ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

秋の会津&佐渡紀行2021 紅葉の鶴ヶ城と御薬園

皆さんこんにちは。

世間では次第に感染が収まりつつあり、観光地に活気が戻りつつあります。

ということで今回は、11月頃に秋の会津と佐渡へ旅行に行ってきました。

 

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磐越道で会津へ

朝5時半過ぎに家を出て川越駅からJR、大宮駅から東北新幹線やまびこ123号で郡山駅まで進みます。さらに郡山駅から会津若松まではJR磐越西線に乗り換えになるはずですが、郡山駅に到着したのが8:30で、会津若松行きの磐越西線は8:29発と全然乗り換えダイヤが相変わらず噛み合いません・・・。しかもその次が9:38発なので1時間以上も待ちぼうけを喰らいます。そこで仕方なく高速バスで会津若松へ向かいます。本来は『週末パス』を活用していくつもりだったのが、時間の都合上高速バスで移動せざるを得ない感じに・・・。ちなみに郡山駅から会津若松までの高速バスの運賃は1,200円で、自由席なので事前に予約する必要はありません。もう少し磐越西線のダイヤを改善していれば、そのまま磐越西線で会津若松まで行くことができたかもしれません。

しかし、これまで何度も磐越西線で会津へ行ってきた身としては高速バスを使うのが初めてで、磐越道で目的地へ向かうのもまた斬新で楽しいものです。

ビクティニ:今まで会津若松へ行くときはいつも磐越西線だったのに、高速バスなんて初めて!でも高速道路の旅も楽しいかもね!

ミュウ:今日は天気がいいし、まさにお出かけ日和だね!

 

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磐越道から観る磐梯山

磐越道からも磐梯山も見れます。磐越西線の車窓から磐梯山を眺めるのもいいですが、一番前の席に着いていると磐梯山が正面から見れるのも高速バス旅ならではの楽しみです。

 

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会津若松に到着

高速バスで行くと10時前に会津若松ICを通過し、磐越道から降ります。

そして10:15頃、鶴ヶ城に到着です。

 

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鶴ヶ城入り口

10:20 鶴ヶ城の北出丸に到着。

郡山駅から出る9:38発の磐越西線の列車より1時間早く到着できました。

ビクティニ:実は去年にも会津に行ったんだけど、なんか途中で列車が停まった時は正直トラウマになったことがあったんだよなあ・・・。

ミュウ:鶴ヶ城も久しぶりだね!

 

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鶴ヶ城のお堀

鶴ヶ城のお堀も秋色に染まり、紅葉に染まった葉っぱとお堀の石垣とはいい絵になります。

 

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お堀で泳ぐカルガモ

お堀で泳ぐカルガモも穏やかに泳いでいます。秋ならではの風物詩ですね。

 

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赤べこ(黒べこ)の絵付け体験

鶴ヶ城会館では、お土産屋やレストランがある他に様々な伝統工芸の体験ができます。

今回は『赤べこ』(黒べこ)の絵付け体験をしてきました。

『赤べこ』は、いわゆる会津地方における郷土玩具で、文字通り牛の型に赤の下塗りに、黒の斑点と白の縁取りで絵付けされた張り子人形です。これは古くから魔除けのお守り、あるいは縁起物として親しまれてきたものとされ、今では会津地方の土産物でよく親しまれています。そのため、赤べこの『べこ』は東北弁で『牛』と呼ばれ、『厄除け牛』またの名を『幸運の牛』と呼ばれています。また、赤べこは首の部分が動くようになっているので、ちょっと触れば首がゆらゆら動きます。その愛嬌から、海外でも人気があります。

では、なぜ『赤べこ』といわれているのかというと、赤べこ伝説の赤い牛にあやかって赤く塗られたという説もあるようですが、これには古くからの民間信仰が関係しているものとされ、赤色は「呪術的な意味で病気を退散させる」と考えられてきたためといわれています。なお、もともとこの考えは会津特有のものではなく、全国の郷土玩具に見られるもののようです。

また、かつて会津では疱瘡(ほうそう)が流行したことがあったようですが、赤べこ伝説の牛が身代わりになり、病気から守ってくれるという言い伝えがあります。願いを込めて病が治った時の模様を黒と白で描き、家に飾ったというしきたりもあるのだとか。

こうした言い伝えから赤べこは会津の人々から厄除けのお守りとして、あるいは子どもの誕生祝いや見舞いの品として送られることも多いほど人気があるのです。

今回絵付けするものは、本来なら赤べこ絵付け体験ですが、メニューの中には『白べこ』や『黒べこ』もあり、珍しいので『黒べこ』の絵付け体験をしました。基本的には赤べこと同じように漆で色を付けて模様を付けるだけで、付け方としては自由です。ちなみに私は、縁起の良い四字熟語を入れて絵付けしました。

 

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味噌団子

鶴ヶ城の北出丸入り口には、味噌団子も売られています。米粉で固め、会津味噌を塗ってじっくり焼いた団子は濃厚で美味しいです。

 

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桝形(追手門)
北出丸側の入り口にある石垣と紅葉とのコントラストは絵になりますね。

この石垣に階段も設けられていますが、これは『桝形(ますがた)』または『追手門』といい、敵が侵入してきても石垣の上から狙撃できるように工夫されています。北出丸は、会津藩が加藤傘下時代に本丸を補強するために造られたものとされ、東側と西側の両隅に城門と隅櫓(現存なし)が配置された構造で東西ほぼ対称になっているのが特徴です。正面から攻めてきた敵を両側でひっそり待つ構え方が会津藩のやりかたであり、鶴ヶ城独特のいかにも会津らしい実直さを物語っています。このように北出丸から侵入してきた敵は、後方を振り返れば伏兵郭と二の丸が、左手には本丸と帯郭が、前方には西出丸があり、さらに三方向から狙い撃たれることになるのです。そのことから『みなごろし丸』という別名が付けられていたようです。

 

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桝形と遠藤敬止の碑

遠藤敬止(1849~1904年)は旧会津藩士で、戊辰戦争では各地に転戦の後、鶴ヶ城に籠城していました。明治6(1873)年には大蔵省銀行事務講習所の講師となり、『銀行実験論』を出版しました。明治11(1878)年には仙台に第七十七国立銀行が設立されるにあたり教授役になり、明治14(1881)年二代目頭取に就任し、逝去まで通算約23年間頭取をつとめ、東北地方の経済界に大きく貢献しました。明治23(1890)年に旧会津藩主松平家が政府より鶴ヶ城跡地を約86,800坪の払い下げを受けた時に「この城跡は戊辰の逆境に幾千の魂を留めた古戦場なので千古の記念にしなければならない」と遠藤敬止は私財を松平家に献納しました。そのため、ここ桝形は会津の戊辰戦争において一番の激戦地であり、新政府軍でさえも歯止めがかからなかったことから、この場所に遠藤敬止の碑が建てられたと思われます。

 

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鶴ヶ城 大手門(太鼓門)
北出丸からは、本丸へ続く入り口には大手門がありました。

ここには多聞櫓と呼ばれた櫓も建てられ、藩主の登城や非常事態、その他の合図などに使用する直径1.8メートルの大太鼓が備わっていたことから、別名『太鼓門』と呼ばれていたようです。

 

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武者走り

『武者走り』は大手門である太鼓門の渡り櫓などへ簡単に昇降出来るようにするために設けられていました。V字型をした武者走りは鶴ヶ城の特徴でもあり、全国的に見ても珍しいものです。

 

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本丸埋門跡
天守閣の北東に位置し、本丸奥御殿の北側より本丸帯郭に通じる桝形の城門が『本丸埋門跡』がありました。

築城していた蒲生時代は表門で、城内にある他の門や建築物と比べると低い門構えで埋門の形体をとっていました。大手口が東側にあった当時は表門だったのが、のちに加藤時代の改築後により裏門になっています。ここが本丸奥御殿の入り口として重要な門だったとされています。

 

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鶴ヶ城 天守閣

紅葉と鶴ヶ城とのコントラストがまた秋の会津らしさを物語っています。

会津若松のシンボル的存在である『鶴ヶ城』は、今から約630年前に建てられ、正式名称としては『若松城』といわれています。

会津藩は、葦名氏をはじめ、伊達氏蒲生氏上杉氏保科氏松平氏と多くの大名が治めてきたのです。葦名時代の葦名直盛が創営してから六百年の歴史があり、室町時代に葦名氏が1384年に『東黒川館』として造営したのがはじまりとされ、のちに『黒川城』の城下が成立しています。。天正17(1589)年、伊達政宗をはさんで蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津の地を治め、当初『黒川』という城下町の名前を『若松』に改名し、城の名前も『鶴ヶ城』または『若松城』と呼ばれるようになりました。七層の天守閣を築き、黒川城を中心とする城下の成立ならびに会津藩の藩政は次第に確立していったのです。しかし、江戸時代の地震で被害を受けたことから、再建した現在の鶴ヶ城は五層になっています。

会津藩の歴史の中でも、松平氏が統治していた時代が会津藩の最盛期だったといわれています。それは、葦名直盛や蒲生氏郷がそれなりの栄えを見せていた後の城主は上杉景勝や蒲生秀行、加藤嘉明など短い期間で交代していったのです。そして寛永20(1643)年に保科正之が入封したことで、会津松平家による歴史が幕末まで続きました。これは松平家が率いる会津藩の反省が200年以上も続き、藩校日進館や白虎隊などにつながる文武一体の士風を育て、幕末に会津藩が雄藩として確立していったのです。すなわち、会津藩をここまで発展したのは松平家のおかげといっても過言ではないということでしょう・・・。

幕末の慶応4(1868)年、薩摩藩をはじめとする五藩が新政府の樹立の宣言とともに江戸幕府(徳川幕府)に対し戊辰戦争を仕掛けます。徳川一門の傘下にあった会津藩も対立の対象となり、藩主の松平容保も幕府から京都守護職を命じられたこともあり、不穏な京都の治安を任されたこともあったのです。そして、幕府が敗走しつつあった慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いをきっかけに、江戸の無血開城と後に西軍である薩摩藩は会津に矛先を向け、ついに『会津戊辰戦争』が勃発します。会津各地はおろか鶴ヶ城でも約1ヶ月に及ぶ籠城戦が繰り広げられましたが、鶴ヶ城は新政府軍の激しい攻撃にも耐えたタフな名城でもあったのです。白虎隊も新選組とともに会津藩(旧政府軍)として会津の地を守り、最後まで抵抗しましたが、同年9月22日には会津軍が降伏することとなります。さらに飯盛山で多くの白虎隊が次々に自決していったという悲しいエピソードもあったのです。そして、明治7(1874)年には取り壊されましたが、天守閣は昭和40(1965)年に再建されています。現在では『鶴ヶ城』またの名を『若松城』と呼ばれています。

なお、このお城は2013年の大河ドラマ『八重の桜』にも登場しています。

ビクティニ:晴れ渡った秋空に美しい天守閣が、まさに会津の風景だね。

ミュウ:秋晴れの鶴ヶ城は白くてきれい!

にょろもう:さわやかな天気に白いお城が美しい!

ゴンベ:食欲の秋だっぺ~。

 

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鶴ヶ城 塩蔵
鶴ヶ城の石垣は、天守閣の土台になっていることから、『天守台』といわれています。

この天守台も約400年前の蒲生氏郷が天守閣を立てた際、築かれたものですが、内側の石積みは慶長16(1611)年の大地震の被害から、加藤時代の改修の際に積み直されたものが使われています。天守台内部は冷涼な環境であり、石垣の壁の通気性が優れていることから、籠城時の蓄えのために塩を保管していました。そのため、ここは塩を貯蔵する『塩蔵』として使われていたのです。もっとも海のない会津若松にとって塩は非常に貴重なものだったようです。

 

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天守閣からの眺め
天守閣から観る秋晴れの空本丸の紅葉がいい眺めです。

天守閣の屋根に使われている瓦は『赤瓦』が使われています。これは、幕末の戊辰戦争当時の天守閣を再現したものとされ、なんでも国内にある天守閣の中でも、赤い瓦が使われいるのは非常に珍しいのだとか。なぜ赤い瓦が使われているのかというと、普通のお城の屋根なら大抵は黒い瓦を使用するのが一般的ですが、会津地方のように豪雪地帯に位置する環境では、寒さや凍結で亀裂が入ってしまう恐れがあることから、瓦に水分が浸透しないよう鉄分入りの釉薬が使われているのです。なので鶴ヶ城の瓦が赤いのはこのためと考えられます。なお、赤瓦は江戸時代初期の慶安元(1648)年に試作され、承応2(1653)年から太鼓門の瓦に採用された記録が残っており、正保元(1644)年に幕府が作製を命じた『正保城絵図』を見れば屋根瓦は青く塗られていますが、これ以降の絵図では屋根は赤く描かれているようです。おそらく幕末には、天守だけでなく城内のほとんどの建物の屋根を彩っていたと思われます。

ビクティニ:天守閣から見る紅葉もこれまた綺麗だ!

ミュウ:お山の方も綺麗だよ!

 

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鶴ヶ城鉄門
天守閣の南側には『鉄門(くろがねもん)』があり、鶴ヶ城本丸の正門にあたります。

木製の扉と柱が鉄で包まれていることからその名前になっています。戊辰戦争(籠城戦)の時、天守閣を中心に砲撃が撃ち込まれ、最多の日夜には2千5百発の砲弾というまさに四面楚歌の中、その鉄門だけが唯一安全地帯だったそうで、松平容保公をはじめ藩主や重臣らはその鉄門2階で指揮をとっていたのだとか。他にも、南走長屋や干飯櫓があり、その櫓は一番規模の大きい櫓で食料を保管していた『食料庫』であったと考えられています。

 

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廃城前の鶴ヶ城の写真
これは解体される前の明治5(1872)年当時の鶴ヶ城の写真です。

写真を見ればおわかりのように、戊辰戦争による損傷でかなりくたびれています。これは新政府軍の砲撃によって所々に砲撃の跡や屋根の損傷など、戦があまりにも激しいことが見受けられ、修復も不可能と悟ったのかしばらく放置された後に解体されたようです。

 

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茶室『麟閣』
鶴ヶ城本丸の隅には、茶室『麟閣』も併設されています。

この茶室は千利休の子である少庵によって建てたものとされ、少庵が会津に匿っていた際、蒲生氏郷のために造ったものであるという言い伝えがあります。戊辰戦争後、この茶室は茶人森川善兵衛宅で大切に保管されてきましたが、平成2(1990)年、会津若松市で市制90周年を記念し、この『麟閣』を元の場所(鶴ヶ城本丸内)への移築復元して後世へ伝えています。

豊臣秀吉の奥州仕置きによって天正18(1590)年、蒲生氏郷が会津に入り(42万石のち92万石)、近世的支配を確立していったのです。氏郷は織田信長の娘婿であり、器の大きい勇猛な武将かつ、この時代を代表する文化人でもあります。中でも茶道に興味旺盛で、のち利休七哲の筆頭にあげられるほどだったといいます。

天正19(1591)年、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられました。千家が茶の湯の世界から追放された際、蒲生氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんで少庵を会津に匿い、徳川家康とともに千家復興を豊臣秀吉に働きかけました。その結果、文禄3(1594)年と推定される『少庵召出状』が出されたことで、少庵は京都に帰り、千家の再興とともに千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれました。そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日も千家茶道の礎を現世に伝えています。

 

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『麟閣』で召し上がれるお抹茶と薯蕷饅頭
茶室『麟閣』では、受付にてお抹茶を召し上がりの旨を伝えると、600円で饅頭と一緒に茶席で提供してくれます。

茶席菓子として提供される薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)は、膨張剤や添加物などを一切使用しない、丹念にすり下ろした『つくねいも』と米粉の皮で作られ、さらに小豆の皮を取り除き炊き上げた皮むき餡を包んだお菓子です。

ビクティニ:風流なお庭を眺めながら食べるお菓子とお抹茶は美味しいよね(^^

ミュウ:今日は天気がいいし、外で食べれるなんてなんて至福なんだろう・・・(*´∀`

にょろもう:抹茶の匂いが和むね・・・

ゴンベ:いただきますだ~!

ビクティニ:一人で食べちゃダメだよ(笑)

 

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昼食 喜多方ラーメン
ちょうどお昼時なので、『鶴ヶ城会館』にあるレストランで昼食にします。

レストランのメニューにはソースカツ丼やそば、喜多方ラーメンなどのメニューがありますが、今回は喜多方ラーメンを頂きました。喜多方ラーメンは文字通り喜多方のご当地ラーメンで、人口一人あたりの店数が日本一とも言われ、日本三大のご当地ラーメンとして人気があります。
ビクティニ:やっぱり喜多方ラーメンは美味しいよね!いただきます!

ミュウ:美味しい!

ゴンベ:会津と言ったら喜多方ラーメンだっぺ!うまいっぺ!

にょろもう:チャーハンもついてるから余計に美味しい!

 

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御薬園

鶴ヶ城から自転車を借りて10分弱・・・少し足を運ぶと『御薬園』があります。

御薬園は、先程の鶴ヶ城と同じように約六百年あまりの歴史があり、ここは歴代の会津領主が愛した別荘地だったとされています。

御薬園の歴史は古く、約六百年前の室町時代、会津守護職の葦名盛久が霊泉の湧くこの地に別荘を建てたのが始まりです。そして、会津松平藩の藩祖こと保科正之(ほしなまさゆき)公が大名庭園として整備されたのを機に、二代目藩主正経は疫病から領民を救い、病気の予防や治療などに使用する研究のため、薬草園が設けられました。これは主に朝鮮人参の栽培をはじめ、様々な薬草や薬用植物を栽培していくことで、お殿様をはじめ領民たちの健康が守られたといいます。

今から630年前あまり・・・葦名七代目である直盛が会津の地に初めて東黒川館(現在の鶴ヶ城)を築き、その館の北側に『大田谷地』という野原がありました。そこには一軒の農家があり、喜助というものが病気で難儀していたものの、朝日保方(あさひやすかた)という白髪の老人が鶴の舞い降りた泉水で喜助を介抱し、喜助は元気なからだに戻ったのです。保方老人はそれを見届けるように逝去し、彼は疫病から救ってくれた恩人として、救い主である保方を霊泉の傍らに手厚く葬り、たてた祠を朝日神社として、霊泉の泉を『鶴ヶ清水』と名付けられました。

永享4(1432)年、十代目の盛久は、この地を霊地として四角四面に区切るように別荘が建てられました。

十六代目盛氏(もりうじ)の頃は葦名氏の全盛期であり、彼が別荘を復興したことで、御薬園として成り立ったといわれています。後に時代は伊達・蒲生・上杉・再蒲生・加藤へと移り、永い戦乱が続いたことから、別荘はまったく顧みられなかったものの、保科正之は霊地の由緒を正して庭園を整備し、保養所として用いられるようになったといいます。

 

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薬用植物園

御薬園は、もともと二代目藩主正経が領民を疫病から救うために造園したもので、のちの三代目藩主松平正容が朝鮮人参を試植し、その栽培を広く推奨し朝鮮人参の栽培が実用化されたことから、『御薬園』の由来となりました。現在では、朝鮮人参や会津特産の薬用人参をはじめ、約4百種類の四季折々の草花が栽培されています。春にはタンポポやタチアオイ、オタネニンジンなど、夏にはウマノスズクサ、ハス、フジバカマなど、秋にはジュウガツザクラやヤツデが季節ごとに彩りを見せてくれます。

 

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プリンセス・チチブ(バラ科)

平成21(2009)年9月9日に秩父宮妃勢津子殿下ご誕生100年を記念し、秩父宮記念公園(静岡県御殿場市)よりプリンセス・チチブを勢津子殿下ゆかりの建物である重陽閣の前に寄贈され、植えられたものです。

 

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重陽閣
御薬園の脇に建っている和風な建造物は『重陽閣』です。

重陽閣は、昭和3(1928)年、昭和天皇の弟宮秩父宮雍仁親王殿下と当時のアメリカ大使こと松平恒雄の長女松平節子姫との婚約が成立し、節子姫御一家の来若を歓迎するために、東山温泉新滝旅館の三階建別館として建てたものです。
勢津子妃殿下御一家が泊まられた新滝旅館の別館は、昭和48(1973)年、この御薬園に移築され、建物の名前は秩父宮妃勢津子殿下に『重陽閣』と命名されました。これは妃殿下のお誕生日が9月9日の重陽の節句であったことからその名をとられたといわれています。

 

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御薬園の池泉回遊式大庭園
御薬園は、約1.7ヘクタールの敷地中央に心時の池を持つ池泉回遊式の庭園です。

風光明媚な庭園に映える紅葉が秋の雰囲気を彩り、広い池のカルガモたちも優雅に泳ぎ回っています。

心時の池の中央には亀島と楽寿亭、池の西側には御茶屋御殿、庭園の北側には藩政時代の薬草栽培地跡を利用した薬用植物の標本園があります。

現在の庭園は三代正容(まさかた)の時代である元禄9(1696)年、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の流れを汲む園匠目黒浄定(めぐろじょうてい)と普請奉行辰野源左衛門(たつのげんざえもん)の手に成るもので、規模を拡大し借景を取り入れた池泉回遊式の大名庭に大補修を加えたものです。周囲約540メートルの長方形で面積は1.7ヘクタール(約5千1百坪)あります。北に千古の雪を頂く飯豊の霊峰や、東には磐梯の秀峰と背あぶり山・東山の連山が望まれた借景の美しい庭園として造られたもので、昭和7(1932)年に国の名勝として指定され、昭和28(1953)年には一般公開され、現在に至っています。

 

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御茶屋御殿 お抹茶
御薬園の池の畔にある御茶屋御殿は専ら藩主の休息のほかに上席の役人や藩御用達頭取の元締などを招待する場としても利用されていました。

上ノ間(藩主お成りの部屋)・次ノ間・控ノ間と区別された部屋を持っており、建築年代は元禄9(1696)年頃と思われます。しかし、ここは多雪地帯であるゆえ、破損の進行が早く改造も加えていますが、中には古材を転用したものも含まれています。これは建築した時の建材は新材でなく、農家の解体材などを再利用することで領民に倹約の範を示したという言い伝えがあります。また、藩主の意図から質素を旨にするため、古木素材が用いられています。
控ノ間までが藩政時代のもので屋根は茅葺ですが、隣に続く十畳の松ノ間と二階は容保公一家が住まれるため、屋根は亜鉛葺になっています。また、戊辰戦争時には西軍(新政府軍)の治療所に使用されたため、戦火をまぬがれています。また、戊辰戦争時に出来た刀傷や弾痕など当時のたたずまいを見ることができます。
御茶屋御殿上ノ間は、藩主のお成りの部屋で庭園が一望され、正面の楽寿亭と東山の山並みの借景が美しく、まさに殿様気分で眺めが楽しめます。現在では、庭園を眺めながらお抹茶をごま羊羹と一緒に召し上がれます(600円)。

ビクティニ:庭園を眺めながらのお抹茶とお菓子はこれまた格別ですね~。

ミュウ:この羊羹にはごまも含まれているんだ。体にいいお菓子だね。

ゴンベ:2回もお抹茶が飲めるなんて天国だっぺ~(*´ω`*)

にょろもう:池の中のカルガモたちも元気に泳いでいるね~。

 

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会津鉄道の列車

会津若松の町並みを散策した所で駅から近い町方伝承館に自転車を返却します。会津若松駅からは、芦ノ牧温泉へ泊まりに行くため、会津鉄道の列車に乗車します。

16:25発 会津田島行き

 

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芦ノ牧温泉駅

16:45 芦ノ牧温泉駅に到着

会津若松駅から列車で約20分・・・芦ノ牧温泉駅に到着です。ここは名前の通り会津若松の南はずれにある『芦ノ牧温泉』の最寄り駅です。そして、この駅には『らぶ駅長』という猫駅長をはじめ猫たちの働く珍しい駅としても有名です。芦ノ牧温泉へは路線バスやタクシーで行くことができます。ただ、我々が「芦ノ牧温泉の旅館に泊まる」という旨を駅員さんに伝えると、たまたま別の旅館で宿泊する宿泊客の送迎の方が、我々の宿泊するホテルまで送ってくれました。

ビクティニ:この時期になると日が暮れるのが早いよね・・・。

ミュウ:ほんとほんと。

 

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芦ノ牧温泉プリンスホテルにて宿泊

我々が宿泊したホテルは『芦ノ牧温泉プリンスホテル』です。この旅館はいささか古めかしい感じはするのですが、旅館の方々はとても親切で、館内もいい感じにレトロな雰囲気です。また、1泊2食付きで1万円前後と比較的リーズナブルなので、猫駅長に会ってノスタルジーな芦ノ牧温泉の旅館に泊まりに行くのには良いと思います。

ビクティニ:さっきの芦ノ牧温泉駅の猫駅長さんは夕方になるといないんだね・・・。

ミュウ:そりゃあ、昼間じゃないと見れないからね・・・。

 

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芦ノ牧温泉 夕食

温泉はいいお湯で、夕食もとても美味しかったです。

露天風呂が特に最高で晴れた日には星空も見えます。夕食も会津の食材をふんだんに使われていて美味しかったです。会津の地酒も美味しかったです。

ビクティニ:いただきます!・・・会津のご飯は最高にうまい!

ミュウ:美味しい!

ゴンベ:うまいっぺ~!

にょろもう:美味しい!まさに秋のごちそうだよ!

 

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旅館の部屋

ビクティニ:明日は大内宿と塔のへつりを見てからSLばんえつ物語号に乗りに行こう。

ミュウ:会津鉄道の本数も限られているし、この時期の大内宿は混雑するから、大内宿をさっと見てからの方が良いかもね。

ゴンベ:ねぎそばが美味しいんだったぺ。食べてみたいっぺ。

にょろもう:混んでいなければいいんだけどなあ・・・。

 

『紅葉の鶴ヶ城と御薬園』でした