ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

尾瀬と銀河鉄道の旅PART3 七日町観光&喜多方ラーメン SLばんえつ物語号で銀河鉄道の夜

みなさん、こんにちは。

今回は、会津の絵ろうそくの絵付け体験をし、喜多方ラーメンを食べて、SLばんえつ物語号に乗車します。

 

芦ノ牧温泉の旅館から見る風景

朝の芦ノ牧温泉の風景です。

この日は、会津を観光してSLばんえつ物語号に女湯車する予定なのですが、残念ながら天気が雨のようです。

ビクティニ:みんなおはよう・・・・。この日は予報通りに雨か・・・・。

ヤドキング:残念だな。この日は鶴ヶ城に行こうと思っていたが・・・・。

ムーミン:こんな天気なら喜多方ラーメンでも食べようか。

ぐんまちゃん:調べてみたら『七日町』というエリアで絵ロウソクの絵付け体験があるみたい。こんな天気だったら室内で伝統工芸の体験なんかもいいんじゃない?

ビクティニ:それもいいね。どうせならぼくのイラストで絵ロウソクに・・・。

 

芦ノ牧温泉の旅館で朝食

芦ノ牧温泉の旅館での朝食です。結構豪華な器に料理が入っていて素敵です。また、温野菜や味噌汁、ご飯も美味しかったです。

4人:いただきます!・・・おいしい!

 

芦ノ牧温泉の旅館 ロビー

朝食を終えたら、チェックアウトします。

10時の送迎で芦ノ牧温泉駅まで送ってもらうことにしました。

ロビーではコーヒーを飲んだり読書をしたりしました。

ビクティニ:この前バレパで買ってきたムーミンの本でも読むか。

ぐんまちゃん:とりあえず絵ロウソク絵付け体験の申し込みをしよう・・・。

ヤドキング:時間つぶしだのう。まあ雨では仕方あるまい。

ムーミン:あとで喜多方ラーメンを食べたい。

 

芦ノ牧温泉駅のネコ駅長 ぬいぐるみ
芦ノ牧温泉駅では、かつてのネコ駅長ことばす駅長のぬいぐるみが鎮座しています。

昔、ここへ訪れた時にばす駅長を見た時、大いに感動したのを今でも覚えています。

今でこそ“ネコが働く駅”として人気を集めていますが、この駅でネコ駅長が登場したのは平成11(1999)年の当時、ここに迷い込んだ迷い猫が近所の子供に拾われ、この駅にて長いこと飼育されていたようです。そして、平成20(2008)年には初代のネコ駅長として“ばす駅長”が誕生しました。これは当時、和歌山電鐵で“たま駅長”がデビューしたように、この駅でもそれにあやかってネコ駅長をデビューしたのだそうです。ばす駅長の特徴がチンチラのおばあちゃんネコだったことは覚えています。そして、“名誉駅長”だったこともあり、様々なメディアに取り上げられるなど当時としては人気だったようです。更に平成26(2014)年には“らぶ駅長”も登場します。しかし、残念ながら平成28(2016)年、ばす駅長は享年18歳(推定)で逝去。

ばす駅長が逝去してからというもの、らぶ駅長に続いて、弟の“ぴーち”および“さくら”がアテンダントとしてデビュー。しかし、ばす駅長に続いてらぶ駅長も2022年に逝去しました。現在では“ぴーち”と“さくら”がアテンダントとして、芦ノ牧温泉駅は“ネコの働く駅”として親しまれています。

 

会津鉄道の列車

激しく雨が降る中のホームに会津若松行きの列車が入ってきました。

まずは七日町駅まで乗車します。

 

芦ノ牧温泉駅にて列車を見送る駅長さん

窓が少し曇っていて見えにくいですが、駅長さんが向かいのホームを出発する列車を見送ってくれました。以前はらぶ駅長がいて、彼とともに列車を見送ってくれた記憶があるのですが、今では『ネコ駅長』はいないので本物の駅長さんによる見送りです。ほぼ毎年に芦ノ牧温泉へ来てくれたのか、駅長さんが私のことを知っているようで、優しく見送ってくれました。たしか2022年正月に年賀状を送った気がします。その影響でご存知のようです。

ムーミン:ばいばい、ネコの駅長さんと本物の駅長さん!またくるからね!

 

七日町駅

ということで、七日町駅までやってきました。

駅舎も大正ロマンの雰囲気がただよい、カフェも併設されています。

ビクティニ:七日町にやってきたけど、雨が結構ふっている

ヤドキング:たしか絵ロウソクの絵付け体験はここのはず

 

七日町通り

ここは“七日町通り”といわれる会津若松の観光地です。

大正ロマンの雰囲気が漂い、いまでも当時の面影を残しています。毎月『七』のつく日に市が立ったことから名付けられました。

かつては藩政時代の会津五街道の1つであり、下野(栃木県日光市)、越後(新潟県)、米沢(山形県)の三つの街道が交わる重要な街道だったのです。更に、城下町の西側の玄関口としてあたっていたことから、通り沿いに問屋や宿、料理店が軒を連ねていたといいます。そのため、当時は『会津一の繁華街』として昭和30年ごろまで栄えていました。この通りには大正から昭和にかけて建てられた蔵や洋館などの建造物が目立ち、まさに往年の佇まいが感じ取れます。

ビクティニ:なるほど、昔ながらのノスタルジーで素朴な雰囲気だ・・・。

ヤドキング:まさに江戸時代の雰囲気が残るのう・・・。

ぐんまちゃん:雰囲気が伊香保に似てるね。

ムーミン:ここにいるとなぜか心が安らぐ不思議な町だね。

 

ほしばん絵ろうそく店
さて、絵ろうそくの絵付け体験を行うのは、こちらの『ほしばん絵ろうそく店』になります。

安永元(1772)年創業の歴史ある老舗ろうそく店で、かつては会津藩のお抱え職人として栄えていました。鮮やかな色合いが美しい絵ろうそくの専門店で、菊や牡丹など絵柄は手描きで、親子代々、伝統の技が現代に受け継がれてきています。更に、ここでは絵ろうそくの絵付け体験ができるのです。

 

絵ろうそくの製作工程
絵ろうそくは、古くから会津地方の特産品として今でも親しまれています。

会津地方は、『会津塗』という伝統工芸品が有名であるように、古くからウルシの生産が盛んです。その漆の実から採取した蝋(ろう)を使うことで、会津地方ではろうそく作りが盛んとなりました。その後、蒲生氏郷(がもううじさと)が近江国(滋賀県)より技術者を招き、改良を重ねつつ、その頃から絵を施すようになったことから、次第に『絵ろうそく』として浸透していったのです。それが会津民芸の域にまで高め、菊・牡丹・梅などの艶やかな絵柄が描かれ、武家社会で珍重されてきました。今でも神仏用あるいは結婚式で用いられています。また、贈り物やお供物にも使われています。一本一本思いを込めて手作りされる絵ろうそくは、芯が太いため炎が大きく、あたたかみがあり、長持ちすることから、たくさんの人に愛用されています。

絵ろうそくの製作工程としては・・・

1.まずは和紙に藺草(いぐさ)の髄を巻き、『灯芯』をつくります。

2.何度も灯芯に蝋を掛けながら、徐々に太くしていきます。この工程を繰り返すことで、断面が木の幹のような形になり、ろうそくも太くなります。

3.ろうそくの形が出来上がったら、表面に絵付けしていきます。

4.絵付け作業を終えたら、仕上げ用の蝋をくぐらせ、表面の絵をコーティング。

5.上部を切り落とし灯芯を出して仕上げます。・・・すると『絵ろうそく』の完成です!

上の写真は絵ろうそくの製作工程を示したものになります。

 

しかし、ろうそくがここまでできるのには結構時間がかかるので、そこは割愛します。今回の体験では、仕上がり済みのろうそくに絵付けして、それが乾いたら完成という流れになります。

 

絵ろうそく 絵付け体験
ということで、絵ろうそくの絵付け体験を始めます。

私たちが普段使っている一般的なろうそくは『パラフィンろうそく』といわれる石油から作られたものが、いわゆる汎用ろうそくが使われるのがほとんどです。しかし、会津の絵ろうそくは『和ろうそく』という種類で、芯には和紙、蝋はハゼノキやウルシの果実から使われています。江戸時代から明治時代にかけて、日本ではこのような和ろうそくがほぼ汎用ろうそくとして使われていたそうです。しかし、西洋ろうそくの流通や電気の普及が進むと、和ろうそくの需要が次第に減少していきました。今では会津地方の工芸品もしくは日用品として今でも愛用されています。

今回は、出来上がった和ろうそくに絵の具や筆を使って絵付けしていく流れになります。基本的には絵付けするだけなので簡単な作業ですが、一度ろうそくに絵の具を付けてしまうと消して修正したりすることはできないのと、絵の具が垂れたり滲んでしまうことがあるので注意が必要です。最初はろうそくに絵の具が普通に塗られましたが、何度も筆を水で洗い流していくうちに、ろうそくに絵の具が思うようにつかなくなって大苦戦ですw

 

絵ろうそく完成
始めてから30分・・・絵ろうそくの完成です!

今回の絵付けでは、私の愛用ポケモンである『ビクティニ』を絵にしてろうそくに絵付けしました。そして、絵付け体験のろうそくと完成済みの絵ろうそくを1本選び、2本ろうそくでセットになります。今回の絵付け体験の2本1箱入りで2,100円です。

ビクティニ:おお!ぼくの絵が描かれた絵ろうそくだ!

 

www.aizukanko.com

 

阿弥陀寺
七日町通りにある『阿弥陀寺』にも会津地方の歴史が刻まれています。

阿弥陀寺は慶長8(1603)年、蒲生秀行(がもうひでゆき)公から土地を賜った良然(りょうねん)上人による開山が始まりとされています。しかし、由緒あるこの寺院は、二度の火災で建物が焼失してしまいました。

ここでは戊辰戦争で犠牲になった戦死者や会津藩士、新選組の墓が佇んでいます。

 

阿弥陀寺 本堂

寺内にある御三階は、かつて鶴ヶ城本丸内にあった建物の一部です。

外観上は三階建てに見えますが、実際には四層になっていて、いわば密議の場所として使われていたそうです。明治3(1870)年、本丸にあった鶴ヶ城の御三階はここ阿弥陀寺に移され、本堂再建の昭和30(1955)年まで『仮本堂』として使用されました。

写真左側の白い建物は、新政府軍に解体された鶴ヶ城の小天守にあたる御三階の部分で、まさに当時の鶴ヶ城の遺構が唯一残る貴重なものです。

 

七日町通り 渋川問屋
昼時になりまして、『渋川問屋』にて昼食にします。

このお店は、120年以上もの歴史をもち、かつては海鮮物問屋だった老舗です。

大正ロマン漂うレトロな外観に目を惹かれます。ここでは、歴史的建造物内で食事や宿泊ができ、郷土料理が評判的だといいます。そのためリピーターも続出するほど人気だそうです。

ぐんまちゃん:もう12時だ。お昼ごはんにしよう。

ムーミン:このお店、すごく雰囲気がいいね。ここにしようか。

 

渋川問屋 店内

店内は重圧かつ和風な雰囲気です。

歴史的建造物なだけあって豪壮な造りで、どことなく当時の土木技術が感じ取れます。店内の名簿表もいかにも当時の問屋としての名残が感じ取れ、庭園もとても素敵です。しかも宿泊ができるぐらいなので、もしまた会津に訪れた時には、ここでの宿泊も検討しておきたいものです。

 

渋川問屋の郷土料理
会津に来たら『渋川問屋』の郷土料理がおすすめです。

今回は、会津牛のステーキと会津の郷土料理のセットをたのみます。もちろん名物の『こづゆ』も提供されました。老舗のお店で会津牛と郷土料理が味わえるのは、とても最高な気分です。

ビクティニ:いただきます。・・・うまい!!まさに至高のひとときだね。

ヤドキング:おお、これが会津の郷土料理ってやつか!これはうまいな。

ぐんまちゃん:最高!群馬の郷土料理より美味しいかもね!

ムーミン:おいしい!こんな食事は初めて!

 

shibukawadonya.com

 

七日町から喜多方へ
さて、喜多方まで移動します。

七日町駅から会津鉄道の列車に乗車、会津若松駅から磐越西線に乗り換え、喜多方へ向かいます。

13:21 七日町駅を出発

13:24 会津若松駅に到着

13:37 JR磐越西線 普通列車 野沢行きに乗車 会津若松駅を出発

磐越西線の会津若松以西はディーゼルで主にGVE400またはキハ110系で運行されています。

ビクティニ:じゃあ、今度は喜多方ラーメンを食べるために喜多方へ移動します。

ヤドキング:なるほど、会津若松駅で別の列車に乗り換えるわけか。そういえば、雨はおさまってきたようじゃの。

 

喜多方駅

13:59 喜多方駅に到着

SLの時間までまだあるので、少し喜多方を観光します。

ここでレンタサイクルを借りて喜多方市内を回ります。

ぐんまちゃん:喜多方にやってきた。もう雨はやんだみたい。自転車で市内を回ろう。

ムーミン:でも、レンタサイクルできるところは・・・あった。じゃあ喜多方ラーメンでも食べに行こう!

 

参考までに喜多方市内をレンタサイクルで回るなら、以下のリンクを御覧ください

市内二次交通|アクセス・交通案内|喜多方観光物産協会

 

現地で喜多方ラーメンをいただく

喜多方に来たら、まず『喜多方ラーメン』は食べておきたいです。

今回は、『たんぽぽ亭』にて喜多方ラーメンを第2の昼食としていただきました。

喜多方駅から徒歩15分ほど、またはレンタサイクルで5分ほど行った場所に『喜多方ラーメン館』があり、そのすぐ隣にあります。また、食事がてらお土産に喜多方ラーメン館にて買い物して、家で喜多方ラーメンを食べてみるのもいいでしょう。

本場の喜多方ラーメンは飯豊山系の地下水を使用しているため、平打ちで太めの多加水麺を使用しています。また、スープも基本的に醤油ベースで、豚骨や鶏ガラ、煮干しの3種類を使用したあっさり系で、本場のスープも飯豊山系の伏流水が使われているので非常に食べやすい一品です。しかも、早朝から喜多方ラーメンを提供しているお店も少なくなく、喜多方市内ではほぼ常連がいるほどにして朝ラーメンとして食べる人も多いそうです。

ビクティニ:これが例の喜多方ラーメン!いただきます!・・・うまい!!

ヤドキング:まさに昨日の尾瀬ハイキングのご褒美じゃな。

ぐんまちゃん:おいしい!さすがラーメンの街だよね!

ムーミン:おいしい!これが日本のラーメンなんだ!癖がないので食べやすい!

 

参考までに以下の地図を御覧ください

★喜多方ラーメン館(たんぽぽ亭)へのアクセス★

 

喜多方 蔵の里
続いて『喜多方蔵の里』にも見学してみましょう。

喜多方市は古くから“蔵の町”として親しまれ、先ほどいただいた喜多方ラーメンもその『蔵』と関係しています。というのも喜多方ラーメンでいうとスープのベースに使われる醤油も作る時にその『蔵』を利用しているからです。

ここでは、その“蔵づくり”の文化を後世に伝えるべく様々な蔵が保存されています。

約4千5百平方メートルの敷地内に、中庭を中心として店蔵をはじめ、味噌蔵、穀物蔵、蔵座敷、郷頭曲り家などを配置し、蔵や民家のある懐かしい日本の原風景を形造っています。

喜多方市はかつて『北方』と呼ばれ、江戸時代には“物資の集散地”として、また若松城下と米沢を結ぶ街道の街としても栄えてきたといいます。そのような経緯もあり、今でも市内には4千棟以上の蔵が広く分布しています。これには以下の理由が挙げられます。

1.物資の貯えに必要で、土地が広い喜多方が貯えに適していた

2.醸造業ならびに漆器業には最適だった

3.明治13年の大火でその耐火性が見直されたこと

4.蔵を建てることは男の一生の夢だった

5.当時は蔵造りの名工がたくさんいたこと

 

蔵の里ではかつて人々の生活に使われた蔵が移築・保存され自由に見学ができます。

ぐんまちゃん:会津って鶴ヶ城のイメージがあったけど、蔵を使った博物館もあるのね。

ムーミン:ここもノスタルジーな雰囲気だね。

 

喜多方市美術館

そのすぐ隣には喜多方市美術館もあります。

美術館のデザインも、蔵のまちらしくレンガ蔵をイメージしてつくられていて素敵です。また、建物の一部には地元喜多方で焼いたレンガを積み、こじんまりとした中にも落ち着きがあり、周りの町並みにも調和しています。

 

旧井上家穀物蔵

これは『穀物蔵』といわれるもので、文字通り米や粟などの穀物を貯蔵するための蔵として使われたものです。よく見ると上部の屋根が『二重屋根形式』になっていて、もとは茅葺きだったようです。外壁も土壁仕上げになっており、長い間雨風にさらされていたものの、構造自体は頑丈で、大部分使うことができました。

移築の際、屋根を『瓦葺き』で復元し、外壁も砂壁で仕上げ、片開きの土戸の鍛治金物は当時のものをそのまま使用した形で復元されています。

 

型紙
穀物蔵内では、会津の伝統工芸の一つとされる『型紙』が展示されています。

型紙とは、型染めの版となるもののことをいいます。数枚の和紙を柿渋で貼り合わせ乾燥した後、そこに彫刀で図柄を彫ったものです。

きものに文様をつける技術は、型染めの完成によって、大量生産が可能となり、安い値段で広く一般的にきものが普及するようになり、中性以前には1枚ずつ手作業に頼っていました。当時はきものが着れたのは特段階級の身分しか着ることが許されなかったそうです。

喜多方はラーメンの街とも言われていますが、実は『創作』や『工芸』がひそむ“芸術の街”でもあるのです。

中でも江戸時代に『染型紙』が誕生し、喜多方では江戸時代から昭和初期にかけて製造され、東北一円に広がった染型紙が“会津型”といわれる喜多方の染型紙なのです。

 

『染型紙』(型紙)ができるまでの工程

これは、『型紙』ができるまでの工程を示したものです。

型紙とは、基本的に複数の和紙を糊で貼り付けて『地紙』を作ります。そののりが乾いたら染型紙彫りという工程に入ります。彫刀を使用して型を彫るのですが、彫りの技法には『錐彫り』『道具彫り』『突き彫り』『縞彫り』の4種類があります。それらの技法こそ、喜多方の芸術を生み出した一種でもあるのです。

紙彫りを終えたら『糸入れ』の工程です。これは彫り柄や型紙が糊置きの際にずれないようにするために、彫り終わった地紙を2枚に剥がしてその間に絹糸を張って補強します。こうすることで、型紙のズレを修正していたのです。

最後に『型付け』をして完成です。会津型紙の種類には『小紋』『中型』『縞』の3種類があります。

会津型の型紙は、伊勢た江戸の型紙より良質であることが特徴的で、また柿渋を塗り重ねることで作られた渋紙は長い年月でもあめ色に保たれ、強度かつ防虫効果にも優れていたことから評判的だったそうです。

“会津型”といわれる型紙が浸透していったのが近世中頃のこと、伊勢(三重県)で『型紙』が流行ったことがその始まりとされています。

それは、“伊勢型”といわれるもので徳川御三家の紀州領地であったことから、全国的規模で独占的な販売権を持っていたと言います。当時の幕府の経済統制が厳しい中、伊勢型以外で他の地域で型紙を製作販売するのには困難な状況にあったのです。

そのような状況下で、当時他藩に行商する型紙業者がここ会津に存在していたと言います。それは、市内の『小野寺漆器店』で、安政年間(1854~1859)に会津藩より型紙業ならびに漆器業の認可を受け継いでいます。

その後の詳細は不明ですが、少なくとも会津若松市には江戸後期頃の型屋の存在を示す型紙が残っており、その当時はすでに型屋があったそうです。

 

旧唐橋家味噌蔵

これは『味噌蔵』として使われていたものです。

かつて会鶴醸造の味噌蔵で使われた間口3間半✕奥行き8間の大きな蔵です。これは道路建設のために解体され、それをここに移転したものです。再生にあたっては柱・貫・梁・桁および小屋組みの構造部材をそのまま再利用しました。内部は木造トラス組の架構をあらわし、まさしく規模の大きさを物語っています。

ここでは蔵写真展として内部開放されています。この日は『不思議の国の猫たち』の原画展が催されていました。

 

郷頭屋敷 旧外島家住宅(福島県重要文化財)

これはは江戸初期の寛永年間から幕末まで、会津藩上三宮代官所支配ならびに慶徳組十九ヶ村の郷頭職を務めた外島家の住宅です。

主棟および曲がり棟の創建年代は、明和8(1771)年との記録が残っています。更に、郷頭としての体裁をいっそう充実させるため、18世紀末ごろに正面右手の座敷二室を増築したものと思われます。

会津地方の農民住居、特に村役層住居で、旧外島家のように原型がほぼ判明しています。そして18世紀後半という、早期の建立が特定できる住宅としては珍しいことから、重要文化財に指定されるほど貴重な遺構なんだそうです。

 

屋敷内の各農具

屋敷内には様々な農具が展示されています。

会津地方では、古くから農業が盛んということもあり、稲作・収穫に使うための道具や味噌や醤油を作るための道具などが使用されていたようです。

 

会津の考古学先駆者 二瓶清

二瓶清が集めていた土器のコレクション

二瓶清は会津の郷土史家であり、考古学の先駆者でもあったのです。

彼は明治16(1883)年に喜多方市にて『五十嵐昌平の四男』として生まれ、幼少期から土器に興味をもっていたのをきっかけに、考古学に興味をを持っていました。中でも会津地方にまつわる様々な遺跡や文化遺産などを調査し、資料の収集活動も積み重ねていったと言います。それらの採集は研究のための表面採集ならびに地元出土品についての調査、そして遺跡の分布について調査が行われていったのです。こうして、幼少期の時から郷土の歴史や文化に興味を持ち、しかもこよなく愛するほどの郷土史研究の先達にして会津の考古・文化の記録を後世に残しているのです。

 

会津地方の岩石(考古学以外の収集品)

これらも二瓶氏が集めたもののようですが、考古学とは関係のない岩石系のものです。

しかし、これらの岩石を見てみると、会津地方の地質が『流紋岩』が多く含まれていることが推測できると思われます。

 

旧手代木家住宅(曲り家)

江戸後期から明治初期まで、下三宮村の肝煎として赴任された手代木家の住宅です。

この建物は、その主屋のみ喜多方プラザに移転し、創建時の姿に復元されています。

その住宅は、当時の村役層農民(肝煎)が在郷役人として務めを果たすため、急遽建てられたもので、その後に整備し、地方上層農民としてふさわしい住宅に改めてきたものです。

しかも、改造も少なく保存されてきたことから、文化財的価値としては十分にあり、異色ある間取りや鍵型に曲げられた特徴的な造り(うまやや屋敷など)がまさしく江戸後期の形態をとどめています。それも貴重な資料として保存されています。

なお、この建築物には明治元年の農民一揆打ち壊しによるものとされる多数の柱傷もあり、まさしく当時の有り様を物語っています。

このように幕末の農村社会を物語る上で大きな意義が認められることから、保存する理由があるものとして認められたものであることが伺えます。

 

会津北方古代唐人凧

これは約400年前、大陸より長崎に伝わった凧です。

なぜ長崎という遠い場所から会津へ伝えられたのかはよく分かりませんが、戊辰戦争の際、城内から唐人凧を揚げて士気を鼓舞したことでも有名です。『べろくんだし』とも言われ、目をむいて下を出した面構えや鮮やかな極彩色が独特かつ迫力ある形相が『魔除け』としても珍重されています。

 

喜多方駅にてSLを待つ

喜多方駅に戻ってきました。

ここで“SLばんえつ物語号”に乗車します。喜多方駅では1番のりば、つまり入り口からすぐの所に入線します。

ビクティニ:さて、そろそろSLが来るので駅に戻ってきた。ここで待ちに待ったS銀河鉄道の旅が始まるぞ

ムーミン:いよいよ汽車の時間だね

ぐんまちゃん:たしか機関車はC57だっけ?楽しみ!

ヤドキング:でも、この日は少し遅れているようじゃの・・・

 

SLばんえつ物語号

ようやく“SLばんえつ物語号”が喜多方駅のホームに滑り込みます。

もちろん機関車もおなじみのC57型180号機です。

別名『貴婦人』とも言われています。

SLばんえつ物語号は、JR磐越西線の新津駅~会津若松駅間を結ぶSL列車(ジョイフルトレイン)の一種で、その路線の愛称は“森と水とロマンの鉄道”として親しまれています。SLが単独で引く列車としてはなんと7両編成と国内最長で、しかも走行距離も111kmなので、SL列車の走行距離としては日本一です。今回は、そのうちの喜多方駅からの乗車になります。

 

SLばんえつ物語号 グリーン車

ということで、SLばんえつ物語号に乗車します。

車内は大正ロマンを纏った内装になっています。車内に入ると、あたかも銀河鉄道の夜の世界にいるかのような臨場感です。

今回は、グリーン車を予約しました。見ての通り、普通車より若干豪華な仕様になっています。グリーン車は1席2,000円で、普通車の指定が1席840円です。

天井の間接照明をよく見てみると、オコジョのシルエットが見えます。

ムーミン:車内はとってもおしゃれだね!いかにも銀河鉄道の夜の世界観って感じだ

15:51 喜多方駅を出発

 

会津盆地から山間部(磐越路)へ進むSLばんえつ物語号

さて、SLは喜多方駅を出発し、新潟方面へ向けて会津盆地から山間部へと進んでいきます。

その先にあるトンネルと『一ノ戸川橋梁』を通過すると、徐々に森と山の風景へと変わっていきます。

ビクティニ:さらば会津地方・・・。そして幻想四次の空間へ・・・

ヤドキング:さらば尾瀬・・・さらば会津・・・

 

★SLばんえつ物語号 乗車時の様子★


www.youtube.com

 

野沢駅にて停車中のSLばんえつ物語号

16:27 野沢駅に到着

ここでは、燃料補給および給水のために10分ほど停車します。その停車時間のあいだ、自由に撮影することができます。

いつもなら機関車のHMにオコジョのイラストが入っていたりするのですが、今回は『喜寿』のHMをつけて運行されています。というのも、これは今年でC57‐180号機が誕生してから77年目を記念として特別なHMをつけているそうです。

この機関車は、戦後から間もない時期の昭和21(1946)年8月8日、三菱重工業三原工場にて誕生しました。落成当初から国鉄新潟局に配属し、その後、昭和44(1969)年の引退まで新津機関区にて配属。誕生から引退までの約23年間、磐越西線はもとより、羽越本線や羽越本線などの旅客列車で活躍しました。つまり登場から引退まで新潟地区で活躍したことになります。

その後は、長いこと新津市立第一小学校にて静態保存されていましたが、平成10(1998)年にはJR東日本の大宮工場にて修繕ならびに動態保存化工事が行われ、その翌年の平成11(1999)年3月25日に車籍が復活しました。

現在では、“SLばんえつ物語号”の機関車として磐越路を駆け抜けています。今年でSLばんえつ物語号デビューから今年で24年で、実質、現役時代より長く活躍しています。

ビクティニ:いつもなら、オコジョのイラストが入ったヘッドマークがついているはずなのに、今回のヘッドマークはなんか違うな。

ヤドキング:なんか特別な記念ヘッドマークらしいぞ。よかったな。

ビクティニ:そういえば、誕生から77年だもんな。本当にいいものが見れたよ。

ぐんまちゃん:群馬のSLもかっこいいけど、福島のSLも素敵!

ムーミン:機関車のデザインも素晴らしい!まるで銀河鉄道の夜に出てくる汽車みたい!

 

16:37 野沢駅を出発

野沢駅を過ぎると、汽車は徐々に山間部に入っていき、周りの景色もだんだん暗くなってきました。新潟県に入り、日出谷駅に到着する頃には、すでに日が暮れて車内も夜汽車の雰囲気に・・・。

 

思い出ノート

17:21 津川駅に到着。

ここでも燃料補給や給水が行われるため、今度は15分ほど停車します。この駅でも記念撮影ができますが、雨が降っているようなので、車内で手紙を書いたり、思い出ノートにメッセージやイラストを書いたりしました。

4号車の展望車では、ハガキにメッセージを書いて車内に設置された『丸ポスト』にその手紙を投函すると、SLばんえつ物語号の消印がつけられます。ハガキと切手は売店にあります。また『思い出ノート』も設置され、そのノートに記念となるメッセージなどを書くことができます。そして、そのノートには“銀河鉄道の夜85”に登場する『どこまでも どこまでも いっしょにいくよ』や『ここよりはじまる』などのメッセージとともに、ビクティニやSLのイラストも入れました。

 

SLで雪国ドーナツとコーヒーをいただく

車内の売店では、ちょっとしたおやつやコーヒーなども購入できます。

ばんえつ物語号ではおなじみの『雪国ドーナツ』やホットコーヒーといっしょに『銀河鉄道の夜』の空間を心の底まで味わいます。

ビクティニ:アニメ『銀河鉄道の夜』に出てくるおやつは、たしかリンゴとか鷺のお菓子(?)がでてきたけど、ここでは雪国ドーナツがおいしいんだよね

ヤドキング:夜汽車のロマンってやつじゃな

ぐんまちゃん:窓の景色もすっかり暗くなっちゃった

ムーミン:まさに『銀河鉄道の夜』って感じだね

 

10月や11月のSLばんえつ物語号は『銀河鉄道の夜』のような車窓も楽しめる

10月や11月の秋の時期にSLばんえつ物語号の新津行きに乗車すると、新潟県に入る頃には、このような夜汽車の車窓に様変わりします。

この車窓こそ、まさしく『銀河鉄道の夜』の世界観にひたれます。会津若松行きのSLは、ほぼ満席になるほど乗車人数は多い一方で、新潟方面はわりと空いていたりするので、ある意味穴場といっていい楽しみ方もあることでしょう。

ビクティニ:暗闇に浮かぶ明かりが星のようにも見えるから違和感ないね

ヤドキング:アニメの銀河鉄道の夜の車窓もたしかにこんな感じだったな・・・

ムーミン:車窓の暗闇を見るとなぜか泣けてくる・・・

ぐんまちゃん:本当に銀河鉄道に乗っているみたい

 

新津駅に到着したSLばんえつ物語号

18:43 新津駅に到着

会津からSLに乗って銀河鉄道の旅はここでおしまいです。

ビクティニ:さらば・・・SLばんえつ物語号・・・そして・・・ありがとう

ヤドキング:ここよりはじまる

ぐんまちゃん:ばんえつ物語号には初めて乗ったけど最高に楽しめたよ

ムーミン:ぼくはこの思い出を忘れない・・・

 

みなさん、最後までご覧いただき、ありがとうございました。これにて“尾瀬と銀河鉄道の旅”シリーズは、これにて終了させていただきます。

では、ごきげんよう!

 

THE END