ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

春の大井川鉄道&アプト式鉄道 静岡の名所“寸又峡”へ


みなさん、こんにちは。

今回は大井川鉄道のSLアプト式鉄道、そして、寸又峡温泉夢の吊り橋まで行って参りました。

 

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大井川鉄道 金谷駅

大井川鉄道の入り口である金谷駅へはJR東海道本線金谷駅からのアクセスになります。

大井川鉄道への乗り換えは雨の日でも、小さな乗り換え用の改札口があるので、いちいち出口に出なくても乗り換えができます。駅員さんに切符(フリーきっぷ)やSLの急行券を購入します。フリーきっぷは『大井川周遊きっぷ』『大井川本線フリーきっぷ(2日間3,500円)』『井川寸又峡周遊きっぷ(2日間2,100円)』『川根温泉ふれあいの泉クーポン(1日間のみ、金谷駅から1,840円 新金谷駅から1,660円)』などの種類があります。大井川鉄道を存分に楽しみたいなら『大井川周遊きっぷ』が最適かと思われます。そのフリーきっぷは有効期間が2日用(4,900円)と3日用(5,900円)があり、普通に土日を挟んで大井川鉄道のSLやアプト式を楽しみたい人には2日用で十分に事足りるかと思います。3日用は土日祝、あるいは土日と有給休暇などを挟んだ連休などでSLやアプト式鉄道の乗車の他、SLや電車の撮影など、とことん大井川鉄道を満喫したい時におすすめです。

今回は2日用の『大井川周遊きっぷ』とSLの急行券を駅員さんから購入して、新金谷駅まで普通電車で行きます。ホームには元南海電車の21000系が停泊していました。

ビクティニ:この電車はとても古い電車だね。まるで昔の西武線に似ているね。

ミュウ:確かにそうかも。

 

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大井川鉄道の旧型客車たち

新金谷駅にやって来ました。

この駅が、SL急行の始発駅になります。

ここはたくさんの機関車や客車、様々な電車たちが停泊しています。中でも、留置線で休んでいる旧型客車たちが目立ち、客車や機関車だけでなく他の電車たちも昭和生まれということもあり、あたかもタイムスリップしたような雰囲気が漂います。

 

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新金谷駅 プラザロコ

新金谷駅の出口からすぐの所に『プラザロコ』があります。

ベンチが多く並べられ、SLの出発時間の待ち合わせや休憩などにちょうどいいでしょう。

かつて軽便鉄道で活躍した蒸気機関車井川線で活躍した客車などが展示されている他、様々な蒸気機関車の模型も展示されています。
売店では大井川鉄道に関するグッズ静岡のおみやげなどが買えます。また、様々な駅弁も買えます。

ビクティニ:小さな機関車や客車が展示されている・・・。みんな本物の鉄道車両なのも、まるで博物館みたい。

ミュウ:売店では色々なお土産品が売られているね。静岡ということもあってお茶も売られているね。

 

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井川線の客車にギャラリー

井川線の客車は中に入ることができるのですが、行った時は例の病気の影響もあり、客車には入れないようです・・・。その代わり、鉄道写真家の中井精也さんが撮った沿線風景や大井川鉄道で活躍する車両たちの写真が展示されています。

 

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SLの模型

 プラザロコで展示されているSLの模型は日本のSLを中心に展示されています。

模型の他に、ジオラマや実際に使われていた蒸気機関車の計器や部品なども展示されています。

 

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SL護摩木

プラザロコの売店では、神社の絵馬に願い事を書くのと同じように、SLのボイラーに入れる『護摩木』に願い事を書くことができます。また、『滑らない砂』もお守りとして販売されています。いずれも島田市の智満寺にてご祈祷を受けたもので、新金谷駅のプラザロコや千頭駅の売店で購入できます。

『護摩木』は、願い事を書いてSLのボイラーで燃やすことで、煙は天に届き、天は食をいただくことでかわりに人に福を与える言われています。これは、燃焼中のSLのかまに願い事を書いた護摩木を入れると願い事が叶うそうです。
『滑らない砂』SLや鉄道車両が勾配区間を走行する時の滑り止めに使われるものですが、これはSLが坂を走行する時にその砂をまくことで、安全運行を続けることができます。そのことにあやかって試験に落ちない(滑らない)という、どんな困難にも踏ん張ることができる縁起物と言われているからだそうです。

 

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大井川鉄道 SL

大井川鉄道といえば、SLが有名です。

大井川鉄道に所有しているSLは4形式5台を所有しており、そのうち4台が現役で活躍しています。

いずれも昭和初期(戦前)に製造されたものですが、同じSLでも機関車によっては形や種類はもちろん、それぞれのSLの汽笛の音も異なります。
当日のSL急行は『C11型』といわれる全国のローカル線や駅の入れ替え、貨物列車などで活躍した日本の花形のタンク機関車です。このSLはC11-190号機で、昭和15(1940)年に製造され、ほとんど九州で活躍し、一時期はお召し列車でも活躍しました。その後、昭和49(1974)年6月12日付で廃車になりましたが、熊本県八代市在住の方が引き取り、昭和53(1978)年から静態保存され、いつか復活を夢見て大切に保管されていたことから、大井川鉄道の関係者に目がつきました。平成13(2001)年6月19日に九州から大井川鉄道に搬送され、動態復元が施されました。そして、平成15(2003)年から動態保存が開始、今日でも元気に走る姿を見ることができます。C11-190号機はナンバープレートが緑色で、除煙板に大井川鉄道の社紋がついているのが特徴的です。

 

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SLの客車は昭和初期の旧型客車が使われている

大井川鉄道のSL急行で使われる客車には昭和初期に製造された客車いわゆる『旧型客車』が使用されています。

これらの旧型客車は昭和10~20年代に製造されたもので、『オハ35形(戦前の客車)』が5両、『オハフ33形(車掌室付きの戦前の客車)』が2両、『スハフ42形(車掌室付きの戦後の客車)』と『オハ47形(戦後の客車)』がそれぞれ4両の合計15両が在籍しています。他にも日本ナショナルトラスト所有の『スハフ43形(特急用の客車)』が2両、『オハニ36形(通の客室と荷物室を持ち併せた荷物合造車)』もあります。
かつては全国の旧国鉄(今のJR)において急行列車からローカル線の客車列車まで様々な用途で使われていましたが、昭和末期には客車列車からの電車化で次第に減少し、現役から退きました。現在では、大井川鉄道のSL列車貴重な旧型客車が現役姿で見られます。
大井川鉄道のSL急行『かわね路号』は、乗車券やフリーきっぷの他にSL急行券(820円)が必要になります。すべて指定席制で、もちろん、当日でも空席があれば乗車できますが、特に桜や紅葉シーズンなどは満席になることがあるので、どうしてもSL列車に乗るのなら、事前に予約されることをおすすめします。

 

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大井川鉄道のSL 駅弁

大井川鉄道のSL列車といえば、駅弁が楽しみの1つです。

駅弁は、大井川や静岡ならではの食材を使った『大井川ふるさと弁当』が名物ですが、他にも様々な駅弁があります。中には北海道名物の『つぶ貝弁当』も用意されています。そして、駅弁と川根茶が相性が合います。

ビクティニ:汽車の旅の友には駅弁も隅には置けないね。いただきま~す!

ミュウ:つぶ貝があっさりしていて美味しい!

シャワさん:炊き込みご飯のような駅弁がうまい!(煉獄さん風)まるで峠の釜めしみたいだ。

ゴンベ:うんまいっぺ~!

 

★大井川鉄道のSLとアプト式鉄道★


www.youtube.com

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千頭駅に到着したSL

新金谷駅を出発したSL急行は、1時間弱で千頭駅に到着します。千頭駅に到着すると、多くの観光客がSLにカメラを向けます。

この駅ではSLの点検や燃料・水の補給も行われます。それが行われた後、機関車は新金谷方面へ進行方向を変えるため、転車台へ向かいます。

ビクティニ:機関車は小さくても十分に蒸気機関車ならではの迫力が伝わっているね。

ミュウ:この後、燃料補給するのかな?

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大井川本線の終着駅 千頭駅

大井川鉄道の本線は、金谷駅から千頭駅まで39.5kmの距離があります。

大井川鉄道は大正14(1925)年に創立し、SLの運行日が日本一(以前は毎日SL運行されるほど)といわれることで有名ですが、もともとは大井川の電源開発における資材輸送などを目的に敷かれたものとされています。そのため、開業当初から貨物列車が多く運行されていたものと思われます。

本線は昭和6(1931)年に千頭駅まで開業しました。当初からSLによる運行がされていましたが、戦後の昭和24(1949)年には電化されます。大井川本線の終着駅千頭駅ですが、ここは大井川鉄道の終点ではありません。実は井川線がまだこの先に続き、井川駅が大井川鉄道の終点になります。そう、大井川鉄道は井川線を含め、ダム建設などの電源開発の建設資材を運ぶための鉄道だったからなのです。そして、昭和51(1976)年には本線でSLが運行されるようになり、さらに最近では、夏や紅葉の時期などで『きかんしゃトーマス号』が運行されるようになります。また、本線の駅舎はほとんど開業当時から変わらぬ姿で残され、SLや客車も当時からの姿を保持され続けていることから、映画やドラマなどのロケにも使われているのだそうです。そのため、日本はもちろん、世界中からでも『昔ながらの鉄道風景』として注目されているのです。

 

 

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南アルプスあぷとライン(井川線)

大井川鉄道本線の終点である千頭駅から先は『南アルプスあぷとライン』こと井川線が井川駅まで25.5km続いています。

車両は本線より一回り小さいです。

以前は機関車が先頭に立ち、客車を引くスタイルでしたが、運転台のついた客車が先頭に立し、一番後ろからディーゼル機関車が押し上げるスタイルになっています。

 

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井川線の桜

井川線にも乗車してみましょう。

井川線の車内は天井が低く、身長170cmの私が身をかがめずに立つと頭を天井にぶつけてしまうほどです。

車掌さんは駅区間ごとに違う車両に乗り、忙しそうに安全確認や笛で発車合図をしています。井川線の駅案内の他に、沿線の名所や景色なども案内してくれます。
井川まで行く列車は1日に3~4本しかなく、中には、民家が指で数えられるぐらいしかない駅もあれば、人が全く住んでいない場所に駅があるいわゆる秘境駅も点在します。これは、井川線はもともと中部電力によるダム建設など、大井川の電源開発に携わる設備の建設資材を運搬するための専用鉄道、あるいは林業の木材輸送を目的として敷かれたものだからです。当初は762ミリでしたが、後に線路幅は本線やJR在来線と同様、1,067ミリに改軌されました。これは、建設資材を運ぶ際、木材や建設資材などを運搬する国鉄貨車が本線や井川線に直接乗り入れるのを前提に合わせたものと思われます。大井川ダムや井川ダムなどといった水力発電用のダムが完成すると、これまで中部電力が管理していた『専用鉄道』は、昭和34(1959)年に大井川鉄道が引き継ぎ、『井川線』として、旅客営業が開始されました。また、旅客の他に木材の運搬なども行われていましたが、今ではほとんど『観光鉄道』として存続しています。

デッキ付きの車両も連結されていますが、この日は結構雨が降っているので、デッキにいるとずぶ濡れになってしまうのでやめました。

ビクティニ:井川線からでも桜が見えるよ!

ミュウ:雨が降らなければもっといいのに・・・。

 

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アプトいちしろ駅

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アプト式鉄道の電気機関車

途中のアプトいちしろ駅では、『ED90形』というアプト式の電気機関車が列車の最後尾に連結されます。

この駅では電気機関車との連結作業を見学することができます。また、この駅にはトイレや自販機が用意されており、停車時間の合間に利用できます。ただし、乗り遅れにはご注意を(発車時間になると車掌さんが知らせてくれる場合があります)。

アプト式鉄道とは、線路の中央部に敷かれた『ラックレール』『ピニオンギア』を噛み合わせることで、急勾配の坂を安全に上り下りする特殊な鉄道方式のことです。かつては旧国鉄の信越本線横川駅~軽井沢駅では『アプト式鉄道』が採用されましたが、構造上、所要時間がかかることから、昭和38(1963)年に粘着運転へシフトされたことで、一度廃止になります。そして平成2(1990)年、井川線の線路切り替えによってアプト式鉄道が27年ぶりに復活し、日本で唯一のアプト式鉄道となったのです。
また、この駅から長島ダム駅へは旧線の廃線跡を使ったハイキングコースになっています。ただ、途中のトンネル(ミステリートンネル)には照明がないため、自分で懐中電灯を事前に用意するか、あるいはこの駅で懐中電灯をレンタルしないと大変です。旧線のトンネルを抜けるとキャンプ場と長島ダムへ出られます。

 

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90‰の標識

井川線のアプト区間は、90‰(パーミル)を持つ日本の鉄道で最大の急勾配です。

90‰は1kmの距離に対し、90メートルの高低差を進むことを意味しています。

なぜ、このような急勾配が生じたのかというと、この先にある長島ダムの建設に伴い、かつてあった井川線の旧線が水没されることになったのです。そのため、このように別の場所に線路が敷かれることになり、これがいわゆる井川線の新線および観光の一環としてできたといわれています。井川線は基本的には非電化の路線ですが、アプト式鉄道のあるアプトいちしろ駅~長島ダム駅だけはアプト式の電気機関車のみが動力となるため、電化されています。また、他の区間と比べてラックピニオンレールで固定されているため、震動が少ないです。

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アプト式鉄道から見る大井川の渓谷

アプトいちしろ駅から1つ目のトンネルをくぐると、大井川この線路の高低差が一気に高くなりました。

この高さや車内に乗っている時の傾斜が感じられることから、いかにも90‰の急勾配が急な坂かを物語っています。そして、この下に旧井川線の線路跡があるのですが、このあたりで線路跡が残っているのはキャンプ場までのようで、その先は完全に水没しています。

 

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長島ダム

進行方向右側の車窓の正面には『長島ダム』が見えます。

長島ダムは高さ109メートル堤頂長308メートルあります。

大井川水系に建てられたダムのほとんどが発電用ですが、この長島ダムは唯一の多目的ダムで、大井川流域に水道水を供給している他、工業用水農業用水などの供給が行われています。また、このダムは唯一水力発電は行われません。
アプトいちしろ駅では標高396メートルだったのに対し、長島ダム駅に到着すると標高は485メートルまで上ってきました。1つの区間(1.5km)で高低差が89メートルも一気に上ってきたというのは驚きですね!

 

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接岨湖(せっそこ)

アプト式区間は長島ダム駅で終了し、アプト式機関車も切り離され、元の編成で進んでいきます。

進行方向右側には『接岨湖』が見えます。接岨湖は、先程も説明したように長島ダムの建設によって生じた、いわゆる人造湖です。この湖の底には旧井川線の線路が沈んでいるかと思われます。まるでかつてこの湖の底に線路が通っていたというのが考えられないくらいです。そして、この湖の中に消滅した駅『川根唐沢駅』や『犬間駅』も深い眠りについています。また、時期によっては地元の高校生たちによるカヌー競技がしばしば行われているそうです。

ひらんだ駅を発車すると右側の車窓には20枚ほど井川線沿線の景色や鉄道写真などが展示されていました。

 

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奥大井湖上駅

トンネルを抜けると、『奥大井レインボーブリッジ』が見えてきます。

『奥大井レインボー』ブリッジは高さが70メートルあり、半島を挟むように2本の橋で接岨湖に架かっています。

東京にあるレインボーブリッジより先に『レインボーブリッジ』の愛称がつけられていますが、知名度的に東京のレインボーブリッジの方がメジャーだったりするので、こちらのレインボーブリッジは『奥大井レインボーブリッジ』の方が相応しいのかもしれません。また、レインボーブリッジの進行方向左側には旧井川線の線路が見えます。

小さな半島にぽつんと浮かぶ小さな駅は言わずもがな秘境駅で有名な『奥大井湖上駅』です。

奥大井湖上駅は我々が以前に星空観測ツアーでお世話になった駅ということもあり、いわゆる静岡県屈指の星空スポットにも選ばれていることなどから『Cool Japan Award 2019』に選ばれたことがあります。

文字通り湖に浮かぶような秘境駅で、この駅もアプト式鉄道と同様、長島ダムの建設によって誕生した秘境駅ですが、実は観光用の駅としてできたものです。ホームの脇には『風の忘れもの』という幸せを呼ぶ鐘があり、その脇に設置された『愛の鍵箱』に恋人同士が錠前をかけると永遠の愛が叶うといわれています。その錠前と鍵は千頭駅や奥泉駅、井川駅などで購入できます。最近では展望台にカフェまで併設され、湖上の絶景を眺めながら気軽に休憩や軽食が楽しめます。また、湖上駅から接岨峡温泉まではハイキングコースにもなっており、歩いていくこともできます(所要時間は50分ほど)。

 

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尾盛駅

列車は接阻峡温泉を過ぎると、大井川の渓谷はますます険しくなっていきます。

しばらく進むと、『尾盛駅』といわれる本当に何もない秘境駅があります。

この駅の周辺には民家などが一切無い上、道路さえもつながっていない、いわゆる真の秘境駅です。ホームは非常に簡素なもので、見ての通り殺伐な雰囲気を醸しています。では、なぜこんな場所に駅があるのかというと、かつては井川ダムの建設の作業者が常駐していた場所で、宿舎や小学校、そして医者も常駐していたといいます。しかし、井川ダムが昭和32(1957)年に完成すると、ここに住む人はいなくなり、一時期は林業による木材の運搬も行われていましたが、次第に1970年代のモータリゼーションの変化とともに完全に使われなくなったのです。

人が住んでいなければ乗客数もいない駅なら、本来は廃止するべきなのですが、実は廃止にできない理由があります。

それは、大井川上流部は古くから森林資源が豊富な場所であるからであり、その地域で切り出された木材は大井川の流れを利用し、下流へ運んでいた、いわゆる川狩りが行われました。しかし、大井川本流にダムや発電所が建設されることで、川狩りそのものができなくなってしまい、その後は木材の輸送鉄道で行なうため、尾盛駅はダム建設作業員の居住地および木材の積み出しを目的とした駅として補償されることになりました。とはいえ、林業は安い輸入木材の普及とともに次第に衰退し、この駅から木材積み出しは行なわれなくなりましたが、それらの補償措置があることから廃止せずに今でも残っているそうです。そのため、林業や電源開発の作業者が利用したと思わしき廃屋などが処々で残っています。一時期は、秘境駅ブームにあやかり500人ほどの利用者がいたようですが、最近は降りる人は殆ど0に近いようです。

 

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関の沢橋梁

尾盛駅を過ぎると、『関の沢橋梁』を通過していきます。

『関の沢橋梁』は川底から71メートルという日本一の高さをもつ鉄道橋です。

上の写真をご覧いただくと、川底までは相当な高さであるということがお分かりいただけるかと思います。列車によっては観光停車することもありますが、高所恐怖症の人には足がすくむかもしれません。そして、この鉄橋は榛原郡川根本町静岡市葵区境界線になっています。ここから静岡市ということは、全国の県庁所在地の中でも相当な面積を誇っているということですね!

 

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閑蔵駅

関の沢橋梁を通過すると静岡市葵区に入ると『閑蔵駅』に到着します。

この駅井川駅だけは静岡市にある大井川鉄道の駅に数えられています。

この駅も秘境駅という風貌が出ていますが、ここは道路とつながっており、民家も少しながら点在するため、尾盛駅のような殺風景な感じではありません。千頭駅から出ている路線バスもここまで乗り入れています。出口から道路の方へ歩くとバス停があり、『やまじゅう商店』という売店もあります。

このあと我々は、千頭行き列車で奥泉駅まで乗り、寸又峡温泉へ行くバスに乗り換えとなるのですが、我々の他に数名の乗客もいました。

ビクティニ:完全に山深い場所まで来てしまったね、ここまで来るのは初めてかも。まるで別世界みたい。ここが静岡市なのはちょっと違和感が・・・。

ミュウ:さっきの鉄橋はすごかったね。

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閑蔵駅の先は井川駅
閑蔵駅から先はようやく大井川鉄道の終点である井川駅ですが、ここから井川駅までの距離はかなり長く、断崖絶壁の中を進むことになります。しかも、閑蔵駅から井川駅までの距離はなんと5kmと井川線の駅間としては最長です。また、閑蔵駅は標高が578メートルなのに対し、井川駅は686メートルと駅間の高低差も108メートルと一番大きいです。道中の車窓からは南アルプスの山々が見渡せ、『接岨峡』といわれる大井川の渓谷もさらに深くなり、見ごたえもあるのではないかと思います。

 

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奥泉駅

奥泉駅に戻ってきました。

ここから寸又峡温泉へ行くバスに乗り換えるため、待合室で待機しますが、この日はかなり雨が降っているため、路線バスが動かないとのこと。これは参りました・・・orz そこで仕方なくこれから寸又峡温泉に泊まるであろう旅行者に自分たちも含めて宿の方に迎えに来てもらうことになりました。

ビクティニ:まさか、こんなことになるとは・・・。天気って恐ろしい・・・(~_~;)

ミュウ:旅行する上で一番気をつけないといけないのは、交通がどうたらでもなく、天気だったりするんだよね・・・。

作者:そういえば、去年の連続的な大雨で九州の鉄橋がやられたんだっけか・・・。

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水没前の井川線の写真

奥泉駅の待合室には貴重な旧線時代の井川線の写真が飾られていました。

この写真は水没する前の井川線と川根唐沢駅で、SL列車によるイベントも行われていたんですね。この写真はおそらく昭和50~60年代のものかと思われます。

 

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寸又峡温泉の旅館で宿泊

さて、そんなこんなで寸又峡温泉の旅館に到着しました。

本日、我々が宿泊した旅館は『翠紅館』さんにお世話になります。寸又峡温泉は千頭駅から路線バスで40分ほど、奥泉駅からは30分ほどのアクセスです。ただ、奥泉駅と寸又峡温泉まで唯一行ける県道77号線は1車線分しかないほど道が狭く、断崖絶壁の道を通るため、運転に自信がなければ路線バスでのアクセスが望ましいでしょう。

その温泉自体が見つかったのが明治22(1889)年のことで、その源泉のあった場所に湯山温泉として開発されたものの、大間ダムの建設とともにその源泉は水没されてしまいます。その後、昭和32(1932)年に別の場所で源泉が見つかり、南アルプスの登山客などにも利用されましたが、昭和37(1962)年に湯山(大間川)から温泉街へ引湯したことから寸又峡温泉として全国的に有名になったのです。
寸又峡温泉は硫化水素系・単純硫黄泉で、とろみのある泉質なのが特徴的で別名『美女づくりの湯』といわれています。入浴後は肌を滑らかにするという性質を持っていることから、特に女性には人気があります。効能としては、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、うちみなど、様々な症状にも効きます。また、町営の露天風呂も完備され、日帰りでも都会の喧騒を忘れて気軽に天然温泉を満喫することができます。

ビクティニ:ここの温泉はとても快適に入れた。

ミュウ:山奥の温泉だからね。

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寸又峡温泉 夕食

寸又峡温泉の夕食は、とても豪華です。

献立はアマゴの塩焼きや猪鍋、湯葉、山菜などその他奥大井の食材をふんだんに使ったメニューで揃っています。やはり山奥ならではの野趣あふれる食材に舌鼓です。

ビクティニ:夕食も豪華だ!いただきま~す!うまい!

ミュウ:猪鍋もヘルシーで美味しい!

ゴンベ:うまいっぺ!

シャワさん:山菜をたくさん使っているね。うまい!

作者:地酒も最高!

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旅館の囲炉裏

『翠紅館』のロビーには夜間を炭火で沸かす囲炉裏も用意されています。この囲炉裏を見ていると、まるで故郷に帰ってきたように癒やされます。

travel.rakuten.co.jp

 

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朝の寸又峡温泉

寸又峡の朝はとても清々しいです。

寸又峡温泉から夢の吊り橋のある『寸又峡プロムナードコース』を散策してみましょう。

寸又峡温泉から夢の吊り橋へは徒歩で20分ほどで到達できます。そして、プロムナードコースを散策する所要時間は概ね1時間半が目安です。

ビクティニ:雨もやんだから、今日は夢の吊り橋まで行ってみよう。

ミュウ:本当だったら昨日に行きたかったけど、雨がすごかったからね・・・。

 

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外森神社

寸又峡には『夢の吊り橋』へ行く『プロムナードコース』の他に森林浴ができる『シャワーグリーンコース』や、気軽にハイキングができる『外森山ハイキングコース』もあります。

『外森山ハイキングコース』には外森神社と『天狗の落ちない大石』があり、特に『天狗の落ちない大石』は断崖絶壁な場所に立っているにも関わらず、絶妙なバランスでありながら落ちそうで落ちない石が石段の脇にそびえ立っています。その大石には、受験生や建築現場で働く人など、『落ちてはならない人々の守り神』として信仰されています。そして、受験や試験シーズンとなる1月や2月には『天狗の落ちない大石』の絵馬を外森神社に奉納するため多くの参拝者が訪れます。

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寸又峡 モニュメント
静岡県屈指の秘境でもある『寸又峡』は、大間ダムのチンダル湖に架かる『夢の吊り橋』をはじめ、四季折々の景観、そして、ニホンザルカモシカなどの野生動物も生息する大自然で、『21世紀に残したい日本の自然百選』などにも選ばれています。

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千頭森林鉄道 大間駅跡
寸又峡温泉はかつて『千頭森林鉄道』が通っていた場所でもあるため、このように森林鉄道の駅だったと思わしき建物が建っています。

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夢の吊り橋へのゲート入り口
温泉街から『夢の吊り橋』へは、このゲートをくぐり、道なりに進んだ場所にあります。見ての通り車両は通行不可で、ここからは徒歩のみとなります。

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大井川源流部 原生自然環境保全地域

大井川源流部南アルプスの大自然に囲まれた環境で、人を引き寄せない環境です。

寸又峡も南アルプスの南麓に位置し、それらの源流部は日本国内において原生自然環境保全地域に指定されているのはわずか五箇所しかなく、そのうち寸又峡や大井川源流部もその1つです。しかも、本州では唯一の指定地であり、他の地域では縄文杉で有名な屋久島やはるか南にある南硫黄島、そして、北海道の十勝山脈や知床エリアが手つかずの状態で自然が残っているだけで、とても奇跡的なことだということが伺えます。ただ、最近ではJR東海による『リニア新幹線』を大井川源流部に通すため、トンネルの掘削工事が行われることから、大井川の水量減少が懸念されているようです。どうなることやら・・・。

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寸又峡

寸又峡はとても深い谷に囲まれた環境で、春はヤマザクラ夏は新緑秋は紅葉冬は枯れ木の風景が見られます。

この渓谷に流れる寸又川は大井川の支流の1つで、岸壁から湧き出る天然水が大小の滝として流れ落ちています。この遊歩道も処々で天然水が湧き出ており、一部が湧き水で水浸しになっている箇所がありました。また、寸又峡は朝日岳や沢口山、前黒法師岳など(寸又三山)に挑戦する登山者も訪れます。

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猿並橋
遊歩道から見下ろしてみると、『夢の吊り橋』とはまた別の吊橋がかかっています。あれは『猿並橋』という吊橋で温泉街から朝日岳の登山口として使われています。しかし、観光用である『夢の吊り橋』とは違い、あの吊橋の先は登山道になっているため、観光客は入れません。

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天子トンネル

遊歩道をしばらく進んでいくと、天子トンネルが見えます。

このトンネルを通れば大間ダム湖と『夢の吊り橋』への道が見えてくるはずです。天子トンネルの手前にトイレがありますが、ここから先はトイレはないので、事前に済ましておくといいのかもしれません。

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夢の吊り橋への入り口
さて、トンネルを抜けた所で、分岐点が見えてきました。右の下り坂『夢の吊り橋』への道になります。

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大間ダム

切り立った深い谷底に大規模な人工物が見えるのが、中部電力『大間ダム』です。

大井川水系には、たくさんダムが建てられていますが、長島ダム以外に建てられたダムは発電用を目的に建てられたもので、大井川本流以外に寸又川でも3箇所ダムが建てられました。『大間ダム』もその1つです。

このように、寸又峡でも井川線と似たような専用軌道が通っており、その鉄道もかつては中部電力の前身である富士電力の専用線として敷かれていたのです。そして、寸又峡は深い谷で、河川の傾斜が急であることから、水力発電を行うのに適した環境でもあります。そのため、井川線と同じように大間ダム、さらにこの先にある千頭ダムなどの建設資材を運んでいたのです。後に『千頭森林鉄道』として昭和44(1969)年までこの場所に鉄道が通っていたということになります。

 

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ダムの仕組み

水力発電用のダムとは、ダム湖に溜まった水を取水し、発電所までの高低差を利用することで水圧を上げ、その勢いで発電用タービンを回転させて発電する方式です。

水力発電で用いられるダムにはいくつか種類があり、日本最大級を誇るダムと言われる『黒部ダム』『アーチダム』に分類されますが、国内のほとんどは『重力式ダム』が用いられています。これはダム自体の重みで、水や土砂などの重みによる外力に耐えることができ、滑り出しや倒れることなどがないほど安全性に優れていることから、地震の多い日本では最適とされています。
『大間ダム』の場合、重力式のダムとして設計され、発電機は毎分100~1200回転で、発電量としては3千~1万8千ボルト、最大出力が1万6千500kw(常時380kw)で発電されています。また、放水される量が決まっており、大間ダムは毎秒0.6㎥(ドラム缶3本分)の量で河川維持されています。

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深い谷底に見える夢の吊り橋

切り立ったV字形の深い谷底には、『夢の吊り橋』が見えます。

ここを下っていくと『夢の吊り橋』まで近づけます。この高さから見ると、寸又峡がこんなに深い谷であるということが実感できるかと思います。

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夢の吊り橋

道なりに下っていくと『夢の吊り橋』に到着です。

『夢の吊り橋』は言わずもがな静岡県有数の景勝地にして寸又峡ならではの名所です。その知名度は日本のみならず、世界的にも『死ぬまでに渡りたい絶景の吊り橋』として認定されました。

しかし、本来ならチンダル現象になるはずのダム湖は、大雨が降った後なのにも関わらず、なぜか干上がっている上に水が濁っています。一体どういうことでしょうか・・・?

ちなみに大間ダムの湖の色が綺麗なのは、寸又川の水は川底が見えるほど無色透明で、わずかな微粒子が溶け込んだ水に日光などの光を当てると、その微粒子の影響で波長の短い青い光だけ反射され、波長の長い赤い光が吸収されることで、いわゆる『チンダル現象』が起こるからなのです。そのため、この湖は別名『チンダル湖』と呼ばれることがあります。

ビクティニ:せっかくきれいな湖と夢の吊り橋との景観が見たくて来たのに、こんなに干上がっている上に水まで濁っている・・・。残念・・・orz

ミュウ:昨日の大雨でこうなっちゃったのかな?

また、時期によっては、1時間以上も待ち時間ができるほど混雑することがあります。特にGWや夏休みなどでは多くの観光客や家族連れで混み合うことがあるため、混雑を避けるのなら、早朝に行くシーズンオフなどに行かれるといいでしょう。

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寸又峡プロムナードコース

寸又峡のプロムナードコースは『夢の吊り橋』はもちろん、かつての千頭森林鉄道の軌道跡を利用した遊歩道寸又峡ならではの四季折々の景観野生動物の生態などが楽しめます。

このコースは当時の森林鉄道の名残りがある道床や『飛竜橋』、ダム湖、展望台など、寸又峡の自然を心行くまで散策するもので、運が良ければカモシカやニホンザルなどの野生動物が見られるのかもしれません。

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夢の吊り橋から見た大間ダム

『夢の吊り橋』は高さ8メートル、長さ90メートルを有する吊り橋です。

なぜ『夢の吊り橋』といわれているのかというと、橋の真ん中で願い事をすると恋が叶うという言い伝えがあることから、その名前になったそうです。しかし、私としてはダム湖によって醸し出される美しい湖と吊り橋の景観が見たかったです。

この吊り橋も含めて、大井川流域に暮らす人々は生活道としても使われていました。そして、かつての寸又峡は林業が盛んだった場所でもあり、この奥には林業用としてかけられた吊り橋も少なからず点在していたといいます。

作者:SNS映えしよう。でも、一眼やスマホを落としたら大変なことになるから落とさないように・・・。

ビクティニ:ぼくらは飛んでいるから落ちる心配はないよ(笑) ところで、ここからずっと北の方に『無想吊橋』というおっかない吊橋があるらしいんだけど、高さはなんと83メートル(あるいは100メートルか)長さが144メートル、なんでも日本一、いや世界一危険な吊橋といわれているんだ・・・。その吊橋は林業用にかけられた他に登山道としても使われたものの、次第に崩壊が進んでいてもう使われなくなったんだよ。あれは高さというより雰囲気的に怖すぎる・・・。

ミュウ:なにそれ~?そんなにおっかない吊橋があったなんて・・・。昔の人って怖いもの知らずだったんだね・・・。

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えっちら階段
『夢の吊り橋』を渡り終えると、『木こり橋』や『くろう坂』、そして304段の『えっちら階段』が長い上り坂が続きます。私はまだ若いので一気に駆け上がりましたが、お年寄りの方にはちょっときついのかもしれません。また、途中で『やれやれどころ』のベンチがあり、休憩できるようになっています。

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カモシカの死体?!
いくら遊歩道でも、野生動物が生息する秘境エリアであるため、突然石が落ちてこないとも限らないので、落石には十分に注意しなければなりません。

私が遊歩道を歩いていたら、なんとカモシカが倒れているのに気づき、びっくりしてしまいました。昨日の大雨で転落してしまったのか、落石に打たれたのでしょうか・・・。

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千頭森林鉄道の車両

尾崎坂展望台の方へ歩いていくと、かつて千頭森林鉄道で使われていた機関車や車両が展示されています。

機関車はディーゼル機関車というより、ガソリンカーのようです。

千頭森林鉄道は井川線と同じように、当初はダム建設の資材輸送を目的に大井川鉄道本線の全線開業とともに昭和6(1931)年に富士電力によって敷かれました。昭和10(1935)年にここから更に奥にある『千頭ダム』が完成し、『寸又川ダム』が昭和11(1936)年に『大間ダム』も昭和13(1938)年にそれぞれ完成すると、帝室林野局に無償譲渡され、のちに『千頭森林鉄道』となります。その後は林業の木材輸送やダムの維持管理などに転用され、寸又峡温泉へ運ぶ観光客専用の列車も運行されたようですが、昭和44(1969)年には廃止になりました。
そして、その名残りとして展示されている森林鉄道の車両こそ、まさにここに鉄道が通っていたということも物語っています。

 

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尾崎坂展望台

尾崎坂展望台では、寸又峡の自然を肌で感じながら休憩することができます。

また、トイレはありませんが、自販機で飲み物を購入できます。この展望台からは、南アルプスの連峰がそびえ立つシルエットが眺望できます。また、この展望台から先は千頭ダムまで道が続いていますが、とても危険で観光客が入れるような道ではないため立ち入りは禁止されています。

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飛龍橋

さて、大間川に沿って歩いていくと『飛龍橋』が見えてきました。

深い渓谷にかかる鉄骨のアーチ橋は、井川線の関の沢橋梁に似ています。この橋もかつては森林鉄道の一部分だったもので、当初は吊り橋だったそうです。そのため、この橋も森林鉄道が通っていたという歴史を物語っています。しかし、高さが100メートルもある谷を吊り橋で鉄道を通すという発想は考えられませんね・・・(^^;

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寸又峡の桜
秘境の地である寸又峡でもヤマザクラなど、春になれば桜の開花も見ることができます。

ビクティニ:こんな山奥でも桜の花が綺麗だね。

ミュウ:しかも、秘境で桜が見られるのがラッキーかも。

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草履石公園

『夢の吊り橋』の散策を終え、寸又峡温泉に戻ってきました。

寸又峡は『夢の吊り橋』だけでなく、『草履石公園』も整備されており、公園に咲く桜もとても綺麗に咲いておりました。

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夢の吊り橋へ行くときの注意事項
夢の吊り橋の遊歩道は、明かりなどは一切無いので、必ず日没までには戻らなければならないのです。日没後や暗い時間帯に行くと事故になりかねません。また、昨日のように大雨が降っているときも危険なので、夢の吊り橋を渡るのであれば、天気をよく把握してから行きましょう。

 

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大井川鉄道の普通電車

さて、寸又峡温泉と夢の吊り橋を楽しんだ所で、路線バスで千頭駅へ戻ります。

今度はSLの撮影を行うため、普通電車で駿河徳山駅へ向かいます。普通電車に乗るときも『フリーきっぷ』を活用します。

ところで、大井川鉄道はSLが観光の目玉ですが、普通電車も各私鉄から集めた中古電車ということもあり、譲渡車両によってそれぞれ個性があるので見ごたえがあります。

大井川鉄道で活躍する普通電車は、南海電鉄や近鉄、東急電鉄などから来た車両で、いずれも50年前のものということもあり、最新型電車にはない『古めかしさ』も売りのようです。過去には西武や京阪などの中古電車が走っていました。

 

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駿河徳山駅

駿河徳山駅で下車します。

大井川鉄道の普通電車はワンマン運転で運行されているため、駅員さんのいる金谷駅・新金谷駅・家山駅・千頭駅を除いてすべて無人駅です。そのため、駿河徳山駅も無人駅なので下車する時は一番前のドアに移動し、運転士さんにきっぷを見せて下車となります。

駿河徳山駅も含めて、ほとんどの駅舎は開業当時からほぼ変わらぬ姿で保たれています。特に隣の田野口駅では昭和時代の雰囲気を残す駅舎開業当時のままで保たれていることから、『駅舎などを対象とするロケーション・サービス推進事業』のモデル駅としても活用され、映画やドラマなどのロケ地にもなっています。

 

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徳山の枝垂れ桜

駿河徳山駅の周辺を散策してみましょう。

駿河徳山は『枝垂れ桜』が咲く名所ですが、『家山の桜トンネル』と違って穴場の桜スポットだったりします。春になると川根高校の近くにある桜並木は桜の開花でピンク色に染まります。我々が訪れた時はほぼ満開に近い感じでした。

ビクティニ:ここの枝垂れ桜も見事な咲き具合だ!

ゴンベ:桜餅でも食べたいっぺ~。

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駿河徳山の鉄道撮影スポット

散策をしていたら、SLを撮るのに最適な撮影スポットを見つけました!

春の大井川鉄道における撮影スポットとしてはまさにうってつけです。ということで、12:50頃にはここをSLが通過するはずなので、カメラを構えます。

そして・・・・。

 

ブォーーーーーーーーーッ!!!

遠くから汽笛が聴こえてきました!

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駿河徳山の桜とSL

これぞ、まさに春の大井川の風物詩、『桜とSL』です!

ピンク色に染まった桜の花小川のせせらぎとともにSLが通過していきました。

春の大井川鉄道といえば、『家山の桜トンネル』がメジャーな撮影スポットですが、駿河徳山の桜とSLのコントラストがこれまた美しいです。SLは昨日と同様、『C11-190号機』です。

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桜と大井川鉄道の普通電車

普通電車でも昔の電車であるため、とはよく合います。

普通電車は南海電鉄からやってきた旧南海21000系で、昭和33(1958)年に登場しました。かつては南海高野線で特急・急行で活躍し、『ズームカー』という愛称で付けられていました。平成9(1997)年に大井川鉄道へ譲渡され、普通電車として活躍しています。50年前の車両でも元気に活躍している姿を見ていると、まさに『動く鉄道博物館』のようです。

 

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旧南海21000系の車内

南海21000系の車内は転換クロスシートが使われています。

窓際には読書灯が付いた当時としては快適な仕様になっています。ただ、50年前の車両ということもあり、天井からの雨漏りもあってか、一部の座席が使えない感じになっているようです。普通電車とはいえ、当時物の仕様から考えれば、観光鉄道という印象が強いです。

ビクティニ:この電車は、だいぶ古いけれど、今でも元気に活躍しているのもすごいよね。

ミュウ:いつも乗る電車とは雰囲気が違うのもいいよね。

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千頭駅で停泊中のSL

SLの撮影をした後は、帰りもSL列車に乗るため、千頭駅に戻ります。

千頭駅に着いた頃には、すでにSLが入れ替え準備をしていました。

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千頭駅で昼食

千頭駅前にある食堂で昼食をいただきます。丼ものの頼もうと思ったら完売だったようなので、仕方なくラーメンを頂くことに。

ビクティニ:いただきます!

ゴンベ:うまいっぺ!

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千頭駅を出発準備するSL急行

新金谷行きの運行に備え、転車台で方向を変えて、ホームの客車と連結したC11-190号機はすでに出発準備万端です。

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千頭駅を出発したSL

14:55千頭発SL急行『かわね路号』新金谷行きは、大きな汽笛ともに千頭駅を出ました。

千頭行きのSLは上り坂でしたが、新金谷行きのSLは下り坂を進んでいきます。

千頭駅を出ると昔ながらの茶畑を3本の鉄橋を通過します。

 

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茶畑と大井川の車窓

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桜と大井川の車窓

駿河徳山駅を過ぎると、進行方向右側に大井川が流れています。

タイミングが合えば、車窓から見る茶畑大井川の車窓はもちろん、春の大井川には桜の木も似合うものです。

ビクティニ:レトロな客車の車窓から大井川の景色や桜の開花が見れるのは、まさに春の大井川の風物詩でちょっと昭和にタイムスリップしたみたい・・・。

ミュウ:でも大井川って水の量が少ないね・・・。

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田野口駅
途中で通過する田野口駅開業当初と全く変わらぬ姿で保たれています。客車の車窓越しに写すと、まさに昭和へタイムスリップしたかのようです。

 

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塩郷の吊り橋(恋金橋)

大井川本流で最大級の吊り橋『塩郷の吊り橋』が見えてきます。

長さが220メートル、高さが10メートルもあり、昭和7(1932)年にかけられました。正しくは『久野脇橋』といわれていますが、大抵は『塩郷の吊り橋』またの名を『恋金橋』という愛称で呼ばれています。
この吊り橋は、民家や県道、大井川、そしてSLが通過する大井川鉄道をまたぐようにかけられているというなかなかダイナミックな吊り橋です。最近では『水と緑の自然郷コース』というハイキングコースも整備されているようです。また、『世界の果てまでイッテQ』でイモトが渡った吊り橋としてTVでも紹介されています。

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鵜山の七曲り
榛原郡川根本町と島田市の境界線に位置する『鵜山の七曲り』は、南アルプスから駿河湾へ流れる大井川が南東へ流れていくのに対して、地層が北東から南西へ流れたことで、川が南西へ曲がってしまい、このような現象が繰り返されていくうちに川底が掘り下げられ、曲がりが強くなり、『嵌入蛇行(かんにゅうだこう)』といわれる曲流れした川の形になりました。これがいわゆる『鵜山の七曲り』の典型であることから、静岡県の天然記念物に指定されています。

 

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大井川第一橋梁

帰りのSL急行『かわね路号』川根温泉笹間渡駅に停車します。

川根温泉笹間渡駅を発車すると、大井川鉄道で有名な鉄橋『大井川第一橋梁』を通過します。鉄橋の進行方向左側には『川根温泉』があり、日帰り入浴や宿泊ができます。

 

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抜里の茶畑

抜里駅周辺にはあたり一面茶畑が広がっています。

静岡県はお茶栽培が盛んで、このあたりでは『川根茶』が有名です。

『川根茶』は大井川流域の山間部斜面で育つことで、適度な苦さと渋みが味わえるバランスの良い静岡茶の1つです。江戸時代では、紀伊國屋文左衛門が木材の商売とともに持ち帰った川根茶を江戸では好評だったといわれています。

 

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家山駅

15:39家山駅に到着。

ここで普通電車と交換し、出発します。

家山駅も開業当時から変わらぬ木造駅舎と駅構内もレトロな雰囲気を醸しています。『家山の桜トンネル』もこの駅が最寄駅で、徒歩10分で桜トンネルがあり、桜とSLの撮影もできます。

 

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家山の桜

家山駅を出発すると、進行方向右側には『桜トンネル』が見えてきます。

『家山の桜トンネル』は、静岡県の桜スポットの名所であり、毎年の3月下旬から4月上旬まで『桜まつり』が開催されます。約1kmも続く桜トンネルには樹齢約80年のソメイヨシノが約280本植えられており、静岡県の桜スポット第1位に選ばれるほど有名になりました。

ビクティニ:見事な咲きっぷりだね~!

ミュウ:さっきの徳山の桜とどっちが綺麗かな?

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福用のS字カーブ
福用駅付近のS字カーブも、大井川鉄道で有名な撮影スポットで、線形の良いカーブを行くSL茶畑のコントラストも絵になります。

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信楽焼たぬきが並ぶ神尾駅

大井川の下流にありながら、大井川鉄道本線で屈指の秘境駅ともいわれる神尾駅には、信楽焼のたぬきがたくさん並んでいます。

これは、人よりたぬきが多いということから、『神尾たぬき村』で親しまれています。たぬきの中には車掌姿になっているたぬきもいるのだとか。また、その駅名にあやかってPCゲーム『AIR』に登場する『神尾観鈴』と同名であることから、聖地として扱われ、『観鈴ノート』も置かれています。

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門出駅

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合格駅(旧五和駅)

神尾駅を通過すると、大井川から離れていき、これまで川沿いを走っていた車窓は徐々に平野に変貌していきます。

途中で、去年の令和2(2020)年11月12日に開業した『門出駅』を通過します。

新東名高速の島田金谷IC付近に大井川の交流拠点であるお茶と農業の体験型フードパーク『KADODE OOIGAWA』も開業し、お茶の体験をはじめ、地場産レストラン、カフェ、静岡ならではのお土産も勢揃いな空間です。また、かつてこの鉄道で活躍した『C11-312号機』も復元され、この施設で保存されています。こうして大井川鉄道に新駅ができたのは昭和60(1985)年に日切駅開業以来の35年ぶりです。また、それに合わせて、五和駅だった駅名を『合格駅』に改称されました。これは日切駅合格駅門出駅というように三つの縁起の良い駅名にすることで、新たな新名所にするという一環だそうです。

ビクティニ:なんか縁起が良さそうな駅名があるよ。これからの子どもたちには嬉しい出来事かもね。

ミュウ:確かに、去年は例の病気で進学や就職ができない学生たちが多かったから、その演技のいい駅名でコ×ナに打ち勝てばいいよね。

 

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新金谷駅に到着

16:11新金谷駅に到着。

千頭駅を出発してから1時間弱のSL旅は新金谷駅でお別れです。

辛いご時世ながらSLの旅を通して、我々に勇気や希望を与えてくれました。そして、末永く大井川鉄道やSLの存続を心から祈るばかりです。

本当にありがとうございました!

 

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ここまでのご精読、お疲れさまでした。

さて、尺が長くなりましたが、今回は春の大井川鉄道の旅をお送りしました。楽しくご覧いただけましたら、幸いでございます。

ビクティニ:みんな、例の病気に負けずにがんばろう!というわけで静岡旅でした!皆さん、ごきげんよう!

ミュウ:また、どこかでお会いしましょう!

ビクティニ&ミュウ:さようなら~!

 

『春の大井川鉄道&アプト式鉄道 静岡の名所“寸又峡”へ』をお伝えしました。

 

富士山の見える景勝地“日本平”&徳川家康ゆかりの神社“久能山東照宮”に参拝

みなさん、こんにちは。

今回は、日本平久能山へ参ります。

 

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由比PA

まずは、国道139号線を下り、富士ICから東名高速に入り、静岡方面へ向かいます。途中の由比PAで休憩をすると、目の前に駿河湾が見渡せます。海の向こうには伊豆半島のシルエットが見えます。

ビクティニ:海だ!向こうに大きな陸地が見える・・・。

ミュウ:伊豆半島だね。

 

東名高速の清水ICから一般道へ降り、カーナビに従って日本平へ向かいます。

 

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日本平

富士山の絶景が見られることで名高い日本平にやってきました。

ここは、大和武尊(ヤマトタケルノミコト)の伝説にちなんで名付けられた由緒ある景勝地です。

JR静岡駅からバスでおよそ40分、JR 清水駅からのバスはおよそ30分で訪れることができます。また、東名高速の日本平久能山スマートICからおよそ20分、静岡ICからおよそ30分、清水ICからおよそ25分で到達できます。
標高は307メートルあり、日本の観光地百選コンクールで第1位に選ばれるほどの日本一の絶景スポットとして多くの家族連れやライダーたちで賑わっています。

ビクティニ:去年に来た時は桜があんなに咲いていたんだけど、今年はちょっと早かったかな・・・?

ミュウ:う~ん、まだ早かったかもね・・・。

 

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日本平名物 抹茶たいやき
日本平では、桜えびしらすお茶など、様々なお土産が揃っていますが、ここは『抹茶たいやき』も名物スイーツとして有名で、注文(1個190円)すれば焼きたてで提供してくれます。そのたい焼きの生地や餡には川根茶葉をふんだんに使用しており、甘さ控えめの程よい緑茶独特の香りが漂います。これぞ、静岡に来たら是非いただきたいスイーツの1つです。おやつや休憩がてらに食べてみては?

ビクティニ:静岡といえば、安倍川餅もうまいが、抹茶のたい焼きがこれまた最高のおやつだ!いただきま~す!

ゴンベ:これはうまそうだっぺ~。いただきま~すだ!うんめ~!

シャワさん:静岡茶というか川根茶の匂いだ。ほろ苦さがこれまた丁度いい甘さだね。

ビクティニ:やけにお茶の匂いに詳しいね。どうして川根茶って分かるんだい?

シャワさん:いや、なんとなく川根茶の匂いがしたんだ。

ミュウ:ズコッ!でも確かにいい香り、おいしい~(*´∀`*)

 

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日本平 レストラン

レストランもメニューが豊富で、静岡名物の地場産もふんだんに使われています。

中でも、桜えび静岡茶を使った茶そば駿河湾で採れた海産物などをテーマとしたメニューが用意されています。ちなみに昼食には海鮮丼をいただきました。

ビクティニ:静岡のご飯は、海鮮ものに限るね!いただきま~す!

ゴンベ:うなぎも食べたかったけど、やっぱり海の幸はうまいっぺ~!

シャワさん:わさびの辛味が魚の独特の匂いを和らげる・・・。うまい!

ミュウ:茶そばも美味しい!

 

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日本平夢テラスから見る富士山と駿河湾

夢テラスの展望デッキからは駿河湾清水港三保の松原沿岸の街並み山々、そして、天気が良ければ富士山が見渡せます。特に、ここから見える富士山の眺めが非常に有名とされています。

これぞ、まさに日本を代表する絶景の1つで、東海道のロマンを想わせます。ここから望む富士山の絶景は古くから絵画に描かれてきたといいます。中でも、この駿河の地では、『ヤマトタケル伝説』にも登場し、『古事記』『日本書紀』にもそのエピソードが纏られています。例えば、ヤマトタケルが日本統一の途中、焼津の火事で命を落としかけた時に使った『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』『天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)』で草をなぎ払って、危機から逃れることができたといわれています。そのため、日本平の麓にはヤマトタケル伝説にちなんだ草薙神社などのスポットも存在しています。
そして、『日本平』という地名は、幕末に駿府町の奉行こと貴志孫太夫忠美が描いた彩色写生画『寿留嘉土産(するがみやげ)』として登場することから、地名として初めて記録に登場しました。
日本平は、静岡市南部に位置する有度山の山頂の一部分とされ、その南麓には断崖絶壁が続いています。少し見る方角を変えると、伊豆半島南アルプスの連峰なども見渡せます。2月から3月までは梅の開花、そして3月下旬になると桜の開花で周辺の丘の景色を彩ります。また、夜になると夜景も見ることができる『夜景スポット』にもなります。

ビクティニ:去年に来た時は、富士山が綺麗に見れたんだけどなあ・・・。桜の花も咲いているところは咲いているけれど、まだ三分咲き・・・といったところかな・・・?

ミュウ:昨日は富士山が見えていたのに今日は見えないね・・・。

シャワさん:あれが三保の松原か・・・。

ゴンベ:あの海でとれる桜えびは美味しいだろうっぺ・・・。

 

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ロープウェイから見る『屏風谷』と『地獄谷』

日本平から久能山東照宮へはロープウェイでアクセスできます。

日本平と久能山東照宮の間は深い谷で隔てられているため、ロープウェイを使う時は、よく運行時刻を確認した方がいいでしょう。

駅からバスで行く場合は、日本平にバス停がある他、長い石段を下ると久能山下のバス停が久能山の麓にありますが、バスの本数が少ないので注意しましょう。往復では1,250円(小人700円)で、片道が700円(小人350円)になります。11時~15時までは10分間隔で運行されますが、他の時間帯では15分間隔で、久能山発が17:00で最終になるので、乗り遅れのないようにご注意を。
ロープウェイからは久能山と日本平の間に『屏風谷』『地獄谷』といわれる深い谷が眼下に広がります。この時期は桜の季節ということもあり、深い谷に咲く小さな桜の木がピンク色の桜の花を彩っていました。

 

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久能山東照宮 楼門

久能山東照宮で参拝する時は、社務所の受付にて参拝料500円を払ってから入場します。

その時に御朱印帳を用意して受付に出しておくと、御朱印をつけてくれます。御朱印には『金のなる木の御朱印(初穂料700円)』も用意されており、御祭神である徳川家康公に纏わる遺話の特別な御朱印で、木の芳醇な香りで癒やされます。ただし、通常の御朱印とは違い、御朱印帳に貼るタイプのようです。

 

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久能山東照宮 楼門

さて、入場したら正面の『楼門』という大きな門をくぐります。

楼門とは二階建ての門のことで、軒下中央に第108代 後水尾(ごみずのお)天皇の宸筆『東照大権現』の扁額が掲げてあることから、『勅額御門(ちょくがくごもん)』とも言われています。また、門の中央部の蟇股(かえるまた)には獏(ばく)の刻印が彫られています。これは、戦争の道具である銃や刀などの材料である鉄や銅を食料とすることで、『平和の象徴』とされる言い伝えがあるからなのです。

 

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久能山東照宮 境内

石段をのぼり楼門をくぐると、久能山東照宮の境内に出ます。

久能山は、もともと日本平とともに平野だったのが、隆起によって出来たもので、昔は日本平として続いていました。

長い歳月をかけての浸食作用などの影響で堅い部分だけが残ったことで、このように孤立した山となったのが、現在の久能山となったのです。高さは216メートルあり、この山は大昔、観音菩薩の霊場とされ、観音信仰の聖地だったといいます。
久能山のはじまりは『久能寺縁起』によれば、推古天皇の御代(7世紀頃)秦氏の久能忠仁が初めて山を開き、そこに一寺を建て、観音菩薩の像を安置し、『補陀落山久能寺』と称したのと同時に『久能山』という名前も付けられたといいます。当時の久能寺は平安朝の仏教隆昌とともに多くの僧坊が建てられ、僧行基、伝教大師などをはじめ多くの名僧知識が来往し、平安末期から鎌倉初期にかけて360坊、1500人の衆徒をもつ大寺院となったのです。国宝の『久能寺経』なども伝授され、源頼朝は伊豆国内から所領を寄進、源義経も薄墨と呼ばれる笛も奉納されたことでも伝えられています。鎌倉時代には300あまりの禅坊が建てられたことも『海道記』に記され、いわば東海道屈指の寺院として栄えていたのです。
永禄11(1568)年には武田信玄公は、久能山が要害ということを知ると、久能寺を北矢部(静岡市清水区にある鉄舟寺)に移して山上に城砦を築き、『久能城』となりましたが、天正10(1582)年には武田氏が滅び、駿河国一帯が徳川氏が領有したことから、久能山も徳川氏のものとなりました。慶長11(1606)年には榊原清政が城主となり、その息子である照久が継ぎます。そして、徳川家康公は久能山が要害の地であることから早くから着目し、照久に「久能山は駿府城の本丸と常に思召す」と伝えられ、元和2(1616)年4月17日、久能山にて逝去。同時に久能城は廃止となり、その地に創建されたのが久能山東照宮なのです。

 

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久能山東照宮 御社殿

この神社の御祭神である徳川家康公初代徳川氏の征夷大将軍でした。

その家康公が祀られている『本殿』と参拝をするための『拝殿』『石の間』で連結した『権現造(ごんげんづくり)』と呼ばれる様式となっています。これは、日光東照宮をはじめ、全国の東照宮の元となったと言われています。

徳川家康公の眠る御本殿は元和3(1617)年に建立し、江戸幕府大工棟梁中井大和守正清の代表的な遺構のひとつとされています。これは国内最古の東照宮建築ということもあり、江戸時代における権現造社殿が全国的に普及するための基礎となったことから、平成22(2010)年国宝に指定されています。

ビクティニ:神々しい・・・まるで宮殿みたい。家康様、GWに北海道へ行ってきます。安全に旅行ができますように・・・。

ミュウ:東京オリンピックが無事に終わりますように・・・。

 

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久能山東照宮の彫刻

東照宮特有の『権現造』に用いられている彫刻は美術品のような装飾になっています。

この彫刻は当時一流であった職人の工芸技術が込められており、徳川家康公の本願であろう『平和への願い』が込められています。日本で最初に創建された東照宮ということもあり、この華やかな社殿には、繊細かつ美しい仕様は、まさに徳川家康公の平和への思いが詰まったものと言っても過言ではないでしょうか。これらの彫刻には『鳥』や『花』、『虎』『ウサギ』『獅子』など様々な動物を象ったものが用いられ、徳川家康公の優しさでさえも感じさせるほど人の心を豊かにさせます。また、御本殿だけでなく、楼門や鼓楼などにもこのような見事な彫刻を目にすることができます。

 

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久能山東照宮 御社殿 内部

ご祈祷の申し込みをすると、普段は見れない御社殿の内部に入れます。

御社殿の内部は、外部より豪華な内装で、天女や鳥などの絵画や彫刻は、徳川家康公の眠る場所に相応しい天界をイメージした内装になっています。また、柱の装飾には徳川氏の紋章が纏められ、天井の黒漆塗りと金の装飾、証明などが豪華絢爛さを物語っています。この御本殿は江戸幕府大工の中井正清(なかいなさきよ)によって築かれたもので、江戸城や駿府城の天守などの建築も担当しました。ご祈祷を受けると、自らの身を清めるとともに神様との親近感を感じ取れる場所で感謝の気持や願い事をすることができます。我々もご祈祷を受けましたが、宮司の参拝作法の教わり方がとても丁寧だったので、安心して受けられました。また、記念に御本殿内で記念撮影もしてくれました。

ちなみに、お宮参りや厄除け、様々な願い事などのご祈祷は5,000円から受けられます。

 

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神廟(しんびょう)

東照宮より少し石段を登ると徳川家康公の眠る神廟があります。

ここには徳川家康公の御遺体が奉られている場所で、御宝塔と言われていました。当初は木造檜葺き造りでしたが、寛永17(1640)年の徳川氏3代目家光公によってこの場所に石造りの御宝塔になり、現在に至っています。この神廟は西向きに建てられていますが、これは家康公の御遺命によるものです。西に公の御両親が子授け祈願の参籠をされたという言い伝えを持つ鳳来寺があり、さらに西には岡崎の松平家の菩提寺大樹寺、そして家康公誕生の地とされる岡崎城があることから、この方向になつています。

 

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徳川家康公の遺訓

神廟の手前には、徳川家康公が生涯をかけて日本の平和な国づくりという思いを『人の一生は・・・』からはじまる『東照公御遺訓』という形で今日に至り伝えられています。

★徳川家康公の遺訓★

(本文)

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。

(意味)

人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。急いではいけない。
 不自由が当たり前と考えれば、不満は生じない。
 心に欲が起きたときには、苦しかった時を思い出すことだ。
 がまんすることが無事に長く安らかでいられる基礎で、「怒り」は敵と思いなさい。
 勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。
 自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。
 足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。

この御遺訓にはいかにも徳川家康公が日本を永久に平和な国であってほしいという渾身な思いが込められているのが分かります。つまり、欲はなく謙虚な気持ちで、辛かった経験をを思い出すことで、今の自分があるという感謝の気持ちが大切だということを我々に教えてくれているということなのです。ミャンマーや中国、アメリカなどで紛争やクーデターが今でも続いている中、日本が今でも平和志向な国として栄えているのは、まさに徳川家康公の優しさと感謝の気持があってこそだと言っても過言では無いでしょうか。

 

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徳川家康公 御手植えのみかんの木
東照宮の脇に徳川家康公の御手植えのみかんの木が植えられています。静岡は『みかんの産地』としても知られていますが、このみかんの木は駿府城本丸跡にあったみかんの木を徳川家康公が移植したものなんだとか。

 

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東照宮までの石段数
久能山の麓から東照宮まで1,159段の石段数が書かれた看板が掲げられています。足の弱い参拝客やお年寄りのために掲げたものと思われます。

 

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石垣いちご狩り

久能山東照宮の山麓には、『石垣いちご』を栽培しているビニールハウスが多く立ち並んでいます。

石垣いちごは、日本平(有度山)の南斜面の石垣を利用した栽培方法を用いることで育ついちごです。

久能山の南部に東西8kmにわたる久能海岸は、非常に温暖な環境であることから、いちご栽培に適しているのです。また、いちご苗はエキセルシャ種を貰い受け、苗を畑や鉢に植えたりなど、様々な工夫や観察をしていく中で、桃畑の土留めの石垣の間に植えた苗は、冬でも石の輻射熱で発育がよく、甘くて大きな実をつけ、早く熟したいちごが収穫できることから、世界的に例を見ない画期的な栽培方法の1つとなったのです。1月から5月にかけてが食べごろなので、その時期にいちご狩りが開催されています。明治29(1896)年、伊佐須美神社宮司こと松平健雄(松平容保の次男)が川島常吉にいちご苗を託したのが石垣いちごの発端となったと言われています。明治期には文字通り石垣でいちご栽培が行われ、その後の大正期からはコンクリート成形を用いたスタイルとなり、現在に至ります。このいちごのブランドには『章姫』『久能早生』『紅ほっぺ』などの品種があります。

ビクティニ:いちごだ!いただきま~す!・・・甘くて美味い!さすが静岡のいちごは温暖気候がきいているね~。

 

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久能山について

久能山の歴史は、久能寺こと補陀落山久能寺が建てられた平安時代から始まります。

これは天然自然の要害の地を成形する断崖絶壁という環境から、南北朝時代の観応の擾乱(1350~1352年)室町時代の今川氏の内紛花蔵の乱(1536年)など、兵が立てこもる場所にもなったと言われています。

駿府国に攻め入った武田信玄公は、永禄2(1569)年に要害の地久能山にあった寺院を別の場所に移し、もともと久能寺のあった場所に久能山城を築きました。これは北条氏や徳川氏への備えの拠点として重要な役割でもあったのです。
そして、元和2(1616)年4月には徳川家康公が駿府城で薨去し、家康公の遺言とともに御尊骸を久能山に埋葬されました。後に徳川氏2代目、秀忠公が久能山上に本殿などの建造物の造営を命じ、久能山城を廃城し、その場所に久能山東照宮が創建し、現在に至っています。
このことから、久能山は寺院からはじまり、武田氏の拠点となった城郭、そして徳川氏初代将軍こと家康氏の眠る東照宮という歴史的重要な舞台となったのです。

 

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日本平の桜

日本平は春になると、桜の花が見頃を迎え、3月下旬には桜の名所にもなります。

日本平にはソメイヨシノ、ヤマザクラなどの桜の木が約2千本ほど植えられており、静岡県内の花見スポットとしては第8位にランクインされるほど人気があります。

ビクティニ:やはり日本平の桜は綺麗だね・・・。

ミュウ:まさに春の日本平って感じ。ウグイスの鳴き声も聴こえてくる・・・。

 

『富士山の見える景勝地“日本平”&徳川家康ゆかりの神社“久能山東照宮”に参拝』をお伝えしました。

まかいの牧場&休暇村富士で春の世界遺産“富士山”を満喫

皆さん、こんにちは。

今回は、富士山の山麓にある『まかいの牧場』に訪問してきました。その牧場の特徴としては、富士山の西南部にある『朝霧高原』に位置し、そこから富士山の絶景が眺められる牧場として知られています。また、空気の澄んだ朝霧高原で育った牛から採った牛乳がとても美味しいことでも有名です。

 

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まかいの牧場へのアクセスは新富士駅からバスまたはレンタカー

『まかいの牧場』へのアクセスは、東海道新幹線の新富士駅から路線バスまたはレンタカーで行くことができます。

路線バスは、河口湖行きのバスで『まかいの牧場』というバス停で下車できますが、バスの本数が1日5本と少なめなので、時間を気にせずに牧場へ行くのであれば、レンタカーを借りた方がいいでしょう。

ビクティニ:いよいよ、富士山の見える牧場に行くのか・・・。楽しみだな。

ミュウ:今日は天気は晴れだから、富士山が見られるかもね。

 

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まかいの牧場 入り口

新富士駅からレンタカーを借りて、国道139号線を北上すること、約30分・・・。『まかいの牧場』にやってきました。

『まかいの牧場』はこの牧場の創業者である馬飼野利雄によって、この富士山の見える朝霧高原に開拓された観光牧場です。

まかいの牧場という名前になったのは、鎌倉幕府の時代に遡ること建久4(1193)年5月、それは鎌倉幕府が開かれた翌年のことです。鎌倉幕府の武将であった源頼朝は、時代の権威を示すため、富士山の麓(朝霧高原)に壮大な『巻狩り』が行われました。これは、広い原野に生息する動物を四方で取り囲み、追い出すように狩り取る武士の遊びであり、いわゆる武術の研磨を目的として行われていたのです。頼朝の命により、全国から馳せ参じた武士は、なんと9万9千4百騎とされ、家来たちを加えれば、実に7十万人にも上ったといわれています。その際、頼朝は「朝霧高原にて軍馬の育成をせよ」と命じられ、それが『馬飼野(まかいの)』という姓を受けられたことから、『まかいの牧場』という名前になったのです。
第二次世界大戦の最中だった当時、現在の中国遼寧省撫順市に家族で入植し、満州(現在の中国)に開拓しましたが、日本の敗戦(戦後)と同時に開墾した農地や財産を全て失いました。そして、日本に帰国するも、困難な状況にあったものの、なんとか必死の思いで帰国できたといいます。
ようやく引揚者として富士山麓白糸村の故郷に帰れましたが、受け入れられる生活の場所すらなく、再び開拓者として朝霧高原に入植することとなったのです。戦後の朝霧高原は土地も荒れ農作には適した環境でない過酷な状況にさらされ、離脱する開拓者もありましたが、最後まで希望を持ち続けて我慢を重ねて、ようやく牧場を築き上げました。開拓当初は生活に欠かせない食材や水・電気でさえも無く、困窮した生活から始まり、一朝一夕休まず働きっぱなしの毎日だったといいます。そして、ようやく酪農開拓者として乳牛や育成牛の生産牧場として励み、やがて観光客や一般人が自由に入ることができる牧場として、動物ふれあい広場をはじめ、様々な体験教室・アスレチック・レストラン・売店など、徐々に備えられるようになりました。入植から50年・・・様々な苦労を経て、酪農や乳製品の製造などをはじめ、動物たちのふれあいなどを併せた『観光牧場』として今日に至っています。また、最近では『ゆるキャン』というアニメでも、この牧場が舞台になっています。

ビクティニ:澄んだ空気・・・まさに富士山の高原だ!

ミュウ:今日は晴れていてよかったね。でも富士山が霧に包まれていて見えない・・・。

 

www.makaino.com

 ★まかいの牧場の様子★


www.youtube.com

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動物ふれあい牧場

まかいの牧場では、羊や山羊、ウシ、うさぎなどの動物たちと気軽にふれあえることができます。しかも、スタッフの方々が動物たちの健康管理を徹底しているので、動物たちが生き生きとした姿で暮らしているのが間近で見られるのです。

ビクティニ:まずは、動物たちを見てみよう。

 

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北海道からやってきた羊

ふれあい牧場では、羊やウサギ、ヤギの他にマーラやマラなどの動物たちが飼育されています。

羊の中には、北海道から来た羊もいるのです。こちらの羊は『サフォーク種』というタイプの羊で、顔までは羊毛がなく、黒くなっているのが特徴的です。これはもともとイングランドでサウスダウン種のオスとノーフォーク・ホーン種のメスを掛け合わさせることで、生み出された種類です。その交配で生まれた子羊はどちらの親の種類と比べても良い特徴を持っている考えられてきたものとされ、その種類の名前はサフォークという地名からちなんでいます。日本では、昭和42(1967)年にオーストラリアから輸入されたサフォーク種を北海道で飼育し始めたといいます。そのため、このサフォーク種の羊は北海道のある牧場から持ってきたものと思われます。

 

まかいの牧場と北海道の『羊と雲の丘』は友好牧場

まかいの牧場は、富士山の麓にある静岡県の牧場ですが、実は『羊と雲の丘』という友好牧場が北海道にあります。

『羊と雲の丘』は北海道士別市にある牧場で、サフォーク種の羊をはじめ、世界中の羊が見られます。また、士別市は、めん羊が見られるまちとして有名で、めん羊が放牧されているのが見られるのです。平成29(2017)年には友好牧場15周年ひつじ交換式が行われ、両牧場で2頭が交換されています。一見、北海道とは縁のない富士山の景色が見える牧場でも、北海道の牧場と深いつながりがあったんですね。

 

まかいの牧場の羊たち
こちらが、一般的な羊です。羊は純粋に草だけをエサとし、聴力がよく、270~320°と優れた視野を持っています。また、明るいところを好み、影や暗いところが苦手という性質をもっています。羊毛を狩ると『ウール』といわれる繊維の材料ができます。

 

ヤギ

ヤギは、古くから家畜として飼育されています。

用途によっては乳用、毛用、肉用、乳肉兼用などに用いられ、それらの品種には数百種類に及びます。山岳部や乾燥地帯で生活する人々にとっては貴重な家畜にもなっています。特にユーラシア内陸部の遊牧民にとっては、ヒツジ、ウマ、ウシ、ラクダとともに五種の家畜の一つとされ、羊と比べて乾燥に強いことから、重宝されているのだそうです。ヤギは、草だけでなく、木の実や木の芽、木皮もエサとして食べています。また、ヤギは高いところを好みます。

 

マーラ

この牧場では、家畜には欠かせないヤギや羊、ウシなどの他に、日本ではなかなか見られないマーララマも飼われています。

マーラは、アルゼンチンなどに生息するテンジクネズミの仲間です。

昼行性で、夜間は地面に掘った穴の中で休みます。普段はペアで暮らすことが多く、オスはメスに従うという習性を持ち、メスが採食や育児を行う時は、オスが見張りをします。繁殖期や食物が豊富な場所では、複数のペアが集まり、大規模な群れをつくることもあるのです。移動する時は、跳躍するように走行します。その時の速度は時速45kmにも達すると言われています。

 

ラマ

ラマはラクダの仲間で、体高約1.2メートル、体重70~140kgの体格を持ち、南アメリカのアンデス地方に多く生息しています。

一見アルパカに見えますが、ラマのほうがアルパカより大きく、耳は先端が丸くて、長めです(アルパカの耳は短い)。アルパカの毛はふわふわなのに対し、ラマの毛は硬めで短いです。また、ラクダの仲間の割りには背中にはコブがなく、全身には毛を纏っています。白い毛のものもいれば、茶色の毛のもの、あるいは白と茶色で混ざっているものも存在します。足から頭までの体長が1メートル程度、頭から尻尾までの長さが2メートル程度。まつげが長く、目はパッチリしているのが特徴です。性格はおとなしく、人には慣れやすい生き物であることから、用途としては、南アメリカでは主に荷物を運ぶための家畜として飼育されています。

 

ジャージー牛

朝霧高原は乳業が盛んで、多くの乳牛が飼育されています。

富士山麓にある朝霧高原は富士の自然に恵まれた環境で、乳牛を育てるのに適していることから、乳業用の牧場が多く存在し、本州で有数の酪農地帯にもなっています。

まかいの牧場で飼われている牛には、普通の乳牛の他に、ジャージー牛も飼われています。ジャージー牛は、世界的に広く分布し、日本の牛の品種としては2番目に頭数が多いです。バターなどの乳製品の製造している国(デンマークやニュージーランドなど)では非常に重宝される品種です。
ジャージー牛は、毛の色が淡褐色から濃褐色までの単色であるのが特徴で、体格としては普通の牛よりやや小型です。その牛の品種から採れる牛乳は『ジャージー乳』といわれ、乳質が濃厚で、入死率が5%、無脂固形分率9%を超えます。乳は脂肪率が大きいため、バターが作れやすいです。また、カロチンを多く含まれているため、黄色が濃く乳量が少なめですが、持続性としては長持ちします。

 

ウサギ

観光牧場はもちろん、動物園や小学校の校庭などでも一般的に飼われているのがウサギです。

牧場におけるウサギの家畜用途は特にありませんが、昔は食用とされていたようです。

見ての通り小動物で、全身が柔らかい体毛をしていることから、可愛がられています。多くの種が体毛の色彩は、背中が褐色や灰色、黒、白、茶色、赤茶色、ぶち模様などで、お腹が淡褐色か白を纏い、耳が大きいのが特徴です。これは、カラスなどの敵から身を守るため音や風のする方へ耳の正面が向けるように耳介を動かすことができるためです。また、大きな耳に毛細血管が透けるように見えるのは、自らの耳に風を当てることで体温調節が出来るようになっているからです。エサは人参を好みます。人参のエサは100円で売られているので、エサをあげることができます。

 

モルモット
モルモットもいました。ウサギに似ていますが、どちらかというとハムスターみたいです。エサの人参を小さくちぎってあげると食べてくれます。

 

乗馬

まかいの牧場では、にも乗れます。

牧場なら必ずと言っていいほど馬はよく見かけ、普段は体験できない乗馬も出来ます。

まかいの牧場で乗る乗馬は、ショートコース(500円)ロングコース(800円)がありますが、乗馬を楽しめればいいという人にはショートコースでも十分に楽しめます。さらに馬にゆられながら富士山を眺められます。しかし、私が乗馬した時の富士山は霧がかかっていて見えなかったですorz

ビクティニ:晴れなら富士山が見られると思ったのに・・・。

ミュウ:晴れると富士山に積もった雪が霧になるからかな・・・。

 

ソフトクリーム

ソフトクリームも牧場ならではの楽しみの1つです。

まかいの牧場のソフトクリームは、まさに朝霧高原の牛乳を使用した本格的かつ生の牛乳がその場で味わえます。この空気の澄んだ牧場で食べるソフトクリームは、まさに北海道に来たという感覚でさえも伝わります。まかいの牧場に来た時にはぜひとも味わっていただきたいものです。

ビクティニ:こんなソフトクリーム、他の観光地で食べるより一段美味しい!まさに本物のミルクだ!

ミュウ:このソフトはすごく美味しいね!味が濃厚!

 

放牧場

放牧場には多くの羊が放牧されています。

まだ3月で平日とはいえ、春らしい気候ということもあり、結構多くの羊が放牧されています。

本来なら、ここからは綺麗な富士山が見えるはずですが、やはり霧に包まれていて、見えないようです・・・orz そして、わたしが放牧場から見た富士山を撮ろうとしたら、羊が近寄ってきました。「エサちょうだい」と言わんばかりに近寄ってくる羊たちですが、しばらくするとどこかへやり過ごしてしまいます。余談ですが、さっきのふれあい牧場やこの放牧場でも100円でエサが売られているので、時間やお金があったら動物にエサをあげてみては?わたしが動物にエサを差し出すと、食欲旺盛にベロを出しながらエサを吸い込むように食べたり、容器となるコーンもエサの入ったまま丸呑みしてしまう羊も(笑)

 

羊飼いのゴルフ

この牧場では、羊飼いのゴルフができる他、吹き矢やアーチェリーも楽しめます。

我々は羊飼いのゴルフを楽しみました。ゴルフのコースは2種類あり、どちらも9ホールあります。両方が楽しめるグランド(500円)1コースだけで楽しむハーフ(300円)がありますが、ハーフで十分楽しめます。

私とビクティニたちでハーフコースを楽しみましたw

ビクティニ:意外と簡単かもw今度のゴルフもぼくの勝ちだね☆

ミュウ:なかなかホールに入らない・・・。

作者:たまには大自然の中で運動もいいものだね。あとは富士山が見えればね・・・。そういえば、以前に小岩井農場でもやったな・・・。

 

グランピング 受付(森のかくれ家)

この牧場ではBBQが楽しめる他、グランピングも楽しむことができるのです。

牧場でグランピングが楽しめるのは、珍しいほど国内で有数だそうで、このまかいの牧場でもグランピングが楽しめるのも、なかなか粋な体験プログラムだと思います。

グランピングとは、Glamorous(グラマラス)・Camping(キャンピング)の造語からで、大自然ならではの贅沢さや快適さのコンテンツを含んだ割りと最近に登場したキャンプ形式だそうです。この牧場のグランピングは、大層なテントでくつろいだり、富士山を見ながら焚き火に当たる事ができます。もちろん、私のような一人旅でも受けてけてくれます。BBQなら要予約ですが、当日でもOKなプチグランピングは予約の必要はありません。もっとも、当日は平日だったのか、あっさり取れたのですがね() なお、グランピングやBBQはこの『森のかくれ家』で受付を受けます。

 

まかいの牧場 BBQ

さて、事前に予約したBBQのプランの受付を済ませて、BBQの昼食といきましょう。今回は平日ということもあり、我々以外にBBQをする人はいないようだったので、スタッフの方が富士山の見える席を用意してくれました。

まかいの牧場のBBQのテラスは、富士山が見えるような開放的な感じになっていて、お肉や野菜を焼きながら澄んだ空気を吸いながら富士山の絶景が楽しめます。
BBQのプランには『岡村牛(おかむらぎゅう)プラン』(4,500円)と『幸寿豚(こうじゅとん)プラン』(2,700円)がありますが、今回は『幸寿豚プラン』の方を申し込みました。『幸寿豚』富士のブランド豚で、ジューシーかつ甘みがあるのが特徴です。メニューには、お肉や野菜の他に、自家製のパンや富士山の天然水も用意されています。
そして、昼食を食べている頃には、富士山にかかっていた霧が晴れて、晴天の富士山を見ることができました!

ゴンベ:これが楽しみだったんだっぺ~!いただきま~すだ!モグモグ・・・うんめ~!いつも食べる豚肉とは違うくらいサイコーだっぺ~!

シャワさん:空気の澄んだ朝霧高原でBBQもたまにはいいよな。あとは富士山が見えれば・・・。

ビクティニ:そうだよね・・・って霧が晴れて富士山が見えてきたよ!すっげー綺麗だぞ!本当に来てよかった!

ミュウ:え、ほんと?うわ~綺麗だね~!!

 

プチグランピング

BBQの後は、『プチグランピング』を楽しみます。

『プチグランピング』は、事前予約なしで空きがあれば、5,000円で当日でも気軽にグランピングが楽しめるというものです。他にも、『デイグランピング』もありますが、こちらは7,000円でグランピングとともに岡村牛のステーキBBQが楽しめるプランがあります。どうせ予約するなら、そちらの方がもっとグランピングが楽しめたかもしれませんね・・・。
焚き火でマシュマロを気長に焼きながら、富士山の絶景や澄んだ空気の大自然を自分の肌で感じることができます。また、テントの中は広々としていて、風を感じながら、富士山の大自然が満喫できるのです。先程のBBQで出るデザートにまかいの牧場で採れた新鮮な牛乳も提供してくれました。まかいの牧場の牛乳は、市販のスーパーで買う牛乳や普段飲む牛乳よりも、これまた一段と濃厚で美味しかったです。なんでも、2019年には関東生乳品質改善共励会で最優秀賞を受賞したのだとか。ちなみに、チーズケーキもまかいの牧場自家製のノンホモ牛乳を使用しているので、とても濃厚なスイーツが楽しめます。まかいの牧場や静岡のお土産にも好まれています。

ビクティニ:焚き火は最高に楽しい!ぼくは炎タイプだから焚き火に当たると元気が出てくるんだ!まるで北海道の知床にいるような気分!

ミュウ:ここは静岡だけどね・・・。でも、GWに北海道へ行きたいよね。

 

まかいの牧場から見る富士山

午後になると、霧が晴れて富士山が見えるようになりました。

まかいの牧場から見える富士山はとても絶景です!放牧場でのんびりしている羊たちと富士山のコラボレーションは、まさに『世界遺産の見える牧場』ですね!これを写真に撮ってSNS映えする人も少なくないのではないでしょうか。富士山の景色は、完全に晴れて雲1つ無いスッキリとした富士山が見られれば、若干雲が被った富士山も見れます。今日は、雲が少し被ったような姿で富士山が撮れました。みなさんも、静岡や山梨へ旅行に行く時、天気が良ければ富士山の写真を収めておきたいと思います。

 

 

サルビアの花畑
まかいの牧場にはサルビアの花が咲いていました。この牧場では、四季折々の花々を見ることができます。

 

クッキーづくり体験

『食の体験工房』では、クッキーづくりソーセージづくりバターづくりなどの食の体験もできます。

今回はクッキーづくりをしました。参加料が800円、体験時間が40分と気軽に体験できます。

材料として用意するものは、薄力粉、砂糖、卵1個、固形バター(食塩なし)を使用します。まずは、砂糖をすべてボウルに入れ、卵は黄身だけを入れます(白身は使わない)。それらを入れたら、ボウルに入れたものをヘラでダマがないよう、ペースト状によく混ぜ合わせます。次に薄力粉を入れますが、全体の5~6分の1ずつ徐々に薄力粉を加えつつ、ヘラで生地を切るよう混ぜ合わせていきます。最初はそぼろ状になりますが、徐々に薄力粉をボウルに入れながら練り合わせていきます。生地として出来上がったら、自分の好きな形でクッキングペーパーに置きます。その際、生地が厚すぎても薄すぎてもいけません。厚すぎると生地の中まで熱が通らなくなり、逆に薄すぎると焦げてしまいます。ヘラの柄と同じぐらいの厚さが丁度いい具合です。チョコチップで生地に飾りにできます。ちなみに、今回はGWに北海道へ行くことを前提にキタキツネやタンチョウ、北海道の形、汽車、そして、自分の好きなポケモンにしました。
形を整えたら、オーブンに掛けます。オーブンで焼く時間は30分ほどかかるので、その合間にお土産屋さんでお買い物するもよし、牧場でのんびり過ごすもよしです。

 

クッキーの完成
焼いてから30分・・・。クッキーの出来上がりです!見ての通り、丁度いい焼き具合です。焼き上がったら、袋に詰めてお持ち帰りです。

 

休暇村富士

さて、まかいの牧場を楽しんだ後は、富士山の見える田貫湖の湖畔にある『休暇村富士』に宿泊します。

このホテルは、天然温泉の大浴場から富士山が眺められるので、人気があります。

我々がチェックインする時には、駐車場がやや満車に近い感じになっていました。また、このホテルへのアクセスは東京駅から高速バスが出ているため、クルマでなくても気軽に宿泊できますが、いろんな所をまわりたい私としては、レンタカーで回る方が時間を気にせずに過ごせるかと思います。

ビクティニ:おお、湖畔にあるホテルを選んだね。

ミュウ:大自然に囲まれた所で過ごせるのは夢のよう・・・。

 

休暇村富士 夕食
夕食は、静岡ならではの地場産ものや富士宮やきそば、しぞーかおでん、海鮮ものなど、メニュー豊富なものが多かったです。他にも、静岡茶や富士山の天然水、ステーキなども提供されていました。

ビクティニ:静岡地場産のものはみんな美味しいものばかりだ!いただきま~す!おでんがうまい!出汁のふりかけがきいている!

ゴンベ:富士宮やきそばも美味しいっぺ~!

ミュウ:サラダも美味しいよ!

シャワさん:寿司やお刺身もうまい!

 

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休暇村富士のお部屋

休暇村富士のお部屋は基本的には洋室になっています。

ベッドが快適で、全客室のバルコニーからは天気が良ければ富士山が眺望できるようになっています。そうでなくとも、窓をちょっと開ければ、富士の大自然の空気が部屋に漂います。鳥のさえずりなどで朝の目覚めや朝の田貫湖を楽しめます。

ビクティニ:こんな大自然で過ごせるのは幸せな気分・・・。

ミュウ:函館に行った時の旅行を思い出すね・・・。

ゴンベ:もう食べられないっぺ・・・。

シャワさん:明日は日本平に行くみたいだけど、富士山見られるかな・・・。

 

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客室から見る富士山

朝の客室からは、富士山の絶景と田貫湖が見られます。

休暇村富士での楽しみは、鳥のさえずりが聞こえる朝と朝日の富士山が見れることです。さらに春ということもあってか、時折ウグイスの鳴き声まで聴こえてきます。窓も少し開ければ、富士の大自然の空気がもっと肌に染みたのかもしれません。

作者:よく寝た・・・。お!富士山が綺麗に見えるぞ!

ビクティニ:おはよう・・・。おお・・・本当だ、朝の富士山は綺麗だ!澄んだ大空に富士山と湖が芸術的!やっぱり静岡から見る富士山もまさに日本を代表する景観ということもあるね!

ミュウ:これは綺麗だね!

 

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休暇村富士の朝食
朝食も干物や蒲鉾、わさび漬け、塩辛など、静岡地場産のものがふんだんに使われています。

ビクティニ:朝食も静岡の食材がたくさん使われている!いただきま~す!モグモグ・・・うまい!

ミュウ:おいしい!

ゴンベ:うまいっぺ~!

シャワさん:うまい!

 

 

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キャンプ場から見た富士山と田貫湖

さて、朝食を終えて田貫湖の周辺をサイクリングしてみます。

休暇村に宿泊すると、1時間320円で自転車を貸してくれるので、朝のサイクリングにはまさにうってつけです。

田貫湖は、面積が32ヘクタール(0.312平方km)、深さ8メートル、そして周りの長さが3.3kmと小さな湖ですが、湖越しに見える富士山との景観は見事にマッチしています。田貫湖は、断層活動によって隆起した窪地で、農地用水の確保から湖として拡張した人造湖ですが、この湖の周辺がサイクリングロードハイキングコースになっています。この湖を回るのに徒歩では60分自転車なら30~40分ほどで回れます。また、湖畔にはキャンプ場があり、多くの家族連れで賑わっていました。

ビクティニ:おお、湖の向こうに見える富士山のシルエットがこれまた美しい!やはり世界遺産の景観は絵になるね!

ミュウ:雲に包まれた富士山も綺麗だよね!

シャワさん:田貫湖の水面に富士のシルエットか・・・。まさに大自然の芸術だ!

 

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田貫湖湖畔の桜
田貫湖の湖畔には桜の花が満開に咲いていました。3月下旬がちょうど見頃なんですね。桜の花を見ながら、時折聴こえるウグイスの鳴き声がまさに春の訪れを感じさせます。

 

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親水園地
田貫湖の北サイドには親水園地があります。ここでは夏場になると水遊びで賑わうでしょうね。また、このあたりは釣りスポットにもなっていて、ヘラブナ釣りで賑わっています。

 

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田貫湖の北サイドから見た富士山

田貫湖の北サイドでは、富士山が一層綺麗に見えます。

遮るもののない湖上の向こうに見える富士山がこれまた美しさを醸し出します。

この日に見える富士山の根元にかかる雲がより幻想的な景観を醸し出しています。湖と富士山の景観なら、どんな景色でも美しい景観です。富士山の標高が3,776メートルという日本一の山岳なだけあって、威風堂々なスケールですね。

 

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カルガモ

カルガモの親子が悠然と田貫湖を泳ぐ姿に癒やされます。

また、この湖の周辺にはカルガモの他にもメジロやヤマガラ、カケス、オオバン、ツグミ、ジョウビタキ、ヒドリガモ、シジュウカラ、セグロセキレイなどの野鳥が見られます。そのため、湖や木の上などにカメラを向けるバードウォッチャーも所々で見受けられます。

 

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田貫湖の向こうに見る休暇村
我々が宿泊した休暇村も見えます。こうして風光明媚な景観にホテルがあると、泊まりに行きたくなりますよねw

 

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ダイヤモンド富士

時期が合えば『ダイヤモンド富士』が見られることもあるそうです。

『ダイヤモンド富士』は、太陽と富士山の山頂が重なって生じる光学的な現象で、文字通り太陽の朝日があたかもダイヤモンドのように輝いていることから、そのように呼ばれているといいます。いわば、天体的な現象が生み出した芸術というものとして、多くのカメラマンが訪れるのだとか。ちなみに『ダイヤモンド富士』の見頃は見える場所によって異なりますが、田貫湖からだと、4月下旬頃または8月下旬頃に見られるのだそうです。

 

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富士山と記念撮影

最後に休暇村の展望デッキから記念撮影をしました。

客室から見る富士山も十分綺麗に見えますが、展望デッキサイクリングコースから見ると、田貫湖の水面に近いため、富士山の景観がより美しく見えます。

ビクティニ:富士五湖から見る富士山もいいけれど、やはり静岡から見る富士山もとても綺麗だ!

ミュウ:これこそ、日本を代表する景色だよね。

ゴンベ:こりゃ、3度の飯より楽しいっぺ~!

シャワさん:水と富士の山・・・、まさに自然の芸術だ!さすが、世界遺産の景観だ!

 

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休暇村富士を後に・・・

さて、田貫湖のサイクリングを満喫しまして、休暇村富士をチェックアウトします。

ビクティニ:朝の富士山の景色が見れて最高だったな~。

ミュウ:夕食も朝食も美味しかったよね。日本平から見る富士山はどうかな?

www.qkamura.or.jp

 

 

これから、東名高速を通って日本平へ参ります。

 

『まかいの牧場&休暇村富士で春の世界遺産“富士山”を満喫』をお伝えしました。

正月旅行 厳冬の山陰旅 厳島神社にて早朝参り&弥山で正月ハイキング

皆さんこんにちは。

今回は、早朝に厳島神社で参拝したいと思います。

 

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早朝の表参道

お正月は昼間に厳島神社に参拝に行くとどうしても混雑になってしまうので、密を避けるため早朝に参拝をします。

厳島神社の参拝は朝6時からなので、朝5時半に起床し、5時50分頃に旅館から外出します。厳島神社までは徒歩5分くらいで、そのまま表参道を歩いていきます。やはり早朝ということもあってか、さすがにこの時間帯ではお店はやっていません。

ビクティニ:まさか、こんな朝早くに神社参拝に行くとは思わなかったな・・・。さすがにこんな朝早く参拝に行くってなると、まだ暗いし人もほとんどいない・・・・。

ミュウ:シーンとしていてちょっと不気味かも・・・。

作者:町の中で明かりがあるだけマシです。

 

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厳島神社 参道入口

昼間なら、賑わうはずの厳島神社の入口もさすがに早朝の時間帯ではガランとしており、ほとんど人がいません。

夜のように暗い参道にそびえ立つ大きな鳥居も、昼間に訪れる厳島神社とは違和感があります。こうして島内に宿泊すると静まり返った早朝の厳島神社の参道を見ることが出来るのはかなり貴重ではないでしょうか。

しかし、いくつか屋台が並んでいるのが確認できますが、やはり初詣の時期なので、屋台の準備とかしているのではないでしょうか。

ビクティニ:人っ子一人いない厳島神社の参道は初めて見る・・・。なんというか、ちょっとシュールな感じだけど、確かに密にならずに済むから、落ち着いて参拝に行くのなら、ある意味いい時間帯かもねw

ミュウ:朝とはいえ、真っ暗な中で参拝に行くのはちょっと不安かな・・・。でも、海の向こうに夜景が見えるからちょっと安心・・・かな?

 

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早朝の宮島から見る海越しの夜景

もうじき朝6時になりますが、まだ空は暗いので海の向こうには、廿日市市の夜景が見えます。

早朝の初詣のついでに夜景が見られる機会はなかなかありません。厳島神社のある宮島『日本三景』の一つとして知られており、参道に配置されている灯籠松の木など、とても風流な景観です。

 

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厳島神社の大鳥居

『海に浮かぶ鳥居』として知られる厳島神社の大鳥居です。

この大鳥居は平安時代に建てられたもので、現在の大鳥居で八代目ということになります。

我々が訪れた時に、先日訪れた原爆ドームと同様に改修工事されていました。・・・というのも、厳島神社の大鳥居は水が引いているときを除いて常に海の中に立っており、鳥居自体が木造なので、どうしても大鳥居の根元は腐食してしまうからなのだそう。しかも、この大鳥居は、一見地面(海底)に打ち込まれているように見えますが、実は6本の柱で支えられた大鳥居自体の総60トンの重さで支えているからなのです。そこで、『根継ぎ』という技法を用います。古くなった部分だけ切り離し、『別木』といわれる新しい木材を継ぎ当てることで、大鳥居の改修ができるのです。そうでなくても、海水が干潮の時は大鳥居の元まで歩いていけることもあり、あの鳥居の根本に小銭を差し込む参拝者がいるのですが、それは、やってはいけないことなのです!

www.mag2.com

こうして大鳥居に硬化やコインを差し込めば、鳥居の根元の浸食が激化してしまう恐れがあるので、みなさんも、厳島神社の参拝に行かれるのであれば、このような行為は慎んでいただきたいと思います。

 

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早朝の厳島神社 本殿

早朝の厳島神社の様子です。

朝6時を過ぎたとはいえ、まだ暗く本殿の明かりが目立つほどで、まるで夜の神社に参拝しにきたかのようです。

暗闇の中で明かりに包まれた幾つもの小さな灯籠松の木、奥に見える本殿が、幻想的な雰囲気を醸しています。しかし、早朝なのか海水は干潮のようです。

 

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厳島神社 本殿 入り口

さあ、早朝の厳島神社で初詣と参りましょう。

厳島神社は平成8(1996)年、『世界文化遺産』に登録されています。

まずは、受付にて参拝料300円を払って参拝券をもらいます。そして、水場で手や口を清めてから、参拝しましょう。

厳島神社の本殿は、海の上に建てられていることもあり、回廊はあたかも龍宮城のような雰囲気を醸し出しています。

この本殿は国宝に指定され、本殿には市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の宗像三女神が祀られています。その御祭神の三女神は、海の神、交通運輸神、財福の神、技芸の神として信仰されています。したがって、『交通安全』『水難避け(船や釣りなど)』『学業成就』『勝負に勝つ』『家内安全』『商売繁盛』『病気平癒』『安産祈願』『身体健康』などのご利益があります。

ビクティニ:こんな朝早くに厳島神社で参拝とは初めてだ・・・。人がいないし、落ち着いて参拝が出来るぞ。

ミュウ:まるで、夜の神社で参拝しているみたい・・・。

 

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厳島神社 客神社

境内に入ったら、すぐ手前にある『客神社』で参拝します。

この神社は厳島神社境内にある小さな神社ですが、境内の入り口から入ってすぐの場所にあるため、その名前がついたと思われます。

一見すると『きゃくじんじゃ』と読まれがちですが、実は『まろうどじんじゃ』と読むそうです。いわば、『まろうど』は『客人』と書いて『客人をもてなす』という意味が込められているからです。ちなみにこの神社が建てられていた平安時代当時は『客宮(まろうどのみや)』あるいは『客人宮(まろうどのみや)』と呼ばれていたそうです。

(二礼二拍手一礼)

ビクティニ:これからも、事故やトラブルなどがなく、安全に旅行ができますように・・・。

ミュウ:今年も平和に過ごせますように・・・。

 

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厳島神社 回廊

厳島神社の回廊は本殿を中心に『東廻廊』『西廻廊』に分かれています。

厳島神社境内にある社殿群はいずれも海の上に建てられた、いわゆる『寝殿造り』が用いられています。

それらの社殿を通路として繋げるため、『回廊』が設けられています。この通路は屈折しつつ『廊下』として社殿群とともに同時に仁安2(1168)年に造営されたもので、東西の回廊で275メートルに及びます。浜の入り江に沿うような形で造営されていることから、回廊から見る瀬戸内海の景観は美しいものです。また、各々の社殿群に用いられている『寝殿造り』は、10世紀の『国風文化』とともに生まれた建築様式です。いわゆる高床式の木造建築の一種で、主に母屋や庇(ひさし)で構成されており、外側には壁がなく、柱だけで構成されるという開放的なものになっています。そして、この『寝殿造り』の特徴は平安時代に貴族が住んでいたことから、『上品』かつ『繊細』な仕様になっているということなのです。まさに龍宮城にいるような空間でさえも感じさせられます。

ビクティニ:空がまだ暗い早朝の中、海の神社で参拝するというのも、なんか不思議な気分・・・。

ミュウ:まるで龍宮城にいるよう・・・。廊下の提灯とかも雰囲気出ているね。

 

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厳島神社 本殿 参拝

さて、いよいよ厳島神社の本殿にて早朝参りおよび初詣です。

本殿は飛鳥時代の593年に創建されたもので非常に歴史が古く、安芸国の権力者であった佐伯鞍職が夢の中で神託を受け、宮島の御笠浜に『伊都岐島神』を創祀したのが始まりとされています。

現在の社殿が建てられたのは仁安2(1168)年のことで、平安時代の権力者であった平家こと、平清盛公によって現在の社殿に改築され、現在に至っています。この神社はおよそ1400年の歴史があり、その中で本殿の改修および造営はわずか2回のみという平安時代当時から変わらぬ美しい姿をよく残しています。1回目が平清盛、そして2回目が元亀2(1571)年に毛利元就でそれぞれ再建が行われてきました。平家の総帥でもあり、この神社の造営を行った平清盛も厳島神社を深く信仰していたことから、別名『平清盛ゆかりの神社』ともいわれています。

ビクティニ:この神社は1400年の歴史を誇っているだけあって平安時代当時から残っているのは奇跡的・・・。そして平清盛ゆかりの神社なだけあってとても厳かな雰囲気・・・。ということで、(二礼二拍手一礼)今年は例の病気の呪いがなくなり、安全かつ素晴らしい旅ができますように・・・。

ミュウ:旅行時に地震や台風などに見舞われませんように・・・。

この後、お祓いも受けてきたのでありました・・・。

 

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五重塔の見える厳島神社

参拝を終えた後、次第に空が明るくなってきました。本殿の向こうに見える五重塔が雰囲気を出しています。

 

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厳島神社 反橋

『西廻廊』を歩いていくと左側に『反橋』が見えます。

別名『太鼓橋』ともいわれ、全長24メートル、幅4メートルある橋で、高欄には丹塗、橋桁には黒塗りで施されています。この橋は鎌倉時代に架けられたものとされ、宏二3(1557)年、毛利隆元、父子によって再建されたものです。往時には天皇の使者(勅使)がその橋を渡って御本殿に入られたことから、『勅使橋(ちょくしばし)』といわれています。

 

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旅館の朝食

さて、厳島神社で早朝参り・初詣を済みまして、旅館に戻り、朝食をいただきます。

ビクティニ:参拝後の朝食は美味しい。

ミュウ:朝食の器もいい感じだね。

にょろもう:うまい!

 

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五重塔と人力車

今回の旅行の最終日なので、最初は水族館だけ回ろうと思いましたが、どうせなら弥山にも行ってみようと思い、人力車でロープウェイのりばまで回ってみます。厳島神社の大鳥居、五重塔、宮島の通りなどを回りました。宮島で人力車に乗るとは思いませんでしたが、なかなか経験できないので貴重な経験になりました。

 

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弥山ロープウェイのりば紅葉谷駅

ということで、弥山に行ってみます。

まずはロープウェイのりばからリフト、そして中間地点(榧谷駅)からロープウェイに乗り継いで弥山まで行きます。

ビクティニ:ここもやはり人がいないようだ。いつもここは混んでいたから、チャンス!行ってみよう!

ミュウ:そうだね。

 

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獅子岩展望台から見た瀬戸内海

ロープウェイで獅子岩駅までやってきました。

駅からすぐの場所に展望台があり、ここから瀬戸内海の景色が眺められます。

ミュウ:瀬戸内海がキレイ!

ビクティニ:海に浮かぶ島々のシルエットも、まさに瀬戸内海の風景だ!

 

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弥山 大本山大聖院

宮島には、厳島神社だけでなく、幾つか寺院もあります。

その中で最古の歴史を誇る総本山仁和寺の大本山大聖院です。

このお寺は弥山山頂へ続く道の途中にあり、厳島神社の別当寺として祭祀を司り、社僧を統括してきたのです。

 

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消えずの火

霊火堂には『消えずの火』といわれる霊火が1200年前から燃え続けています。

大聖院を開いたのは大同元(806)年のことで、弘法大師(空海)が唐からの帰りの途中で宮島の弥山で求聞持の修行の時に『護摩の火』として焚いたとされる霊火で、今日まで途絶えることなく現在に至って燃え続けています。この霊火は広島市の平和記念公園にある『平和の灯火』の元火にもなったといいます。その火で沸かした大茶釜に入っている霊水には『万病にも効く』といわれ、そのお湯をいただくことができます。いわゆる『パワースポット』であり、『弥山の七不思議』の1つにも数えられています。また、消えない永遠の愛を誓うことでも効果があるとされることから、多くのカップルも訪れられ、『恋人の聖地』にも認定されています。

 

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宮島の鹿

宮島に訪れると、必ずと言っていいほど鹿に出くわします。

むろん、弥山の登山をしている時も例外なく見かけます。

なぜ宮島に鹿が生息しているのかは未だにですが、鹿は水中でも泳ぐことが出来るそうで、泳いで宮島までたどり着いたという説があるとかないとか・・・?しかし、この島に昔から住んでいるというのはあながち間違いではないようです。ある一説によれば、『鹿は神様の使い』ということから、昔から大切にされています。

 

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弥山の原生林

弥山の山頂に近づくほど、所々で原生林が目立つようになってきます。

宮島の森林地帯では、一万年以上前からほとんど手つかずの状態で残っており、この一帯は『ツガ林』といわれ、昭和4(1929)年に天然記念物に指定されています。瀬戸内海の島々でこのようにツガ林の残っていない、非常に貴重な森林地帯でもあります。

 

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弥山 山頂

獅子岩駅から歩いてかれこれ40分、弥山の山頂にたどり着きました。

標高は535メートルあり、山頂からは瀬戸内海と海に浮かぶ島々をはじめ、廿日市市や広島市、山口県岩国市などの景色が360度ビューで眺望できます。『宮島の真価は弥山の山頂からの眺めにあり』というように、伊藤博文も感動していたのだそうです。また、展望デッキもあり、瀬戸内海の景色を眺めながら休憩できます。

ビクティニ:山頂から見る瀬戸内海の景色には感動した・・・。来てよかったな・・・。

ミュウ:あまりにもいい景色なので、山陰の雪のことなど忘れてしまいそう・・・。

にょろもう:浮かんでいる島も素敵~。

 

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宮島名物 穴子丼

弥山ハイキングの後は、昼食に宮島名物の穴子丼をいただきます。

ビクティニ:弥山で山登りした後の昼食はとても美味しい!牡蠣やお好み焼きもいいけど、宮島といえばやはり穴子丼が最高!いただきます!

ミュウ:いつも家で食べるスーパーで買ってきたウナギ丼より美味しい!

にょろもう:わーい、ぼくの好物だ~、いただきま~す!

 

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宮島水族館 スナメリ

昼食の後は、広島県で唯一の水族館である『宮島水族館』にも行ってみます。

宮島水族館では、瀬戸内海や広島県の河川などに棲む水中の生き物が展示されています。

中でも、この水族館では『スナメリ』という小さなクジラやカワウソが目玉のようです。スナメリは、日本の太平洋側を中心に沿岸部の浅瀬に生息する生き物です。もちろん瀬戸内海でも生息しており、かつては多くの個体が生息していましたが、最近では個体数が少ないためか、絶滅危惧種にもなっているほど貴重な生き物とされています。また、スナメリは美しい海にしか生息しないことから、スナメリを保護する活動が行われています。そのため、スナメリは瀬戸内海のシンボル的存在とされています。フェリーで宮島へ向かう途中で海を見ていると見かけることもありますが、スナメリはイルカと違ってジャンブせず海面から背中を出すだけで、見つけるのにはなかなか難しいのだそうです。一見イルカに似ていますが、スナメリの背中には背びれがなく、代わりに頭から尾びれの根元まで2~3cmほどの隆起が出ています。ところで、なぜ『スナメリ』といわれているのかというと、スナメリは海底の砂に潜っている魚やイカなどをエサとするため、自分の息で砂を吹き飛ばしてエサを捕食する習性があり、その姿が砂を舐めているように見えることから、『スナメリ』と呼ばれています。地方によっては『ナメウオ』『ナメソ』『デゴンドウ』などと呼ばれていたりするそうです。スナメリは鯨類の中では最小ですが、瀬戸内海に生息する生き物の中では最大の大きさで、平均で体長が160~170cm、体重が50~60kgあります。

ビクティニ:あ!スナメリだ!まるでイルカみたい!スナメリは瀬戸内海に生息している生き物の中では一番大きいらしい。

ミュウ:正面から見ると笑ったような顔だね。

にょろもう:かわいい~。

 

 

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フンボルトペンギン

 他にもフンボルトペンギンアザラシなども見られます。

フンボルトペンギンは体長65~70cm、体重4.5kgあり、温帯性気候のペルーやチリの海岸などに生息しています。しかし、野生のペンギンは近年、エサとなる魚類の乱獲が相次ぎ、さらにエルニーニョ現象などの環境変化から、次第に個体数が現象しつつあるようです。そのため、絶滅危惧種になる可能性があると思われます。
この水族館ではアシカショーの他に、フンボルトペンギンやカワウソのふれあいなど、様々なプログラムが用意されているので、時間があればいかがでしょうか?

★宮島水族館の様子★

youtu.be

 

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牡蠣筏(かきいかだ)

広島の瀬戸内海では牡蠣の養殖が盛んに行われています。

瀬戸内海の至るところで、牡蠣を養殖する筏(いかだ)が見られるかと思いますが、日本における牡蠣の生産量は全国的に見ても、その半数以上広島県で生産されています。それは、瀬戸内海に位置する広島湾の波が穏やかで、川からの栄養が豊富です。また、広島湾には養殖中の親牡蠣が一斉に産卵をするため、牡蠣の種がたくさん採れるのです。

夏には牡蠣の養殖を行うため、筏に無数の帆立貝を沖合に吊るしておきます。すると牡蠣の種が帆立貝に付着します。これを『採苗連』といいます。それから2~12ヶ月間、牡蠣の種の付いた『採苗連』を干潟に移します。これは干潮時に干上がる場所で日光や風にさらされることで、環境変化に強い牡蠣にするため『体力づくり』させます。これを『抑制』といいます。さらに抑制後の牡蠣をプランクトンの多い沖合に吊り下げて、たくさんプランクトンを食べさせることで大きく育ちます。そして、みるみる大きく育った牡蠣は収穫され、各地のスーパーや魚屋さんに出荷されます。こうして牡蠣は今日も我々の食卓に使われるのです。

 

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宮島名物 焼き牡蠣

そして、宮島観光の軽食やおやつなどに焼き牡蠣としても使われています。

ビクティニ:広島といえば、焼き牡蠣も隅に置けないね。磯のにおいが香ばしくて美味しい。

ミュウ:『海のミルク』っていうくらいだから、カルシウムも摂れるよ。

 

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帰りのフェリー

さあ、宮島を十分に楽しんだところで、帰りましょう。

デッキのベンチに座ればフェリーからは、瀬戸内海の景色宮島のシルエットを眺めることができます。そして、運が良ければ瀬戸内海を回遊するスナメリが見られることもあります。ちなみに青春18きっぷで旅行される旅行者ならJR西日本宮島フェリーだと使えるので、おすすめです(※松大汽船では青春18きっぷは使えないので注意)。

ビクティニ:スナメリいないかな~。

ミュウ:スナメリが好きになったんだね・・・(^^;

 

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岡山駅

宮島口駅まで戻った後、青春18きっぷを活用してJR山陽本線の普通列車でひたすら岡山方面へ進んでいきます。途中、広島駅の駅ビルで夕食を食べた後、そのまま東へ進みます。

宮島口17:47発 普通 糸崎行きに乗車→広島18:10着

(広島駅の駅ビルにて夕食)

広島19:16発 普通 糸崎行きに乗車→三原20:31着

三原20:34発 普通 瀬戸行きに乗車→岡山22:05着

ビクティニ:長かった山陰旅も楽しかった。今回は青春18きっぷを使ったのは初めてだよ。おかげでのんびり普通列車の旅が楽しめたw

ミュウ:ぼくなんか寝ちゃった。うっかり接続列車に乗り遅れるところだった・・・。

 

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在来線の改札口から関東へ・・・

岡山駅を22:34に出発するサンライズエクスプレス出雲・瀬戸号 東京行きで西日本を後にします。先ほど広島駅からここまで青春18きっぷで進んできたと思えば、長い旅になりました。ここからサンライズエクスプレスで関東へ帰る時は、寝台列車特急扱いなので乗車券は青春18きっぷでは適用されないので、青春18きっぷで広島から岡山まで来た場合、そのきっぷで一回改札を出ます。予め購入した乗車券と寝台特急券で在来線改札に通します。

ビクティニ:ついに西日本とお別れか・・・。思えば、山陰は大雪で大変だった・・・。

ミュウ:途中で山陰本線の列車が止まったものね・・・。

 

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サンライズ出雲で西日本を後に・・・

22:34 サンライズエクスプレス出雲号 東京行き 乗車

定刻発車したサンライズエクスプレス出雲・瀬戸号は岡山駅を後に関東へ向かって静かに走り去ってゆくのでありました・・・。

ビクティニ:さらば西日本・・・。

ミュウ:とても楽しい正月旅行だったよ・・・。

 

『正月旅行 厳冬の山陰旅 厳島神社にて早朝参り&弥山で正月ハイキング』をお伝えしました。

 

『正月旅行 厳冬の山陰旅』 おしまい 

最後までご拝読いただき、ありがとうございました。

正月旅行 厳冬の山陰旅 正月の秋芳洞を探検

皆さんこんにちは。今回は、正月の秋芳洞を探検してきた内容をお話します。

 

昨日宿泊した湯田温泉から路線バスで秋芳洞へ向かいます。

 

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秋芳洞バスセンター

秋芳洞バスセンターに到着しました。ここが『秋芳洞』『秋吉台』への玄関口となります。

バスセンターからすぐの場所に『秋吉台観光交流センター』があります。大きな荷物を預けたり、『秋芳洞』『秋吉台』についての解説あるいは周辺の観光情報を知ることができます。また、レンタサイクルクロスバイクのレンタルなどを利用して、秋吉台までサイクリングすることもできます。秋芳洞への入り口は、ここから徒歩5分くらいで行けます。

ビクティニ:とりあえず、秋芳洞の入り口まで歩いて行こう。

ミュウ:でも、人があまりいないみたい・・・。

 

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秋芳洞 入り口

秋芳洞の入り口までやってきました。

お正月ということもあり、丁寧に門松も飾られています。しかし、朝早いからか、例年と比べて観光に来る人は少ないようです。でも、スタッフの方々から快く挨拶してくれました。秋芳洞の入洞料1,200円を支払って、いざ洞内へ・・・。

ビクティニ:朝早く来たからか、お店はやってないみたい・・・。それにしても静かだ・・・。

ミュウ:もしかして開店前なんじゃない?

作者:お正月なら、もっと多くの観光客で賑わうはずなのに、ほとんどいない・・・。でも、それだけいない分、ゆっくり観光できそうw

 

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秋芳洞について

山口県を代表する観光地『秋芳洞』は秋吉台国定公園の地下100メートルに大鍾乳洞として『特別天然記念物』に指定されています。

『秋芳洞』は、石灰岩が地下水雨水によって浸蝕あるいは溶解して生じた洞窟の一つで、国内屈指の国内最大級の鍾乳洞です。約3億年前に誕生したサンゴ礁が地殻変動によって陸地化、さらにサンゴ礁が石灰化してから長いこと月日が流れ、地下水によって溶け出して出来たものとされています。

 

★秋芳洞の様子★


正月の秋芳洞を探検!

 

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秋芳洞 洞窟入り口

大きな洞穴の先へ続く通路の奥が『秋芳洞』です。

洞窟の入口までやってくると、まるで地中に引き込まれるような感覚になるほど、洞窟ならではインパクトを感じさせます。

ここまで歩く途中の川は、冬の時期だからか干上がっているようです。しかし、洞窟入り口の滝壺には池のように水が溜まっており、おまけにコバルトブルーの色を醸し出していました。冬は滝が流れておらず、まるで時が止まったかのようです。鍾乳洞入り口夏なら涼しく感じるのでしょうが、冬なので洞窟の入り口に近づくほど涼しいを通り越して、寒く感じてしまいます。

 

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身代観音
洞窟に入ると、入り口の観音様がお出迎えです。

 

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秋芳洞 内部

秋芳洞の洞窟内の様子です。

秋芳洞は国内最大級の鍾乳洞だけあってとても広々とした空間です。

夏だったら、洞窟内に流れる水が勢いよく流れる様子が見れますが、冬だと水量が少ないようです。通路の反対岸にある岩肌下部の茶色い部分五〇年前の水位による浸食の跡と思われます。なんでも昔は小舟を使って鍾乳洞見学をしていたんだとか。

ビクティニ:久しぶりの鍾乳洞探検だ♪ でも、相変わらずガランとしているし、川の水量が寂しい位に少ない・・・。やはり冬だからなのかな・・・?

ミュウ:ここもやっぱり人少ないね・・・。

作者:でも人が少ない分、ゆっくり観れるからいいじゃないですか(笑)

ビクティニ:それもそうだな・・・。

 

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青天井

鍾乳洞の入り口を見上げてみると、天井に少し青みが掛かっているのがお分かりいただけるでしょうか・・・?

これは『青天井』といい、天井の高さが30メートル、幅が50メートルほど有するとても大きい空間です。鍾乳洞の入り口からすぐ入った空間の天井が、うっすら青く見えるのは、入り口から太陽の光が差し込むと、洞内の川に反射して天井が青くなることから、『青天井』と名付けられたといわれています。ちなみに、天井から洞窟内の様子を眺められる『冒険コース』もあります。高所が苦手でなければ、まさに探検家の気分で洞窟内を探検でき、高い場所から鍾乳洞を見下ろす事ができます。ただ、今回はコースの一部が崩壊しているようなのでお休みのようです。

 

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百枚皿

入り口からしばらく歩いていくと、左手には何段ものの平たい鍾乳石が重なっている光景が広がる『百枚皿』が見えます。

いわゆる石灰華段丘で、秋芳洞を代表するシンボル的なスポットの1つです。

段丘から湧き出た地下水が波紋状に広がり、固まったことで出来たもので、それがあたかもたくさんの皿を重ねたような姿に見えることから、『百枚皿』という名所として親しまれています。なんでも五百以上はあるということで、このような形状をした鍾乳石としては世界的に見ても非常に珍しいといわれています。なぜこのように何百ものの平たい岩石が重なったように出来たというと、水の波紋の端の泡立つ部分に石灰分沈積物となり、その波紋の縁の部分だけが、長い歳月をかけて盛り上がり皿状になったといわれています。これぞ、3億年ものの歴史を経て出来た洞窟ならではの光景ですね。まさに太古の洞窟でしか味わえない芸術的な光景です。

ビクティニ:秋芳洞の特徴とも言える『百枚皿』・・・いつ見ても不思議な光景だ・・・。これが約3億年前に出来たものだと考えれば・・・。

ミュウ:まさに太古の洞窟って感じだね・・・。

 

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広庭(洞内富士)

国内最大級の鍾乳洞である『秋芳洞』には、石筍石柱など、すべて石灰成分によって、様々な形状を生み出すことで、あたかも芸術的な光景を見せてくれます。

例えば、広庭の洞内富士は、天井から降る積もる石灰成分を含んだ水滴が垂れ落ち、石灰分が下から徐々に沈積して出来上がったものです。そして、これが大きな山のような形状になったことで、洞窟の中にそびえ立つ富士山のように見えることから、『洞内富士』という名前になったのです。なんでも、ここまで積み上がるのに数万年かけてできたのだとか。

 

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千町田

さらに奥へ進んでいくと、洞窟の中に田んぼのような光景が広がります。

『千町田』といい、暗闇の洞窟にあたり一面広がっています。先ほどの『百枚皿』と同様に石灰華段丘ですが、盛り上がった形状ではなく、あたかも田んぼのように広がっています。また、田んぼの沼には身体が白っぽい目が退化したヨコエビが見られることもあります。

 

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傘づくし

洞窟の天井を見上げると、天井からつららのように垂れ下がる鍾乳石が至るところで見られます。

これは『傘づくし』といい、天井から無数のつららが垂れ下がる形状昔の傘屋の天井を思わせることからついたのだとか。

これらのつららや石筍、石柱などは、非常に長い歳月をかけて出来上がったもので、こちらも鍾乳洞ならではの光景が見られます。また、このあたりは運が良ければ、コウモリが見られることもあります。この鍾乳洞にはキクガシラコウモリ、モモジロコウモリ、テングコウモリ、ユビナガコウモリなど6種のコウモリが生息している他、ガロアムシ、オオアカザトウムシ、アキヨシチビゴミムシ、アキヨシアゴザトウムシ、ホラアナナガコムシなどの珍しい生物も生息しています。これらの生き物は、いずれも洞窟内に棲み着いているため、目が退化したような感じになっています。

 

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大黒柱
秋芳洞に点在する石柱や石筍の中には天井と地面がくっついてできた『大黒柱』も存在しています。こちらも長い歳月をかけて出来たものですが、天井と地面の高さが低いため、このようにつららが徐々に下の方へ成形され、やがて地面にくっついてこのような形状になったようです。

 

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秋芳洞 エレベーター

秋芳洞からエレベーターで秋吉台へ出られます。

こんな地中深い場所によくエレベーターが出来たものだと実感させられます。まるで昔の修学旅行で日光の華厳の滝を見に行ったときのエレベーターを彷彿させます。

 

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カルスト台地 秋吉台

山口県の自然を代表するカルスト台地『秋吉台』にやってきました。

ここは美祢市の中・東部にわたって広がる国内最大級のカルスト台地で、昭和30(1955)年に『秋吉台国定公園』、そして昭和39(1964)年には『特別天然記念物』に指定されています。

あたり一面、カルスト台地が広がる『秋吉台』には多くの石灰石が含まれ、今から約3億5千万年前に南方の海にて『サンゴ礁』として誕生しました。さらに日本列島として成形されていくうちに長い月日が流れ、そのサンゴ礁石灰岩と化していきます。これらの石灰岩の厚みは5百~1千メートル、長きにわたり雨水が流れることで、石灰岩が溶けて、現在のようにカルスト台地が出来上がったのです。人類より遥かに深い歴史を持つ『秋吉台』の景観は、まさに太古のロマンが生み出した芸術的なものです。

ビクティニ:このカルスト台地の地下に洞窟があるということを考えれば、たくさんの石灰岩が地中深い場所に沈んでいくんだなということを実感させられる・・・。

ミュウ:そして、秋芳洞の岩石が石灰岩でできていて、その石灰岩がサンゴ礁だったと考えると、秋芳洞も秋吉台もまるでタイムスリップしたような感じだね。

 

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カルスト台地が出来た経緯

秋吉台のようにカルスト台地が出来るのは、日本列島周辺のプレートの動きによって出来たものといわれています。

かつて海中にあったサンゴ礁も、そのプレートの動きによって、長い歳月をかけて現在の日本列島になるであろう大陸プレートに向かって徐々に移動します。そしてそのサンゴ礁石灰岩となり、それが集まって『カルスト台地』として形成されていき、現在のように『秋吉台』『秋芳洞』が生まれるのです。このような現象を『付加体(ふかたい)』といいます。こうして現在の日本列島があるのは、この現象があってこそであり、この『秋吉台』もその証でもあるのです。

 

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石灰岩で出来たカルスト台地

カルスト台地である『秋吉台』は、石灰岩でできています。

カルスト台地は、石灰岩が雨水や地下水によって溶かされて出来た地形のことで、ここから約100~200メートル地下にある『秋芳洞』鍾乳洞として整形されているのは、カルスト台地の地表には『ドリーネ』と言われる鉢状の窪地によって発達されます。石灰分を含んだ地下水や雨水がそこを伝って、秋芳洞の石筍や石柱、つららなどが出来ると考えられています。

 

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黄金柱

秋芳洞で一番の美観を持つ『黄金柱』も、この鍾乳洞のシンボルの1つです。

高さ15メートル、幅4メートルを有する巨大な石灰華柱です。

この『黄金柱』も他の石柱や石筍、つららなどと同じようにカルスト台地から流れた石灰分を含んだ地下水によってできたものですが、この黄金柱は岩壁を伝い、その部分に付着した石灰分が何万年ものの長い歳月をかけて、このように巨大な柱として成形されたのです。幾度と重なったレースのカーテンのような容姿はまさに太古の自然が生み出した芸術的な光景です。よく見ると石柱表面には細かいヒダ模様が刻まれています。他にも、この石柱の根本には『切れ目』があります。これは床が下がったことで出来たのだそうです。おそらく地殻変動の影響でしょうか?

ビクティニ:大きな石柱だね・・・。まるで大きな水柱が落ちているかのよう・・・。

ミュウ:それに、なんかキレイだね。まるで本当に『黄金柱』みたい!

 

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石灰華の滝

黄金柱を過ぎると、『黒谷支洞(くろやしどう)』に入ります。

先ほど歩いてきた秋芳洞の本洞とても広い空間でしたが、それとは裏腹に、どちらかというと通路のような洞窟という『黒谷支洞』の岩壁には細かいつららの滝のような光景が見られます。例えば、この『石灰華の滝』も先ほどの『百枚皿』『千町田』『黄金柱』などと同様、カルスト台地から流れた地下水によってできたものですが、こちらの『黒谷支洞』比較的狭い空間のため、このように壁伝いに滴れています。これはいわゆる『フローストーン』という現象のことで、岩肌の表面を流れるようにして覆われた炭酸カルシウムの結晶です。

 

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巌窟王

『黒谷支洞』では、普通の鍾乳石とは違ったユニークな形状をした鍾乳石が見られます。

この『巌窟王』といわれる石筍は普通の石筍とは違った形状をしています。まるで、洞窟の中に現れた魔王のような形相をしています。太古の自然が生み出した芸術は本当に不思議なものです。

 

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クラゲの滝のぼり

黒谷支洞で『フローストーン』になっている箇所がもう一つあります。『クラゲの滝のぼり』です。

こちらも先ほどの『石灰華の滝』と同じように岩壁伝いに地下水が流れ出したことで出来たものですが、こちらの岩壁をよく見るとあたかもたくさんのクラゲが滝を登っていく姿に見えることから、その名前がついたといわれています。こうして見ると、まるで秋芳洞『洞窟の美術館』を思わせます。

 

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龍の抜穴

秋芳洞の鍾乳石は、石柱や石筍、あるいはつららなどというように芸術的な形状が織りなされていますが、このように洞穴のような形状をしたものもあります。

『龍の抜穴』もその1つで、こちらは天井が高く、あたかもその穴の奥から龍が飛び出してきそうな大きさから、その名前がついたのだそう。まさに『洞窟の美術館』ですね!

 

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五月雨御殿

黒谷支洞の最後のエリアでは大きな空間が広がっています。

『五月雨御殿』といい、その名の通り、この空間だけ地下水が常に垂れ落ちている場所です。写真の二枚目をご覧いただくととお分かりの通り、岩壁には石柱が何本か出来ており、あるいは今にも石筍とつららがくっつきそうな形状になっている箇所が確認できるかと思います。このように、この空間だけ地下水が五月雨のように垂れていることから、その名前がついたと言われています。また、この場所だけ植物らしきものが生えているのも確認できます。なるほど、秋芳洞ならではの太古の自然というのは実に興味深いものです。

 

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マリア観音

黒谷口の近くまでやってくると、通路の中央に大きな石筍が立っています。

『マリア観音』です。他の石筍と比べると、いささかなめらかで、見る角度によっては全体的に子供のキリストを抱いたマリア像のように見えることから、その名前がついたのだそう。

 

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黒谷口

『マリア観音』過ぎると『黒谷口』です。ここが秋芳洞の最奥部になります。

 

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3億年前のタイムトンネル
黒谷口側には『3億年前のタイムトンネル』が出口まで続いています。壁のイラストには洞窟から出口まで進んでいくと現代まで進んでいくという感じになっています。この先は黒谷口になりますが、そこまで行ってから少し休憩して引き返しました。

 

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秋芳洞 出口

秋芳洞から見た出口です。

洞窟から見た出口の光がまるで3億年前の異次元な世界から出るような気分です。

 

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秋芳洞愛歌

演歌にも歌われるほど秋芳洞に愛着があります。

『秋芳洞愛歌』という歌は星野哲郎が作詞で、入山アキ子が歌っています。この歌には秋芳洞から湧き出た地下水に恩恵を感じさせられます。

 

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昼食

昼食は秋芳洞の通りにある食堂でいただきました。

食事ができる他、お土産も購入できます。お土産には鍾乳石が売られている他、夏みかんふぐ関係などのあらゆる食品、さらに萩焼まで売られています。

ビクティニ:秋芳洞を散策した後のご飯は美味しい!

ミュウ:ちょうどお腹すいていたんだ。秋芳洞結構広かった。

にょろもう:洞窟の中は涼しくて気持ちよかった。

 

『正月旅行 厳冬の山陰旅 正月の秋芳洞を探検』をお伝えしました。

 

★おまけ★

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JR山陽本線の海の車窓

普通列車でのんびり瀬戸内海の車窓を眺めながら広島方面へ向かうのでありました・・・。

ビクティニ:夕焼けの海の車窓は綺麗だね。

ミュウ:山陰では天気に恵まれなかったけれど、山陽エリアの方は天気が回復してよかったね。

 

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夕食のお好み焼き

夕食には広島名物のお好み焼きをいただきました。

ビクティニ:お好み焼きうまい!

ミュウ:牡蠣も美味しいよ!

にょろもう:そばも入っていて歯ごたえがいい!

 

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夜のフェリーで宮島へ

夕食の後、早朝に厳島神社参拝のため、宮島の旅館に泊まります。

ビクティニ:夜のフェリーで宮島へ行くのは初めて・・・。

ミュウ:ちょっと寒いかも・・・。

 

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夜の宮島

宮島に到着したのは夜のことで、ここの旅館で宿泊してから、早朝の厳島神社で参拝します。

ビクティニ:こんな夜に宮島まで行くのはある意味貴重な経験かも・・・。

ミュウ:さすがに人も少ないよね・・・。

 

この後、宮島の旅館にて一夜明かすのでありました・・・・。

正月旅行 厳冬の山陰旅 太鼓谷稲成神社初詣&異例のDL津和野稲成号

皆さんこんにちは。

今回は萩市から津和野まで路線バスで移動し、津和野の太鼓谷稲成神社でも初詣、そして、本来ならSLで運行される『津和野稲成号』ディーゼル機関車による異例の運行となりました。

 

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津和野駅前に保存されているD51型蒸気機関車

萩市から路線バスで津和野町に移動してきました。

津和野駅前にはかつてJR(旧国鉄)山口線で活躍したと思わしきデゴイチことD51型蒸気機関車が展示されています。

以前来たときより、駅前の目立つ場所に移転されたようです。この機関車は昭和14(1939)年に鉄道省大宮工場にて落成され、東北本線から信越本線、八高線などで活躍し、晩年期の昭和46(1971)年に山口線で活躍しました。そして、昭和48(1973)年9月30日に現役から引退、現在は津和野駅前に保存されています。

ビクティニ:津和野駅前に保存されているデゴイチもだいぶ綺麗に整備されたね。

ミュウ:古い信号機も飾られているし、雰囲気に趣を感じるね・・・。

 

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津和野駅の広場に展示されている腕木式信号機

広場には腕木式信号機も展示されるようになり、津和野駅前の雰囲気は一層を感じさせられます。

腕木式信号機は、かつて日本中各地のローカル線で見られましたが、鉄道の信号システムの近代化とともに腕木式信号機は次第に減少していきました。腕木式信号機の中には、転轍機(ポイントレール)に連動するタイプも存在していたようです。このような信号機は主に交換設備のある駅周辺の線路脇に設置することが多かったようです。主に『出発信号(列車が駅から出発時に必要な信号機)』『場内信号(列車が駅構内に進入する時に必要な信号機)』をはじめ『遠方信号(列車が駅に近づく時、減速が必要な場合に場内信号よりさらに駅から離れた場所に設置された信号機)』を用途に使用されていました。他にも、『通過信号(信号の色が『黄色』と『青』しかなく、『黄色』なら注意、『青』ならそのまま通過という通過列車専用の信号機)』もあったようです。

 

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津和野 殿町通り

山陰の小京都である津和野でもが積もっていました。

山間部に位置していることもあってか、正月の津和野は雪景色の城下町と化しています。そして、殿町通りに立ち並ぶ建物も明治から大正にかけての史跡が数多く残り、萩市と同様、藩校や家老武家屋敷などが多く残る、当時の城下町としての地形が今でも残っています。また、明治の文豪で有名な森鴎外が生まれ育った町でもあります。

ただ、先ほど訪れた萩の城下町はどっちかというと静かな城下町という印象でしたが、こちらの津和野では比較的賑やかなようです。

 

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津和野の掘割を泳ぐ鯉たち

雪が積もる寒い冬の城下町でも、掘割を元気に泳ぐ鯉の姿が通年見られます。

鯉は寒い冬でも元気に泳ぐ姿にたくましさを感じさせます。また、黒い鯉から、オレンジなど、彩り豊かな鯉の姿雪のコラボレーションもまた風流です。

 

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鷺舞の像

太皷谷稲成神社の入り口にあるスクランブル交差点前の広場に立つ鷺舞の像雪景色がよくマッチしています。

この像は記念碑ですが、これは中国の七夕伝説のカササギに因んだ舞踊で、八坂神社に伝わる伝統芸能とされています。現在はここ津和野の弥栄神社で祇園祭に奉納されるのだそう。鷺舞の踊り姿そのものが津和野のシンボル的な存在感で、多くの観光客がカメラを向けたくなるような姿です。

 

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弥栄神社

太鼓谷稲成神社の入り口付近にある弥栄神社から参拝します。

毎年7月に奉納される祇園祭の神事が行われることで有名な神社で、二羽の鷺が舞う姿は国の指定民俗無形文化財に指定されています。この神社でも初詣ムードということもあり、それなりに参拝者もいるようで、御朱印も積極的に受け付けてくれました。

ビクティニ:今年も平和に過ごせますように・・・。

ミュウ:コロナがなくなりますように・・・。

 

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太鼓谷稲成神社の石段から見た津和野の雪景色

続いて太鼓谷稲成神社に参拝します。

大きな鳥居をくぐり、稲成神社へ続く長い参道朱い千本鳥居がトンネルのように連なっています。時間が合えば、石段の途中の踊り場から列車が鉄橋を渡る姿を見ることができます。我々が参拝しようと参道を登っている途中でちょうど特急が鉄橋を通過していました。このように神社へ続く千本鳥居京都の伏見稲荷長門市の元乃隅稲成神社などでも見られます。

 

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太鼓谷稲成神社の境内から見た雪景色の津和野
太鼓谷稲成神社の境内までたどり着き、神門をくぐると左手には津和野盆地の景色が眺められます。この日は山にかかった霧幻想的な景色に目を焼き付けました。以前の正月旅行で津和野に訪れた時は雪は積もっていなかった記憶があります。しかし、今年は雪が積もった津和野を見たのは初めてです。

ビクティニ:お正月でも津和野の町並みにこんなに雪が積もったかな・・・?

ミュウ:山に霧がかかっているね・・・。

 

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太皷谷稲成神社

津和野の高台にある太鼓谷稲成神社出雲大社と並んで島根県を代表する神社です。

この神社は安永2(1773)年、津和野七代藩主亀井矩貞が津和野城の鎮護および領民の安穏を願って、城山の太鼓谷に京都伏見稲荷から斎き祀ったのが始まりと言われています。

宮城県の竹駒稲荷、茨城県の笠間稲荷、京都の伏見稲荷、佐賀県の祐徳稲荷とならぶ『日本五大稲荷』の一つとされています。これらの稲成神社は一般的には『稲荷』と書くのが自然ですが、この神社の名前には珍しく『稲成』と書かれています。これは『願望成就』のためだと言われています。宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)と伊弉諾尊(いざなみのみこと)の二神が祭神となっています。また、初詣の参拝者数は島根県において、出雲大社に次ぐ第二位であるほど(出雲大社の初詣数が約59万、太鼓谷稲成神社の初詣数が25万)多くの参拝者が訪れる有名な神社です。
この稲成様には、油揚げとロウソクをお供えものとして供出する習慣があります。これは、神様の御使いである狐の好物が油揚げであることから、油揚げとロウソクがお供えものとされているからだといわれています。

ビクティニ:今年は東京オリンピック・パラリンピックが無事に終わり、その後は昔みたいに平和な日々が送れますように・・・。

ミュウ:コロナ禍の呪いが解けますように・・・。

 

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DL津和野稲成号

本来は『SL津和野稲成号』としてD51型またはC57型で運行されるはずですが、令和3(2021)年の『津和野稲成号』はなんとディーゼル機関車による運行となりました。

この機関車は『DD51型』という大型のディーゼル機関車です。

DD51型は1960年代の国鉄時代、これまで活躍していた蒸気機関車の置き換えならびに無煙化を目的に昭和37(1962)年から昭和53(1978)年にかけて649両が製造された液体式の凸型ディーゼル機関車で、中央部に運転台、前後に1基ずつディーゼルエンジンが搭載され、合計2基の大出力エンジンで牽引力を誇っています。国鉄時代では北海道から九州にかけて主に貨物列車客車列車、さらに寝台列車などで活躍してきましたが、昭和62(1987)年のJR移行時には全体のうち約2/5にあたる259両が継承され、JR化後は次第に減少し、時代が令和になってから、本格的に定期運用から引退していきました。現在残っているのがごく僅かで、この機関車もその1台です。そして、かつては当たり前のように走っていたディーゼル機関車による客車列車も、今となってはなかなか体験できないのである意味貴重な経験です(笑)

 

ビクティニ:本当はSLが見たかったけれど、ディーゼル機関車による客車列車の旅もなかなかお目にかかれない。まるで昭和にタイムスリップしたかのような貴重な体験をしたよ。

ミュウ:SLの方が昭和にタイムスリップ感があるけれど、ディーゼル機関車の客車列車も珍しいね。

 

★DL津和野稲成号の様子★

youtu.be

 

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雪景色の津和野を眺める車窓

15:45 『DL津和野稲成号』 津和野駅を出発。

例年ならあまりない津和野の雪景色を眺めつつ、『津和野稲成号』は津和野駅を後にします。旧型客車から眺める雪景色の車窓はまるで東北や北海道の客車列車を彷彿させます。津和野特有の石州瓦の家は意外と似合う光景です。一方、山口県に入ると雪は少なくなっています。

 

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35系客車の車内
『津和野稲成号』で運行される客車は『SLやまぐち号』と同じように『35系客車』が使われています。いわゆる旧型客車ですが、この客車は平成29(2017)年製造と新造の旧型客車です。これは本物の旧型客車に模ったものですが、形式上では『35系』です。

 

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篠目駅

JR山口線は『SLやまぐち号』として運行される路線として有名です。

その中で、かつて山口線に蒸気機関車が走っていた名残りと思わしきレンガ造りの給水塔が篠目駅で残っています。また、かつて使われていた腕木式信号機も当時の姿のまま残されています。

 

 

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湯田温泉駅

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湯田温泉の白狐

 17:14 湯田温泉駅 到着。

津和野駅を出てから1時間弱、我々は湯田温泉のホテルに宿泊のため、この駅にて下車。

湯田温泉山口県を代表する温泉地『防長四湯』の一つとされています。

県庁所在地である山口市の繁華街にあるため、新山口駅からJR山口線、または路線バスで行けるのでアクセスしやすいです。

歴史が古く、約6百年前に開湯したとされ、あるお寺の小さな池に怪我をした白狐が毎夜傷ついた足を治療するため、その池に浸かっていたところを権現山の麓のお寺のお師匠さんが見つけ、その池が温泉だったことがわかったのがその始まりだといわれています。そして田んぼの中から金色のお地蔵さんや源泉が湧出したことから、『湯田温泉』という名前になったと言われています。そのため、湯田温泉は『白狐の湯』と呼ばれるようになったのです。また、山陽路に温泉が少ない中、この湯田温泉が数少ない温泉地として古くから愛され、明治維新ゆかりのある温泉と言われています。幕末では長州藩の英雄こと、あの高杉晋作や伊藤博文、坂本龍馬をはじめ、西郷隆盛や大久保利通など、多くの志士が集まった場所で、『維新の湯』として親しまれていたそうです。

ビクティニ:湯田温泉まで来ると、山陰から山陽までやってきた感があるよね。今年の山陰は雪ばっかだったから寒かった・・・。ほのおタイプを纏ったぼくには応えたかも・・・。

ミュウ:津和野の方も寒かったからちょうどいいや。ここで温泉に浸かって休もうよ。

 

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宿泊した湯田温泉のホテル
湯田温泉は昔ながらの温泉旅館があればちょっとしたビジネスホテルもあるので、我々は比較的宿泊料金の安いホテルで宿泊しました。西日本の長旅などでどうしても旅費を抑えつつ、せっかく来たなら温泉に入りたい人にはビジネスホテルでも十分に楽しめるかと思います。湯田温泉のホテルや旅館は15件ほどと多い方ですが、最近では例の病気による経営不振の影響で廃業になったホテルが1件あったようです。もし、ワクチンが供給されても、例の病気の影響はこれからも続くのでしょうか・・・。

travel.rakuten.co.jp

 

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湯田温泉の夕食
湯田温泉は繁華街の中にあるということもあり、夕食など食事には困らない環境なので、我々は湯田温泉の居酒屋で夕食にすることにしました。本当はせっかく山口に来たので海の幸やふぐ料理をいただきたかったのですが、この日は、それをやっているお店はお休みのようです。仕方なくやっていそうなお店を探したところ、焼き鳥や唐揚げがメインのチェーン居酒屋で夕食にしました。焼き鳥やカキフライ、フライドポテトなどが美味しかったです。

ビクティニ:1都4県では緊急事態宣言でお店が閉まるのが早かったりするんだけど、山口県の方は大丈夫みたい。しかし、東京で感染者が千人超えとは・・・。あの病気はもはや魔物でしかないよね・・・。早くワクチンが出来ればいいんだけど・・・(´・ω・`)

ミュウ:例の病気の呪いって怖いよね・・・。

にょろもう:あの病気のせいで日本だけじゃなくで世界中も困っていて、生活すらできない人もいるみたい・・・大丈夫かな・・・。

tabelog.com

 

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湯田温泉のホテルで一泊

ビクティニ:今日の温泉は最高だったな・・・。さて、明日は秋芳洞に行ってみるか。湯田温泉から秋芳洞へ行くバスが出ているはずだ。

ミュウ:いいね。もうエレベーターも運転再開したみたいだ。秋吉台にもいってみようか?

にょろもう:洞窟探検か・・・。楽しみだな。

 

『正月旅行 厳冬の山陰旅 太鼓谷稲成神社初詣&異例のDL津和野稲成号』をお伝えしました。

 

★おまけ★

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正月定番のスポーツ番組を視聴中

ビクティニ:お正月といえば、とんねるずのスポーツ合戦だよねw

ミュウ:そして、野球の種目では必ずアレをやるよねwww

作者:明日早いからから、もう寝なさいよw

 

正月旅行 厳冬の山陰旅 正月の萩城下町めぐり

皆さん、こんにちは。

今回は萩の城下町萩城跡をまわってきました。

 

朝早く旅館を後にして、自転車で萩城のある城下町へまいります。

 

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萩名物 夏みかん

萩城下町の至る所に夏みかんの木が植えられています。

夏みかんが日本で最初に栽培されたのが山口県萩市で、明治9(1876)年から栽培されています。夏みかんは和名でいうと『ナツダイダイ』であり、当初は『九年母(くねぶ)』『橙(ダイダイ)』、あるいは『ナツダイダイ(夏橙)』と呼ばれていたようですが、一般的に『夏みかん』と呼ばれるようになったのです。

なぜ、萩市が古くから至る場所に夏みかんが塀越しや庭などで見られるほど名物になったかといえば、毛利藩だった当時、藩経済の中心でもあった萩は、敵のターゲットとされ、新政府樹立後の士族の給禄奉還により、萩が経済的陥没に追い打ちをかけるように、明治9年に『萩の乱』が勃発。萩は次第に政治的、経済的崩壊、そして士族らは落胆しました。そのような最中、新政府の要職をされていた小幡高政が母親の看病のために、小倉県令(福岡県)を辞めて萩に戻ったものの、帰ってきた時の萩は何もかもが廃れかけたような悲惨な状況だったのです。そこでこの土地に活気を取り戻すため、夏みかんの木を植えるという発想をします。その時に種子を蒔き、さらに明治10(1877)年には苗木を約1万本を接木して、その翌年には士族にその接木を頒布しました。
小幡高政の言葉には「明治9年、夏橙ヲ萩ノ物産トスルコトヲ主唱シ、同志を募リテソノ栽培ヲ奨励ス。ソノ団結ヲ耐久社トイフ。」とあるように、萩士族の間に漂っていた新しい時世に対する不満を新政府に対する反抗の形で立ち上がった前原一誠を性急と判断し、手始めに長期計画による士族の経済浮場を図ろうとするというのが彼の意図だったといいます。そして、萩に夏みかんの栽培が始まったという知らせは各地に知れ渡り、明治13(1880)年には愛媛・和歌山、さらに明治17(1884)年には静岡にも苗が移出されました。もはや萩は日本におけるみかん栽培の原点になったといっても過言でないでしょうか・・・。いわば、萩市に観光地としての活気を取り戻したのは夏みかんのおかげということですね。このような経緯があることから、萩市は『夏みかんのまち』として今でも親しまれているのです。

 

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萩城下町(堀内地区)

萩の城下町は、今でも当時の地形や雰囲気がそのまま残っていることから、世界遺産および重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

この城下町の一部分である『堀内地区』は55ヘクタールの面積を有し、その広大な広さを誇る土地の至る所に藩時代から残る民家武家屋敷などが当時から残っており、塀越しや畑に植えられた夏みかんの木も見受けられます。中には言わずもがな萩の伝統工芸品とされる萩焼を販売しているお店もあります。

『堀内地区』は以前に訪れた萩城城下町とはまた違った雰囲気で、藩政時代でいう城内三の丸に当たる場所で、毛利一門をはじめ、藩の諸役所や永代家老、寄組など近世城下町の武家屋敷の雰囲気も当時から変わらぬ姿を今もなお残っていることから、歴史的風致を保っています。また、この地区では『鍵曲(かいまがり)』と呼ばれる道筋が見られ、高い土塀に囲まれ、道を鍵手形のように直角に曲げたことから、その名前が付きました。これは他では見られない萩城下町ならではの雰囲気です。他にも平安古地区大児玉横丁でも見られ、いかにも萩の城下町らしい路地が形成され、塀越しに映る武家屋敷や夏みかんの木なども見られるので、散策してみてもいいでしょう。ただ、観光地として整備されているとはいえ、あたかも迷路のように複雑に入り込んでいることから、その路地に入ってしまうと迷いやすくなってしまいます。特に時間がない人にはおすすめできないのかもしれません。

 

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萩城跡 指月公園

藩政時代では長州藩の中枢となった萩城です。

この萩城は慶長9(1604)年、毛利輝元によって萩市北西部にある『指月山』の麓に築城されました。そのことから『指月城』という別名を持っています。毛利36万石の主城跡で、春になるとツツジなどが咲き、特に石垣の上に咲く桜の花が美しく咲き誇る桜の名所にもなっています。

萩城は、中国山地から日本海へ流れ出る大河阿武川が河口付近にて橋本川と松本川の2本の川に分流され、それらの川に挟まれた三角州にこの萩城および城下町が築かれることになったのです。その三角州にある萩城下町は南北およそ2km北西およそ3kmにおよぶとても広い城下町です。そして、指月山麓に築かれた萩城は近代城郭であり、指月山山頂には詰丸その山麓には本丸・二の丸・三の丸が配置されていました。そのことから、山頂の『山城』と山麓の『平城』を混在させたような重装備な構造になっていたのです。
萩城の石垣に使われている石材は、ほとんど指月山の麓から採掘された岩石が使われていました。不足している分は、隣村の大井・奈古(阿武町)や青海島(長門市)から運ばれてきたもので補われています。木材もほとんど萩周辺の霧口、川上、佐々の村々からのものが使用されていました。また、瓦は和泉国(大坂)の堺のものが主に使用されましたが、萩で焼いた瓦も使われていたのです。また、当時は徳川幕府との緊張感のある対峙関係だったことから、『詰の城』という江戸時代に築かれた城としては珍しい構造だったといいます。
城づくりや町づくりは順調に進んだものの、相当な費用がかかったといいます。さらに関ヶ原の戦いに出陣しなかったことによる処分から、領地が中国地方八カ国112万石から周防・長門の二カ国36万石に減らされました。そのため、当初から藩財政が厳しかった状況にあったのです。

ビクティニ:これが萩城?早朝に来たからか、お城の割りにはずいぶんひっそりしているね・・・。

ミュウ:お堀も広くて石垣も高い・・・。なんか厳かな雰囲気だね・・・。さすが世界遺産って感じ。

 

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萩城 天守閣跡

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萩城の模型

萩城の天守閣跡です。

城郭は本丸を中心に、本丸門のある南側に二の丸南東側に三の丸、そして指月山山頂に詰丸という配置で、周辺には12ヵ所ほど多くの櫓が配置されていました。

ご覧の通り、かつてはここにあった天守は見事になくなってはいますが、現在は石垣やお堀の一部が、当時の状態で残っています。ここに天守閣があったという形跡が今でも奇跡的に残っていることから、国の史跡に指定されています。天守閣はなくなっても、近世城郭としての城跡の景観は立派に残っているので、まさしく萩における世界遺産の根源といってもよいでしょう・・・。ちなみに夜になると、ほぼ毎日ライトアップが行われ、天守閣跡ならではの石垣やお堀の水面の幻想的な姿を拝められます。

 

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萩城天守があった当時の写真

萩城に天守閣があった当時の姿です。

高さはおよそ21メートルを持ち、五層五階の複合式望楼型天守閣という、まさに豪華絢爛かつ立派な城であったことが分かります。この城の天守は安土桃山時代初期の様式という美しい姿でしたが、明治7(1874)年には、その天守閣は解体され、姿を消しました。現在は天守台の土台のみ残っていますが、半間ほどお堀に突き出した天守初層の石垣萩城の特徴でもあり、『石落とし』としての役割を持っていたようです。

 

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志都岐山神社

萩城跡の指月公園には『志都岐山神社』があります。

毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳を五柱として、初代から十二代まで萩藩歴代藩主が祀られています。この神社の至る所に毛利家の家紋があることから、毛利家ゆかりある神社と言われています。萩城が消滅してから数年のこと明治11(1878)年、、萩町及び付近の有志が発起し、最後まで毛利家ゆかりあるものの賛同を得て、萩城跡本丸にて山口の豊栄(祭神毛利元就)、野田(祭神毛利敬親)両神社の遙拝所を創建。翌年にはその遙拝所を山口にある両神社の分社とし、『指月神社』と名付けられましたが、明治15(1882)年、明治維新への移行とともに近代社格制度に基づき、『志都岐山神社』に改称されました。そして、明治33(1900)年、祭神を毛利家元就、隆元、輝元、敬親、元徳を五柱とし、初代から十二代目までの萩藩主を配祀し、現在に至っています。また、この神社の石段の麓にはミドリヨシノという花の色が純白色で、萼(がく)の色が緑色で、その種は萩市でしか見ることのできない、非常に貴重な桜の木が植えられています。

 

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旧厚狭毛利家萩屋敷長屋

萩には数多くの武家屋敷がありますが、その中で旧厚狭毛利家萩屋敷長屋が一番大きいものです。

かつては4700坪(およそ15,500平方メートル)の広さを持つとても立派な萩屋敷を構えていましたが、屋敷内の主屋や庭園は明治維新前後に解体されました。現在では厚狭毛利家の武家屋敷として残っているものは、この長屋のみ現存しています。

 厚狭毛利家(あさもうりけ)は毛利元就の五男である元秋を始祖とする毛利家の一門のことで、後に八男である元康が引き継ぎ、関ヶ原の戦いの後、長門厚狭(山口県山陽小野田市)に8371石を与えられたのが始まりだと言われています。
 

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旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 玄関

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旧厚狭毛利家萩屋敷長屋 内部

この屋敷は、萩城大手門の南側の要地に置かれました。

梁間5メートル、桁行51.5メートルという大規模な入母屋造り本瓦葺きの建物は、萩に現存する武家屋敷の中でも最大の規模を誇っていることから、昭和41(1966)年に国の重要文化財に指定されました。そのときに発見された棟札から、この長屋は十代・毛利元美の代(1800年代)に建てられたものとされています。この屋敷の南側には廂構桟瓦葺(ひさしがまえさんかわらぶき)を用いて玄関や濡れ縁が設けられ、障子を立てた開放的な構造です。また、妻飾りには木連格子が施されています。屋敷の内部は東の座敷(部屋数10)、中の座敷(部屋数6)、物置(土間、二階造り)、西の座敷(部屋数3)の五つのブロックで構成されているものの、廊下はなく、各々の部屋同士で隣合わせになっているようです。

 

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東の座敷と毛利輝元肖像

特に、東の座敷畳廊下を取り合わせた格調高い造りとなっており、身分の高い者のために用意した詰所で、主に一時的な宿泊や仮眠、あるいは待機する場所として使われていたと思われます。

先ほども説明したとおり、毛利輝元は元就の孫で、中国地方八か国を治めたことから、『中国の大守』と称されていました。かつて中国地方八か国112万石を領有する大名に成長し、天正17(1589)年には広島に居城を築き、豊臣政権下では五大老の一人として権勢を誇りました。その後は慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いにて西軍の総大将として活躍しましたが、不参戦だったことから敗戦し、防長二か国に減封されました。そして、同年11月11日、萩城に入城し、萩開府のために城下町の建設を推し進めるため、萩藩経営の安定に腐心し、寛永2(1625)年、73歳で逝去、萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られました。

 

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毛利元就が使用したと思われる甲冑

屋敷には毛利元就が着ていたと思わしき甲冑も展示されています。

 関ヶ原の戦いの後、萩城を築いた毛利輝元の祖父にあたる元就は、安芸国吉田の郡山(安芸高田市)に居城をもち、中国地方十か国120万石を領有する戦国大名にのし上がりました。いわば、毛利家中興の元祖ともいうべき存在で、この腹巻鎧は元就が得意とする海戦を意識して造られたものと思われます。なお、屋敷内に展示されている甲冑はレプリカのようです。

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仲間部屋
長屋武家屋敷には仲間部屋も設けられており、中央には囲炉裏があります。詰所だった頃は、家臣たちで賑わい、食事などで賑わっていたのでしょう・・・。

 

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萩城下町

萩城下町は、明治維新における日本の産業革命発祥の地でもあります。

城下町の町割りには、菊屋家住宅などの武家屋敷寺院など、規則正しく区画を分けて配置されており、江戸時代当時から変わらぬ姿で保存されています。

この歴史的な町割りや、徳川体制下にあった近代の封建社会当時の特徴日本の城下町として今でもそのまま残っています。そして、幕末における産業革命の担い手を育てた長州(萩)藩西洋科学に挑戦したエピソードも残されています。こういった様々な産業革命及び近代国家の発展に貢献したエピソードが残されていることから、世界遺産に登録された証でもあるのです。

ビクティニ:いくら町中でも、他の地域とは違う雰囲気が漂っている・・・。まるでタイムスリップしたかのような雰囲気だ・・・。

ミュウ:静かな町並みだね・・・。昔ながらの建物も生きているように結構残っているし・・・。

 

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菊屋家住宅 庭園

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菊屋家住宅 書院

その中でも、菊屋家住宅萩城下町の発展を支えた重要文化財の一つです。

長州藩の御用達を勤めた豪商の町家で、主に幕府巡見使の宿として、度々本陣としての役割を持っていたといいます。この屋敷は、江戸時代初期に建てられたもので、四百年の歴史があるということもあり、現存する商家としては最古のものです。

この屋敷には主屋(おもや)、本蔵(ほんぐら)、新蔵【金蔵】(しんぐら)、釜場(かまば)、米蔵(こめぐら)の五棟から構成され、それらの価値が非常に高いことから、重要文化財に指定されています。
長州藩御用の商人こと菊屋家は、大内氏時代(室町時代)では大内氏に仕える『津守家』という武士でしたが、毛利輝元公によって大内氏が滅ぼされた後、武士を捨て有力町人として萩に町づくりに貢献しました。さらに輝元が萩城の築城がはじまると、これまでの津守家から『菊屋家』に改称されました。
屋敷内はおよそ2千坪(およそ6612平方メートル)を有し、中でも屋敷内の庭園はとても風流で、一部は一般公開されていない奥の庭園が特に美しく、秋になると特別公開されます。この庭園は江戸時代から昭和初期にわたり作庭されたもので、平成初期には再整備されました。古瀧から枯流れ、枯池を配した回遊的な要素を持った庭で、樹木は高木を土塀際に配し、針葉樹や常緑樹、落葉樹など、彩り豊かな配色をなし、中央部には芝生が生えています。およそ5百坪(およそ1653平方メートル)を有する広々しい庭園には四季折々の景色を見せてくれます。
書院から眺める庭園も手入れされているようで、十分に風流を感じさせます。この書院は幕府の使い、あるいは藩の役宅に使用されていたようです。藩時代はここで美しい庭園を備えた清楚な環境で殿や巡見使と政治や金融関係などの話し合いが行われていたのでしょうね・・・。いわば、貴賓室のようなものですね。ちなみに、この書院は慶安4(1651)年に建てられた当時の姿で復元されたもののようです。

 

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菊屋家住宅 主屋屋敷

主屋屋敷は、町屋に数寄屋風(すきやふう)の手法が用いられ、初期の屋敷で面皮の長押を廻し、一間ごとに柱を立て、隅以外の柱は杉の面皮柱が使われているのが特徴です。重要文化財に指定されているとはいえ、内部はかなり改造されているようです。この部屋では殿の控え室として使用されていたようです。主屋の建築年代は不明ですが、家蔵古記録によれば、三代目孫兵衛嘉次(1660年没)が建てたものとされ、少なくとも17世紀に建てられたものと思われます。

 

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菊屋家住宅 みせ
この屋敷の特徴は『商家』ということもあり、『みせ』が設置されています。『みせ』は御成通り(貴人が御成の時に通る道のこと)に向かって細長く部屋をとり、前に土庇が設けられています。みせと下みせの間に大戸口が設けられていますが、その内側の通路は狭く、土間の入り口を絞るように設けられています。この屋敷では事務室の役割をもっていたようです。

 

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伊藤博文が初洋行の際に購入したと思われる柱時計
屋敷内には、伊藤博文が、初めて洋行(アメリカへの旅行)の際、お土産に購入されたと思わしき柱時計が設置されています。この柱時計は米国コネチカット州セット・トーマス仕様で、週に一度ゼンマイを巻くと動きます。この時計は約150年前のものと思われる代物で、今でも動く古時計としては貴重なものです。

 

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菊屋家住宅の電話室
屋敷内に設けられた電話室はとてもレトロな雰囲気が醸し出されています。この電話室に設置された電話機は明治30(1879)年にもので、『デルビル磁石式』の乙号電話機です。

 

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菊屋家住宅 主屋座敷 土間 小屋組
この主屋は、上から殿様を見下さない構造とする、いわゆる二階建でない『平屋造り』になっています。その代わり、架構には水平に通された柱が梁組の上に半間に束(小さな柱)を建て、縦横に通した『小屋組』の構造が用いられています。これは、地震などの天災による震動で束が落ち、その落ち具合で地震の震度を計測することができたと言われています。一見、平屋造りの屋敷でもそうした役割を持った構造は、まさに昔の巧みの建築技術に『先人の知恵』を思わせます。

 

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屋敷内に展示されている美術品・工芸品など
他にも屋敷内には、萩茶碗古萩焼などをはじめ、様々な美術品や工芸品などが展示されていました。

 

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菊屋家住宅 本蔵
この屋敷の敷地内にはいくつかが設けられています。本蔵は主屋の後方に位置し、土蔵造りの桁行11.7メートル、梁間4.8メートル、二階建ての切妻造りの桟瓦葺土蔵で、建築年代は明治ごろと思われます。かつては様々な資料や物資などを保管するために建てられたものと思われますが、現在では様々な展示品が保管されているようです。蔵の扉には漆喰が用いられています。これは、耐火性が優れていること、そして調湿性、カビ防止の役割を持っているからです。

 

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菊屋家住宅 金蔵
金蔵も本蔵と同様に扉が漆喰が用いられ、土蔵造りの桁行6.0メートル、梁間4.3メートル、二階建ての切妻造りの桟瓦葺土蔵ですが、さきほどの本蔵より一回り小さめです。ただ、倉庫としては珍しく地下室も設けられているのが特徴です。こちらは18世紀末から19世紀頃に建てられたものと思われます。

 

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高杉晋作 誕生地

萩は、『幕末の風雲児』または『日本明治革命の英雄』といわれる高杉晋作の誕生地でもあります。

晋作は、天保10(1839)年に萩藩大組士、禄高200石 高杉小忠太の長男としてこの城下町の菊屋横丁にて生まれました。

高杉家は戦国時代から毛利家に仕えてきた長州藩の名家で、彼の祖父・又兵衛、父・小忠太も長州藩の重要な職を歴任してきました。そして、晋作自身も高杉家の家柄として高い誇りを持っていたといいます。しかし、『高杉晋作』という名前はあくまで通称で、本当の名は『春風』字は『暢夫』のようです。

 

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初湯の井戸
高杉家の生家の敷地内には『初湯の井戸』が残っています。この井戸を見ていると、当時の生活が感じられます。

 

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高杉晋作の生い立ち

吉田松陰を尊敬する高杉晋作には、明治以降の日本を大きく変えるほど波乱万丈なエピソードがあったのです。

幼少期は私塾で学び、のちに裕福な子供が通う萩校明倫館に通われましたが、実際にはいわゆる何の変哲もない昔ながらの学問だったようで、彼は勉強などせず、剣術ばかり没頭していたようです。その時、嘉永6(1853)年には日本に黒船(ペリー)が来航し、開国を求めました。その時、松陰は決死の覚悟で旗艦ポータハン号に乗り込み、ペリーと差し違える覚悟をしました。これがいわゆる『下田事件』ですが、彼は松陰のあまりの勇敢に感服します。そこで、幼なじみの久坂玄瑞の誘いから、安政4(1857)年、彼が19歳の頃に松下村塾に通い、吉田松陰のもとで塾生として受け入れることとなりました。明倫館とは違って生きた学問を勉学することができた松下村塾では、身分など関係なしに受け入れたといいます。その学問には将来の日本をどう活かすか、ということを中心とした勉強の内容でした。それ以来、やる気に満ちた晋作は勉学に没頭するようになったのです。そして、松蔭先生の思いを忠実に受け継いだ塾生の中から、明治維新明治新政府で活躍した多くの逸材が育っています。その中でも特に高杉晋作をはじめ、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに『松下村塾四天王』または『松下村塾の双壁』と呼ばれるほど優秀な塾生だったといいます。
その後、藩命で江戸へ遊学。大橋訥庵塾、昌平坂学問所(当時の最高学府)で学びますが、晋作は久坂玄瑞への手紙で「江戸の学問は面白くない」と記していました。その間、松陰は外国の文化や文明など学び、日本の国力を高めるべく、なおかつ外国に領土を奪われないためにも、『日米和親条約』『日米修好通商条約』などといった日本にとって理不尽な不平等条約を撤回させるため尊皇攘夷運動を実行します。しかし、『間部詮勝要撃計画の罪』で、江戸小伝馬町の牢に投獄され、偶然なことに江戸で晋作は松陰の世話をしながら師との対話を行ないました。その後、死生観の手紙が彼に送られたことで、さらに晋作の生き方を大きく変えることになります。安政6(1859)年、藩命から萩に帰郷を命じられた晋作は「いずれ長州でお会いできるでしょうから、その時にお目にかかりましょう」という手紙を送り江戸を去りますが、十日後に松陰は死刑を言い渡されました。
そして、彼にとって憧れの存在だった松陰が逝去したことで、幕府に対するあまりの悲しみや怒りに、晋作は倒幕を決意します。その時、長州藩の要職宛に「必ず松陰先生の仇は取ります」という怒りの手紙を書きました。これがいわば、晋作が日本の将来を変えるとともに幕府への復讐心に情熱を燃やしたのです。
文久2(1862)年5月には藩命で、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航します。しかし、当時イギリスやドイツの侵略で上海は欧米の植民地と化していたのです。この状況に近い将来、日本に危機が訪れることを知り帰国し、倒幕の決意を公に知らしめます。
同年12月12日、当時江戸桜田藩にて謹慎中だった晋作は久坂玄瑞、伊藤博文、志道聞多らとともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行し、尊皇攘夷の気勢を上げます。
文久3(1863)年5月10日、開国に反対していた長州藩は関門海峡にて外国船を砲撃します。しかし、逆に外国艦隊の報復に惨敗を喫します。これがいわゆる下関戦争です。その際、欧米との戦力や兵力の差に見せつけられた長州藩士・毛利敬親は外国連合軍のさらなる攻撃も予想される危機感に藩を離れていた晋作に助けを求めます。そこで、晋作は6月に徳川幕府による理不尽な身分制度(いわゆる士農工商)を覆すため、身分に因らない画期的な軍隊・奇兵隊を結成、奇兵隊開闢(初代)総督となります。その時に晋作は「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり」という句を詠んだのです。これは「面白くもない世の中を面白くするのは心である」という意味で、幕府の言いなりになっている日本を変えるためには、自らの心を動かすことで変えられるという意志で詠んだものと思われます。
文久4(1864)年8月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、下関は外国艦隊に占領されます。その時、長州藩は未曾有な滅亡の危機に陥りますが、晋作が外国連合軍との交渉の任を命じられ、イギリス海軍提督との講和会議に臨みます。そして、講和条約の中で提示された条件を晋作は受け入れ、長州を救いました。
しかし、同年11月、徳川幕府から長州藩に武力討伐という危機に迫っていました。幕府の討伐軍にはおよそ15万に対し長州藩はおよそ4千ととても勝ち目がありません。さらに幕府に対する対峙力を持っていた流石の晋作らでさえも暗殺者に狙われるほどピンチに追い込まれます。そこで、功山寺にいる五卿の前で「今こそ長州男児の肝っ玉をご覧に入れます」と気勢を挙げ、日本の改革に勇気のある者を待つことにしました。そこで、晋作が待つ功山寺に集まったのは、伊藤博文が率いる力士隊、石川小五郎が率いる遊撃隊ら、長州藩諸隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。さらに奇兵隊ら諸隊も加わりました。そして、正義を掲げる晋作のもとに町人や農民なども集まり、最終的には約3千に上りました。慶応元(1865)年、俗論派(保守派)の首魁・椋梨藤太らを排斥し、藩論を倒幕に統一することに成功しました。
慶応2(1866)年1月、桂小五郎(後の木戸孝允)らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結しました。同年6月にもまた幕府による第二次長州征伐(四境戦争)が起きますが、今度は晋作が海軍総督として、幕府の長州討伐軍を撃退、周防大島を奪還に成功しました。それから幕府の勢力は次第に弱まっていきます。同年7月、将軍徳川家茂の死去の知らせを受けた幕府軍総督小笠原長行は戦線を離脱し、幕府軍は敗北しました。幕府の権威は大きく失墜し、慶応3(1867)年10月14日、江戸幕府第15将軍徳川慶喜江戸幕府による政権明治天皇に返上(王政復古)。同年11月には大政奉還へと導かれ、日本は鎖国から解放されました。
しかし、晋作は長く戦い続けた間、に冒されていたのです。肺結核のため、桜山で療養し回復に努めるも、慶応3(1867)年4月14日深夜に死去しました。こうして、彼が求めていた幕府の崩壊こと大政奉還を拝めることもなく逝去しました(享年29年)。こうして短い生涯ながらも、松陰の教えを活かし、近代の日本の未来を切り開くための時代を駆け抜けた勇猛果敢なエピソードが日本の歴史に刻まれたのです・・・。

 ビクティニ:なるほど、もし日本が鎖国されたままだったら、今の日本はないと言っても過言じゃない。むしろ開国することで、今の日本が様々な国から支えられているということだ。

ミュウ:まさに日本の危機を救った勇敢な人だったんだね・・・(´;ω;`)

 

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萩の昼食

さて、萩の城下町を一通り回ったところで、昼食に。昼食は東萩駅前にあるレストランで『指月山御膳』をいただきました。茶そばや寿司、酢物、日本海で採れた海の幸を使ったお刺身などが入った、上品な昼食でありました。

ビクティニ:豪華な昼食だ!さすが萩!いただきます!

ミュウ:お寿司が美味しい!

にょろもう:緑のお蕎麦も美味しいよ~。

tabelog.com

 

『正月旅行 厳冬の山陰旅 正月の萩城下町めぐり』をお伝えしました。

正月旅行 厳冬の山陰旅 年明けの山陰本線旅 明治維新ゆかり松陰神社で初詣&遊郭だった旅館“芳和荘”に宿泊

皆さんこんにちは。

今回は、年明けの山陰本線の普通列車に乗車し、山口県の城下町『萩』まで行ってきてまいりました。

 

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年明けの玉造温泉 旅館

玉造温泉の旅館で迎えた2021年元旦の朝。山陰地方では雪が積もったまま、お正月を迎えます。

ビクティニ:みんなあけましておめでとう!今年もよろしく!

ミュウ:あけましておめでとう!

にょろもう:あけましておめでとう。

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正月の玉造温泉 朝食

正月の玉造温泉の朝食は、しじみ汁などの島根県の名物の他、おせち料理も出ていました。

ビクティニ:島根の朝食は美味しい!お正月定番おせち料理も最高に美味しい!!

ミュウ:山陰線の除雪も終わっているかな。

にょろもう:しじみ汁最高!

 

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山陰本線の列車から見る元旦の宍道湖

さあ、2021年元旦の山陰本線旅。大晦日まで運休だった山陰本線は、元旦になると大雪は止み、列車は順調に進んでいきます。

宍道湖島根県を代表する汽水湖で、面積は79.25k㎡、水深は概ね5mほどと比較的平たい湖です。この湖ではしじみが採れることでも知られ、しじみ漁も行われます。また、夕日時に見る宍道湖大変美しい景観とされ、いわば夕日スポットにもなっています。

我々は9:11玉造温泉駅発の普通 益田行きでひたすら西へ進んでいきます。

 

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山陰本線の列車から見る日本海の車窓

山陰本線の車窓といえば、やはり日本海の車窓が印象的です。

山陰本線は、京都駅を起点として下関駅を終点とする約680kmという日本のローカル線では屈指の長大路線です。山陰エリアなら伯耆大山~西出雲のみ電化されており、大半が非電化区間です。このあたりは普通列車の他に快速特急も益田まで走っており、比較的賑やかなローカル線です。このように海の車窓が見られるのは兵庫県北部や鳥取県東部、そして、出雲市以西ということになります。特に余部鉄橋島根県西部の山陰本線で見られる海の車窓は、まさに山陰本線の景観としては心に残るほど絶景な海の車窓が楽しめます。

今回は、青春18きっぷを使って山陰本線で玉造温泉駅から東萩駅(山口県萩市)まで移動します。ただ、松江や出雲か萩までJRで移動するのには、途中の益田駅にて乗り換えとなります。

ビクティニ:今日の山陰本線は順調に運行してくれた。車窓から見る日本海の車窓がまるでご褒美みたいだ・・・。

ミュウ:日も出ているし、列車も順調に進んでいるね。よかったよかった。

 

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益田駅

12:30益田駅に到着。

この駅では、JR山口線津和野・山口方面山陰本線東萩・長門市方面への路線にそれぞれ分岐されます。

ビクティニ:ようやく益田駅に到着したよ!さて、この後も引き続き山陰本線の普通列車でさらに西へ向かうのだが・・・。

ミュウ:ここでお昼にしたいけれど、あまり時間がないから、やめとこう・・・。

 

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益田駅の列車案内
松江・出雲市方面からここまでの列車本数は概ね1時間1~2本ほどとそれなりにあり、快速特急も運行されていますが、ここから西へ行くJR山口線山陰本線長門市方面の本数はさらに少なくなります。特に山陰本線の長門市方面へ行く列車本数は日中だと3~4時間も運行されない時間帯があるので、益田から萩市や長門市へ列車移動する時はよく時刻表を確認した方が良いのかもしれません。また、山口線では特急も通っているものの、そちらも本数が少ないので注意が必要です。

 

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益田駅以西の山陰本線 普通列車

萩・長門市方面へ向かう普通列車は1両編成の普通列車で運行されます。

車両は基本的にはキハ40系という昔ながらの国鉄型のディーゼルで運行されていますが、便によっては比較的車体の小さいキハ120系で運行されることもあります。日中ではワンマン運転で運行されることが多いようです。また、先ほども話したように、山口線では特急は通っていますが、こちらの山陰本線益田~下関では特急はおろか快速も設定されておらず、すべて普通列車のみで運行されます。そのため、『本線』という名前がついている割りには、典型的な寂れたローカル線という印象が見受けられます。かつての国鉄時代では多くの特急や急行、あるいは九州へ行く特急や急行などで賑わっていたようですが、現在は1日8本しかありません。

13:11東萩駅を出発。この時期は18きっぷシーズンということもあり、普段は利用者の少ないはずの長門市方面へ行く列車には多くの乗客が乗車されていました。

ビクティニ:ここから萩へ向かう普通列車はいかにもローカル線を走るような感じだね。

ミュウ:おまけにワンマンって書いてあるよ。

 

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山陰本線(益田以西)の車窓

このあたりも先ほど通ってきた益田までの山陰本線と同様に、とても風光明媚な海の景色が広がっています。

特急の通らない山陰本線はとても長閑なローカル線で、あたり一面海の水平線が広がる島根側の山陰本線とは対照的に山口側の山陰本線の海の車窓は、姫島などの島々が浮かんでいる車窓が見られます。特に宇田郷~須佐には『惣郷川橋梁』という長い橋梁があり、撮影スポットや絶景車窓ポイントとして有名です。ただ、このあたりの山陰本線はもともと線形が悪いのか、まだ駅までは距離があるのにも関わらず、急に自転車並みの速度に落とす区間があります。というのも、一部の区間では20~30kmぐらいの速度制限を設けている、いわゆる『必殺徐行』といわれる区間があるからなのです。そのため、例えば落石の恐れがある場所などの危険な箇所では、安全のためいつでも停止できるよう、徐行区間を何箇所かこの路線では設定されているということです。
こうしてもともと幹線であるはずの山陰本線の列車が1両編成で運行されているのはちょっと寂しい気がしますが、この車窓を見ているとかつて急行が走っていた頃蒸気機関車が走っていた頃を回想したくなります。

ビクティニ:島が見えるよガンバ♪ ・・・なんてね。

ミュウ:さっきまで島は見えなかったのに、ここまで来ると島々が見える車窓に様変わりだね。

 

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東萩駅に到着

14:21東萩駅に到着。

東萩駅山口県萩市の中心駅で、松陰神社萩市観光への玄関口となります。

『萩駅』といういかにも萩市の代表駅らしき駅がもう1つあり、その駅自体が有形文化財に指定されているほどレトロな駅なのですが、どちらかというと、この駅が萩市の玄関口となっているようです。また、時期によってはクルーズトレイン『瑞風』がこの駅にやってくることがあるようです。

ビクティニ:東萩駅に到着したよ!ここはもう山口県なんだね。

ミュウ:観光地のわりにはちょっと寂れている感じがするね。気のせいなのかな・・・?

 

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東萩駅

東萩駅前の様子です。城下町の玄関口というだけあって、萩城の仕様を纏っています。

鉄道駅の割には列車の本数は少ないからか、本数としては鉄道よりバスの方が勝っているように感じられます。萩市から新山口駅長門市(青海島)美祢市(秋芳洞)、そして津和野などへ行く路線バスが多く出ているので、バスの方が比較的移動しやすいと思われるでしょう。また、萩市内を回る循環バス『まぁーる』も出ています。

我々はこの駅でレンタサイクルを借りましたが、「萩市内に泊まる」という話をしたら、なんと1泊2日分で800円で貸してくれました!いやあ、もともと観光客が少ないからか、わりと気さくに貸してくれるとは思いませんでしたw

 

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明治維新ゆかりの神社 松陰神社

まずは、自転車で松陰神社へ参拝に行ってきました。

松陰神社は、幕末維新の先駆けとなった吉田松陰先生を祀る神社で、いわば『明治維新ゆかりの神社』にして『学問の神様』として全国的に多くの参拝者が訪れます。そのため、お正月になると多くの受験生たちが訪れます。この社殿は昭和30(1955)年に完成したもので、その社殿には松蔭が最後まで愛用し続けた赤間硯父叔兄宛に書いた手紙が御神体として祀られています。また、毎年1月には『勧学祭(合格祈願祭)』が行われます。
この人車の御神体とされる吉田矩方命(松陰先生)が殉節されて31年後の明治23(1890)年8月、松村塾出身者などの手によって松村塾の改修が行われた際、松蔭先生の実家とされる杉家の人々の手で松陰先生を祀る土蔵造りの祠が建立されたのが松陰神社の始まりとされています。明治40(1907)年、松下村塾出身である伊藤博文や野村靖が中心となり、この祠を公の神社として創建するため、山口県に請願書を提出、同年10月4日に当時の社格制度の中、県社の社格を持って建立が許可されました。土蔵造りの祠は松下村塾の南側に移築して本殿とし、当時廃社となった萩城の鎮守である宮崎八幡宮の拝殿を譲り受ける形で境内の整備が進められたといいます。さらに昭和11(1936)年には松陰神社改築奉賛会が設立、その翌年には王政復古七〇周年記念事業として、神社神域拡張工事が行われました。昭和15(1940)年には新社殿が起工、その2年後には桧皮葺の社殿が竣工されましたが、戦時中の激化により、ご遷座されぬまま終戦を迎えます。そして戦後、厚東常吉などが中心となり、事業を再開、新社殿の屋根を銅版とし、改修工事を進められ、昭和30年10月26日に現在の松陰神社が完成し、現在に至っています。また。その翌年の昭和31(1956)年、旧社殿が新社殿北側に移され、松蔭先生の塾生および門下生を御祭神とする末社、門松神社も建立されました。

ビクティニ:今年こそ、東京オリンピックが終わりますように・・・。

ミュウ:例の病気がなくなりますように・・・。

 

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吉田松陰 歌碑

松陰神社の境内には松陰先生が遺した歌碑が鎮座されています。

安政の大獄で捕らえられ、処刑されるのを覚悟した松陰先生が、自らのふるさとの両親宛に別れの書簡『永訣の書』の中で詠まれました。この句には以下のことが書かれています。

 

親思ふ こころにはさまる 親ごころ けふの音づれ 何ときくらん

子供が親を慕う心持ちよりも、親が子を愛する親心は、どれほどまさったものであろう。死なねばならぬ私の便りを知って故郷の両親は、どんなに悲しむことであろう

 

この句を読めば、松陰先生の両親に先立つ不孝詫ている気持ちが込められているのが分かります。松陰先生は和歌の名人で、その碑文も松蔭先生が詠んだ句の一つです。

これは安政の大獄を推し進める幕府によって多くの逮捕者を出してしまい、その中に吉田松陰の名前があったといいます。彼にかけられていた嫌疑は、京都にいた梅田雲浜(うめだうんぴん)との交際に関してのものと、幕府の中傷文書の作成についてですが、いずれも軽微なものだったようで、幕府側もそこまで重視されていませんでした。当時の幕府にとっは、『戌午の密勅』背後にいた水戸藩関係者がメインターゲットだったようです。その後は、嫌疑が晴れかけましたが、訊問が進むうちに取り調べ側も信じられないような内容が隠されていたことを知ります。それは松陰の供述の中に『間部詮勝暗殺計画』『伏見要駕策』といった、まさに幕府にとっては重篤な罪が隠されていたからなのです!そのことで怒りを買った幕府は、松陰を伝馬町の牢獄に入れ、斬首の刑にかけられました。そして、安政6(1859)年10月27日、松陰は逝去されました。その時に詠んだ松陰最期の句かと思われます。

 

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松下村塾

幕末期に松陰先生が主宰した松下村塾です。

もともとは叔父の玉木文之進が私塾を開いたのが始まりで、のちに松陰が引き継ぐことになりましたが、身分や階級に関係なく塾生として受け入れ、僅か1年余しか受けられませんでした。しかし、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文などとともに明治維新の原動力となり、明治時代で活躍した多くの逸材を育て上げることができたといいます。
松下村塾は、木造の瓦葺屋根の平屋建てで、面積は50㎡ほどの小舎になっており、講義室だった八畳の部屋にはかつて松蔭が使っていた机の他に松蔭や門下生の肖像画、石膏像などが展示されています。
看板に書かれている『松下村塾』の文字には、『下』が草書体『村』が異字体の『邨(古字)』が使われています。当時の地域が『松本村』と呼ばれたことから、その名前になったのだそう。

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松蔭の残した松下村塾記「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。」
松蔭が書き残した『松下村塾記』によれば、「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。」と記され、これはこの村名を冠した塾名を誇りと責任を感じ、志ある人材を育てようとしたことが伺えます。

 

 

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花月楼

神社の境内には江戸時代に使われた茶室があります。

神社の境内に風流な日本庭園と茶室には相当な年季が見受けられます。
この茶室『花月楼』七代藩主毛利重就が、利休の流れを汲む表千家の家元、第七代如心斎の門人、そして江戸千家の元祖川上不白の献上した花月楼の設計図にもとづいて安永5(1776)年、三田尻の別邸宅(現防府市)に建築されたものです。重就の没後、その茶室に寵愛を受けた御茶堂竹田休和が九代藩主斉房から譲り受け、平安古の自分の屋敷内に移築されました。また、その記念に『花月楼之記』も作ったといいます。さらに明治21(1888)年品川弥二郎がこの建物を松本橋のたもとの自宅に移建保存されていたものを昭和34(1959)年、現在の松陰神社境内に移築され、現代に至ります。
この茶室は江戸時代中期に考案された花月式の茶会を催すことができるようにするために、八畳、あるいはそれ以上の広間の大きさが確保されています。これがいわゆる『花月楼式の茶室』と呼ばれるようになったのです。当時、この茶室を用いた茶会はさぞかし賑やかだったことかを思わせます・・・。

 

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萩市浜崎地区

当時の港町としての雰囲気が色濃く残る萩市浜崎地区

萩市の三角州の北東の端に位置する浜崎地区は城下町とともに開かれた町人地で、萩城城下町から若干離れて入るものの、江戸時代から代々続く古い町並みが当時から変わることなく残されています。かつては水運が盛んだったその当時は多くの水夫や船が行き交っていました。そのため、かつては港町で栄えたと思わしき『遊里(ゆうり)』『花街(かがい)』が形成されています。

 

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萩の老舗旅館 芳和荘

そんな港町の一角にある旅館が『芳和荘』です。

とても歴史を感じさせられる旅館で、その場所に建つ『芳和荘』はもともとは『梅木』という屋号で大正時代から『遊郭』として営業されてきたものです。いつ建てられたのかは定かでないのですが、少なくとも大正期に建てられたものですから、その築年数は・・・なんとおよそ百年と思われます。もはや現代でいう旅館というよりかは、『旅籠』という分類に近いのかもしれません。
入り口の曲線アーチや木造建築、そして塀の仕様など、当時の雰囲気がそのまま残る景観的な特性から、萩市から「大正初期に遊郭として建てられた回廊を有するほぼ総二階の寄棟造大型建造物が周囲の塀とともに貴重な歴史的景観を形成している」として景観重要建造物に指定されています。
日本では明治33(1900)年に発布された『娼妓取締規則』に基づき、公娼制度が完成してできたのがいわゆる『遊郭』というものです。これが後に正式名称となり、『貸座敷免許地』とされ、遊女がいる『妓楼』『貸屋敷』とされていました。おそらく、この旅館の部屋には多くの遊女で賑わっていたのでしょう。戦後の昭和33(1958)年に売春防止法が施工されると、貸座敷は次々と廃止され、全国の約3割が旅館業へ移行されていきました。それらのうち『芳和荘』もその一つとなります。
この土地はもともと弘法寺遊郭の跡地で、後の『芳和荘』となる建物以外は一切残っていないとのこと。なんでもまだ遊郭跡が残っていた昭和50年頃、「遊郭街の建造物はすべて解体せよ」と当時の市から解体命令が出て殆どの元遊郭の建造物は解体されたようですが、この『芳和荘』だけ旅館として残っていることが奇跡的です。

そして、建築年数が百年以上たっている割には玄関はかなり綺麗に清掃が行き届いており、ご主人様も噂通りの笑顔かつ親切にもてなしてくれました。

 

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かつての遊郭を思わせる『芳和荘』の中庭

『芳和荘』の旅館内には広い中庭が施されています。

特に2階から見下ろす夜の日本庭園がとても素敵です。なんでも、この旅館のご主人様が日々手入れなさっているとのことで、百年経った今でもなお清楚な日本庭園が見られます。これがかつての遊郭だったことを考えれば、当時は華やかな一夜を送っていたことでしょうね・・・。そして、現代にいたって当時の形のまま残っているのは改めてとても貴重なものだと実感させられます。

ビクティニ:ここの旅館は他とは違う不思議な雰囲気がただよっているね・・・。まるでタイムスリップしたかのようだ・・・。中央に小さな庭もあるし・・・。これが昔の遊郭だったことを考えれば・・・。

ミュウ:とっても静かだね。この旅館が遊郭だったということは、今でいうと、ゲストハウスみたいなものかな・・・?

 

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廊下の欄干に刻まれたひらがな文字

そして2階廊下の欄干に1区画ずつ刻まれたひらがな文字もこの旅館の特徴でもあります。

その欄干には『と』『う』『ら』『し』などの文字が刻まれています。実はこのひらがなには意味があり、遊郭時代の隠れ屋号なんだそう。正解は『ち』『ょ』『う』『し』『ゅ』『う』『ら(ろ)』『う』。つまり『長州楼(ちょうしゅうろう)』と刻まれているのです。こうして廊下の欄干に文字が刻まれているのも他の旅館ではなかなか見られないのが、この旅館ならではの珍しさです。もはや珍百景に登録されてもおかしくないのではないでしょうか・・・。

 

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芳和荘の部屋

我々が泊まった部屋は四畳半程度の広さでしたが、あまり気になりません。

むしろ元遊郭の部屋としては十分な広さで、当時の遊女部屋の雰囲気も感じられます。壁は金箔を纏ったような感じで、テレビも今ではほとんど見られなくなってきたブラウン管テレビが使われているようです。何もかもが古めかしいので子供連れには少々不向きかもしれませんが、私のように歴史が好きな人なら興味を注ぎます。

あまりの静けさにこのまま就寝してしまいました。

ビクティニ:この旅館の雰囲気はすごいけれど、他にすることはないので、早めに寝ることにしよう。おやすみなさい。

ミュウ:おやすみ。

にょろもう:おやすみなさい。

 

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『年明けの山陰本線旅 明治維新ゆかり松陰神社で初詣&遊郭だった旅館“芳和荘”に宿泊』をお伝えしました。

正月旅行 厳冬の山陰旅 大晦日の松江めぐり

皆さんこんにちは。

今回は大晦日に松江周辺を観光してきました。

2020年の大晦日は全国的に雪が降るような天気で、山陰地方におけるJRや飛行機などもほぼマヒ状態という状況でした。そんな最中、路線バスだけは動いているようですので、それを使って松江周辺を観光しました。

 

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八重垣神社

まずは、八重垣神社へ参拝します。八重垣神社は出雲大社と同様、『縁結び』の神社です。

この神社はヤマタノオロチ(八岐大蛇)退治で有名なスサノオノミコト(素戔嗚命)および国の乙女の花ことクシナダヒメ(櫛名田姫)の夫婦が祀られ、特に恋愛成就の大神、いわば『縁結びの大親神』といわれています。ここはヤマタノオロチから逃げてきたクシナダヒメが避難した場所とされています。スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する時にクシナダヒメを佐草の里の大杉(奥の院)を中心に八重垣を造り、そこに身を隠したのです。そして、ヤマタノオロチを退治した後、日本最古の和歌とされる『八雲立つ出雲 八重垣妻込みに八重垣作る 其の八重垣を』という勝利の歌を詠まれ、この歌はにあるように『出雲国』または『出雲地方』など『出雲』という名前がついたのはその由来だと言われています。すなわち、この八重垣神社こそ、出雲由来の原点ともいうべき存在かもしれません。

ビクティニ:今年の大晦日の大雪は、まさにヤマタノオロチかもね()

ミュウ:今日はこのあたりのJRは全滅だものね・・・。

 

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八重垣神社に参拝

八重垣神社は、恋愛などの縁結びの他に良縁成就や夫婦円満、除災招福、諸願成就などにもご利益があります。

天つ神スサノオノミコト地つ神クシナダヒメ【櫛名田姫】(以後イナダヒメミコト【稲田姫命】)の御二柱はこの出雲の地にて結ばれた縁結びの大親神様を主祭神とする八重垣神社は古くから朝廷、国司、藩主の崇敬が厚く、御神徳の高い出雲国を代表する古社ならびに名社として多くの参拝者は訪れます。明治期には文豪で有名な小泉八雲が西田千太郎とともに行楽がてら松江周辺の神社めぐりの際、取材されたようです。特にこの神社の奥にある『鏡の池』に興味を示したそうです。

しかし、今年の大晦日は例の病気に加え、未曾有な大雪の影響もあり、例年と比べて参拝者はかなり少ないようです。

(二礼二拍手一礼)

ビクティニ:例の病気がなくなり、自分のやりたいことができますように・・・。

ミュウ:ティニくんと一緒に旅できますように・・・

作者:来年こそ、東京オリンピックが開催できますように・・・。

 

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奥の院 鏡の池

そして、この境内の奥へ進むと、『佐久佐女の森』があり、その中に『鏡の池』もあります。

『佐久佐女の森』は、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する時にイナダヒメミコトを難から逃すために、この森の周辺に八重垣を造ってイナダヒメミコトを隠した場所です。その時に、この森の中にある池を飲料水として、あるいは自らの姿を映した池と伝えられていることから、『鏡の池』と呼ばれるようになったのです。また、ここに訪れた小泉八雲は『神秘の森』と呼ばれていたといいます。
そして、この池にはイナダヒメミコトの御神霊が宿られ、現在ではご縁の遅速を占う『縁占いの池』として知られ、池の奥にはイナダヒメミコトを祀る天鏡神社が鎮座されています。この池に占い用紙を浮かべ、その用紙に10円玉か100円玉を用紙の上に静かに置きます。15分以内に早く沈むと縁が早く30分以上遅く沈むと縁が遅くなると言われています。近くで沈むと身近な人遠くで沈むと遠方の人とご縁があると言われています。占い用紙はこの神社の神札授与所で購入することができます(1枚100円)。

ビクティニ:東北の皆さんが元気に過ごせる日が来ますように・・・。

ミュウ:ティニくんと旅に出られますように・・・。

 

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八重垣神社の近くにあったカフェ

八重垣神社の近くにはカフェもあります。

前回や前々回も八重垣神社に訪れたことがあるのですが、今日に限っては大雪や例の病気などもあり、他に参拝に来る人はあまりいないようです。このカフェに来た客は私ともう一人の方だけだったので、ちょっとさみしい気がします。とまあ、外は寒いのでちょっとした休憩にはよろしいかと。あとはバス待合わせにもちょうどいいですね。あと、ノートもあったので書かせてもらいました。

 

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小泉八雲 旧居

松江といえば、怪談などの文豪として有名な小泉八雲のゆかりの地として知られています。

彼の生み出した『耳なし芳一』『雪女』などをはじめとする怪談の作者として有名で、他にも紀行、随筆、文芸批評、民俗学など、様々な分野においても数多くの作品を残してきました。『ラフカディオ・ハーン』こと小泉八雲西洋人でありながら、日本に対する偏見がなく、むしろ好意的な目で当時の日本の良さを世界的に紹介した、当時の西洋人としては非常に優れていた人物でもありました。中でも、『知られぬ日本の面影』『心』『東の国から』という随筆集が代表的なものです。それらの作品は当時の日本の風俗、習慣、文化などの単なる記録だけでは片付けられない、美しい文体で描かれた、大変素晴らしい文学作品を残したのです。
この旧居では英語教師として松江に赴任した八雲は、セツ婦人と結婚した後、かねてから念願であった武家屋敷を求め、借りて暮らしていたのです。八雲が暮らしていたこの屋敷はかつて江戸時代中後期に建てられた旧松江藩士岸根家の武家屋敷だったもので、母屋を取り囲むような日本庭園があるのが特徴的です。また、この屋敷は『ヘルン旧宅』という別名を持っています。

 

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小泉八雲旧居 日本庭園

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庭園で見られる蛙とヘビや四季折々の植物

小泉八雲がセツとともに暮らしていた屋敷にはとても風流な日本庭園があります。

わびさびの雰囲気を漂わせる美しい庭にはサルスベリの木、蓮の花などが咲く花々が四季折々の彩りを見せてくれます。訪問当時は雪が積もっていましたが、この屋敷を取り囲むように広がる庭園のうち、西庭・南庭は砂敷の中に飛び石や石灯篭が施された枯山水庭園が見られます。この庭園には自然の山水を絡めた造りになっており、我々訪問者にも心が魅了されます。しかし、このあたりでは見られる『出雲流庭園』とは違って平たい中島が花壇のようになっており、文豪好みの植栽や花々が楽しめるように築庭されているようです。特に庭園の片隅に飾られたシャチホコが、後述の『知られざる日本の面影』の中で描かれています。
日本の文化を好んだ八雲は、この庭園を見て、大いに喜ばれていたといいます。浴衣と下駄姿で庭園を散歩したり、あるいは居間から三方の庭をじっくり眺めるのが好きだったといいます。

 

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居間から見た日本庭園

 

居間から眺める庭園を愛していた八雲は『床を背にして座ると三方の庭が眺められる』と、たいそうご満悦であったということもあり、ここに訪れた来客との会話もはずんだといいます。

この庭園をもとに『知られざる日本の面影』『松江の印象記』など、多くの著書がこの邸宅で書き上げられ、中でも『知られざる日本の面影』の第16章『日本庭園』にはこの庭のことが書かれており、夏になるとこの庭に住み着く蛙が非常に増え、鳴き声の大合唱にもなるといいます。その時、八雲は土蔵から出てきたヘビが蛙を食べようとするのを見てかわいそうに思い、食事に使うつもりだった肉を土蔵の石段に置いて「蛙を食べないでくれ」と言い、蛙に対する優しい想いが伝わるエピソードが今でも語られています。西洋ではカエルやヘビは嫌われているはずなのに、八雲さんは西洋人とはいえども、蛙やヘビには優しかったのですね・・・。

 

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ホラ貝
セツ婦人が東京在住時代に江ノ島でお土産に買ったもので、八雲はこれで家族を呼ぶ際に使われていたようです。

 

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書斎

八雲が使っていた書斎です。

ここでは、怪談や多様な作品などを書いていました。この書斎からでも、庭園が見られ、『知られざる日本の面影』に登場する『日本庭園』を書いていた時に庭園の風景を眺めながら書いていたのでしょう。なお、八雲は左眼を失明していたことや、右眼も極度に近眼だったことから、原稿や論文などを書く時には、机を高くして字を見やすくしていたそうです。

 

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磐井の遺した原稿
『出雲に於ける小泉八雲』を書いた根岸磐田氏の原稿も遺されていました。

 

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小泉八雲の生涯

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の生涯です。

ラフカディオ・ハーンは、日本が幕末だった頃にギリシャで生まれ、40歳の頃に松江に来て英語教師をされていました。セツとともに暮らし始めてから日本の文化に興味を懐き、様々な作品を通して日本の魅力を世界的に伝えたい気持ちが感じられます。そしてやがては日本人として『小泉八雲』という名前になり、晩年は大学講師になったんですね。

 

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冬の松江城のお堀を優雅に泳ぐカルガモたち

冬の時期の城下町では、松江城のお堀で泳ぐカルガモたちが見られます。

雪が降り積もる冬になっても悠然にお堀を泳ぐカルガモの群れには魅了されます。カルガモの他にも、スズメ、ジョウビタキ、ヒヨドリ、オカヨシガモ、カワウ、ホシハジロなどの野鳥が見られます。城下町とはいえ、松江城では様々な生き物や植物などの小さな自然が残されていることが伺い知れます。

 

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玉造温泉街

さて、松江の散策を終えたところで、玉造温泉にやって参りました。

玉造温泉は奈良時代初期に開かれた、日本において有数の最古級の歴史をもつ代表的な温泉の一つで、オオクニヌシノミコト(大国主命)とともに国造りをしたスクナヒコナミコト(少彦名命)が発見し、神代のころからあったという言い伝えがあります。その温泉名となっている『玉造』は、三種神器の一つとされる、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)クシアカルダマノミコト(櫛明玉命)によってこの地にて造られたことから、その名前になったと言います。そして、この温泉地にある『玉作湯神社』にはそのクシアカルダマノミコトが祀られ、多くの勾玉や管玉社宝として保管されています。また、江戸時代の松江藩でも、泉質がよく、環境にも恵まれたこの温泉地に別荘が設けられ、藩主の静養でも訪れていたようです。
千三百年の歴史を持つ玉造温泉は、天平時代の書物『出雲国風土記』にも『いで湯に一度入ると容姿が端麗になり、再び入れば万病が治る』と綴られていることから、『神の湯』という別名を持ち、平安時代に入ると京の都にまでその噂が広まり、清少納言作『枕草子』にも『玉造』という名前が登場するほど有名になりました。
川の流れが宍道湖へ至る玉湯川にそって数多くの純和風な旅館飲食店勾玉のお店などが並んでいるのが玉造温泉の特徴でもあり、我々旅行者には魅了させられ、夜の温泉街は、多くの明かりが灯る夜景が清楚かつ綺麗な光景です。その温泉の成分には関節痛や疲労回復、冷え性、動脈硬化症などに効く健康促進だけでなく美肌効果にも期待できるほどの良い成分が含まれていることから、特に女性を中心に人気を博しています。

 

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玉造温泉での夕食

玉造温泉の散策がてらの夕食もこの温泉街ならではの楽しみの1つでもありますが、夕食で食べられる飲食店は少ないようです。また、飲食店は川沿いではなくちょっとした路地に入った所にあったりするので、ちょっとわかりにくかったりします。

そこで、2020年最後の晩餐として『そば富』というお店でいただきました。玉造温泉では、出雲そばや海鮮丼などが美味しいですが、今回は海鮮丼をいただきます。

ビクティニ:やはり山陰の海の幸は飽きてやまない・・・。今年最後の夕食いただきます!

ミュウ:どうせなら出雲そばがよかったけど・・・山陰の海鮮丼は美味しいよね!いただきます!

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玉造温泉旅館のお部屋で年越しを迎える

2020年という年は、例の病気で『緊急事態宣言』が出るなど、未曾有な災いがありましたが、2021年こそ、例の病気に打ち勝つ年になることを祈ります・・・。

ビクティニ:歴史ある温泉でどんな病気にも負けやしない!みんな、最後まで希望を捨てずにかんばろうぜ!そして、東京オリンピック・パラリンピックも無事に終わることを祈ろう!

ミュウ:そうだね!

にょろもう:来年は平和の年になると良いなあ・・・。

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★おまけ★

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旅館チェックイン時にお抹茶や和菓子を提供

我々が玉造温泉の旅館にチェックインした時にお抹茶や和菓子を提供してくれました。こういうのを提供してくれる旅館には頭が下がります・・・。

ビクティニ:お抹茶までサービスしてくれる旅館は素晴らしい!さすが西日本!

ミュウ:縁遠はるばる関東からやってきたかいがあったね!

にょろもう:和菓子も美味しい!

 

『正月旅行 厳冬の山陰旅 大晦日の松江めぐり』をお伝えしました。

正月旅行 厳冬の山陰旅 冬の松江城を観光

皆さん こんにちは。

今回は雪が激しく降る中、松江城を観てきました。

 

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 国宝 松江城

松江のシンボルともいうべき存在感を放つ松江城国宝に指定されています。

松江城は全国における名城の中で現存天守が12箇所しかないうちの1つです。

それらの天守は江戸時代、あるいはその時代以前(安土桃山時代)に建てられたものとされ、当時建築の姿は現在なおも残る非常に貴重なシンボルです。そのうち、慶長16(1611)年に完成した松江城は彦根城や姫路城とともに、近世城郭最盛期を代表する天守であることから、国宝に指定されています。一時期は明治維新以降では城内の建築物等は民間に払い下げ、あるいは第二次世界大戦の最中、数々の城が戦災で次々と消失していった中で、建築当時の状態から残ったお城は全国的に見て12箇所だけ残りました。そのうちの1つである松江城が国宝に選ばれた理由でもあるのです。

ビクティニ:今年の松江城はちょっぴりさみしい・・・。

ミュウ:この後雪が降るものね・・・。

 

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祈祷札

松江城には、通し柱に『祈祷札』が掲げられています。

よく見ると祈祷札に「慶長拾六年」と書かれているので、その当時に建てられたということがお分かりいただけるかと思います。この祈祷札には2階分の通し柱や包板の技法を用いた特徴的な柱構造であることが示されています。すなわち、天守建築においては優れていたものとされていることが分かります。2枚の祈祷札は昭和12(1937)年に城戸博士が天守内で見つかって以来、所在は不明でしたが、平成24(2012)年に松江城敷地内の松江神社で再発見されたのです。この天守が築かれた際、天台、真言の二宗による祈祷が行われたもので、その2枚の祈祷札はそれぞれ地階の2本の柱に掲げられていました。そして、その祈祷札に墨で書かれた「慶長拾六年」「正月吉祥日」慶長16年正月以前に完成した確かなる証であることから、国宝に選ばれた理由の1つでもあります。なお現在、柱に掲げられた祈祷札はレプリカのようです。

 

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井戸

天守内に井戸が設置されているのも松江城の特徴でもあります。

かつては24メートルほどの深さがありましたが、現在はその半分が埋められているようです。松江城天守内に井戸があるのは国内の天守では唯一のものです。

 

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塩蔵

天守の地階には領内から納められた塩を保管しておくためのスペースとして用いられていました。

これは『塩蔵』と呼ばれ、昭和の解体・修理工事の際、塩札が発見された他、生産地で塩俵に添付されていた荷札と思わしき札が36枚、管理用に使われた札も4枚発見されていることから、ここが塩蔵として使われていたとされています。この階は石垣で積まれており、籠城に備えて塩の他に様々な物資が保管されていたようです。このように、倉庫、あるいは塩などを保管するためのスペースとして活用されていた塩蔵は、他に鶴ヶ城(会津城)などで見られます。

 

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石打棚

附櫓入り口上部および地階の南側に石打棚が設けられています。

これは天守に侵入した敵を鉄砲などで迎撃する際、足下を安定させるために石垣の上に設けられた棚上の台で、天守の防御を高めていました。

 

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天守最大柱

松江城は『通し柱』という建築技法が用いられているのが特徴です。

日本名城の建築において至難の業ともいうべき天守の技法の一つで、2階分の柱を階ごとに分散するように組み合わせることで、建物を崩れにくくしています。地階から1階の東西二本の通し柱は包板を持たない松江城天守最大の柱で、先ほどの祈祷札もこの柱の地階に打ち付けられていました。これは天守を支える柱としては一番重要な柱であることを物語っています。

 

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松江城天守の古材に刻まれた刻印

昭和の解体・修理工事において新材に交換する際、不要となった古材に分銅文と『富』の文字が刻まれています。

この分銅文は、この松江城を構築する時に刻まれた堀尾氏の代表的な家紋とされています。この刻印に刻まれた『富』の文字には、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦の後、堀尾氏が出雲国へ入部した際に居城とした富田城(安来市)を意味するという説があります。この古材は天守1階の床梁に使用されていたもので、いかだで運搬されたと思わしき痕跡があることから、松江城構築の際、富田城で使われていた部材を転用したということも考えられています。

 

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鉄砲狭間

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矢狭間

2階には外部から敵の侵入を防ぐために、城内から鉄砲や弓矢を放つため『狭間』という穴が設けられています。

この天守各階360度に設けられたこれらの穴は標的の位置を想定したもので、特に鉄砲狭間は真下や左右の広範囲に銃眼が開いたものが多く、石垣を伝って登ってくる敵を狙うことを前提に設計されています。これは実戦を想定して作られたものとされています。

 

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包板技法

地階から4階を支える柱には、単にそのまま柱を組むのでなく、柱の周囲を小さな板で包むように組み合わされたもので支えられています。

柱の一面のみ、または二面、三面、四面に板を張って組み付けた柱を『包板』と呼んでいます。この天守には総数308本の柱が用いられていますが、それらのうち103本がその技法で使われているのです。板を柱に『鎹(かすがい)』と呼ばれる金具で固定され、さらに鉄輪で締めて固定するという工法が用いられていますが、通し柱に施された包板も二階分まで貫いていないので、各階ごとにこのような技法が用いられているということです。その材木の中には一部粗悪材や柱の割れ目などがある材木も含まれているため、この技法で体裁を整えることで、材木が悪くても、補強効果に期待できたとされています。ただし、この技法が用いられたのは建築時には用いられたものではなく、天守を修復する時に用いられたもののようですが、国内の城の中では松江城が唯一この技法が用いられています。

 

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彫り込み番付

『番付』は木造建築にて建物を建てる時に予め部材につけるための符号で、いわば印付けです。

松江城天守の地階から2階までのいたる所の柱やその根本などに九箇所刻まれているのが確認できます。これらの番付け方法には『彫り込み』『墨入れ』の2種類あります。時間があれば探してみては?

 

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石落とし

敵から守るための仕掛けは穴から弓矢や鉄砲で攻撃する仕掛けの他に、石を落として石垣を登ってくる敵を落とすための『石落とし』という仕掛けも設けられています。

この仕掛けは松江城の天守には四隅、西側・東側、北壁、附櫓の南側の合計八箇所設けられています。また、松江城の石落としは床面に設置されているため、外部からでは見つけにくいという特徴もあることで、効率よく敵の攻勢から防ぐことができたのです。

 

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出雲松江藩の初代藩主 松平直政

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出雲国拝領の歓びを知らせた手紙

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大坂の陣で初陣を飾った松平直政の像

江戸時代前期の大名にして出雲松江藩の初代藩主とされるのが松平直政です。

徳川家康の孫で、結城秀康の三男でありながら、霊元天皇の即位にあたり、将軍徳川家綱の名代として上洛し、宮中に参内されました。14歳で初陣し、上総・姉崎(千葉県)、越前大野(福井県)、信濃・松本(長野県)をへて、大坂冬の陣の真田丸攻めで大活躍し、見事に勝利を収めました。そして、敵将であった真田信繁(のちの幸村)は、その勇姿に軍扇を投げ与え、彼に称賛を送っていたといいます。さらに直政は寛永15(1938)年に出雲松江藩の松平家初代藩主として君臨し、出雲国18万6千石を支配しました。ここまでの経緯をたどってみると、直政はとても勇敢な武将であったということを伺わせます。

 

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堀尾忠氏による松江の築城地を選定する様子
慶長5(1600)年、堀尾忠氏が関ヶ原合戦にて勝利を獲得したのち、出雲・隠岐の両国を拝領しました。その後、彼は月山富田城(安来市)にて出雲国を治めようとしますが、立地や交通の便が悪いなどの問題があったといいます。そこで、統治の改善のため、もともとあった富田城から別の場所として、宍道湖の東側である現在の松江市の土地へ城地移転しました。これがいわゆる現在の松江城として建てられることになります。堀尾忠氏とその親子がこの松江の地に築城する際、松江の城下町を見渡す事ができるようにするため、『亀田山』という小さな山のてっぺんに築城するという検討がされていたと思われます。こうして、その場所に5年の歳月をかけて慶長16年にはじめて松江城が完成することになったのです。そして、堀尾吉晴の孫とされる忠晴(ただはる)初代城主となったのです。

 

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後藤又兵衛所用と伝わる甲冑
松平直政が大坂の陣で激闘を繰り広げていく最中、後藤又兵衛黒田長政の後に豊臣秀頼に仕えていた武将の一人で、彼もその戦の中で戦死しました。その甲冑彼の弟が所持していたものであり、のちに後藤家の親戚にて松江藩士の土岐円大夫家に伝来していたものとされています。兜の前立てには松江藩の合印である『猪の目』がついています。

 

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松江藩で使用した鉄砲と火縄銃の銃弾

松江城の狭間を伝い、敵を攻撃する際に使用された鉄砲の大きさは口径5匁(約1.5センチ)で、銃の長さが1.5メートルほど長い火縄銃が使用されていました。

これは敵を直接攻撃するというよりこの城の防衛のために使用したものと思われます。松江藩では橋南地区の雑賀町に鉄砲を扱う足軽(武家で、ふだんは雑役に従い戦時には兵卒となった者のこと。いわば雑兵)を集住させていたようです。右の銃弾は城北地区で出土された火縄銃の銃弾で、大きさの異なる銃弾には『球型銃弾』『洋式銃の紡錘型銃弾』つぶれたものや銃弾をつくるための鉛の塊も発見されています。これらはおそらく訓練に使用されていたと思われますが、松江藩には砲術の流派が六つあり、城北地区には稽古場があったようです。ここまで訓練がしっかりしているということは、松江藩も相当な強者であったことを伺わせます。

 

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松江城の太鼓

松江城二の丸に『太鼓櫓』があり、毎日登城の時刻を知らせる他、非常呼集の際にも使用されました。

この太鼓は太鼓櫓が解体される時に見つかったものです。廃城後には有志が買い取って阿羅波比(あらわい)神社に奉納されましたが、のちにこの天守内に移動されたようです。かつて使われていた代物が現在でも当時の形のままで現存しているのは奇跡的ともいえますね。

 

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松江城 歴代城主

松江城は、松江藩の歴代藩主の居城です。

初代城主は堀尾吉晴の子にあたる忠氏で、二代藩主は子がいないことから、堀尾家による藩主初代で幕を閉じました。その後、京極氏が入るもそれも初代で終わります。一方、九州では島原・天草一揆が起こるという不安定な世情の中、中国地方において外様大名しかいないため、当時の幕府は徳川家康の孫である松平直政をこの出雲国に入国させ以後233年かつ十代に渡るという長き間出雲国を支配しました。その時の流れの中で、松平家七代目(1751~1818年)の不昧公(松平治郷)松江藩主中興にして大名茶人として親しまれてきたといいます。治郷は家老に朝日丹波郷保を起用し、『御立派の改革』という財政再建策を進めさせ、藩内における債務整理、藩の人員体制、あるいは薬用人参の栽培などによる産業振興策など、松江藩の財政を立て直したといいます。さらに松平家十代目のころより茶道禅学を熱心に学ばれました。特に茶道である茶の湯においては非常に関心があり、様々な流派を見習い、自らの茶道観を極めていたのです。他にも陶芸や漆工、木工など、美術工芸に関しても関心を抱いていました。

・・・なるほど、どうりで松江の城下町は和菓子やお抹茶が有名な所以の一つというわけですな・・・(・∀・)

 

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松江城 廃城の文書

明治に入ると、時代の変化いわゆる『明治維新』という文明開化ともに松江城にも廃城令が下されます。

これは火器類の高性能化および兵制の変化、そしてかつて必要であった城郭ももはや無駄な贅物という理由から廃城になった経緯ともいわれています。これには明治という時代に沿った使い方をしたいという旨を東京の太政官へ伺いを立てたところ、『廃城にせよ』という指示が出たのでそれを心得ることだったのです。すなわち、この文書は伺(うかがい)が認められたものとして、廃城と決定したことを領内に知らせた手紙のようなものですね。

 

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松江城の天守だけでも残したいという想い

松江城も含めて、全国12ヵ所ある天守は、人々の努力によって今日も残されています。

全国の藩主がこれまで領有していた各々の土地および人民を朝廷にもどすべく、明治2(1869)年に版籍奉還という改革が行われ、のちに明治4(1871)年には廃藩置県が下されます。松江城では明治6(1873)年に陸軍省の所轄となり、やがて明治8(1875)年、ついに松江城は廃城となりました。こうしてかつて全国にあったお城は次々と解体、あるいは売却処分されていく中、松江城も例外なく天守を除いた建造物はほとんど処分・解体されていったのです。そして、天守も売却されますが、元松江藩士だった高城権八は出雲郡の豪農、勝部本右衛門親子とともに「天守だけでも残したい」という想いとともに落札高180円を納めて、天守の解体は免れたといいます。ちなみに高城権八は明治22(1889)年の松江市議会第1回選挙にて2級選出議員に選出し、のちに副議長にもなったそうです。

 

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松江城の大修理

明治の大革命とともに松江城のほとんどが解体される中、天守だけが唯一残ったとはいえ、旧藩時代の美しさは失われ、次第に荒廃が進んでいたのです。

そこで、あまりの荒廃っぷりに修理を求める要望が強くなり、天守の登閣料により、部分的に修繕が行われます。さらに島根県知事から松江城天守閣景観維持会が設立、明治22(1889)年には市民の公園にするため、旧藩主松平家に城内が払い下げられ、天守を整備する機会が持ち上がります。暴風雨などで被害を受けても、市民の寄付で何度も修理や補修が余儀なく行われ、令和になってなおも当時のままで残っているということです。

 

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梁の上に立つ柱(通し柱)

天守4階まで来ると、天井には梁の上に柱が立っている骨組が確認できます。

これは柱や梁を逆T字形に組み合わせることで、短い柱を巧みに利用でき、建物の中心に直接負荷がかからない構造になっているのです。このような通し柱構造は途中の階段などでも見ることができます。建築当時は大きな木材の入手が困難であったため、所々に小さな木材が使われていたと思われます。ちなみに階段には桐の木やクリ材などの木材が使われています。これは敵が攻めてきた時にその階段を簡単に外せるようにするため、比較的軽い桐の木が使われていたということだと考えられています。

 

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松江城から見た宍道湖

松江城の天守閣からは宍道湖城下町が見渡せます。

歴史ある天守閣から見る宍道湖の景色はとても素敵です。さらに宍道湖の夕日まで見れれば最高です。霧の中に映える宍道湖もいい雰囲気ですが、この日は未曾有なほどの大雪らしいので、幸か不幸かの天候です・・・。宍道湖は先日に訪れた日御碕と同様、夕日スポットにもなっており、しじみが採れることでもよく知られています。

 

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『千鳥城』という別名を持つ松江城

国宝に指定されている松江城は『千鳥城』という別名を持っています。

それは、このお城を建てる時に『千鳥破風(ちどりはふ)』と呼ばれる三角形の装飾が当時の天守の屋根にあったのではないかという説があるようです。江戸時代の絵図によれば、天守の一部にその装飾を固定するための柱穴の痕跡が発見されました。『千鳥破風』は、屋根に載せるとあたかも羽を広げた千鳥の姿に見えることからその由来になったと言われています。なお、現在の松江城は破風と屋根が一体化した『入り母屋破風(いりもやはふ)』になっています。

 

 

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入母屋破風と千鳥破風の違い
『入母屋破風』は、屋根の裾に沿うように一体化しています。逆に『千鳥破風』屋根の上なら自由にどこにでも取り付けることができるというわけです。いわば、『千鳥破風』は典型的な三角形の装飾と解釈していいでしょう。写真を見ればお分かりいただけるように、現在の松江城の天守の破風と屋根が一体化しているので『入母屋破風』ということになります。すなわち、江戸時代の松江城天守の破風現在のものより小さかったのではないかと推測されます。

 

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松江城 北惣門橋


松江城の大手門から少し歩いた所には『北惣門橋』という木造の橋があります。

松江城への玄関口となった橋で、江戸時代には内堀の東側にあった家老屋敷と城内を結ぶための重要な通路として使われていました。明治に入ると石造りのアーチ橋に掛け替えられ、長いこと『めがね橋』として親しまれましたが、平成6(1994)年には史跡としてふさわしいものにするため、江戸時代当時の木橋として復元されています。また、松江城にある松江護國神社、城山稲荷神社への参拝道としても使われています。

 

 

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松江名物 抹茶と和菓子

松江といえば、和菓子も楽しみの1つです。

こちらの松江歴史館では和菓子がいただけます。他にも自分で和菓子を作る『和菓子作り体験』があり、和菓子の歴史を知りながら実際に自分の手で和菓子が作れます。また、自分で抹茶を点てる『抹茶体験』もできます。

松江は京都や金沢と並ぶほど日本三大菓子、茶処のまちとして有名です。

これには先ほども説明したとおり、松江藩松平家七代藩主・松平治郷(不昧公)不昧流茶道を披露したことで、この松江の地にも、茶の湯文化が浸透したとされています。こうして不昧公が茶会で使われた和菓子や茶道具などは現在でもなお受け継がれ、今日も四季折々のお茶と和菓子がこの松江の城下町で楽しめるのです。歴史館の他にも、月照寺や普門院内の茶室、明々庵などでも和菓子体験和菓子とお抹茶が楽しめます。松江に訪れた際に、おやつやちょっとした休憩などで和菓子をいただいてみては?

ビクティニ:雪が降る中の松江城見学は寒かった・・・。松江といえば和菓子も隅には置けないね。マカロンも美味しいけど、和菓子はもっと好物なんだ。いただきます!

ミュウ:外は雪が降り出してきたね。寒い時にはあったかい抹茶が美味しいね。

 

 

『正月旅行 厳冬の山陰旅 冬の松江城を観光』をお伝えしました。