みなさん、こんにちは。
今回は、群馬県の山奥にある“神津牧場”と“荒船風穴”を見学してきました。
“神津牧場“と“荒船風穴“まで行くには、まず車が必須になります。
とりあえず、JR信越本線で横川駅までやってきて、ここでレンタカーを借りて“神津牧場“と“荒船風穴“まで行こうと思います。
今回は、横川駅から徒歩5分の所にある“おぎのやドライブイン“のすぐ横にあるガソリンスタンドのような所でレンタカーを借ります。
ビクティニ:久しぶりの横川駅だ。ここから神津牧場や荒船風穴までどうやって行くの?
ぐんまちゃん:ここからレンタカー借りていくみたい。
★横川駅から神津牧場へのルート★
ということで横川駅から車を走らせて約1時間・・・神津牧場にやってきました。
ここまで来るのには、下仁田方面からだと国道254号を進み内山トンネル手前で右折します。そこからは狭い山道を進まなければならないため、対向車に注意しながら進みます。一部、柵のない部分もあり、崖側の路肩に落ちたら一巻の終わりなぐらいの酷道で対向車が来ないかかなり緊張しました。所々でクラクションを鳴らしながら進みました。
そして、ようやく見えた放牧地・・・
そう、これが本題の“神津牧場“です。
入り口では放牧場が目の前に広がります。
そして、放牧場にはたくさんのジャージー牛がいます。ここでは早朝から放牧し、草を食べたり自由に日向ぼっこしたり、ジャージー牛を育てています。
神津牧場の周辺マップです。
地図を見る限りでは、ちょうど群馬県と長野県の県境にあります。この牧場は国道254号から林道に入った所にあり、さらには碓氷峠よりずっと南にあります。周りは物見山や御場山などの山々に囲まれ、ここがいかに山深い所にあるかが分かります。
そして、この牧場の近くには“荒船風穴“というスポットがあります。
神津牧場の案内図です。
ここは下仁田ジオパークスポットの1つとなっています。
放牧場に囲まれ、売店や小動物ふれあい広場、鉄板焼コーナー、牛舎、さらには宿泊施設もあるようです。市野萱(バス停)方面へ続く道の2kmほど先は“荒船風穴“があります。
神津牧場の『鉄板焼コーナー』では、ジャージー牛を使った焼き肉が堪能できます。
メニューには肩ロースとかサーロインがあるのですが、今回はサーロイン定食を注文。3,000円はしたかと思います。野菜はもちろん、ご飯や味噌汁もついていて、おかわりもできます。ジャージー牛のお肉がここで食べられるのもいいものです。他にもジャージー牛のお肉を使ったチーズバーガーも提供されています。
ビクティニ&ぐんまちゃん:いただきます!・・・おいしい!
神津牧場では、『ジャージー牛の大行進』が見られます。
ここの牧場では、早朝にジャージー牛たちを放牧し、おおむね午後1時になると放牧場から牛舎へ戻るために移動されます。このようなジャージー牛の大行列が見られるのは他の牧場ではなかなか見られないので、かなり珍しい光景です。日本の牧場で見る牛はだいたい白地に黒斑点模様が一般的なのに対して、ここの牧場では国内においてこれだけ多くのジャージー牛を飼育していることから、国内の牧場としては珍しい例と思われます。
ビクティニ:牛さんたちの行進だ!・・・100頭はいるかも・・・
ぐんまちゃん:これも群馬でしか見れない光景だよ!
神津牧場の売店エリアでは、食事や買い物ができます。
ここでは、先ほどの鉄板焼はもちろん、ソフトクリームを食べたり、売店でこの牧場ならではの乳製品やお土産などが購入できます。
ビクティニ:ここでソフトクリームでも食べようか
ぐんまちゃん:そうだね
神津牧場は、群馬県下仁田町にある牧場ですが、実質上では群馬県と長野県の境界にあるような、いわゆる“秘境の牧場”です。
周囲にある『荒船山』や『物語山』、『物見山』、『御場山』などの山は、火山活動ならびにその後の雨風で削られて形成された地形です。今の神津牧場ができる場所は、大昔の『地すべり』によって斜面ができたものとされています。
そして、その広大な土地を利用し、また高原地帯という環境から、牛を育てるのには適した場所であることから、ここに牧場が設置されました。
神津牧場として創業したのが明治20(1887)年で、『日本最古の洋式牧場』とも言われています。
山奥に広がる草原と林が現在の神津牧場として創業から130年あまり、今でも多くの生き物が暮らす、まさに自然の中に溶け込んだ牧場です。
神津牧場から荒船風穴までは、割りと近い場所にあります。
世界遺産にもなっているスポットと国内最古の牧場がそれぞれ近い場所にあるのは珍しいです。交通の便では行きにくいような場所だからこそ、行く価値があるのではないでしょうか。
神津牧場の牛乳やソフトクリームには、ジャージー牛乳が使われています。
そのため、普通の牛乳より濃厚なミルク感を味わうことが出来ます。
それは、ジャージー種の牛乳は脂肪やタンパク質を多く含んでいるからです。神津牧場で飼育されているジャージー牛は早朝から放牧され、放牧中の牛乳にはカロチンが多く含まれ、製造されるバターは黄色味が濃いのが特徴で、『ゴールデンバター』といわれるほど重宝されているそうです。
ビクティニ:ここのソフトはすごくおいしい!この前に行った北海道の牧場とどっちが美味しいのだろう?
ぐんまちゃん:そりゃまあ、ここ群馬のソフトは北海道にも負けないぐらい日本一さ!
神津牧場では、『ジャージー種』という牛を放牧して育てています。
普段は放牧されていますが、1日2回は『搾乳』が行われます。ここ『牛舎』では、その『搾乳』が行われ、採取されたジャージー牛乳は、そのまま牛乳として、あるいはバターやチーズなどの乳製品として生産されています。このような山奥にある牧場だからこそ、良質な環境で牛が育てられるのです。
神津牧場では様々な体験ができます。
ポニーに乗ったり、乳搾りの体験ができます。
ジャージー牛の乳搾りに参加してみましょう。
ジャージー種の牛は、いわばホルスタイン種と比べて小型なのが特徴で、更に濃いミルクを出すのもジャージー牛の特徴でもあります。神津牧場のように、放牧時に草をたくさん食べさせることで、オメガ3脂肪酸の割合を増すため、牛にとっては良い食事法といわれています。ちなみにこれはあくまで体験用なので、写真の乳は飲めません。
神津牧場には、牛の他にもヤギやウサギも飼われています。
ちょっとした観光牧場って感じですね。
ビクティニ:ヤギやウサギもいる。なんかほのぼのするな・・・。
ぐんまちゃん:まるでハイジの世界にいるみたい。
下仁田町のマップです。
下仁田町は、こんにゃくや下仁田ネギの特産地として有名です。
国道254号が主要道路として長野県へ続いており、かつての関所もあったのです。神津牧場や荒船風穴はもちろん、荒船山などの自然に恵まれています。また、日帰り温泉もいくつか点在しているので、ハイキングや登山を終えた後に温泉に浸かるのもいいでしょう。
先ほどもお話したように“神津牧場“ができたのは明治20(1887)年のことで、神津邦太郎が開設しました。
神津邦太郎は、長野県北佐久郡志賀村(現:佐久市志賀)の農家に生まれ、明治14(1881)年に上京し福沢諭吉の下、慶應義塾にて学び、明治18(1885)年、上海に留学しました。幼少期の時から馬や牛に関心が深く、福沢諭吉の薫陶・父の影響を受けて耕種中心の農業に畜産を導入することで、日本人の体格向上させたいという思いから、ここに神津牧場が開設されました。
開設から2年後にはバターの製造が始まりますが、当時は電気が普及していなかったために、蒸気機関を利用した機械を使っていたようです。こうして邦太郎の努力が実り、ジャージー種を中心とした山岳放牧による生乳生産およびバターの製造に成功します。こうして『神津バター』というブランドのバターは好評を得たものの、経営自体は赤字で大正10(1921)年に田中銀之助にその牧場を譲ることになります。
当時の農家では、田んぼの代掻きなどの農作業と肥料を得るため、牛や馬を飼っていたそうです。また、畜力が不要な時期は、集落の近くや共用林野などに放牧していました。邦太郎は新たに多頭数の牛を飼う場所が近くにないため、山を越えた群馬県にその地を求めたと言います。
この牧場のある地は群馬県に位置しているものの、標高は1,060メートル、彼の実家のあった場所の佐久市志賀は標高731メートルあり、高低差が330メートルしか無いことから、実質長野県寄りにあり、生活圏としては近かったものと思われます。また、長野県側にも志賀牧場や内山牧場などもあったことも影響しているからだと思われます。このように、急峻な地形でありながら、比較的緩やかな地形で、多くの沢が入り組み水が豊富であったことが牛を飼うのにはちょうどよい条件であることが推測できます。
これは木製の『バターチャーン』というバター製造機です。
バターチャーンとは、生クリームを入れてチャーニング(撹拌)することで脂肪球を凝集させてバターを作る機械です。大豆くらいの大きさのバター粒と液体のバターミルクに分け、その粒がいわゆる『バター』になるのです。
先ほども説明した通り、当時は電気が発達していなかったので、この機械を利用してバターを作っていたようです。時代を感じます。いつ頃から使われていたかは不明ですが、邦太郎時代にもこれと同じようなバターチャーンが使われていたようです。しかし、当時の木製バターチャーンでは不衛生であることから、現在では金属製のバターチャーンが使われています。
神津牧場は、群馬県と長野県の県境にある物見山(標高1,370メートル)の東斜面に位置し、その平坦の場所を牧草地として利用しています。
ここの気候は冷温帯であり、植生は落葉広葉樹林帯に属しています。
牧場には、ミズナラやクリ、トチノキ、カエデ、ヤマザクラ、シウリザクラ、ミズキ、サワグルミ、カラマツ、ホオノキ、フジなどの木々が生えています。また、春になると様々な花が咲きます。
また、この牧場は大自然の中にあるため、タヌキやキツネ、クマ、テン、ノウサギ、シカ、イノシシ、カモシカなどの野生動物も現れることがあります。
これらの動物は、牧草を食べたり牧草地を荒らしてしまうことがあるため、牧場側からすると悩ましい存在でもあります。クマは人を見つけると去る、または人目の付かない場所にいるので、それほど厄介でもないですが、問題はシカで人がいようがいまいが牧草地の草も食べてしまうので、むしろシカが厄介者です。
他にも様々な昆虫や野鳥が見られます。運が良ければ野鳥が見られ、春や夏になると鳥のさえずりが聴こえたりするので、牧場の穏やかさを醸し出します。そして、牧場に牛が放牧されている以上、どうしても虫が集まってしまいます。そして、牛は時々フンを放牧場内に落としてしまうため、フンコロガシやセンチコガネなどの糞虫が生息していますが、最終的にはその糞が肥料にもなるので、これらも牧場には無くてはならない存在でもあります。
これは、神津牧場で飼われているジャージー牛についての特徴です。
ジャージー牛はもともとイギリス海峡諸島最大の島ことジャージー島原産の乳用種で、フランスのブルトン種とノルマン種を基礎に改良された種であると考えられています。
日本にジャージー種が導入されたのが1874年のことで、1905年には神津牧場でジャージー牛の飼育を始め、現在に至っています。
世界でジャージー牛を飼っている国は、ジャージー島のあるイギリスをはじめ、日本、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、オーストラリアで飼育されています。
明治期には両陛下も視察のために神津牧場に訪れられたことがあったそうです。
神津牧場から更に奥へ進んでいくと、世界遺産の“荒船風穴“があります。
駐車場からは徒歩15~20分ほど歩いて行きます。
荒船風穴へは下り坂が続きます。
いろは坂のような道を下った先に荒船風穴が点在しています。
入り口までの途中で岩穴が点在しています。
この穴から天然の冷風が出てくる場所であり、ここに手をかざすとかすかに冷風が感じられます。夏場に来るとより冷風が感じ取れるかと思います。
荒船風穴は、群馬県甘楽郡下仁田町南野牧屋敷にあり、群馬県と長野県の県境にそびえる荒船山(標高1,422メートル)の北麓の標高830メートル地点に位置しています。
ここは真夏でも岩石の間から吹き出す冷風が温度を一定に保つことから、地元では『氷穴』とも呼ばれています。そのため、ここは古くから蚕種(蚕の卵)を貯蔵するのに適した場所とされています。
明治37(1904)年のこと、当時在学していた高山社蚕業学校の庭屋千壽(にわやせんじゅ)がこの場所に注目し、数度の踏査をかねて蚕種貯蔵を行う上で適した場所であることから、父の静太郎(せいたろう)に報告しました。そこで静太郎は完全な蚕種貯蔵庫を設置するため、専門家を訪ね資本金5千円(当時の金額)で明治38(1905)年に起工しました。これが後の貯蔵能力が『日本一の風穴界の覇王』こと『荒船風穴』の始まりとなるのです。
風穴利用以前は、蚕種を奥屋敷の天井などに蚕種紙を吊るして保存し、春になると日当たりの良い部屋に蚕種紙を出して孵化させる自然保護でしたが、1年を通して冷涼で温度変化の少ない山間部の風穴を利用することで、蚕種保存技術は格段に進歩しました。そして、それまでは春蚕中心で年に1回であった養蚕が風穴を利用した蚕種保存によって、農閑期となる夏秋蚕まで拡大し、後に養蚕回数が2・3回へと増えていきます。こうして明治以降の繭増産は、いわば風穴による産業の進歩の1つと言ってもいいぐらい世界遺産に登録されています。
これは明治43年当時の荒船風穴の写真です。
写真を見ればわかるように、蚕種を貯蔵していた場所であることがわかります。その冷風を利用することと安定した温度変化によって蚕を保管していたということですね。
荒船風穴が世界遺産としての価値があるのには、日本の産業に貢献した経緯があるからです。
というのも荒船風穴は”富岡製糸場と絹産業遺産群“の1つとして数えられ、長い間生産量が限られていた生糸の大量生産を実現した『技術革新』ならびに世界と日本との間の技術の『交流』を主題とした近代の絹産業に関する遺産の1つでもあります。このように絹の大量生産技術は、もともと一部の特権階級のものであった絹を世界中に広め、ぞの生活や文化を更に豊かなものに変えていったのです。
こうした富岡製糸場と絹産業遺産群に関係のあるスポットは、ここ荒船風穴の他に、田島弥平旧宅や高山社跡もあります。
荒船風穴は、かつてここに蚕種貯蔵所があった場所です。
ここにあった主な施設でいうと、蚕種貯蔵所をはじめ、番舎(管理棟)、作業小屋、物置、さらには作業道、石段や土留め石積み、空中の送水管、貯水槽、池とそれを結ぶ土管がそれに当たります。今残っているのは蚕種貯蔵庫のあった石積みと池、土留めの石積みのみです。
これが、蚕種貯蔵庫があった場所こそ世界遺産の“荒船風穴”です。
見ての通り石垣のように石積みで積まれており、その隙間風を利用して通気性を良くしていたことが想像できます。というのも、蚕が孵化してしまうと『蛾(が)』という成虫になってしまうからなのです。そうなると富岡製糸場で生産される生糸の材料として使い物にならなくなります。それを防ぐために、その風穴を利用して蚕種貯蔵庫としてここに繭を保管していたということですね。もっとも明治期はまだ電気が普及していなかった時代だったこともあり、保管する場所が限られていたために、当時通気性の良かったこの風穴こそが保管するにふさわしかったと思われます。
荒船風穴には1号風穴・2号風穴・3号風穴の床面を有しています。
ここでは明治から昭和初期にかけて天然の冷風を利用し、蚕種を貯蔵していました。しかも、全国一の収納量を誇り、その取引先は全国はおろか海外にも及んだそうです。この自然の地形を活かした構造によって繭を保管していたということですね。
これは蚕虫が卵を産み付けるために使用した『種紙(蚕種紙ともいう)』です。
この種紙を低温で貯蔵することで、孵化の時期を遅らせることが出来たのです。この工夫によってこれまで年に1回しか出来なかった養蚕が夏や秋にもできるようになったと言います。
荒船風穴には、かつて3基の貯蔵所があり、そこに冷風が今でも吹き続けています。
現在は地下構造にあたる石積部分が残っていて、かつては土蔵式の建物が石積みを覆うように建ち、地下2階ならびに地上1階の三層構造になっていました。これは別の日に富岡製糸場へ訪れた時に撮影した荒船風穴の模型の写真ですが、上の写真を見れば分かるように、冷風を貯蔵庫内に送り込むことで、夏場でも急激な温度変化に影響されず、種紙を出し入れすることが出来たのです。
荒船風穴には先ほども述べたように、3箇所の風穴があり、それらの穴に冷風が吹き付けているのです。
このように、電気のなかった明治期において、自然の地形を活かして産業に貢献できたということを考えると、まさしく世界遺産ならびに富岡製糸場と絹産業遺産群に登録された理由も十分にうなづけます。
当時経営者であった庭屋静太郎の息子こと千壽が、高山社蚕業学校に在籍中、この場所に冷風が吹き付けているのを着目し、調査の結果、蚕種貯蔵するのには適した条件であることが判明しました。同時に養蚕、気象、土木などの技術者たちを招き、明治38(1905)年9月に1号風穴が起工。続いて明治41(1908)年に2号風穴、大正3(1914)年ごろには3号風穴を建設。こうして3基の風穴を合わせた蚕種貯蔵枚数は約110万枚に及びました。
風穴には番舎(管理棟)が設けられ、ここから7kmほど離れた庭屋静太郎の自宅には『春秋館』という事務所が置かれ、その間には私設電話も引かれていたそうです。蚕種の輸送にあたって、上野鉄道(現:上信電鉄)で下仁田まで、そこから春秋館まで馬車または自動車、春秋館から風穴までは人や馬で運んでいたのです。規模ならびに冷蔵の能力に優れ、通信や輸送の近代技術を利用することで、38都道府県より蚕種貯蔵の委託があり、全国的に繭の増産に大いに貢献しました。同時に富岡製糸場が進めた繭品種の改良ならびに統一運動にも協力。そして、電気が普及すると電気による冷蔵技術が発達した昭和10年頃にはその役目を終えますが、当時は電気がなかった時代だったからこそ、“富岡製糸場と絹産業遺産群”としての価値が認められ、日本の産業を支えた世界遺産の1つとなっているのです。
蚕種貯蔵所の地下1・2階には繭を保管するための貯蔵庫、地上1階では究理室として使われていたそうです。
貯蔵庫の石積みには、自然岩塊や割り切った岩塊を石材として使用し、岩塊層空洞部から吹き出す冷風を取り入れやすくするため、空洞前や石積みの隙間を大きく残すという独特の方法で積まれていたそうです。
番舎に使われる水は、北側の沢から高低差を利用し、さらにはブリキ管を通して貯水槽に運ばれます。さらに土管によって南側の池と東側の作業小屋に分配され、生活用水や作業用水として利用されました。作業小屋内にも貯水槽が設けられ、寒中に自家製の蚕卵紙(蚕卵を産み付けた紙)を水につけて洗浄する作業にもその水が使われていたそうです。
同じ風穴でも、位置によってはわずかなばらつきがあります。
しかし、いずれも1年を通しての温度はほぼ同じです。案内板の下の記録表によると、冬季は零下になるほどの温度で、夏になっても10℃を超えないほどの温度に保たれています。これも自然が引き起こす冷風のおかげともいえるでしょう。いずれも看板の前に立っている時の温度より風穴内の温度の方が低いということを考えると、風穴の温度変化がほとんどないことが伺えます。
風穴の近くには、このような岩石の隙間が点在しています。
その穴から冷風が吹いており、その穴に手をかざすと冷風が感じ取れます。訪問時は11月だったのであまり冷風は感じませんでしたが、夏にくるとより冷風が感じ取れるかと思います。
上の全景の写真が現在の“荒船風穴”の全景で、下の写真は創業当時の風穴に蚕種貯蔵庫があった頃の大正期の写真です。
当時の写真を見てみると、右から1・2・3号の風穴を覆うように貯蔵庫が並び、その上を送水管が通っているのが分かるかと思います。さらに写真奥には番舎や物置、斜面には作業小屋も写っています。こうして現在の写真と当時の写真を比べてみると、その3つの風穴が『蚕種貯蔵庫』として使われた経緯を物語っていますね。
ビクティニ:大昔にここが養蚕場だったと思うと、大いに日本の産業を支えてきたことが分かるよ・・・。
ぐんまちゃん:しかも、ここは秘境にありながらここで産業を営んでいた遺構を見ると、まるでジブリの天空の城ラピュタにも似ているよね・・・。
かつては荒船風穴で育てていた養蚕も、下仁田町では養蚕が行われている農家さんもいるようで、今でも下仁田町内で養蚕が行われています。
これは下仁田町歴史館で養蚕の展示が行われていた写真です。まず、農家で桑の葉を食べさせて蚕を育てます。すると2週間ほどで蚕が繭になります。繭になってから1週間ほどで成虫いわゆる『蛾』になるのです。当時の養蚕産業では、その成虫になる前に熱もしくは冷蔵で『殺蛹』をしてからそれら繭を生糸生産のために製糸場へ運ばれていくのです。メスは1匹につき約500個ものの卵を産むそうです。
もっとも昭和62(1987)年には富岡製糸場は操業停止しましたが、安中市にある碓氷製糸場では今でも生糸の生産が続けられています。
休憩所でも冷風体験スペースが設けられ、ここでも実際の風穴からの冷風を体験できます。もちろんこの穴も天然の風穴なので、そばにいるだけでも温度の感覚で冷たい風が送られてくるというのを肌で感じ取れるかと思います。
帰りがてら、途中のドライブインにて下仁田名物こんにゃくの試食もしました。
下仁田町では、世界遺産で有名となった”荒船風穴”や日本最古の牧場“神津牧場”といったスポットをはじめ、こんにゃくや下仁田ネギといった群馬ならではの特産品の生産が行われています。下仁田に来たら当時の歴史に思いを馳せたり、こんにゃくを現地で食べたりするのもありなので、是非お出かけの際に参考にしていただけると幸いです。
ビクティニ:下仁田のこんにゃくは美味しい。まるで田舎の実家に帰ってきたかのような味・・・。
ぐんまちゃん:下仁田のこんにゃくは美味しいだろう?ここのこんにゃくは群馬県を代表するソウルフードなんだ。「美味しい」って言われると嬉しい。
ということで、『日本最古の西洋牧場“神津牧場”&群馬の秘境にある世界遺産“荒船風穴”を見学してきた』をお伝えしました。