ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

【鉄道開業150周年】碓氷峠の関所・鉄道遺産のまち『横川』を歩いてみよう

皆さん、こんにちは。

今回は鉄道開業150周年にして鉄道の日が近いということで、高崎から出る信越本線の終着駅『横川駅』に訪れました。

 

信越本線 横川駅

さて、高崎駅から信越本線で進むと、終着駅『横川駅』になります。

駅名板に注目してほしいのですが、もう反対側には駅名が書かれていません。

そして、この路線名が『信越本線』という名前なのにも関わらず、たった30kmのところで終点になっています。それもそのはず、かつてはここから軽井沢方面へ続いていたのです。もともと信越本線は明治期に高崎から長野やを経由し、直江津(現:上越市)まで開通し、さらに明治40(1907)年に北越鉄道が『信越本線』として合併されてできた路線で、首都圏と新潟を結ぶ主要路線を担ったのです。そのうち、この横川~軽井沢間は明治26(1893)年に開通しました。

碓氷峠を越える信越本線横川~軽井沢間は、高さ553メートル、距離11.2km、そして66.7‰(パーミル)という条件下の急勾配だったのです。

当初はアプト式の機関車で横軽を越える列車を通過させていましたが、明治期当時は電気が普及していなかったこともあり、蒸気機関車にて運行されるもばい煙に悩まされていたそうです。やがて、横軽の電化がされ、ついに日本初にしてアプト式の電気機関車が開発。それでも所要時間がかかってしまうことから、これまでの旧線(アプト式)から新線(粘着運転)へ切り替わりました。そこで『峠のシェルパ』という異名を持つ『EF63形』という電気機関車を開発し、多くの列車を通過させることができたのです。

そして、北陸新幹線(当時は長野新幹線)の開業によって、平成9(1997)年9月30日に信越本線横川~軽井沢間は廃止になりました。碓氷峠の鉄道物語のエピソードは70年間のアプト式ならびに34年間のEF63の活躍とともに104年もの歴史もって幕を引くことになったのです。かつての信越本線だった区間の一部は『しなの鉄道』や『えちごトキめき鉄道』によって分断され、もはや信越本線の原型が崩れつつあります。

したがって、横川駅で終わっているのは、かつてここから軽井沢方面に続く線路は廃線となっているからなのです。

ビクティニ:だから、高崎から出ている信越本線はここで終わっているわけか・・・

くまモン:でも、『本線』って名乗っている割には、中途半端なところで終わっているのが不思議だモン。思えば肥薩線も廃線にならないといいんだけどモン・・・

 

EL列車
かつて東京から長野や新潟を結んでいた信越本線も、今やローカル線と化しています。

高崎から横川までの区間も、かつては特急や急行などが多く走っていましたが、今となっては普通列車やSL・EL列車ぐらいしか走っていません。

横川駅に到着したら、何やら臨時のEL列車が反対側のホームで停泊していました。牽引機はEF64形電気機関車(1000番代)のようです。

 

横川駅 駅舎

横川駅は、群馬県安中市(横軽廃止日当時は旧松井田町)にあります。

この駅は、明治18(1885)年10月15日に開業したJR信越本線の駅です。

当時の日本鉄道会社が上野~高崎間の高崎線が明治17(1884)年に開通とともに高崎~横川間が官設鉄道として開通しました。そして、その8年後の明治26年には、険しい地形である碓氷峠にトンネル26箇所ならびに鉄道橋18箇所を建設し、県境を越えた長野県軽井沢町へ鉄道が開通しました。これによって信越本線は太平洋側と日本海側を結ぶ鉄道輸送の要となっていったのです。

この駅ではかつて、軽井沢方面へ向かう列車が峠を越すための補助機関車を連結・解放の作業が行われていました。そして、平成9年までEF63との連結・解放作業が行われた光景も見ることが出来たのですが、長野新幹線の開業とともに軽井沢方面へ通づる線路も閉鎖され、高崎からの信越本線はここで終わっています。なお、軽井沢への鉄道は廃止になっていますが、路線バスは通っているのでここから軽井沢まで行くことができます。

ビクティニ:ELでも大人気みたいだね

くまモン:何?あの青い機関車?初めて見たモン!

ビクティニ:あれはEF64形電気機関車っていうんだ

 

ここからガイドの方々による案内です。

 

元祖峠の釜めし『おぎのや』の店舗
横川駅でまず目にするのが『峠の釜めし弁当』で有名な『おぎのや』です。

横川駅が開業した明治18年当時、駅前にて旅館『荻野屋』を経営していた店主(高見沢仙吉)が、駅売り弁当として、竹の皮で包んだ『にぎり飯』を5銭で売り出したのがはじまりです。明治18年当時は、宇都宮駅で『にぎり飯』を売った旅館白木屋が第1号なので、ここの荻野屋では第2号ということになります。そして、今や名物となった『峠の釜めし』こそ、日本最古の駅弁として古くから人気があります。これは昭和33(1958)年に4代目社長高見沢みねじとその妹が考案して売られたものです。器は釜をかたどった益子焼のものを使用しているのが特徴的です。

もちろん横軽が現役当時の頃も、この駅弁で賑わっていたというエピソードがあり、今でも現地で峠の釜めしを堪能できます。

 

かつてアプト式に使われたラックレール
横川駅のすぐ前には、かつてアプト式鉄道で使われたラックレールがあります。

むろん、これらのラックレールは当時物で、写真右側のレールが摩耗しているのもまさに横軽でアプト式鉄道が通っていたという証の産物です。

 

横川周辺の中山道 絵図
そして忘れていけないのは、横川が『中山道』の道中にあるということです。

中山道は、江戸幕府の時代において江戸(現在の東京)と京都を結ぶ街道の1つです。当時、ここを多くの大名が行き交っていたといいます。この絵図でいうと、江戸へは『下り』、京都へは『上り』になっています。これは、京都には多くの寺院や神社があり、神様が集う場所を中心としていたからだと考えられているからだそうです。

 

旧中山道
これが、横川を通る『中山道』の跡とされる道路です。

道幅を見ればまさしく当時の街道を思わせます。

中山道は江戸の日本橋より北武蔵・上野国(群馬県)・信濃国(長野県)・美濃国(岐阜県)などを通過し、近江国(滋賀県)の草津宿にて東海道と合流する街道の1つになっています。この街道は徳川家康公をはじめとする大名たちがこの街道を行き来していた重要な街道でした。しかし、横川から先にある『碓氷峠』は通行人はおろか大名でも音を上げるほどの難所だったのです。

当時の横川はかつて一村落であった場所で宿場ではありません。しかし、明治期に信越本線横川駅が開業すると、のちに町並みとして整備されていったのです。2015年11月のブラタモリでもこの横川の町を歩いたことでしょう・・・。

 

御嶽山蔵王大権現の碑

死後の霊魂が安住する場が木曽御嶽山(長野県・岐阜県)だとする御嶽信仰が、江戸時代中期(18世紀後半)に全国的に広がりました。

当時人口300人余りの小さな村であった横川村でも、グループが結成され、リーダーを立てて白装束で「六根清浄 お山快晴・・・」と声を掛け合い御岳登山にでかけました。当時は黒船が到来していた騒然な時代だったのですが、ここの村民たちはいつも平穏になるよう願っていたに違いありません。

文久4(1864)年に建立したもので、高さ2.75メートル、幅0.6メートルあります。

 

庚申塔(こうしんとう)と三十三夜塔

こちらの記念碑は、男衆が庚申(かのえさる)の夜、寝ずに行(ぎょう)を行い、飲み明かして長寿を願う『庚申講』や、女衆が旧暦23日の夜、月の出を待って飲食をともにし家族の幸せを祈る『三十三夜講』は横川に限らず至るところで行われていました。その2塔は同じ年に建てられ、いずれも寛政庚申(1800)年に建立され、幕末の三蹟(市河米庵・巻菱湖・貫名海屋)の一人とされる市河米庵が『金銅河三亥(こんどうがみつい)』と号した青年期の書が珍しいものです。

 

横川茶屋本陣(武井家)

江戸時代初期に中山道が整備されると、元和9(1623)年、横川に碓氷関所が設けられます。

関所周辺には旅籠を置かないため、大名や公家などの身分の高い人が休んだり衣服を整えるために茶屋本陣が必要とされていました。この建物は約250年前の明和年に建てられたものとされ、ほぼ原型を保っていることから昭和33(1958)年に群馬県史跡に指定されています。

 

横川駅 貯水槽

諏訪神社の左側にある遺構は、かつて信越本線の蒸気機関車に給水するための設備として設けられました。

当時は蒸気機関車で運行されていたために、水や石炭といった燃料を補給する設備が必要だったからです。この設備は明治18年に高崎~横川間の開通とともに設けられたものとされ、当初は木造でしたが、すぐにダメになってしまい、後にレンガ造りの貯水槽へと建て替えられました。この貯水槽は埼玉県深谷市にある日本煉瓦製造所にて造られたレンガが用いられています。水道がない時代だったこともあり、矢の沢から貯水槽の砂床に水を引き、砂を通して浄化した水を下部から鉄パイプにて高度差を利用し、横川駅へ送り機関車に給水していたのです。その役割を担っていたのがこの遺構です。

 

碓氷関所跡
関東の西の守りの拠点として横川に設置されたのがこの『碓氷関所』です。

いわずもがな、中山道の要所の1つです。当初は醍醐天皇の昌泰2(889)年に群盗を取り締まるために碓氷坂に設けられましたが、ここに関所が移ったのは元和年間(1615~1623年)といわれています。幕藩体制を中心とした、徳川幕府の確立・安定という政治的なもののための役割へと変わっていきました。そのため、関所の主な任務は、『入り鉄砲に出女』の取締りだったのです。安中藩に管理が任された関所の規模は東門から西門まで約95メートル、20人の関所役人が守っていました。『入り鉄砲に出女』の取締りの他に、武士のみならず一般庶民でさえも関所を通る『通行手形』を見せるための場所にもなっていたのです。

そこで、江戸幕府が敗北したのち、明治新政府は直ちに、明治2(1869)年に全国の関所を廃止にし取り壊し始めました。そして、横川にある関所も例外なく撤去するよう命じられました。その時、役人の一人が上役に懇願し、自ら処罰されるのを覚悟で東門の門扉と門柱を隣村の蔵に隠しました。

あれから85年の時を経て、昭和30(1955)年に、関所跡が群馬県史跡に指定されたのを機に、門扉・門柱が旧松井田町に無償提供され、松井田町民が三年がかりで集めた浄財で昭和35(1960)年、往年の関所役人住宅跡に東門が復元され、現在に至っています。

 

関所の門柱の一部が焦げている

関所の門柱・門扉はいずれも当時の木材がそのまま残っており、ケヤキ材が使われていました。

各所に金具を用いた堅牢なもので、『高麗門』になっています。屋根材や石台も当時のままで、昭和34(1959)年に復元された門は、東京大学教授工学博士こと藤島亥治郎の設計によって復元されました。ここは番所跡にあたる場所で、復元された門は東門です。

上の方を見てみると一部が黒くなっています。そう、これは撤去しようとした際に焼却した時の跡なのです。途中のところで焦げているのは、撤去を取り下げようとした役人が保存しようとした名残なのでしょう。

 

文政10年当時の道中案内広告

文政10年当時の道中案内の広告です。

いかにも江戸時代らしい広告案内です。これは、関所を通すための案内が掲げられていたものと思われます。この広告を使って通行手形の手続きや案内が行われていたのでしょう。

 

碓氷関所 模型

碓氷関所の模型です。

関所の警固は、元和2(1616)年に井伊直勝が任命されたのが始まりで、代々安中藩主が務めていました。番頭2名、平番3名、同心5名、中間4名、箱番4名、女改め1名が詰めていたといいます。街道東西にそれぞれ門があり、東門を安中藩が管轄していました。一方、西門は幕府が所轄し、『天下門』とも呼ばれていたそうです。

 

碓氷線建設殉難者の招魂碑と鎮魂碑

明治期になると文明が進行していき、これまで人の足や馬で越えていた碓氷峠に鉄道が敷かれることになります。

そこで、横川~軽井沢間に鉄道を敷設する工事が明治24(1891)年6月に着工し、1年と6ヶ月の時期を経て明治25(1892)年12月に完成しました。当時は機械や火薬もない時代で、9つの工区に分けて人の手で工事が行われました。総勢1万4千人あまりの作業員でとりかかり、日の出から日没にかけての工事が行われました。人の手でトンネル工事を行うのには、殉難者も多くいたことでしょう・・・。

こうして、横川~軽井沢間に設けられた線路に、トンネル26箇所および橋梁18箇所で、いずれもレンガ造りという、まさに難工事が強いられました。ここの招魂碑はその工事に携わった鹿島組によって建てられたもので、当時工事に携わっていた鹿島組が最大の請負業者だったのです。招魂碑によると500人ほど亡くなったとされているようですが、実際のところ、その工事での犠牲者数は分かりません。おそらくもっと犠牲者が出たのかもしれません。

 

横川~軽井沢間に敷かれた鉄道(アプト式時代)

66.7‰(パーミル)の意味
かくして、明治26年には横川~軽井沢間に鉄路が敷かれ、高低差553メートルならびに距離にして11.2km、更に66.7‰(パーミル)の条件下で碓氷峠に鉄道が誕生しました。

66.7‰とは、1kmの距離ごとに66.7メートルの高低差という意味です。そして、開業時に採用された『アプト式鉄道』とは、線路の中央に敷かれた『ラックレール』と機関車下部に設置された歯車と噛み合わせて急勾配を安全に走行できる方式のことをいいます。その方式はスイス人のロマン・アプト氏によって発明されました。当初こそは、蒸気機関車で運行されていたのですが、先ほども述べたように、ばい煙に悩まされていた上、時速8kmしか出なかったのです。これは自転車でも抜かれる速度ですね。所要時間はなんとたった11kmだけでも約80分近くもかかっていたのだとか。

 

アプト時代に活躍した蒸気機関車

ばい煙対策『幕引き』

そんな蒸気機関車時代でも、様々な対策が取られていたようです。

例えば、煙突の後ろに長いパイプで列車の後方へ煙を逃したり、あるいは機関車の煙突が列車の最後尾に配置して列車に煙が被らないよう、様々な対策がされましたが、更にある方法でばい煙から守る案が上がったのです。その方法とは・・・

なんとトンネルの出入口に幕を引くことです!

片方の出入り口に幕を引くことで、煙を出口方向へ逃がしトンネル内に充満しないようにする策だったようですが、効果としてはあまり期待できなかったそうです。

 

日本で電化第1号となった電気機関車
そして、ばい煙に悩まされていた蒸気機関車から電化する方式へ変えます。

明治45(1912)年に碓氷線が電化され、ドイツから電気機関車が輸入されました。日本で初めて電化された碓氷線にして、国内の電気機関車としては第1号となったのです。これは『10000型電気機関車』というもので、ドイツのアルゲマイネ社にて製造されました。電気機関車の導入によってSL時代より時速15kmに格上げできたのです。また、電化第1号となった車両というだけあって、軽井沢に1両保存されているものが鉄道記念物になっています。

 

横川火力発電所

碓氷線の電化とともに、現在の碓氷峠鉄道文化むらの近くの場所に設置された『横川火力発電所』は、国鉄初(当時は鉄道省)の火力発電所だったそうです。

この発電所では、出力3千kWという、当時としては高出力だったのですが、石炭を燃料にしていたため、高コストであったことから昭和3(1928年)年に東京電燈からの系統電力によって火力発電は廃止されました。

 

旧丸山変電所

碓氷線あらため信越本線の横川~軽井沢間が日本の幹線鉄道において初めて電化されたことに伴い、明治45年に『丸山変電所』が設けられました。

むろん、これらの建造物もレンガ造りで、建築当時はレンガ造りの最盛期でもあったのです。この変電所は蓄電池室と機械室で構成され、軽井沢側の機械室には450kWの回転変流機2基ならびに500kVAの変圧器2基が収められ、交流6600Vから直流650Vへ変換していたのです。もう1つの蓄電池室には312個の蓄電池が配置され、列車が通らない時間帯に充電し、列車登坂時に放電して電力を補う役割を持っていました。この変電所は、まさに碓氷線の中枢ともいえます。

 

碓氷第三橋梁(めがね橋)
碓氷峠のシンボルとも言える『めがね橋』こと『碓氷第三橋梁』も、碓氷線の一部でもありました。

碓氷第三橋梁は、明治25(1892)年4月に着工し、同年12月に竣工と8ヶ月で完成したレンガ造りのアーチ橋梁です。この橋はイギリス人技師ことポーナルによる設計で、まさに明治期の建築技術が伺えます。川底から約31メートルと国内最大のレンガ橋で、4連のアーチが特徴的です。第三橋梁の他に第2から第6までの小さな橋もレンガ造りであることから、国の重要文化財に指定されています。

 

EF63型電気機関車
碓氷線が電化されたことでばい煙対策ができたとはいえ、アプト式の電気機関車では到底の輸送量に追いつきません。

そこで、さらなる速度アップを図るため、開業から70年で旧線ことアプト式は廃止され、昭和38(1963)年に新線が開通し、『EF63型』という電気機関車が導入されました。これは、粘着運転を行うため、軸重18トンならびに総重量108トンと重量が非常に重い碓氷峠専用の補助機関車です。この機関車の導入で時速40kmにアップし、更に輸送力を上げることができました。しかし、平成9(1997)年に長野新幹線(今の北陸新幹線)が開業するとともに、新線およびEF63も廃止となり、碓氷線の歴史は104年をもって幕を引くこととなったのです。

今では、EF63型の一部は碓氷峠鉄道文化むらで保存され、体験運転が可能になっています。

 

安中市 観光案内所

観光案内所では、碓氷峠や関所の歴史などが解説・展示されています。

ここでは、幕府時代の横川に関係のある遺品や関所についての解説が見れます。他にも碓氷峠の鉄道関係のグッズも売られているので、鉄道ファンにはうってつけです。

ビクティニ:横川の町はかつて関所があった場所なんだ。関所から少し先に『坂本宿』があるんだ。

くまモン:なるほど、ここから先は山の中だから山道を越える旅人たちは大変だったんだモンね・・・

 

現役時代の碓氷線のジオラマ

観光案内所には現役時代の碓氷線を再現したジオラマが展示されています。

これは、峠のシェルパといわれたEF63が特急あさま号を支え峠を越えているのを模型で再現させています。

 

碓氷線の写真

また、碓氷線の写真も展示さています。

現役当時の写真もありますが、廃線として線路や架線柱だけが残った新線の跡の写真が飾られています。むろん、新線も廃線になっていますが、今はウォーキングツアーが時々開催されているので、参加すれば自分の目で新線の線路を見ることができます。

 

では、碓氷関所について説明すると・・・

~役人~

幕府時代当時、安中藩が碓氷関所の管理を任されていました。その藩士の中でも有能な者を『番頭』、補佐として『平番』、その他、定附同心と西門番を派遣しました。また、藩領から東門番と関所・堂峯中間を採用し、運営に当たらせていたのです。

当初は番頭と平番の居宅はなく、関所開設後から代々定住した定附同心と門番が関所改めを行い、横川・原の両村が人足を差し出したり、火事や非常時には関所に駆けつける『御用』にあたりました。番頭と平番は勤務日を定め、交代で安中藩武家屋敷から横川まで4里16町(約17.5km)を通勤していたのだそうです。しかし、中山道の往来が増え、取締を強化するため元禄6(1693)年、関所内に番頭・平番の居宅を建てて以降、常駐するようになりました。2名の番頭は当初、半月毎の交代勤務でしたが、常駐後の交代勤務は12時間制となっていたのです。

関門の開閉は日の出から日入りまでと決められており、その際に平番が確認を行い、顔の確認ができる日中から日が落ちる閉門まで行われていたそうです。大名や例幣使(京都から日光へ向かう公家)は時間外でも通れたようですが、それ以外は関所破りとして見なされ、処罰の対象となっていたのだそうです。

 

~法制度~

関所の最も重要な決まりごととして、『制札(せいさつ)』あるいは『高札(こうさつ)』に掲げられていました。これは時代に合わせて、細かい部分は変更されたものの、「関所を通過する者は番所の前で笠や頭巾をとること。乗り物に乗ったまま通る者は戸を開けること。公家や大名が通る際は前もって連絡があるので調べなくも良いが、疑わしい場合は調べること」という内容の内容の三箇条は嘉永2(1625)年以降、廃関まで一貫して立札され、碓氷関所に立札されたのは正保2(1645)年のことです。

関所の手形制度には元和~寛永(1615~1645年)年間、武家諸法度を改定し参勤交代制を確立した徳川家光の治世におおよそ強化・充実され、元禄10(1697)年には女の髪切をしたり、偽装して通関する者を取り締まる目的で『男女制』に『乱心・手負い・囚人・首・死骸』が改めの対象になりました。

のちに幕府の運営が安定し、伊勢参りなどの旅行を目的に一般庶民の通関が多くなったことから、享和(1801~1804年)年間から手続きの迅速化を目的に、女改めは簡単に行うよう指示されたのです。

 

~近囲いと遠囲い~

幕府は中山道に碓氷関所を、信州街道や十石街道などの脇往還には大戸関や西牧関といった裏関所を設け、通行者の監視にあたりましたが、それだけ広い上信国境を無断で通る者を取り締まるのは困難だったといいます。そこで要害地域を指定し、地域の村民に『関所破り』を見張らせました。

この制度は、碓氷関所において『近御囲い・遠御囲い』に区別され、さらに南通・北通近囲いと南辺・北辺遠囲いに分けられます。要害内のうち関所から西にある原村・坂本宿・峠村・入山村、東側の横川村、五科村・新井村・土塩村・上増田村の9つの村では『御関所付き御要害村』に指定され、特に東側は『要害改村』として他領村の者の侵入を監視していたといいます。

入之湯(霧積温泉)は、北辺遠囲い内にあるため、入湯は禁じられていたのですが、安中藩領民のみ開湯が許可されました。ところが、この地域は東側の横川村、五科村・新井村・土塩村・上増田村が所有する場所であったために他の地域が利用するのには入湯手形が必要で、女性には安中藩の裏藩が必要だったといいます。

 

~関所の廃関とその後~

慶長19(1614)年、関長原に仮番所として設けられた碓氷関所は元和9(1623)年、横川の狭地に移されてから約250年ものの長い間、関東の守り神として江戸幕府の治安維持に大きく貢献してきました。

ところが時代は変わり、新政府による統一国家の方針から明治2(1869)年2月2日、全国各地の関所とともに廃関となったのです。すなわち、東西の門は常時開放、石段下を竹垣で塞ぐことで、中山道の往来が自由になったといいます。のちに同年11月2日まですべての関所関連の建物は撤去されました。

廃関後の関所跡地は鉄道や学校、役場の建設などによって大きく改変されていきました。戦後、ここに保管されていた東門の部材が旧松井田町に寄贈され、町民を中心に関所復元に向けて多くの寄付が集められたことから、昭和35(1960)年に東門の復元がなされ、関所資料の保存から碓氷関所史料館も建設。今では、『碓氷関所保存会』完飲の協力から現世にわたって環境整備やガイドの案内が行われています。

 

峠の釜めし弁当
昼食に名物の『峠の釜めし弁当』をいただきます。

今回のは、鉄道開業150周年の記念パッケージです。かつて横川駅から軽井沢や信州へ峠越えをする列車に機関車の連結作業中に、あるいは東京方面へ行く列車の機関車解放作業の間際に売られていたとされる釜飯型の駅弁です。今は横軽の区間は廃止され、ホームでの販売は見られなくなりましたが、今でも全国1位になるほど有名なものとなっています。なお、弁当として使い終わっても、容器は釜飯炊事用あるいは食器としても使えます。

ビクティニ:いただきます!・・・やはり外で食べるとうまい!

くまモン:これが駅弁とはすごいモン!まるで本物の釜飯だモン!いただきます!・・・美味しいモン!!

 

アブト式鉄道に使われる歯車
これは、かつて碓氷線あらため信越本線横川~軽井沢間(以下『横軽』)で使われていたアプト式のレールと機関車の歯車です。

ラックレールを線路の中央に敷き、さらに機関車に取り付けられた歯車を噛み合わせて碓氷峠の急勾配を上り下りしていたのです。そして、横軽で活躍した最後のアプト式の機関車は『ED42型』で、写真の歯車もED42型のものです。アプト式が70年ものの間、毎日のように急勾配を行き来していたということを考えれば、碓氷峠はまさに壮絶な難所だったことが感じ取れることでしょう・・・。その証拠にラックレールの一部が欠けているのかが分かるように、ラックレールが摩耗しています。そういう点から考えれば、保守も大変だったというのが想像できます。今こそ横軽でのアプト式が動いているのが見れませんが、大井川鉄道の井川線に行くと実際にアプト式鉄道の乗車が体験できます。

 

屋外展示場に保存されているD51型

屋外展示場にはD51型蒸気機関車をはじめ、かつて国鉄時代で活躍した車両たちが展示されています。
今回は、D51に999のヘッドマークがついています。

ビクティニ:D51に999のヘッドマークがつけられている。かっこいい!

くまモン:九州では見られない車両ばっかりだモン!あ、でも見覚えのある車両もあるみたい・・・

 

アプトくん
碓氷峠鉄道文化むらの園内にはミニSLや『アプトくん』が走っています。

こちらの『アプトくん』は、文化むらの園内を1周するちょっとしたアトラクションです。なんでもかつてのアプト式を再現しているのだとか。『アプトくん』の機関車はSLか10000型をモチーフにしたディーゼル機関車(?)になります。今回はSLに乗ることができました。SLの煙突から出る煙が凄まじいです。まるで本物のSLです。アプト式鉄道時代の碓氷線では機関車を後ろ向きにして峠を越えていたのでしょう。この機関車は『3950型』をモチーフにしているようです。

 

夜の碓氷峠鉄道文化むら

そうこうしているうちに日が暮れてきました。

夜空の下をD51のヘッドライトが力強く夕闇を照らしています。機関車のそばで見てみると、まさしく銀河鉄道の夜の世界にいるようで、「銀河ステーション」と聞こえてくるようです。

 

特急あさま号189系とEF63
広場の一番奥にEF63と特急あさま号189系がライトを照らしながら展示されています。

この並びを見ていると、まさに横軽廃止の前夜を彷彿させるようです。そして、今年は横軽廃止から四半世紀にして鉄道開業150周年ということもあり、EF63には横軽の最終日当時につけていたヘッドマークが装備されています。アプト時代からEF63の時代にかけて碓氷峠の鉄道物語は104年の歴史が刻まれたエピソードがつまっていることでしょう・・・。

 

夜のEF63重連走行
EF63の重連も見られました。

この姿こそ、まさに現役当時の横軽の姿です!EF63が2台ペアで横軽を通過するすべての列車に連結して碓氷峠を越えていたのです。前回訪れたときは単機でしたが、今回は重連姿で目にすることができました。

 

ガレージのEF63にも横軽廃止時のヘッドマーク装備
入り口のEF63にも廃止時のヘッドマークが装備されていました。

装備されているヘッドマークはおそらく当時物かと思われます。最終日はこのヘッドマークをつけて横川~軽井沢を行き来していたことを思えば、まさに1世紀の碓氷峠の鉄道の歴史に終止符が打たれたかのようです。横軽廃止から四半世紀、そして鉄道開業150周年を記念にして横軽廃止時のヘッドマークをつけてくれたのは、まさに粋なはからいだと思いました。

 

最終列車とEF63の汽笛実演
碓氷峠を越える列車が廃止される1997年9月30日の当日に鳴り響いた、最終列車の『特急あさま37号長野行き』とEF63の汽笛が実演されました。

189系とEF63の甲高い汽笛が横川のまちに響き渡ります。当時は深夜の碓氷峠に終焉の汽笛が鳴り響いていたことでしょう・・・。もし、私が幼稚園時代に家族旅行で軽井沢に行くときに碓氷峠を越える特急で行けたら、もっと思い出がつまっていただろうに・・・。

 

信越本線の普通列車

さて、帰りは普通列車で高崎に戻り、帰路につきます。

帰りは211系普通列車の高崎行きです。1997年以前は、ここから軽井沢へ行く列車や特急列車が行き来していましたが、今や高崎からの信越本線は普通列車やSLが走るだけになっています。横軽廃止時は、多くの見物客でごった返していたことでしょう・・・。

 

高崎駅のレストランにて夕食

高崎駅のレストランにて夕食をいただきました。

夕食はざるそばをいただいてから、帰宅しました。

ビクティニ:いただきます。ざるそばうまい!

くまモン:群馬県のそばも美味しいモン!

 

『【鉄道開業150周年】碓氷峠の関所・鉄道遺産のまち『横川』を歩いてみよう』をお送りしました。