ビクティニと昔ロマンのブログ

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碓氷峠鉄道文化むらでアプト式電気機関車“ED42型”を屋外展示!

皆さんこんにちは。

今回は、群馬県安中市にある『碓氷峠鉄道文化むら』にて、かつて信越本線の横川~軽井沢間で活躍したアプト式電気機関車『ED42型』が珍しく屋外展示にて公開されるということで、見てまいりました。

 

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アプト式電気機関車『ED42型』

碓氷峠鉄道文化むらに入ってみると、早速目の前にED42型が姿を現しました!

ED42型電気機関車は、当時の信越本線における横川~軽井沢間のアプト式区間専用機関車で、昭和9(1934)年に開発されたアプト式機関車です。

ED42型が保存されているのは、ここに保存されている1号機と軽井沢町のとある小学校に保存されている2号機のみと、非常に貴重なものです。現在、碓氷峠鉄道文化むらで保存されている1号機は、アプト式が廃止された後、昭和42(1967)年に準鉄道記念物に指定されました。さらに碓氷線電化75周年を記念し、一時期は動態復元され、走行を行ったことがあります。

この機関車は、スイスから輸入された『ED41型』をベースに設計されたもので、両端ともデッキが設けられています。運転台は普通の機関車と異なり、従来の機関車から横川方面のみ設置された、いわゆる片運転台型になっているのも、まさに横軽専用機関車ならではの特徴です。また、パンタグラフも1基のみ搭載されており、基本的には横川駅や軽井沢駅などの構内のみ使用されました。

 

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集電靴
アプト式時代当時の信越本線横川~軽井沢間の電化方式は『第三軌条方式』が用いられていました。

第三軌条方式とは、『第三軌条』といわれる給電用のレールを線路横に敷設され、集電靴を伝って集電する方式のことです。ED42型のようなアプト式の機関車は、アプト式の線路を進む時は、パンタグラフの代わりにこの集電靴で第三軌条から電力を取り入れ、動力にしていたのです。この電化方式は直流600Vで、この機関車も第三軌条方式・架空電車方式併用になっています。

 

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ED42型の車輪

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ED42型に装備されたアプト式用の歯車

ED42型の車輪には、台車の軸間に主電動機が1基ずつ装備され、『カップリングロッド』といわれる連結棒にて各動輪に動力を伝えています。また、タックレールに噛み合わせるための歯車が、『ラック式軌条台車』として車体中央部に装着、さらに動力用とは別に歯車伝達用の主電動機が1基装備されています。この歯車こそがまさにアプト式鉄道の伝達装置です。機関車に装備された歯車とラックレールを噛み合わせることで、碓氷峠の急勾配でも、列車の安全運行を支えることができたのです。

ちなみにED42型の制御装置としては、制御ハンドルや逆転ハンドルの他、粘着運転ORラック運転・力行OR発電ブレーキを切り替える組み合わせハンドルを有するため、『エントランス』といわれるラックレール区間への進入時、あるいは急勾配区間を下る際に複雑な操作をしなければならないほど、アプト式鉄道時代の乗務員は大変だったそうです。

 

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66.7‰の勾配標識とアプト式の線路

信越本線の横川~軽井沢間にある碓氷峠は、66.7‰(パーミル)という当時のJR(国鉄)で最大の急勾配にして難所だったのです。

明治26(1893)年に鉄道が敷かれた当時から路線距離にして11.2km高低差553メートルという条件の下で、66.7‰の急勾配が生まれます。そこで、その難所に鉄道を通すに当たり、この『アプト式鉄道』が採用されます。

『アプト式鉄道』とは、線路の中央部に位相をずらした3本のラックレールを敷設し、車両に取り付けられた歯車と噛み合わせることで、牽引力ないし制動力を高めることができる鉄道方式のことです。この鉄道方式を用いることで、碓氷峠のような急勾配でも安全かつスムーズに峠を越えることができたといいます。ちなみに、『アプト式』の『アプト』は、スイスの機械技術者ことカール・ローマン・アプトから名付けられたものなのだそうです。

当初は蒸気機関車で運行されるも、所要時間はその区間だけでも1時間は超えるほど非常に掛かり、機関士の窒息事故や轟音など、まさに地獄絵図な状況下だったのです。のちに、明治45(1912)年に横川~軽井沢間は電化されます。そして、EC40(10000)型をはじめとするアプト式電気機関車が運行を始めますが、それらのアプト式電気機関車の中でも、このED42型が一番活躍しました。この機関車こそアプト時代の横軽における代名詞的な存在となったのです。

当初は他形式に混じって活躍していましたが、1950年代以降はすべてED42型に統一され、この機関車で運用を担当することになります。連結方式としては、基本的には軽井沢方面から第3補機+客車ないし貨物+第2補機+第1補機+本務機の順で編成を組んで運行されていました。このように編成を組むことで最大360トンの列車を推進・牽引することができたのです。昭和30年代後半には信越本線に急行や特急の気動車が運行されるも、やはりあまりの難所である横川~軽井沢間では自走不可能であるため、補機であるED42型による牽引や推進で活躍しました。そして、昭和38(1963)年に従来のアプト式から粘着運転へ切り替えるため、新線への切り替えとともにアプト式は廃止、これまで活躍してきたED42型は役目を終えることとなったのです・・・。

 


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アプト式からEF63の時代へ・・・
これまで碓氷線で活躍してきたアプト式は役目を終え、粘着運転で峠を越える『EF63型』にその役目を譲ります。

EF63型は2台でペアになって、列車の横川側へ連結されます。そして、信越本線の横川~軽井沢間(碓氷峠)を通過する時、軽井沢方面へ向かう列車は推進運転で列車を押し上げるように、横川方面へ向かう列車は2台の機関車が先頭に立つように連結して峠を安全に下っていたのです。これは、EF63型の粘着運転によって、列車が安全に碓氷峠を越えることができたのです。EF63型は、上野と長野を結ぶ特急あさま号をはじめ、特急白山号、急行能登号など、様々な列車の峠越えを手助けしてきた生き証人です。そのことから、『碓氷峠の守り神』またの名を『峠のシェルパ』と呼ばれるようになったのですね。そして、長野新幹線の運用が決まると、信越本線の横川~軽井沢間は平成9(1997)年9月末をもって正式に廃止され、EF63のエピソードは34年の歴史に幕を閉じることになったということですね・・・。

ビクティニ:EF63型が特急あさま号とペアを組んで峠を越える写真は見たことがあるけど、あれはまさに名シーンだったらしいよ。

サンダース:ああ、当時俺が機関士だった頃が懐かしい・・・。

 

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当時の信越本線ではD51型をはじめとする蒸気機関車も活躍していた
アプト式が活躍していた頃の信越本線は、横軽以外の区間は当時非電化だったのです。

アプト式時代の信越本線を通っていた列車は、すべて気動車(ディーゼル)による運行が多かったのですが、中には貨物列車も碓氷峠を通過していたようで、横軽以外の信越本線にはD51型をはじめとするSLも活躍していたと思われます。現在の信越本線の高崎~横川間では時々SLが走っているのが見られますが、アプト式が現役だった当時は蒸気機関車が貨物列車を牽引し、横軽区間ではアプト式機関車たちが担当していたことでしょう・・・。碓氷峠鉄道文化むらに展示されているD51-96号機は信越本線で活躍し、晩年は北海道で活躍しました。廃車後は埼玉県長瀞町にあったSLホテルに利用されましたが、後に碓氷峠鉄道文化むらにて保存されることになったのです。

ビクティニ:昔はD51も活躍していたのかな?

サンダース:今でもD51が時々走っているけど、あれはイベント用みたいだ。

 

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信越本線横川~軽井沢間の旧線にある『めがね橋』
『碓氷峠鉄道文化むら』のある横川駅から国道18号の旧道を軽井沢方面へしばらく進むと、『めがね橋』こと『碓氷第三橋梁』が見えてきます。

この『碓氷第三橋梁』は信越本線旧線の一部分で、先程見物したED42型はこの橋梁を通過していました。そう、旧線時代の信越本線は『アプト式』が使われていたことから、この橋梁にはアプト式の鉄道が通っていた姿が想像できます。旧線には18箇所の橋梁が存在していたのですが、このめがね橋はそれらの橋梁の中で一番大きい4連のアーチ橋で、日本にある煉瓦造りの橋としては最大級のものです。明治26(1893)年の信越本線の高崎~直江津間の開通とともに完成し、川底から31メートル、全長91メートルあり、およそ二百万個の煉瓦が使われています。そして、昭和38(1963)年の新線切り替えとともに、これまで活躍してきたアプト式鉄道こと旧線は廃止となりました。現在では遊歩道の一部となり、平成5(1993)年には『碓氷峠鉄道施設』として重要文化財に指定されています。

ビクティニ:碓氷峠といえば、やはり大きなめがね橋が印象的だよね。まさに横軽の顔だ。

ミュウ:昔はここに鉄道が通っていたというのを考えれば、この大きな橋自体も東京と長野を結ぶ鉄道を支えていたんだね。

サンダース:煉瓦でできた橋は、やはり歴史が感じられるな・・・。

 

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碓氷第三橋梁の線路跡

めがね橋の上に出てみます。道床は広いです。橋の向こうに見えるトンネルも、いかにも明治期に建設された鉄道遺産という雰囲気が出ています。トンネルの向こうから列車が来る姿が想像できそうです。どうせならここに線路やラックレールを展示してみてもいい気がします。

 

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信越本線横川~軽井沢間の旧線跡 トンネル
信越本線横川~軽井沢間のうち、熊ノ平駅跡までの廃線跡が遊歩道として整備されています。

旧線にあったトンネルはすべてで26箇所ありました。そのうち10箇所のトンネルが遊歩道として整備されています。トンネルの壁も明治期に造られたこともあり、やはり煉瓦造りになっています。そして、トンネルの中にある旧線跡の道床には、線路はもちろんのことアプト式鉄道には欠かせないラックレールや三線軌条も敷かれていたことが想像できます。ということは、ここにアプト式の機関車や様々な長距離列車が通っていたということですね。このようなトンネルが26箇所もあったというのを考えれば、ここにSLが活躍していた頃は、ばい煙による窒息事故があったりなど、まさに地獄絵図だったのも頷けます。後に電化されたものの、建設時のトンネルの天井はやや低く、架線を引くのには難しかったことから、電化方式は第三軌条方式が合理的だったかと思われます。そして、ED42型もこのトンネルを何往復も通ってきたことでしょう・・・。

 

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信越本線の新線跡
めがね橋の上から、横軽新線の橋梁跡が見えます。

アプト式の鉄道が廃止になった後、別の場所に『新線』として敷設され、粘着運転で碓氷峠を越えていました。以前に体験運転を行ったEF63型はあの新線で活躍し、碓氷峠を越える様々な列車もあの橋梁を通過していたのです。一見まだ使えそうな感じに見えますが、廃止されてから20数年経っているため、線路も架線柱もかなりくたびれているようです。ちなみに新線跡は旧線とは違って、遊歩道が整備されていないためイベント時以外は立入禁止になっています。

 

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信越本線 熊ノ平駅跡構内

熊ノ平駅跡までやってきました。

アプト式(旧線)時代の信越本線が単線だったため、ここで下り列車と上り列車が行き違いが出来るように、またSLへの給水や給炭する目的で信号場(後に駅となる)として設置されました。

信越本線は首都圏から長野や北陸方面へ結ぶ幹線でありながら、その途中を通る『碓氷峠』あまりの急勾配かつ難所であるがために、『アプト式』という特殊な鉄道方式を取らざる得ず、横軽の区間においても輸送力の増大が求められ、待避線や突っ込み隧道の設置など、様々な対策が取られていました。そのため、アプト式時代の熊ノ平駅は重要な鉄道施設の一部でもあったことが考えられます。その後の新線移行及び横軽の複線化に伴い、再び信号場へ降格となります。そして、平成9年9月30日に横軽区間は廃止となり、熊ノ平駅(信号場)も廃止となりました。

アプト時代はそれほど重要な場所だったことから、構内の広さが伺えます。ここをアプト式の機関車からEF63はもちろん、様々な列車が行き交っていた姿を思い起こさせます。アプト式の機関車はここで行き違い、EF63はそのまま通過していたことでしょう・・・。

 

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熊ノ平駅 軽井沢方面

横軽区間では、最大66.7‰の勾配をはじめ、ほとんどが急勾配の区間ですが、熊ノ平駅では唯一平坦な区間です。軽井沢方面を見てみると、熊ノ平駅を過ぎたらまた急勾配の区間が続いているのが分かります。新線のトンネルはそれぞれ上下線で2つのトンネルに分かれています。また、2つの新線トンネルの左脇に旧線トンネルが続いています。

 

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熊ノ平駅 横川方面

横川方面も見てみましょう。こちらも上下線で2つのトンネルが分かれていますが、左側の上り線では、なぜか線路が2本でトンネルに入っています。恐らく優等列車の待避線として設けられたものと思われます。ここも2つの新線トンネルの右脇に旧線のトンネル跡があります。線路はもちろん手前にある信号設備もだいぶ錆びついていています。

 

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熊ノ平駅の変電所

熊ノ平駅の構内にはかつて使われていた変電所があります。現在では廃墟と化しており、一部窓が割れていてかなり荒れ果てていますが、この変電所も鉄道施設の一部分でもあったようです。この変電所は新線時代の信越本線横川~軽井沢間に使われ、電力を給電していたものと思われます。

 

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アプト式開通の碑

構内の脇には、『アプト式開通の碑』が祀られています。アプト式だった当時は様々な事故や死亡事故が多かったことから、この鉄道を動かしてきた人たちの苦労が感じ取れます。なにしろ、『碓氷峠』は泣く子も黙る日本の鉄道における難所でしたからね・・・。

 

『碓氷峠鉄道文化むらでアプト式電気機関車“ED42型”を屋外展示!』をお伝えしました。

 

★おまけ★

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北軽井沢にある『列車村』に保存(?)されている10系客車

宿泊先の北軽井沢のホテルの庭には、なぜか10系客車が保存されています。いずれもオロネ10形のようですが、おそらく昔は急行『能登』号の寝台列車で使われていたものでしょう。ちなみにこれらの客車は昭和53(1978)年に廃車になった後、ここに運ばれたようです。