ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

博物館明治村で明治ロマンを体験! 日本最古のSLや市電に乗車&牛鍋を堪能

皆さん、こんにちは。

今回は、愛知県犬山市にある“博物館明治村”に訪れました。

 

博物館明治村 正門

博物館明治村へは、名鉄犬山線犬山駅より明治村行きの路線バスでアクセスできます。

ということで、“博物館明治村”にやってきました。

路線バスは明治村の正門に到着します。正門に掲げられた『博物館明治村』の木札とレンガ造りの門が立派です。

ちなみにこの門は、かつて名古屋の旧制第八高等学校にあったものです。

ビクティニ:今日は明治村で100年前のSLと市電に乗車します

ムーミン:この日は雨だけど、人はあまりいないから落ち着いて散策できるね

 

明治村について

博物館明治村は、日本に残された数少ない明治建築の保存展示するための野外博物館として、犬山市の郊外にある入鹿池に面した丘陵地にて昭和40(1965)年に開村しました。

こうして時代の流れとともに消えつつあった貴重な明治建築ならびに明治時代の人々の思想をを後世に伝えるべく、“本物の価値を残す・伝える”という目的としてのいわゆる教育施設でもあります。

これまでに移築ならびに復元した建造物の数は60以上に及び、当時の明治文化に思いを馳せ体験することができる学びの場にしてレクリエーションの場です。いわば大人の教育の場として、学校の授業で習った歴史を改めて学べる貴重な場所です。

 

“明治村”ができたきっかけとしては・・・

明治時代の建築は、江戸時代から継承した木造建築の伝統と蓄積の上に、新たに欧米の様式・技術・材料を取り入れることで近代建築の素地を築き、芸術上かつ歴史上価値あるものも数多く生み出されました。
しかし、震災や戦災、そして戦後の産業の高度成長によって生じた大小の公私開発事業により、さらなる時代の変化とともに姿を消していくこととなります。
それを受け、旧制第四高等学校同窓生であった谷口吉郎博士(博物館明治村初代館長)と土川元夫氏(元名古屋鉄道株式会社会長)は、取り壊されてゆくこれらの文化財を惜しみ、その保存を計るために二人で協力し合い“博物館 明治村”が創設されたのです。

 

 

 

明治村のモニュメント

明治村のモニュメントもまさしく現世の人々を明治の文化へ迎える堂々たるものです。

この日は入園窓口の方が入園券2,000円のほかに『のりもの1日券』も加えて3,000円のセットで販売してくれました。また、来月から値上がりがされる上『のりもの1日券』も中止されるようなので、ある意味ラッキーです(笑)

ビクティニ:今年で明治発足から157年経つのね・・・

ムーミン:フィンランドではこの風景はあるあるだけど、日本にもこのような洋風の文化が浸透していったんだね

 

明治村名物 食道楽のコロッケ

明治村では、食道楽のコロッケが名物の1つです。

明治以降の日本では『洋食』という食文化が浸透し、主にカレーライスやトンカツ、コロッケやオムライスなど、現代の日本人にはお馴染みとなっています。そのうちのコロッケも明治維新ならびに文明開化パイオニアの食べ物ともいえるでしょう・・・。

ビクティニ:コロッケおいしい!

ムーミン:揚げたては違うね!

 

三重県尋常師範学校(蔵持小学校)
これは、三重県の尋常師範学校本館として明治21(1888)年に建てられたものです。

当時、明治19(1886)年の師範学校令によって、東京の高等師範学校を皮切りに、各県に1つずつ尋常師範学校が設けられました。尋常師範学校とは、小学校教師の養成を行うために設けられたもので、国民皆学の基礎となった教育機関のことです。

昭和3(1928)年には本館改築とともに名張市の蔵持村に移築され、“蔵持小学校”としてスタートします。

この建物は、当時、三重県営繕組織で建築活動を行った建築技術者こと清水義八の設計によるもので、三重県庁舎にも同じ技法が用いられています。

現役時代はE字型の左右対称だったものの、昭和48(1973)年に明治村へ移築保存する際、特色のある玄関部分と右翼の2教室のみを残しています。

この校舎が建てられる前の三重県庁舎は、清水義八が生み出した洋風建築初期の作品であり、単純かつ古典的な印象に対して、約10年後に設計されたこの建物はそのデザインは消化され、玄関部分以外は穏やかにまとめられています。

玄関には4本の円柱を立てたアーケードとし、2階にはベランダを設け、入母屋の屋根が設けられています。アーチや入母屋の破風に草花をモチーフとした縁飾り、さらに懸魚にも洋風のデザインが施され、中心に菊の紋章があります。

他にも、2階ベランダの手摺や軒廻り、入母屋妻のデザインにも設計者の匠が反映されています。また、右翼の教室部分の外壁には洋風の下見板張りになっており、白漆喰塗の玄関とコントラストが調和されています。

ビクティニ:当時に人はただの学校だったように見えるかもしれないけど、今思えば校舎自体が美術品のようにも見える・・・

ムーミン:ずいぶん風格のある学校の校舎だね

 

尋常師範学校の教科書

明治時代の教科書
小学校ができるのは明治5(1872)年のことです。

明治政府は、国民全員が差別なく学校に通うことで、国民1人ひとりが出世し、仕事に励み、豊かな生活が送れると考えられてきたことから、1872年に『学制』が発布され、小学校が設置されました。当時は『尋常小学校』ともいわれ、6歳から13歳までの8年間通っていました。

文部省が制定した校則には『標準教科書』が提示されていますが、当時はアメリカを始め、イギリスやフランスの教科書から翻訳されたものが多かったといいます。そのため、写真の明治時代の教科書は『翻訳教科書』が中心であるために、かなりの難解だったといいます。

 

明治時代の学校で使われた体操用具

これは、明治時代の学校における『体育』の授業で使われていた体操用具です。

この用具を使った体操は『普通体操』と呼ばれ、当時の子供たちは号令とともにこれで体を動かしていたそうです。

 

石筆と石盤

明治時代に使われていた筆記用具は『石筆』と『石盤』が使われていました。

 

師範学校 教室

教室も現役時代当時の状態のまま保存されています。

まるで昔懐かしい木造校舎にありがちな古めかしい教室です。昭和生まれの人にはどこか昔懐かしいと思わせるでしょう。

昭和3(1928)年に、新校舎建設のため三重県多賀郡蔵持村(現 名張市蔵持町)に売却ならびに移築され『蔵持小学校』となり、さらに昭和47(1972)年には、蔵持小学校の新校舎建設のため、旧校舎が取り壊しとともに、明治村に移築されることになりました。同年に解体輸送が行われ、昭和48(1973)年3月18日に展示公開され、中央玄関部分と右翼の二教室分のみ建築保存しています。写真の教室が右翼部に残った1階の教室です。

 

 

 

鉄道局新橋工場

日本初の鉄道は、新橋~横浜間が明治5(1872)年に開業しました。

これは、新橋駅構内にて鉄道の木工場として建てられた鉄道局の工場です。

当時の役所は『鉄道寮』であり、当初は東京に置かれていましたが、明治7(1874)年には大阪に配置され、明治10(1877)年には『鉄道局』に改称、さらに明治14(1881)年には神戸に移されました。明治8(1875)年には神戸工場にて国産第一号の客車が製造され、更に明治27(1894)年にも国産の蒸気機関車第一号が神戸工場にて完成しています。

写真の新橋工場は明治22(1889)年に建てられたもので、国内で製作された鋳鉄柱や小屋組みトラス、鉄製下見板、サッシなどを組み込んだもので、屋根は銅板で葺かれています。当時、構造技術の面において鉄道寮新橋工場にならい造られたものであるものの、鋳鉄柱には「東京鉄道局鋳造」で銘があることから、国産鉄造建築の実例としては初だそうです。

 

5号御料車(昭憲皇太后御料車)・6号御料車(明治天皇御料車)

工場内には、2両の御料車が展示されています。

左側の車両は明治天皇御料車(6号御料車)、右側奥の車両が昭憲皇太后御料車(5号御料車)です。

御料車とは、天皇・皇后・皇太子のための特別車のことを指します。今の鉄造で言う『お召し列車』です。

 

5号御料車(昭憲皇太后御料車)の内部

5号御料車について

そのうちの5号は初の皇后用車輌として製作されたもので、車内には大膳室だいぜんしつ女官室じょかんしつ御座所ござしょ・御寝室・化粧室兼御閑所ごかんじょ供奉員室ぐぶいんしつとなっています。室内の天井には、当時を代表する画家の橋本雅邦の『桜花紅葉』、川端玉章の『帰雁来燕きがんらいえん』が描かれているなど、芸術品としては価値の高いデザインが施されています。

 

6号御料車(明治天皇御料車)の内部

6号御料車について

こちらの6号御料車は、明治天皇専用の御料車として製作されたものです。

明治天皇の崩御後も大正・昭和初期まで使用されました。車内には、順に大膳室・侍従室・天皇御座室・侍従室・御寝室・お手洗い室となっています。

室内は明治の工芸の粋を集めたもので、蒔絵・螺鈿・七宝・彫金・刺繍・木象嵌などを駆使した内装は、歴代御料車の中で最も優雅な車輌と称されるほどの豪華なものです。また、6号御料車には、御料車として初めて3軸ボギー台車が使用されており、従来に2軸ボギー台車と比べて乗り心地が改良されています。

 

三重県庁舎
明治維新政府による地方行政は、明治2(1869)年の版籍奉還に続く明治4(1871)年の廃藩置県から始まります。

その当時から中央政府によって任命された府知事・県令が各府県に派遣されるようになり、明治6(1873)年には地方行政と勧業のための中央官庁として『内務省』が設置され、地方行政は急速にその整備が進められていきました。県知事・県令を迎えた各府県では、当初は既存の建物を県庁舎として使っていましたが、開明的な県令は先を争うように洋風の新庁舎が建てられるようになっていきます。

その中、こちらの三重県庁舎も明治9(1876)年、県令岩村定高によって計画され、明治12(1879)年に完成したものです。

開口が54メートルに及ぶ大きな建物で、玄関を軸に左右対称となっており、さらに正面側には2層のベランダが廻らされています。

この構成は当時の官庁建築の典型的なもので、明治9年に東京大手町に建てられた内務省庁舎のデザインもそれを参考にしたといいます。構造としては木造で内外とも柱を見せない漆喰塗大壁で、屋根には桟瓦を葺いています。

この建物も、先程の尋常師範学校と同じく、清水義八が設計したもので、当時の三重県では有名な大工だったそうです。

 

 

2丁目 赤レンガ通り
1丁目から坂を下ると2丁目のメイン通りとなる『赤レンガ通り』です。

銀行や小学校、医院、電話交換局、派出所など、明治時代にできた施設が立ち並び、まさしく明治時代の日本にタイムスリップしたかのようです。ここを散策しながらカフェや着物を着て散策するのも楽しいものです。しかし、訪問当時は雨が降っていたですが、人が少なかったので、存分に楽しめたのはいい思い出です。

街並みのガス灯も素敵です。

ビクティニ:洋風レトロな街並みって素敵・・・。こういう風景って落ち着くね

ムーミン:ヨーロッパにいるみたい

 

蒸気機関車12号

明治村のシンボルともいえるのが言わずもがなSLです!

明治時代に煙を吐きながら走った蒸気機関車を人よんで“陸蒸気”として親しまれました。

SLは明治村内の“とうきゃう駅”と“なごや駅”を走行します。まるで当時の東海道本線を懐わせるかのようです。

そして、写真の“蒸気機関車12号”こそ、日本で最初に開業した新橋~横浜間を実際に走ったSLにして“日本最古のSL“です!しかも150年前のSLが動いているというのを考えれば、思わず感動してしまいます。

蒸気機関車12号は、新橋~横浜間が開通した2年後の明治7(1874)年にイギリスから輸入されたものです。輸入当初の番号が“23”でしたが、その番号だった当時は新橋~横浜間を走行し、明治42(1909)年には車輌の改番で“165”、さらにその2年後の明治44(1911)年には尾西鉄道に払い下げられ、現在まで“12号”になっています。尾西鉄道は名古屋鉄道(現在の名鉄)に合併されてもその番号のまま昭和32(1957)年まで活躍しました。

 

★蒸気機関車12号の諸元★

製造所:英国 シャープ・シチュアート社(Sharp Stewart & Co.)

輸入:1874年

長さ:7,995mm

重さ:空車時17.49t 運転整備時21.43t

形式:1B形タンク式

 

 

三等客車(ハフ11・13・14)

三等客車も貴重な存在です。

今ではほとんど見れない木造客車が動いていて、それら明治時代に造られた客車に乗れるのも大変貴重な体験です。

明治村に所有している木造の客車は3両あり、いずれも“三等客車”といわれるものです。当時は窓枠下に赤いラインが引かれているものが“三等客車”として区別していました。ちなみに三等より上が“二等”でラインが『青』“一等”が『白』です。

3両の三等客車のうち『ハフ11』は青梅鉄道にて『メ4』として使われた後、大正13(1924)年には山形県の高畠鉄道に譲渡され『ハ2』、さらに昭和11(1936)年には秋田県の雄勝鉄道(羽後交通雄勝線)にて『ハフ11』となり晩年まで使われました。

一方、『ハフ13・14』は新宮鉄道で使用され、同鉄道の国有化とともに鉄道省の所属、その後、昭和17(1942)年に雄勝鉄道に移り『ハフ13・14』となり、先述のハフ11とともに、現役引退後に明治村にやってきました。

2軸車輌かつ木造の客車に乗れるのはここ明治村だけで、しかもこれらの客車もこれまた100年以上も昔に作られたものなので大変貴重です。

ビクティニ:甲高い汽笛がジーンと来るね。汽車の車内も昔のアニメ銀河鉄道の夜に出てくる汽車のよう

ムーミン:100年も昔の客車だから動くとギシギシ音が響くのね。

トトロ&オオトリサマ:(楽しい)

 

蒸気機関車12号 オリジナルボイラー

とうきゃう駅から下ってきた坂道に突き当たった場所には、製造当初から付けていたオリジナルボイラーが展示されています。

これは新橋~横浜間を走っていた時代の蒸気機関車12号に装着していたもので、明治村へ搬入した時に交換されたものと思われます。

 

帝国ホテル中央玄関
5丁目には、宮殿のような立派な建物がひときわ目立ちます。

この建物は20世紀建築界の巨匠こと、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライト(1867~1959)によって設計されたもので、4年間の大工事の後に完成した帝国ホテルの中央玄関部分です。

大正12(1923)年9月1日の関東大震災当日の開業から、昭和42(1967)年新館への建て替えまで日本の代表的なホテルとして東京に訪れる国内外の著名人や政治家などに利用されました。

皇居を正面に建てられ、総面積34,000平方メートルあまりの大建築で中心軸上に玄関、大食堂、劇場などの公共部分が列ねられ、左右に客室棟が配置されていました。全体計画から個々の客室に至るまで、きわめて多様な優れた空間構成がなされ、それまでの建築空間が主として平面的なつながりであったものを立体的な構成へ発展させた、世界的に重要な土木技術であることが伺えます。

ビクティニ:まるで宮殿みたいな建物だ。こういうホテルがあったら泊まってみたいかも

ムーミン:日光とかに行くとそういうホテルありそう

トトロ&オオトリサマ:(泊まってみたい)

 

帝国ホテルの内部

帝国ホテル玄関ロビーの内装です。

メインロビーの中央には3階までの吹き抜けがあり、中央玄関はその吹き抜け廻りという開放的な空間です。入口からロビーまで階段を介し床の高さに差をつけることで、劇的な雰囲気に包まれます。また、建物の内外に施された大谷石の彫刻をはじめ、透かしテラコッタを用いた様々な装飾なども施されています。

当時の宿泊者たちはこれらの豪華絢爛な内装に魅了されたのでしょう・・・。

むろん、筆者もこの光景を見て思わず「こういうホテルに泊まってみたい」と思ってしまいます。

 

とうきゃう駅で連結作業するSL

なごや駅へ折り返すため機関車の『機回し作業』が行われます。

まずは列車の横にある側線を機関車が通過しそのポイントの先で一度折り返します。その後ポイントを切り替えると客車の連結作業が行われます。連結作業を行う時は、作業員の誘導によって客車に接近し、連結器の左右に付いている『バッファ』といわれる丸い板を接触させた後に両車交互のフックにチェーンを引っ掛けます。

これが明治時代の鉄道車輌に使われた“ねじ・螺旋連結器(ねじ式連結器)”です。

明治時代の鉄道車両は最近の車輌に使われているような自動式ではなく、このように人の手で行われる連結作業が見れるアナログな光景は、今となってはなかなかないものです。

 

三等客車の明かり窓

明治時代はまだ電気が普及していなかった時代で、鉄道車両も例外ではありません。

明治製造の客車も最初から照明がなく、その代わりに窓から光(日光)を取り入れるという構造だったのです。そのため、上の写真のように『明かり窓』を用いることで、側面の窓だけでなく天井から光を取り入れて照明として使っていたことが考えられます。したがって、明治初期の鉄道はほぼ昼間しか運行していなかったということが考えられるでしょう・・・。そして、最初から照明が設置されていなかったのを見れば、まさしく100年以上も昔にして明治期から活躍してきた証ですね。

 

なごや駅で折り返すSL列車

SL列車がなごや駅に到着すると、先程と同じように機回しならびに連結作業が行われます。

なごや駅ではSL列車から京都市電に乗り換えることができます。

明治村で走行するSL列車をみると、100年前の鉄道車両が元気に動いているという、大井川鉄道や秩父鉄道で走っているようなSLとは違う明治のSLの姿に改めて感動させられます。

 

京都市電

明治村で動いている鉄道車両はSLはもちろん京都市電も動いています。

京都市電は、日本で初めて導入された市内電車(路面電車)として明治28(1895)年に開業しました。さらに、名古屋においても京都についで明治31(1898)年に市内電車が誕生しました。

京都は、近くにある琵琶湖の下流に位置していたため、日本最初の水力発電が設けられ、明治24(1891)年より電力供給が行われました。さらに明治28(1895)年には第4回内国勧業博覧会の開催地が京都に選ばれたこともあり、明治26(1893)年に“鉄道敷設許可”がおりました。そして、京都電気鉄道が本格的に市内電車の路線敷設が行われ、同年に伏見線が開通しました。

しかしながら、『告知人』いわば『先走り』という係員も乗務し、文字通り歩行者が横切る場合に電車より先に走っては注意を促すという過酷な作業もあったのです。夜間は提灯を持って走るため、危険かつ重労働だったことから明治37(1904)年に廃止されました。ちなみに車体前部にある網は歩行者がはねられないようにするため、金魚すくいのように安全を確保していたものです。

その後、これまで多くの人々に親しまれてきた京都電気鉄道の市電は、明治45(1912)年の市営電車の開業に伴い、大正7(1918)年には全面的に市に買収されました。

現在、明治村で動いている京都市電は明治43~44年にかけて製造されたものが使われています。

 

市電の運転台

市電の運転台には椅子がなく、運転士は立ちながら運転していました。

ハンドルが1つしか無く速度計もありませんが、大体時速10kmぐらいで運行していたと思われます。また、発車する際には「カンカン」という鐘の音を発車合図として鳴らします。

 

京都市電の車内
市電の車内もこれまた明治ロマンの雰囲気を漂わせています。

市電の天井には、先程の三等客車と違って照明が取り付けられています。

明治時代当時こそ電気がそれほど普及していなかったのですが、明治20年代後半ごろ、京都にいたっては電気が発達していたこともあり、初めて市電が走れるようになり、更には架線からの電気を鉄道車両の照明として使用できるようになったと考えられます。集電する時は最近の電車にあるようなパンタグラフではなく、車体中央に乗っかっている『トロリーポール』を使い、駆動部や照明に電気を送ります。

ちなみに照明のデザインにもこだわりがあり、照明のランプシェードはすずらんの花がモチーフデザインとなっています。

天井の明かり窓や車体の中央部、さらには出入り口のデッキ部に施された飾りが京都市電の社紋で、全部で28箇所あります。また、つり革も牛の皮と葛が使われた古典的なものが使われています。

ビクティニ:この路面電車もざっと100年前のやつだね。まさに100年前にタイムスリップしたかのよう・・・

ムーミン:車内の照明や出入り口の飾りもかなり凝ってるな・・・

 

品川燈台

市電のこうべ駅から降りてすぐの所に品川燈台があります。

安政5(1858)年に欧米の列強5カ国と結ばれた通商条約に従って各地に港が開かれたことで、列強国の関税率などに対する要求が厳しくなり、慶応2(1866)年、日本は改税約書を受け入れることとなりました。そのうちの第十一条で開港場に出入りする外国船のために燈台や航路標識が設けられることになります。

当時の明治政府は燈台建設のためフランスやイギリスに技術援助を依頼し、東京湾沿岸の観音崎、野島崎、城ヶ島、そして品川の4箇所に洋式燈台が設けられることとなりました。それら4つの燈台は、ヴェルニー(Verny,L.F.)が所長を務める横須賀製鉄所の建築課長であったフランス人技手のフロラン(Florent,L.f.)によって建設に携わりました。

そのうち品川燈台は品川沖の第二台場の西端に建てられ、明治3(1870)年3月5日に点燈。光は石油で明るさは100燭光あり、光源の高さは地上から19尺(約5.8メートル)、海上面52尺(約16メートル)、光の届く距離にして約18kmと記録されています。

観音崎など他の洋式燈台が関東大震災で被災され建て替えられる中、こちらの品川燈台こそ現存最古の洋式燈台としては貴重なものです。

ちなみに、頂上の風見の方位を示す頭文字には『N(Nord:北)』『S(Sub):南』『E(Est):東』そして、『O(Ouest:西)』というフランス語で示されています。これは、当時のフランス人技術者が工事を進めていたという名残でもあると言われています。また、フランス製のガラスや金属などが所々に用いられ、レンガも横須賀製鉄所製のものが使用されていますが、強度の関係上から一部にコンクリートも用いられています。

 

霧砲

濃霧時に安全に船舶が運航できるようにするための霧信号の装置の1つとして使われたのが『霧砲』です。これは燈台の光が届きにくいような濃霧の際には火薬を爆発させ陸地の存在を知らせるためのものです。

 

六郷川橋梁

日本に初めて鉄道が開通した新橋~横浜間に存在した大小の橋梁はすべて木造のものが使われていました。

これにはイギリスから鉄材を輸入して組み立てるのでは間に合わないという理由だったそうです。そこで複線化の際に従来の木造から鉄製の橋へ架替えが進められ、明治10(1877)年11月に日本最初の複線用鉄橋として、写真の鉄橋が完成しました。

橋の全長は約500メートル、本橋からひいつ橋からなり、本橋部に長さ約30メートルの錬鉄製トラス橋(ポニー・ワーレン型)六連が使われていました。当時、雇外人の英人土木技師ボイルの設計によるもので、明治8(1875)年英国リバプールのハミルトンズ・ウインザー・アイアンワークス社で製作・輸入されたものです。

 

尾西鉄道 蒸気機関車1号

尾西鉄道が開業するに当たり、アメリカのブルックス社から輸入された蒸気機関車です。

形式は2B1と呼ばれる前輪2軸、動輪2軸、従輪1軸のタンク機関車です。尾西鉄道で活躍した後、当時の信越本線二本木駅に隣接する日本重曹株式会社内の工場専用機として入換作業に従事しました。

 

 

 

大井牛肉店

明治村に来たら『牛鍋』はぜひ食べたいものです。

牛鍋といえば、昔の歴史の授業を受けた時に出てきた記憶があるかと思います。

牛鍋もまた、江戸時代以前の日本では馴染のなかった肉食文化が明治維新によって革命を起こした食べ物の1つです。

日本に外国の文化が浸透し始めたのが、元亀2(1571)年に長崎の開港をはじめ、安政6(1859)年には横浜、さらに神戸でも明治2(1869)年に開港しました。

日本に外国船が寄港し、外国人の住宅が次第に建てられていきました。これにより、外国人相手の商売も興り、船や外国人に牛肉を納める商人も出てきたといいます。その1人でもある岸田伊之助が明治20年頃に牛肉販売ならびに牛鍋の店として“大井牛肉店”が神戸に建てられました。外国の商館が立ち並ぶ新しい街の商店にふさわしい洋風の建物で、正面を華やかに飾ったといいます。

1階の玄関と2階のベランダをアクセントとして、間口の狭い壁面に変化をもたらすとともに、西洋古典様式の柱と半円アーチの窓を配置して全体を大きく見せています。洋風の建物でありながら、日本古来のデザインも取り込まれていて、木造に白漆喰が塗られ、柱や窓まわりを形作っています。屋根構造も和小屋で桟瓦を葺いています。

玄関に入ると、店の土間が建物の前半分を占め、裏に抜ける通り土間が左奥に、右奥には座敷が配置されています。牛鍋を提供する場所は2階の大小4つの部屋であり、いずれも板敷きの洋間になっています。

この和洋折衷な空間に当時の外国人たちは魅了していたに違いありません。

 

牛鍋
さて、待ちに待った『牛鍋』をいただきましょう。

明治村で牛鍋をいただくのには予約を推奨します。

牛鍋のコースメニューには『橘』『竹』『松』の3つメニューがあり、そのうち『竹』を頂きました。

詳しいメニューの内容はこちら

牛鍋 大井牛肉店 | 博物館明治村

ちなみに味噌汁やご飯、漬物は付くほか、ソフトドリンクやビール類なども注文できます。

牛鍋を提供する時は、テーブルに設置された炭火を使ったコンロを使います。牛肉は飛騨牛というブランド牛が使われているのもまた本格的です。そして玉子も付いてくるので、いわゆる『すき焼き』のようなものですね。

まずは砂糖を熱した鍋にしき牛肉を炒めたのち、上から野菜類を重ねてタレを掛けて蒸らすと・・・

 

牛鍋の出来上がり!

牛鍋の出来上がりです!

食べ方としてはすき焼きと同じなので、牛肉や野菜を生玉子につけていただきます。

ビクティニ:おお!これがまさしく例の『牛鍋』!いただきます!・・・おいしい!

ムーミン:おいしい!これは食欲をそそるね。

トトロ&オオトリサマ:(おいしい!)

 

 

 

歩兵第六聯隊兵舎

明治時代は洋風の文化を受け入れるという文化の進歩が発達した一方で、『富国強兵』が求められた時代でもありました。

当時、幕末の明治維新という動乱の中、度重なる列強国の軍事的示威行動を目の当たりに、幕府と雄藩は軍事力の近代化が要求されていたのです。当時、薩摩や長州がイギリスに教えを受けたのに対して、幕府は『フランス方式』を取り入れました。これを明治政府も引き継ぎ、日本陸軍の基礎として築き上げます。

明治4(1871)年、東北から九州まで4分割された各地域にそれぞれ鎮台が設けられ、明治6年には広島と名古屋にも設けられました。各鎮台のもとに歩兵聯隊ほへいれんたいが置かれます。名古屋鎮台の管内では名古屋や金沢に組織され、名古屋城内に置かれたのが”歩兵第六聯隊”です。

当時の明治政府は単に軍事組織や訓練方法だけでなく、兵舎などの軍用建造物についてもフランスから学んでおり、明治6年の聯隊創設時に建てられた歩兵第六聯隊兵舎も、フランスの建築書をもとに海外の例に倣って建てられたものです。

昭和23(1948)年6月に旧制名古屋大学本部が建物を利用し、同年9月に同大学文学部の校舎として、昭和24年には名古屋大学が新制大学となり、新たに設置された教育学部の校舎となり、昭和38(1963)年までまで使用されました。現在、明治村に残っているのが方形の営庭を囲んで配置された兵舎のうちの1棟で、もとは50メートルを超える長い建物だったものの、移築の際には約3分の2に切り縮められています。

一見すると上ゲ下ゲ窓が並ぶ素朴な建物に見えますが、構造としては大変頑丈で、外側の柱はすべて土台から軒にいたるまで太い通し柱になっていて壁下地になる木スリを斜めに打ち、瓦を張り白漆喰で仕上げているため、地震や火災に強く断熱性も高かったそうです。もともと軍事用施設だったこともあり、建築構造がそれだけ特殊だったということだったのでしょう。

 

日本赤十字社中央病院病棟

日本赤十字社は、明治10(1877)年に西南戦争が始まった際、敵味方関係なしに負傷者を救護するために設立された博愛社がその前身です。

この中央病院は、我が国が明治19(1886)年に万国赤十字条約に加盟した時に、皇室から賜った御料地に建てられた大規模病院です。これも西洋の病院にならった分棟式で、9棟の病棟が中庭を囲み配置されました。

設計監督は、赤坂離宮の設計者であり、日本最初の建築家4人のうちの1人である片山東熊が担当しました。デザインとしては、ハーフティンバースタイルを基調とした洋風になっています。

病棟は高床で二重床とし、屋上には換気塔を設け、廊下はガラス張りになっています。防湿・採光・換気など病院建築として細心の注意が払われています。

 

宇治山田郵便局舎

 

 

明治3年、太政官から郵便事業開始の達示が出され明治4年には郵便の利用方法について細かい規則が布告。それの伴い、東京江戸橋に日本初の郵便役所(郵便局)が建てられ、近代郵便事業が開始されます。そして、次第に各地に郵便役所が建てられていきました。

明治5年、伊勢に建てられたのが宇治山田郵便局舎です。

わずか4坪(13.2平方メートル)でしたが、郵便事業が近代国家一翼を担い、電信電話事業も行われるようになると、次第に事業の拡大化とともに移転を重ね、やがて明治42(1909)年に伊勢神宮外宮前にて新築されたのが写真の建物です。

木造平屋建ての銅板葺きで、中央の頂きには円錐ドーム形の屋根、両翼には寄棟の屋根が特徴的です。
正面の左右には小さなドームをのせた角塔がそびえ、外部の装飾は北欧で見られるハーフティンバー様式が用いられています。また漆喰塗りと下見板張りの壁が使い分けられ、欄間らんま部分に施された漆喰塗りのレリーフも施されています。また、窓には3段もしくは4段の回転窓も設けられているのも珍しいです。

現役時代、伊勢神宮外宮前にあった宇治山田郵便局舎は、ひときわ目立つ洋風なデザインから参拝者を始め多くの人々の目を惹き、伊勢の名所案内や絵はがきの画題となったといいます。また、郵便局として地元の住民の生活を支えるとともに、遠方からの参拝者が大切な人への旅の思い出を残す人々の心をつなぐ場となったのです。

 

書状集箱

郵便制度の運用が開始されると、四種切手が発行され、『書状集箱』といわれるポストも設置されます。

江戸時代に使われていた目安箱と似たものであるものの、明治5(1872)年には角柱型の黒塗りポストが設置され、さらに郵便取扱い地域に設置された取り集め時刻が表示されたものも設置されていました。

 

郵便が始まったのは明治4年から

郵便の運用は明治4年から始まりました。

これまで飛脚と言われる江戸時代では『文書』といわれる手紙が遠くへ運ばれていましたが、明治に入ると『郵便制度』の発足によって情報の伝達はスムーズになっていったのです。こうして、明治4年に政府は『郵便開業の布告』を発布、東京~京都~大阪の各都市とそれを結ぶ東海道の各宿駅の間で日本初の郵便事業が始まったのです。

手紙や情報などの郵送物を送る際には、『切手』というものを貼って送ります。

 

人車

枠車・箱車ともいわれ、人力で荷物を運ぶための車です。車体が赤く塗られ、街中を走る赤い人車は多くの人の目に留まり、郵便を知らせる広告塔としての役割を担ったといいます。

 

二つ折りのはがき

最初のはがきで、中面に通信文を記入するようになっていました。

 

赤い丸形ポスト

近年見かけるようになった赤いポストになったのが明治34(1901)年のこと。

差し出し口が丸いデザインとなり、鉄製の赤色のポストが明治41(1908)年に誕生しました。これがいわゆる『赤い丸ポスト』で、まさしく“昔ながらの赤い丸ポスト”として親しまれています。

さらに差し出し口についた雨よけ用のひさしがつけられたのが明治45(1912)年からです。

 

宇治山田郵便局舎では郵便や手紙を出すことができる

宇治山田郵便局舎では、絵はがきに手紙を書いて送ったり、あるいは『10年後のメッセージ』を書いて送ったりすることができます。

今回は、2022年の台風で被災した大井川鉄道の全線復旧に向けて応援する手紙と10年後の大井川鉄道の未来についての手紙を書いて大井川鉄道に送りました。もちろん絵はがきは先程乗車した蒸気機関車12号のものを送りました。これで少しでも励みなると幸いです・・・。

 

聖ザビエル天主堂
聖ザビエル天主堂は、16世紀に来日し日本にキリスト教を伝えたイエズス会宣教師、サンフランシスコ・ザビエルを記念し建設されたカトリックの教会堂です。

設計者はフランス人の宣教師パピノ神父、施工者が棟梁のペトロ横田といわれています。内部は身廊、側廊のある三廊式で、大アーケード、トリフォリウム、丸窓のあるクリアストーリーの三層で構成されたゴシック様式が特徴的です。また、木像部は欅づくり、ステンドグラスは色ガラスに白色塗料で草花模様を描き、その外側に透明ガラスを重ねて保護している点も特徴的です。

ビクティニ:主よ、大井川鉄道の全線復旧を・・・

ムーミン:主よ、能登半島地震の復興を・・・

 

天主堂に付けられていた薔薇窓と十字架

ザビエル天主堂に付けられていた『薔薇窓(ローズ・ウィンドー)』は、ゴシック様式の教会堂建築における大きな特色の1つとして、はめ込まれたステンドグラスからの美しい光が壮麗な空間が演出します。

ここに展示されている薔薇窓は、昭和48年に京都から移築される際、保存のために取り外したオリジナルのものです。直径3.6メートル、木製の枠にはめ込まれています。ヨーロッパ中世以来の伝統的なステンドグラスは、図様を描いて焼き付けた色ガラスを鉛の縁でつなぎ合わせます。この薔薇窓は、本格的なステンドグラスの製造法が日本にもたらされる前のものであるため、木製枠を使った日本独特のものです。また、ガラス絵の手法を使って色ガラスに白ペンキで図様を描き、外側に透明ガラスを重ねて保護している二重ガラスになっています。中央から放射線状に伸びる12本の枠線は、キリストの教えを広めるために世界各地に散らばった『十二使徒』をあらわしています。

展示されている十字架も、聖ザビエル天主堂が京都にあった当時、正面建物の頂上に立っていたものです。欅が使われ1本から全体を掘り出した『丸彫』という技法によって造られています。展示されている十字架は劣化されていたため、新しい十字架と取り替えられました。現在明治村に建っている天主堂の十字架は2代目のものです。

 

 

ということで、今回は『博物館明治村で明治ロマンを体験!』をお伝えしました。

ビクティニ:なかなか素敵なところだった。また来たい

ムーミン:色々興味深かった

 

 

★明治村のSLと京都市電ほかの映像★


www.youtube.com

 

 

おわり