ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

群馬にある日本の歴史を変えたナゾの名城? 名胡桃城址を見学

皆さんこんにちは。

今回は、とある休みの日に群馬旅行に行った時に知ったのですが、かつて群馬県のとある場所に名胡桃城なぐるみじょうという名城があったということで、どういう城だったかを紹介したく存じます。

 

名胡桃城址

名胡桃城址は、群馬県みなかみ町にある城趾の1つです。

写真を見る限り何もないように見えますが、実は日本の歴史を変えるような有名な城だったのです。

ぐんまちゃん:ここは日本の歴史を変えるほど有名な名胡桃城があったんだ。見てみるかい?

ビクティニ:見ての通り何も無い場所だけど、ここには城があったのはちょっと意外。ちょっと見てみよう

 

名胡桃城址について
名胡桃城は、戦国時代に山城として真田昌幸さなだまさゆきによって築かれました。

山城といっても、皆さんがお城のイメージだと思うような天守はありませんが、基本的にはくるわ土塁どるいで構成されたもので、石積みの土塁と『虎口こぐち』といわれる敵が侵入しにくい構造を持つ出入り口で構成されていました。さらには掘立柱建物址ほったてばしらたてものし群などが見つかっていることから、そこに兵士たちの詰め所があったことが推測されています。

また、わずか10年のみの歴史にも関わらず、戦国時代において有名な城で、ここを舞台に起きた事件から乱世な戦国時代を終焉へ向かわせることになったのです。

 

名胡桃城 略図
名胡桃城の略図です。

名胡桃城は、先程も述べたようにいくつもの郭で構成された山城で、縄張り図を見ると、国道17号から見て手前から『馬出し』『三郭』『二郭』『本郭』『ささ郭』の順に構成され、その左側に今は駐車場になっている『般若郭(居館址)』が点在しています。

 

~三郭・馬出し~

いわゆる”城の入り口”に当たる箇所です。図を見る限り『三日月堀』という文字通り三日月状に堀が設けられています。当然ながら敵から守るためのもので、追手門址があることから分かるように、攻めてきた敵を逆に追い詰める構造になっています。また、奇襲に備えるべく馬も常駐していたことも推測されています。

~二郭~

周囲を土塁で囲み、複数の建物や櫓、さらに喰い違いの南虎口と礎石門をもつ北虎口に挟まれた通路で構成されています。図から見る限りでは、そこに兵士たちの詰め所が点在した可能性があることが推測されています。

~ささ郭・本郭~

名胡桃城で一番奥にある郭で、それらも周りには土塁で囲むように設けられています。特に、ささ郭では石積みの土塁や石垣で構成され、さらに搦手門からめてもんの柱礎石が発見されていることから、城の裏口に当たることが分かります。つまり、そこで逃げようとする敵兵を捕らえるための場所として機能していたことが推測されます。一方、本郭は周囲に土塁があるだけでこれと言って述べるべき特徴はありませんが、石碑が設けられています。

~般若郭(居城址)~

右側の4つに並んだ郭とは別に設けられた大きめの郭です。

先程の4つの郭とは打って変わって周囲には柵塀が設けられ、二郭とほぼ同じように中央に設け、その両側には24棟の掘立柱建物址群が発見されています。これは先程紹介した二郭の建物址が8棟あったのに対しこちらの方が多いことから、般若郭の館跡が大規模なものであったことが推測されています。

 

4つの郭同士を土橋が架けられていますが、発掘調査にちょって見つかった柱穴ちゅうけつが見つかったことから分かるように、当時は敵から守るために木橋が架けられていた可能性が考えられています。また、ささ郭において腰石垣を伴う土塁が残っていることから分かるように、先端部には礎石による門跡が確認されています。つまり、その城の構造から敵を追い詰めるための城としては、なかなかのものであることが伺えます。

 

戦国時代における上州の変遷

戦国時代の年表
戦国時代における上州地方では、波乱万丈な攻防戦が繰り広げられていました。

日本において1467年の応仁の乱を皮切りに1615年の大坂冬の陣まで約150年も続いた戦国時代・・・。その最中、上州地方においても例外なく戦場となっていました。

永禄時代の上州では、越後の長尾景虎ながおかげとらこと上杉謙信うえすぎけんしんが三国峠を越え関東へ進攻。その時に上州地方は謙信によって支配されます。ところが、永禄9年には武田信玄たけだしんげんが大挙し箕輪城を攻略し上州西部を支配。さらに南東部から北条氏康ほうじょううじやすがじわしわ攻めてきます。

天正時代の1578年、謙信の死を機に北条氏が上州北部へ進攻。それに対し真田昌幸は武田信玄の命により上州へ進出すると同時に名胡桃城をはじめ明徳寺城、さらには沼田城までも進出したことで、真田氏北条氏の間で対峙します。

そんな最中、1589年には真田氏と北条氏の対立に対して豊臣秀吉は沼田領の3分の2を北条領、残りの3分の1は真田領として裁定します。ところが、ちょうど真田との境界線に位置する名胡桃城を手に入れられなかったことで不服な北条はある事件を起こしてしまうのです…。

北条はその裁定を破ったことに対し当然ながら秀吉は激おこぷんぷん丸のごとく大激怒。これによって秀吉は小田原城を攻め込み、北条は受け滅ぼされました。これがいわゆる”名胡桃城事件”で、この事件を機に全沼田領は真田氏が安堵し名胡桃城は廃城となり、わずか約10年で消滅となりました。

こうした短い歴史をもつ城には、身勝手な北条の支配下にあったとはいえ、秀吉の制裁によって守られた歴史を持ち、日本において戦の時代から断ち切った功績を残したと言っても過言ではないことでしょう・・・。

 

名胡桃城について詠んだ詩

馬場あき子氏が詠んだ名胡桃城の詩も展示されています。

 

『頼山陽』の『日本外史』織田氏・豊臣氏 巻十五に載った名胡桃城の資料

日本外史にも載っているように、約束を破った北条が名胡桃城を支配しようとした暴挙に対して秀吉が激怒したことが記録されています。その後、秀吉の小田原征伐によって北条の野望は打ち砕かれ、沼田の地に平和が訪れ名胡桃城は消滅することになります。このように短い生涯の城で壮絶な戦いがあったことが伺えます。

 

豊臣秀吉から真田安房主(昌幸)への沼田領裁定についての条目

これは真田氏が北条と対峙していたと時に秀吉から出したものと思われる条目も展示されています。結局、北条はこの条例を無視して沼田領を攻めたことで、秀吉は北条に鉄槌を下すことになったことでしょう・・・。

 

真田氏が身につけていた甲冑などの展示物

真田氏が身につけていたであろう甲冑や刀、そして6つの銭が並んだ形が特徴的な真田氏の家章である『六文銭』も展示されています。

 

名胡桃城の御城印

名胡桃城の御城印ももらいました。

 

名胡桃城の模型

これは地元の高校の生徒方が作った名胡桃城の模型も展示されていました。

 

馬出し

馬出しの構造
国道17号からすぐの入口に馬出しといわれる場所が点在します。

ここは城の出入り口の外側に堀や土塁で造った防御・攻撃施設です。これが発達し大型化すると『出丸』とも呼ばれます。

名胡桃城では三郭虎口の外側に径20mほどの円型の馬出堀の『三日月堀』(今は埋まっているため見えない)を深さ約12mの平底に掘り、その内側に半円形の小高台を残すことで馬出しとしています。馬出しと外郭の間は、馬出しの西側に橋受け溝を掘り外郭側に基壇を設け長さ約8mの木橋を架け渡すことで、直線的に進入できないようにしています。また、三郭と馬出しを繋いだ土橋の一部を掘割り、長さ約5mの橋に架替え、補強されたこともわかっています。さらに馬出しの西側から南側の縁辺には雛段のような段差が回っています。

 

三郭

三郭の構造
三郭の規模は約64×26mで、東西に長い郭です。

外郭との間の堀切は幅約12mならびに深さ5~7mあり、西側の堀底は般若郭との間の殿坂と合流し北へ伸びています。

二郭堀切の土橋外側で幅約3mならびに深さ約1.5m薬研型の三日月型の堀が検出されたことから、築城当初ここは三郭ではなく、馬出しがあったことが分かっています。その後、三日月堀を埋めて郭や堀切などを新設する大改造を行っているようですが、ここは大きな馬出しの郭であったことも考えられています。

三郭に設けられたL字溝

三日月堀址と掘立柱建物址の写真

郭の西側と南側には石列が残り、基底幅5~6mの土塁がありましたが、新たな馬出しと繋がる土橋は掘り切られており、再び後世に盛り土されています。追手としての虎口には門、郭内には時期の異なる3棟の掘立柱建物が各々建てられ、そのうち1棟と浅いL字溝を組み合わせた施設が、三日月堀を埋めた後に造られています。

 

二郭南虎口(にのくるわみなみこぐち)

虎口と喰い違い虎口の構造

虎口とは防御施設としての出入り口のことで、小口や戸口に虎の字をあてて勇猛さ危険さを意味しています。

この二郭南虎口は、二郭の中が直接見透かされないよう、郭内の建物敷地より一段高い位置に造られています。二郭堀切は幅11~13mならびに5.5~7mで、堀切法面の傾斜は三郭側が45度二郭側が55度と角度を変えて掘られています。また、二郭堀切は直接的に設計せず、堀幅半分ずつずらして掘られています。堀切・土塁・門により左右に曲がりながら進入する敵を、正面や横方向から攻撃できるこの防御構造を『喰い違い門虎口』といいます。虎口周辺の土塁基底部内側には、2~5段の川原石の乱石積みが残っています。二郭堀切の土橋は薬研型に掘り切られ、4本の脚柱による木橋を架けていました。土塁に挟まれた4本の掘立柱による門址は、北虎口の礎石門と同じ規模です。

 

二郭

二郭の構造
二郭は、三郭から更に奥にある約65×50mの台形で、西側の縁辺は広く崩落して波打った形になっています。

中央部に広がる建物敷地は、周囲より1mほど低く平坦に造成されていて、西~南~東側には段があり、幅6~7mの土塁基底部が残っています。

郭の北側と南側には、それぞれ特徴的な虎口が確認され、両脇に溝を持つ幅2.5mほどの通路が南北の門を直線で結んでいます。南虎口からの通路面は、スロープになっており、南北の虎口周辺の土塁基底部には石積みがあり、通路脇の溝の壁には部分的に石が並べられています。また、東側崖面の中間には腰郭が残っています。

二郭に設けられた掘立柱建物址群跡

この通路の西側からは、8棟の掘立柱建物址群が見つかっています。構造の図によると3・5・6号の堀立建造物の3棟が復元整備されています。また、建物と土塁の間には溝が廻り、排水設備が整っていたそうです。

 

二郭北虎口

二郭北虎口の構造

北側にも先程の南虎口と同様に、虎口が設けられています。

北虎口は、郭内の通路から続く4個の礎石による門址で、そのうち1つは石塔の石切が再利用されています。通路東側の溝には、門をくぐり暗渠排水として本郭堀切まで伸び、横溝から立ち上がる土塁の腰部には4~6段の自然石による乱石積みが見られます。

本郭堀切は幅14~16mならびに深さ7~9mあり、法面は二郭側より本郭側の方が20度ほど急傾斜で、土橋の左右で堀幅を変えて大きくクランク状に進入する構造になっています。また、門址の西側に続く土塁の下からは、幅約3mならびに深さ約1.5mの堀が確認され、空掘から土塁へ改築されていました。堀切造成の際に掘り残した橋の基壇上には、6本の柱穴が見つかり木橋が架かっていたことが分かっています。

 

本郭

本郭の構造
二郭から更に奥にある本郭名胡桃城の中心部です。

現在の本郭は、長さ約51mならびに幅約30mの洋梨型ですが、両側の崖面とも大きく崩落しコンクリートで補強されていることから、当時はもっと広かったことが推測されています。郭の縁辺には土塁の基底部分が残っていて、土塁が廻っていました。また、先程も述べたように名胡桃城には天守はなく、本郭内の虎口や建物の状況は不明です。

ちなみに、名胡桃城址は大正12年より地元の有志で結成された保存会によって保存管理が行われ、ここに『名胡桃城址之碑』の建立されています。その石碑には文豪の徳富蘇峰によって書かれ、文字の彫りも見事で、石材は富士山で採掘された安山岩が使われています。また、入口付近に建立された副碑は明治100年記念として昭和43年に建立されたものです。

 

ささ郭

ささ郭 構造
名胡桃城で一番奥にあるのが、ささ郭です。

ここは、城の主体となる本郭が外に対してむきだしにならないようにするために設けた郭で、唯一この城跡に残存する土塁を両側にもつ狭長な通路を有していました。ささ郭の先端部には袖郭と物見が続き、尾根づたいに下方に通じていました。

ささ郭は長さ約31mならびに幅約14mで、中央には約1m彫り込んだ幅約2~5mの通路があり、その両側を1mほど盛り上げた土塁を挟んでいました。また、通路の先端には礎石が4個設置され、搦手門がありました。土塁の内側には、自然石を3~4段乱雑に積んだ石積みが見られます。

本郭との間は、幅約12mならびに深さ約6mの堀切で区画され、幅1mほどの狭い土橋で連結されていましたが、現在では礎石門址・通路・石積み・土橋などは、保存のために埋め戻されていないようです。

ぐんまちゃん:ここが名胡桃城の一番奥だよ。この先には城の裏口があるんだけど、流石にこの先は行けない。でも、ここから見る景色は絶景だよ!

ビクティニ:うわあ、すごい眺めだ!眼下には田園地帯、向こうには山が見えるね

 

名胡桃城 周辺地図

名胡桃城の周辺には上毛高原駅と後閑駅、みなかみ町役場があります。

そして、名胡桃城の周りには見城山城や小川城、沼田城、明徳寺城、富士浅間砦、権現山城の城址がありました。

 

ささ郭から見る月夜野の田園地帯

ささ郭からは月夜野の田園地帯が見えます。ちょうど上越線の貨物列車が通過していきました。

 

般若郭

般若郭 構造

般若郭から見る二郭と三郭
最後に紹介するのが、4つの郭とは全く異なる場所に点在する般若郭はんにゃくるわです。

こちらは先程の4つ連なる郭から独立するように西側に位置しています。小さな台地を堀切で区画され、長さ約85mならびに幅約56mあり、名胡桃城の中では一番大きい郭です。今こそこの場所は駐車場になっていますが、かつては館跡として築城以前から存在していた可能性があります。郭の縁辺には、柵塀を建てた溝や柱列が廻っていたそうですが、南辺や東側の状況は不明です。また、中央部北西寄りには両脇に溝をもつ通路が、二郭の通路とほぼ同じ方向で敷設されています。この通路の両側からは、すべて24棟の掘立柱建物址群が整然と並んでいたことが確認されています。これらの建物群は3時期にわたり重複し、同時に6~7棟が建っていたことが考えられています。掘立柱建物址は9m以上の大型総柱の中心的建物から3mほどの小型建造物までの規模や形態は様々で、郭の北東端には櫓のような建物址も確認されています。

現在は駐車場の下に埋め戻されているため、建物の跡は確認できません。

ビクティニ:あそこがさっきぼくらが歩いてきた4つの郭だね。それにしても、たった10年しか存在しなかった城だったことを考えると、まさに幻の城って感じ・・・。

ぐんまちゃん:北条の野望によって支配されようとしていた城が豊臣秀吉の怒りによって守られた城だったかもしれない。でも、何しろ500年以上も大昔のこと、ましてや10年しか存在しなかった城だったから、当時の状況としては未だにナゾが多いんだ・・・。

 

以上、名胡桃城址について見学してきた内容でありました。

最後までご覧いただきありがとうございました。