みなさん、こんにちは。
今回は四国に上陸し、四国の名城こと“松山城“の見物と海の見える“下灘駅”へ訪問します。
まずは広島港から松山観光港へ高速船で移動します。
ビクティニ:今日は松山城を見て、『ある駅』へ訪問します!
ムーミン:広島から四国へ船で渡れるんだね
11時半に松山観光港に到着。
ここから松山城へ向かいます。
ビクティニ:とりあえず松山観光港に到着したけど、どうやって松山城へ行くか・・・
ムーミン:たしかどこかに直接松山城へ行くリムジンバス乗り場があったはずだけど・・・
とりあえず、フェリーターミナルの売店でお買い物をしてから目的地へ行きます。
今回は登録しておいた『みきゃんアプリ』で買い物をしました。
銀行口座またはクレジットカードを登録しそこからチャージすればチャージした分だけの残高で買い物ができ、しかもポイントも貯まるので、そのポイントも利用できます。
そして、決済した時のみきゃんの可愛らしい声とその兄弟のイラストが表示されます。
このイラストを見ると不思議に可愛らしく感じてしまいますw
観光港から松山城へのアクセスは、郊外電車と市内電車、または現地まで直接タクシーで行くことになります。
以前はここからリムジンバスも出ていたのですが、最近は人不足なのか廃止にされたようですorz 仕方がないのでとりあえずタクシーで直接現地へ行くことに・・・。ちなみに観光港から松山城ロープウェイ乗り場までは3,700円でありました・・・。
松山城へ行くのには、ここのロープウェイのりばにて、ロープウェイまたはリフトで登ることになります。
なぜならば、松山城は丘の上にあるからなのです。
ビクティニ:松山城へ行くのにはここからロープウェイかリフトで行くようだ
ムーミン:この上にお城があるのね・・・
リフトで松山城のふもとにある“長者ケ平”へ進みます。
ロープウェイは概ね10~15分ごとに運行ですが、リフトは随時運行されています。ロープウェイでの所要時間は3分なのに対しリフトは6分と若干かかりますが、大きな荷物を持たなければほぼ待ち時間なしで行けるので、こちらの方が便利です。ただし、雨天時には運休になる場合があるのでご注意を。
ビクティニ:リフトから街並みが見下ろせる。リフトから見る景色もこれまた楽しい
ムーミン:松山城ってこんなに高い場所にあるんだ
ロープウェイやリフトの終点である長者ヶ平から約10分ほど歩くと松山城へ到達できます。
ちなみに先程のロープウェイのりばからここまで徒歩で来れること自体可能ですが、今後のスケジュールから考えると、リフトとロープウェイで行くのが妥当でしょう。
ここは長者ヶ平という場所で、松山城は標高132メートルにあります。つまりここを更に登れば松山城にたどり着けるということです。
ビクティニ:ここから松山城まではもう少し進むようだ
みきゃん:松山城は『平山城』だから丘の上にあるんよ
ムーミン:けっこう登るんだね・・・
ゴンベ:お腹が空いたっぺ
ロープウェイのりばのすぐ近くにある食堂で昼食にしました。
昼食は四国名物“讃岐うどん”とじゃこ天をいただきました。
4人:おいしい!
長者ヶ平から登ると、目の前に巨大な松山城が姿を表します。
そして、城郭を囲むようにそびえ立つ石垣こそ松山城のチャームポイントの1つです。
中でも『登り石垣』こそ松山城最大の特徴ともいえる構造物であり、全国的な最大規模を誇っています。石材には主に『花崗岩』が使われており、隅部がほとんど算木積になっているのが特徴です。
本丸を囲む高石垣は、高さ10メートルを越え、美しい曲線を描く扇勾配と屈折を連続させることで防御性を高めることができた屏風折が特徴的です。一部、江戸時代に改修を受けている部分があるものの、北側を中心に加藤嘉明による築城時(1602年~)の典型的な石垣がよく残されています。それは、緩い勾配に上部のきつい反り、さらにその一部分には自然石を使用した打ち込みハギの乱積みが当時の築城技術が用いられています。また南側では嘉永年間(1848~1854年)の再建時に新たに積み直されたものが用いられ、切込みハギの布積みで隙間のない整った外観になっています。
松山城の本丸へ続く道には、いくつか門を構えています。
これは“戸無門”という門で、本丸の大手登城道に設けられた高麗門です。両脇にある石垣に『寄掛柱』をもたせているだけで、見ての通り形だけの門で、脇戸がありません。そのため、江戸時代から“戸無門”の名で呼ばれ、鏡柱に門を吊るすための金具である肘壺の痕跡もないことから、創建当初から扉が設置されていないものと思われます。
建築年代は不明ですが、寛永から正保年間(1624~1648年)の建立になるものと推定されています。
戸無門をくぐり左に曲がったすぐの場所にも門があります。
これは“筒井門”という、本丸大手における重要な門であり、城内で一番堅固な建造物です。
筒井門は先程の戸無門とは打って変わって脇戸付きの櫓門です。慶長年間(1596~1615年)の築城時に、正木城(伊予郡松前町)から移築されたとされる城内最古の建物だったといいます。
これは、正門である筒井門の奥の石垣の陰に隠された、埋門形式の櫓門であり、先程の戸無門を通過して筒井門に迫る寄手の側面を急襲するための策略として造られた“隠門”です。ここは大手で最も堅固な筒井門と隠門の防衛線に入ります。
欄間は戸無門同様の格子欄間で、2階は筒井門東続櫓と隠門続櫓都を結ぶ渡櫓となっているのが特徴的です。
これは慶長年間の築城時に建てられたものと考えられ、創建当時の技法がなお残されている貴重な造りで、先程の戸無門や筒井門と同様に重要文化財に指定されています。
そして写真の隠門続櫓は、隠門2階の渡櫓の東側に接続する平櫓で、長者ヶ平からの登城道を監視する目的で、揚木戸門前の本丸石垣の上に建っています。平面形は石垣に合わせて東側に突き出た変則的なものとなっており、西側は隠門渡櫓につながっています。これも隠門と同様に築城時の慶長年間に建てられたものと考えられています。
本丸大手の正門としての構えを持つ太鼓門。
これも脇戸付きの櫓門で、先程の隠門や筒井門とその続櫓による第一防衛線に続く第二防衛線としての役割をもっています。築城時に建てられたものと考えられ、明治になると石落としや窓のなどが改変されています。1940年代には戦災で消失したものの、昭和47(1972)年には門は欅、階上には栂で復元されました。また、門両側には戦時中の爪痕が残されています。なお、戦後には太鼓門南続櫓跡から朝6時、正午、夕方6時それぞれの時報に合わせて音楽を流すミュージックサイレンが置かれていたそうです。
松山城の天守までたどり着きました。
松江市の中心部にある勝山(標高132メートル)にそびえ立つ松山城は、賤ヶ岳の戦いで有名な七本槍の一人である加藤嘉明によって、標高132メートルの勝山にて慶長7(1602)年に城築されました。嘉明は足立重信を普請奉行として工事に着手し、魚行商人が砂を運び、さらには農民が手繰り渡しで瓦を運ぶなど、多くの人々が築城に従事したといいます。
松山城は“勝山城”またの名を“金亀城”という別称ももっています。松山城築城に際して、山麓の内堀の場所が深い淵になっていて、そこに『金色の亀』が棲んでいたという伝承から、別名“金亀城”とも呼ばれることがあります。門・櫓・塀など21棟の建造物を多数備え、狭間や石落とし、高石垣などを巧みに配し、攻守の機能に優れた連立式天守を構えた平山城といわれています。
そして、松山城は日本で12箇所しか残っていない“現存12天守”のうちの1つであり、江戸時代以前に建造させた天守を有する城郭の1つに選ばれています。平成18(2006)年に“日本百名城”、その翌年には道後温泉とともに“美しい日本の歴史的風土百選”に選定されています。
松山城に施された天守の紋章は、当時江戸幕府の将軍であった徳川家ゆかりの『丸に三つ葉葵(葵の御紋)』です。
このお城の築城主こそ、西国大名こと加藤嘉明ですが、広大な平山城の完成直前に会津藩へ転封となり、次に城主となった蒲生忠知が二之丸などを完成させたものの、跡継ぎがいなかったことから在藩7年で断絶しています。そして、寛永12(1635)年に松平定行が城主となり、それ以降、明治維新までの235年間に渡り松山は四国の親藩としての役目も担ってきたのです。さらに三重の連立式天守を築造したものの、天明4(1784)年の落雷で焼失しましたが、嘉永5(1852)年に再建されました。
これが今の松山城天守で、現存12天守において、唯一親藩(松平氏)が建築し、『丸に三つ葉葵』が付された城郭となっており、日本における最後の完全な城郭建築を保ち続けた天守は、黒船来航の前年に再建されたことになります。すなわち、明治維新前からあった天守自体がかなり貴重なものともいえるでしょう。
脇戸付きの高麗門で、本壇の入り口に当たります。主屋根の両妻がそれぞれ石垣に食い込むように托されている構造は、城内唯一で、扉上部の格子の隙間から外を見通せるように工夫がなされています。
脇戸付きの薬医門で、一ノ門より防御性能は劣るものの、格式の高い門です。そして、全国の城郭において、重要文化財に指定されている薬医門形式の門は全国的に少なく貴重なものです。
一ノ門と同様、高麗門で、扉上部に縦格子があります。
筋鉄門を抜けた先が本壇内です。
脇戸付きの櫓門で、門柱に鉄板が張ってあることから、その名前になっています。この櫓は天守や小天守の通路となっており、三ノ門を防衛する構造になっています。天明4(1784)年、雷火のために焼失してしまい、嘉永5(1852)年までに再建されたものと考えられます。昭和初期の放火によって一部消失したものの、昭和43(1968)年には元の姿に復元されています。この門は令和元(2019)年に有形文化財に指定されています。
天守のある本壇は複雑な造りになっています。
これは松山城の本壇配置図ですが、中央に天守広場があり、それを櫓で囲む回廊のような形状になっています。そして、本壇には本天守と小天守の2つの天守があり、そこに3つの門が立ちはだかるような構造にすることで、敵からの攻撃を守ることができたということが考えられます。
松山城の本壇は、言わずもがな天守を中心とする城郭建造物群が建つ中枢です。
本壇入り口から天守まで一ノ門、二ノ門、三ノ門、さらには筋鉄門が設けられ、その周りを塀や櫓が囲むように配置されています。さらに一ノ門から二ノ門までの石垣や櫓で囲まれた空間には30におよぶ狭間を備えることで、最終防御施設としての役割を果たしていたのです。
本壇内の西側では、天守、小天守、北隅櫓、南隅櫓が天守広場を取り囲み、それらは十間廊下などの渡櫓で連結されており、姫路城と同様、連立式の建築形式です。
本壇外周の石垣には、巧みに屈曲を繰り返し、出隅に櫓が配置され、東側と西側の石垣には、城壁中央を内側に折り曲げ防御性の高い『合横矢』と呼ばれる石組となっています。また、北側には打込ハギ、南側には切込ハギの石垣で施されています。
ここが天守・小天守ならびに各櫓への玄関になります。
本来、出入り口であった玄関を上がると、内門櫓を経て天守に通じる仕切門・内門・北隅櫓を防衛しています。ここも天明4年の雷火のために焼失し嘉永5年に再建されたもので、先程の筋鉄門と同様、令和に有形文化財に指定されたものの1つです。
広場を囲むように配置された建造物は、まさしく連立式城郭ならではの構造を活かした防衛能力を持っています。
とりわけ城郭の1つである“十間廊下”は北隅櫓と南隅櫓を結んでいます。その桁行が十間であることから、その名前が付きました。乾門正面を防衛するため、重要な役割があったと言います。こちらも雷火や放火によって焼失したものの、当時の姿に復元されています。また、こちらも令和に有形文化財に指定されています。
廃城にされてからも、人々や市からのご厚意はもちろん、久松定謨伯爵からも愛されていたようです。
この人物は、すでに廃城となった松山城を松山市に寄贈し、保存に貢献しました。
21世紀に入るまでの間、門や櫓の重要文化財に建造物の保存修理工事、さらには2000年代には天守をはじめ6棟の屋根葺き替え工事が行われました。
平成14(2002)年には築城400周年にちなんで、マスコットキャラクターこと『よしあきくん』も登場しました。これには、初代城主こと加藤嘉明の名前からとったものだそうです。
令和5年7月で久松定謨伯爵による松山城を松山市への寄贈から100周年を迎える嘉節とともに、久松家ゆかりの資料や収蔵品の展示が行われていました。
これは、戦闘時に用いられる『甲冑』で、敵からの攻撃を守るためのものです。その一方で、伝統的工芸が用いられていることから、美術品であるように見えます。
天保10年当時の松江城絵図です。見る限り版画を用いて作られたもののようです。
本壇諸櫓平絵図です。
天守や各櫓の設計図面です。図面を見る限りでは、小天守より櫓のほうが立派な造りになっているようにも見えます。
嘉永年間の天守再建時に鯱の形が決まらなかった時に、三都の焼物師に雛形を作ってもらったというもので、京都から取り寄せたこの雛形を原型として天守鯱瓦が制作されたそうです。
これは松山城が落雷で焼失する前の松平藩主時代に使われたものとされる長刀です。
松平家が書いたものとされる書物です。
松平家(久松)が使用していたものとされる茶器や薬罐(やかん)などにも葵の御紋が施されています。
天守最上階から松山市や瀬戸内海などの景色が眺められます。
松山城の天守は、慶長7(1602)年に加藤嘉明の築城とともに四半世紀の歳月をかけて完成したものです。
さらに寛永19(1642)年に松平定行が本壇を改築したものの、それから約140年の天明4年に落雷によって焼失したものの、その70年後の嘉永5(1852)年に再建されました。これが現存する天守で、三重三階地下一階の建造物です。このお城は昭和10(1935)年に国宝に指定されましたが、昭和25(1950)年には法の改正によって重要文化財に指定されています。
ビクティニ:おお!これが松山城からの眺望か!瀬戸内海に松山の港町・・・。松江城とはまた違った景色だ・・・
ムーミン:あそこに観覧車が見えるよ!
みきゃん:あの観覧車こそ松山のシンボルなんよ
ゴンベ:いい眺めだっぺ~
松山城の見学を終えたところで、例の“下灘駅”へ向かいます。
まずは、市電でJR松山駅へ行き、そこからJR予讃線で下灘駅へ行きます。
下灘駅へは、ここから八幡浜・宇和島方面への列車で行くのですが、基本的には普通列車で向かいます。しかも、列車本数が少ない上に、行き先や経由先を間違えて乗車してしまうと下灘駅に到達できません。
ビクティニ:さあ、いよいよ『あの駅』こと下灘駅へ訪問しよう。地図を見る限りだと・・・伊予市の海沿いにあるようだ。しかも本数は少ないが、松山市からはそんなに遠くもないようだ。では出発!
みきゃん:待って!下灘駅に行くには、経由先をよく確認しないと到達できないんよ
ビクティニ:え?・・・待ってもう一度路線図を確認してみよう・・・・あ!よく見ると向井原駅で分かれている!しかも目標の下灘駅はその分岐点の先の海岸線にある
みきゃん:そう、途中で2つの路線に分かれているから経由先を間違えてしまうと下灘駅にいけないけん
ムーミン:意外と到達が難しいんだね・・・。でも、海沿いにあるぐらいだから、景色もいいはずだよ
ゴンベ:おやつももっていくっぺ~。景色を見ながら食べるおやつも美味しいっぺ
下灘駅へ行くには、伊予市駅より遠い、伊予大洲または八幡浜行きなどの普通列車で向かいます。
しかし、経由先をよく確認しないと下灘駅に到達できないのです。なぜならば、同じ予讃線でも経由先によっては『全く違う路線』となってしまいます。とりわけ伊予市駅~伊予大洲駅間では2つの路線に分かれてしまいます。つまり、“内子線”と“愛ある伊予灘線”という2つの路線に分かれているのです。これから向かう下灘駅は“愛ある伊予灘線”にあります。
“内子線”は今の予讃線でいう『新線(こちらの方が本線)』で、もう1つの“愛ある伊予灘線”はいわゆる予讃線の『旧線(かつての本線)』なのです。
ビクティニ:下灘駅は“愛ある伊予灘線”の中にあるから・・・時刻表によると次の15:46発の普通列車で伊予市まで進んで、そこで“愛ある伊予灘線”経由の列車に乗り換えれば到達できるようだ。
みきゃん:いま案内に出ている普通列車は内子線経由だから、途中の伊予市駅で乗り換えるけん。行き先は同じでも経由先が違うと下灘駅へ行けないから気をつけるけえ。
伊予市駅で“愛ある伊予灘線”経由の列車に乗り換えです。
伊予市駅を境に伊予大洲駅まで“内子線”と“愛ある伊予灘線”で2つの路線に分かれます。
“内子線”は山間部を通る路線なのに対し、“愛ある伊予灘線”は文字通り海沿いを通ります。
余談ですが、今乗っている“愛ある伊予灘線”こそがかつての予讃本線としての役割をもっていました。むろん、当時の特急や急行などの優等列車も下灘駅のある“愛ある伊予灘線”を通るルートでした。しかし、昭和61(1986)年になると、これまで支線だった“内子線”が全通すると、その路線が『本線』となり、もう1つの伊予灘線は『旧線』すなわちローカル線へ降格されます。そのため、優等列車はすべて内子線経由となり、“愛ある伊予灘線”を通る列車はほとんど普通列車のみとなっていますが、伊予灘線には“伊予灘ものがたり”という観光列車も通っています。
ビクティニ:この駅で“愛ある伊予灘線”を通る列車に乗り換えだ。
ムーミン:同じ行き先でも経由先が違うと、山あいの方へ行っちゃうのか。下灘駅は海沿いにあるもんね
“愛ある伊予灘線”の列車は、伊予灘の海岸線に沿って走ります。
進行方向右側には伊予灘の景色が車窓に映ります。
この路線は、予讃本線として昭和10(1935)年6月に下灘駅まで開通し、同年9月に下灘駅~伊予長浜駅が開通しました。さらに昭和20(1945)年には宇和島駅まで開通し、予讃本線が全通します。昭和61年までこの路線が実質上『本線』という役割を担っていましたが、内子線が全通したことで、優等列車は内子線経由へ移行し、伊予灘線はローカル線と化したのです。
ムーミン:海の車窓が風光明媚だ・・・
ビクティニ:“伊予灘”という瀬戸内海の一部なんだ。このあたりは夕日の名所としても有名だよ
下灘駅に到着です。
1両のディーゼルカーに小さな屋根のホームと2つのそっけないベンチ、いかにも海のローカル駅です。
この駅を目当てに自分たち以外にも、多くの観光客が列車から降りていきます。言わずもがな、この駅を訪れる観光客たちのようです。
我々観光客を降ろした後、1両の列車は海岸線の彼方へ走り去っていきました・・・。そして、列車が去ると不思議な静寂が包み込みます。
ビクティニ:ここが下灘駅だ。初めて来たけど、不思議と心が和らぐ・・・
ムーミン:見てよ!目の前が海だよ。なんて綺麗なんだ・・・
下灘駅は、伊予灘を眺める風光明媚な駅です。
空の夕焼けと雄大な海の風景が美しいです。
あまりの風光明媚になんとも言えぬ絶景です・・・(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)
この駅は『男はつらいよ』や『よさこい旅行』、『リバース』などの映画・ドラマロケ地の舞台にもなり、さらには3度も青春18きっぷのポスター写真に採用されたことがあったといいます。
見ての通りホームからすぐ目の前には雄大な海が広がっています。
ホームの真下には国道378号線が通っているものの、海の潮騒のみ聴こえる静けさに『海の見える秘境駅』すら思わせてしまいます。
鉄道ファンはもちろん、観光客にも人気で、特に夕方には多くの観光客で賑わいます。訪れた時は、多くの観光客でほぼごった返しており、中には外国人も何人か見受けられました。
ビクティニ:ああ・・・。夕焼けの海を見ると目から涙が・・・(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`) 昔の思い出が走馬灯のように蘇る・・・
ムーミン:能登の人たちは無事でいてほしいね・・・。
ゴンベ:ミュウちゃん・・・ビクティニと仲直りできるっぺか・・・
みきゃん:みんな、愛媛に来てくれて嬉しいけん・・・
下灘駅の駅舎も海の駅ならではの雰囲気を醸し出しています。
駅舎の前にたつ丸ポストもいい感じです。
下灘駅は、愛媛県伊予市双海町大久保にある“愛ある伊予灘線”の駅で、予讃本線だった当時の昭和10(1935)年6月9日に開業しました。当初は伊予上灘駅から1駅分延伸しただけの終着駅だったものの、その4ヶ月後の10月6日には伊予長浜駅まで開通したことから、予讃本線の途中駅となりました。
先述の通り、かつてこの路線は予讃線の幹線で、下灘駅には多くの優等列車が行き交っていましたが、昭和61(1986)年の内子線全線開通から、向井原駅~伊予大洲駅間における幹線としての役割を失い、優等列車のないローカル線へ降格したのです。そのため、この路線は『旧線』となり、この駅に来るのは普通列車だけです。なお、平成26(2014)年には“愛ある伊予灘線”という路線名で付けられています。
この駅には普通列車のほかに観光列車“伊予灘ものがたり”も運転停車します。
ムーミン:海の景色に木造の駅舎・・・不思議に寂しさを感じる・・・
ビクティニ:まるで田舎に帰ってきたような不思議な気分・・・。昔、仙石線に乗って松島へ行ったときもこんな感じだったのを思い出した・・・
みきゃん:下灘駅はええのう。癒やされるけえ・・・
ゴンベ:この駅で食べるおやつは格別だっぺ・・・
夕闇に包まれる下灘駅も、これまた美しい雰囲気を醸し出しています。
屋根の照明がホームを照らし、夕焼けに包まれた伊予灘の風景が芸術的です。
これこそ、鉄道スポットと自然が奏でる愛媛の風景です。
下灘駅に来る列車本数は1日上下9本のみとかなり少ないです。
日中では3時間も列車が来ない時間帯があります。また、車での訪問も、周囲の駐車場も殆どないため、列車での訪問が望ましいかと思われます。ただ、先程も話したように、途中で路線が分かれる“愛ある伊予灘線”の中にあるということに加え、列車本数が少ないのですが、時刻表でよく確認さえすれば到達できるでしょう。
駅舎内には下灘駅と“愛ある伊予灘線”の鉄道写真が飾られています。
これだけ多くの写真が飾られているのは、下灘駅がそれだけ愛されているということが伺えます。関東・信越にも根府川駅や青海川駅といった海の見える駅がありますが、それらとはまた違った寂しい風景には癒やされます・・・。
17:49 普通列車 松山行き入線。
帰りの列車がやってきたところで、下灘駅を後にしました。
夕焼けの空と海に映る列車の風景が絵になります。
行きはいずれもキハ32でしたが、帰りはキハ54です。
キハ54は、以前に北海道の釧網本線に乗ったものがそうですが、北海道のキハ54は500番台で、こちら四国のキハ54は0番台です。
この後、松山駅へ戻り道後温泉の旅館に宿泊します。
さて、松山駅に戻ってきたところで、夕食にしました。
JR松山駅周辺で探したところ、『Jふらんく』というステーキとエビフライが食べられるお店を見つけました。JR松山駅に隣接している上に、空いていたので落ち着いて食事ができました。初めて下灘駅へ訪問したご褒美ですね。
和食と洋食のコラボレーションが美味しかったです。
4人:美味しい!
ビクティニ:下灘駅へアクセスは難しかったけど、夕日に感動したよ
ムーミン:夕日の海がとても綺麗だったね
ゴンベ:ご褒美のステーキもおいしい!
みきゃん:みんな下灘駅を楽しんでくれてだんだん
★下灘駅へ訪問時の様子★
日本有数の有名温泉地である道後温泉にやってきました。
道後温泉は、日本最古と言われる温泉です。
宝永7(1710)年に完成した郷土地誌『予陽郡郷俚諺集』には、脛(スネ)に傷して苦しんでいた一羽の白鷺が岩間から噴出する温泉を見つけたのが始まりだと言われています。毎日飛んできてその温泉に脛を浸していたところ、傷は完全に癒えてしまい、白鷺は元気に勇ましく飛び去ったと書かれています。そして、これを見た人たちは大変不思議に思い、入浴してみると爽快で疲労を回復することもできたと言います。また、病人も入浴しているといつの間にか全快したことから、盛んに利用されるようになりました。
したがって、白鷺によって温泉を発見し、後に人々がその霊験を知り入浴するようになったのが、その『道後温泉』で、いわば『古代・白鷺の伝説』というお話なのです。
平安時代には、雑芸催馬楽(平安時代の民謡)に道後温泉周辺で謡われていた民謡に“伊予の湯桁”が登場。また『源氏物語』にも出てきており、伊予の湯桁とは、都では数の多いことのたとえとして用いられていたそうです。
鎌倉時代には、道後の宝厳寺に生まれた時宗の開祖である一遍上人は、正応元(1288)年、河野通有の依頼で、湯釜の宝珠に「南無阿弥陀仏」の六字の名号を書いたと伝えられています。
江戸時代には、寛永12(1635)年に松山藩主に封ぜられた松平定行による温泉経営で温泉施設の充実化に着手しました。
明治時代には、初代道後湯之町町長に就任した伊佐庭如矢は、当時老朽化していた道後温泉本館の改築に取り組みます。しかしながら、多くの反対の声があがったものの、「100年の後までも、他所が真似できないようなものを作ってこそ、はじめてそれが物を言うことになる」という道後の繁栄を願う伊佐庭如矢の強い気持ちから、明治27年(1894)、ようやく道後温泉本館改築という偉業を成し遂げられました。
現在では、国内外から多くの観光客で賑わう、日本を代表する観光地の1つとなっています。
ちなみに毎時0分になると、からくりの時計台が動き出します。
ムーミン:8時だ・・・。あ、なんか時計台がからくり人形のように動き出した
みきゃん:毎時0分になると、あの時計台は動き出すんよ
これこそ、道後温泉のシンボルである『道後温泉本館』です。
この本館こそが元祖の道後温泉で、日帰り温泉施設として入浴できます。ただ、当時のままということもあり、内部は銭湯といった雰囲気で、タオルやバスタオルは持ち込むかレンタルするようです。
“坊ちゃん列車”も、松山を代表する乗り物の1つです。
坊ちゃん列車は、伊予鉄市電を走る観光列車で、松山市街をはじめ松山城周辺や道後温泉を走行します。
明治時代のこと、伊予鉄道が開業した明治21(1888)年から67年間にわたり活躍してきた蒸気機関車こそ“坊ちゃん列車”のモデルとなり、松山の市街地の中で煙を吐く蒸気機関車の姿に注目を集め、まさしく市民にとっては親しみの存在だったと言います。
そして、現在の“坊ちゃん列車”は、家の有名な夏目漱石の小説『坊っちゃん』にて登場人物がその汽車を利用したことから、そのタイトル名にあやかって、地元の人々や観光客に親しまれています。
ちなみに、翌日に坊ちゃん列車に乗ろうと思ったのですが、あいにくながら運休中のようで残念orz
ということで、道後温泉の旅館にチェックイン。
ちょうどチェックイン後に『松山水軍太鼓のショー』が開催されるそうなので、すぐに鑑賞し、そのあと道後温泉を満喫しました。
ビクティニ:和太鼓かっこいい!そしてまさに千と千尋の雰囲気で癒やされる・・・
ムーミン:大浴場の温泉は最高!下灘駅に行ってきた後の温泉もまた・・・
ゴンベ:あとで松山名物の『タルト』も食べるっぺ
みきゃん:道後の湯は何にでも効くけん
道後温泉は宿泊以外に日帰りとしても楽しめます。
道後温泉本館をはじめ、『椿の湯』といった日帰り温泉施設では、朝昼晩を通して温泉を楽しむことができます。ただ、本館や椿の湯にはシャンプーや石鹸は置いていないので、受付で石鹸を購入するか各自持ち込む必要があります。
ちなみに今回は、朝風呂に『椿の湯』に入浴しましたが、お風呂の温度は42℃弱となかなか熱めのお湯で5分で上がりました。
ビクティニ:銭湯ぽくって、なかなか熱めのお湯だったよ
ゴンベ:でも、お風呂の後の牛乳はおいしいっぺ!
ムーミン:本館の方も入りたいけど混んでいるからやめた
みきゃん:うちの道後温泉は人気じゃけんよ
朝風呂のあと、旅館に戻って朝食をいただきます。
メニューには鯛茶漬けやら、じゃこ天やら、松山名物が出てきて美味しかったです。
4人:おいしい!
道後温泉に宿泊後は、『坊ちゃん列車』に乗る予定だったのですが、先程も話したように動いていないようなので、諦めて適当に道後温泉周辺を散策することに。
散策していると、由緒有りげの神社を見つけたので、そこでも初詣をしてきました。
『伊佐爾波神社』は道後温泉の近くにある神社で、松山を代表する神社です。
伊佐爾波神社は、清和天皇の御代に奈良大安寺の僧 行教は伊予の国司に請い、道後に八社八幡宮を建立した中の一社であり、神功皇后・仲哀天皇御来湯の際の行宮跡に建てられたと言われています。 延喜年間につくられた延喜式にも記載されている古社で、一時期は湯月八幡宮とも、さらには道後八幡とも呼ばれたといいます。
江戸時代、加藤嘉明が松山城の固めとして八社八幡を定めた際、一番社として“武運長久の祈願所”と定め久米郡井合の土地百石を神社の社領として寄進されました。
現在の御社殿は江戸城で弓の競射を命じられた松山藩主松平定長が八幡様に必中を祈願、それが成就したお礼に建て替えられたもので、寛文4(1664)年6月に着手、大工697人、延べ人数6万9千人におよび寛文7(1667)年5月15日に竣工。華やかに遷宮式が挙行されたそうです。
京都の石清水八幡宮を模したとされ、大分の宇佐神宮と並んで整った八幡造りの社殿は全国に三例しかないほど貴重な造りから国の重要文化財に指定されています。
ビクティニ:能登地震の復興ならびに大井川鐵道の復旧が進みますように・・・
ムーミン:ウクライナやガザでの戦争が終わり、世界が平和になりますように・・・
参拝も終わり、道後温泉の足湯につかりながらお団子をいただきます。
『どうごゆけむりかふぇ』のお団子には普通のみたらし団子の他に団子にホイップクリームがのったお団子もあり、種類豊富で楽しいですが、あえてシンプルにお団子おいただき、道後温泉の雰囲気を楽しみます。
ビクティニ:3度目の道後温泉だ~
ゴンベ:お団子を食べながらの温泉は格別だっぺ~
ムーミン:みかんジュースに温泉は最高!
みきゃん:みんな道後温泉を楽しんでもらえてうれしいけん
昼食に松山名物の鯛めしもいただきました。
愛媛を代表するグルメで、クセがなく鯛の香りが食欲をそそります。
4人:いただきます!おいしい!!
さて、愛媛を十分に満喫した所で、フェリーで広島へ戻り、そこから夜行バスで関東へ帰ります。
途中で見かけた路面電車の『みきゃん電車』も可愛らしかったです。
これを見るとますますみきゃんが好きになりそうです。
帰りの電車の車窓から見る伊予灘にもお別れを告げて広島へ戻ります。
ビクティニ:ここまで来たら、愛媛とはお別れだね・・・。
ムーミン:みきゃんちゃんともお別れだね・・・。寂しい(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)
ということで、松山観光港に戻ってきました。
次の14時15分発の広島行きのフェリーまで時間があるため、しばらく海を眺めながら出発を待ちます・・・。
ビクティニ:みきゃんちゃん、きみと旅したことは忘れない・・・
ムーミン:いろいろ案内してくれてありがとう
ゴンベ:美味しいものが食べられて感激だったペ
みきゃん:みんな、愛媛を楽しんでくれてありがとう。関東へ帰っても元気でな・・・。さようなら!気をつけて帰りんさい
フェリーは松山観光港を出航し、広島へ向けてゆっくり進んでいきます。
広島までのんびりフェリーで瀬戸内海を渡る3時間の船旅です。
ちなみに、今乗っている船は『シーパセオ2』という瀬戸内海汽船が運航する多目的カーフェリーです。
ビクティニ:さようならみきゃんちゃん・・・。達者でな・・・
ムーミン:元気でね~!
松山観光港を出て30分・・・フェリーから見る景色はやがて瀬戸内海の真上の風景に変わります。水平線から陸のシルエットが薄れて行くほど遠くまで進んでいます。周囲の島々は次第に見えなくなり、やがて県境を越えて広島県へ入っていきます。
ビクティニ:水平線から陸が見えなくなった・・・
ムーミン:このあたりが瀬戸内海の一番深いところなんだろうね・・・
進行方向左側に倉橋島という大きな島が見えてくると、広島県に入ります。
広島県に入った頃合いには、だいぶ日が傾いてきました。
ビクティニ:倉橋島が見えてきた。ということはもう広島県だね。
ムーミン:日があんなに傾いている・・・。もう夕方かも・・・
16時10分 呉港に入港
フェリーは呉市と倉橋島を結ぶ『音戸大橋』をくぐり、呉港に到着しました。呉港には海上自衛隊の基地があることもあり、イージス艦が停泊しているのが見えます。
そして広島港に近づく頃、日は水平線の彼方へ傾いてきました。
瀬戸内海とここに浮かぶ島々を照らす夕日が美しいです。
ビクティニ:広島に戻ってきた
ムーミン:瀬戸内海の夕日が綺麗だ
16時50分 広島港に到着
広島港の夕日が美しいものです。
瀬戸内海に浮かぶ島々のシルエットが風光明媚です。桟橋に停泊している銀河クルーズもいい感じです。
その後、広島駅にて名物のあなごめしをいただき、かえりは高速バスで関東へ帰りました。
3人:おいしい!
20時15発 広島発 東京行きの夜行バスに乗車
広島を後にし、一行は関東へ帰るのでありました・・・
そして、夜行バス最後の休憩場所 足柄SAまで来た頃には、「関東に帰ってきた」という感覚になります。
ビクティニ:あけましておめでとう関東
ムーミン:下灘駅や松山城、原爆ドーム、宮島・・・いい思い出になった
そのあと、新宿駅に到着し、電車で直帰しました。
ビクティニ:おつかれした!今回の旅はこれにて終了!
ムーミン:最後まで見てくれてありがとうございました
2人:ごきげんよう!
『四国の名城“松山城”&海の秘境駅“下灘駅”を訪問 道後温泉ほか』をお伝えしました。
2024年正月旅 完