ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

正月旅行 厳冬の山陰旅 年明けの山陰本線旅 明治維新ゆかり松陰神社で初詣&遊郭だった旅館“芳和荘”に宿泊

皆さんこんにちは。

今回は、年明けの山陰本線の普通列車に乗車し、山口県の城下町『萩』まで行ってきてまいりました。

 

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年明けの玉造温泉 旅館

玉造温泉の旅館で迎えた2021年元旦の朝。山陰地方では雪が積もったまま、お正月を迎えます。

ビクティニ:みんなあけましておめでとう!今年もよろしく!

ミュウ:あけましておめでとう!

にょろもう:あけましておめでとう。

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正月の玉造温泉 朝食

正月の玉造温泉の朝食は、しじみ汁などの島根県の名物の他、おせち料理も出ていました。

ビクティニ:島根の朝食は美味しい!お正月定番おせち料理も最高に美味しい!!

ミュウ:山陰線の除雪も終わっているかな。

にょろもう:しじみ汁最高!

 

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山陰本線の列車から見る元旦の宍道湖

さあ、2021年元旦の山陰本線旅。大晦日まで運休だった山陰本線は、元旦になると大雪は止み、列車は順調に進んでいきます。

宍道湖島根県を代表する汽水湖で、面積は79.25k㎡、水深は概ね5mほどと比較的平たい湖です。この湖ではしじみが採れることでも知られ、しじみ漁も行われます。また、夕日時に見る宍道湖大変美しい景観とされ、いわば夕日スポットにもなっています。

我々は9:11玉造温泉駅発の普通 益田行きでひたすら西へ進んでいきます。

 

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山陰本線の列車から見る日本海の車窓

山陰本線の車窓といえば、やはり日本海の車窓が印象的です。

山陰本線は、京都駅を起点として下関駅を終点とする約680kmという日本のローカル線では屈指の長大路線です。山陰エリアなら伯耆大山~西出雲のみ電化されており、大半が非電化区間です。このあたりは普通列車の他に快速特急も益田まで走っており、比較的賑やかなローカル線です。このように海の車窓が見られるのは兵庫県北部や鳥取県東部、そして、出雲市以西ということになります。特に余部鉄橋島根県西部の山陰本線で見られる海の車窓は、まさに山陰本線の景観としては心に残るほど絶景な海の車窓が楽しめます。

今回は、青春18きっぷを使って山陰本線で玉造温泉駅から東萩駅(山口県萩市)まで移動します。ただ、松江や出雲か萩までJRで移動するのには、途中の益田駅にて乗り換えとなります。

ビクティニ:今日の山陰本線は順調に運行してくれた。車窓から見る日本海の車窓がまるでご褒美みたいだ・・・。

ミュウ:日も出ているし、列車も順調に進んでいるね。よかったよかった。

 

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益田駅

12:30益田駅に到着。

この駅では、JR山口線津和野・山口方面山陰本線東萩・長門市方面への路線にそれぞれ分岐されます。

ビクティニ:ようやく益田駅に到着したよ!さて、この後も引き続き山陰本線の普通列車でさらに西へ向かうのだが・・・。

ミュウ:ここでお昼にしたいけれど、あまり時間がないから、やめとこう・・・。

 

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益田駅の列車案内
松江・出雲市方面からここまでの列車本数は概ね1時間1~2本ほどとそれなりにあり、快速特急も運行されていますが、ここから西へ行くJR山口線山陰本線長門市方面の本数はさらに少なくなります。特に山陰本線の長門市方面へ行く列車本数は日中だと3~4時間も運行されない時間帯があるので、益田から萩市や長門市へ列車移動する時はよく時刻表を確認した方が良いのかもしれません。また、山口線では特急も通っているものの、そちらも本数が少ないので注意が必要です。

 

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益田駅以西の山陰本線 普通列車

萩・長門市方面へ向かう普通列車は1両編成の普通列車で運行されます。

車両は基本的にはキハ40系という昔ながらの国鉄型のディーゼルで運行されていますが、便によっては比較的車体の小さいキハ120系で運行されることもあります。日中ではワンマン運転で運行されることが多いようです。また、先ほども話したように、山口線では特急は通っていますが、こちらの山陰本線益田~下関では特急はおろか快速も設定されておらず、すべて普通列車のみで運行されます。そのため、『本線』という名前がついている割りには、典型的な寂れたローカル線という印象が見受けられます。かつての国鉄時代では多くの特急や急行、あるいは九州へ行く特急や急行などで賑わっていたようですが、現在は1日8本しかありません。

13:11東萩駅を出発。この時期は18きっぷシーズンということもあり、普段は利用者の少ないはずの長門市方面へ行く列車には多くの乗客が乗車されていました。

ビクティニ:ここから萩へ向かう普通列車はいかにもローカル線を走るような感じだね。

ミュウ:おまけにワンマンって書いてあるよ。

 

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山陰本線(益田以西)の車窓

このあたりも先ほど通ってきた益田までの山陰本線と同様に、とても風光明媚な海の景色が広がっています。

特急の通らない山陰本線はとても長閑なローカル線で、あたり一面海の水平線が広がる島根側の山陰本線とは対照的に山口側の山陰本線の海の車窓は、姫島などの島々が浮かんでいる車窓が見られます。特に宇田郷~須佐には『惣郷川橋梁』という長い橋梁があり、撮影スポットや絶景車窓ポイントとして有名です。ただ、このあたりの山陰本線はもともと線形が悪いのか、まだ駅までは距離があるのにも関わらず、急に自転車並みの速度に落とす区間があります。というのも、一部の区間では20~30kmぐらいの速度制限を設けている、いわゆる『必殺徐行』といわれる区間があるからなのです。そのため、例えば落石の恐れがある場所などの危険な箇所では、安全のためいつでも停止できるよう、徐行区間を何箇所かこの路線では設定されているということです。
こうしてもともと幹線であるはずの山陰本線の列車が1両編成で運行されているのはちょっと寂しい気がしますが、この車窓を見ているとかつて急行が走っていた頃蒸気機関車が走っていた頃を回想したくなります。

ビクティニ:島が見えるよガンバ♪ ・・・なんてね。

ミュウ:さっきまで島は見えなかったのに、ここまで来ると島々が見える車窓に様変わりだね。

 

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東萩駅に到着

14:21東萩駅に到着。

東萩駅山口県萩市の中心駅で、松陰神社萩市観光への玄関口となります。

『萩駅』といういかにも萩市の代表駅らしき駅がもう1つあり、その駅自体が有形文化財に指定されているほどレトロな駅なのですが、どちらかというと、この駅が萩市の玄関口となっているようです。また、時期によってはクルーズトレイン『瑞風』がこの駅にやってくることがあるようです。

ビクティニ:東萩駅に到着したよ!ここはもう山口県なんだね。

ミュウ:観光地のわりにはちょっと寂れている感じがするね。気のせいなのかな・・・?

 

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東萩駅

東萩駅前の様子です。城下町の玄関口というだけあって、萩城の仕様を纏っています。

鉄道駅の割には列車の本数は少ないからか、本数としては鉄道よりバスの方が勝っているように感じられます。萩市から新山口駅長門市(青海島)美祢市(秋芳洞)、そして津和野などへ行く路線バスが多く出ているので、バスの方が比較的移動しやすいと思われるでしょう。また、萩市内を回る循環バス『まぁーる』も出ています。

我々はこの駅でレンタサイクルを借りましたが、「萩市内に泊まる」という話をしたら、なんと1泊2日分で800円で貸してくれました!いやあ、もともと観光客が少ないからか、わりと気さくに貸してくれるとは思いませんでしたw

 

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明治維新ゆかりの神社 松陰神社

まずは、自転車で松陰神社へ参拝に行ってきました。

松陰神社は、幕末維新の先駆けとなった吉田松陰先生を祀る神社で、いわば『明治維新ゆかりの神社』にして『学問の神様』として全国的に多くの参拝者が訪れます。そのため、お正月になると多くの受験生たちが訪れます。この社殿は昭和30(1955)年に完成したもので、その社殿には松蔭が最後まで愛用し続けた赤間硯父叔兄宛に書いた手紙が御神体として祀られています。また、毎年1月には『勧学祭(合格祈願祭)』が行われます。
この人車の御神体とされる吉田矩方命(松陰先生)が殉節されて31年後の明治23(1890)年8月、松村塾出身者などの手によって松村塾の改修が行われた際、松蔭先生の実家とされる杉家の人々の手で松陰先生を祀る土蔵造りの祠が建立されたのが松陰神社の始まりとされています。明治40(1907)年、松下村塾出身である伊藤博文や野村靖が中心となり、この祠を公の神社として創建するため、山口県に請願書を提出、同年10月4日に当時の社格制度の中、県社の社格を持って建立が許可されました。土蔵造りの祠は松下村塾の南側に移築して本殿とし、当時廃社となった萩城の鎮守である宮崎八幡宮の拝殿を譲り受ける形で境内の整備が進められたといいます。さらに昭和11(1936)年には松陰神社改築奉賛会が設立、その翌年には王政復古七〇周年記念事業として、神社神域拡張工事が行われました。昭和15(1940)年には新社殿が起工、その2年後には桧皮葺の社殿が竣工されましたが、戦時中の激化により、ご遷座されぬまま終戦を迎えます。そして戦後、厚東常吉などが中心となり、事業を再開、新社殿の屋根を銅版とし、改修工事を進められ、昭和30年10月26日に現在の松陰神社が完成し、現在に至っています。また。その翌年の昭和31(1956)年、旧社殿が新社殿北側に移され、松蔭先生の塾生および門下生を御祭神とする末社、門松神社も建立されました。

ビクティニ:今年こそ、東京オリンピックが終わりますように・・・。

ミュウ:例の病気がなくなりますように・・・。

 

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吉田松陰 歌碑

松陰神社の境内には松陰先生が遺した歌碑が鎮座されています。

安政の大獄で捕らえられ、処刑されるのを覚悟した松陰先生が、自らのふるさとの両親宛に別れの書簡『永訣の書』の中で詠まれました。この句には以下のことが書かれています。

 

親思ふ こころにはさまる 親ごころ けふの音づれ 何ときくらん

子供が親を慕う心持ちよりも、親が子を愛する親心は、どれほどまさったものであろう。死なねばならぬ私の便りを知って故郷の両親は、どんなに悲しむことであろう

 

この句を読めば、松陰先生の両親に先立つ不孝詫ている気持ちが込められているのが分かります。松陰先生は和歌の名人で、その碑文も松蔭先生が詠んだ句の一つです。

これは安政の大獄を推し進める幕府によって多くの逮捕者を出してしまい、その中に吉田松陰の名前があったといいます。彼にかけられていた嫌疑は、京都にいた梅田雲浜(うめだうんぴん)との交際に関してのものと、幕府の中傷文書の作成についてですが、いずれも軽微なものだったようで、幕府側もそこまで重視されていませんでした。当時の幕府にとっは、『戌午の密勅』背後にいた水戸藩関係者がメインターゲットだったようです。その後は、嫌疑が晴れかけましたが、訊問が進むうちに取り調べ側も信じられないような内容が隠されていたことを知ります。それは松陰の供述の中に『間部詮勝暗殺計画』『伏見要駕策』といった、まさに幕府にとっては重篤な罪が隠されていたからなのです!そのことで怒りを買った幕府は、松陰を伝馬町の牢獄に入れ、斬首の刑にかけられました。そして、安政6(1859)年10月27日、松陰は逝去されました。その時に詠んだ松陰最期の句かと思われます。

 

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松下村塾

幕末期に松陰先生が主宰した松下村塾です。

もともとは叔父の玉木文之進が私塾を開いたのが始まりで、のちに松陰が引き継ぐことになりましたが、身分や階級に関係なく塾生として受け入れ、僅か1年余しか受けられませんでした。しかし、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文などとともに明治維新の原動力となり、明治時代で活躍した多くの逸材を育て上げることができたといいます。
松下村塾は、木造の瓦葺屋根の平屋建てで、面積は50㎡ほどの小舎になっており、講義室だった八畳の部屋にはかつて松蔭が使っていた机の他に松蔭や門下生の肖像画、石膏像などが展示されています。
看板に書かれている『松下村塾』の文字には、『下』が草書体『村』が異字体の『邨(古字)』が使われています。当時の地域が『松本村』と呼ばれたことから、その名前になったのだそう。

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松蔭の残した松下村塾記「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。」
松蔭が書き残した『松下村塾記』によれば、「学は人たる所以を学ぶなり。塾係くるに村名を以てす。」と記され、これはこの村名を冠した塾名を誇りと責任を感じ、志ある人材を育てようとしたことが伺えます。

 

 

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花月楼

神社の境内には江戸時代に使われた茶室があります。

神社の境内に風流な日本庭園と茶室には相当な年季が見受けられます。
この茶室『花月楼』七代藩主毛利重就が、利休の流れを汲む表千家の家元、第七代如心斎の門人、そして江戸千家の元祖川上不白の献上した花月楼の設計図にもとづいて安永5(1776)年、三田尻の別邸宅(現防府市)に建築されたものです。重就の没後、その茶室に寵愛を受けた御茶堂竹田休和が九代藩主斉房から譲り受け、平安古の自分の屋敷内に移築されました。また、その記念に『花月楼之記』も作ったといいます。さらに明治21(1888)年品川弥二郎がこの建物を松本橋のたもとの自宅に移建保存されていたものを昭和34(1959)年、現在の松陰神社境内に移築され、現代に至ります。
この茶室は江戸時代中期に考案された花月式の茶会を催すことができるようにするために、八畳、あるいはそれ以上の広間の大きさが確保されています。これがいわゆる『花月楼式の茶室』と呼ばれるようになったのです。当時、この茶室を用いた茶会はさぞかし賑やかだったことかを思わせます・・・。

 

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萩市浜崎地区

当時の港町としての雰囲気が色濃く残る萩市浜崎地区

萩市の三角州の北東の端に位置する浜崎地区は城下町とともに開かれた町人地で、萩城城下町から若干離れて入るものの、江戸時代から代々続く古い町並みが当時から変わることなく残されています。かつては水運が盛んだったその当時は多くの水夫や船が行き交っていました。そのため、かつては港町で栄えたと思わしき『遊里(ゆうり)』『花街(かがい)』が形成されています。

 

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萩の老舗旅館 芳和荘

そんな港町の一角にある旅館が『芳和荘』です。

とても歴史を感じさせられる旅館で、その場所に建つ『芳和荘』はもともとは『梅木』という屋号で大正時代から『遊郭』として営業されてきたものです。いつ建てられたのかは定かでないのですが、少なくとも大正期に建てられたものですから、その築年数は・・・なんとおよそ百年と思われます。もはや現代でいう旅館というよりかは、『旅籠』という分類に近いのかもしれません。
入り口の曲線アーチや木造建築、そして塀の仕様など、当時の雰囲気がそのまま残る景観的な特性から、萩市から「大正初期に遊郭として建てられた回廊を有するほぼ総二階の寄棟造大型建造物が周囲の塀とともに貴重な歴史的景観を形成している」として景観重要建造物に指定されています。
日本では明治33(1900)年に発布された『娼妓取締規則』に基づき、公娼制度が完成してできたのがいわゆる『遊郭』というものです。これが後に正式名称となり、『貸座敷免許地』とされ、遊女がいる『妓楼』『貸屋敷』とされていました。おそらく、この旅館の部屋には多くの遊女で賑わっていたのでしょう。戦後の昭和33(1958)年に売春防止法が施工されると、貸座敷は次々と廃止され、全国の約3割が旅館業へ移行されていきました。それらのうち『芳和荘』もその一つとなります。
この土地はもともと弘法寺遊郭の跡地で、後の『芳和荘』となる建物以外は一切残っていないとのこと。なんでもまだ遊郭跡が残っていた昭和50年頃、「遊郭街の建造物はすべて解体せよ」と当時の市から解体命令が出て殆どの元遊郭の建造物は解体されたようですが、この『芳和荘』だけ旅館として残っていることが奇跡的です。

そして、建築年数が百年以上たっている割には玄関はかなり綺麗に清掃が行き届いており、ご主人様も噂通りの笑顔かつ親切にもてなしてくれました。

 

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かつての遊郭を思わせる『芳和荘』の中庭

『芳和荘』の旅館内には広い中庭が施されています。

特に2階から見下ろす夜の日本庭園がとても素敵です。なんでも、この旅館のご主人様が日々手入れなさっているとのことで、百年経った今でもなお清楚な日本庭園が見られます。これがかつての遊郭だったことを考えれば、当時は華やかな一夜を送っていたことでしょうね・・・。そして、現代にいたって当時の形のまま残っているのは改めてとても貴重なものだと実感させられます。

ビクティニ:ここの旅館は他とは違う不思議な雰囲気がただよっているね・・・。まるでタイムスリップしたかのようだ・・・。中央に小さな庭もあるし・・・。これが昔の遊郭だったことを考えれば・・・。

ミュウ:とっても静かだね。この旅館が遊郭だったということは、今でいうと、ゲストハウスみたいなものかな・・・?

 

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廊下の欄干に刻まれたひらがな文字

そして2階廊下の欄干に1区画ずつ刻まれたひらがな文字もこの旅館の特徴でもあります。

その欄干には『と』『う』『ら』『し』などの文字が刻まれています。実はこのひらがなには意味があり、遊郭時代の隠れ屋号なんだそう。正解は『ち』『ょ』『う』『し』『ゅ』『う』『ら(ろ)』『う』。つまり『長州楼(ちょうしゅうろう)』と刻まれているのです。こうして廊下の欄干に文字が刻まれているのも他の旅館ではなかなか見られないのが、この旅館ならではの珍しさです。もはや珍百景に登録されてもおかしくないのではないでしょうか・・・。

 

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芳和荘の部屋

我々が泊まった部屋は四畳半程度の広さでしたが、あまり気になりません。

むしろ元遊郭の部屋としては十分な広さで、当時の遊女部屋の雰囲気も感じられます。壁は金箔を纏ったような感じで、テレビも今ではほとんど見られなくなってきたブラウン管テレビが使われているようです。何もかもが古めかしいので子供連れには少々不向きかもしれませんが、私のように歴史が好きな人なら興味を注ぎます。

あまりの静けさにこのまま就寝してしまいました。

ビクティニ:この旅館の雰囲気はすごいけれど、他にすることはないので、早めに寝ることにしよう。おやすみなさい。

ミュウ:おやすみ。

にょろもう:おやすみなさい。

 

travel.rakuten.co.jp

 

『年明けの山陰本線旅 明治維新ゆかり松陰神社で初詣&遊郭だった旅館“芳和荘”に宿泊』をお伝えしました。