ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

正月旅行 曇り空の日御碕を訪問

みなさん、こんにちは。

今回は正月旅行ということで山陰方面へ旅行に行きましたが、去年に続き大晦日は天気に恵まれないようなので、出雲に到着後、日御碕へ行くことします。

 

関東から広島行きの夜行バスに乗車。さらに広島駅から出雲市行きの高速バスに乗り継ぎ、出雲大社周辺までやってきました。

 

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高速バス休憩時 江の川PA

三次市あたりはそこまで雪は積もっているわけではないのですが、ここから北へ進むと山間部に入るため、積雪があるということが考えられます。ここは出雲方面の高速バスの途中にある『江の川PA』で約10分ほど休憩しました。

ビクティニ:今年も木次線は止まっていると思う・・・。

ミュウ:かもね。

 

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山陰地方に入ると雪が積もっていた

山陰地方(島根県)に入ると、あたり一面に銀世界が広がっています。このあたりは中国山地の日本海側にあるため、特に山間部では雪が積もりやすいのです。

ビクティニ:雪が積もっているよ!

ミュウ:広島駅にいた時は寒くなかったのに、ここまで来ると寒いよね・・・。

 

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出雲市駅に到着

広島駅からバスに乗り継いで約2~3時間・・・出雲市駅に到着です。

ここから出雲大社・日御碕へ行くのには路線バスと一畑電車の2つの方法があります。

路線バスなら出雲大社まで乗り換えなしで行くことができますが、一畑電車で訪問する場合は、便によって途中の『川跡駅』で別の電車に乗り換える必要があるのでご注意を。

 

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一畑電車

ここから出雲大社までは一畑電車を利用します。便によっては、出雲大社前へ行く便の他に、松江しんじ湖温泉行き、あるいは川跡止まりになる便もあります。出雲市駅から出雲大社まで一畑電車で行く場合、出雲大社前行き以外の便は必ず川跡駅での乗り換えになるのでご注意を。

ビクティニ:お、出雲大社前行きだ。ラッキー!

ミュウ:これで乗換なしで行けるね。

 

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電車内にしまねっこ?!

電車に乗ると、車両の中央にしまねっこが居座っています。

しまねっこはいわゆる島根県のゆるキャラで、頭にかぶった出雲大社の屋根を被った、まさに島根をモチーフにしたネコのキャラクターです。しかも、勾玉も持っている所がこれまた愛嬌があります。

ビクティニ:しまねっこ!久しぶりに見た気がする・・・。これで何回目かな・・・?

ミュウ:覚えてないな・・・。

 

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出雲大社前駅

出雲大社前駅に到着しました。

駅舎内は洋風なデザインにステンドグラスの装飾でかなり洒落ています。

この駅は昭和5(1930)年2月に開業し、大社線の開通とともに一畑電車の路線が確立。開業当時は『大社神門』という駅名でしたが、昭和45(1970)年10月には現在の『出雲大社前』に改称されています。以前に訪問した旧国鉄(JR)の旧大社駅が和風な神殿仕様だったのを対照的に、この駅は洋風建築になっていることから、平成8(1996)年に国の登録有形文化財に指定されています。窓に埋め込まれたカラーグラスがあたかも教会のような雰囲気を醸し出しています。

ビクティニ:一畑電車の大社前駅はなかなか素敵な内装だよね。

ミュウ:窓がいい雰囲気出しているね。

 

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外から見た出雲大社前駅

外から見ても、洋風なデザインが否めません。

いかにもどこぞの教会のような雰囲気を醸し出しています。

出雲大社の最寄り駅であるのにも関わらず、駅自体が洋風なデザインであるというギャップもまた楽しいかも知れません。ただ、この駅はちょうど通り沿いにあり、いささかこぢんまりしているので、出雲大社の参拝帰りにこの駅を見つけるのには苦労しそうです。

ビクティニ:この駅を降りれば目の前に出雲大社があるというわけだ。

ミュウ:さすが縁結びというだけあって通りはにぎやかだね。

作者:でも、今回は日御碕に行ってから出雲大社に参拝へ行くことにするよ。

 

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稲佐の浜は改修工事中

今回は出雲大社から路線バスで日御碕へ訪れることにします。

出雲大社から少し西へ行った所に『稲佐の浜』があるのですが、今回の訪問では、景観のための改修工事を行っているようです。

稲佐の浜をすぎると、断崖絶壁の海岸線を延々と進んでいきます。幾度となく続く急カーブとともに長い海岸線をひたすら進んでいくと、日御碕バス停に到着します。

 

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日御碕に到着

日御碕はレンタカーを借りなくても路線バスでの訪問ができますが、バスの本数としては少なめなので、よく時刻を調べてから訪れることをおすすめします。ちなみに、出雲大社連絡所からの運賃は片道510円で訪問できます。

路線バスから降りたバス停は、目の前に日御碕神社の入り口や小さな商店がある広いスペースにあります。帰る時は、商店や日御碕神社の入口のある広いスペースのバス停、または日御碕灯台のバス停で待っていれば乗車できます。

日御碕エリアは、出雲大社エリアより更に先へ行った場所にあり、出雲大社とは違った風光明媚のある港町で遊歩道も整備されています。日御碕灯台をはじめ、日御碕神社、ウミネコ繁殖地である経島、柱状節理の岩場、そして夕日スポットとしても有名です。ちなみにここから日御碕灯台までは徒歩10分ほどで到達できます。また、ちょっと足を運べば『宇竜』『鷺浦』などの港町があります。

 

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焼きイカと焼きサザエ

日御碕はスルメイカやサザエの産地ということもあり、このあたりの商店では焼きイカや焼きサザエなどを提供しているお店は多くあります。イカやサザエを焼いた磯の香りが素朴な港町を実感させます。また、様々な海産物も販売されており、乾燥わかめの他に十六島で採れた『あらめ』も売られていました。余談ですが、十六島の海苔はとても高級かつ稀少なので、わずか10gだけで千円はするそうです。

ビクティニ:タレを漬けて焼いたイカは香ばしくて美味しい!

ミュウ:サザエはちょっと匂いにクセがあるけれど、確かに美味しい!

 

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日御碕神社 入り口

日御碕神社の入り口は、降りたバス停からすぐの場所にあるので分かりやすいです。

入り口に立つ御影石の大鳥居も、神社としての風格を出しています。

この神社は天照大神(あまれたすおおみかみ)を祀る『日沉宮(ひしずみのみや)』素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る『神の宮』からなっています。他に奈良時代に編纂された『出雲国風土記』に『美佐伎社』、平安時代に編纂された『延喜式』に『御碕社』で成り立つ歴史ある神社です。また、日御碕は、平安時代末期(12世紀)に後白河上皇が編纂した歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に『聖のすみか』として登場する修験の聖地でもあります。そこに鎮座する日御碕神社は、戦国時代以降、朝廷や幕府、大名から崇敬を集め、寄進された宝物は社宝として現在まで数多く伝えられているのです。主には『兜(大袖付き)』や『鎧』、重要文化財『藍韋威腹巻(あいかわおどしはらまき)』、他にも貴重な古写本である『出雲国風土記』なども寄贈されています。

ビクティニ:ここは出雲大社とは違ってちょっと閑散しているよ。

ミュウ:それにちょっと寒い・・・。

 

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日御碕神社

ということで、早速参拝します。

日御碕神社は『日沉宮(下の宮)』『神の宮(上の宮)』で分かれています。

唐門の奥に見える『日沉宮』は近くの海(清江の浜)の日置島(経島)に鎮座していたものを村上天皇の勅により、天暦2(948)年に現在地に遷したといわれ、天照大神が祀られています。日沉宮拝殿は、日御碕神社社殿の中で一番大きな建物です。内部は上段の間と下段の間に分かれており、古文書によれば上段の間はかつて『神楽所』と呼ばれていたとされています。

 

 

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日御碕神社 神の宮

素盞嗚尊が祀られている『神の宮』は、現社殿背後の隠ヶ丘(かくれがおか)に祀られていたものを、安寧天皇13年に現在地に遷されたといいます。神の宮本殿は、平成25(2013)年に屋根の葺き替えや金具補修、塗装の塗直しが行われ、美しい姿で鎮座されています。こちらは手前側が『拝殿』、奥の方が『本殿』になっています。

ビクティニ:来年はいい年になりますように・・・。

ミュウ:来年は事件や事故がなくなりますように・・・。

 

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鳥居の向こうには海が見える

もう1つの鳥居の方は、目の前に海が広がっています。この日は海が大しけになっており、岩場や堤防にぶつかった波が大きな飛沫をあげていました。

 

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経島
日御碕神社から海沿いに出ると、小さな鳥居と社が建っている島が見えます。

『経島』という島で、日御碕の西側に面する小さな島です。その島にはたくさんのウミネコが棲み着き、いわば『ウミネコの繁殖地』ともいわれています。かつては天照大神をまつる日沉宮がその島にありましたが、現在では先程参拝した日御碕神社の境内に遷座しています。島自体も日御碕神社の神域でもあることから、立ち入ることができませんが、国の天然記念物に指定されています。

 

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日御碕名物 ウニ入りの海鮮丼
日御碕といえば、海産物が豊富な環境でもあるため、海鮮丼などの海の幸が名物になっています。

日御碕の海鮮丼は、『日本海丼』や『古事記丼』などが美味しいです。中でも『古事記丼』が名物で、ウニやサザエ、マグロ、イカ、甘海老、いくらの他に『ヒラマサ』という魚の刺し身なども添えられています。今回、日御碕に訪れた時に海鮮丼は、『日本海丼』を注文。丼にウニが乗っかっていて、しかもご飯まで酢飯なので、まさに磯の匂いが食欲を注ぎます。

ビクティニ:これまた美味しそうな海鮮丼!いただきます!・・・感激するほどうまい( ;∀;)

ミュウ:これは美味しい!!(^^

シャワさん:わさびとの組み合わせもよくマッチしている!

ゴンベ:うまいっぺ~!

 

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日御碕は大山隠岐国立公園に位置している

日御碕は『大山隠岐国立公園』の中にあるということもあり、海の景観が風光明媚です。

天気が良ければ、美しい夕日が見られることがあります。

こちらの『夕日展望台』では、夕日が見られるスポットの1つになっています。

日御碕は、高さ25メートル(下段)と34メートル(上段)の二つの海岸段丘が非常に高い場所にあります。そのうち、日御碕灯台は下段の海岸段丘に立ち、上段は駐車場や灯台バス停、ビジターセンターなどがある高台にあたります。それらの段丘も、約20~10万年前、ここまでの高さまで達していた波によって形成され、波や海水によって侵食したことから、その上部が平地になったものと考えられます。

岸辺に生えている松の木や岩場、そして海の水平線が日御碕の景観を醸し出しています。また、ここは夕日の名所にもなるということもあり、天気が良ければ美しい夕日が見れます。しかしながら、この日の天候は曇っていて風も強いので、夕日を見るのには厳しいようです・・・。

ビクティニ:今日は夕日が見れるかな?

ミュウ:風が冷たい・・・。

 

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日御碕灯台と海

日御碕灯台と日本海の水平線が見事な景観です。

日御碕は、『島根半島・宍道湖中海ジオパーク』の中にあり、1,600万年前に形成された大社湾岸は、ここから稲佐の浜にかけて泥岩や海底火山の岩石で形成された、まさに太古の地でもあります。

陸地に生える松の木や岩場、灯台、そして雄大な日本海がまさに日御碕の雰囲気を醸し出しています。日御碕の岩場は、約1,600万年前に海底付近で形成された流紋岩(溶岩)の冷却収縮によって生成された『柱状節理』から成り立っています。これは、火山あるいは地中のマグマが大きなドーム状で保ったまま、海底で冷えて固まってできたものと考えられます。すなわち、このあたりは大昔に海底火山があったのではないかと推測できます。また、日御碕の断崖の岩場には、四~七角型の断面で形成された柱状の岩が集まった岩石海岸は、他の地域では見られないことから、なかなか貴重な光景です。

このあたりの海域では、日本海流が対馬海流を交わり、日本海の冷たい渓流と混ざり合い、多様な海洋条件を作り出しています。水深20メートルほどまでの海底の地形は、岩礁をはじめ、岩や砂地、そして海中崖や海中渓谷にいたるまで、極めて多様です。このように海洋の状態が多様で海の水深も箇所によって異なることから、珍しい海洋生物が見られることもあります。また、ニホンアワサンゴ、アミメサンゴなどのサンゴ類が見られるのも、ここが最北限となっています。

整備された岩場の遊歩道は歩きやすいですが、柵などはないので一歩間違えると海へ真っ逆さまになりそうです(汗)。しかもこの日は天気は荒れ気味ということもあり、海は大しけで岩場に当たった波が時々大きな飛沫を上げています。さらに波の音も凄まじく、いささか恐怖感でさえも覚えてしまいました・・・。

ビクティニ:ここから夕日の写真を撮ってたと思うと、懐かしく思う・・・。

ミュウ:でも、今日は風が強いからとっても寒い*1

 

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出雲松島
日御碕灯台から東側を歩いていくと、小さな島々がいくつか浮かんでいます。

それらは『出雲松島』といい、20以上の様々な大小の小島から成り立っています。それらの島々も約1,600年前の火山活動によって地表を覆った流紋岩を波によって浸食されたことから、このようなたくさんの島が入り江に浮かぶ形でできたものです。このあたりはホンダワラ類や様々な海藻が生えており、カサゴやメバルなどの岩礁魚も泳いでいることから、釣りスポットにもなっています。もっとも、この天候では釣りは無理そうですが・・・(汗)

ビクティニ:ここもすごい波だよ!

ミュウ:大きな波が怖い・・・。岩を飲み込んじゃったよ・・・。

 

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日御碕灯台
『日御碕灯台』は、日御碕のシンボルです。

この灯台は明治36(1903)年に完成した歴史のあるもので、島根県では三番目に立てられました。石造りの灯台としては日本一で、高さは43.65メートルあります。地震に耐えられるよう、外壁は石造り、内壁がレンガ造りの二重になっています。これは、海外にはない当時の日本の土木技術の結晶が盛り込まれていることから、歴史的価値があります。そのため、『東洋一の灯台』ともいわれ、国際航路標識協会(IALA)が提唱した『世界灯台百選』の一つにも選ばれています。なお、灯台の石材には、松江市美保関町からの石が使われています。

 

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出雲北山の地質
島根半島は、『国引き大地』とよく言われていますが、実際には人類が存在する前の約2千万年前に大陸の分離や地殻変動などのよって誕生しました。

この地殻変動が起こる最中で、リアス式海岸をはじめ、汽水湖である『宍道湖』や『中海』などの湖も誕生し、豊かな生態系を醸し出しています。

日本がアジア大陸に組み込まれていた2千万年前、地殻変動とともに徐々に大陸から分離された日本が太平洋側へ流れていき、日本とユーラシア大陸の間に海水が浸入したことで日本海が生まれました。さらにその時の火山活動や地殻変動によって、中国地方の内陸が隆起し、現在の『中国山地』が形成されます。

話が少々脱線しましたが、島根半島へ話を戻しましょう。今から約7千万年前(縄文前期)の島根半島は、もともと本土から離れた『島』だったのです。そして、その当時は『出雲平野』は存在していなかったのです。しかし、山地から川の流れとともに砂や土砂が流れ込むことで、のちに『平野』として成形されていき、その島も天然の防波堤となったことで、北風や波を遮り、中国山地から流れた土砂が次第に堆積していきました。そして、島根半島の南西部にある『三瓶山(さんべさん)』の噴火とともに火山から吹き出た火山灰が堆積したことで、まさに『国引き神話』のように、現在の『出雲平野』が誕生し、『宍道湖』や『中海』といった汽水湖も誕生したことで、今の島根半島が形成されたのです。これが、『島根半島・宍道湖中海ジオパーク』といわれています。

その名残として、『日御碕ビジターセンター』では、島根半島に含まれる岩石の種類が展示されています。島根半島の岩石には花崗岩や石英、頁岩、凝灰岩(火山灰によって堆積した岩石)などが含まれています。これらの岩石から約2~1千万年前の地殻変動によって、生じたものであるということが想像できます。例えば、島根半島西部に位置する『出雲北山』も、海底火山の噴火や地殻変動によって隆起した地形の一つであり、その地中に含まれる岩石の大半が日本海の海底から生まれた物が多いということです。いわば、これらの岩石は島根半島の成り立ちを物語る産物であるということが考えられます。なるほど、こうして今の島根半島があるということですね。

 

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川跡駅で一畑電車が並ぶ

さて、日御碕を見たところで、一畑電車で松江しんじ湖温泉へ泊まりに行きます。

途中にある『川跡駅』では、行き先によって必然的に乗換駅になるため、この駅で電車が並ぶと、一時的ににぎやかになります。見た目では小さな駅なのに乗り換えでにぎやかになるのは不思議な光景ですね。ちなみに、ここで乗り換えるのには構内踏切を渡らなければなりませんが、乗客の乗り換えはちゃんと待ってくれるので、そこまで不安がる必要はありません(笑)。しかしながら、既に雪は次第に降り出してきました・・・。

左側が新型の7000形、右側が東急電鉄から譲り受けた1000形です。

 

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松江しんじ湖温泉 足湯

松江しんじ湖温泉駅に到着すると、目の前には足湯があります。バスの待ち時間の合間に足湯につかってみるのもいいかもしれません。しかし、我々が宿泊するホテルはもう目の前で大浴場もあるので、温泉には困りません。

 

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松江での夕食

松江の夕食といえば、やはり海の幸が一番!そして、しじみ汁も欠かせません。

ただ、しんじ湖温泉周辺は夕食が食べられるところは少ないため、松江駅周辺か松江城周辺まで歩いていくかバスで行く必要があります。また、我々が夕食をしようとしたときには既に混んでいたため、30分近くも待たされ、ようやく夕食といったところです。しかし、ようやく番が来たときの夕食は美味しかったです。松江は、日本海海の幸が美味しいということで、お刺し身にご飯、しじみ汁を頂きました。やはり島根名物は美味しいです。

ビクティニ:さっきの海鮮丼も美味しかったけど、お刺し身もうまそう!いただきます!・・・うまい!

ミュウ:仁多米かな?美味しい!

ゴンベ:うまいっぺ~!

シャワさん:しじみ汁があったまるぜ!うまい!

 

『曇り空の日御碕を訪問』をお伝えしました。

*1:+_+

秋の会津&佐渡紀行2021 佐渡島は金の宝庫であった!佐渡金山を見学

みなさんこんにちは。

今回は、佐渡金山を見学します。

 

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佐渡の朝食

佐渡の旅館での朝食も、佐渡らしく鮭の塩焼きや湯豆腐などの和物が出ていて美味しかったです。

 

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旅館から観る加茂湖

旅館の部屋から見える加茂湖も広々しいです。

しかし、この日の天気は雨気味で加茂湖はややどんよりしています。運が良ければトキが飛ぶ姿が見られることがあります。

 

★両津エリア(ホテル)から佐渡金山へのルート★

朝9時にホテルを出て佐渡金山までクルマを走らせます。佐渡金山のある『相川エリア』は両津エリアとは東西反対の場所にあるため、40~50分ぐらいかかります。

 

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佐渡金山

ということで、佐渡金山に到着しました。

佐渡金山は、慶長6(1601)年に発見され、徳川家康の手によって開発された鉱山です。

この鉱山はおよそ400年近くもの間に採掘が続けられ、鉱山としては寿命が長かったのです。これは世界的に珍しい鉱山と言われています。江戸時代には徳川幕府の財政を支えたともいわれ、17世紀当時は金・銀の生産額は、南米のポトシ鉱山(ボリビア)やサカテカス鉱山(メキシコ)などとならび世界的に屈指の鉱山として栄えていましたが、平成元(1989)年3月には、資源枯渇のため、操業は約400年の歴史を刻み廃止となりました。

ビクティニ:昔はここで金を採っていたんだね。

ミュウ:ここは鉱山だったからね。

 

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釜の口
佐渡金山の入り口には、『道遊坑(どうゆうこう)』『宗太夫坑(そうだゆうこう)』の二つに分かれています。

ここは『釜の口』という間歩(坑道)の入り口で、柱を四本に建てて構築したことから『四ツ留』とも言われていたのです。ここでは『宗太夫坑コース』から見学します。

ビクティニ:鉱山の中を探検してみよう。

ミュウ:これまた洞窟みたいなところへ入るのかな?

 

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宗太夫坑の間歩(まぶ)
『宗太夫坑』は、江戸時代初期に造られた坑道で『間歩(まぶ)』といわれています。

ここは作業責任者あるいは位置などから、その名前が付けられた他、『青盤間歩』などと名付けられたそうです。そして、この坑道のトンネルは江戸時代に造られたため素掘りのままになっています。

宗太夫坑は、坑口の高さが約3メートル、幅2メートル、坑道の断面が大きい江戸初期に開坑された大型坑道とされています。また、平成6(1994)年には国の史跡に指定されています。

ビクティニ:昔の人たちは、ここを通って金の採掘作業をしていたのだろう。

ミュウ:まあ、ここはもともと作業用のトンネルだもんね。

 

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金の量産についての歴史
佐渡金山での金採掘の歴史は、江戸時代より始まりました。

佐渡で採掘された金は、もともと当時の徳川幕府(江戸幕府)の御用達でもあったことから、江戸時代の年間産出量が約700~800kgと当時としては多かったと思われます。そして、明治以降に入ると採掘技術の向上とともに、昭和末期まで金の総産出量は次第に最盛期になっていきました。

江戸時代では、鶴子銀山の山師こと三浦治兵衛をはじめ、渡辺儀兵衛、同弥次左衛門によってこの『相川金銀山(現在の佐渡金山の一部)』が発見したことから始まり、徳川家康の支配下にありました。当時の相川は次第に金で栄えていったのです。そして元和7(1621)年には佐渡で初めて小判が造られ、のちに様々な形の小判が量産されていきました。金の他にも銀や銅などの産出量も豊富だったようです。ちなみに最盛期の総産出量では、金が約16.3トン銀が約285トン銅が約3千2百トンあったようです。これだけの生産量を見ると金はそれだけ貴重なものであるということが解ります。

 

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日本における主要金銀銅産地および輸送ルート
日本の金銀銅の採掘地は佐渡だけでなく、島根県の『石見銀山』や栃木県の『足尾銅山』など、東北から九州の各地にかけて採掘が行われていました。

言わずもがな、佐渡から採掘された金銀銅は北前船を使って各地へ運ばれていたことが想像できます。そして、佐渡で採掘された金は江戸(現在の東京)へ運ばれていったのです。

日本における金の使用の歴史は古代の金印から始まったとされていますが、通貨として流通が始まったのは豊臣秀吉の天正大判、小判からともいえるでしょう。以後、各地の大名の開発により発行量が増大。近世の繁栄のさなか、物資は豊かに全国的に行き渡り、従来の米価体制と金銀銅貨の通貨体制が合わさり、二重の通貨経済となったのです。

 

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金の採取方法について
佐渡で金を採取するに様々な方法が用いられました。

西三川エリアでは、『砂金採取』という方法で、『大流し』や『敷掘り』という方法で採取していました。採取方法としては、川床や海岸、あるいは砂利山の中に混じっているもので、佐渡では中世の頃から採取されていました。土砂を掘り出して水辺へ運び、金の比重が水の20倍ほどあるのを利用し、水中で土砂を篩い分け金粒を取り出します。これを『板取り』といい、中世の頃の当時は精錬の技術が未発達だったため、採取した砂金に熱を加えることで、金の塊を造る程度しかできなかったのです。

佐渡金山である相川金山では、『山金の採取』が行われていました。山金は、岩石中にある金のことで、坑道素掘りを行うことで採取できます。相川金山は、初め地表に露出した鉱脈を掘っていましたが、当時の坑道掘りの技術では約4百年前の文禄年間に、石見国(島根県)から来た鉱山開発者によって伝えられたことで、出鉱量を増大させました。掘った鉱石は繰り返し選鉱され、さらに灰吹法などの新技術で精錬され、高純度の金銀を得るようになったのです。

相川地区の海岸沿いでも、金銀山の出鉱量の減少を補うため、『浜流し』といわれる方法で近世中期頃より初められました。これも西三川エリアと同様、川や海岸に堆積した捨石や砂から金銀分を含んだ鉱石や砂金を再回収することを目的としています。時には民家の石置屋根の石などまでも対象としています。それらは、『外吹き買石』と呼ばれる専用業者により選鉱され、精錬工程も他の山金と同様に行われていました。

 

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水上輪(すいしょうりん)
坑道の途中には、当時の様子を再現させるために人形が動いています。
江戸時代における佐渡金山では、このように多くの人手によって、金銀銅が採掘されていました。

江戸前期の承応2(1653)年、佐渡金山にもたらされた坑内排水(揚水)ポンプ、紀元1世紀の頃、ギリシャの哲学者・物理学者のアルキメデスが考案した『アルキメデスポンプ』が祖形とされています。それを京都にいた水学宗補(すいがくそうほ)がこの佐渡金山に伝えられました。承応2年から用いられていた水上輪を操作する樋引人足は、高賃金を稼げることから、農家の次男、三男が稼ぎに来ていたといいます。のちに無宿人も使われたものの、意外と少なかったようです。

ここは『杉右衛門断層』という佐渡金山の西端に位置し、南北に1.5km伸びる大きな鉱脈を断ち切っています。その鉱脈は『立合(たてあい)』といい、ここには石英脈の中に金銀が含まれていることから、石英脈を『白立合』と呼ばれていました。

このように石英岩を含んだ佐渡金山の坑道は、開山から百年足らずで海面下に至っています。坑道が深くなれば地下水が多くなり、水との戦いが採掘量に影響しています。

江戸時代、採掘坑を『間歩』、採掘場を『敷』、そして鉱石のことを『鏈』と呼んでいました。その間歩を取り仕切るのが山師であり、間歩の名前は山師の名前で付けられる事が多いようです。そのため、上下に連なるこの坑道は『宗太夫』という山師が稼行したものであり、江戸時代の姿が当時の状態で残っていることから、国史跡に指定されたのです。

 

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坑夫(金掘大工と荷揚げ掘子)

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山留大工(やまどめだいく)
『金掘大工』は坑内で採掘作業を行い、『荷揚げ掘子』は坑内で採った鉱石を大工頭(現場監督)のところに運び、叺(かます)に入れた鉱石を坑外へ運ばれます。

佐渡金山の岩盤は硬いですが、断層や岩質によって崩れやすい部分がある場合は、支柱で補強し坑道を維持していたのです。その補強工事を『山留普請(やまどめふしん)』といい、その工事の責任者は山留大工が担当、手伝堀子、丁場掘子を使い工事を行っていました。留木材は、島内から集められた栗や楢の木を使っていましたが、需要に追いつかなかったことから、島外からも木材が運び込まれたようです。

 

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掘子たちの出入り改め

坑道の出入り口には検問所があり、掘子たちが鉱石や物資の不正持出しをしないようにするため、また運搬人の出入りを記帳し、賃金支払いの目安とするために行われました。坑内には、留木・油・たがねなどが持ち込まれ、掘子が坑内に運びます。『掘子』とはいわば坑内の雑役夫であり、運搬から作業の手元まで、現場の作業内容に応じて五種類に分けられていました。

 

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風送り掘子
坑内は、地上と違って酸欠になりやすい過酷な環境でもありました。

水上輪や手繰りの桶で汲み上げた水は、掛樋を通して排水坑道に集められ、坑外に排出されていました。また、灯火からの油や煙、石粉の立ち込めた坑内では酸欠になりやすい環境でありました。そこで、酸欠を防止するために『敷(しき/採掘現場)』に風を送る『唐箕(とうみ/送風機)』が使用されます。その操作をするのが『風送り掘子』です。『唐箕』は酸欠防止の道具として用いられました。また、採掘中に坑内で湧き出た水は、樋で横持ちし、斜面は水上輪を、垂直には『ツルベ』が用いられました。さらに平面ではこのように樋を使い坑外へ運び出す『掛樋(かけどい)』も設置されました。

照明は当初、松蝋燭や紙燭が使われていましたが、天和年間(1681~)より鉄製の柄のついた『釣』が登場したことで、携帯用照明として重宝されました。

 

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休憩所(金掘大工の生活)
佐渡金山では、たがねや槌(つち)を使って鉱石を掘る坑夫のことを『金掘大工』と呼んでいます。

金掘大工は、坑内の労働者の中において、技術者としては賃金がよくゆうぐうされていたのです。採掘は4時間毎の交替制で食事や休憩時間も設けられ、筵(むしろ)の上で横になることができたといいます。ところが、作業中も休憩場所も地中で過ごしていたため労働環境が悪く、一般的にその過酷な労働に耐えられずに辞めた坑夫も多かったようです。

 

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水替人足(みずかえにんそく)と無宿人(むしゅくにん)
江戸時代の半ばから地中の鉱石を求め坑道がますます深くなると、水揚げ機の使用がままなりません。

そこで手繰り水替による人海戦術が見直されることになります。水替人足の労働時間は隔日交替の一昼夜勤務できつかったものの賃金はよかったのです。しかしながら、常に人員不足だったこともあり、安永7(1778)年より幕末までの約90年間、江戸をはじめ大坂や長崎などの無宿人を水替人足として受け入れるようになりました。それでも記録によれば、その数は1,874人ともいわれ意外と少なかったそうです。なお、無宿人の賃金としては1日に付き米飯が1升2合・味噌・醤油・野菜などの他、塩代や小遣いなどが支給されたようです。他にも年間仕事着ミノ・笠代・布団代も支給されたそうです。

 

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炭鉱坑道(狸穴)
金鉱脈をさがすために、縦横無尽に掘り進められます。

鉱脈が見当たらい時は、脈の方向を推定し、直交する向きに開削していきます。小規模なものを『切山』といい、高さや幅も、かろうじて人が出入り出来る程度のものだったのです。そのうちの穴が『狸穴』といわれ、細い鉱脈をたどりつつ掘り進んだ坑道で、ようやく位の小さいものが多かったようです。

 

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採掘作業
採掘作業の様子です。

採掘を行う際、金掘大工は『たがね』『上田箸(うえだばし)』ではさみ、『槌(つち)』を用いてたがねを打ちながら採掘作業を行っていました。そのうち、上田箸はたがねが短くなってもつかむことができ、しかも手元の安全を守るのにも役立ったといいます。たがねは2日で1本消費されます。短くなったたがねは、坑外の『鍛冶小屋』に運ばれ再生されるというサイクルになっています。そして掘った鉱石は、大工頭が品質を確認したのち、区分けして運び出されます。

金掘大工の作業としては・・・

引立掘(ひったてぼり)・・・水平方向に掘る

冠掘(かんむりぼり)・・・上向きに掘る

台掘(だいぼり)・・・下向きに掘る

・・・といった感じでたがねや槌を使って鉱石を採掘していたということです。

 

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採掘に使った道具
実際に採掘作業で使われていた道具はこれがそうです。

『たがね』を『上田箸』にはさみ、尖ったのを掘る方向にあてて『槌』で打ち付けて採掘をしていたのです。『上田箸』は、たがねを挟むためのやっとこで、信州上田より来た山師(上田久二)が考案したものだそうです。

 

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間切改め

間切は、高さや幅、高さを決め、見積もりを立て掘った大規模な探鉱坑道のことをいい、奉行所が請負業者に発注されます。これは、坑内に大道を開く意味から、『大道間切』ともいわれていたそうです。掘られた間切は発注通り、あるいはどれだけ進んだかを検査を行います。その検査を『間切検査』といい、諸役人や山師、振矩師(ふりがねし/測量師)で行われます。紙のこよりを固くより作った『てへん』といわれる被り物をしている人は役職をもっています。

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捨て石も選られ精錬所へ

江戸時代中期には鉱石が減少し、一旦捨てた柄山(鉱石が含まれていない捨石)も回収され、粉成し精錬されるようになります。それらは捨石や拾い石を専門に精錬する『外吹買石(そとぶきかいいし)』という精錬業者のところに運ばれます。

 

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鉱脈を探すための狸穴

さらに、『狸穴』という坑道にて細い坑道をたどりつつ大きな鉱脈を探します。その際、腹ばいで移動しなければならなかった上、落盤事故のリスクも重なるため、それだけ非常に過酷な現場であったことが伺い知れます。

 

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探鉱坑道(ひ押坑道)

このあたりの坑道は、『金銀鉱脈(白い石英)』をたどりながら、たがねや槌を使いながら掘っていました。この写真の薄緑色の母岩は『凝灰岩』で、火山灰が凝固したもので、約3千万年前のものとされています。ということは、大昔は火山があったと考えられます・・・。

 

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間歩開き祝い

奥の壁面に浮かび上がる縞模様が立合(鉱脈)で、その模様の黒い縞には多量の金や銀が含まれています。その富鉱帯を見つけると、祝いの儀式が行われていました。これがその間歩開きの祝いの儀式が行われている様子です。採掘を請け負った山師や金児が見守る中、棚の上では佐渡金山に伝わる独得の祭礼『やわらぎ』が行われていました。これは硬い岩盤が少しでも和らぐようにという祈りの神事のことで、山の神の心を和らげるという意味合いもあったのです。

 

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宗太夫坑 坑口

宗太夫坑の坑口は江戸時代らしく坑柱で構成されています。

 

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佐渡の金鉱石

佐渡島の金鉱石には、白い石英の中に黒の縞模様が見えるものが多いのですが、これは銀の硫化物であり、その中に光っている粒が『自然金』いわゆる佐渡の金なのです。

 

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江戸時代の金貨
江戸時代から使われていた金貨は、イメージで分かるように『大判』『小判』が使われていました。

慶長から万延の時代にかけて墨入りの立派な大判が使われていたと思うと、持ち運びも大変だったことでしょう・・・。小判より更に小さい『一分金』もありました。佐渡で作られた金貨には裏面に『佐』の字が刻印されているのが特徴です。そのことから『佐字(さのじ)』とよばれていました。ちなみに大判に含まれる金は5割弱、小判や一分金には5~8割弱含まれているようです。

 

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佐渡小判と佐渡一分金

『佐渡小判』や『佐渡一分金』は、唯一佐渡に現存する唯一の鑑定書付きの小判ならびに一部金であり、享保年間(1716~1724年)に製造されたものと言われています。保存状態が非常によく、小判裏面の右上端には佐渡を表す丸に『佐』の文字が刻印され、小判師刻印は丸に『又』の文字、吹屋刻印は丸に『神』の文字が刻印されています。それらの刻印を『座人印』といい、筋神、利神、高神、又神の四種に限られています。そのうち『又神』は稀少な組み合わせです。

品位:金861/銀139 量目:小判17.78g 一部金4.43g

 

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道遊坑コース入り口
つづいて『道遊坑コース』も見てみましょう。

ここは、明治32(1899)年に開削され、佐渡金山の近代化に大きく貢献した明治官営鉱山です。この坑道の奥には、平成元年までに採掘されていた採掘跡が今でも当時のままで残っています。

 

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金銀鉱脈のできかた

佐渡島に金銀鉱山ができたのは、地下数千メートルに地下水がマグマの熱によって高温数百度かつ高圧の状態(熱水)で地中に存在します。その熱水に、金銀などの金属分が長い歳月をかけて溶け込みます。火山活動によってできた断層や岩石の割れ目に熱水が吹き出し、水中に含まれる金銀分が冷えて沈殿したものが、いわゆる『金銀鉱脈』なのです。

地盤が隆起したことで表面が削り取られ、『金銀鉱脈』が地表に露出した部分(露頭)

が多くあったことから、現在の『佐渡金山』として形成されたということです。

 

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金鉱石

佐渡金山には、八つの主要金銀鉱山が走っており、いずれも金銀を含む石英脈であり、その規模は東西約3千メートル、南北約6百メートル、深さ約8百メートルに及び、平均脈幅は1~10メートルあります。平均品位は、鉱石1トンあたり金が約2.4~8.0g、銀が約50~120g。その白い石英脈の中に含まれる黒い縞模様が『銀黒』という銀の硫化鉱物であり、その銀黒の中にわずかながら金が含まれています。

 

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江戸と明治の運営体制
運営体制も時代ごとならびに明治維新とともに変化していきました。

江戸時代では、江戸幕府や佐渡奉行所をを通して、山師による掘削作業、買石による精錬業者、坑夫、仕事師などで構成されていました。明治時代では、明治政府や官営佐渡鉱山をはじめ、技術の進歩とともに日本人技術者の他に外国人も雇われます。江戸時代では山方役や筋金役で構成されていたのに対し、明治では部屋頭という制度に変更されているものの、下の役で坑夫や職人が構成されているのは一緒のようです。

 

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次助坑

この坑道は、江戸時代では『次助坑』と呼ばれていました。このあたりも鉱柱で構成されています。

 

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道遊坑

道遊坑は、道遊の割戸直下の金鉱脈(道遊脈)を採掘するため、明治32年に開削。さらに昭和6(1931)年には約1km先にある大竪穴坑とつながり、『通洞坑』と呼ばれるようになりました。地下深い場所で採掘された鉱石は、大竪穴坑経由で道遊坑内を通って高任粗砕場まで運ばれる作業を平成元年の閉山まで続けられました。このように明治維新の進歩とともに貢献された経緯から、『国の重要文化財』に指定されています。

 

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煙穴
この坑道の右上の小さな穴は、『煙穴』という江戸時代の手掘り跡です。

これは深い穴の中で作業を行うため、酸素が不足し、さらに灯火用の油や機械からの油などで煙が充満しやすい環境でもありました。そこで、外から空気を取り入れるために、このような小さな穴が掘られたものと考えられます。

 

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トロッコのレール
道遊坑の坑内には、鉱石や資材などを運搬するためのトロッコレールが敷設されています。

『警笛鳴らせ』の標識も時代の進歩を感じさせられます。この坑道は先程の宗太夫坑とは対照的に近代化しているようです。

 

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機関車とトロッコ
鉱物を運ぶために使用された機関車やトロッコが展示されています。

鉱物の運搬に使用された機関車は2トン蓄電池式のものです。鉱物の他に作業員や人車、台車の牽引に使用されました。その機関車は日本輸送機製で、佐渡金山では昭和13(1938)年に6代が導入されています。現在展示されている機関車は昭和30~40年代のものが主で、平成元年の閉山まで使用されていたものです。この機関車は、1トン鉱車だと10両ほどの牽引ができ、3段階に調節可、時速12~13kmで鉱物を運んでいました。24個の蓄電池が装備されており、作業が終わった後は充電されていたようです。機関車に連結されるトロッコは『鉱車』といわれ、採掘現場ならびに立坑経由で鉱石や廃石を運搬する場合に使われていたものです。これらの鉱車には約1トンの鉱石を積むことができます。これは立坑のエレベーターに積めるような大きさで設計され、手押しで出し入れができるよう、取っ手が設けられています。これは昭和20年代から使われたものとされています。

 

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佐渡鉱山坑内平断面図

当時の佐渡鉱山は、このように複雑に入り込んでいます。そのうちの『宗太夫坑』や『道遊坑』もほんの一握りだということを感じさせられます。

 

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道遊坑 採掘跡
明治期の金鉱脈(道遊脈)の採掘跡です。

ここが『道遊の割戸』の真下に位置しています。道遊脈は、山頂からこの付近までほぼ垂直に走っており、脈幅10メートル、長さ120メートル、深さ100メートルに及びます。その鉱脈を採掘するため、明治32年に道遊坑が掘削が行われ、閉山までその作業が行われていました。

 

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道遊の割戸 直下採掘跡

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道遊の割戸
佐渡金山の山頂部は江戸時代初期に手掘りで採掘され、山が割れたような形になりました。

そのような形になったのは山頂直下で垂直に採掘作業をしていたため、あのような形になったと考えられます。中腹部では、発破によって鉱石がこの付近に落とされたことで、トロッコに搭載して運搬していました。そのため、稼働していた頃は中腹から発破音や光を発していたようです。

 

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トロッコのトンネル
明治期の鉱脈にはトロッコ用のトンネルまで整備され、稼働時にはトロッコがここを行き来していた場所です。

しかしながら、ここはトロッコの他にも作業員が通ったりすることがあるため、待避所や休憩所が設けられています。手前の左側の穴の奥には『無宿人休憩所』が設けられ、その坑口は江戸時代の手掘り跡です。そのため、明治時代に坑道を開削する時も、そのまま塞がずにしたとされています。

 

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道遊坑 坑口

道遊坑の坑口は、明治時代に造られたものなのか、石材で構成されています。まるで鉄道用のトンネルのようです。

 

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機械工場
機関車やトロッコを整備するための機械工場も存在していました。

この工場は昭和初期に建設され、ここで機関車やトロッコの整備や修理の他に削岩機用のたがねもここで造られました。また、機関車の充電もここで行われていました。他にも、坑内には機関車の向きを変えるためのターンテーブルも設けられています。ここも国の重要文化財に指定されています。

 

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高任坑と立坑

鉄製の朱い櫓が高任立坑で、その左側には高任坑があります。

 

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佐渡金山 出口

佐渡金山の出口に出ました。

『宗太夫坑』も『道遊坑』も、見学後はここから出ることになります。

お疲れさまでした。

 

★おまけ★

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金箔ソフトと新潟名物『笹団子』

佐渡金山の出口では金箔ソフトや新潟名物の笹団子がいただけます。

ビクティニ:金箔のソフトってなんか意外と美味しそうに見えるし、なぜか幸せな気分(^^

ミュウ:笹団子も美味しいよ(*´∀`*

 

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佐渡名物 海鮮丼

海鮮丼や寿司など佐渡近海でとれた海産物は絶品です。

ビクティニ:やはり佐渡のお魚は美味しいよね!いただきます!うまい!

ミュウ:わさびがちょっと辛い・・・。

にょろもう:エビ汁もうまいよ。

ゴンベ:すごいボリュームだっペ!いただきますだ~!ガツガツ・・・うまいだ~!

 

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佐渡歴史伝説館

ここでは、佐渡にまつわる伝統や芸能・文化などの歴史をロボットによる劇場形式で紹介しています。順応天皇・日蓮聖人・世阿弥をはじめ、おけさ伝説・夕鶴伝説・安寿伝説など佐渡ならではの昔話が劇場形式で上映されています。佐渡の昔話を知るのには楽しいスポットです。

ビクティニ:佐渡にはこんなお話があるんだ・・・。

ミュウ:みんな人形でお芝居してるんだね。

 

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最後はトキでおわかれ

最後までご閲覧おつかれ様でした。最後にトキ親子の写真で佐渡を後にします。

ありがとうございました。

 

おわり

秋の会津&佐渡紀行2021 佐渡島のたらい舟&北前船の寄港地“宿根木”

みなさん、こんにちは。

今回は、佐渡島の小木エリアを回ります。

国道350号線を小木方面へ下り、クルマを走らせます。両津エリアから車で行くと約1時間ほどかかります。離島とはいえども沖縄を除く日本の離島で一番大きい島です。なので離島だからといって移動時間を見くびってはいけません。島内をクルマで移動する時は、時間に余裕を持って行くことをおすすめします。ちなみに佐渡島の面積は854.5k㎡、外周約260k㎡あり、それだけ結構広い島であることが伺えます。また、クルマで移動する時は狭い道路駐の車にも注意が必要です。

 

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佐渡 たらい舟

2021/12/18/秋の会津&

佐渡といえばトキが暮らす島で有名ですが、『たらい舟』も名物の一つです。

女船頭さんが漕ぐたらい舟は、まさに佐渡の風物詩です。希望すると自分で漕ぐこともできます。たらい舟が考案されたのが明治初期とされ、もともと洗濯桶だったものから改良を重ねて現在のたらい舟になったと言われています。もっとも佐渡島南部にあたる小木海岸は岩礁や暗礁が多いこともあり、そこで漁をするのには、小船より小さいたらい舟の方が小回りが利く上に自由に操作できるように考案されたのがその『たらい舟』なのです。かつては『磯ねぎ』と呼ばれる漁が盛んで、サザエやアワビ、ワカメなどを獲るのに使われていました。小木海岸では、現在でもたらい舟を使った磯ねぎ漁が行われています。こうして明治から続いてきた伝統的な磯ねぎ漁が今でも引き継がれているのです。

 

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たらい舟に乗ってみると・・・
たらい舟には樹齢約60年の杉と長さ10メートル以上の真竹が材料として使われています。大きさとしては縦180cm、横140cm,深さ55cmの楕円形になっています。
磯ねぎ漁をするときは、箱めがねやタモ、サザエをつくヤス、アワビを引っ掛けて岩から剥がすケイガキ、ワカメを刈るカマが使用し、海産物を獲ります。

観光でたらい舟に乗る時は、立ったままだと転覆してしまうので、乗ったら座ります。たらい舟に乗っている時は必ず座ったままで決して立たないようにしましょう。また、たらい舟から降りる時は、特に落ちる危険があるので注意が必要です。

たらい舟は、本来なら磯ねぎ漁のために使われるものですが、過去にはここから本州の柏崎港までの約60kmにおよぶ佐渡海峡の横断が約16~17時間にわたって漕いだことがありました。これは佐渡と柏崎を結ぶ『佐渡情話』にあやかったイベントだったそうです。

ビクティニ:これでここから本州まで行けたなんて、もうギネスものだよね。

ミュウ:昔はこれを使って漁をしていたんだね。

 

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小木の岩礁で獲れたサザエとイカの浜焼き
小木海岸の岩礁で獲れたサザエやイカの浜焼きもいただけます。

その場で焼いてくれる海産物は焼きたてで美味しいです。他にもおけさ柿や様々な海産物などがお土産で売られており、地方発送もしてくれるので自宅で佐渡の海産物をいただきたい人には嬉しいでしょう。

ビクティニ:焼きたてのサザエが香ばしくてうまい!

ミュウ:焼きイカもいい匂い!

にょろもう:イカ美味しい!

ゴンベ:ほっぺたが落ちそうだっぺ~!

 

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矢島と経島
小木海岸沿いの入り江には『経島』『矢島』の小さな島が二つ浮かんでいます。

このあたりの入り江は波が穏やかで、陸から島につながる朱い太鼓橋がいい感じに風景を醸し出しています。『矢島』はその島に生える竹が良質であり、源頼朝がヌエ退治する『平家物語』で使われた矢の材料として使われたことからその名前がついたといいます。また、『経島』は日蓮の放免状を携えた高弟の日朗が嵐にあい漂着したのがその島で、読経し一夜を明かしたことからその名前が付きました。また、このあたりの入り江は波が穏やかということもあり、時々たらい舟で磯ねぎ漁が行われることもあります。

※矢島と経島は小木港から車で5分と近いですが、途中の道がちょうど1車線分しか無いくらい狭く坂も急なので、訪問される場合は十分にご注意を。

 

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北前船の寄港地 宿根木

小木エリアよりさらに先へ車を走らせると、『宿根木』という木造建築の民家が集まる集落が見えてきます。

ここは、かつて佐渡金山が栄えていた17世紀を経て北海道から大坂や瀬戸内を結ぶ北前船(別名:千石船)の寄港地にして北前船の交通や物流で栄えてきた伝統的建造物群保存地区なのです。

それもそのはずこの集落は廻船業の生きた町並みであり、北前船もここの船大工たちによって造られたといいます。北前船は荷物の運搬だけでなく、寄港地で安くかつ良い品物があれば買い、船の荷物に高く売れるものがあればそこで売るなど、さまざまな商材を取り扱う商売をするために日本海を航海する商船のことです。その船は『米を一千石(150トンの米)を積める大きさ』という意味から、日本海側では『千石船』とも呼ばれていました。北前船の中でも、一番大きなものだと2千4百石も積むことができ、巨大な帆一枚で逆風でも進むことができる優れた帆走性能をもっています。このように北前船が様々な物資の運搬を担ってきたことで、北海道のアイヌ文化から西日本の和の文化にかけて、食から衣類、工芸品などの様々な文化も運んできたのです。佐渡から各地へ運ばれた代表的な物資でいうと、米や酒、海産物などがあたると思われます。まさにそれぞれの異文化を結んだ『総合商社』的な存在だったといえるでしょう。

 

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宿根木の町並み
宿根木の町並みは、車が通れないほど狭い路地がまるで迷路のように入り込み、百棟を超える板壁の民家が密集しています。

この町並みも千石船を造った船大工たちによって築かれ、それらの歴史的建造物が当時のまま、現在でもなお大切に保存されています。その建築物の中には建築100年のものもあれば200年以上のものまであり、まさに当時の全盛期を物語っていますね。

※保存地区とはいえ住民の方々が生活していますので、見学される場合は住民の方々の迷惑にならぬよう配慮しましょう。また、ゴミなども持ち帰りましょう。

 

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北前船邸宅 宿根木 あなぐち亭
密集した集落の中に佇む古民家を活用したカフェもこれまた洒落ています。

こちらは『北前船船主邸宅』として江戸末期に建てられたもので、今年で築160年だそうです。ここは『穴口(あなぐち)』と呼ばれ、廻船主こと佐藤伊左衛門家の邸宅だったのです。今では『あなぐち亭』としてかつては船主邸宅の一部を改修し、カフェになっています。千石船で越前から運ばれた笏谷石(しゃくだにいし)の敷石や庭園に趣が感じられます。また、建物後方には食料などの保存に使うための『室(むろ)』も現存しています。

 

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かつての北前船船主邸宅での喫茶は格別
当時は北前船船主の邸宅だったということもあり、素敵な庭園を眺めつつ食事やおやつタイムを楽しめるのがまた格別です。

ここは集落内で唯一、風光明媚な日本庭園を有した趣のあるお屋敷になっています。店内は建築当時からほぼ変わらぬ雰囲気で、タイムスリップというか、まるでどこぞの田舎の家に帰ってきたかのような感覚を想わせます。

ビクティニ:まるで時が止まったかのような空間でおやつを食べていると、ふるさとを思い出すほど懐かしい気分・・・。お庭を見ていると山陰を思い出す・・・。

ミュウ:パフェの果物も佐渡のものを使っているよ、美味しい(*´∀`*)

 

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手作りの窓ガラス
このお屋敷は、何もかもが当時から変わらぬ姿で残っている貴重なものです。

例えば、この窓ガラスは現代のものとは違い、ガラス職人の手によって造られています。窓枠をよく見れば解るように、若干波打っているのがお解りいただけるかと思います。そう、この窓ガラスはいわゆるガラス職人が造った『手作りのガラス』なのです。ご主人の話によると、幕末あるいは明治期に造られたもので、その時代のガラス職人が造ったものなんだそうです。こうして150年以上の時が流れても、当時の状態で綺麗に保っているのはかなり貴重ですね。

 

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北前船邸宅 二階の様子
おやつをいただいた後、二階にもお邪魔しました。

二階の居間には掛け軸や調度品などが綺麗に並べられています。それらも全部当時物だそう。そして、このお部屋の梁や障子なども、みな当時とは変わらぬ状態で残っています。ここにいると、まるで田舎のおばあちゃんの家に帰ってきたかのように心が安らぎます。

 

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二階の欄干
欄干の模様も美術的な装飾が施されています。

欄干に刻まれた装飾の絵は松や竹など、いかにも風流な感じに彫られています。他にも佐渡らしくトキも彫られているのでしょうか。この彫刻を見ていると、以前に萩市で泊まったとある旅館を思い出します・・・。

 

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宿根木の屋根
小木や宿根木の民家の屋根には、『石置木羽葺屋根(いしおきこばぶやね)』といわれる、まさに昔ながらの石屋根が用いられています。

というのも、佐渡は日本海に囲まれている環境にあるため、海上からの強風が吹き荒れることがあります。また、冬季には積雪地帯になるため、雪の重みで民家が潰れてしまうことも考えられます。そこで、その強風や台風、雪などによる災害から屋根を守るため、杉の木でできた板張りの屋根の上に石を並べているのです。かつての日本ではこういう石置き屋根の民家は見られたのかもしれませんが、今ではこのような石置き屋根の民家はほとんど目にすることはないので、かなり貴重な光景です。まさに当時の面影を感じさせてくれますね。

 

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宿根木の集落を散策
宿根木の集落を散策してみましょう。

信じられないくらいに狭い路地に細い水路など、当時の生活が感じ取れます。民家の壁も木の板で張られて、建物の形や大きさもまちまちです。これまた不思議な雰囲気ですね。というのも、宿根木の民家はほとんど船大工の手によって造られたもので、材料も杉の木がふんだんに使われています。

それらの民家に使われている木材はほとんど縦に張られているものが多く、分厚く張られている壁に風格が感じ取れます。このような木の板で張られた壁を『腰板』といい、それらの建物には、千石船を造る時に余った部品や廃船になった部品が流用されているのです。本来、船に使われる板は、一番外側の板でも1寸2分(36mm)の厚さがありますが、これは害虫による被害を防ぐためのものであり、数年後には交換されます。その時、船で使われなくなった木材は家屋建築の材料として活用されていたということですね。このように造船の残材や派生材を活用して造られた民家の町並みは、まさに『千石船(北前船)の文化が生きた町並』という雰囲気を物語っています。

ビクティニ:なるほどね・・・。道理で木造建築の民家ばかりが立ち並んでいるわけだ。まるで昔ながらの港町って感じだね・・・。

ミュウ:こんなに狭い道を毎日のように行き交う住民たちは窮屈に感じないかな・・・?

 

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民家軒下の装飾
小さな集落の中にある民家の軒下に装飾が施されているのは珍しいですね。

これはNHKの新日本紀行で紹介された船大工の民家で、このような扇子の形をした装飾が特徴とされていました。これが百年以上経っても原型をとどめているのは奇跡的です。なるほど、ここが重要伝統的建造物群保存地区担っている理由がよく分かります。

 

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宿根木の海岸
宿根木の海岸沿いにも足を運んでみました。

海岸から観る日本海の夕暮れはきれいですね。ここから少し足を伸ばせば『沢崎鼻』という岬と灯台があります。

ここは大昔に千石船(北前船)が発着していた、いわゆる『船着き場』だった場所です。そのため、この場所には『船つなぎ石』という船を停泊するための石杭が残っています。それらは瀬戸内海から運ばれてきた御影石でできており、安永5(1776)年頃に立てられたものと思われます。宿根木の人々はそれらを『シロボウズ』ともいわれています。船つなぎ石が残っているということは、ここに千石船を停泊していた名残と思われます。現在は七本残っており、港町としての面影を残しています。ここで北前船での荷下ろしや荷積みを行っていたことを考えれば、当時は賑わっていたのでしょう・・・。

ビクティニ:昔はここに船が泊まっていたんだね・・・。

ミュウ:当時は結構賑わっていたのかな?

 

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ホテルニュー桂に宿泊
佐渡での今宵の宿は『ホテルニュー桂』に宿泊しました。

このホテルは、加茂湖の近くにあり両津港から車で5分という立地にあるため、アクセスは比較的良いです。ジェットフォイルやカーフェリーで両津港に着くのが夕方や夜になっても送迎もあるので便利です。

 

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佐渡のホテル 夕食は豪華
佐渡の夕食は様々な海産物をふんだんに使った豪華な献立です。

紅ズワイガニをはじめお刺身や天ぷら、もずく酢、陶板焼きなど、まさに佐渡ならではのごちそうで勢揃いです。特に佐渡島近海でとれた甘海老やサザエは日本海の寒い海で育っているので、身が引き締まっていて美味です。

ビクティニ:色々回っていたらお腹が空いちゃった、いただきます!・・・うまい!やはり佐渡の海の幸は現地で食べるとこれまた格別だ!

ミュウ:天ぷらも美味しい!

にょろもう:お刺身もうまいよ!

ゴンベ:いただきますだ!ガツガツ・・・カニうまいっぺ~!最高だっぺ~(*´∀`*)

 

佐渡島のたらい舟&北前船の寄港地“宿根木”』をお伝えしました。

 

秋の会津&佐渡紀行2021 トキが暮らすふるさと 佐渡島

みなさん、こんにちは。

今回はトキがたくさん暮らす島『佐渡島』へ渡航します。

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佐渡島のトキ

 

ホテルを朝7時頃に出て佐渡汽船のりばへ向かいます。

 

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新潟港 佐渡汽船のりば

佐渡島へのアクセスは、新潟港から佐渡汽船のジェットフォイルかカーフェリーで行くことができます。

新潟航路の他に、直江津航路からでも行くことができます。以前は寺泊港から出る航路もありましたが、今は廃止されているため新潟港直江津港のどちらかになります。しかし、直江津港からの便1日に2便しかないため、新潟港からの方が便利です。もっとも新潟港からの便はカーフェリーとジェットフォイルの両方があり、本州から唯一クルマで渡航できるのも新潟港から出るカーフェリーだけです。ちなみに本州と佐渡島を結ぶ新潟航路と直江津航路はそれぞれ国道350号の一部にもなっています。

ビクティニ:佐渡島へ行くには、ジェットフォイルかカーフェリーで行くことになるんだね。離島だから結構遠いのかな・・・。

ミュウ:ジェットフォイルの方が早いからそれで行こうよ。

 

ということで、7:55発のジェットフォイルに乗船。新潟港を出てから概ね1時間弱で佐渡島に到着します。

 

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両津港

9:02 両津港到着

両津港に到着したら、レンタカーを借りて島内を回ります。

佐渡をレンタカーでドライブするには『アイランドレンタカー』がおすすめです。今回はトキの撮影が目的でやってきているので、1泊2日で十分回れます。レンタカーは2日分なら8~9千円で借りられるので、リーズナブルです。

ビクティニ:佐渡島にやってきたよ!トキはどこにいるのかな・・・?

ミュウ:ここが両津港なんだね・・・。

 

佐渡の格安レンタカーならアイランドレンタカー佐渡 | 両津港おけさ橋徒歩1分

 

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トキの森公園

『トキの森公園』では、佐渡島に暮らすトキが必ず見られます。

ここでは、間近でトキを観察したりトキの生態系を知ることが出来ます。また、この周辺では野生のトキが見られることがあります。両津港からも近いのでアクセスは抜群です。

 

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トキの卵

公園内にある『トキ資料展示館』に入ってみましょう。

館内には、トキの生態や生い立ちなどの解説が展示されています。こちらは、トキの卵の大きさを他の鳥類の卵の大きさを比較したものですが、ダチョウやエミューなどと比べるとやはり小さめです。

日本で生まれたトキは今や絶滅しています。

・・・というのも、昔は狩猟の対象とされ、美しい羽毛が装飾品などに使われていたこともあり、西欧諸国に輸入されていたのだとか。当時、トキは田んぼを荒らす害鳥と考えられ、産後の肥立ちが悪い母親や冷え性の人に効くとされる闇鍋の食材にも使われていたという説があります。

かつてトキは、北海道南部から九州にかけて幅広く生息していましたが、明治期に入ると食用や羽毛を取るために乱獲されたことで数は激減し、大正期には日本ではほぼ見られなくなったことから、絶滅したとされていました。ところが、昭和初期には佐渡島で目撃されたことで、昭和9(1934)年に天然記念物に指定されたのです。さらに戦後には全国的に生息しているトキは佐渡島に6羽、能登半島に5羽が生息するだけになってしまいました。そして、最後の野生トキ5羽を捕獲し、野生のトキは絶滅しました。現在では、中国から譲り受けた個体から増殖および定期的な放鳥によって、佐渡島は今や『トキの楽園』と化しています。

 

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トキに関する生い立ちと歴史について
トキは大昔に『日本書紀』にも登場したほど美しい鳥として親しまれてきました。

しかしながら、江戸時代には狩猟で次第に数を減らしていき、ほぼ絶滅状態にありました。明治後期を境にトキは『保護鳥』に指定され、大正11(1922)年には『日本鳥類目録』で学名Nipponia nipponを採用。さらに戦前の昭和9年には『天然記念物』に指定されます。戦後の昭和30年代頃には、トキを保護しようという活動が始まり、昭和35(1960)年にはトキが『国際保護鳥』に選定されました。これを機にトキは『新潟県の鳥』となり、旧新穂村に『トキ保護センター』を設立し、『フク』『フミ』『ヒロ』の3羽の飼育が始まります。さらに『キン』も飼育も始め、クロトキも飼育されます。1970年代に本州最後のトキ『能里』が能登半島の穴水町で捕獲してすみかを佐渡に移すも、間もない時期に死亡しました。そして、昭和56(1981)年に最後の野生のトキ5羽を一斉捕獲したことで、野生下のトキは絶滅しました。平成に入り、中国からトキを借用して増殖を試みます。その中で、平成7(1995)年に日本最後の雄のトキ『ミドリ』は中国からきた雌と交配し、5個の卵を残し逝去。その4年後、中国から『友友』『洋洋』が到着し、『優優』が誕生。これが日本初で人工増殖に成功しました。そして、平成15(2003)年には、日本産最後のトキ『キン』が36歳で逝去・・・。日本生まれのトキは21世紀に入って間もない時期に絶滅したのです。

その後、自然繁殖は次第に成功し、平成19(2007)年に『佐渡トキ保護センター野生復帰ステーション』が設立され、その翌年には初めて放鳥が実施されました。こうして、佐渡でのトキ放鳥は定期的に行われるようになり、石川県や多摩動物公園、さらに長岡市や出雲市でもトキの飼育が行われるようになりました。今後の数年後には佐渡島以外の本土でも、トキの放鳥が見込まれるでしょう・・・。

現在、佐渡島で暮らすトキはすべて中国から譲り受けたものとその子孫が約480羽で暮らしています。

 

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日本最後のトキ『キン』の写真

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『キン』の剥製

日本で生まれた最後の野生トキ『キン』は雌で、昭和43(1968)年、幼鳥の時に真野町で宇治金太郎氏の手によって保護され、トキ保護センターで育てられました。『キン』は宇治氏の名前から付けられたものだそうで、平成15(2003)年10月10日まで日本育ちのトキとして最後まで生きてきたのです。

 

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『ミドリ』の剥製

昭和56年、人工増殖をするため捕獲された野生のトキ5羽のうち、雄のトキが『ミドリ』です。

これは愛称として識別用の足環の色が緑だったことにちなんだものです。その5羽のうち雌の『シロ』や中国のトキとのペアリングが試みられるものの、失敗しました。そして、平成5年には中国から来た雌と交配し、5個の卵を残して急死しましたが、残念ながらいずれも無精卵(孵られなかった)だったようです。

 

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トキの羽
トキの羽は大きく美しいものです。

トキが体をまっすぐにのばすと、嘴の先端から尾羽の先端まで約75㎝、また羽を広げると約140㎝にもなります。トキはもともとペリカンの仲間で全身は白いですが、羽を広げれば内側の羽が薄い赤色をしています。これがいわゆる『朱鷺色』といわれています。

 

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トキの孵化(人工増殖)
トキ保護センターでトキを繁殖しているところです。
孵ったヒナは、飼育員によって手厚く育てられ、成鳥になったら自然環境へ還えされます。

平成15年には中国から譲り受けた『優優』と『美美』が2個卵を産みました。自分たちで孵化させて子育てするのが最善ですが、当時はまだ数少ない貴重なヒナです。確実に成長させるためには、生まれたばかりの卵をそっと取り出します。子育ての訓練のため、巣に生後7日のホオアカトキのヒナを入れるも、そのヒナは真っ黒です。トキのヒナは本来なら灰色なので、産んだ親の2羽はあまりの違和感に驚いたといいます。また、ホオアカトキの声は普通のトキと比べると小さかったそうです。結局美美と優優から見放され、世話さえもしてもらえず、この訓練は失敗したこともありました。そんな試行錯誤を繰り返していく中で様々な方法を試み、人工増殖の改良が進められました。環境省は『共生と循環の社会地域づくりモデル事業』を実施し、その最終成果として『環境再生ビジョン』を策定、トキの野生復帰、自然環境づくり、個体数の確保ならびに地域社会づくりについてのビジョンを示し、トキの放鳥活動が始まりました。この環境再生のビジョンを受けたことで、『トキ保護増殖事業計画』においてトキの野生復帰を位置づけるため、改定を行い、その目標を達成するために環境省はもちろんのこと、様々な主体が連携を取りつつ、野生復帰の活動を進めているのです。

 

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トキが暮らせる環境づくり(ビオトープの整備など)
トキが暮らせるように、あるいは野生復帰に向けるため、行政を始め地域の人々、NPOなどによる環境づくりが行われています。

例えば、餌場の復元ならびにビオトープの整備、里山の保全活動、環境保全型農業への取り組みが行われています。また、トキが営巣林であるマツ林を保全するために、害虫の駆除や被害木の伐採など、松くい虫による被害対策などが行われています。

 

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トキの生態について

 

トキは、ペリカン目トキ科に属する野鳥です。

翼を広げると羽が朱鷺色に染まっているのが春から秋にかけて見ることができます。体格としては全長約75cm、体重は1.6~2.0kgあります。嘴の長さも16~18cmあり、その長いくちばしで田んぼのドジョウやカエルなどを捕食しています。また、様々な生き物が棲む佐渡島の田んぼは、農薬や化学肥料はほとんど使用していません。そのため『生き物に優しい農業』といわれています。農薬や化学肥料に頼らない農業を続けるのは大変ではありますが、農家の手間や工夫のおかげで、我々が普段の食卓で食べているお米が体に優しく美味しく出来上がるのです。

 

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ビオトープ
佐渡島には、様々な生き物の暮らしを支えるための『ビオトープ』が随所に設けられています。

これはトキをはじめ様々な生き物が棲みやすくするために整備された場所で、普通の田んぼのように作付けしておらず、1年通して水を張っています。このようにビオトープを整備することで多くの生き物たちが集まるようになります。

 

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田んぼの脇に設置された『魚道』
トキは、田んぼで泳ぐメダカやドジョウなどの小さな魚を餌としています。

それらの魚を水路と田んぼの間を自由に移動できるようにするため、『魚道』も整備されています。これは田んぼの生態系の維持ならびにトキたちの餌場を確保するために設けられたものとされています。

 

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田んぼに棲む生き物

佐渡の田んぼには、メダカをはじめケンゴロウやサドガエル、ドジョウ、オオタニシなどの小さな生き物たちが棲み着いています。このような田んぼに棲む生き物が豊富であることから、佐渡の農業はエコかつ環境に優しいものとされている理由でもあるのです。

 

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生き物たちの暮らしを支える『江』

美味しいお米を作る過程で、田んぼの水抜きが必須になります。その際、『江』を設けることで、田んぼに棲む生き物たちを逃がすことができます。特に秋になると収穫が始まるので、秋以降でも佐渡の生き物たちが暮らせるよう、このような工夫もされています。

 

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トキの1年と1日の過ごし方
トキは、2月から5月にかけて繁殖期になります。

その時、トキは首から背中にかけて黒灰色になります。気に入った異性を見つけたら求愛活動を行い、孵化期は雌と雄が交代で卵を温めます。抱卵期間は約30~35日間で、ヒナは45日前後で巣立ちます。

9月から1月にかけては非繁殖期となり、数羽から数十羽の群れを作り行動します。

繁殖期が終わると、黒かった羽から美しい朱鷺色に生え変わります。そのため、美しい朱鷺色のトキを見るのにはが最適だといわれています。

トキの1日の暮らし方としては、繁殖期も非繁殖期もほぼ共通です。

朝になったら、日の出とともに群れでねぐらを飛び立ち、餌場や田んぼに移動し、そこで昆虫や魚を食べます。昼間には水浴びをしたり、田んぼの畦や草地、あるいは木の上で佇んでいたりしています。夕方になるとトキたちはねぐらに帰っていきます。夜には集団で木の上をねぐらにして寝ています。

 

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人とトキの未来の物語
佐渡の田んぼは、トキをはじめ様々な生き物が棲めるような環境になっています。

米どころでもある佐渡では、農業を営む農家が田植えや収穫を行っている風景もあれば、トキが田んぼの中の餌を取ったり田んぼの畦で佇む光景も見られます。このようにトキや様々な生き物たちの生態系を保った環境下で農業を行う光景は、まさに生態系を活かした暮らしと景観です。

 

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公園内で飼われているトキ

屋外ではゲージの中で飼われているトキが見られます。

トキにも幾つか種類があります。

『クロトキ』は、中国やインド、東南アジアなどで生息しています。全長約70cmあり、魚類や昆虫を餌にしています。顔や脚は黒色ですが、体が白いのが特徴です。ロトキもトキ保護センターで飼育されており、トキの人工飼育や増殖の研究にも貢献しました。

『ショウジョウトキ』は、南アメリカ北部の沿岸に生息し、全長約60cmあり、カエルや魚類、カニなどの甲殻類を餌にしています。薄い赤色をしているのが特徴です。

『ホオアカトキ』は、エリトリア、スイス、スーダン、ドイツ、トルコなどの西洋に生息し、全長約80cmあります。主に昆虫やカエルなどを餌にしています。なお、こちらは飼育されていないようです。

他にも『ムギワラトキ』『ハダダトキ』もあります。

 

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トキふれあいプラザのトキたち
トキの森公園の『トキふれあいプラザ』では間近でトキの観察ができます。

ゲージ内はトキが棲みやすい環境にするために池や草地、樹木などを豊富に整えた環境になっています。ここではトキが池の中のドジョウを捕ったり、あるいは木の上で佇む姿などを観察できます。

 

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野生のトキ

佐渡島に生息する野生のトキは、新穂地区を中心に生息しています。

トキの森公園やトキのテラス周辺をドライブしていると・・・

草原に佇む野生のトキを見つけました!

初めて野生のトキを生で見た時は、思わず嬉しい気分になります。2~3羽のトキが集まっている場所付近にクルマを停め、早速一眼レフを構えて撮影します。トキの撮影や観察をする時は、クルマから降りず、観察する時はなるべく音は立てずに静かに観る、撮影する時は窓をちょっと開けて静かに窓の隙間からレンズを出してカメラを構えます。トキは警戒心が強いため、音を立てたり大声を出したりクルマから降りようとすると、せっかく見つけたトキたちはどこかへ飛んでいってしまうので、撮影や観察する場合は決してクルマから降りず、静かに見守りましょう。

 

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羽ばたくトキ

撮影に夢中になっていると、突然対向車がやってきたのでトキたちはどこかへ飛んでいっていきました。

トキが大きな翼を広げながら優雅に飛んでいく姿は、まさに美しい姿です。

トキの翼をよく見てみると、薄い赤色の朱鷺色に染まっています。これぞ、『佐渡のトキ』ですね!佐渡島に暮らすトキは、田んぼやその畦道、草地、雑木林などで見ることができます。また、朝方夕方になると群れで飛んだりするので、群れで飛ぶトキを撮影したいなら朝方か夕方が良いでしょう。

20世紀末期まではあまり目にすることは無かったトキですが、最近では毎年のように放鳥が行われているので、佐渡に行けばトキが飛んだり佇む姿が見られます。また数年後には、佐渡島以外でもトキの放鳥活動を行う計画が進められています。実際、既に新潟県本土や島根県出雲市などでは検討されているようです。こうして、佐渡はおろか本州でもかつての日本のようにトキたちが暮らす楽園になる日が近いのかもしれません。

 

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加茂湖
佐渡島には、一際目立つ大きな湖も点在しています。

これは『加茂湖』といい、周囲約17km、面積4.95k㎡あります。これは意外なことに佐渡島内にありながら、新潟県で一番大きい湖です。もともとは淡水湖でしたが、明治期に湖水の氾濫を防ぐため、一部の岸を海側に開削したことで汽水湖になっています。この湖は歌にも詠まれたことのあるほどの美しい景観に魅了されています。また汽水湖ということもあり、牡蠣の養殖も盛んで、水中のプランクトンが豊富であることから成育が早く、通常2~3年かかる出荷までの期間が1年ほどと短いのです。そのため、湖岸に牡蠣小屋、湖面に浮かぶ牡蠣養殖用のイカダがあちこちに浮かんでいるのが見受けられます。この湖で採れる牡蠣の生産量は年間で約2千トンにもなるそうです。

 

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佐渡のお寺『妙宣寺』
佐渡を代表するお寺といえば、『妙宣寺(みょうせんじ)』が代表的です。

妙宣寺は、佐渡配流の日蓮聖人に帰依した佐渡人最初の檀那・日得上人が、弘安2(1279)年以前に開いた金井新保の道場『阿仏房』を前身とし、天正17(1589)年に現在地へ移った際、妻の千日尼と共に自宅を寺として開いたのがはじまりといわれています。ここはかつて佐渡守護代竹田本間氏の居城だった場所で、境内の敷地内から観るといかにも城跡の雰囲気が残っています。境内に建てられた新潟県内で唯一の五重塔が特徴的で『正中の変』で佐渡配流となった日野資朝の墓などがあります。茅葺き屋根を施した仁王門や庫裏なども風格があり、五重塔も日光東照宮の五重塔を模した立派なデザインで、相川の長坂茂三右衛門と金蔵の親子棟梁によって建てられました。しかしながら、資金難のためか各層の高欄や浅唐戸が無く、未完成のままで終わっているようです。

ビクティニ:お庭や五重塔が風光明媚なお寺だね。しかも茅葺き屋根というのがまた雰囲気が出ている・・・。・・・来年は例の病気がなくなりますように・・・南無妙法蓮華経・・・。

ミュウ:観光バスも来てるよ。紅葉もきれいだね。

 

次は小木エリアへクルマを走らせます。

 

トキが暮らすふるさと 佐渡島』でした。

秋の会津&佐渡紀行2021 猫たちが働く駅・大内宿&塔のへつり・SLばんえつ号 銀河鉄道の旅

皆さんこんにちは。

今回は秋の大内宿や塔のへつりを回り、『SLばんえつ物語』号に乗車して夜汽車の旅をしてきました。

 

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芦ノ牧温泉駅

朝から大内宿塔のへつりを観光するならば、芦ノ牧温泉に宿泊してから出発するほうが便利です。

芦ノ牧温泉駅は『ねこが働く駅』として有名になり、『猫駅長』で人気を博しているようです。

なぜ芦ノ牧温泉駅に猫たちが駅業務(?)するようになったのかというと・・・ある昔のこと、ある野良猫が迷い込み地元の子どもに拾われてこの駅に棲み着くようになったといいます。この駅の駅長(人間)である小林さんが世話をしてきた猫こそが、初代の猫駅長である『ばす駅長』なのです。ばす駅長は、和歌山電鐵のたま駅長に続いて平成20(2008)年に名誉駅長として任命され、多くの乗客や地元の方々を迎え入れてきました。そのため従来より利用者が増え、さらにグッズの売れ行きが好評だったこともあり、『トップセールスレディ賞』を受賞し、その2年後には総務大臣賞も受賞しました。他にも選挙の広報活動や『福島男女共生のつどい』の広報大使でも活躍しましたが、ばす駅長はもともと高齢だったからか平成27(2015)年には駅長の座をらぶ駅長に譲ることとなったのです。こうしたばす駅長の七年間におよぶ活躍ぶりから、『あっぱれ名誉駅長』の称号が与えられました。そして、現在の二代目猫駅長『らぶ駅長』をはじめ、弟の『ぴーち施設長』、さらに妹のアテンダント役『さくら』の兄弟で活躍することになりましたが、ぴーち施設長は調子が悪いようなので退職されているようです。今後はらぶ駅長の他、さくらさんで会津の観光ならびに芦ノ牧温泉への歓迎を担うことになるでしょう・・・。

 

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芦ノ牧温泉駅 歴代猫駅長のギャラリー
駅舎には、歴代の猫駅長写真が展示されています。

初代の猫駅長『ばす駅長』の写真をはじめ『らぶ駅長』の写真も飾られています。私が二十歳になる前、父と会津へ旅行に行ったことがあるのですが、その当時は『ばす駅長』だった頃で、待合室に寝転がっている姿を見たときには、まさに心が和んだのを思い出します。ばす駅長だった頃の当時は本当に輝かったことでしょう。ばす駅長はチンチラでトラ猫のような雌猫でしたが、らぶ駅長はアメリカンカールの雄猫です。らぶ駅長になってからだいぶ印象が変わってしまいましたが、今でも『ねこが働く駅』として注目を集めています。

 

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芦ノ牧温泉駅 猫駅長キャラ化

現在活躍している『らぶ駅長』『さくら』は明るい印象ですが、一番右の『ばす駅長』は、いささか素っ気無い感じになっています。2010年に訪問した頃は、もっと素っ気無い駅舎の中でばす駅長に会った時、かなり嬉しかった記憶があったものです。今やばす駅長は天国から会津や芦ノ牧温泉駅を静かに見守っていることでしょう。

 

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駅舎には『ノラと皇女と野良猫』のアニメが・・・?

猫駅長にあやかって駅舎内では『ノラと皇女と野良猫』のアニメが放映され、ノラととのグッズも用意されています。やはり猫つながりでアニメとのコラボというのもまた芦ノ牧温泉の印象も実に大きく変わったものです。猫駅長以外にもアニメとのコラボがあるとは思わなかったので、これは斬新だと思いました。

 

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会津鉄道の列車

大内宿や塔のへつりへは会津鉄道の列車で行きます。

小さな駅に1両編成の列車が入ってくるのがローカル線らしい風景です。会津鉄道の列車には普通列車の他にも『お座トロ展望列車』や『AIDU MOUNT EXPURESS』も活躍しています。

 

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列車を見送る『らぶ駅長』

らぶ駅長は、芦ノ牧温泉駅を出発する列車のお見送りをするのが業務のようです。

ちなみに、らぶ駅長への直接的な撮影は禁止ですが、列車からの撮影は可のようです。

そして、我々乗客はらぶ駅長をただただ温かく見守り、芦ノ牧温泉駅を後にするのでありました・・・。

 

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会津鉄道沿いを流れる阿賀川
会津鉄道の沿線は、田園風景から渓谷や山々の景色・・・まさに風光明媚な景色が広がっています。

特に10月下旬や11月上旬にかけては、渓谷や山々の紅葉が楽しめます。会津鉄道沿線に沿って流れる川は『阿賀川』です。阿賀川は、栃木県と福島県の県境にある荒海山から流れる川で、南会津から大川ダムを経て会津盆地へ流れます。会津の人からは別名『大川』といわれています。会津盆地から新潟方面へ流れ、新潟県に入ると『阿賀野川』として、日本海へ流れ出ていくのです。

ビクティニ:渓谷の紅葉が綺麗だ!

ミュウ:川の水も透き通っているよ!

 

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湯野上温泉駅
大内宿の最寄り駅である湯野上温泉駅の駅舎は、茅葺きでとても素朴な雰囲気です。

大内宿へのアクセスは、湯野上温泉駅からバスで訪問することができます。大内宿へ行く周遊バス『猿游号』は11月末まで運行されています。また、文字通り湯野上温泉への最寄り駅でもあるので、散策後は日帰り温泉や温泉宿で入浴もいいでしょう。

ビクティニ:古民家みたいな駅だね。

ミュウ:茅葺きの家みたいな駅が雰囲気出ているね。

 

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南会津の宿場町 大内宿

大内宿は福島県南会津郡下郷町にあり、会津と日光を結ぶ『会津西街道』沿いに位置する宿場町の1つです。

茅葺きの家がたくさん立ち並ぶ光景は、まさに『昔ながらの日本の村』という雰囲気が漂っています。

『会津西街道』は、会津城下と下野(しもつけ)国にわたり約130kmで結ばれ、会津藩主をはじめ、当時会津藩と友好関係にあった米沢藩や新発田藩の藩主が参勤交代の際、通行する街道として重要な役割を果たしていました。そのため、街道は『下野街道』あるいは『南山街道』という別名をもっています。

ここは1640年頃、会津城下より数えて三番目の宿場町として整備され、鶴ヶ城から20kmと比較的近い場所にあったことから、大名などが宿泊するほど活気な宿場町だったのです。ところが、明治時代に入ると『新日光街道(国道121号線)』の開通とともに、宿場町は衰退の一途をたどり、徐々に農村へと変貌していき、外部や人の往来が遮断され、大内宿は廃村と化していきました・・・。

昭和42(1967)年、山奥でひっそり宿場町の面影を残していた大内宿にある運命が訪れます。それは、武蔵野美術大学の相沢教授がその地の調査の際、江戸時代から残る茅葺き屋根の建築群を保存するよう訴えます。一時期はダムの建設とともに、茅葺き屋根からトタン屋根への改築が進んだことで、歴史的な町並みが失われそうな時期もありましたが、昭和56(1981)年には、国の『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されたことをきっかけに、住民の町並み保存への意識が高まったことで、歴史的街並みを保存するという動きが出てきたのです。一度トタンにした屋根を『茅葺き』に戻し、電柱の地中化ならびにアスファルト舗装の撤去などを実施することで、江戸時代の景観を再現しています。

こうして、茅葺き屋根の家屋を保存するとともに、平成20(2008)年より週に1階茅葺きの練習会の実施および次世代への茅葺き職人を育てる取り組みが行われています。このように保存活動を行うことで、当時の茅葺き屋根の古民家が立ち並ぶ宿場町としての雰囲気を今に伝えているのです。さらに茅葺き屋根の古民家を活用した土産屋や食事処などを構えることで、大内宿は今や多くの観光客が訪れる福島県の代表的な観光名所になっています。

ビクティニ:茅葺きの家がまさに昔ながらの宿場町だ!まるで江戸時代にタイムスリップしたかのよう・・・。

ミュウ:たくさんお店があるけど、みんな風情があるね。民芸品を見ていると何となく欲しくなるかも・・・。

 

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高台から見た大内宿

大内宿の撮影スポットといえば、やはり高台から見下ろす景観が定番ですね!

大内宿の風景に紅葉は、まさに会津の秋そのものです。

大内宿の一番奥にある階段を登った所に『見晴台(湯殿山)』がありますが、一人分しか通行できないような狭い階段で石段も急なのでご注意を。

ビクティニ:紅葉と昔ながらの村が、まさしく会津の秋だね。

ミュウ:茅葺きの家が立ち並ぶ光景ってあまり見ないよね。

ゴンベ:紅葉がきれいだっぺ~。

にょろもう:あ~、癒やされる景色・・・。

 

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茅葺き屋根の民家

茅葺き屋根の古民家が、あたかも江戸時代の宿場町を物語っています。また、通りの両脇には小さな水路が流れており、まさに『会津のふるさと』そのものですね。夏の時期には涼しさが感じられるでしょう。秋とはいえ、晴れた日だと地味に暑かったりするので、こういう宿場町で涼しさが感じられます。

 

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大内宿名物 ねぎそば
大内宿といえば、『ねぎそば』が名物です。

漆塗りの丼に盛り付けられたお蕎麦に、1本のネギが乗っかっています。ねぎそばは、1本ネギを箸代わりにしてお汁からそばを掬っていただきます。もちろんそのまま箸で食べてもいいですが、やはりネギでそばを掬い、ネギをかじりながら食べるのは野趣的で格別に美味しいです。そばの風味とネギの辛味が絶妙にマッチしています。ただ、ネギをかじると口の中はピリピリ辛いです。おかげでお腹にキました・・・。

ビクティニ:いただきます!・・・うまい!やはりそばはネギがよく合うね!

ミュウ:でもネギはちょっと辛い・・・。

ゴンベ:いただきますだ~!やっぱり冷たいお蕎麦は美味しいっぺ~!

にょろもう:おつゆもいい香りだよ~。

 

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塔のへつり駅

つづいて、『塔のへつり』にも行ってみましょう。

塔のへつりへのアクセスとしては、極めてシンプルで会津鉄道『塔のへつり駅』から徒歩5分ほどで到着できます。駅からすぐ近くにある景勝地はアクセスが良いですね。

ビクティニ:ここからちょっと歩けば、簡単に塔のへつりに到達できるんだね。

ミュウ:駅から近い観光地はちょっと嬉しい(≧∀≦)

 

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塔のへつり

駅から歩けばわずか5分で美しい渓谷が目の前に広がります!

『塔のへつり』という景勝地です。崖に映える紅葉とコバルトブルーの川が絵になります。

芦ノ牧温泉からも近く、大内宿の南東部にあるため、大内宿と並ぶ南会津のメジャーな紅葉スポットでもあります。『塔のへつり』『へつり』は会津地方の方言でいうと『川沿いの険しい断崖』のことをいい、大川沿いの渓谷で浸食や風化によっておよそ200メートルにわたって形成された地形になっています。渓谷に掛かっている吊橋は『藤見橋』という橋で、この橋と渓谷、そして紅葉のコントラストがまさに会津の秋の風物詩ですね。
ビクティニ:見事な絶景だね!紅葉に渓流・・・。会津の景観はやはり秋が一番似合う!

ミュウ:川の水もコバルトブルーに染まっている。

ゴンベ:こりゃいい景色だっぺ~。

にょろもう:大きな川だね~。

 

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岩肌に生える紅葉

長い歳月をかけて成形された渓谷の岩は、まさに自然が生み出した芸術的な景観です。

紅葉に包まれた渓谷から露出した岩肌がいかにも芸術的です。

このように自然によって成形された形状から、昭和18(1943)年に『国の天然記念物』に指定されています。塔のへつりの崖にそびえる岩には形状によって『屏風岩』『烏帽子岩』『護摩塔岩』など、様々な名前が付けられているようです。岩肌に生える木々も、会津の渓谷の彩りを見せてくれます。春から夏にかけては新緑、秋には紅葉、冬には雪景色が楽しめます。特に秋の紅葉は、いかにも会津の渓谷の景色を楽しむに最高の時期です。この日は秋晴れということもあり、まさに秋の出かけ日和ですね。

 

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塔のへつりの祠

吊橋を渡った先には小さな祠が祀られています。

この祠には多くの観光客が手を合わせ参拝しています。岩の中にある祠が、まるで洞窟のお寺といった感じでしょうか。

 

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塔のへつりの岩

塔のへつりの岩は、新緑から紅葉までの彩りとともに奇岩の自然芸術が美しいです。近くで見ると、まるで岩でできたお城のようなインパクト感を覚えます。

このように奇岩が形成されたのは、凝灰岩や凝固角礫岩、夏岩などが各々重なり、長い歳月をかけて浸食および風化されたことで、自然の芸術が生み出されているのです。

 

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昔ここは海だった
そして忘れてならないのは、塔のへつりの大昔は海の中にあったということです。

これは何億年ものの大昔の日本列島は海の底だったということでしょう。渓谷の奇岩がこのように形成されたのは、ここが海底にあった頃、『浸食』と『風化』が百万年ものの歳月をかけて繰り返してきたからなのでしょう。『浸食』は川の水や雨水などによって削られる、『風化』は気温の変化ならびに水の影響によって岩石がもろくなった現象のことをいいます。このような現象によって珍しい形、あるいは芸術的な形を織りなす奇岩が生み出されるということですね。

 

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喜多方ラーメン
さて、紅葉の南会津を楽しんだ所で、昼食(というか軽食)に本場の喜多方ラーメンをいただきました。

喜多方ラーメンは、文字通り喜多方市のご当地ラーメンで、札幌や博多ラーメンと並んで全国的にトップになるほど人気かつ有名な日本三大ラーメンの一つに数えられています。喜多方ラーメンといっても店舗によってトッピングや味が異りますが、基本的に醤油がベースで、麺は縮れ麺が使われます。ところが、店によっては醤油がベースなものもあれば、味噌がベースなものもあります。そこで、今回はあえて本家の醤油ラーメンとは違う味噌ラーメンで頂いてみました。お店は喜多方駅から一番近い『桜井食堂』でいただきましたが、メニューには『蔵ラーメン』と書いてあったものの味や麺も『喜多方ラーメン』と変わりはないようです。トッピングはチャーシューやメンマ、ナルトの他に、わかめやコーン、ゆで卵を見ていると、まるで札幌の味噌ラーメンみたいで、札幌と喜多方を混ぜたような食感といった感じでしょうか。

ビクティニ:やっぱり喜多方といえばラーメン!いただきます!・・・うまい!イメージとちょっと違うけどやっぱり喜多方ラーメンだ!

ミュウ:そう?味噌ラーメンだけど・・・美味しい!

ゴンベ:味噌でも美味しいっぺ!

にょろもう:本当は醤油が食べたかったけど美味しいね(^^

 

★喜多方駅から一番近い喜多方ラーメンのお店(参考にどうぞ)★

 

さて、喜多方ラーメンも頂いた所で喜多方駅でSLがやってくるのを待ちます。

 

すると・・・

 

ボーーーーーーーッ!!

 

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SLばんえつ物語号

そして、15:50頃・・・喜多方駅にSLが入ってきました!

15:54発SLばんえつ物語号新津行きに乗車します。

『SLばんえつ物語』号は、JR磐越西線 新津~会津若松間を111kmで結ぶ観光SL列車で、機関車は『C57-180号機』が牽引しています。

この機関車は、昭和21(1946)年に三菱重工三原製作所にて製造されました。昭和44(1969)年まで磐越西線をはじめ信越本線や羽越本線などの新潟エリアで活躍し、引退まで新津機関区にて配属されていたのです。その後は長いこと新潟市秋葉区(当時は新津市)の新津第一小学校の校庭にて保存されましたが、保存状態が芳しかったため、平成11(1999)年に復活を果たし、『SLばんえつ物語』号として今でも汽笛を響かせています。

 

★SLばんえつ物語号 銀河鉄道の旅(喜多方→新津)★


www.youtube.com

 

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森と水とロマンの鉄道(SLばんえつ物語号)車窓

SLばんえつ物語号が走る磐越西線は、別名『森と水とロマンの鉄道』と呼ばれています。

沿線の景色が里山や山々、阿賀野川の風光明媚な景観が美しいことから、その愛称がつけられています。秋の時期は紅葉の山々や阿賀野川の景観が楽しめます。

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野沢駅 停車
途中の野沢駅で機関車の整備ならびに点検のために10分停車します。

この停車時間を利用して記念撮影や見学ができます。整備士さんが機関車の動輪をハンマーで点検している所を間近で見られます。ただ、以前は機関室の中に入って撮影や見学はできたのですが、やはり例の病気もあってか、今年は機関室の見学はやってないようです。

ビクティニ:やっぱり貴婦人かっこいいよね。まるで銀河鉄道みたい。

ミュウ:前は機関室に入れたのに今年もやってないみたい・・・。

 

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秋のSLばんえつ物語号の車窓はまさに銀河鉄道の夜

秋の時期の新潟方面SLばんえつ物語号の車窓はだんだん暗くなり、あたかも銀河鉄道の夜のような車窓になります。暗闇に浮かび上がる小さな明かりを見ていると、星のように見え、天気のいい日には星空や月が見えます。この日は快晴の夜空に三日月が浮かび上がっていました。

ビクティニ:紅葉の景色に満天の星空・・・まさに銀河鉄道の夜・・・(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)

ミュウ:お月様も見えるよ!

 

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津川駅 停車
津川駅でも、野沢駅と同様に長時間停車します。

こちらでは機関車の点検・整備の他に燃料の補給も行うため、15分ほど停車します。ここでも写真撮影や点検は自由に出来ます。新潟県までやってくると、流石に暗くなってきました。夜空を見上げれば満天の星空が広がり、C57型の力強いヘッドライトの光線に貴婦人らしく美しい姿を見ていると、本当に銀河鉄道の旅をしているようです!

ビクティニ:おお!まさに銀河鉄道の夜の雰囲気だ!( ;∀;)

ミュウ:いい感じに星空が見えるね(^^

 

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SLばんえつ物語号 おやつ

SLばんえつ物語号の車内でおやつを食べるのも楽しみの一つです。

『雪国ドーナツ』は車内の売店で購入することができます。ホットコーヒーと一緒にいただきました。

ビクティニ:マカロンも好きだけど、銀河鉄道で食べるドーナツは格別だ(*´∀`*

ミュウ:夜汽車の中でたべるおやつも美味しいね(^^

 

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思い出ノート

展望車に設置されている『思い出ノート』に旅の思い出や感想コメントなどを書くことが出来ます。

 

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SLばんえつ物語号の車内

SLばんえつ物語号の客車は12系客車が使用されていますが、車内は大正ロマンの内装になっています。SL列車の内装はだいたい素朴な感じだったりするのですが、SLばんえつ物語号の内装としてはかなり洒落ています。

ビクティニ:どこまでもどこまでも行こう・・・。

ミュウ:きみと一緒なら寂しくないよ・・・。

 

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新津駅に到着

18:40 新津駅に到着。

SLばんえつ物語号の夜汽車旅は新津駅で終わりです。新津は、磐越西線をはじめ信越本線や羽越本線が交わる『鉄道の町』として栄え、車両工場もあります。新津駅に到着したC57型は、車庫へ回送されます。

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SLのお見送り

ビクティニ:SLばんえつ号・・・ありがとう。今年も楽しい旅だった・・・(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`) では、お達者で~!

ミュウ:夜汽車の旅は楽しかったよ。ありがとう。

 

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夕食

SLの旅が終わり、いよいよ夕食です。夕食は新潟駅のレストランで寿司をいただきます。

ビクティニ:いただきます!・・・新潟といえば海の幸がうまい!

ミュウ:寿司は美味しいよね!

ゴンベ:うんまいっぺ!

にょろもう:ぼく、寿司が大好きなんだ!最高!

 

この後、新潟市内のホテルに宿泊し、翌日は佐渡島へ向かいます。

 

猫たちが働く駅・大内宿&塔のへつり・SLばんえつ号 銀河鉄道の旅』でした

秋の会津&佐渡紀行2021 紅葉の鶴ヶ城と御薬園

皆さんこんにちは。

世間では次第に感染が収まりつつあり、観光地に活気が戻りつつあります。

ということで今回は、11月頃に秋の会津と佐渡へ旅行に行ってきました。

 

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磐越道で会津へ

朝5時半過ぎに家を出て川越駅からJR、大宮駅から東北新幹線やまびこ123号で郡山駅まで進みます。さらに郡山駅から会津若松まではJR磐越西線に乗り換えになるはずですが、郡山駅に到着したのが8:30で、会津若松行きの磐越西線は8:29発と全然乗り換えダイヤが相変わらず噛み合いません・・・。しかもその次が9:38発なので1時間以上も待ちぼうけを喰らいます。そこで仕方なく高速バスで会津若松へ向かいます。本来は『週末パス』を活用していくつもりだったのが、時間の都合上高速バスで移動せざるを得ない感じに・・・。ちなみに郡山駅から会津若松までの高速バスの運賃は1,200円で、自由席なので事前に予約する必要はありません。もう少し磐越西線のダイヤを改善していれば、そのまま磐越西線で会津若松まで行くことができたかもしれません。

しかし、これまで何度も磐越西線で会津へ行ってきた身としては高速バスを使うのが初めてで、磐越道で目的地へ向かうのもまた斬新で楽しいものです。

ビクティニ:今まで会津若松へ行くときはいつも磐越西線だったのに、高速バスなんて初めて!でも高速道路の旅も楽しいかもね!

ミュウ:今日は天気がいいし、まさにお出かけ日和だね!

 

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磐越道から観る磐梯山

磐越道からも磐梯山も見れます。磐越西線の車窓から磐梯山を眺めるのもいいですが、一番前の席に着いていると磐梯山が正面から見れるのも高速バス旅ならではの楽しみです。

 

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会津若松に到着

高速バスで行くと10時前に会津若松ICを通過し、磐越道から降ります。

そして10:15頃、鶴ヶ城に到着です。

 

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鶴ヶ城入り口

10:20 鶴ヶ城の北出丸に到着。

郡山駅から出る9:38発の磐越西線の列車より1時間早く到着できました。

ビクティニ:実は去年にも会津に行ったんだけど、なんか途中で列車が停まった時は正直トラウマになったことがあったんだよなあ・・・。

ミュウ:鶴ヶ城も久しぶりだね!

 

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鶴ヶ城のお堀

鶴ヶ城のお堀も秋色に染まり、紅葉に染まった葉っぱとお堀の石垣とはいい絵になります。

 

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お堀で泳ぐカルガモ

お堀で泳ぐカルガモも穏やかに泳いでいます。秋ならではの風物詩ですね。

 

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赤べこ(黒べこ)の絵付け体験

鶴ヶ城会館では、お土産屋やレストランがある他に様々な伝統工芸の体験ができます。

今回は『赤べこ』(黒べこ)の絵付け体験をしてきました。

『赤べこ』は、いわゆる会津地方における郷土玩具で、文字通り牛の型に赤の下塗りに、黒の斑点と白の縁取りで絵付けされた張り子人形です。これは古くから魔除けのお守り、あるいは縁起物として親しまれてきたものとされ、今では会津地方の土産物でよく親しまれています。そのため、赤べこの『べこ』は東北弁で『牛』と呼ばれ、『厄除け牛』またの名を『幸運の牛』と呼ばれています。また、赤べこは首の部分が動くようになっているので、ちょっと触れば首がゆらゆら動きます。その愛嬌から、海外でも人気があります。

では、なぜ『赤べこ』といわれているのかというと、赤べこ伝説の赤い牛にあやかって赤く塗られたという説もあるようですが、これには古くからの民間信仰が関係しているものとされ、赤色は「呪術的な意味で病気を退散させる」と考えられてきたためといわれています。なお、もともとこの考えは会津特有のものではなく、全国の郷土玩具に見られるもののようです。

また、かつて会津では疱瘡(ほうそう)が流行したことがあったようですが、赤べこ伝説の牛が身代わりになり、病気から守ってくれるという言い伝えがあります。願いを込めて病が治った時の模様を黒と白で描き、家に飾ったというしきたりもあるのだとか。

こうした言い伝えから赤べこは会津の人々から厄除けのお守りとして、あるいは子どもの誕生祝いや見舞いの品として送られることも多いほど人気があるのです。

今回絵付けするものは、本来なら赤べこ絵付け体験ですが、メニューの中には『白べこ』や『黒べこ』もあり、珍しいので『黒べこ』の絵付け体験をしました。基本的には赤べこと同じように漆で色を付けて模様を付けるだけで、付け方としては自由です。ちなみに私は、縁起の良い四字熟語を入れて絵付けしました。

 

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味噌団子

鶴ヶ城の北出丸入り口には、味噌団子も売られています。米粉で固め、会津味噌を塗ってじっくり焼いた団子は濃厚で美味しいです。

 

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桝形(追手門)
北出丸側の入り口にある石垣と紅葉とのコントラストは絵になりますね。

この石垣に階段も設けられていますが、これは『桝形(ますがた)』または『追手門』といい、敵が侵入してきても石垣の上から狙撃できるように工夫されています。北出丸は、会津藩が加藤傘下時代に本丸を補強するために造られたものとされ、東側と西側の両隅に城門と隅櫓(現存なし)が配置された構造で東西ほぼ対称になっているのが特徴です。正面から攻めてきた敵を両側でひっそり待つ構え方が会津藩のやりかたであり、鶴ヶ城独特のいかにも会津らしい実直さを物語っています。このように北出丸から侵入してきた敵は、後方を振り返れば伏兵郭と二の丸が、左手には本丸と帯郭が、前方には西出丸があり、さらに三方向から狙い撃たれることになるのです。そのことから『みなごろし丸』という別名が付けられていたようです。

 

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桝形と遠藤敬止の碑

遠藤敬止(1849~1904年)は旧会津藩士で、戊辰戦争では各地に転戦の後、鶴ヶ城に籠城していました。明治6(1873)年には大蔵省銀行事務講習所の講師となり、『銀行実験論』を出版しました。明治11(1878)年には仙台に第七十七国立銀行が設立されるにあたり教授役になり、明治14(1881)年二代目頭取に就任し、逝去まで通算約23年間頭取をつとめ、東北地方の経済界に大きく貢献しました。明治23(1890)年に旧会津藩主松平家が政府より鶴ヶ城跡地を約86,800坪の払い下げを受けた時に「この城跡は戊辰の逆境に幾千の魂を留めた古戦場なので千古の記念にしなければならない」と遠藤敬止は私財を松平家に献納しました。そのため、ここ桝形は会津の戊辰戦争において一番の激戦地であり、新政府軍でさえも歯止めがかからなかったことから、この場所に遠藤敬止の碑が建てられたと思われます。

 

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鶴ヶ城 大手門(太鼓門)
北出丸からは、本丸へ続く入り口には大手門がありました。

ここには多聞櫓と呼ばれた櫓も建てられ、藩主の登城や非常事態、その他の合図などに使用する直径1.8メートルの大太鼓が備わっていたことから、別名『太鼓門』と呼ばれていたようです。

 

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武者走り

『武者走り』は大手門である太鼓門の渡り櫓などへ簡単に昇降出来るようにするために設けられていました。V字型をした武者走りは鶴ヶ城の特徴でもあり、全国的に見ても珍しいものです。

 

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本丸埋門跡
天守閣の北東に位置し、本丸奥御殿の北側より本丸帯郭に通じる桝形の城門が『本丸埋門跡』がありました。

築城していた蒲生時代は表門で、城内にある他の門や建築物と比べると低い門構えで埋門の形体をとっていました。大手口が東側にあった当時は表門だったのが、のちに加藤時代の改築後により裏門になっています。ここが本丸奥御殿の入り口として重要な門だったとされています。

 

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鶴ヶ城 天守閣

紅葉と鶴ヶ城とのコントラストがまた秋の会津らしさを物語っています。

会津若松のシンボル的存在である『鶴ヶ城』は、今から約630年前に建てられ、正式名称としては『若松城』といわれています。

会津藩は、葦名氏をはじめ、伊達氏蒲生氏上杉氏保科氏松平氏と多くの大名が治めてきたのです。葦名時代の葦名直盛が創営してから六百年の歴史があり、室町時代に葦名氏が1384年に『東黒川館』として造営したのがはじまりとされ、のちに『黒川城』の城下が成立しています。。天正17(1589)年、伊達政宗をはさんで蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津の地を治め、当初『黒川』という城下町の名前を『若松』に改名し、城の名前も『鶴ヶ城』または『若松城』と呼ばれるようになりました。七層の天守閣を築き、黒川城を中心とする城下の成立ならびに会津藩の藩政は次第に確立していったのです。しかし、江戸時代の地震で被害を受けたことから、再建した現在の鶴ヶ城は五層になっています。

会津藩の歴史の中でも、松平氏が統治していた時代が会津藩の最盛期だったといわれています。それは、葦名直盛や蒲生氏郷がそれなりの栄えを見せていた後の城主は上杉景勝や蒲生秀行、加藤嘉明など短い期間で交代していったのです。そして寛永20(1643)年に保科正之が入封したことで、会津松平家による歴史が幕末まで続きました。これは松平家が率いる会津藩の反省が200年以上も続き、藩校日進館や白虎隊などにつながる文武一体の士風を育て、幕末に会津藩が雄藩として確立していったのです。すなわち、会津藩をここまで発展したのは松平家のおかげといっても過言ではないということでしょう・・・。

幕末の慶応4(1868)年、薩摩藩をはじめとする五藩が新政府の樹立の宣言とともに江戸幕府(徳川幕府)に対し戊辰戦争を仕掛けます。徳川一門の傘下にあった会津藩も対立の対象となり、藩主の松平容保も幕府から京都守護職を命じられたこともあり、不穏な京都の治安を任されたこともあったのです。そして、幕府が敗走しつつあった慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いをきっかけに、江戸の無血開城と後に西軍である薩摩藩は会津に矛先を向け、ついに『会津戊辰戦争』が勃発します。会津各地はおろか鶴ヶ城でも約1ヶ月に及ぶ籠城戦が繰り広げられましたが、鶴ヶ城は新政府軍の激しい攻撃にも耐えたタフな名城でもあったのです。白虎隊も新選組とともに会津藩(旧政府軍)として会津の地を守り、最後まで抵抗しましたが、同年9月22日には会津軍が降伏することとなります。さらに飯盛山で多くの白虎隊が次々に自決していったという悲しいエピソードもあったのです。そして、明治7(1874)年には取り壊されましたが、天守閣は昭和40(1965)年に再建されています。現在では『鶴ヶ城』またの名を『若松城』と呼ばれています。

なお、このお城は2013年の大河ドラマ『八重の桜』にも登場しています。

ビクティニ:晴れ渡った秋空に美しい天守閣が、まさに会津の風景だね。

ミュウ:秋晴れの鶴ヶ城は白くてきれい!

にょろもう:さわやかな天気に白いお城が美しい!

ゴンベ:食欲の秋だっぺ~。

 

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鶴ヶ城 塩蔵
鶴ヶ城の石垣は、天守閣の土台になっていることから、『天守台』といわれています。

この天守台も約400年前の蒲生氏郷が天守閣を立てた際、築かれたものですが、内側の石積みは慶長16(1611)年の大地震の被害から、加藤時代の改修の際に積み直されたものが使われています。天守台内部は冷涼な環境であり、石垣の壁の通気性が優れていることから、籠城時の蓄えのために塩を保管していました。そのため、ここは塩を貯蔵する『塩蔵』として使われていたのです。もっとも海のない会津若松にとって塩は非常に貴重なものだったようです。

 

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天守閣からの眺め
天守閣から観る秋晴れの空本丸の紅葉がいい眺めです。

天守閣の屋根に使われている瓦は『赤瓦』が使われています。これは、幕末の戊辰戦争当時の天守閣を再現したものとされ、なんでも国内にある天守閣の中でも、赤い瓦が使われいるのは非常に珍しいのだとか。なぜ赤い瓦が使われているのかというと、普通のお城の屋根なら大抵は黒い瓦を使用するのが一般的ですが、会津地方のように豪雪地帯に位置する環境では、寒さや凍結で亀裂が入ってしまう恐れがあることから、瓦に水分が浸透しないよう鉄分入りの釉薬が使われているのです。なので鶴ヶ城の瓦が赤いのはこのためと考えられます。なお、赤瓦は江戸時代初期の慶安元(1648)年に試作され、承応2(1653)年から太鼓門の瓦に採用された記録が残っており、正保元(1644)年に幕府が作製を命じた『正保城絵図』を見れば屋根瓦は青く塗られていますが、これ以降の絵図では屋根は赤く描かれているようです。おそらく幕末には、天守だけでなく城内のほとんどの建物の屋根を彩っていたと思われます。

ビクティニ:天守閣から見る紅葉もこれまた綺麗だ!

ミュウ:お山の方も綺麗だよ!

 

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鶴ヶ城鉄門
天守閣の南側には『鉄門(くろがねもん)』があり、鶴ヶ城本丸の正門にあたります。

木製の扉と柱が鉄で包まれていることからその名前になっています。戊辰戦争(籠城戦)の時、天守閣を中心に砲撃が撃ち込まれ、最多の日夜には2千5百発の砲弾というまさに四面楚歌の中、その鉄門だけが唯一安全地帯だったそうで、松平容保公をはじめ藩主や重臣らはその鉄門2階で指揮をとっていたのだとか。他にも、南走長屋や干飯櫓があり、その櫓は一番規模の大きい櫓で食料を保管していた『食料庫』であったと考えられています。

 

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廃城前の鶴ヶ城の写真
これは解体される前の明治5(1872)年当時の鶴ヶ城の写真です。

写真を見ればおわかりのように、戊辰戦争による損傷でかなりくたびれています。これは新政府軍の砲撃によって所々に砲撃の跡や屋根の損傷など、戦があまりにも激しいことが見受けられ、修復も不可能と悟ったのかしばらく放置された後に解体されたようです。

 

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茶室『麟閣』
鶴ヶ城本丸の隅には、茶室『麟閣』も併設されています。

この茶室は千利休の子である少庵によって建てたものとされ、少庵が会津に匿っていた際、蒲生氏郷のために造ったものであるという言い伝えがあります。戊辰戦争後、この茶室は茶人森川善兵衛宅で大切に保管されてきましたが、平成2(1990)年、会津若松市で市制90周年を記念し、この『麟閣』を元の場所(鶴ヶ城本丸内)への移築復元して後世へ伝えています。

豊臣秀吉の奥州仕置きによって天正18(1590)年、蒲生氏郷が会津に入り(42万石のち92万石)、近世的支配を確立していったのです。氏郷は織田信長の娘婿であり、器の大きい勇猛な武将かつ、この時代を代表する文化人でもあります。中でも茶道に興味旺盛で、のち利休七哲の筆頭にあげられるほどだったといいます。

天正19(1591)年、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられました。千家が茶の湯の世界から追放された際、蒲生氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんで少庵を会津に匿い、徳川家康とともに千家復興を豊臣秀吉に働きかけました。その結果、文禄3(1594)年と推定される『少庵召出状』が出されたことで、少庵は京都に帰り、千家の再興とともに千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれました。そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興され、今日も千家茶道の礎を現世に伝えています。

 

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『麟閣』で召し上がれるお抹茶と薯蕷饅頭
茶室『麟閣』では、受付にてお抹茶を召し上がりの旨を伝えると、600円で饅頭と一緒に茶席で提供してくれます。

茶席菓子として提供される薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)は、膨張剤や添加物などを一切使用しない、丹念にすり下ろした『つくねいも』と米粉の皮で作られ、さらに小豆の皮を取り除き炊き上げた皮むき餡を包んだお菓子です。

ビクティニ:風流なお庭を眺めながら食べるお菓子とお抹茶は美味しいよね(^^

ミュウ:今日は天気がいいし、外で食べれるなんてなんて至福なんだろう・・・(*´∀`

にょろもう:抹茶の匂いが和むね・・・

ゴンベ:いただきますだ~!

ビクティニ:一人で食べちゃダメだよ(笑)

 

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昼食 喜多方ラーメン
ちょうどお昼時なので、『鶴ヶ城会館』にあるレストランで昼食にします。

レストランのメニューにはソースカツ丼やそば、喜多方ラーメンなどのメニューがありますが、今回は喜多方ラーメンを頂きました。喜多方ラーメンは文字通り喜多方のご当地ラーメンで、人口一人あたりの店数が日本一とも言われ、日本三大のご当地ラーメンとして人気があります。
ビクティニ:やっぱり喜多方ラーメンは美味しいよね!いただきます!

ミュウ:美味しい!

ゴンベ:会津と言ったら喜多方ラーメンだっぺ!うまいっぺ!

にょろもう:チャーハンもついてるから余計に美味しい!

 

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御薬園

鶴ヶ城から自転車を借りて10分弱・・・少し足を運ぶと『御薬園』があります。

御薬園は、先程の鶴ヶ城と同じように約六百年あまりの歴史があり、ここは歴代の会津領主が愛した別荘地だったとされています。

御薬園の歴史は古く、約六百年前の室町時代、会津守護職の葦名盛久が霊泉の湧くこの地に別荘を建てたのが始まりです。そして、会津松平藩の藩祖こと保科正之(ほしなまさゆき)公が大名庭園として整備されたのを機に、二代目藩主正経は疫病から領民を救い、病気の予防や治療などに使用する研究のため、薬草園が設けられました。これは主に朝鮮人参の栽培をはじめ、様々な薬草や薬用植物を栽培していくことで、お殿様をはじめ領民たちの健康が守られたといいます。

今から630年前あまり・・・葦名七代目である直盛が会津の地に初めて東黒川館(現在の鶴ヶ城)を築き、その館の北側に『大田谷地』という野原がありました。そこには一軒の農家があり、喜助というものが病気で難儀していたものの、朝日保方(あさひやすかた)という白髪の老人が鶴の舞い降りた泉水で喜助を介抱し、喜助は元気なからだに戻ったのです。保方老人はそれを見届けるように逝去し、彼は疫病から救ってくれた恩人として、救い主である保方を霊泉の傍らに手厚く葬り、たてた祠を朝日神社として、霊泉の泉を『鶴ヶ清水』と名付けられました。

永享4(1432)年、十代目の盛久は、この地を霊地として四角四面に区切るように別荘が建てられました。

十六代目盛氏(もりうじ)の頃は葦名氏の全盛期であり、彼が別荘を復興したことで、御薬園として成り立ったといわれています。後に時代は伊達・蒲生・上杉・再蒲生・加藤へと移り、永い戦乱が続いたことから、別荘はまったく顧みられなかったものの、保科正之は霊地の由緒を正して庭園を整備し、保養所として用いられるようになったといいます。

 

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薬用植物園

御薬園は、もともと二代目藩主正経が領民を疫病から救うために造園したもので、のちの三代目藩主松平正容が朝鮮人参を試植し、その栽培を広く推奨し朝鮮人参の栽培が実用化されたことから、『御薬園』の由来となりました。現在では、朝鮮人参や会津特産の薬用人参をはじめ、約4百種類の四季折々の草花が栽培されています。春にはタンポポやタチアオイ、オタネニンジンなど、夏にはウマノスズクサ、ハス、フジバカマなど、秋にはジュウガツザクラやヤツデが季節ごとに彩りを見せてくれます。

 

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プリンセス・チチブ(バラ科)

平成21(2009)年9月9日に秩父宮妃勢津子殿下ご誕生100年を記念し、秩父宮記念公園(静岡県御殿場市)よりプリンセス・チチブを勢津子殿下ゆかりの建物である重陽閣の前に寄贈され、植えられたものです。

 

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重陽閣
御薬園の脇に建っている和風な建造物は『重陽閣』です。

重陽閣は、昭和3(1928)年、昭和天皇の弟宮秩父宮雍仁親王殿下と当時のアメリカ大使こと松平恒雄の長女松平節子姫との婚約が成立し、節子姫御一家の来若を歓迎するために、東山温泉新滝旅館の三階建別館として建てたものです。
勢津子妃殿下御一家が泊まられた新滝旅館の別館は、昭和48(1973)年、この御薬園に移築され、建物の名前は秩父宮妃勢津子殿下に『重陽閣』と命名されました。これは妃殿下のお誕生日が9月9日の重陽の節句であったことからその名をとられたといわれています。

 

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御薬園の池泉回遊式大庭園
御薬園は、約1.7ヘクタールの敷地中央に心時の池を持つ池泉回遊式の庭園です。

風光明媚な庭園に映える紅葉が秋の雰囲気を彩り、広い池のカルガモたちも優雅に泳ぎ回っています。

心時の池の中央には亀島と楽寿亭、池の西側には御茶屋御殿、庭園の北側には藩政時代の薬草栽培地跡を利用した薬用植物の標本園があります。

現在の庭園は三代正容(まさかた)の時代である元禄9(1696)年、小堀遠州(こぼりえんしゅう)の流れを汲む園匠目黒浄定(めぐろじょうてい)と普請奉行辰野源左衛門(たつのげんざえもん)の手に成るもので、規模を拡大し借景を取り入れた池泉回遊式の大名庭に大補修を加えたものです。周囲約540メートルの長方形で面積は1.7ヘクタール(約5千1百坪)あります。北に千古の雪を頂く飯豊の霊峰や、東には磐梯の秀峰と背あぶり山・東山の連山が望まれた借景の美しい庭園として造られたもので、昭和7(1932)年に国の名勝として指定され、昭和28(1953)年には一般公開され、現在に至っています。

 

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御茶屋御殿 お抹茶
御薬園の池の畔にある御茶屋御殿は専ら藩主の休息のほかに上席の役人や藩御用達頭取の元締などを招待する場としても利用されていました。

上ノ間(藩主お成りの部屋)・次ノ間・控ノ間と区別された部屋を持っており、建築年代は元禄9(1696)年頃と思われます。しかし、ここは多雪地帯であるゆえ、破損の進行が早く改造も加えていますが、中には古材を転用したものも含まれています。これは建築した時の建材は新材でなく、農家の解体材などを再利用することで領民に倹約の範を示したという言い伝えがあります。また、藩主の意図から質素を旨にするため、古木素材が用いられています。
控ノ間までが藩政時代のもので屋根は茅葺ですが、隣に続く十畳の松ノ間と二階は容保公一家が住まれるため、屋根は亜鉛葺になっています。また、戊辰戦争時には西軍(新政府軍)の治療所に使用されたため、戦火をまぬがれています。また、戊辰戦争時に出来た刀傷や弾痕など当時のたたずまいを見ることができます。
御茶屋御殿上ノ間は、藩主のお成りの部屋で庭園が一望され、正面の楽寿亭と東山の山並みの借景が美しく、まさに殿様気分で眺めが楽しめます。現在では、庭園を眺めながらお抹茶をごま羊羹と一緒に召し上がれます(600円)。

ビクティニ:庭園を眺めながらのお抹茶とお菓子はこれまた格別ですね~。

ミュウ:この羊羹にはごまも含まれているんだ。体にいいお菓子だね。

ゴンベ:2回もお抹茶が飲めるなんて天国だっぺ~(*´ω`*)

にょろもう:池の中のカルガモたちも元気に泳いでいるね~。

 

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会津鉄道の列車

会津若松の町並みを散策した所で駅から近い町方伝承館に自転車を返却します。会津若松駅からは、芦ノ牧温泉へ泊まりに行くため、会津鉄道の列車に乗車します。

16:25発 会津田島行き

 

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芦ノ牧温泉駅

16:45 芦ノ牧温泉駅に到着

会津若松駅から列車で約20分・・・芦ノ牧温泉駅に到着です。ここは名前の通り会津若松の南はずれにある『芦ノ牧温泉』の最寄り駅です。そして、この駅には『らぶ駅長』という猫駅長をはじめ猫たちの働く珍しい駅としても有名です。芦ノ牧温泉へは路線バスやタクシーで行くことができます。ただ、我々が「芦ノ牧温泉の旅館に泊まる」という旨を駅員さんに伝えると、たまたま別の旅館で宿泊する宿泊客の送迎の方が、我々の宿泊するホテルまで送ってくれました。

ビクティニ:この時期になると日が暮れるのが早いよね・・・。

ミュウ:ほんとほんと。

 

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芦ノ牧温泉プリンスホテルにて宿泊

我々が宿泊したホテルは『芦ノ牧温泉プリンスホテル』です。この旅館はいささか古めかしい感じはするのですが、旅館の方々はとても親切で、館内もいい感じにレトロな雰囲気です。また、1泊2食付きで1万円前後と比較的リーズナブルなので、猫駅長に会ってノスタルジーな芦ノ牧温泉の旅館に泊まりに行くのには良いと思います。

ビクティニ:さっきの芦ノ牧温泉駅の猫駅長さんは夕方になるといないんだね・・・。

ミュウ:そりゃあ、昼間じゃないと見れないからね・・・。

 

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芦ノ牧温泉 夕食

温泉はいいお湯で、夕食もとても美味しかったです。

露天風呂が特に最高で晴れた日には星空も見えます。夕食も会津の食材をふんだんに使われていて美味しかったです。会津の地酒も美味しかったです。

ビクティニ:いただきます!・・・会津のご飯は最高にうまい!

ミュウ:美味しい!

ゴンベ:うまいっぺ~!

にょろもう:美味しい!まさに秋のごちそうだよ!

 

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旅館の部屋

ビクティニ:明日は大内宿と塔のへつりを見てからSLばんえつ物語号に乗りに行こう。

ミュウ:会津鉄道の本数も限られているし、この時期の大内宿は混雑するから、大内宿をさっと見てからの方が良いかもね。

ゴンベ:ねぎそばが美味しいんだったぺ。食べてみたいっぺ。

にょろもう:混んでいなければいいんだけどなあ・・・。

 

『紅葉の鶴ヶ城と御薬園』でした

碓氷峠鉄道文化むらでアプト式電気機関車“ED42型”を屋外展示!

皆さんこんにちは。

今回は、群馬県安中市にある『碓氷峠鉄道文化むら』にて、かつて信越本線の横川~軽井沢間で活躍したアプト式電気機関車『ED42型』が珍しく屋外展示にて公開されるということで、見てまいりました。

 

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アプト式電気機関車『ED42型』

碓氷峠鉄道文化むらに入ってみると、早速目の前にED42型が姿を現しました!

ED42型電気機関車は、当時の信越本線における横川~軽井沢間のアプト式区間専用機関車で、昭和9(1934)年に開発されたアプト式機関車です。

ED42型が保存されているのは、ここに保存されている1号機と軽井沢町のとある小学校に保存されている2号機のみと、非常に貴重なものです。現在、碓氷峠鉄道文化むらで保存されている1号機は、アプト式が廃止された後、昭和42(1967)年に準鉄道記念物に指定されました。さらに碓氷線電化75周年を記念し、一時期は動態復元され、走行を行ったことがあります。

この機関車は、スイスから輸入された『ED41型』をベースに設計されたもので、両端ともデッキが設けられています。運転台は普通の機関車と異なり、従来の機関車から横川方面のみ設置された、いわゆる片運転台型になっているのも、まさに横軽専用機関車ならではの特徴です。また、パンタグラフも1基のみ搭載されており、基本的には横川駅や軽井沢駅などの構内のみ使用されました。

 

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集電靴
アプト式時代当時の信越本線横川~軽井沢間の電化方式は『第三軌条方式』が用いられていました。

第三軌条方式とは、『第三軌条』といわれる給電用のレールを線路横に敷設され、集電靴を伝って集電する方式のことです。ED42型のようなアプト式の機関車は、アプト式の線路を進む時は、パンタグラフの代わりにこの集電靴で第三軌条から電力を取り入れ、動力にしていたのです。この電化方式は直流600Vで、この機関車も第三軌条方式・架空電車方式併用になっています。

 

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ED42型の車輪

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ED42型に装備されたアプト式用の歯車

ED42型の車輪には、台車の軸間に主電動機が1基ずつ装備され、『カップリングロッド』といわれる連結棒にて各動輪に動力を伝えています。また、タックレールに噛み合わせるための歯車が、『ラック式軌条台車』として車体中央部に装着、さらに動力用とは別に歯車伝達用の主電動機が1基装備されています。この歯車こそがまさにアプト式鉄道の伝達装置です。機関車に装備された歯車とラックレールを噛み合わせることで、碓氷峠の急勾配でも、列車の安全運行を支えることができたのです。

ちなみにED42型の制御装置としては、制御ハンドルや逆転ハンドルの他、粘着運転ORラック運転・力行OR発電ブレーキを切り替える組み合わせハンドルを有するため、『エントランス』といわれるラックレール区間への進入時、あるいは急勾配区間を下る際に複雑な操作をしなければならないほど、アプト式鉄道時代の乗務員は大変だったそうです。

 

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66.7‰の勾配標識とアプト式の線路

信越本線の横川~軽井沢間にある碓氷峠は、66.7‰(パーミル)という当時のJR(国鉄)で最大の急勾配にして難所だったのです。

明治26(1893)年に鉄道が敷かれた当時から路線距離にして11.2km高低差553メートルという条件の下で、66.7‰の急勾配が生まれます。そこで、その難所に鉄道を通すに当たり、この『アプト式鉄道』が採用されます。

『アプト式鉄道』とは、線路の中央部に位相をずらした3本のラックレールを敷設し、車両に取り付けられた歯車と噛み合わせることで、牽引力ないし制動力を高めることができる鉄道方式のことです。この鉄道方式を用いることで、碓氷峠のような急勾配でも安全かつスムーズに峠を越えることができたといいます。ちなみに、『アプト式』の『アプト』は、スイスの機械技術者ことカール・ローマン・アプトから名付けられたものなのだそうです。

当初は蒸気機関車で運行されるも、所要時間はその区間だけでも1時間は超えるほど非常に掛かり、機関士の窒息事故や轟音など、まさに地獄絵図な状況下だったのです。のちに、明治45(1912)年に横川~軽井沢間は電化されます。そして、EC40(10000)型をはじめとするアプト式電気機関車が運行を始めますが、それらのアプト式電気機関車の中でも、このED42型が一番活躍しました。この機関車こそアプト時代の横軽における代名詞的な存在となったのです。

当初は他形式に混じって活躍していましたが、1950年代以降はすべてED42型に統一され、この機関車で運用を担当することになります。連結方式としては、基本的には軽井沢方面から第3補機+客車ないし貨物+第2補機+第1補機+本務機の順で編成を組んで運行されていました。このように編成を組むことで最大360トンの列車を推進・牽引することができたのです。昭和30年代後半には信越本線に急行や特急の気動車が運行されるも、やはりあまりの難所である横川~軽井沢間では自走不可能であるため、補機であるED42型による牽引や推進で活躍しました。そして、昭和38(1963)年に従来のアプト式から粘着運転へ切り替えるため、新線への切り替えとともにアプト式は廃止、これまで活躍してきたED42型は役目を終えることとなったのです・・・。

 


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アプト式からEF63の時代へ・・・
これまで碓氷線で活躍してきたアプト式は役目を終え、粘着運転で峠を越える『EF63型』にその役目を譲ります。

EF63型は2台でペアになって、列車の横川側へ連結されます。そして、信越本線の横川~軽井沢間(碓氷峠)を通過する時、軽井沢方面へ向かう列車は推進運転で列車を押し上げるように、横川方面へ向かう列車は2台の機関車が先頭に立つように連結して峠を安全に下っていたのです。これは、EF63型の粘着運転によって、列車が安全に碓氷峠を越えることができたのです。EF63型は、上野と長野を結ぶ特急あさま号をはじめ、特急白山号、急行能登号など、様々な列車の峠越えを手助けしてきた生き証人です。そのことから、『碓氷峠の守り神』またの名を『峠のシェルパ』と呼ばれるようになったのですね。そして、長野新幹線の運用が決まると、信越本線の横川~軽井沢間は平成9(1997)年9月末をもって正式に廃止され、EF63のエピソードは34年の歴史に幕を閉じることになったということですね・・・。

ビクティニ:EF63型が特急あさま号とペアを組んで峠を越える写真は見たことがあるけど、あれはまさに名シーンだったらしいよ。

サンダース:ああ、当時俺が機関士だった頃が懐かしい・・・。

 

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当時の信越本線ではD51型をはじめとする蒸気機関車も活躍していた
アプト式が活躍していた頃の信越本線は、横軽以外の区間は当時非電化だったのです。

アプト式時代の信越本線を通っていた列車は、すべて気動車(ディーゼル)による運行が多かったのですが、中には貨物列車も碓氷峠を通過していたようで、横軽以外の信越本線にはD51型をはじめとするSLも活躍していたと思われます。現在の信越本線の高崎~横川間では時々SLが走っているのが見られますが、アプト式が現役だった当時は蒸気機関車が貨物列車を牽引し、横軽区間ではアプト式機関車たちが担当していたことでしょう・・・。碓氷峠鉄道文化むらに展示されているD51-96号機は信越本線で活躍し、晩年は北海道で活躍しました。廃車後は埼玉県長瀞町にあったSLホテルに利用されましたが、後に碓氷峠鉄道文化むらにて保存されることになったのです。

ビクティニ:昔はD51も活躍していたのかな?

サンダース:今でもD51が時々走っているけど、あれはイベント用みたいだ。

 

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信越本線横川~軽井沢間の旧線にある『めがね橋』
『碓氷峠鉄道文化むら』のある横川駅から国道18号の旧道を軽井沢方面へしばらく進むと、『めがね橋』こと『碓氷第三橋梁』が見えてきます。

この『碓氷第三橋梁』は信越本線旧線の一部分で、先程見物したED42型はこの橋梁を通過していました。そう、旧線時代の信越本線は『アプト式』が使われていたことから、この橋梁にはアプト式の鉄道が通っていた姿が想像できます。旧線には18箇所の橋梁が存在していたのですが、このめがね橋はそれらの橋梁の中で一番大きい4連のアーチ橋で、日本にある煉瓦造りの橋としては最大級のものです。明治26(1893)年の信越本線の高崎~直江津間の開通とともに完成し、川底から31メートル、全長91メートルあり、およそ二百万個の煉瓦が使われています。そして、昭和38(1963)年の新線切り替えとともに、これまで活躍してきたアプト式鉄道こと旧線は廃止となりました。現在では遊歩道の一部となり、平成5(1993)年には『碓氷峠鉄道施設』として重要文化財に指定されています。

ビクティニ:碓氷峠といえば、やはり大きなめがね橋が印象的だよね。まさに横軽の顔だ。

ミュウ:昔はここに鉄道が通っていたというのを考えれば、この大きな橋自体も東京と長野を結ぶ鉄道を支えていたんだね。

サンダース:煉瓦でできた橋は、やはり歴史が感じられるな・・・。

 

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碓氷第三橋梁の線路跡

めがね橋の上に出てみます。道床は広いです。橋の向こうに見えるトンネルも、いかにも明治期に建設された鉄道遺産という雰囲気が出ています。トンネルの向こうから列車が来る姿が想像できそうです。どうせならここに線路やラックレールを展示してみてもいい気がします。

 

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信越本線横川~軽井沢間の旧線跡 トンネル
信越本線横川~軽井沢間のうち、熊ノ平駅跡までの廃線跡が遊歩道として整備されています。

旧線にあったトンネルはすべてで26箇所ありました。そのうち10箇所のトンネルが遊歩道として整備されています。トンネルの壁も明治期に造られたこともあり、やはり煉瓦造りになっています。そして、トンネルの中にある旧線跡の道床には、線路はもちろんのことアプト式鉄道には欠かせないラックレールや三線軌条も敷かれていたことが想像できます。ということは、ここにアプト式の機関車や様々な長距離列車が通っていたということですね。このようなトンネルが26箇所もあったというのを考えれば、ここにSLが活躍していた頃は、ばい煙による窒息事故があったりなど、まさに地獄絵図だったのも頷けます。後に電化されたものの、建設時のトンネルの天井はやや低く、架線を引くのには難しかったことから、電化方式は第三軌条方式が合理的だったかと思われます。そして、ED42型もこのトンネルを何往復も通ってきたことでしょう・・・。

 

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信越本線の新線跡
めがね橋の上から、横軽新線の橋梁跡が見えます。

アプト式の鉄道が廃止になった後、別の場所に『新線』として敷設され、粘着運転で碓氷峠を越えていました。以前に体験運転を行ったEF63型はあの新線で活躍し、碓氷峠を越える様々な列車もあの橋梁を通過していたのです。一見まだ使えそうな感じに見えますが、廃止されてから20数年経っているため、線路も架線柱もかなりくたびれているようです。ちなみに新線跡は旧線とは違って、遊歩道が整備されていないためイベント時以外は立入禁止になっています。

 

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信越本線 熊ノ平駅跡構内

熊ノ平駅跡までやってきました。

アプト式(旧線)時代の信越本線が単線だったため、ここで下り列車と上り列車が行き違いが出来るように、またSLへの給水や給炭する目的で信号場(後に駅となる)として設置されました。

信越本線は首都圏から長野や北陸方面へ結ぶ幹線でありながら、その途中を通る『碓氷峠』あまりの急勾配かつ難所であるがために、『アプト式』という特殊な鉄道方式を取らざる得ず、横軽の区間においても輸送力の増大が求められ、待避線や突っ込み隧道の設置など、様々な対策が取られていました。そのため、アプト式時代の熊ノ平駅は重要な鉄道施設の一部でもあったことが考えられます。その後の新線移行及び横軽の複線化に伴い、再び信号場へ降格となります。そして、平成9年9月30日に横軽区間は廃止となり、熊ノ平駅(信号場)も廃止となりました。

アプト時代はそれほど重要な場所だったことから、構内の広さが伺えます。ここをアプト式の機関車からEF63はもちろん、様々な列車が行き交っていた姿を思い起こさせます。アプト式の機関車はここで行き違い、EF63はそのまま通過していたことでしょう・・・。

 

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熊ノ平駅 軽井沢方面

横軽区間では、最大66.7‰の勾配をはじめ、ほとんどが急勾配の区間ですが、熊ノ平駅では唯一平坦な区間です。軽井沢方面を見てみると、熊ノ平駅を過ぎたらまた急勾配の区間が続いているのが分かります。新線のトンネルはそれぞれ上下線で2つのトンネルに分かれています。また、2つの新線トンネルの左脇に旧線トンネルが続いています。

 

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熊ノ平駅 横川方面

横川方面も見てみましょう。こちらも上下線で2つのトンネルが分かれていますが、左側の上り線では、なぜか線路が2本でトンネルに入っています。恐らく優等列車の待避線として設けられたものと思われます。ここも2つの新線トンネルの右脇に旧線のトンネル跡があります。線路はもちろん手前にある信号設備もだいぶ錆びついていています。

 

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熊ノ平駅の変電所

熊ノ平駅の構内にはかつて使われていた変電所があります。現在では廃墟と化しており、一部窓が割れていてかなり荒れ果てていますが、この変電所も鉄道施設の一部分でもあったようです。この変電所は新線時代の信越本線横川~軽井沢間に使われ、電力を給電していたものと思われます。

 

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アプト式開通の碑

構内の脇には、『アプト式開通の碑』が祀られています。アプト式だった当時は様々な事故や死亡事故が多かったことから、この鉄道を動かしてきた人たちの苦労が感じ取れます。なにしろ、『碓氷峠』は泣く子も黙る日本の鉄道における難所でしたからね・・・。

 

『碓氷峠鉄道文化むらでアプト式電気機関車“ED42型”を屋外展示!』をお伝えしました。

 

★おまけ★

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北軽井沢にある『列車村』に保存(?)されている10系客車

宿泊先の北軽井沢のホテルの庭には、なぜか10系客車が保存されています。いずれもオロネ10形のようですが、おそらく昔は急行『能登』号の寝台列車で使われていたものでしょう。ちなみにこれらの客車は昭和53(1978)年に廃車になった後、ここに運ばれたようです。

日本一のもぐら駅“土合駅”に行ってきました

皆さん、こんにちは。ひとまず例の病気による感染者数が減少し、観光地に旅行者が戻りつつあるようです。

ということで、今回は秋の群馬県に旅行へ行ってきました。そこで、『土合駅』という風変わりな駅に訪れてきました。

 

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土合駅へのアクセスはJR上越線水上駅でのりかえ

土合駅へのアクセスは直接クルマで訪れても行けるのですが、鉄道で行く場合は本数が非常に少なく1日に5~6本しかないので、JRで訪問する場合は時刻表は事前に確認してから訪問するのが無難です。高崎方面から出る電車はすべて水上駅止まりとなり、土合駅まで行くには、必ず水上駅で長岡行きの電車に乗り換える必要があります。また、土合駅まではSuicaやPASMOなどのIC乗車券は使用できないので、乗り越した場合は車掌さんに話しかけて精算してもらうことになります。最初から目的地が土合駅までの乗車券が買ってあるか該当のフリーパスを持っているならそのまま下車できますが、水上までの乗車区間しか買っていない場合も車掌さんに話しかけて精算しなければなりません。なぜならば、土合駅は簡易ICタッチ機も無ければ、駅員さんもいない無人駅だからなのです。

ビクティニ:上越線の旅も久しぶりだな。ところで、どこへ行くんだろう・・・。

ミュウ:どうやら、例のもぐら駅らしいよ・・・。

ビクティニ:あ!そうか、土合駅に行くんだよな。なんというか、作者さんも物好きだよね・・・。

 

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到着した土合駅のホームはトンネルの中にある?!

水上駅を出発してしばらく進むと、やがて長いトンネルに入ります。

最初の停車駅である湯檜曽駅を出ると、長岡方面の電車は暗闇の中を轟音を立てつつ疾走していきます。そして、何も見えぬ暗闇の中で「まもなく土合です」というアナウンスが入ると、次第に減速し、地下深いトンネルの中で電車が停車しました。もちろん、列記とした駅なのでホームのある所で停車します。

そう、JR上越線の下り線(長岡・新潟方面)の土合駅ホームは『新清水トンネル』という長大トンネルの中にあるのです!

『新清水トンネル』は、JR(当時は国鉄)上越線の複線化に伴い、昭和38(1963)年に着工し、昭和42(1967)年9月28日に開通しました。その長さは13.5kmあり、非常に長大なトンネルです。ちなみに、このトンネルの反対側には、最初の上越線単線時代からあった『清水トンネル』があり、長さは9.7kmと当時としては最長のトンネルだったと言われています。

土合駅を下車する人たちは、自分を含む鉄道ファンや登山客などがほとんどです。現に多くの登山者や鉄道ファンたちがこの駅で降りていきました。そして、乗客を降ろした電車はそのまま暗闇の中をただただ突き進んでいくのでありました。

 

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高崎方面を見るホーム

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新潟方面を見るホーム
電車が走り去りしばらく轟音が続きましたが、次第に静まり返っていきます。

この長大なトンネルの中にある下りホームは、何もかもが広くて大きな空間です。壁や天井も生のトンネルのままで、照明もトンネル特有の蛍光灯がただただホームを照らしているだけの、いかにも殺風景な雰囲気です。よく見ると天井や壁に苔が生えており、それだけ地下深い場所にあることや湿度の高さも物語っています。ここは普通の電車が通る他、首都圏と新潟や秋田などを結ぶ主要ルートでもあるため、貨物列車なども通過します。かつては特急や急行も通っていましたが、上越新幹線の開業で今は普通列車や貨物列車が通るだけです。

ちなみに10年以上昔の土合駅の地下ホームはもっと暗かったようですが、2008年頃の更新工事でだいぶ明るくなりました。

 

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土合駅 駅名標

土合駅の駅名標です。以前はトンネルの壁にかけられた国鉄タイプの駅名標でしたが、ホームが改修されたことで、ようやくJRタイプになったようです。このホームは標高(海抜)は583メートルもある場所に造られたんですね。

ビクティニ:これは凄い!まさに地底駅だ!こんなに物々しい雰囲気の駅は初めてだ!昔の人たちは本当にすごかったんだな・・・。

ミュウ:まるで立入禁止の場所にいるみたい・・・。ちょっと気味悪いかも・・・。

 

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かつて使われていた下りホーム
かつて使われた旧ホーム自体も物凄く広いです!

もし写真の右側にある新設ホームが無かった頃だったら、もっと薄暗かったでしょうね・・・。旧ホーム自体も新設ホームよりとても長いですね。10両くらいは停まれそうです。これだけホームが長かったということは、昔は様々な急行や特急が通っていた名残が感じ取れます。

 

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旧ホームに線路跡?
新設ホームの端を見てみると、旧ホームに隣接していたと思われる線路跡が残っています。

そう、かつてはここに特急や急行が通っていたため、追い抜きに必要な待避線が設けられていたのです。一昔前、今のホームに隣接する線路(トンネルの壁際にある線路)が、当時は『通過線』として使われていましたが、すでに急行や特急が廃止されているため、待避する必要がなくなったことから、旧ホームに設置していた線路は撤去されたようです。もっとも、1日に5本しか電車が来ないような路線で待避することはありませんがね(^_^;)

 

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かつては地下ホームに事務室があった模様?

ホームの壁際に白い小屋のようなものがあり、かつては駅員が常駐していたと思われる運転事務室の空間が残っています。国鉄時代はここで駅員が待機していたのでしょうか?ちなみに今はビール置き場になっており、低音かつ気候変動の少ない地下ホームで熟成させているようです。

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土合駅下りホーム 待合室

下りホームの待合室も白い小屋の中に併設されています。

待合室の中は落書きが残っていますが、ベンチは割と整備されているようです。それにしても、ここで下り列車を待つ人はいるのでしょうか?

 

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土合駅の階段についての案内板がなぜ?

よく見てみると、かつて使われたであろう土合駅の階段についての案内板が小屋の中で放置されています。一体どういうことなのでしょうか?それにしても手書きの文字が時代を感じさせます。

 

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いざ出口へ!
さて、地下ホームを見たところで出口へ向かいましょう!

ホームの出口には何かが見えます・・・。

ビクティニ:あれは・・・。まさか・・・。

ミュウ:階段?!

 

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土合駅名物 長い階段

そのとおり!

下り線のホームが地下深い場所にあること、そしてこの長~い階段こそが、土合駅の特徴なのです。

先程の下りホームは、これから向かう駅舎や上りホームからかなり離れた場所にあります。距離にして約400メートルほど離れており、ここから駅舎(改札口)までの所要時間は最低でも10分はかかります。そして駅舎まで行くには、この長い階段を登らないといけないのです。駅舎とこの下りホームとの高低差は約70メートルと相当地中深い場所にあり、この階段の段数は462段あります。したがって、この階段を登りきらなければ、このホームからは出られないということになります。

それにしても、この長大な階段を見ていると、かなりのインパクトさでさえも伝わります。

 

★実際の土合駅の様子★


www.youtube.com

 

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長い階段を進み出口へ!

ということで、階段を進み駅舎まで歩いていきましょう。

駅舎までは、338メートルの階段ならびに143メートルの連絡通路を経て歩いていくことになります。階段自体は思ったほど斜面が急でもなく、意外と緩やかで登りやすいです。実はこのトンネル階段こそ、新清水トンネルを建設する際の『斜坑』として掘削されたもので、この階段自体ももともとは地質調査を行うための通路として利用されていたようです。また、階段の脇にあるスペースは、エスカレータを設けるためのようですが、未だに造られていないようです。もっとも、こんなに湿った場所でエスカレータを作るのは非現実的でしょう・・・。そして、そのスペースには沢水のごとく湧き水が流れ落ちています。

ビクティニ:それにしても、まるで洞窟の中を進んでいるみたい。それになんか水の音が響いているし、秋芳洞を思い出すね・・・。

ミュウ:そうだね。なんとなく秋芳洞に似てるかも・・・。ていうか、洞窟というよりダンジョンかな・・・。

 

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階段に書かれた段数と踊り場

この階段には、段数の数字が表記されています。そして、5段ごとに踊り場が設けられています。おそらく登りやすくするために設計したものと思われますが、何よりもぼってきた段数がわからないと、心理的に不安になってしまいますよね・・・(^_^;)

 

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200段ほど登った所から見る出口
スタート地点から200段ほど登ってきました。

ここまでくると、一番下よりだいぶ出口が見えてきます。それにしてもホームと駅舎を長時間で行き来する駅は珍しいですね。こんな山深い場所に駅の周辺に人が住む場所なんて考えられません。もっとも、この駅自体は生活のためというよりかは、もはや観光地同然といったところでしょう・・・。

ビクティニ:さっきよりだいぶ出口が近づいてきたぞ・・・。それにしても、ここは一体何のための駅なのだろう・・・。

ミュウ:さっき電車から降りた人たちの様子からすると、どうやら谷川岳の登山かハイキングに使うための駅みたい。

作者:多分登山家の人たちは、ここでウォーミングアップするでもするんだろうね。

 

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階段の途中に設置されたベンチ

階段の踊り場には、時々このようなベンチが設置されています。

この階段を登る人が、休憩できるようにするために設置されているようです。

 

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出口は近い!

400段を過ぎると、もう出口は目の前に近づいてきます!お年寄りの人にはきついのかもしれないのですが、そこまで急でない階段なら私のような30代でも普通に登れるレベルです。中にはわざわざ見学に来る親子連れも見られました。

 

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階段通路 出口

階段をのんびり登り始めて10分、ようやくトンネル階段の出口に近づきます。そして、462段の階段を登りきると、『ようこそ 土合駅へ』のメッセージが出てきました。

 

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出口から階段を見下ろす
一番上から登ってきた階段を見下ろしてみます。

この階段の奥に下りホームがあるのですが、この階段の長さから見れば相当深く、駅舎からだいぶ離れた場所にあるということがお分かりいただけるかと思います。

ビクティニ:ようやく階段を登りきったよ・・・。あんな遠くにホームがあるなんて考えられない・・・。

ミュウ:トンネルの中に駅があるなんでビックリだよね(゜o゜;

 

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階段の刻印

この階段自体も1967年に作られていたんですね。ということは、この階段も下りホームが完成してから50年以上経っているということになるでしょう・・・。

 

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通路からは湯檜曽川が見える

登りきった階段の先の通路からは湯檜曽川が流れています。この川の上流には『一ノ倉沢』があります。そしてこの川を下っていくと利根川と合流します。

 

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通路の先には・・・

階段を登りきると、正面に三角の仕切りが立っています。これは列車がトンネルに進入してきた時に発生した風圧を外へ逃がすためのようです。ここまでは通路は広いのですが・・・。

ビクティニ:ようやく地上に出られたと思ったら・・・。まだ出口じゃないのか・・・。

ミュウ:なんか仕切りがあるよ。この先は一体・・・。

 

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さらに狭い通路が続いている

仕切りの横から進んでみると、何か扉があります。

その扉には『お疲れさまでした』と書いてあり、さらに『改札出口まであと143メートル 階段2箇所で24段です。がんばってください』のメッセージが!そう、トンネルの階段を抜けたとはいえ、まだまだ終わりではありません。この先もまだまだ通路が続きます。

 

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狭い通路
先程まで広かったトンネル階段とは打って変わり、今度は監獄のような細い通路を進んでいきます。

トンネル階段の通路は常時蛍光灯が付いていたのに対し、昼間なのにも関わらずこちらの通路は薄暗いです。かわりに窓からの日光でかろうじて通路を照らしています。ちょっとシュールな雰囲気ですね・・・。途中にある2箇所の12段の階段を通過すると、合計486段の階段をすべて登り切ったことになります。

 

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出口へ!

486段の階段をすべて登りきると、ようやく出口へでられます。

ビクティニ:長かった・・・。

ミュウ:ようやく出口だね・・・。

 

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土合駅 改札口

ようやく駅舎に到着しました。

ここは無人駅であるため、当然ながら改札口には駅員さんはいません。乗車券は回収箱に入れます。ちなみに有人駅時代は、下り列車が発車する10分前には改札が打ち切られるという注意があったようです。

ビクティニ:駅舎まで来たけど、駅員さんはいないみたい。

作者:駅員さんがいない無人駅では、使った切符は回収箱に入れるんだよ。

ミュウ:なるほど・・・。

ビクティニ:でも乗越精算しないで下車したら大変なことになるのかな・・・?

作者:その場合は『キセル乗車』になっちゃうからね・・・。

 

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土合駅 時刻表

土合駅の時刻表です。見ての通り、本数は1日に5~6本と本当に少なく、指で数えられるぐらいしかありません。乗り遅れたら大変ですので、発車時間に遅れないように注意しましょう。他にも路線バスも出ているので、もしJR以外の交通手段も検討されているのであれば、それも活用してみてもいいでしょう。ちなみに最終は水上方面が18:18発、長岡方面が20:59発になります。

 

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土合駅駅舎

土合駅の駅舎です。

山奥にある割には、大きくて立派な駅舎ですね。『ようこそ日本一のモグラ駅 土合へ』のメッセージも野趣溢れています。駅舎自体も昭和レトロな感じでだいぶ年季が入っているようです。先程の下りホームの標高が583メートルなのに対し、こちらの駅舎の標高は653メートルあります。この駅では谷川岳へ登山やハイキングに行く人がよく利用します。また、谷川岳ロープウェイのりばまでの路線バスも出ているので、登山でなくとも天神平のハイキングだけでも満喫できます。

 

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下りホームへ続く通路

先程、下りホームから階段を登ってきた通路が国道291号と湯檜曾川を越えて地中へ入っていくのが見えます。そう、この先には例の『下りホーム』があります。それにしても、こんな通路よく造れたものだと感心してしまいます。

 

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土合駅のカフェ
ここは土合駅の事務室だったようですが、無人化になったことで使われなくなったスペースは、今や駅カフェに改装されています。

この駅カフェでは、かつて駅員さんたちが常駐していた当時の事務室の雰囲気を肌で感じながら寛ぐことができます。また、紅茶やコーヒー、チーズケーキが召し上がれる他、地ビールも購入できます。実は、先程の地下ホームの物置(?)に保管されていたビールは、ここで販売されています。これは地下ホームの自然冷蔵を利用して熟成させることで、美味しいビールが飲めるということですね。

 

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駅カフェで食事
駅カフェでは、かつて事務室だった部屋を憩いの場として再利用されているようです。

例えば、きっぷ売り場に使われていたテーブルが、カフェのテーブルとして使われています。まるで自分が駅員さんになった気分ですね。カフェオレにチーズケーキを注文しました。そして、『上越線ビール』もお土産に持ち帰ります。カフェでは高崎駅の売店で購入してきた『おぎのやの釜飯』と一緒にいただきます。雑誌や写真集も用意されているので、見てみると特急とき号で活躍した181系の写真集がありました。

ビクティニ:駅舎の事務室だった部屋で食事ができるのもいいね。いただきます!

ミュウ:チーズケーキも美味しい!

サンダース:カフェオレも美味しい!

 

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かつてのきっぷ売り場の窓口

かつて使われたであろう窓口も当時のままで残っています。昔はここできっぷを売っていたのでしょう。

 

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土合駅について

JR上越線の一部分が上下線でそれぞれ別れている区間があるのですが、それが群馬県と新潟県の県境です。上下線が離れているだけでなく、それぞれの高低差が大きいのも県境区間の特徴です。

 

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土合駅周辺の観光案内

土合駅の周辺です。

周辺には谷川岳や天神平、一ノ倉岳、一ノ倉沢などの名所があります。『土合口駅』から谷川岳ロープウェイで天神平や谷川岳へ行くことができます。ロープウェイ乗り場まではバスか徒歩(ただし30分ほどかかる)で行くことができます。

 

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上りホームへの通路

上りホーム(水上・高崎方面)への乗り場は、先程の下りホームと違って、駅舎からすぐ近くにあります。

 

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土合駅 上りホーム

上りホームは駅舎からはそれほど離れておらず、30秒で到達できます。

先程の下りホームはトンネルの中にあるのに対して、上りホームは何の変哲もない普通のホームで地上にあります。

上りホームも下りホームと同様、ホームが長いです。やはり急行や特急が通っていた名残と思われるでしょう・・・。上越線は昭和6(1931)年に全線開業し、土合駅も当初は信号場として開業しましたが、のちの昭和11(1936)年には駅へ昇格しています。上越線は首都圏から新潟や日本海沿いを結ぶ幹線ということもあり複線になっていますが、実はもともと単線だったのです。トンネルの中にある下りホームは昭和42(1967)年に完成していますが、こちらの上りホームは上越線の開業時とともに開業しているため、戦前から設置されています。

 

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単線時代の名残と思われる線路跡

下りホームが出来るまでの上越線は単線だったということもあり、現在の上り線の反対側には、行き違いに使われたと思われる線路跡が残っています。上越線の複線化ならびに下り線の開通ともに使われなくなり、後に線路は撤去されたようです。

 

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上りホームに進入する普通電車

15:31、接近放送などもなく唐突に普通電車が入ってきました。ここに来る電車はすべて水上行きです。これに乗って水上駅へもどります。なお、先ほど説明したようにSuicaやPASMOはおろか券売機も無いので切符さえも購入できません。そこで土合駅から乗車する時は、駅舎に設置されている『乗車証明書発行機』にて証明書を発行し、それを下車先の駅で精算するか、車内で車掌さんに精算してもらう形になります。

ビクティニ:電車が入ってきた!そろそろ水上へ帰るか。

ミュウ:到着の案内放送がないから、帰りの電車は時刻表は確認しておかないといけないみたいだね。

 

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湯檜曽のループ線
水上駅へ向かう途中で、進行方向右側を見下ろしてみると、なんと真下に線路が続いているのが見えます!

それもそのはず、ここは『ループ線』になっているのです!『ループ線』とは一定の高低差に対して勾配を緩和させるためにとられた方式のことで、鉄道は急勾配に弱いため、上越国境のような山間部に鉄道を通すのが至難の業だったといます。そこでループ線方式を用いることで勾配を緩和させ、高低差をかせぐことができます。もっとも現在の上り線は戦前にできたもので、当時は下り線のように長大なトンネルを通す技術が無かったので、このようにループ線が採用されることになった経緯があります。この路線が単線だった頃は、このループ線を登る列車が見られたことでしょう・・・。

ビクティニ:あんなところに線路が続いている!

ミュウ:もしかしてここは・・・?

作者:そう、このあたりは山間部だからループ線をとることでこの高低差に対し勾配を緩和させることが出来るんだ。

 

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水上駅

ということで、水上駅へ戻ってきました。ここは群馬県で有名な温泉地で、谷川岳への玄関口にもなっています。わざわざ土合駅から行かなくても直接バスでロープウェイのりばまで行くことができますが、登山やハイキングのウォーミングアップのために土合駅の階段を登ってから谷川岳へ登山に行く登山家のように、観光なら土合駅の階段を登ってからロープウェイで天神平でハイキングしても良いのかもしれません。

ビクティニ:どうせなら天神平もいってみたかったかも・・・

ミュウ:でも今日は若干雨も降ってたみたい・・・。

 

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水上駅のSL

水上駅の転車台のある広場で展示されているSLも威風堂々しています。週末になると不定期にSLが走ります。しかしこの日はSLが走っていないようです。

 

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夕食

水上駅前にある食事処でうどんをいただきました。うどんにしては丼ではなく丸ごと鍋で提供するのが些か野趣溢れていますな・・・。

ビクティニ:いただきます!

ミュウ:美味しい!

作者:ちょっと量が多いかも・・・。

 

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水上館

この日は、『水上館』さんにて宿泊しました。古い旅館ですが、水上温泉で宿泊するのには比較的リーズナブルです。お風呂の種類も豊富なので、私が水上温泉に宿泊するのにはおすすめだと思います。

ビクティニ:なかなかいい雰囲気の旅館だね。長い旅行でもお世話になりたいぐらいだ。

ミュウ:純和風なのがいいんだよね。

 

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旅館の部屋でラブライブを観る

ビクティニ:旅館でラブライブのアニメを観るのも楽しいよねw

ミュウ:かわいい!

サンダース:そろそろお風呂に入ろうぜ。

 

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水上名物のどら焼きもいただく

ビクティニ:いい湯だったな~。風呂上がりにどら焼きをいただくか。いただきます!・・・これはうまいぞ!

ミュウ:これは美味しいね!

サンダース:クリーミィな美味しさがたまらん!

作者:実はこれ水上駅前のお土産屋さんで買ったんだよ。

 

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水上館のお部屋から上越線の電車を観ることが出来る

お部屋によっては、窓から上越線を走る電車や貨物列車が見られます。こうして旅館の部屋から電車が見られる旅館ってなかなか無いですよねw 鉄道ファンなら嬉しい旅館といっても過言ではないでしょう。私も鉄道ファンなので、水上温泉にきたら是非泊まりに行きたい旅館だと思いました。

 

『日本一のもぐら駅“土合駅”に行ってきました』をお伝えしました。

京都で友禅染を体験!

皆さん、こんにちは。

今年の夏休みは東京五輪開催で盛り上がっているようです。『コンパクトなオリンピックにする』と言いつつも、結局派手にやってしまいました。また、例の病気が蔓延している最中という状況下ということもあり、複雑な気持ちで観戦していた方々が多いかと存じます。それは私も同じ心境で観戦していました。

さて、今回は京都のとある体験工房で『友禅染(ゆうぜんぞめ)』を体験してきました。

 

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友禅染

『友禅染』とは、主に着物や帯の染め文様における代表的な技法の一つで、布の上に絵描くように多彩な色で表現するための染色方法のことを言います。

京都の友禅染めは、一般的に『京友禅』と言われ、日本三大友禅の中でも歴史が古いことから、染めの技法としては豪華絢爛で、まさに文様染めの伝統工芸としては代表的なものになっています。しかも、国内だけでなく世界的にも有名になりました。

他にも『加賀友禅』や『東京友禅』、『十日町友禅』などがあり、いずれも基本的な友禅技法は共通ですが、地域によっては雰囲気や製作工程が異なります。

 

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友禅染に使う絵枠

 

友禅染の特徴としては、『糸目糊(いとめのり)』を用いて模様の輪郭をなぞり、隣り合う色が混色しないように防染し、絵画のような模様を染め描くものです。

この体験では、自分の好きな絵枠を選び、それを用いて白いハンカチの隅に模様を染め描きます。この時、私はあじさい模様の柄を選択しました。

 

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糸目糊を敷き染料で模様を付けていく

まずは絵枠をハンカチの隅に固定し、そこに糸目糊を塗ります。糸目糊はベラの先端に付け、絵枠に塗っていきます。すると、穴の空いている箇所だけ糊が付着するので、塗り終わったらしばらく乾かします。乾かした後、染料を塗りたい箇所に当て、そこを指爪で押し付けます。すると、写真のように色が付きます。

このように紙の絵枠を用いて移し染めるものは『型友禅(かたゆうぜん)』と呼びます。

他にも、素手で模様雨を施した『手描き友禅』があり、『豆描き友禅』『無線友禅』など糸目を使わない染め方もあるなど、種類は様々です。

 

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友禅染め 完成

このように鮮やかに模様ができました。

完成した模様を見ると、まさに和の模様そのものですね。

このように『友禅染』が日本の伝統工芸の一つになったかというと、江戸時代の元禄年のこと、京都の扇面絵師である宮崎友禅斎によって考案されたことが発端だといわれています。『友禅染』という名称もその創始者の名前から来ています。

友禅染に使われる糸目糊も友禅斎が発明したもので、もち米や糠、塩を混ぜて『澱粉糊(でんぷんのり)』として使われるようになりました。このように澱粉糊を用いることで、絵画的な文様を自由に染め描く技法が発達するようになったのです。

そして明治に入ると化学染料がヨーロッパより伝わり、これまでの澱粉糊からゴムのりが用いられるようになり、今回の体験のように型友禅が流行するなど、友禅染は世界的に注目を集めています。こうして、友禅染は現代の着物でも見られ、今でもその文様染めの文化は引き継がれているのです。

 

以上、『京都で友禅染を体験!』をお送りいたしました。

EF63型電気機関車の体験運転をしてきました!

皆さん、こんにちは。

今回は6月のある日、かつて碓氷峠で活躍していた『EF63型電気機関車』の体験運転をしてきました。

 

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高崎駅

さて、朝6時に家を出て『碓氷峠鉄道文化むら』へ向かいます。

新幹線で高崎駅まで向かい、さらに高崎駅からJR信越本線で横川駅へ向かうと『碓氷峠鉄道文化むら』に到着するはずです。なお、横川方面へ向かう列車本数は概ね1時間おきに1本と少なめなので、電車で碓氷峠鉄道文化むらへ行く場合は、事前に乗換案内で確認しておくことをおすすめします。

ビクティニ:久しぶりの高崎だ!どうせなら富岡製糸場みたいな

ミュウ:今はそんな場合じゃないでしょうw

ビクティニ:ははは・・・冗談。

 

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信越本線 横川駅

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横川駅から先は行き止まり

高崎駅から普通電車に乗り継いで約30分・・・・横川駅に到着です。

高崎から出ている『信越本線』ですが・・・見ての通り横川駅で終わっています。

実は24年前、さらにここから先は、軽井沢方面へ線路が続いていたのです・・・。それもそのはず、『信越本線』はもともと高崎から長野、直江津(上越市)、長岡、新津を経て新潟と結ぶ路線であり、後に開通する上越線ができるまでは、東京と新潟を結ぶメインルートとして設定されました。ところが、途中にある『碓氷峠』こそ、日本の鉄道の中でも難所の難所といわれていたのです。

今ではここから軽井沢まで行く鉄道線はありませんが、軽井沢までは路線バスで行くことができます。

 

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碓氷峠鉄道文化むら

ということで、雨の日の中、『碓氷峠鉄道文化むら』に到着です。

ここでは、その碓氷峠を通っていた旧碓氷線(旧信越本線)の歴史を後世に伝えるための博物館として、様々な鉄道車両および鉄道施設などが展示されています。そして、碓氷峠の印象らしく『66.7‰』の標識も展示されており、いかに碓氷峠が厳しい難所であったということを物語っています。

碓氷峠は、大昔から東京から長野・北陸などへ通づる関所として古くから知られてきました。

江戸時代、東海道において『箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川』のごとく箱根や大井川という難所があるように、東京と京都を結ぶ『中山道』においても『碓氷峠』という難所があったのです。明治に入ると、鉄道を敷設するという計画が持ち上がります。

当初は中山道を通じて首都圏と京都を結ぶ鉄道ルートが検討されましたが、地形的に山脈を横切るためあまりにも難工事であることから断念します。そこで、今度は太平洋側と日本海側を結ぶためのルートが提案され、再度鉄道の敷設が開始されます。その中で、『スイッチバック』あるいは『ループ線』、またはその両方の方式で敷設するという案が検討されたものの、碓氷峠のあまりに険しい地形ならびに当時の建築技術などの面から難しかったといいます。最終的にはドイツの鉄道を参考に『アプト式鉄道』が採用されました。

 

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旧信越本線 横川~軽井沢間(碓氷峠)で採用された『アプト式』
そして、これまで中山道を歩いて峠を越えていた旅人たちにとって、碓氷峠に念願の鉄道、信越本線の横川~軽井沢間(『横軽』ともいう)が明治26(1893)年に開通しました。

トンネルの数が26箇所、明治土木特有の煉瓦造りの橋梁が18箇所高低差553メートル線路の敷設区間11.2km、さらに『66.7‰(1kmの距離に対して66.7メートルの高低差のこと)』という条件の下、厳しい敷設工事となったのです。中でも一番大きい橋梁『めがね橋』こと『碓氷第三橋梁』は高さ31メートルあり、過酷な土木工事であったことが分かります。

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3900型蒸気機関車
当初はドイツから輸入された『3900型蒸気機関車』で運行開始、のちに煙突の形を工夫した3920型、そして国産の3980型などのアプト式の蒸気機関車が導入されます。

ところが実際の運用上、横川~軽井沢の所要時間が76分ととても長く、最高時速は約9㎞、1日24往復、さらに位置列車につき10両が限界と非効率的かつトンネルの多い環境などから、SLによるばい煙が問題となりました。

そこで明治後半になると、碓氷線における輸送力増加ならびに安全性を見直すため、SLから電気機関車へ置き換える計画が持ち上がります。その際、当時はまだ電気が普及していなかった電力事情などの面から、火力発電所の新設に加えて、丸山変電所および矢ヶ崎変電所も新設されます。

こうして、信越本線の横川~軽井沢間は、明治45(1912)年に電化され、所要時間も50分に短縮されました。

これは、日本の幹線鉄道における初の電化区間となったのです。また、同時にドイツから輸入されたアプト式電気機関車『10000(EC40)型』日本初の電気機関車でもあります。のちに国産のED40型も導入、そしてアプト時代の碓氷線における主役とも言えるべきアプト式電気機関車『ED42型』が昭和9(1934)年に導入されました。

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アプト式電気機関車『ED42型』
『ED42型』国産のアプト式電気機関車で、合計28両が製造され、戦前から昭和38(1963)年までの長い間、まさにアプト時代の碓氷線の主役として活躍してきたのです。

『アプト式機関車』とは、機関車本体に施された『ピニオン』といわれる歯車と線路の中央部に敷かれた『ラックレール』を噛み合わせることで、碓氷線のような急勾配を安全に列車を通過させることができる鉄道方式のことです。また、ラックレールについているそれぞれの歯の位相をずらすことで、駆動力の円滑化ならびに歯車の長寿命化を図るとともに、歯車とラックレールが深くかみ合わせ、安全に列車を通過させることができたといいます。長編成の貨物列車や優等列車では、軽井沢方面に1両横川方面に3両で列車を挟むように連結し、運行されていたようです。

しかし、旧信越本線の横川~軽井沢間のアプト時代の場合、電化方式が東京メトロ銀座線や丸ノ内線と同様『第三軌条方式(600ボルト)』で電化されており、従来の『アプト式』のままだと、やはり輸送面や所要時間において非効率的であることに変わりありません。そこで、新たに『粘着運転方式』へ移行するという計画が持ち上がり、開業から約70年間活躍してきた『碓氷旧線(信越本線旧線)』こと『アプト式』は昭和38(1963)年をもち廃止となりました。

ちなみに、現在日本でアプト式鉄道が体験できるのは、文化むらの『アプトくん』または大井川鉄道井川線のみです。

 

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EF63型電気機関車

そして、従来の『アプト式』よりさらなる輸送力増加および効率的な『粘着運転方式』を実現するため、『碓氷新線(信越本線新線)』の敷設ならびに碓氷峠専用の補助機関車が開発されることになります。

そこで横川~軽井沢間において碓氷峠を越える列車たちを支えるための補助機関車として、『EF63型電気機関車』が昭和37(1963)年に開発されました。

これは碓氷峠の鉄道を支えた守り神にして『峠のシェルパ』といわれていたことでも有名です。

『EF63型』は、単に貨物列車や客車列車の牽引などを用途とした機関車とは違って、当時のJR(国鉄)において最大の急勾配とされる碓氷峠を越える列車たちを支えることを目的に造られたため、他の機関車には無い特殊な機能や装置などが備わっているのです。例えば、急勾配区間を走行する際の勾配抑速用の発電ブレーキをはじめ、列車の暴走から守るための過速度検知装置(OSR)、非常用として電磁吸着ブレーキ、勾配上で長時間停車した際、ブレーキの空気圧が低下してもブレーキの緩みを防ぐロックシリンダなど、様々な安全装置が数多く備わっています。また、EF62型をはじめ、169系、189系、489系、115系電車などとの協調運転を可能にするため、軽井沢方向に多数のジャンパ栓も施されているのも碓氷峠専用の電気機関車としての特徴でもあります。

実際の運用では、軽井沢方面へ向かう下り列車なら、機関車2台がペアとなって列車を押し上げるように進み、横川方面へ向かう上り列車なら、2台の機関車が先頭に立ち、列車を牽引するように列車を支えつつ『発電ブレーキ』を駆使し、急勾配を下っていました。

★EF63型電気機関車 諸元★

  • 軸重18トン
  • 運転整備重量108トン
  • 最大出力2,550kw
  • 軸配置B-B-B
  • 主電動機MT52型✕6
  • 全長18メートル
これらの性能から考えれば、まさに碓氷峠という急勾配に克服するための電気機関車として活躍したということが伺えます。

やがて、国鉄からJR東日本への移行とともに平成に入ると、『長野新幹線(のちに北陸新幹線)』の建設が始まります。そして、長野新幹線の開業決定とともに、これまで『峠のシェルパ』として活躍してきたEF63型は、平成9(1997)年9月30日を最後に鉄道界から姿を消すこととなりました。それと同時に碓氷線(信越本線横川~軽井沢間)も廃止となり、104年におよぶ碓氷峠の鉄道歴史はこれにて幕を下ろすこととなったのです・・・。こうして廃止から24年が経ち、碓氷峠と厳しい戦いを繰り広げた碓氷線は、今でも深い眠りについているのです・・・。

ビクティニ:一見すると普通の電気機関車に見えるけど、実は碓氷峠を通過する列車たちを支える機関車だったんだね。

ミュウ:これが峠を越えるための機関車だったというのを考えれば、ちょっと変わってるよね。

 

さて、碓氷峠の鉄道の歴史を一通り説明したところで、今回の『EF63型電気機関車』の体験運転について説明すると、体験運転をするには、まず講習を受けなければなりません。

そのEF63を運転するにあたっての講習会は、毎月1回で第三週土曜日にて行われます。講習会受付日は、受ける講習の月より2ヶ月前1日の10時から予約が始まりますが、基本的に電話のみの受付になります。しかも、EF63体験運転は人気が高く、予約開始から数分で締め切られることもザラですので、諦めずに何度も電話をかけ直して予約完了させるメンタルがないと講習まですら行くのは難しいでしょう・・・。

講習料は3万円と結構高めで、講習の内容としては、碓氷線の歴史やEF63の概要および構造、実技講習となります。最後に修了試験がありますが、試験と言ってもそこまで難しいものではないようです(60点以上で合格)。

ということで、講習の内容を一通りまとめると・・・

10時から講習が始まります。午前中は信越本線の横川~軽井沢間の鉄道『碓氷線』についての歴史をはじめ、EF63型の仕組みについての座学を受けます。そして、午後にはビデオ講習からEF63の実技講習を受けます。実技を受けるにあたって、元国鉄OBの方からの指示に従って機関車の点検方法を受けます。その過程で、OBの方が実際に現役当時の碓氷線で運行してきた時のエピソードなどを話したりしました。なるほど、鉄道で碓氷峠を越えるのがとても大変だったのかがよく分かりますね。さて、一通り講習を受けたら、最後に修了試験があります。試験の内容としては、碓氷線の歴史やEF63の操作方法などをまとめた、合計10問の三択問題になっています。これに合格すれば、初めてEF63の体験運転ができるようになり、『体験運転証明書』も発行されます。制帽も支給され、今後EF63型の体験運転を行う場合は、『体験運転証明書』および制帽、軍手(100均でも可)が必須になります。また、予約方法も電話で予約またはHPにログインして体験運転したい日にちを選択し、申し込むことになります。

★興味のある方はこちらからどうぞ★

www.usuitouge.com

 

さて、講習会は修了し、その翌日に体験運転を行うことになりますが、私が予約した時間帯は11時半と遅めな方です。なので、妙義温泉のホテルで宿泊してから再度文化むらへ行くことになります。

 

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妙義温泉のホテル 夕食

ということで、妙義温泉のホテルで宿泊しました。磯部駅からタクシーで3千円と高めでしたが、ホテルの夕食は美味しく、群馬地場産のものを使っているので美味しかったです。

ビクティニ:上州豚のしゃぶしゃぶがうまい!

ミュウ:カニもあるよ!美味しい!

 

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信越本線を駆け抜けるD51『SL碓氷』号

朝はホテルから松井田駅まで送ってもらい、また信越本線で横川駅へ向かいます。ホームへ入ると、何やら人々がホームでカメラを構えています。どうやらここにSLが来るようです。そう、信越本線の高崎~横川間には時々SLが走る路線なのです。しばらくホームで待っていると・・・

遠方から汽笛が聞こえてきます!

そして、轟音とともに目の前をD51が通過!

かつて首都圏から長野や北陸を結んだ特急たちが通った信越本線SLが駆け抜ける姿は、まさに圧巻です!

信越本線は、高崎を起点とし、長野・直江津・柏崎・長岡を経由して新潟を結ぶ路線として敷設されましたが、平成9年の横川~軽井沢間廃止をはじめ、軽井沢~篠ノ井間が第三セクターの『しなの鉄道』へ移行、さらに平成27(2015)年の北陸新幹線とともに、長野~妙高高原間が『しなの鉄道』ならびに妙高高原~直江津間が『えちごトキめき鉄道』への移行とともに、信越本線は部分的に解体されています。同じ『信越本線』でも、群馬県では高崎~横川間、長野県では篠ノ井~長野間、新潟県では直江津~新潟間と部分的に途切れているのは、JRから新幹線と並行する在来線の譲渡がされているからだと考えられています。

 

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横川駅の構内

かつて廃線時の夜には多くの人々で賑わいを見せていた横川駅は、今やSLが走る日だけで賑わう小さな終着駅です。

’90年代後半頃(24年前)までは、たくさんのEF63型が滞留し、長野や北陸方面へ向かう特急たちと連結するための要駅として賑わっていたのです。

そのため、平成9年以前の横川駅の構内は非常に広く、ホームも4番線まである2面3線で、機関車を待機させるための側線も数多く敷かれていました。1番線と3番線の間にある中線も、かつて横川~軽井沢間の鉄道が現役であった名残として感じ取れます。また、列車の連結作業を伴う停車時間を利用して、『峠の釜めし』という駅弁をホームで販売する光景も見られました。乗客もその楽しみとして、『峠の釜めし』は非常に好評で、廃線になってもなおも名物の駅弁として今でも親しまれています。

ビクティニ:デゴイチも最高にかっこいいけれど、この鉄道の歴史にもロマンが感じられる・・・。昔はここにたくさんの特急が通っていたということを考えれば、当時はとても賑やかだったんだろうね・・・。

ミュウ:昔はブルートレインや貨物列車も通っていたのかな?

 

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『碓氷峠鉄道文化むら』の敷地内はかつて『横川運転区』だった
今や多くの鉄道ファンや親子連れ、観光客などで賑わう『碓氷峠鉄道文化むら』は、かつて『横川運転区』、国鉄時代は『横川機関区』の構内であったのです。

例えば、EF63型が入っている建物を見てみれば、碓氷線の現役当時は機関車の保守点検を行うための設備であるということが分かります。また、敷地内に敷かれている線路跡もまさに当時の名残を物語っています。いわば、ここは碓氷峠を越える機関車たちの車両基地だったということですね。

 

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EF63型電気機関車の運転台

さあ、本題の『EF63体験運転』と行きましょう!

まずは、鉄道資料館2Fの受付にて体験運転の証明書を見せ、体験運転料金5,000円(30回目からは4,000円)を支払い、軍手をはめて制帽を被ったら、体験運転の待機所へ。

今回は『通常』なので、指導員の指示の下で点検から運転までの操作を行います。なお、運転回数が10回に達すると『見習い機関士』、30回になると『補助機関士』、50回になると『本務機関士』、400回になると『優良機関士』そして500回に達すると『優秀機関士』の腕章が贈呈されます。

運転台の左側には『自動ブレーキ弁(自弁)』および『単独ブレーキ弁(単弁)』、右側には『逆転ハンドル』および『ノッチ(マスコンハンドル)』、そして中央には速度計をはじめ、電圧計、電流計、ブレーキ圧計、表示灯など、碓氷峠越えに必要な様々な計器が配置されています。右側のマスコンハンドルと逆転ハンドルには、普通の機関車には無い特殊な機能が備わっています。特にマスコンハンドルには通常のノッチの他、『発電ブレーキ』が備わっているのが碓氷峠専用の機関車ならではの特徴であり、主に上り列車(勾配は下り坂)では活用されていました。

 

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EF63型電気機関車 体験運転

操作手順として以下の通りです。

★運転準備★

(1)パンタグラフの上昇

  1. バッテリーNFBを『ON』
  2. 逆転ハンドルを『力行』位置へ(前進または後進)合わせてから『中立』へ戻す。
  3. パンタグラフのスイッチを『全上』(2つともパンタグラフが架線に完全接触しているか確認)

(2)空ノッチ試験

  1. ブレーキシリンダ圧力が390kPaになるように確認(単弁は『緩ブレーキ』位置、自弁は『保ち』位置)
  2. スイッチ整備(ATSおよび各NFBを『ON』)
  3. 後進力行『1~6~OFF』(表示灯が点いているのを確認してから少しずつOFFに戻す)
  4. 前進力行『1~6~OFF』(上記と同様にランプ点灯確認)
  5. 前進発電『B~B9~OFF』(上記と同様にランプ点灯確認)

(3)通電試験

  1. HB又入れ(リセット)、MR・MM送風機NFBを『ON』
  2. 前進力行『1ノッチ→OFF』(表示灯点灯を確認してから戻す)
  3. 後進力行『1ノッチ→OFF』(上記と同様)
  4. HB保ちNFBを『OFF』 『HB遮断』表示灯が点灯するのを確認
  5. HB保ちNFBを『ON』
  6. MR・MM送風機NFBを『OFF』

(4)ブレーキ試験

  1. 単弁を『運転』位置、自弁も『運転』位置に合わせる
  2. 自弁 

    ①感度試験 ブレーキ管圧力を40kPa『減圧』 

    ②漏洩試験 ブレーキ管圧力を60kPa『減圧』 漏洩30秒間で20kPa以下

  3. 単弁 BC(ブレーキシリンダ)圧力確認

  ①作用部の感度試験 緩ブレーキを30kPaずつ3回加圧し、100kPa、3回で緩める。 

  ②圧力試験 急ブレーキ位置390kPa 『ユルメ』位置 戻しバネ確認

★運転台変更(エンド交換)★

(1)№1運転台

  1. 自弁 常用全制動(ブレーキ管減圧量140kPa)
  2. スイッチ整備(ATSおよび各NFBを『OFF』)
  3. 切り替えコック 『2』位置へ合わせる
  4. MR・MM送風機NFBを『OFF』
  5. パンタグラフのスイッチを『全下』位置へ。
  6. 線電圧計が『0V』(パンタグラフ降下)を確認し、パンタグラフのスイッチを『閉』位置へ
  7. 標識灯およびMR・MM送風機NFBを『ON』
  8. 自弁・単弁・逆転のハンドルを抜き№2運転台へ移動

(2)途中の通路機械室にてATS切り替えスイッチ エンド『№2』および上下『下り』へ切り替え

(3)№2運転台

  1. 自弁・単弁・逆転のハンドルを挿入
  2. 標識灯およびMR・MM送風機NFBを『OFF』
  3. パンタグラフのスイッチを『全上』位置へ
  4. 切り替えコック 『1』位置へ合わせる
  5. スイッチ整備(ATSおよび各NFBを『ON』)
  6. 自弁『保ち』位置、単弁『重なり』位置へ
  7. 空ノッチ試験 前進力行『1~S~OFF』(表示灯が点いているのを確認してから少しずつOFFに戻す)
  8. 通電試験 HB又入れ(リセット)、MR・MM送風機NFBを『ON』 前進力行『1ノッチ→OFF』(表示灯が点いているのを確認してから少しずつOFFに戻す)
  9. ブレーキ試験
  • 自弁 『運転』位置 ブレーキ管圧力490kPa BC圧力0を確認 『常用ブレーキ』位置 ブレーキ管圧力60kPa以上『減圧』BC圧力150kPa以上になっていることを確認
  • 単弁 『急ブレーキ』位置 BC圧力390kPa 『ユルメ』位置 戻しバネ確認

★上り坂運転★

  1. 元空気ダメ圧力640~790kPaを確認
  2. 逆転ハンドルを前進力行(PF)位置 マスコンハンドルを『1』ノッチ
  3. 電流確認 BC『0』を確認 1番目のポイントレールまで『6』ノッチ
  4. 1番目のポイントレール通過後、『S』ノッチ 進段完了後、そのまま運転惰行
  5. 2番目のポイントに近づいたら『6』ノッチに戻して通過。
  6. 停止目標に接近したら、ノッチを順次戻し、『3』ノッチへ
  7. 停止目標に合わせ自弁でブレーキ管を40kPa減圧させ『停止』
  8. 停止後、すぐにノッチを『OFF』

★運転台変更★

(1)№2運転台

  1. 自弁 常用全制動(ブレーキ管減圧量140kPa)
  2. スイッチ整備(ATSおよび各NFBを『OFF』)
  3. 切り替えコック 『2』位置へ合わせる
  4. MR・MM各送風機NFBを『OFF』
  5. パンタグラフのスイッチを『全下』位置へ。
  6. 線電圧計が『0V』を確認し、パンタグラフのスイッチを『閉』位置へ
  7. 標識灯およびMR・MM送風機NFBを『ON』
  8. 自弁・単弁・逆転のハンドルを抜き№1運転台へ移動

(2)途中の通路機械室にてATS切り替えスイッチ エンド『№1』および上下『上り』へ切り替え

(3)№1運転台

  1. 自弁・単弁・逆転のハンドルを挿入
  2. 標識灯およびMR・MM送風機NFBを『OFF』
  3. パンタグラフのスイッチを『全上』位置へ
  4. 切り替えコック 『1』位置へ合わせる
  5. スイッチ整備(ATSおよび各NFBを『ON』)
  6. MR・MM各送風機を『ON』
  7. 自弁『重なり』位置、単弁『運転』位置へ
  8. 逆転ハンドル『前進発電(FB)』位置 ノッチハンドル『B9』位置へ
  9. ブレーキ試験
  • 単弁 『運転』位置
  • 自弁 『重なり→運転→保ち』位置へ移動、BC圧力200kPa 『常用ブレーキ』位置にてブレーキ管圧力60kPa以上『減圧』BC圧力上昇を確認 
  • 単弁 『急ブレーキ』位置にてBC圧力200kPa 戻しバネ確認後、『運転』位置へ 

★下り坂運転★

  1. 自弁で3回に分けて緩めて『発車』 発電ブレーキが立ち上がっているのを確認
  2. 2番目のポイント通過後、ノッチハンドルを『B8』に合わせる
  3. 途中のブレーキ扱いは指導員の指示に従う
  4. 1番目のポイントレール通過時に制限速度が5km/h以下になっているのを確認
  5. 停止目標に合わせて停止した後、自弁で常用全制動(ブレーキ管減圧量140kPa)
  6. HB保ち NFBを『OFF』 『HB遮断』表示灯点灯確認後、HB保ちNFB『ON』
  7. 前進力行位置で『1ノッチ→OFF』
  8. スイッチ整備(ATSおよび各NFBを『OFF』)
  9. MR・MM各送風機NFBを『OFF』
  10. パンタグラフのスイッチを『全下』位置へ合わせ、線電圧計が『0V』になっていることを確認
  11. バッテリーNFBを『OFF』

  以上です。

ここまで手順が多いと、初めてやる人は混乱するかもしれません。ましてや、碓氷峠を越えるために設計されているがために、操作も思っていた以上に難しいです・・・。とまあ、昔の車両なのでこんな感じなのかという気持ちで留めておくのがいいでしょう(笑)

ということで、『EF63体験運転』はここまでです。お疲れさまでした!

 

   

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碓氷峠の最急勾配が68‰あった説

さて、鉄道資料館の方も見てみましょう。

資料館を見学していると、碓氷峠の最急勾配のことも展示されています。JR(国鉄)における最大級の急勾配をもつ『碓氷峠』の66.7‰で知られていますが、なんと実際には68パーミルもあったようです。

 

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薄い線の電化とアプト式電気機関車の変遷

日本の幹線鉄道で初めて電化された信越本線の横川~軽井沢間は、明治43(1910)年から電化工事され、明治45年から運行を開始したことから始まります。

日本初の電化が施された鉄道とはいえ、600ボルトの第三軌条方式で電化されたということもあり、トンネルの断面も小さかったので、大正期までの電気機関車も小ぶりです。これは『アプト式』という特殊な鉄道方式が用いられているため、運行しながらの保守が必要であるということから、第三軌条方式で電化された理由だそうです。最初にEC40型で運行され、所要時間も50分に短縮。SLの時と比べると運転環境は確かに良くなりましたが、故障が多く、SLに頼らざるを得ない場合もあったようです。さらにEC40より強力なED40型を導入し、初めて1列車に3両の電気機関車で運行が可能となり、SLによる運行は終了。さらに大型のED41型もスイスから輸入され、台車もボギー台車を装備、初めて過速度検知装置が装備され、一定の速度を超えると自動的にブレーキが掛かる装置が初めてこの形式で採用されます。しかし、スイス製の部品が使われているため、保守が困難なことから2両しか増備されませんでした。

そこで、ED41型をベースにしたED42型こそが日本におけるアプト式電気機関車の決定版とされ、アプト時代の碓氷線の全盛期で活躍しました。これまでのアプト式の電気機関車も含めて2軸の歯車を装備していますが、4両のED42型で約360トンの列車を牽引できたといいます。この時、軽井沢方向に1両、横川方向に3両というスタンスで運行することで、急勾配による転落から列車を守ることができたのです。

 

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アプト式の終焉

そして、長いこと碓氷線を支えてきたアプト式から粘着運転へシフトチェンジするため、新線の建設ならびに複線化工事が決まると、昭和38年をもって幕を閉じることとなったのです。

 

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碓氷新線の建設
かくして、昭和34(1959)年8月に新線の建設が始まり、急増する輸送需要に平均時速16kmのアプト式では対応できなくなり、アプト式は廃止にして粘着式による運行へ移行することが決定しました。

新線の建設に至っては、従来のアプト式と同様66.7‰の路線は残しつつ、電化方式も1500V給電の架電方式へ切り替わることとなりました。そして、昭和38年9月30日に新線への切り替えの完了とともに、70年におよぶアプト式の歴史は幕を下ろすこととなったのです。

碓氷線の建設ルートを決める際、明治22(1889)年の峠越えのルートが三つの案が出され、『中尾ルート』『入山ルート』『和美ルート』のうち、横川と軽井沢を直線で結ぶ『中尾ルート』が選ばれ、そのルートは66.7‰の急勾配を持ち、後に『日本一の急勾配』として知られるようになったきっかけとなったのです。なお、新線建設において建設する際、旧線よりやや南側に蛇行するように敷くか、または入山峠を通るように一部ループ線で通す案もあったようですが、最終的には旧線(中尾ルート)と並行するようなルートで敷設されることになったのです。

 

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峠のシェルパ EF63

このような経緯から、『峠のシェルパ』ことEF63型電気機関車が生まれるきっかけとなりました。

EF63は、碓氷峠における『粘着運転用』に対応するため、軸重18トンにして運転整備重量108トンというハイスペックが採用され、当時の電気機関車としては強力だったといいます。当初は客車列車や貨物列車がメインでしたが、後にヨンサントオのダイヤ改正(昭和43【1968】年10月のダイヤ改正)とともに169系や189系、489系などの電車運行も次第に行われるようになり、EF63と電車との協調運転が開始されます。さらに協調運転が可能な電車の開発も行われるようになり、当初8両が限界だったのが、次第に12両編成までの運行が可能になりました。また、当時は単線だったアプト時代では熊ノ平駅も設定されていましたが、複線化に伴い信号場へ降格となり、これまで給電してきた『丸山変電所』『矢ヶ崎変電所』も廃止となりました。なお、『丸山変電所』は復元されています。

★横川~軽井沢間の列車編成★

客車列車および貨物列車の場合

←軽井沢・長野方面       横川・高崎方面→

EF62+客車列車または貨物列車+EF63✕2両

 電車やディーゼル列車の場合

 ←軽井沢・長野方面       横川・高崎方面→

 電車・ディーゼル列車+EF63✕2両

 

しかし、平成に入り長野新幹線の開業が決まると、平成9年9月30日に碓氷新線も廃止となり、EF63の営業運転も終了。碓氷峠を越える鉄道は消滅することになります。

 

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碓氷峠鉄道文化むら ジオラマ運転
資料館1Fには、HOゲージのジオラマ運転が行われています。

鉄道模型の中には、EF63と特急『あさま』189系をはじめ、ブルートレイン『北斗星』、スーパービュー踊り子、成田エクスプレス253系、169系、489系、サンライズエクスプレス、デゴイチのSL列車、京浜東北線209系など、平成期に活躍した車両たちが走っています。

 

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碓氷峠鉄道文化むらに展示されている車両たち
碓氷峠鉄道文化むらの広場には、かつて国鉄時代で活躍した車両たちが静かに余生を送っています。

デゴイチことD51型蒸気機関車をはじめ、EF63型電気機関車の1号機、EF62型電気機関車、EF58型電気機関車、EF30型電気機関車、EF60型電気機関車、EF65型電気機関車、EF80型電気機関車、EF15型電気機関車、EF53型電気機関車、EF59型電気機関車、EF70型電気機関車の他、キハ20やキハ35などの気動車、DD51型ディーゼル機関車、除雪車、様々な客車も展示されています。

ビクティニ:わあ、デゴイチだ!かっこいい!!みんなぼくの大好きな車両ばかりだ!

ミュウ:定期的に補修もしているみたいだね。いつかボランティアにも参加してみたいかも・・・。

 

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EF63型と189系『あさま』

丘の上には、EF63型189系『あさま』が展示されています。

最後まで碓氷線で活躍したEF63と189系の姿は、まさに名コンビというべき存在感でもありました。

 

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丸山変電所

旧信越本線の線路跡が残る遊歩道を歩いてみましょう。

横川駅から延びる遊歩道の途中には煉瓦造りの『丸山変電所』がそびえ立っています。

『丸山変電所』は、明治45年の碓氷線の電化に伴い建てられたもので、アプト時代の信越本線を支えた重要な設備であったのです。この変電所は2棟の建物からなり、『機械室』『蓄電池室』に分かれ、蓄電池室には峠を越える機関車に必要な電力を312個の蓄電池で賄っていました。そのため、充電中は室内に水素や硫酸雲霧の有害物質が大量に発生するため、窓や引き戸などは換気できるように工夫されています。また、機械室では発電所から送られてきた交流電気を直流電気600Vへ変圧し、蓄電池室の蓄電池や機関車へ送電が行われました。もっとも、電化される前のSL時代はかなり過酷だったことから、当時の機関士や乗務員、乗客にとって碓氷線の電化は期待され、その時に建てられた変電所はまさに助け舟のような存在感でもありました。この変電所の役割として機関車に電力を供給することで、日本の鉄道における近代化に貢献した重要的な鉄道施設として価値が高いものとされました。そのため、平成6(1994)年に国の重要文化財に指定され、平成14(2002)年には復元されています。

なお、このような煉瓦づくりの建造物は、群馬県ではこの先にある『碓氷第三橋梁(めがね橋)』『富岡製糸場』などで見ることができます。

 

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旧信越本線 横川~軽井沢間の線路跡

平成9年9月30日まで様々な列車が通っていた碓氷線こと信越本線の横川~軽井沢間は、今となってはすっかり寂れています。

線路跡には、今では使われなくなった架線柱や信号機、標識、橋梁など、まるで時が止まったかのように、廃線当時のままで残されているのがシュールな雰囲気です。

下り線はトロッコが通っていますが、上り線は遊歩道になっています。平成に入るとともに在来線から新幹線へと交通の要が置き換わっていくと思えば、『時代の流れ』というのは無情なものだなと思わせてしまいます。廃線寸前は多くの人々で賑わっていたのでしょうが、今となっては閑古鳥が鳴くほど静まり返っています。架線柱や使われていない線路などは、いずれ自然に還っていくのでしょうか・・・。その遊歩道を歩く我々は、ただただ見守ることしかできません。

 

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さようなら横川駅

ということで、日が暮れてきたので、そろそろ引き上げるとしましょう。

かつてガンガン特急が通っていた信越本線の高崎~横川間は、SLと211系の普通電車が走っているだけです。

ビクティニ:さっきここにSLがいた時はすごく賑わっていたのに、夕方になると一気に寂しくなっちゃった・・・。

ミュウ:まあ、ここは田舎だからしょうがないのかもね・・・。帰ろうか・・・。

 

『EF63型電気機関車の体験運転をしてきました!』をお伝えしました。

 

★おまけ★

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東武8000系

高崎から八高線を通り、途中の寄居で東武東上線に乗り換えて帰宅します。

東武東上線のローカルエリアで活躍する8000系も貴重なものです。残り少なく、引退も近いと思われるので記録はお早めに。

ビクティニ:夜の田舎の電車も寂しい・・・。

ミュウ:古い電車だけど、なぜかホッとする・・・。