ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

2024年正月旅  太皷谷稲成神社へ初詣&3度目のDL津和野稲成号

みなさん、こんにちは。

今回は太皷谷稲成神社に初詣し、DL津和野稲成号に乗車します。

 

泊まった旅館

泊まった旅館を後にして、太皷谷稲成神社へ初詣に行きます。

ビクティニ:では、初詣に出発!ここから30分で歩いていけるはずだ

ムーミン:そんなに近い場所に神社があるのかい?

 

津和野の城下町 殿町通り

太皷谷稲成神社へは、津和野駅や城下町からは『殿町通り』を通っていきます。

殿町通りは、文字通りかつてあった津和野城への通り道でもあることから、その名前がつけられています。ここは“山陰の小京都”というだけあって清楚にして閑静な城下町です。まわりのなまこ壁がいかにも城下町という雰囲気を醸し出しています。昨日訪れた萩城下町と比べるときれいに整備されているようにも感じます。

萩は塀から夏みかんの木やら旧宅が密集した世界遺産の城下町に対して、ここはカトリック教会をはじめ、藩校養老館跡、郡庁跡、津和野藩家老多胡家表門など多くの史跡が集まっています。言うなれば、長崎の文化が混じった城下町という印象でしょうか。

ビクティニ:懐かしい・・・。やはり田舎に帰ってきたかのよう・・・

ゴンベ:ここは『源氏巻』というお菓子が美味しいらしいっぺ

ムーミン:教会もあるね

みきゃん:ここは静かな町じゃけんね

 

津和野の城下町 水路を泳ぐ鯉
津和野の城下町では、水路に鯉が泳いでいるのが見られます。

水路を泳ぐ鯉たちを見ていると、自然と心が癒やされます。まさしく山陰の小京都と思わせる風景です。

 

津和野 カトリック教会
津和野には、和風な城下町に一際目立つ教会が目立ちます。

あれは“カトリック教会”という建物で、かつて津和野では明治元(1868)年~明治6(1873)年にかけて浦上(長崎)のキリシタン153名が残酷な拷問を受け、そのうち36名が殉教したというエピソードが有り、その殉教地が“乙女峠”です。ネベール神父はその殉教地に聖堂を建てるため、昭和26(1951)年に“マリア聖堂”が建てられました。聖堂内のステンドグラスには、迫害当時の様子が描かれています。

この教会は昭和6(1931)年、ドイツ人のシェーファー神父によって建てられたもので、ゴシック風建築なのが特徴的です。古い教会でありながら、内部が畳敷きになっており、色鮮やかなステンドグラスも、まさしく異彩な雰囲気を醸し出しています。

隠れキリシタンの歴史は長崎ならびに天草というイメージがありますが、津和野でもそのようなエピソードが綴られていたということもあり、その協会のすぐ横にある『乙女峠展示室』では、当時のキリシタンの写真や資料などが展示されています。

 

津和野町役場(大岡家老門)
城下町で一番立派な建物は、津和野町役場です。

手前の門は、かつての家老大岡家の正門が当時の姿で復元されたものです。

大正8(1919)年に鹿足郡役所として建てられたもので、当時は『郡役所』の制度が取られていましたが、大正12(1923)年には廃止されます。のちに一時期は警察署になったものの、昭和30(1955)年の町村の合併によって『津和野町役場』となり、現在でも『役場庁舎』として活用されています。

当時の面影を良好に残しているということもあり、国の重要文化財としても登録されています。大正期に流行した和風公共建築で、木造瓦葺平屋建てが特徴的です。また、両脇の部屋を前面にせり出した珍しい仕様です。

ビクティニ:これは津和野の町役場だよ。この建物は100年前からの建物だけど、町役場としての役割を持っているんだ

ゴンベ:落ち着いた雰囲気だっぺ

ムーミン:いかにも日本らしい建物だね

みきゃん:昔からある建物を無駄にせず使っているのがええけんね

 

鷺舞の像
スクランブル交差点の広場に鎮座している“鷺舞の像”も津和野のシンボルです。

この近くに弥栄神社があり、毎年7月20日になると、渡御という儀式が行われます。これは本社から御旅所まで、さらに同月27日になると還御として本社へ戻るという儀式です。その途中、定められた場所で“鷺舞”という儀式が行われるそうです。また、その鷺舞は京都祇園会のことを扱っている狂言の“煎物売(せんじものうり)”にも歌われていることから、古風な京都祇園会の風流の芸態を今によく留めていることが推測されています。そのため、その鷺舞という儀式こそ、重要な伝承にもなっています。

そして、すぐ後ろを流れる津和野川のせせらぎもいい感じに聴こえてきます。

ビクティニ:鷺舞の像だよ。毎年7月になると神社から『渡御』というお祭りがあるんだけど、その時に『鷺舞』が見られるらしい

ムーミン:立派な像だね。まるで美術品みたい

 

太皷谷稲成神社の入り口

スクランブル交差点には、太皷谷稲成神社への入り口である石造りの鳥居がそびえています。

この鳥居をくぐると、太皷谷稲成神社への参道になります。津和野駅サイドにあるので、ここがいわば表参道にあたります。

 

弥栄神社
スクランブル交差点から入ると、途中で弥栄神社があります。

太皷谷稲成神社と比べると小ぶりのようにも見えますが、実は津和野を代表する神社の1つでもあります。

先程もお話したように、7月になると“鷺舞の儀式”が行われます。

“鷺舞”は7月20日および27日に行われ、いわゆる祭礼における芸能の一種で、文字通り『鷺』という鳥の衣装をまとった仮装がなされます。舞人2人が木製の鷺の頭をかぶり、杉板の羽根を肩につけ、雌雄の鷺に扮し、笛や鼓の囃子に合わせて優雅に羽根を広げたりすぼめたりして舞うのが“鷺舞”という儀式です。

この儀式は、笛・鼓・鉦・太鼓の囃子方、歌方がつくほか、棒振りや羯鼓の役の者が鷺の舞に参加し、さらに笠鉾がついて風流芸の特色をみせています。動物に仮装する風流は様々ですが、華麗な白鷺に全身を変身させる糸統の芸能は数少なく、また古風な祇園会の芸能を今に残す、大変貴重なものだそうです。

ビクティニ:能登地震の復興が進みますように・・・

ムーミン:今年は平和な年になりますように・・・

 

太皷谷稲成神社の千本鳥居

太皷谷稲成神社へ行くには、千本鳥居が並ぶ参道石段を進まなければなりません。

伏見稲荷大社でもこのような千本鳥居がありますが、太皷谷稲成神社では、長い石段にたくさんの鳥居がたてられています。他にも長門市にある元乃隅稲成神社でもこのような千本鳥居が見られます。

太皷谷稲成神社は高台にあるため、長い石段に千本鳥居がそびえ立つのが特徴的な神社でもあります。

約千本の鳥居トンネルを300メートルほど進んだ先に太皷谷稲成神社があります。

 

太皷谷稲成神社で参拝

長い石段を上りきると、太皷谷稲成神社に到着です。

太皷谷稲成神社は、安永2(1773)年、津和野七代藩主亀井矩貞かめいのりさだが城の鎮護と領民の安穏を願って、城山の太鼓谷に京都伏見稲荷から斎き祀ったのが始まりとされています。東北の竹駒稲荷・関東の笠間稲荷・近畿の伏見稲荷・九州の祐徳稲荷とともに“日本五大稲荷”の一つに数えられています。一般には『稲荷』と書きますが、ここは全国でも珍しく『稲成』と書きます。稲成としたのは願望成就のためといいます。祭神は宇迦之御魂神うがのみたまのかみ伊弉冉尊いざなみのみことの2神です。また、年間の参拝者は島根県内の神社では出雲大社に次ぐ第2位です。

ビクティニ:東日本大震災の復興が進みますように・・・

ムーミン:今年は平和な年になれますように・・・

 

山口線の列車

境内からは津和野盆地が眺望できます。

ちょうど山口線の普通列車が通過していきました。

 

太皷谷稲成神社 元宮

もう1箇所の『元宮』にも参拝します。

このお社は、元からあるため、太皷谷稲成神社の根源にあたります。

津和野藩の神社整理により、津和野乙女山に鎮座していた熊野権現社を稲成神社に遷しました。それが“熊野神社”という社号だったのですが、昭和2(1927)年に“稲成神社”へ改称されています。

そして、新社殿(本殿)建立とともに『元宮』となり、熊野・稲荷両信仰の神域として現在に至っています。

ちなみに太皷谷稲成神社では、油揚げとロウソクをお供物としてお供えすると、ご利益があるそうです。これは神様の御使いである狐の好物が油揚げである為だと考えられています。

ビクティニ:東日本大震災の復興が進みますように・・・

ムーミン:今年は平和な年になれますように・・・

 

津和野城は三本松城だった

太皷谷稲成神社の近くには津和野城跡があります。

津和野城跡は標高362メートルあり、天気の良い日には津和野の町並みや山並みが眺望できます。ちなみに津和野城は別名『三本松城』と呼ばれていたそうです。

 

西周旧居

太皷谷稲成神社から少し先へ歩くと、西周にしあまね旧居があります。

ここは西周が幼少期の4歳から青年期の25歳まで過ごした屋敷です。

当時の西家は、外科医として代々津和野藩に仕えていました。この屋敷は東西約32メートル、南北約31メートル、さらに面積約1,107平方メートルの敷地内に、主屋・土蔵・土塀・庭園を配置しています。主屋には嘉永6(1853)年4月の大火による焼失後の再建ではあるものの、土蔵は焼失をまぬがれ、周の勉強部屋と伝えられる1階の3畳間は当時のままで残っています。また、全体にこの地方の小規模な武家屋敷の構えをよくとどめていることから、貴重な遺構です。

ちなみに主屋は、木造平屋建ての桁行き11.8メートル、梁間9.7メートル、寄棟造・茅葺き・各面の下屋は杉皮葺きで、これは大火の後で他の建物を移築改造したものと考えられています。また、土蔵は切妻造の桟瓦葺きで、桁行き5.9メートル、梁間3.9メートルあります。

 

森鴎外 旧宅

ここは津和野で生まれた森鴎外の旧宅です。

森鴎外もりおうがい(本名:森林太郎もりりんたろう)は、文久2(1862)年1月19日にこの家にて生まれ、明治5(1872)年に10歳で上京するまで津和野で暮らしていました。

その当時の様子は、彼の作品“ヰタ、セクスアリス”の中にも描かれています。

こちらの旧宅は嘉永7(1854)年に発生した大火の後に建てられたものとされ、森家が東京へ移住した後、別の場所へ移築されたものの、昭和29(1954)年に鴎外33回忌を機に町へ寄付とともに現在の地に戻され、その後、昭和60(1985)年に大規模な保存修復を行い、現在に至っています。

 

石見人森林太郎として
森鴎外記念館にも見学します。

森鴎外は、軍医総監陸軍省医務局長ならびに帝室博物館総長兼図書頭となる一方で、文学者としても活躍し、明治・大正を代表する文豪として夏目漱石と並んで有名です。しかしながら、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言とともに大正11(1922)年7月9日に60歳で他界しました。

 

『舞姫』の舞台となったベルリン

森鴎外が描いたとされる『舞姫』
森鴎外が描いた作品の1つ『舞姫』は代表作とされる短編小説です。

『舞姫』は、明治23(1890)年1月号の『国民之友』に発表された作品です。当時、ドイツに留学した青年男性の手記の形をとり、生い立ちからドイツまでの経験を綴っており、高雅な文体と浪漫的な内容だといいます。さらに、これは森鴎外の創作小説としては第一作目で、ドイツを舞台とした作品で、まさしくドイツへ留学した時の経験が生かされています。帰国後、本作をはじめ、『うたかたの記』『文づかひ』と次々に創作小説を発表しているものの、どちらもドイツを舞台とし、独逸三部作(ドイツ三部作)と呼ばれていたそうです。

 

津和野駅

さて、一通り太皷谷稲成神社の初詣と津和野観光をした上で、“DL津和野稲成号”に乗車します。

ビクティニ:そろそろ『例の列車』に乗車します

ムーミン:『例の列車』って?

 

津和野駅 発車案内

発車案内の電光掲示板には、山口方面(左)に出ている『臨時』という種別が“DL津和野稲成号”になります。

ということは、15時54分発のDL津和野稲成号 新山口行きです。さらに、津和野稲成号は快速列車なのですが、乗車券と指定席券が必要になります。また、青春18きっぷでも乗車できます。

なお、今回は既に“DL津和野稲成号”の指定券は買ってあるので、あとは乗車券を購入するだけです。しかし、近年まで津和野駅に駅員さんが常駐していたのですが、今では無人駅になっているようです。でも、切符自体は駅舎の観光協会で購入できるので、今回はそこで新山口駅までの乗車券を購入しました。

 

DL津和野稲成号

茶色いレトロな列車こそ、今回乗車する“DL津和野稲成号“です。

そして、その客車は“SLやまぐち号“として使われる“35系客車“で、津和野稲成号でもその客車が使われています。そして、ヘッドマークもまた本来のSLやまぐち号のヘッドマークを装備しています。ただ、去年の9月頃には一時期、D51が復帰していたこともあったようですが、やはりDLに戻ってしまったようです。

ビクティニ:これでDLに乗るの3度目だっけ?D51とC57の2種類いるはずなのに、ずっとDLのままなのはある意味珍しいかも

ムーミン:SLって黒いやつじゃなかったっけ?・・・DLって赤いやつなんだね

 

★DL津和野稲成号乗車時の様子★


www.youtube.com

 

ディーゼル機関車DD51型1043号機
“DL津和野稲成号“は、ディーゼル機関車のDD51型で運行されます。

この機関車は下関総合車両所の1043号機で、昭和48(1973)年に日立製作所で造られたものです。かつては貨物列車や旅客列車を牽いて活躍していましたが、JR発足後にはJR西日本の山口地区にてSLやまぐち号の代役の他、砕石やレールの輸送を行う『工臨列車』としても活躍しています。ちなみに、このようにDLが山口線でSLの代わりとして走るのは、D51またはC57のどちらも運行できなくなった時に限ってDLやまぐち・津和野稲成号として運行されます。

ビクティニ:SLでないとはいえ、やはりディーゼル機関車が客車牽く姿なんてなかなか見れないし、DD51自体も登場から50年以上経っているもんな・・・

ムーミン:これがディーゼル機関車なんだね。イメージ通り赤い機関車だった!

ゴンベ:エンジン音がすごいっぺ!

みきゃん:四国では、昔はこういう光景は見れたけん

 

津和野を後にするDL津和野稲成号

15:54に津和野駅を出発し、新山口駅へ目指し静かに駆け抜けて行きます。

SLだともっと引っ張られている感はあるのですが、DLだと意外にゆったりした感じになっています。そして、客車自体も新型とはいえ当時の旧型客車に乗っているという感覚が否めません。

津和野駅を出ると、しばらく上り坂を進みますが、島根県と山口県の県境にある“白井トンネル“に差し掛かると下り坂になり、山口県に入ります。

ビクティニ:さようなら津和野・・・

ムーミン:すてきな町とはお別れだね・・・。さようなら旅館の女将さん・・・

ゴンベ:ごはん美味しかったっぺ!

みきゃん:いんまなー

 

35系客車の展望車

徳佐駅から篠目駅にかけては、昔ながらの山里の風景が広がります。

このあたりの盆地ではほぼ平坦でトンネルがないので、展望デッキに出てみましょう。

最後尾の展望車では展望デッキが開放されており、後方展望を楽しむことができます。しかしながら、最近はSLの出番がないために、いささか寂しくも感じます。

ビクティニ:昔ながらの山里の風景を展望車から見るのは最高!

ムーミン:でもSLだったら真っ黒になりそうだね

 

山口盆地を走行するDL津和野稲成号

篠目駅を過ぎると、再び山間部を走行し、山口線で一番長い田代トンネル(全長1,897メートル)を抜け25‰の最大勾配を下ると山口盆地に出ます。その先からは再び平坦区間となり、景色も市街地に変わっていきます。また、西の京都こと山口の市街地や湯田温泉といった観光地もあります。

ビクティニ:このあたりは山口県の県庁所在地なのに田園風景がいい風景だ

ムーミン:山の景色も見えるね

 

新山口駅に到着したDL津和野稲成号

17時38分、新山口駅に到着。

新山口駅に到着後、“DL津和野稲成号“は回送列車となり車庫へ帰って行きます。

次はSLになった時に乗りに行きたいものです・・・。

 

山陽本線の普通列車

さて、広島方面へ帰るため山陽本線の列車で広島へ向かいます。

山陽本線の列車は、黄色い115系が普通列車として運行されています。

なぜ新幹線を使わないかというと、この日ののぞみは全席指定であり、しかも混雑する可能性があるからです。その理由から、時間はかかるが混雑しにくく運賃の安い在来線ならば広島まで帰れるということで、そちらを選択しました。ちなみに新山口駅で夕食のために駅弁を買おうとするも、売り切れのようですorz

18時ちょうど発、普通列車岩国行きに乗車。

 

岩国駅付近の飲食店にて夕食

途中の岩国駅で下車し、そこで駅周辺の飲食店で夕食をいただきました。

最初はお好み焼きを食べようと思っていましたが、見つけたお寿司屋さんで夕食を食べることに。岩国寿司で有名ですが、海産物が豊富で握り寿司が美味しかったです。

ビクティニ:お寿司うまい!

ゴンベ:カニクリ美味しいっぺ!

ムーミン:おいしい!

みきゃん:うまいけん!

その後、21時08分発 普通列車糸崎行きに乗車し広島駅へ。

 

広島駅に到着

21時58分、広島駅に到着。

この日は広島市内にて1泊しました。

ビクティニ:長距離の移動おつかれさん。明日は厳島神社へ初詣に行こう

ムーミン:新山口駅からここまで戻ってくるのに3~4時間かかったかな・・・。疲れた~

 

『太皷谷稲成神社へ初詣&3度目のDL津和野稲成号』をお伝えしました。