り換えて盛岡へ目指します。
青い森鉄道は、目時駅~青森駅間を122kmで結ぶ並行在来線の第三セクター鉄道です。
もともと東北本線の一部だった路線ですが、東北新幹線の延伸により開業当初の2002年12月には目時~八戸間、さらに2010年12月に新青森までの延伸に伴い八戸~青森間も青い森鉄道に編入されています。車両はJR東日本とほぼ同じ701系ですが、青い森鉄道では『青い森701系』を中心に使われています。
車窓は田んぼや森林地帯、時折海の風景が広がる風光明媚な風景が広がっています。
ビクティニ:ここは在来線のはずなのに、なんかJRじゃないような・・・。そうか、ここは青い森鉄道という第三セクター鉄道になったんだっけ?
ヤドキング:ここは昔、東北本線だった路線だったのじゃが、新幹線が出来たことで第三セクターの路線として引き継がれたそうじゃ。
14時51分 八戸駅に到着
ここでいわて銀河鉄道に乗り換えて盛岡方面へ向かいます。
次の盛岡行きが15時24分になるので、30分ほど時間があります。
先ほど乗ってきた電車には“11ぴきのねこのまちさんのへ”のラッピングが施されていました。
実は、絵本『11ぴきのねこ』の作者である馬場のぼる氏の出身が三戸町だったこと。そして、三戸町では全国的にも人気のある『11ぴきのねこ』を活用したまちづくりが行われていることから、このようなラッピング電車も運行されているそうです。
ビクティニ:さっきから気になっていたけど、この電車に描かれたねこのイラストが可愛らしい。というか不思議と癒やされるな・・・
ヤドキング:多分、まちづくりの一環で走らせとるようじゃな。
さて、今回の旅行最後の昼食です。
八戸駅のレストランではまぐろ丼やせんべい汁を頂きました。
6人:美味しい!
次の列車はいわて銀河鉄道線直通の普通列車盛岡行きに乗車。
こちらの車両もJRの701系と同じですが、いわて銀河鉄道の車両なので『IGR7000系』です。ただ、一部クロスシートがあるので、快適性としてはこちらの方が上かもしれません。
ビクティニ:さっき乗ってきた電車とほぼ同じだけど、デザインがちょっと違う。
ヤドキング:これは青い森鉄道ではなくいわて銀河鉄道の列車じゃな。でも、両社同士で乗り入れも行っとるから、これでそのまま盛岡へは行けるぞ。
車内のつり革をよく見ると石川啄木記念館をアピールするような飾りがしてあります。
15時24分に八戸駅を出発した盛岡行きの列車は、しばらく青い森鉄道を進んでいきます。
やがて、目時駅を境に青い森鉄道は終点となり、ここからはいわて銀河鉄道へ入ります。このあたりは青森県と岩手県の県境になります。
ビクティニ:ここで青い森鉄道は終わりみたい。でも終点にしては寂しい。
ヤドキング:まあ、このあたりは県境じゃからここから先は岩手県じゃな。
IGRいわて銀河鉄道は、盛岡駅~目時駅間を82kmで結ぶ第三セクター鉄道です。
この路線もかつて東北本線だった路線で、先程の青い森鉄道目時~八戸間と同様、2002年12月に第三セクター鉄道としてIGRいわて銀河鉄道となりました。
このあたりは北部では山間部や田んぼが広がる車窓で、沿線には石川啄木記念館をはじめ、金田一温泉、世界遺産の御所野遺跡などといった観光名所があります。
ビクティニ:やはり田んぼに山の風景は癒やされる・・・。
ヤドキング:こっちは広い田んぼが広がっとるのう。
17時18分 盛岡駅に到着
在来線の旅はここまでです。
後は、新幹線に乗り換えて帰路につきます。
いわて銀河鉄道線の列車はJRとは全く別の場所にホームがあり、0番線もしくは1番線から発着しています。また、JR花輪線の列車も共用で乗り入れています。
ビクティニ:さて、盛岡駅に到着だ。ここで北海道&東日本パスの旅は終わり。あとは新幹線に乗り換えだ。
ヤドキング:たしかここから東京方面の新幹線は、自由席が設定されているやまびこが出ていて、しかも始発駅じゃから目的地まで着席できる。一石二鳥じゃな。
盛岡駅からは、やまびこ66号東京行きで帰路につきました。
この時期は、はやぶさやこまちは全車指定な上、しかもほぼ満席なのでなかなか席が取れません。ましてや全車指定の列車が満席になると乗車できません。しかし、自由席のあるやまびこに限っては自由席があるため、どの列車に乗っても自由席の設定がある限り目的地まで行ける上、指定席より安く始発駅からなら座れるので、この方法なら十分帰れます。ありがとう自由席!
ビクティニ:ということで、今回をもって2024年の夏休み旅行“北海道&東日本パスで函館遠征記”はお開きにしたいと思います。
ヤドキング:閲覧者の皆さん、最後までご覧いただき、ありがとうございました。