皆さん、こんにちは。
今回は宮沢賢治ゆかりの地の1つとされる『小岩井農場』に訪問しました。
岩手山の朝日とともに新しい1日が始まります。東北の朝日はとても清々しく、あたかも心がリセットされるような気分です。
朝食の量もちょうど良く、洋食と和食のバランスがいい感じです。
ビクティニ:やっぱり、東北のごはんは美味しいね。さすがぼくのふるさと!
ミュウ:今日も暑いから水分はよく摂らないとね。
ゴンベ:今日は小岩井農場で散策っぺね。バーベキューやソフトクリームが楽しみだっぺ!
にょろもう:ぼくは涼しいところに行きたいな。
ということで、朝8時半にホテルを出発し、小岩井農場まきば園にやってきました。
牧場のテーマパークといった感じですが、マザー牧場のような華やかさはないにせよ、落ち着いた印象のある牧場で、岩手山山麓の大自然に囲まれています。
小岩井農場まきば園は朝9時から開園されます。
ビクティニ:さあ、小岩井農場に到着!もうすぐ開園するはずだ・・・。しかし、日向にいると暑いなあ・・・。
ドレディア:早くひまわり畑が見たいわ。
さあ、ホテルの特典でもらった入場券で入場します。宿泊した雫石プリンスホテルから小岩井農場までは車にて10分で行くことが出来ます。そのうえ、ホテルのプランによっては小岩井農場入場券付きという特典があるので、朝から小岩井農場で遊びたい人にはとてもおすすめです。ちなみに盛岡市内から車でのアクセスは約30分です。
ちなみに入場料は大人800円、子供300円です。
なお、入場する際、PCR検査を受けた上での入場になります。
小岩井農場はとても広大な敷地を持ち、面積は全体的に見ても、3千ha(ヘクタール)の広さを誇り、なんと東京ドーム640個分の広さです!
そのうちの40haは観光牧場の敷地となっています。
実は、宮沢賢治もこの小岩井農場をこよなく愛し、数多くの作品が残されているといいます。中でも心象スケッチとして描かれた『春と修羅』は大正期の小岩井農場の風景をそのまま活かした作品として有名で、当時の風景を後世に残す作品の1つです。また、小岩井農場の周辺には一本桜が生えており、春には桜の開花と岩手山の農場風景が楽しめます。
ビクティニ:まさに大自然に囲まれた牧場って感じ。岩手山も見える!
ミュウ:ちょっと雲が被ってるけどね・・・(^^;
にょろもう:やっぱり外は暑いよ・・・。
ポンチョピカチュウ(ビクティニ):晴れていてよかったけど、暑いかも・・・。
ゴンベ:ソフトクリーム食いたいっぺ~。
ドレディア:丘の向こうにひまわり畑が見えるわよ!
夏の小岩井農場でも、多くの花々が彩りを見せてくれます。去年に行った北海道の富良野を思い出してしまいました・・・。
明治24(1891)年に創業した小岩井農場は『歴史的建造物』の宝庫でもあります。
上丸牛舎では、小岩井農場における『酪農発祥の地』になっています。牛舎群をはじめ、倉庫や事務所、サイロなどこれら6棟の歴史的建造物は近現代における進歩的な象徴であり、『我が国における近代農業の発展過程を知る上で重要』と評価されたことから、『国の登録有形文化財』に登録されました。
また『酪農』が盛んで、主に牛乳や生乳、チーズ、バターなどの乳製品が作られ、時代の進歩とともに品種を改良し、現在でもなお良い品質かつ安心・安全な乳製品が今日でも生産され続けています。なんでも、意外なことにこの小岩井農場が日本の酪農において近代酪農の先駆けとなった、いわばパイオニア的な存在なのです。
この農場で育てられている乳牛は、こちらの牛舎にて飼育されています。
明治期にはオランダから輸入された『ホルスタイン種』が飼育されていましたが、後に品種改良を続け、種畜の生産供給(ブリーダー)事業を行なわれると、本格的な牛乳やバターなどの乳製品の生産が始まりました。現在、この農場で飼育されている約2千頭の乳牛はすべてこの農場で生まれ、明治期代々から続けられてきた『土作り・草作り・牛作り』によって健康的な乳牛が飼養されています。
小岩井農場で作られた牛乳には、明治期から代々続けられた品質の結晶が詰まっています。
この牛乳は小岩井農場における酪農事業の生乳生産から製品加工までの工程で一貫体制の優位性、小規模な生産ながら『質の高さ』や『こだわり』、『本物志向』という要素がつまっており、自然の風味がしっかり生かされているのです。
ゴンベ:この牛乳、いつも飲む牛乳とは違うほど美味しいっぺ~!
牛舎群の中にある2号牛舎はもともと病蓄用の牛舎として明治41(1908)年に建てられましたが、大正8(1919)年に現在の場所に移設され、母牛が子牛を分娩(ぶんべん)するための牛舎として使用されています。2階建ての木造建築に切妻造、下見板張がまさに当時の歴史を物語っています。
2号牛舎で誕生した乳牛は1年と4ヶ月間育成され、餌づけとともに妊娠・出産され、出産してから約330日後には搾乳されます。それを終えた後、約80日間搾乳された乳を母牛に飲ませ、次の出産に備えます。このサイクルが繰り返されますが、要らなくなった牛は・・・なんと牛肉になってしまいます・・・(かわいそうですが、我々の食卓としては生かされています)。
乳牛を育てる上では重要なもので、牛の体重測定や爪切りを行っていた施設です。足を痛めると牛の健康状態に支障が出るため、蹄の爪切りは欠かせなかったといいます。
3号牛舎は昭和10(1935)年建築と比較的新しいものですが、これは明治期に建設された旧1号・旧3号牛舎の木材を再利用して建てられました。
かつては種牡牛の飼育も行われていたことから、多様な飼育室を設けられていたのはその名残だといいます。現在は牛舎1階が子牛の養育場に使用され、月齢ごとに飼養されているため、それぞれ管理方法が異なりますが、ガイドの方いわく「第3牛舎で飼われている子牛はとても優秀」とのことで、今日も高品質な乳製品が作られているのは、まさにこの牛舎のおかげといっても過言ではないということなのです!また、この農場においては一番大きな牛舎で、今でも『歴史的建造物』が『牛舎』として活用されていることから、『重要文化財』にして『生きている遺産』としても称されているといいます。
1号牛舎は昭和9(1934)年に建てられ、当時最新鋭であった『スタンチョン式牛舎』が特徴的です。
もともとは産室を併設した授乳用の牛舎として建設されましたが、現在は搾乳用として使用されていいます。1階は牛舎で、最大68頭の牛を収容できます。2階は乾牧草貯蔵用の倉庫になっており、風通しを良くするため、窓や出入口などの開口部は大きくあります。また、生乳にアンモニア臭がうつることを防ぐため、暑さに弱い乳牛が過ごしやすいよう工夫されています。これは場主であった岩崎久彌の命から『30年後でも恥ずかしくない牛舎を』という思想が込められているからなのです。さらに『スタンション式』の構造を採用することで、雪が落ちやすいような構造になっています。これらの工夫の観点から、小岩井農場の歴史を示す重要文化財の1つにもなっているのです。
小岩井農場で搾られた生乳は、こちらの『ミルク館』にてバターやチーズ、あるいはヨーグルトなどの乳製品が製造されています。
この日は、チーズが作られていますが、チーズの作り方をざっと説明すると、搾取された生乳を約30分ほど加熱処理させ、除菌します。次に加熱処理された生乳を『レンネット』という凝乳酵素を加えて固めます。固まったらワイヤーでサイコロ状にカットし、チーズのもととなる『カード』から乳清が抜けるよう数時間混ぜます(乳清は子牛の飲み物として再利用されます)。カードを1箇所に集めて重石を乗せてさらに乳清搾取し固めます。今度はカードを丸くするため、型に押し込み機械で圧搾して約4時間反回転させながら遠心力で更に搾取して固めていきます。圧搾したら冷水で冷却、塩水に浸して加塩します。表面の水分を拭き取り、厳しい検査のもと、本熟成させたら・・・熟成チーズの出来上がりになります!
なお、『ミルク館』ではソフトクリームやチーズ、ヨーグルトの試食やその場で召し上がれますが、あいにくの例の病気のせいでやっていないようです・・・orz
農場内にはかつて走っていた『D51型蒸気機関車』のナメクジ型(1次形)が静態保存されています。
後ろのブルートレイン客車2両は宿泊施設になっているようです。この機関車は北海道で活躍したもので、SLが引退する昭和50(1975)年12月まで活躍された後、昭和52(1977)年に小岩井農場に保存されているようです。蒸気機関車が小岩井農場に聳え立つ姿を見ていると、あたかも『銀河鉄道の夜』を連想させてしまいます。
ビクティニ:こんなところにSLがあるなんて思わなかった。それにしても、この農園に保存されているD51はたくましく見えるね・・・。
ミュウ:ずいぶん古いSLだね・・・。農場にSLは結構似合うかも。
小岩井農場には鐘が設置されています。
昔は始業時間や終業時間などを告げるために使われていました。この鐘の音は『耕耘部の方から西洋風の鐘が鳴る。かすかだけどもよく聞こえる』というように宮沢賢治の作品にも登場しています。当時の思いを馳せる鐘の音は今でも聴くことが出来ます。
小岩井農場ではミニゴルフやアーチェリーなどのアクティビティも楽しめます。ミニゴルフをしましたが、私以外にやっている人はいなかったようです。
この農場には馬がトロッコを牽く鉄道馬車こと『トロ馬車』があります。
馬車鉄道は明治から昭和にかけて全国的に広がった交通手段の1つで、かつての小岩井農場においては飼育餌や生乳などの物資輸送などで使用されました。
広大な小岩井農場に馬車鉄道が敷かれたのは明治37(1904)年のことで、当時あった農場本部から先程の上丸牛舎までの3.6kmが敷設されました。後の大正10(1921)年に旧国鉄橋場線(現:JR田沢湖線)が開通されると、汽車で行けるようにするため、農場本部から小岩井駅までの2.5kmが延伸、それまで農場から盛岡駅までの交通手段が馬車だったのが、小岩井駅までトロ馬車で行けるようになったといいます。しかし、昭和30年代になると、自動車の普及とともに長年親しまれていた『トロ馬車』も昭和33年に姿を消すこととなりました。
現在『鉄道馬車』が残っているのはここと北海道の開拓村のみ現存する非常に貴重なものです。小岩井農場で動かしているトロ馬車(馬車鉄道)は『観光資源』として復元されており、牧歌的な風景とともに当時の面影を残す馬車鉄道を楽しむことが出来ます。全国的に珍しい鉄道馬車で昔の小岩井農場を想わせてみるのもいいでしょう・・・。
なお、出発時刻は特になく、お客が乗ると出発します(大人500円 子供400円)。
ビクティニ:お馬さんがSLみたい
ミュウ:機関車に見えるかもね・・・。
★馬車鉄道の様子★
小岩井農場の夏花といえば、向日葵です。農場の一面に咲く向日葵はまさに夏の風物詩です。去年の北海道旅行に見た向日葵畑を思い出しますね・・・。
ビクティニ:ひまわり畑だよ!夏の牧場といえばやはりひまわり畑だね。
ドレディア:きれい・・・。夏の牧場にひまわりは素敵ね。
宮沢賢治は、何度も訪れるほど小岩井農場をとても愛していたと言われていますが、心象スケッチて描かれたとされる『春と修羅』の詩の中に含まれる『小岩井農場(パート1)』の中には当時の農場を舞台とした詩や童話を書いたといいます。そして、『小岩井農場』という詩は591行という最長の詩で、賢治の思想がよく現れています。
すみやかなすみやかな万法流転のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だろう
宮沢賢治
これは季節の循環を踏まえ、万物の生命が明滅する中で、小岩井農場の姿が時代の流れとともに変貌していく姿に力を得て、賢治の『あたらしくまつすぐに起て』というように自らを励ます契機になったのです。この石碑に描かれている碑文は賢治の親友である森佐一宛の手紙の封筒に書かれていたものと思われます。
上丸牛舎まで歩いてみると巨大なサイロが2つ現れます。
これらのサイロは明治41(1908)年に建てられ、トウモロコシや葉、茎などを粉砕し、ここで飼料を作るための施設です。いずれもレンガ造りで、青草を与えられない冬場でも飼料を確保できるようにするため、『サイレージ』という発酵飼料を作っていました。これらのサイロは昭和50年代まで使用され、日本に現存するサイロとしては最古のものです。
農場の本部事務所です。明治36(1903)年に建てられた木造平屋づくりで、玄関ポーチの円形の垂れ飾りがついた鼻隠しと、重厚な扉・窓枠・窓台などが施されているのが特徴的です。
周辺の樹木が小さかった当時は望楼部分から農場全体を見渡すことができ、宮澤賢治が書いた『小岩井農場』という詩の中に『本部の気取った建物…』と詠まれました。小岩井農場の中枢として担い続ける現役の事務所で、小岩井農場に関する資料や実際に使われた備品などが展示されています。
小岩井農場に現存する歴史的建造物は牛舎やサイロ、各倉庫群などを含めると21棟あり、これらの施設は『国の重要文化財』に指定されています。
明治末期から昭和初期にかけて建てられたこれらの『小岩井農場施設』は酪農から畜産、生産技術や生産加工における試行錯誤・開発のパイオニアの結晶であり、その過程を物語る上では片付けられない貴重な遺産なのです。また、全体的に美しい風貌を放つ小岩井農場は宮沢賢治の作品舞台となった岩手県内の7箇所の国指定名勝『イーハトーブの風景地』の1つにもなっています。
小岩井農場では、山麓館やバーベキュー食堂で昼食を楽しめます。最初は山麓館で昼食にしようと思いましたが、山麓館の方は結構混んでいるようだったので、外でバーベキューを楽しむことに。
バーベキュー食堂では受付にて食券を購入して注文する形式のようです。私はラム肉をはじめ、野菜焼き、ご飯定食、海鮮焼きをいただきました。
ビクティニ:小岩井農場といえばバーベキューに限るよな~♪
ゴンベ:おお!これを待ってたっぺ~!いただきますだ~!
ミュウ:お肉だけじゃなくて野菜も食べなきゃね!
にょろもう:ホタテやエビも美味しそう♪
このあと、ソフトクリームもいただきました。
ゴンベ:濃厚なミルクの風味が最高だっぺ~♪
乗馬もしてきました。普通の馬とポニーの2つコースがありますが、ポニーは子供しか乗れないようです。お馬さんに乗ってみるのもまた牧歌的な気分です。
さて、小岩井農場の歴史と文化、アクティビティを十分に満喫したところでJR盛岡駅に戻り、ここからJR花輪線を通り、弘前へ向かおうと思います。
ビクティニ:ここから花輪線で弘前に向かうのか・・・。列車本数としてはかなり少ないみたいだな・・・。
ミュウ:しかも乗り換えが結構遠いね。駅の入口からも遠いし・・・。花輪線は銀河鉄道線と同じ乗り場みたい。
盛岡駅からIGRいわて銀河鉄道線とJR花輪線のりばは東北新幹線や東北本線などの在来線のりばからはかなり離れたところにあります。
盛岡以北の旧東北本線は平成14(2002)年に東北新幹線が八戸まで延伸された際、IGRいわて銀河鉄道という第三セクターに移転されたため、JRの在来線とは打って変わってかなり簡素な改札口です。
ビクティニ:まるでどこかの田舎駅みたいな入り口だな・・・。なんかJRの改札口とは思えない・・・。
ミュウ:地元の人ならこの駅で乗り換えるのには大変かも・・・。
15:06 盛岡駅出発 JR花輪線 普通列車 大館行に乗車。
JR花輪線の列車はキハ110系というディーゼル列車で運行されていますが、途中までIGRいわて銀河鉄道線の線路をしばらく進みます。途中の好摩駅ではIGRいわて銀河鉄道線と分岐されます。
JR花輪線は好摩駅と大館駅を106.9kmで結ぶローカル線です。
この路線も磐越西線や陸羽東線、北上線など、奥羽山脈を横断する東北のローカル線の1つで、かつては『ハチロク』こと『8620型蒸気機関車』が活躍していました。
★詳しくはこちら↓★
ビクティニ:天気が良ければ岩手山が見れるよ!
ミュウ:のどかだね~。
花輪線の難所といえば、松尾八幡平(当時の岩手松尾)~安比高原(当時の竜ケ森)の竜ケ森越えは7kmも続いた峠の難所の1つで重連でハチロクが牽く貨物列車の姿は圧巻だったことでも有名でした。
岩手県から秋田県に入り、だんだん山深くなっていきます。沿線には『湯瀬温泉』や『大滝温泉』などの温泉地があり、鉄道旅で温泉を楽しんだり、あるいは温泉宿に宿泊しながら鉄道旅を楽しめます。
ビクティニ:こんな山深いローカル線を通るのはまた面白い。沿線の温泉宿も泊まってみたいかも?
ミュウ:森の中を進んでいるみたい・・・。
JR花輪線は途中の『十和田南駅』が『スイッチバック構造』になっているのが特徴です。
なぜこのようにスイッチバック構造になっているのかというと、ここから先に小坂方面に鉄道を伸ばすという計画があった名残のようです。
実は、このJR花輪線はもともと『秋田鉄道』という民間鉄道として大正9(1920)年に敷かれたものなのです。当時のこのあたりは鉱山で栄えていた界隈で、この花輪線も前身は鉱山鉄道として敷かれたものと思われます。一説によれば、現在の十和田南駅を中央駅とし、鹿角方面を南線、小坂方面を北線とするという計画でした。当時は鹿角には『尾去沢鉱山』、小坂には『小坂鉱山』といい、これは秋田県を代表する2つの鉱山が存在し、それらの鉱山を鉄道で結ぼうとしたのがその名残と思われます。結局は南線(現在の花輪線)のみの着工・開業となり、延伸先の地域住民の根強い反対や多額の建設コストをかけての工事を続けていたことから北線(小坂方面)が着工されず、このような形で現在に至っています。
スイッチバックとは、列車の進行方向を転換させるためにわざと線路をジグザグ状に設置した構造のことです。
これは車両の退避を行うために設置されたり、あるいは峠越えする際、高低差を稼ぐためなどに使用される方式の1つです。例えば、花輪線のように終点への進行方向とは逆方向に車両を進ませ、通ってきた線路とは別の線路へ進ませることで『スイッチバック』という構造になります。この写真だと、盛岡方面から来た十和田南駅の終点への進行方向に対して左側の線路が大館方面への線路になります。
なお、十和田南駅は名前の通り十和田湖への最寄り駅であり、かつてはここから十和田湖を結ぶ路線バスが運行されていたようですが、やはり立地や環境だけに平成15(2003)年には廃止されたようです(当時は急行もあったが路線バスの廃止とともに廃止)。
ビクティニ:スイッチバックの駅があるのは珍しいな。名前からしていかにも十和田湖の最寄り駅のようでなんか寂れているようだ・・・。蒸気機関車も走っていたということは、昔はここに転車台とかもあったはず・・・?
ミュウ:やはり辺鄙な場所にあるからなのかな・・・?それとも本数が少ないから・・・?
十和田南駅を過ぎると、徐々に平地になっていきます。午後3時に盛岡駅を出発してから約3時間で18:12に大館駅に到着します。
ビクティニ:東北のローカル線としては結構長かったな・・・。大館駅に着く頃には日が暮れてきた・・・。
ミュウ:森の中をゆくローカル線の旅もまた楽しいね。
18:12 大館駅到着
18:14 JR奥羽本線 普通列車青森行に乗車
大館駅ではJR奥羽本線に乗り換えます。先程まで通ってきた花輪線とは対照的に電車ですが、やはりロングシート(笑)
ビクティニ:流石に3時間も列車に乗っているとちょっと疲れてくるかな・・・。
ミュウ:まあまあ、もう少しで弘前に着くから頑張って・・・。
JR奥羽本線で青森方面へ進んでいきます。青森県に入る頃にはすっかり日が暮れてきました。実は昔の奥羽本線もSLの難所があったことでも知られ、中でも『矢立峠』が最大の難所だったと言われています。
ビクティニ:あたり一面暗くなってきた・・・。旅情はたしかに感じるけれど、ちょっとさみしい・・・。
ミュウ:でもそんなに密になってないからちょうどいいんじゃないかな。
18:57 弘前駅に到着。
弘前に到着したのはもう夜になってしまいました。
ビクティニ:弘前に来たのはこれで2回目だね。『ようこそ弘前へ』という歓迎も久しぶり・・・。『弘前さ よぐ来たねし』の津軽弁も・・・。
ミュウ:でも相変わらず改札はICカードが使えないね。
作者:長距離移動だったからか疲れた・・・。
青森といえばねぷたです。
ねぷたは津軽地方に伝わる伝統工芸品の1つで、弘前駅ではねぷたのモニュメントが飾られています。ちなみに8月には『ねぷた祭り』が開催されるのですが、今年は例の病気ということもあってか、残念ながら今年度のねぷた祭りは中止になっているようです・・・。
ビクティニ:青森のねぷたはいつ見ても素敵だけど、今年はやらないのは残念・・・。
ミュウ:『疫病退散』って書いてあるよ。例の病気が早く終息するといいよね・・・。
夕食は弘前駅前にあるイトーヨーカ堂の洋食屋さんにていただきました。ちなみにちょうどこのお店に入った時間がラストオーダーだったので、本当にぎりぎりでした・・・。
ビクティニ:たまにはファミレスもいいかも・・・。僕の好物のオムライスだ!いただきます!
ゴンベ:いただきますだ~!
20:00頃、ホテルに到着。弘前の町並みの至る所に金魚のねぷたが吊るされています。ちょうどこの時期は『ねぷた祭り』の季節なのですが、今年度のねぷた祭りはないようです。そのかわり、夜の弘前に金魚のねぷたが光る幻想的な光景が見れました。
さて、明日は岩木山へ登山に行きます・・・。
北東北浪漫 みちのく紀行 4日目 おわり
5日目へ