ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

碓氷峠鉄道文化むらで開催される横川ナイトパークに出かけてきました

皆さんこんにちは。

今回は、碓氷峠鉄道文化むらで開催される『横川ナイトパーク』に参加してきました。

 

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横川駅

碓氷峠鉄道文化むらへは、高崎駅よりJR信越本線横川駅にて下車、徒歩2分のところにあります。

高崎駅から西へ続く信越本線はここが終着駅になっていますが、かつてはここから更に先の方の軽井沢方面には鉄路が続いていたのです。ところが、平成9(1997)年には廃止となっており、今ではこの横川駅で行き止まりになっているということです。なお、ここから軽井沢へ行くJR関東の路線バスが出ているので、鉄道文化むらを見た後で軽井沢に泊まりに行く時、あるいは新幹線を使わずに在来線やバスで軽井沢に行く人には検討してみるのもいいかもしれません。

ビクティニ:久しぶりに横川駅に来たけれど、今日はここで何かイベントがあるのかな?

ミュウ:どうやら『ナイトパーク』が開催されるという話は聞いたけど・・・。

 

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66.7‰の勾配標とアプト式の線路
碓氷峠鉄道文化むらに入園します。

すると『66.7‰(パーミル)』の勾配標アプト式鉄道のレール(レプリカと思われる)が目の前に飛び込みます。そう、アプト式はかつて碓氷峠を通る鉄道を支えてきた名残として後世に伝えています。それもそのはず碓氷峠に鉄道を通すのには、様々な困難が強いられてきたということです。勾配標にある『66.7』・・・これは『1kmの距離に対して66.7メートルの高低差がある』という意味なのです。線路の中央部に敷かれているのは『ラックレール』というもので、機関車に取り付けられた歯車とラックレールをかみ合わせることで、碓氷峠のような難所でも安全に急勾配を通過する事ができます。更にラックレールと歯車の位相をずらすことで、駆動力の円滑化ならびに長寿命化を図るとともに、複数の歯車のうちいずれかが深くかみ合い、安全性の向上にもつながったといいます。碓氷峠のある信越本線では、3組のラックレールを120度ずつずらして使用されていました。

 

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特急型車両189系
かつて上野から長野を結んでいた信越本線の特急は『189系』といわれる車両が活躍していました。

この車両は特急『あさま』号の運用についていたもので、国鉄・JR最大の難所といわれる碓氷峠も越えていたのです。もとを辿れば、183系に碓氷峠越え対策を施した仕様であり、峠を越えるときに補助機関車と連絡できるよう協調運転するための装置が備わっています。

 

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EF63型電気機関車
峠のシェルパことEF63型電気機関車です。

鉄道ファンならご存知のように、信越本線横川~軽井沢間で活躍した峠越え専用の補助機関車です。これまで横軽の鉄道輸送を担ってきたアプト式に代わって『粘着運転』で碓氷峠を通過する列車を支えてきたのです。この機関車は、長野新幹線の開通とともに平成9年9月30日の廃止まで活躍しました。

 

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加速度検知装置(OSR)
EF63型には、他の機関車にはない峠越えのための特殊な装置が組み込まれています。

例えば、この機関車に装備されていた『加速度検知装置(OSR)』は、機関車下に設置された『遊輪』を回転させることによって、動輪の空転に影響されることなく絶対速度を検知されます。そして、その遊輪を回転させて機関車の速度が決められた制限速度を超えていないかチェックするのです。また、その遊輪軸には車軸発電機が直結されており、OSRなどの検知回路に送電されます。そして、出力が設定値を超えたときに継電器が作動仕組みになっているのです。すなわち、これが機関車の制限速度を超えたとき自動的にブレーキが掛かる仕組みになっているというわけです。

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屋外展示場
丘を上っていくと、『屋外展示場』があります。

展示場には、D51型蒸気機関車をはじめ、EF63型やEF62型、EF58型、EF53型、他にも様々な客車や気動車なども展示されています。

 

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EF63型1号機とEF53型電気機関車
EF63型の1号機は横軽における鉄道輸送の効率化ならびに粘着運転を実現するべく、昭和37(1962)年に製造されたものです。

登場時は茶色でしたが、後に量産型と同様、青とクリーム色の標準色に塗り替えられました。この機関車は、他に機関車と同様に峠越え補機を務め、昭和61(1986)年に廃車されています。現在では、屋外展示場にて保存されています。

EF53型電気機関車は昭和7(1932)年に製造され、主に東海道本線や山陽本線の優等列車で活躍した旧型電気機関車です。

大きなデッキが特徴で、戦前当時の電気機関車はこのスタイルが標準的だったといいます。なお、EF58型の増備で余剰となったのか、全機が山陽本線のセノハチ越え専用機である『EF59型』へ改造されましたが、『EF59-19』に改造されていた2号機は廃車後、元の『EF53型』に復元され、現在は碓氷峠鉄道文化むらにて展示されています。

 

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キハ20形気動車
キハ20形気動車は国鉄における標準型気動車として、昭和32(1957)年に開発されました。

1126両が製造され、北海道から九州にかけて全国的に活躍し、国鉄・JR線内はおろか私鉄や第三セクターでも活躍したディーゼルカーです。

当時、非電化路線で走っていた蒸気機関車による普通列車の置き換えとともに、これまでの17メートル級気動車からの大型化ならびに準急形気動車であるキハ55系の成功を受けて、その車両をベースに開発されたものです。キハ20形のディーゼルエンジンは『DMH17型』を積んでおり1基型エンジンと平坦向けですが、他にも勾配の多い路線向けでディーゼルエンジンを2つ積んだ『キハ52形』や座席の他に郵便室や荷物室を持つ『キハユニ26形』など、バラエティに富んでいます。

 

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DD51型ディーゼル機関車とDD53型ディーゼル(除雪)機関車
DD51型ディーゼル機関車は、当時走っていた蒸気機関車の置き換え(無煙化)を目的に昭和37(1962)年から昭和53(1978)年にかけて649両が製造されました。

本線用の電気式ディーゼル機関車として先行導入されたDF50型に関しては、亜幹線の無煙化の面では好評であったものの、出力の不足や故障の多さに加え、価格の高さが欠点とされていたことから、本格的な非電化路線における幹線用主力機の開発が課題となりました。そこで液体式のディーゼル機関車として開発されたのが『DD51型』です。これは、旅客面や貨物面においても、蒸気機関車の性能を上回るように設計され、2基のディーゼルエンジンを搭載した2000~2200馬力の性能を牽引力を誇っています。JRになった後、『北斗星』や『トワイライトエクスプレス』、『出雲』などの寝台列車の運用でも活躍しました。

DD53型は、通常の運用ならびに除雪車兼用として開発されたディーゼル機関車です。

DD51型をベースに1100馬力のDML61Z-Rディーゼル機関を2基搭載し、蒸気機関車時代で言う大規模除雪車こと『キマロキ編成』の能力をディーゼル化、更に強力かつ高速に除雪を行うことができる除雪用ディーゼル機関車として設計されたものです。除雪車はロータリー式であることから、ラッセル式より効率よく除雪できたといいます。この車両は大型ということもあり3両しか製造されず、運用先は北海道や新潟エリアなどで活躍しました。

 

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ED42型アプト式電気機関車
信越本線横川~軽井沢間の旧線では、『ED42型』というアプト式の電気機関車が活躍していました。

この機関車はスイスから輸入されたED41型をベースとして昭和9(1934)年に開発されました。両端にデッキが設けられ片運転台という仕様なのですが、運転台は横川駅方面にしか設置されていません。また、屋根にはパンタグラフが1基のみ設置されていますが、これは、横川駅や軽井沢駅構内での入換などに使用されていたようです。本線を走行する時は、もちろんアプト区間を走るため、機関車に設置された歯車と線路のラックレールをかみ合わせ、更に『第三軌条方式』という集電方法が用いられます。第三軌条とは、線路の脇に設置されたケーブルから集電して車両を動かす方式のことをいいます。イメージとしては、東京メトロ銀座線や丸ノ内線を思い浮かべればわかりやすいでしょう。

 

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ED42型の車輪

駆動方式としては、第三軌条から取り入れた電力を電動機に送り、その回転エネルギーから連結棒(ロッド)を伝って動輪を動かします。また、アプト用の歯車は車体中央下に設置されており、その歯車も専用の電動機で動かしていました。

 

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ED42型の集電靴

第三軌条から電力を取り入れる時は、この『集電靴』を使います。これは、現代の電車でいうパンタグラフと同じ役割をします。しかし、信越本線のような主要路線では、このアプト式に加え、第三軌条という電化方式を採用したことで、輸送力や速度向上には不向きという状況になったことから、1960年代には更に効率の良い新線への転換、そして粘着運転をするEF63型にその役目を譲ることになったのです。

 

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EF62型電気機関車
EF62型電気機関車は、碓氷峠越えのある横軽区間に直通できる旅客・貨物牽引用機関車として、昭和37(1963)年に開発されました。

この機関車は信越本線の本務機として活躍し、EF63型と同様に碓氷峠越えに必要な特殊装備がされています。アプト式時代の信越本線は、当時電化されていたのはアプト区間の横軽のみで、他の区間は非電化でしたが、後に各々の区間が電化されると、アプト式から粘着運転にシフトチェンジされます。これを機に信越本線の本務機として投入されたのがEF62型です。

この機関車を開発するにあたり、EF63型が総重量が108トンであるのに対し、こちらは本務機であるため、総重量が92~96トンに抑えられています。これは、線路規格に影響するもので、信越本線の場合、EF63型の超重量級を支えるため横川~軽井沢間のみ1級線として設定され、他の区間は2級線になっています。すなわち、横軽以外の運用では、軸重17トンおよび総重量102トン以内に制限されます。そのため、この機関車の開発において各種粘着実験の結果、92トンとすることが目標とされ、電気機関車における軽量化も実現できたのです。そのような経緯もあり、他のF形機関車とは違う『3軸台車』が装備されています。Co-Co軸配置とすることで、1つの台車に多くの車輪を配置させることにより重量が分散され、これが軽量化につながるということですね。

 

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EF63型と特急『あさま』号

続いて、『アプトの道』『めがね橋』を散策します。

シェルパくんで山道を進む途中、かつて信越本線を駆け抜けていた特急『あさま』号と横川~軽井沢間を行き来していたEF63型が姿を現します。それもそのはず、特急あさま号は新幹線が開業するまで上野~長野間を結ぶ速達列車としてこの横軽を行き交っていたのです。

 

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丸山変電所
『めがね橋』へ向かう途中の進行方向右側には、『丸山変電所』という古い建物が建っています。

この建物は明治45(1912)年の信越本線横川~軽井沢間の電化に際して建てられたものです。これは、かつてあった横川火力発電所より送られてきた電力を本線の機関車に供給していたのです。また、当時の信越本線は日本の近代化かつ首都圏から長野や新潟あるいは日本海側の輸送を担う路線としては大変重要であることから、この変電所自体がその路線のを支えた歴史的建造物でもあります。。そのため、日本の近代化に貢献した鉄道施設としては、大変価値のあるものであることから、平成6(1994)年に国の重要文化財に指定されました。この変電所は2棟の建造物からなっているのが特徴的で、横川側が蓄電池室、軽井沢側が機械室になっています。

蓄電池室には、機関車が峠に差し掛かった際に必要な電力を補うため、312個の蓄電池が並んでいたのです。また、充電中は室内に水素や有害物質を含む硫酸雲霧が大量に発生する危険から、窓や引き戸などは通風出来るように工夫がされていました。

機械室では、450kwの回転変流機2基および500kVAの変圧器2基が収納されており、発電所から送られた交流6600Vの電流を直流600Vに変換し、第三軌条に電力を送っていました。

変電設備とはいえ、日本では有数の貴重なレンガ造りの建造物、更に入り口や側面に設けられた装飾など、変電設備とは思えない風格なデザインとなっています。

 

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日帰り温泉『峠の湯』

トロッコの終点が日帰り温泉『峠の湯』となっています。しかしながら、この日はやってないようで、明日からオープンするそうです。はるばるナイトパークを見に来ただけに土曜日とはいえ日帰り温泉に入れないのは、心なしかいささか残念です・・・。なお、この近くには、中山道の宿場町『坂本宿』があります。

 

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白秋の歌『碓氷の春』の石碑

アプトの道には、白秋の歌『碓氷の春』の石碑が建てられていました。その歌には・・・。

白秋

うすいねの

     南おもてと 

          なりにけり

くだりつゝ思ふ 

     春のふかきを

 

この歌は近代日本詩人の巨匠である北原白秋が、大正時代に信濃を訪れ帰る際、『碓氷の春』として詠んだそうです。大正ということは、その詩人さんもアプト式の鉄道に乗ったのでしょうか?

 

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アプトの道 碓氷第1号トンネル
峠の湯から先は、信越本線でいう『旧線』『新線』に分岐されます。

『旧線』はいわゆるかつての『アプト式の鉄道』が通っていた場所で、終日まで散策できます。『新線』に関しては基本的に立入禁止ですが、日によっては『廃線ウォーキングツアー』によって開放される日があり、そのツアーに参加すると当時の新線の様子も見ることができます。この旧線ことアプト式鉄道があった廃線跡が文字通り『アプトの道』の一部になっています。

ビクティニ:ここが、旧信越本線の廃線跡か・・・。まるでダンジョンのように続いているぞ・・・。

ミュウ:どこまで続いているんだろうね・・・。

 

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碓氷湖
しばらく歩いていると、碓氷第2号トンネルを抜けた左手に『碓氷湖』が見えてきます。

碓氷湖は、中尾川と碓氷川の合流地点にあり、そこをせき止めて造られた人造湖です。湖周辺は新緑や紅葉など自然の彩りを見せてくれます。湖畔には1.2kmも遊歩道も整備され、アプトの道を探検がてら散策するのも楽しみの1つでしょう。この日は、湖畔に釣り人が集まったりライダーたちがここで景色を楽しんだりしていました。

 

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アプト式鉄道が通っていた旧線跡

信越本線の一部として使われた旧線跡は、線路やラックレールなどは残っていませんが、トンネルや橋梁などの遺構は残っており、かつてアプト式鉄道が通っていた名残を感じ取ることができます。また、トンネルや橋梁にはレンガ造りが用いられているのも、まさに当時の土木建築を物語っています。これだけ古いトンネルを見れば、ここに鉄道が通っていたことが実感できますし、70年のアプト時代を通して色んな列車が通っていたことを思えば、感慨深いものがあります。
信越本線は、もともと首都圏から長野や新潟などの日本海沿いを結ぶ幹線として計画されていた路線であり、官設鉄道時代は高崎駅~直江津駅間が開業した路線です。そのうち、高崎駅~横川駅間および軽井沢駅~直江津駅間が先行開業しました。ところが、碓氷峠を通る横川駅~軽井沢駅間はあまりの難所ゆえに工事が難航し、当時は馬車鉄道が通っていました。

そして、明治26(1893)年にはようやく横川~軽井沢間が開通し、高崎~直江津間が全線開業しました。なお、のちの直江津~新潟間は北越鉄道として開業し、明治40(1907)年の国有化によって信越本線となり、高崎から長野や直江津を通り新潟に至るまで約315kmに及ぶ長大路線となったのです。

信越本線の横川~軽井沢間は、鉄道開業に際して66.7‰の急勾配に加え、11.2kmの距離および高低差553メートルに及ぶこれまでに類を見ないほど延々と急勾配の続く鉄道路線として開業。その区間に明治26年・・・ようやく待望の本格的な鉄道が導入されるのですが、開業時から『アプト式鉄道』で運行されていました。同時にアプト式の蒸気機関車で運行されるも、低速かつトンネルも多いことから機関車から排出されるばい煙により、多くの乗務員や乗客たちを苦しませました。そこでいち早い電化が望まれ、明治45(1912)年には電化されます。その時、第三軌条方式の600V電化に加え『10000型(EC40)電気機関車』も投入されます。そして次々とアプト式電気機関車が投入されていくのですが、アプト式鉄道においてとりわけ一番活躍した機関車が『ED42型』です。この機関車が登場してから、アプト式鉄道ではもはや主役的存在となりました。しかしながら、アプト式だと輸送力や速度向上には追いつかないということもあり、昭和38(1963)年には新線への転換および運転形態を『粘着運転』へ切り替えることになり、碓氷峠におけるアプト式鉄道は70年の歴史を刻み姿を消しました。

今では、アプト式鉄道時代のトンネルや橋梁などの遺構がかろうじて原型を保ちつつ静かに余生を送っています。なお、アプト式時代の横軽の区間には、26箇所のトンネルと18箇所の橋梁が存在していました。そのうち、『アプトの道』にあるトンネルは全部で10箇所、橋梁が6箇所あり、この道はめがね橋を通して更に奥にある『熊ノ平駅跡』まで道が続いています。現在では遊歩道として当時の遺構を見ることができます。ただし、夕方6時以降はトンネルの照明が消灯されるので注意が必要です。

 

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碓氷第三橋梁(めがね橋)の上

第5号トンネルを抜けると、開けた景色に高い所へやってきました。

ここが、碓氷峠のシンボル的存在といえる『碓氷第三橋梁(めがね橋)』です!

当然ながら、ここも信越本線(旧線)の一部であり、かつてはこの大きな橋の上にアプト式鉄道が通っていました。この下には碓氷川が流れており、旧国道18号もこの近くを通っています。大昔にここを鉄道が通っていたことを思えば、当時は首都圏と長野・新潟や北陸へ向かう列車で行き交っていたことでしょう・・・。そして、ここを通る列車を支えてきたED42型をはじめ、様々なアプト式機関車の遺した足跡がどこかにあるのかもしれません・・・。めがね橋の欄干をよく見てみると、随所に苔が生えています。ここに碓氷第三橋梁が建てられたのは明治26(1893)年で、ざっとでいうとこの橋は約130年前に建てられたものなので、相当年季が入っているということが伺えます。

ビクティニ:長いトンネルを出たと思ったら、こんなに高い場所に出ちゃった。するとここは・・・。

ミュウ:ここは『めがね橋』なんだね!

ビクティニ:そうか!さっきの鉄道文化むらからここまで歩いてきたのは初めてだけど、改めて橋の上から川を見てみると結構高いね!

 

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下から見た碓氷第三橋梁

『アプトの道』から下に降りて麓から見てみましょう。

ここからのアングルを見ると、まさしく定番の『碓氷峠のめがね橋』の姿です!

廃止前は複数のED42型が列車とともに峠を越えていく姿が回想のように思い浮かびます。

碓氷線の開業とともに完成した4連アーチ橋の『碓氷第三橋梁』は、先程の丸山変電所と同様にレンガ造りの建造物であり、この橋に使われたレンガの個数はなんと約200万個にも及びます。そのため、日本に現存するレンガ造りの建造物としては最大級のものとされています。高さは川底から31メートル、全長91メートルあります。なお、この橋の設計にあたっては、明治15(1882)年当時、イギリスから日本へ招聘(しょうへい)された鉄道作業局技師長ことパウナル氏および古川晴一氏と共同で設計されました。当時は碓氷線だけ未開通だったこともあり、工事は急ピッチで進められました。短期間に建てられたものとはいえ、ここまで巨大な橋をを造り上げたのは見事だと思います。

そして、めがね橋が完成してからアプト式鉄道が廃止される昭和38年9月まで現役の鉄道橋として70年ものの長き歳月をかけて碓氷線を支えてきたのです。このような経緯から、『碓氷峠鉄道施設』の構成資産の一部として、平成5(1993)年に国の重要文化財に指定されています。 

 

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信越本線 新線の橋梁
めがね橋の上からは新線跡の橋梁が残っているのが見えます。

よく見てみると、橋梁には架線柱や電線が残っているのがはっきり見えます。新線の方は、EF63型による粘着運転で峠を越えていました。こちらの新線は、長野新幹線(現:北陸新幹線)の開業とともに平成9(1997)年9月30日に廃止となりました。こうして、アプト式からEF63にかけて104年間にわたって、信越本線の一部であった碓氷線の歴史に終止符が打たれることとなったのです。

 

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碓氷第6号トンネル
さて、めがね橋より更に奥の方へ進んでいきましょう。

めがね橋から熊ノ平駅方面に続く道はすぐトンネルに入ります。このトンネルは第6号トンネルですが、旧信越本線横川~軽井沢間の旧線区間にあった26箇所のトンネルの中では一番長いトンネルです。全長543メートルあります。旧線のトンネルの壁にもレンガが用いられているのですが、先程のめがね橋も含めて橋梁やトンネルに使用されたレンガの数は約1800万個にも及びます。ここにアプト式の蒸気機関車が走っていた頃を思い浮かべてみれば、たしかに当時は地獄絵図のごとく凄惨なことになっていたのが想像できますね・・・。

ビクティニ:このトンネルだけ一段と長いよ・・・。一体どこまで続いているのかな?

ミュウ:まるでダンジョンの中を彷徨っているみたい・・・。

 

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トンネルの途中にある小さな穴

トンネルを進んでいるうちに、途中でいくつか小さな穴があります。一体何のための穴なのでしょうか?推測になるのですが、蒸気機関車から出た煙を外部に逃がすため、あるいはあまりにも長いトンネルだったのか外から日光を取り入れるためかと思われます。もっともトンネルの途中にこのような穴の空いているのはこのトンネルに限ったことではなく、他のトンネルでも見られることがあるのですがね。

ビクティニ:これはいったい何のための穴かな・・・?

ミュウ:昔はSLが走っていたからこの穴で煙を外に逃がしていたのかも・・・?

 

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第10号トンネルを抜けると・・・

そして、アプトの道最後のトンネルである第10号トンネルを抜けると、出口の先には新線の架線柱が見えます!

ビクティニ:おお!ここはもしや・・・。

ミュウ:熊ノ平駅だ~!

 

 

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熊ノ平駅跡

ここが碓氷線の中間地点である『熊ノ平駅』です。

ここには信越本線の線路跡や架線柱、信号機などの鉄道設備が当時の状態のままで残っています。かつては首都圏から長野や新潟、北陸などへ向かう多くの列車が行き交っていましたが、平成9(1997)年に廃止となって以来、閑古鳥が鳴くほど静まり返っています。

ここは、明治26(1893)年の碓氷線開業とともに横川~軽井沢間の中間地点に『熊ノ平信号場』として設置されました。また、アプト式時代は丸山変電所~矢ヶ崎信号場までは単線区間であったため、列車交換設備も設けられました。

明治39(1901)年には鉄道駅に昇格され、相対式ホームを設けた2面2線式でしたが、アプト式が廃止になってから昭和41(1966)年には信号場に降格されます。アプト式時代では、この駅自体がトンネルとトンネルに挟まれた環境にあるため、十分な有効長が確保できなかったそうです。つまり、この駅の構内は列車が突込線のトンネルに入った後、本線脇の引き上げ線に後退して停車する、いわゆるスイッチバック駅だったのです。新線移行後の旧熊ノ平駅は閉塞区間の拠点として機能していました。

 

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熊ノ平駅から見た軽井沢方面

熊ノ平駅から見た軽井沢方面です。遊歩道はここで行き止まりですが、線路はまだまだ先へ続いています。構内を出るとすぐにトンネルがあり、トンネルの奥に見える上り坂から、急勾配区間が更に続いているのが分かります。熊ノ平駅は横川駅から約6kmほど離れていますが、ここから軽井沢までは5kmほど続きます。当然ながら、ここから先は立入禁止なのでここから軽井沢までの徒歩は不可能です。

 

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アプト式開通記念碑
熊ノ平駅構内脇には、明治26年4月の碓氷線開通を記念し軽井沢駅に建てられた鉄道碑があります。

鉄道の敷設が急がれた建設当時は、多くの殉職者が出たことから、この地に鉄道を通す職員たちの苦労さや命がけな努力さが感じ取れます。また碓氷線は特別勾配が急という特殊な区間だったこともあり、過去には幾度となく様々な事故が起こりました。逆走事故、脱線事故、さらに熊ノ平駅構内にて土砂崩れが起こるなど、まさに鉄道と厳しい碓氷峠との壮絶な戦いの日々が続いたのです。特に大正7(1918)年に起こった『熊ノ平駅脱線事故』は66.7‰の急勾配という極めて特殊な路線で起きた事故ということもあり、その急勾配を逆走して熊ノ平駅構内に突っ込んで列車が脱線および大破した大惨事となりました。

その事故の内容によると、当時運行されていた10000型電気機関車重連による11両編成の貨物列車が定刻より25分遅れで熊ノ平駅を4時33分に軽井沢へ向けて発車した時のことです。機関車から出る異音や異臭に気づいた本務機機関士が機関車を緊急停止させ、緊急点検を行いました。すると、ラック歯車駆動用電動機の継ぎ手が故障の原因だったようで、他は異常がなかったと見なされ、引き続き運行されることとなったその時!本務機機関士は補助機関車に発車を促した時に補助機関車からの反応は一切なく、突然列車が後退を始めました!この時、本来ならば18km/hで運行最高速度となるはずでしたが、その2倍である32km/hに達していたのです。機関士は必死に手用帯ブレーキ(ラック歯車に作用するためのブレーキ)および手ブレーキに加え、発電ブレーキを動かしましたが、それでも列車は暴走を止めません。更に66.7‰の急勾配ということもあり、余計に速度を増し、中間の貨車2両が脱線、そして凄まじい速度で熊ノ平駅構内へ進入していきます。側線の車止めを破壊したあげく岩壁に激突し脱線してしまいました。この時、貨車は原型を留めていないほど粉砕、金属製の機関車2両でさえも大破してしまいました。この時、有蓋緩急車に乗務していた乗務員1名、ならびに駅構内の転轍機操作係1名の計2名が即死、補機機関士と車掌の2名も重傷後死亡、本務機機関士ほか計4名も重軽傷を負いました。

これだけ大規模な事故を聞く限り、まさしく碓氷峠を通る鉄道の厳しさを物語っています。碓氷峠の鉄道で働く鉄道マンたちは本当に命懸けだったことが伺えます。他にも、昭和50(1975)年には、新線にてEF63型2台とEF62型2台の4重連による回送列車において脱線事故も起きていました。新線でも碓氷峠の厳しさには敵わなかったんですね・・・。

 

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現役時代のアプト式鉄道
『アプトの道』の探検が終わったところで、鉄道文化むらに戻り資料館も見てみましょう。

これはアプト式鉄道が現役だった頃の貴重な写真です。写真はED42型と客車列車のもので、当時はレンガ造りの橋梁もトンネルも健在でした。一見、機関車がパンタグラフを上げていない非電化の路線に見えますが、実は線路脇にある第三軌条からの電力で集電させて列車を動かしていたのです。

 

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碓氷峠の海抜
これは、旧線時代の碓氷線で示した碓氷峠の海抜表です。

先ほど訪れた熊ノ平駅を境に軽井沢方面のほうが横川方面より距離は短いものの、トンネルの数としては軽井沢寄りの方が多いようですね。26箇所のトンネルのうち10箇所が横川側で遊歩道の一部として整備されているんですね。横川駅から軽井沢までの1区間だけでも見ると553メートルの高低差を一気に上っていくということが実感できます。

 

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当時の66.7‰勾配標

資料館内には実際に使われた標識やアプト式鉄道の残骸、機関車のナンバープレートなどが展示されています。特に当時物の『66.7』の勾配標が碓氷峠の鉄道に強烈な印象を感じさせます。

 

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当時使用されていたラックレール
信越本線の横川~軽井沢間がアプト式鉄道だった頃、実際に使われたラックレールも展示されています。

当時アプト式鉄道で使われていたラックレールは、使われていくうちに摩耗していくんですね・・・。そして、ある程度使われたラックレールは新しいものに交換しなければならないので、当時の保線員は11.2kmものの線路を点検しなければいけないことを考えれば、かなり過酷な点検作業だったかと思います。更に交換時も線路脇に第三軌条があることから、感電する危険とは隣合わせという環境で作業しなければならないことを思うと、当時の鉄道を支えるのがこんなに命懸けだったことが伺えますね・・・。

 

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EF63型に使われた連絡用電話機器
EF63型には粘着運転に欠かせない専用の機器も装備されていました。

これは、協調運転を行う際、峠を越える列車の運転士や本務機の機関士と連絡を取り合うのに実際に使われた電話機です。これを使って運転士からEF63の機関士に操作指示をしたり、あるいは機関士から列車の運転士に状況を確認したりするなどの連絡を取り合っていたのです。

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国鉄最後の磯部駅の時刻表

これは、国鉄が民営化(JR化)される直前の信越本線磯部駅の時刻表です。

当時は今より列車本数が多く、普通列車の他に特急も停まっていたんですね。普通列車の中には横川行きの他に軽井沢や長野まで行く普通列車も設定されていたようです。もっとも、横川~軽井沢間が廃止になった今となってはすべて横川止まりになっていますがね。

 

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横軽廃止当日の運行表
これは、横軽(碓氷線)が廃止される直前の平成9(1997)年9月30日の列車運行表です。

横軽が廃止される当日の最終列車は・・・

★営業列車★

上り(高崎・上野方面)  362M  115系 普通 高崎行き

下り(軽井沢・長野方面) 3037M 189系 特急あさま37号 長野行き

★回送列車★

上り 単9176レ EF63型単機回送

 

EF63型の単機回送を最後に信越本線横川~軽井沢間は廃止。それ以降は碓氷峠に列車が通ることはありません。

 

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横川ナイトパークの始まり
さて、いい具合に日が暮れてきたので屋外展示場に行ってみます。

すると、展示車両のあちこちにヘッドライトが点灯し始めました。これは、ナイトパークとしての雰囲気を出すためにライトを点けているのだと思います。

ビクティニ:おお!デゴイチに明かりが灯りだした!

ミュウ:まるで鉄道のロマンがあふれているみたいだね。

 

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EF58型電気機関車とEF30型電気機関車

横川ナイトパークでは、様々な車両たちが普段は見れない演出を見せてくれます!

EF58型電気機関車は、鉄道ファンの間では有名かつ人気のある電気機関車です。

戦後の日本の旅客輸送を支えてきた機関車の一つとして、昭和21(1946)年に登場しました。当初は31両が製造されデッキの付いた箱型として登場しましたが、一旦製造が中止されます。のちに昭和27(1952)年より改良型として量産が開始され、車体もいわゆる『湘南顔』といわれる二枚窓を採用した流線型のフォルムとして登場しました。これは、高速性能に優れ、しばしば特急の運用に使われるほどだったといいます。このことから、多くの鉄道ファンから人気を集め、次第に『ゴハチ』の愛称で親しまれました。全盛期には東海道・山陽本線をはじめ上越線や東北本線(黒磯以南)の主要幹線では、特急や急行から普通列車、更に荷物列車の運用まで幅広く活躍しました。他にもブルートレインお召し列車の牽引にも抜擢されたことがあります。

EF30型電気機関車は、関門トンネル向けに製造された機関車です。

この機関車は、山陽本線の下関~門司間にある直流区間(DC1500V)交流区間(2万V)境界線(デッドセクション)を通るため、交直両用になっています。従来の関門トンネル区間ではEF10型電気機関車が活躍していましたが、当時の下関~門司間は直流1500Vで電化されていたのです。しかし、昭和36(1961)年に鹿児島本線が交流電化されるのと同時に門司駅構内も交流2万Vで電化されることとなったため、交流区間と直流区間を両方走れる電気機関車が必要となったことから、関門トンネル専用機かつ交直流両用機関車として本形式が登場しました。これは、量産交直流電気機関車としては世界初だそうです。この機関車は関門海峡の下を通るため、塩害対策としてステンレスの車体が採用されています。また、トンネル内の22‰勾配を通る1千2百トンの貨物列車を重連で牽引可能な性能が備わっています。

 

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距離標(キロポスト)
これは鉄道路線の起点駅からの距離を示す『距離標(キロポスト)』です。

このような標識は線路脇に設置されている事が多く、起点駅からどれぐらい離れているか分かるようにしています。例えばこの標識の場合、下に『31』と書かれ、上の斜面には『8』と書かれていますが、これは起点から31.8km離れているという意味になります。この標識はかつて信越本線横川~軽井沢間に設置されていたものです。

 

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EF80型電気機関車
先ほどのEF30型に続いて国鉄において2例目となった本格的な交直両用電気機関車の量産形式としてEF80型が開発されました。

主に、常磐線系統の旅客貨物両用として、昭和37(1962)~昭和42(1967)年にかけて63両が製造。鉄道文化むらにあるものがラストナンバーです。常磐線は、当初の昭和36年には取手~勝田間が直流電化されましたが、茨城県新治郡八郷町(現:石岡市)にある地磁気観測所での観測に影響を与える恐れがあることから、後に交流区間へ変更されました。このため常磐線の取手~藤代間にデッドセクションが設けられ、交直両用電気機関車が必要となり登場したのがEF80型です。この形式は、交直両用機器の重量を軽減するため、電気機関車としては珍しい『カルダン駆動』が採用されているのも特徴的です。

 

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EF62型1号機とEF15型電気機関車
屋外に展示されているEF62型電気機関車は、デビュー当時と同じ茶色塗装が施されています。こちらの1号機は試作車として登場しました。
EF15型電気機関車は、戦後の貨物輸送需要に応えるべく、昭和22(1947)年から昭和33(1958)年にかけて製造されました。

これは、当時旅客用の機関車として標準的だったEF58型と共通の台車や電気機器などが用いられ、この機関車も事実上の標準型とされ、戦後における貨物機の主役として活躍しました。基本的な設計としては、EF10型をベースとしており、車体や電気機器などはEF58と共通化されたことで、製作工程の簡易化および容易な使用材料の選択などから、量産化できたといいます。主に東海道・山陽本線をはじめ東北本線や上越線などの主要幹線における貨物列車を担当してきましたが、1980年代には新性能電気機関車に置き換えられるとともにJRへ引き継がれることなく姿を消したのです。現在では、165号機が鉄道文化むらに保存されています。なお、上越線の水上~石打間における20‰の連続勾配対策機として本形式から改造され、更に回生ブレーキも装備した『EF16型』も開発されています。

 

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ナハフ11形(10系客車)の車内
10系客車は国鉄の軽量客車として、昭和30(1955)年に開発されました。

これは、1950年代に軽量化設計で世界をリードしていたスイス国鉄の連邦鉄道の軽量客車の影響を強く受け本形式が日本で設計および開発されたものです。既成概念を覆した革新的な設計の導入から従来の車両より格段の軽量化を実現し、輸送力の増強および車両性能の向上に著しい効果を上げたといいます。また、外装面においても大型の窓が備わるなど、まさにスイス流の軽快かつ明朗なスタイルが導入され、当時の国鉄車両のデザインに新風を吹き込みました。その後の国鉄型車両は、この10系客車がベースとなった軽量構造が採用されたことから、後続の旅客車両設計に大きな影響を与えたともいえるでしょう。

写真の車内は、『ナハフ11形』といわれる車両で、10系客車の座席車です。10系客車の基本形式として登場した『ナハ(ナハフ)10形』に蛍光灯を採用した近代版です。

 

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オハユニ61形(60系客車)
60系客車は、戦後に木造客車を改造して鋼製客車とした形式群です。これを総称する形で『鋼体化改造車』ともいわれています。

写真の『オハユニ61形』3等座席郵便荷物合造車で、昭和27(1952)年~昭和31(1956)年にかけて130両が鋼体化改造によって製造されました。1両の客車には座席の他、郵便室や荷物室の3室が配置されているのが特徴です。これは、当時の国鉄では使用に耐えられない木造車を緊急廃車にした時に郵便車が足りなかったことから、郵便室を設けたこの形式が大量製造されました。ちなみにオハユニ61形の『オ』は総重量が32.5~37.4トンの『大型』『ハ』は3等車、『ユ』は郵便車あるいは郵便室のある客車『ニ』は荷物車あるいは荷物室のある客車を表しています。

 

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オハネ12形(10系客車)
オハネ12形は先ほどのナハフ11形と同様、10系客車グループの一つです。

こちらは寝台車となっており、戦後初の3等寝台車です。これは、10系客車初の量産車として設計されました。この車両は国鉄初の広幅車体で、片側に廊下、枕木方向に三段寝台を向かい合わせに設けられた区画となっています。1両で10区画あり、定員60名となっています。また、寝台だけでなく昼行急行にも対応できるよう座席車としても使えるようにするため、上下段は固定、中段は座席使用時に下げて背ずりとする構造になっています。この形式はもともと『ナハネ10形』として登場しましたが、後の冷房化改造から、『オハネ12』に変更されています。ちなみに、一応寝台車ではあるのですが、あくまで急行寝台という部類に入るため厳密にはブルートレインではありません。

 

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EF60型電気機関車
EF60型電気機関車は、国鉄初の新性能電気機関車かつ東海道本線や山陽本線などの主要幹線向けの電気機関車として昭和35(1960)年に開発されました。

これは、当時これまでの東海道本線や山陽本線において高速貨物列車用として使われていたEH10形電気機関車の出力(2,530kW)並みの性能を持ちつつ、390kWのMT49型電動機を各動輪に配置すると出力は2,340kWとこれほど大差ない結果となりました。このような経緯から小型軽量のF形機関車が実現可能であるために登場したのがEF60型電気機関車です。この機関車の登場でこれまでデッキ付きだったスタイルから箱型スタイルに変更されました。そのため、この機関車からは新性能電気機関車という定義とされ、後の電気機関車のスタイルとなったのです。0番台が貨物用として129両、500番台がブルートレイン用として14両の合計143両が製造されました。当初は『クイル駆動方式』が用いられていましたが、車輪の大歯車に設けられた継手部分に塵埃の混入による異常摩耗に起因するかみ合いの悪化から、大きなトルクが掛かると異常振動や騒音が発生するという問題があったことから、後に吊り掛け駆動に変更されています。

主に東海道・山陽本線の高速貨物および寝台特急の運用で投入されましたが、本形式は貨物牽引を前提としたため定格速度が39km/hと低速であることに加え、東京~下関間の1000km超えの長距離区間を連続高速運転するのは想定外だったのです。にも関わらず500番台がブルトレ用としたのは山陽本線のセノハチ越えにおける補助機関車連結不要および牽引定数の向上を名目としていましたが、これまでEF58型で運行していたダイヤを代替えするのには無理があり、過負荷に強いられた連続高速運転の弱め界磁多用による主電動機のフラッシュオーバーなどの故障が後を絶たなかったといいます。

写真のEF60型は500番台で、主にブルートレイン牽引用として製造されたものです。EF58型電気機関車の置き換えを名目としていましたが、性能面の問題からEF65型が不足した場合は本形式でなくEF58型で運用されることが多かったようです。1970年代以降は旧型貨物電気機関車の置き換えでローカル貨物で運用されました。

 

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EF65型電気機関車(500番台)
国鉄・JRの代表格となった電気機関車は、鉄道ファンならご存知、EF65型です。

EF65型は、EF58型やEF60型に続く平坦路向けの電気機関車として昭和40(1965)年に開発され、国鉄における標準型電気機関車として親しまれました。

この機関車は、EF60型をベースにさらなる高速化かつ牽引力向上の両立を図ったことから、JR化後も活躍しています。基本的には貨物列車用の機関車として使用されるのを前提としていましたが、さらなる高速走行性能から、貨物列車だけでなくブルートレインといった寝台特急でも活躍されました。鉄道文化むらに保存されている500番台も高速貨物ならびに高速旅客の牽引用として製造されたもので、こちらも『貨物用(F形)』『旅客用(P形)』で分類されています。これらは、当時活躍していたEF60型では性能不足である背景からその置き換えとして、さらなる高速化を実現するべく活躍しました。なお、写真の520号機は貨物牽引用のF形です。

 

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キハ35系気動車
キハ35系気動車は、大都市近郊における非電化通勤路線向けとして昭和36(1961)年に開発され、合計413両が製造されました。

関西本線を皮切りに北海道を除く各地の非電化路線で活躍。関東では八高線や相模線、久留里線などの非電化路線で活躍しました。

乗降率のため、両開きの外吊りドアが3箇所設けられ、車内の座席はすべてロングシートになっているのが特徴です。ディーゼルエンジンはキハ20形と同様DMH-17型が装備されています。この気動車は、両運転台の『キハ30形』片運転台の『キハ35形(トイレ付き)』『キハ36形(トイレなし)』の3種類あります。

写真のキハ35-901号車は900番台で、ステンレス車体になっています。これは、当時の東急車輛製造がアメリカ・バッド社のライセンスによるオールステンレス車開発の一環として製造されたもので、基本番台である0番台の普通鋼と比べて3.6トンの軽量化となりました。ステンレス車体にすることで、普通鋼より錆びない特性を活かし、薄肉化による軽量化および塗装の省略およびメンテナンスフリーが長所となった一方で、当時の塗装費と比べて製造コストの高さとバッド社のライセンスの関係上、製造が厳しいことからステンレス車体による製造は10両で打ち切りとなったのです。ステンレス車である900番台は塩害対策から房総地区で活躍されましたが、当時の房総半島では蒸気機関車による客車列車が多かったため混用されていたようです。現在では901号車が文化むらに保存されている他、0番台に関しては、キハ30-62号車がいすみ鉄道国吉駅、キハ30-35号車およびキハ35-70号車がわたらせ渓谷鉄道足尾駅にて保存されています。

 

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特急あさま号189系によるライトアップ

展示場の奥ではかつて特急あさま号で使われていた189系のヘッドライトや『あさま』のヘッドマークが神々しく暗闇を照らしています。

かつて横軽を駆け抜けた特急あさま号と峠のシェルパとして碓氷峠の鉄道を支えてきたEF63型との並び姿を見ていると、あたかも廃止時の信越本線横川~軽井沢間を彷彿させられます。一番奥に保存されている189系はあさま色という塗装で、特急あさま号が実際に運用されていた時もこの塗装で運行されていました。あさま号がEF63とともに峠を越える姿は、平成9年の廃止まで碓氷峠の風物詩でもあったのです。横軽を越える列車は特急あさま号の他に、北陸方面へ向かう特急『白山』号の運用についていた489系、普通列車の115系、夜行急行『能登』号など様々な列車が横軽を駆け抜けていました。こうして当時の碓氷峠に賑わいを見せていた時代を考えれば色々と興味深いですね・・・。

 

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夜の横川を走行するEF63型電気機関車

ナイトパークでは、普段は見られない夜にEF63型が走行する姿まで目にすることができました。

夜の横川でEF63型が走る姿を見るのは、横軽の廃止から25年ぶりです。廃止直前当時は、峠を越える列車の走行音はもちろんEF63のブロワー音や汽笛が横川のみならず碓氷峠や軽井沢でも響き渡っていたことでしょう・・・。

 

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イルミネーションが施されたD51

ナイトパークで展示されているD51にはイルミネーションが施されていました。

ヘッドライトやイルミによる光の演出で彩りを見せてくれる姿が幻想的です。まるで横川駅に夜行列車が舞い降りてきたような雰囲気です。ここまで粋な計らいを見せてくれた鉄道文化むらのスタッフには頭が下がります・・・。

 

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横川ナイトパークの夜桜

我々が初めて横川ナイトパークに訪れたのが春ということもあり、夜桜も横川の春に彩りを見せてくれました。奥に見えるD51と夜桜とのコントラストが素晴らしい!

 

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夜の66.7‰勾配標

さて、夜の横川を満喫したところで、鉄道文化むらとはお別れしましょう。

入り口にある189系国鉄色、ガレージに佇むEF63、そして66.7‰の標識に別れを告げます。

ビクティニ:横川よ、ありがとう・・・。

ミュウ:昔の車両たちからも「がんばれ」って言われた気分だよ。

 

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横川駅にゆるキャラが?

帰りの電車に乗るために横川駅に戻ってきましたが、向こうのホームにゆるキャラがいるのを見かけました。あれは『こうめちゃん』という安中市のゆるキャラのようです。きっと横川駅でも何かイベントがあったのでしょうね。

 

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信越本線211系

帰りの電車がやってきました。信越本線高崎行きの普通列車です。

長野新幹線が開通する前は様々な列車が横川駅を行き交い、EF63型の重連と連結する光景が見られましたが、今は211系の普通列車が高崎と横川を行き来するだけです。駅構内がこんなに広かったのは、かつて峠越えをする機関車たちがいた名残ともいえるでしょう。

 

★アプトの道探検&横川ナイトパークの映像はこちら★

※説明文の表示時間が短いため、じっくり読みたい場合は説明文が表示されている時に一時停止することをおすすめします。


www.youtube.com

 

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夜の高崎駅

ということで、横川ナイトパークでした。

今回は高崎駅で解散となります。お疲れ様でした!

ビクティニ:八高線は9:49発高麗川行きが最終みたい。

ミュウ:そうだね、乗り遅れないようにしなきゃ!

ビクティニ&ミュウ:ということで最後まで見ていただき、ありがとうございました!

 

『碓氷峠鉄道文化むらで開催される横川ナイトパークに出かけてきました』をお伝えしました。