皆さん、こんにちは。
今回は萩の城下町や萩城跡をまわってきました。
朝早く旅館を後にして、自転車で萩城のある城下町へまいります。
萩城下町の至る所に夏みかんの木が植えられています。
夏みかんが日本で最初に栽培されたのが山口県萩市で、明治9(1876)年から栽培されています。夏みかんは和名でいうと『ナツダイダイ』であり、当初は『九年母(くねぶ)』、『橙(ダイダイ)』、あるいは『ナツダイダイ(夏橙)』と呼ばれていたようですが、一般的に『夏みかん』と呼ばれるようになったのです。
なぜ、萩市が古くから至る場所に夏みかんが塀越しや庭などで見られるほど名物になったかといえば、毛利藩だった当時、藩経済の中心でもあった萩は、敵のターゲットとされ、新政府樹立後の士族の給禄奉還により、萩が経済的陥没に追い打ちをかけるように、明治9年に『萩の乱』が勃発。萩は次第に政治的、経済的崩壊、そして士族らは落胆しました。そのような最中、新政府の要職をされていた小幡高政が母親の看病のために、小倉県令(福岡県)を辞めて萩に戻ったものの、帰ってきた時の萩は何もかもが廃れかけたような悲惨な状況だったのです。そこでこの土地に活気を取り戻すため、夏みかんの木を植えるという発想をします。その時に種子を蒔き、さらに明治10(1877)年には苗木を約1万本を接木して、その翌年には士族にその接木を頒布しました。
小幡高政の言葉には「明治9年、夏橙ヲ萩ノ物産トスルコトヲ主唱シ、同志を募リテソノ栽培ヲ奨励ス。ソノ団結ヲ耐久社トイフ。」とあるように、萩士族の間に漂っていた新しい時世に対する不満を新政府に対する反抗の形で立ち上がった前原一誠を性急と判断し、手始めに長期計画による士族の経済浮場を図ろうとするというのが彼の意図だったといいます。そして、萩に夏みかんの栽培が始まったという知らせは各地に知れ渡り、明治13(1880)年には愛媛・和歌山、さらに明治17(1884)年には静岡にも苗が移出されました。もはや萩は日本におけるみかん栽培の原点になったといっても過言でないでしょうか・・・。いわば、萩市に観光地としての活気を取り戻したのは夏みかんのおかげということですね。このような経緯があることから、萩市は『夏みかんのまち』として今でも親しまれているのです。
萩の城下町は、今でも当時の地形や雰囲気がそのまま残っていることから、世界遺産および重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
この城下町の一部分である『堀内地区』は55ヘクタールの面積を有し、その広大な広さを誇る土地の至る所に藩時代から残る民家や武家屋敷などが当時から残っており、塀越しや畑に植えられた夏みかんの木も見受けられます。中には言わずもがな萩の伝統工芸品とされる萩焼を販売しているお店もあります。
『堀内地区』は以前に訪れた萩城城下町とはまた違った雰囲気で、藩政時代でいう城内三の丸に当たる場所で、毛利一門をはじめ、藩の諸役所や永代家老、寄組など近世城下町の武家屋敷の雰囲気も当時から変わらぬ姿を今もなお残っていることから、歴史的風致を保っています。また、この地区では『鍵曲(かいまがり)』と呼ばれる道筋が見られ、高い土塀に囲まれ、道を鍵手形のように直角に曲げたことから、その名前が付きました。これは他では見られない萩城下町ならではの雰囲気です。他にも平安古地区や大児玉横丁でも見られ、いかにも萩の城下町らしい路地が形成され、塀越しに映る武家屋敷や夏みかんの木なども見られるので、散策してみてもいいでしょう。ただ、観光地として整備されているとはいえ、あたかも迷路のように複雑に入り込んでいることから、その路地に入ってしまうと迷いやすくなってしまいます。特に時間がない人にはおすすめできないのかもしれません。
藩政時代では長州藩の中枢となった萩城です。
この萩城は慶長9(1604)年、毛利輝元によって萩市北西部にある『指月山』の麓に築城されました。そのことから『指月城』という別名を持っています。毛利36万石の主城跡で、春になるとツツジや桜などが咲き、特に石垣の上に咲く桜の花が美しく咲き誇る桜の名所にもなっています。
萩城は、中国山地から日本海へ流れ出る大河阿武川が河口付近にて橋本川と松本川の2本の川に分流され、それらの川に挟まれた三角州にこの萩城および城下町が築かれることになったのです。その三角州にある萩城下町は南北およそ2km、北西およそ3kmにおよぶとても広い城下町です。そして、指月山麓に築かれた萩城は近代城郭であり、指月山山頂には詰丸、その山麓には本丸・二の丸・三の丸が配置されていました。そのことから、山頂の『山城』と山麓の『平城』を混在させたような重装備な構造になっていたのです。
萩城の石垣に使われている石材は、ほとんど指月山の麓から採掘された岩石が使われていました。不足している分は、隣村の大井・奈古(阿武町)や青海島(長門市)から運ばれてきたもので補われています。木材もほとんど萩周辺の霧口、川上、佐々の村々からのものが使用されていました。また、瓦は和泉国(大坂)の堺のものが主に使用されましたが、萩で焼いた瓦も使われていたのです。また、当時は徳川幕府との緊張感のある対峙関係だったことから、『詰の城』という江戸時代に築かれた城としては珍しい構造だったといいます。
城づくりや町づくりは順調に進んだものの、相当な費用がかかったといいます。さらに関ヶ原の戦いに出陣しなかったことによる処分から、領地が中国地方八カ国112万石から周防・長門の二カ国36万石に減らされました。そのため、当初から藩財政が厳しかった状況にあったのです。
ビクティニ:これが萩城?早朝に来たからか、お城の割りにはずいぶんひっそりしているね・・・。
ミュウ:お堀も広くて石垣も高い・・・。なんか厳かな雰囲気だね・・・。さすが世界遺産って感じ。
萩城の天守閣跡です。
城郭は本丸を中心に、本丸門のある南側に二の丸、南東側に三の丸、そして指月山山頂に詰丸という配置で、周辺には12ヵ所ほど多くの櫓が配置されていました。
ご覧の通り、かつてはここにあった天守は見事になくなってはいますが、現在は石垣やお堀の一部が、当時の状態で残っています。ここに天守閣があったという形跡が今でも奇跡的に残っていることから、国の史跡に指定されています。天守閣はなくなっても、近世城郭としての城跡の景観は立派に残っているので、まさしく萩における世界遺産の根源といってもよいでしょう・・・。ちなみに夜になると、ほぼ毎日ライトアップが行われ、天守閣跡ならではの石垣やお堀の水面の幻想的な姿を拝められます。
萩城に天守閣があった当時の姿です。
高さはおよそ21メートルを持ち、五層五階の複合式望楼型天守閣という、まさに豪華絢爛かつ立派な城であったことが分かります。この城の天守は安土桃山時代初期の様式という美しい姿でしたが、明治7(1874)年には、その天守閣は解体され、姿を消しました。現在は天守台の土台のみ残っていますが、半間ほどお堀に突き出した天守初層の石垣は萩城の特徴でもあり、『石落とし』としての役割を持っていたようです。
萩城跡の指月公園には『志都岐山神社』があります。
毛利元就、隆元、輝元、敬親、元徳を五柱として、初代から十二代まで萩藩歴代藩主が祀られています。この神社の至る所に毛利家の家紋があることから、毛利家ゆかりある神社と言われています。萩城が消滅してから数年のこと明治11(1878)年、、萩町及び付近の有志が発起し、最後まで毛利家ゆかりあるものの賛同を得て、萩城跡本丸にて山口の豊栄(祭神毛利元就)、野田(祭神毛利敬親)両神社の遙拝所を創建。翌年にはその遙拝所を山口にある両神社の分社とし、『指月神社』と名付けられましたが、明治15(1882)年、明治維新への移行とともに近代社格制度に基づき、『志都岐山神社』に改称されました。そして、明治33(1900)年、祭神を毛利家元就、隆元、輝元、敬親、元徳を五柱とし、初代から十二代目までの萩藩主を配祀し、現在に至っています。また、この神社の石段の麓にはミドリヨシノという花の色が純白色で、萼(がく)の色が緑色で、その種は萩市でしか見ることのできない、非常に貴重な桜の木が植えられています。
萩には数多くの武家屋敷がありますが、その中で旧厚狭毛利家萩屋敷長屋が一番大きいものです。
かつては4700坪(およそ15,500平方メートル)の広さを持つとても立派な萩屋敷を構えていましたが、屋敷内の主屋や庭園は明治維新前後に解体されました。現在では厚狭毛利家の武家屋敷として残っているものは、この長屋のみ現存しています。
厚狭毛利家(あさもうりけ)は毛利元就の五男である元秋を始祖とする毛利家の一門のことで、後に八男である元康が引き継ぎ、関ヶ原の戦いの後、長門厚狭(山口県山陽小野田市)に8371石を与えられたのが始まりだと言われています。
この屋敷は、萩城大手門の南側の要地に置かれました。
梁間5メートル、桁行51.5メートルという大規模な入母屋造り本瓦葺きの建物は、萩に現存する武家屋敷の中でも最大の規模を誇っていることから、昭和41(1966)年に国の重要文化財に指定されました。そのときに発見された棟札から、この長屋は十代・毛利元美の代(1800年代)に建てられたものとされています。この屋敷の南側には廂構桟 瓦葺(ひさしがまえさんかわらぶき)を用いて玄関や濡れ縁が設けられ、障子を立てた開放的な構造です。また、妻飾りには木連格子が施されています。屋敷の内部は東の座敷(部屋数10)、中の座敷(部屋数6)、物置(土間、二階造り)、西の座敷(部屋数3)の五つのブロックで構成されているものの、廊下はなく、各々の部屋同士で隣合わせになっているようです。
特に、東の座敷は畳廊下を取り合わせた格調高い造りとなっており、身分の高い者のために用意した詰所で、主に一時的な宿泊や仮眠、あるいは待機する場所として使われていたと思われます。
先ほども説明したとおり、毛利輝元は元就の孫で、中国地方八か国を治めたことから、『中国の大守』と称されていました。かつて中国地方八か国112万石を領有する大名に成長し、天正17(1589)年には広島に居城を築き、豊臣政権下では五大老の一人として権勢を誇りました。その後は慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いにて西軍の総大将として活躍しましたが、不参戦だったことから敗戦し、防長二か国に減封されました。そして、同年11月11日、萩城に入城し、萩開府のために城下町の建設を推し進めるため、萩藩経営の安定に腐心し、寛永2(1625)年、73歳で逝去、萩城三の丸(堀内)の天樹院に葬られました。
屋敷には毛利元就が着ていたと思わしき甲冑も展示されています。
関ヶ原の戦いの後、萩城を築いた毛利輝元の祖父にあたる元就は、安芸国吉田の郡山(安芸高田市)に居城をもち、中国地方十か国120万石を領有する戦国大名にのし上がりました。いわば、毛利家中興の元祖ともいうべき存在で、この腹巻鎧は元就が得意とする海戦を意識して造られたものと思われます。なお、屋敷内に展示されている甲冑はレプリカのようです。
長屋武家屋敷には仲間部屋も設けられており、中央には囲炉裏があります。詰所だった頃は、家臣たちで賑わい、食事などで賑わっていたのでしょう・・・。
萩城下町は、明治維新における日本の産業革命発祥の地でもあります。
城下町の町割りには、菊屋家住宅などの武家屋敷や寺院など、規則正しく区画を分けて配置されており、江戸時代当時から変わらぬ姿で保存されています。
この歴史的な町割りや、徳川体制下にあった近代の封建社会当時の特徴が日本の城下町として今でもそのまま残っています。そして、幕末における産業革命の担い手を育てた長州(萩)藩が西洋科学に挑戦したエピソードも残されています。こういった様々な産業革命及び近代国家の発展に貢献したエピソードが残されていることから、世界遺産に登録された証でもあるのです。
ビクティニ:いくら町中でも、他の地域とは違う雰囲気が漂っている・・・。まるでタイムスリップしたかのような雰囲気だ・・・。
ミュウ:静かな町並みだね・・・。昔ながらの建物も生きているように結構残っているし・・・。
その中でも、菊屋家住宅は萩城下町の発展を支えた重要文化財の一つです。
長州藩の御用達を勤めた豪商の町家で、主に幕府巡見使の宿として、度々本陣としての役割を持っていたといいます。この屋敷は、江戸時代初期に建てられたもので、四百年の歴史があるということもあり、現存する商家としては最古のものです。
この屋敷には主屋(おもや)、本蔵(ほんぐら)、新蔵【金蔵】(しんぐら)、釜場(かまば)、米蔵(こめぐら)の五棟から構成され、それらの価値が非常に高いことから、重要文化財に指定されています。
長州藩御用の商人こと菊屋家は、大内氏時代(室町時代)では大内氏に仕える『津守家』という武士でしたが、毛利輝元公によって大内氏が滅ぼされた後、武士を捨て有力町人として萩に町づくりに貢献しました。さらに輝元が萩城の築城がはじまると、これまでの津守家から『菊屋家』に改称されました。
屋敷内はおよそ2千坪(およそ6612平方メートル)を有し、中でも屋敷内の庭園はとても風流で、一部は一般公開されていない奥の庭園が特に美しく、秋になると特別公開されます。この庭園は江戸時代から昭和初期にわたり作庭されたもので、平成初期には再整備されました。古瀧から枯流れ、枯池を配した回遊的な要素を持った庭で、樹木は高木を土塀際に配し、針葉樹や常緑樹、落葉樹など、彩り豊かな配色をなし、中央部には芝生が生えています。およそ5百坪(およそ1653平方メートル)を有する広々しい庭園には四季折々の景色を見せてくれます。
書院から眺める庭園も手入れされているようで、十分に風流を感じさせます。この書院は幕府の使い、あるいは藩の役宅に使用されていたようです。藩時代はここで美しい庭園を備えた清楚な環境で殿や巡見使と政治や金融関係などの話し合いが行われていたのでしょうね・・・。いわば、貴賓室のようなものですね。ちなみに、この書院は慶安4(1651)年に建てられた当時の姿で復元されたもののようです。
主屋屋敷は、町屋に数寄屋風(すきやふう)の手法が用いられ、初期の屋敷で面皮の長押を廻し、一間ごとに柱を立て、隅以外の柱は杉の面皮柱が使われているのが特徴です。重要文化財に指定されているとはいえ、内部はかなり改造されているようです。この部屋では殿の控え室として使用されていたようです。主屋の建築年代は不明ですが、家蔵古記録によれば、三代目孫兵衛嘉次(1660年没)が建てたものとされ、少なくとも17世紀に建てられたものと思われます。
この屋敷の特徴は『商家』ということもあり、『みせ』が設置されています。『みせ』は御成通り(貴人が御成の時に通る道のこと)に向かって細長く部屋をとり、前に土庇が設けられています。みせと下みせの間に大戸口が設けられていますが、その内側の通路は狭く、土間の入り口を絞るように設けられています。この屋敷では事務室の役割をもっていたようです。
屋敷内には、伊藤博文が、初めて洋行(アメリカへの旅行)の際、お土産に購入されたと思わしき柱時計が設置されています。この柱時計は米国コネチカット州セット・トーマス仕様で、週に一度ゼンマイを巻くと動きます。この時計は約150年前のものと思われる代物で、今でも動く古時計としては貴重なものです。
屋敷内に設けられた電話室はとてもレトロな雰囲気が醸し出されています。この電話室に設置された電話機は明治30(1879)年にもので、『デルビル磁石式』の乙号電話機です。
この主屋は、上から殿様を見下さない構造とする、いわゆる二階建でない『平屋造り』になっています。その代わり、架構には水平に通された柱が梁組の上に半間に束(小さな柱)を建て、縦横に通した『小屋組』の構造が用いられています。これは、地震などの天災による震動で束が落ち、その落ち具合で地震の震度を計測することができたと言われています。一見、平屋造りの屋敷でもそうした役割を持った構造は、まさに昔の巧みの建築技術に『先人の知恵』を思わせます。
他にも屋敷内には、萩茶碗や古萩焼などをはじめ、様々な美術品や工芸品などが展示されていました。
この屋敷の敷地内にはいくつか蔵が設けられています。本蔵は主屋の後方に位置し、土蔵造りの桁行11.7メートル、梁間4.8メートル、二階建ての切妻造りの桟瓦葺土蔵で、建築年代は明治ごろと思われます。かつては様々な資料や物資などを保管するために建てられたものと思われますが、現在では様々な展示品が保管されているようです。蔵の扉には漆喰が用いられています。これは、耐火性が優れていること、そして調湿性、カビ防止の役割を持っているからです。
金蔵も本蔵と同様に扉が漆喰が用いられ、土蔵造りの桁行6.0メートル、梁間4.3メートル、二階建ての切妻造りの桟瓦葺土蔵ですが、さきほどの本蔵より一回り小さめです。ただ、倉庫としては珍しく地下室も設けられているのが特徴です。こちらは18世紀末から19世紀頃に建てられたものと思われます。
萩は、『幕末の風雲児』または『日本明治革命の英雄』といわれる高杉晋作の誕生地でもあります。
晋作は、天保10(1839)年に萩藩大組士、禄高200石 高杉小忠太の長男としてこの城下町の菊屋横丁にて生まれました。
高杉家は戦国時代から毛利家に仕えてきた長州藩の名家で、彼の祖父・又兵衛、父・小忠太も長州藩の重要な職を歴任してきました。そして、晋作自身も高杉家の家柄として高い誇りを持っていたといいます。しかし、『高杉晋作』という名前はあくまで通称で、本当の名は『春風』字は『暢夫』のようです。
高杉家の生家の敷地内には『初湯の井戸』が残っています。この井戸を見ていると、当時の生活が感じられます。
吉田松陰を尊敬する高杉晋作には、明治以降の日本を大きく変えるほど波乱万丈なエピソードがあったのです。
幼少期は私塾で学び、のちに裕福な子供が通う萩校明倫館に通われましたが、実際にはいわゆる何の変哲もない昔ながらの学問だったようで、彼は勉強などせず、剣術ばかり没頭していたようです。その時、嘉永6(1853)年には日本に黒船(ペリー)が来航し、開国を求めました。その時、松陰は決死の覚悟で旗艦ポータハン号に乗り込み、ペリーと差し違える覚悟をしました。これがいわゆる『下田事件』ですが、彼は松陰のあまりの勇敢に感服します。そこで、幼なじみの久坂玄瑞の誘いから、安政4(1857)年、彼が19歳の頃に松下村塾に通い、吉田松陰のもとで塾生として受け入れることとなりました。明倫館とは違って生きた学問を勉学することができた松下村塾では、身分など関係なしに受け入れたといいます。その学問には将来の日本をどう活かすか、ということを中心とした勉強の内容でした。それ以来、やる気に満ちた晋作は勉学に没頭するようになったのです。そして、松蔭先生の思いを忠実に受け継いだ塾生の中から、明治維新や明治新政府で活躍した多くの逸材が育っています。その中でも特に高杉晋作をはじめ、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一とともに『松下村塾四天王』または『松下村塾の双壁』と呼ばれるほど優秀な塾生だったといいます。
その後、藩命で江戸へ遊学。大橋訥庵塾、昌平坂学問所(当時の最高学府)で学びますが、晋作は久坂玄瑞への手紙で「江戸の学問は面白くない」と記していました。その間、松陰は外国の文化や文明など学び、日本の国力を高めるべく、なおかつ外国に領土を奪われないためにも、『日米和親条約』や『日米修好通商条約』などといった日本にとって理不尽な不平等条約を撤回させるため尊皇攘夷運動を実行します。しかし、『間部詮勝要撃計画の罪』で、江戸小伝馬町の牢に投獄され、偶然なことに江戸で晋作は松陰の世話をしながら師との対話を行ないました。その後、死生観の手紙が彼に送られたことで、さらに晋作の生き方を大きく変えることになります。安政6(1859)年、藩命から萩に帰郷を命じられた晋作は「いずれ長州でお会いできるでしょうから、その時にお目にかかりましょう」という手紙を送り江戸を去りますが、十日後に松陰は死刑を言い渡されました。
そして、彼にとって憧れの存在だった松陰が逝去したことで、幕府に対するあまりの悲しみや怒りに、晋作は倒幕を決意します。その時、長州藩の要職宛に「必ず松陰先生の仇は取ります」という怒りの手紙を書きました。これがいわば、晋作が日本の将来を変えるとともに幕府への復讐心に情熱を燃やしたのです。
文久2(1862)年5月には藩命で、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航します。しかし、当時イギリスやドイツの侵略で上海は欧米の植民地と化していたのです。この状況に近い将来、日本に危機が訪れることを知り帰国し、倒幕の決意を公に知らしめます。
同年12月12日、当時江戸桜田藩にて謹慎中だった晋作は久坂玄瑞、伊藤博文、志道聞多らとともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行し、尊皇攘夷の気勢を上げます。
文久3(1863)年5月10日、開国に反対していた長州藩は関門海峡にて外国船を砲撃します。しかし、逆に外国艦隊の報復に惨敗を喫します。これがいわゆる下関戦争です。その際、欧米との戦力や兵力の差に見せつけられた長州藩士・毛利敬親は外国連合軍のさらなる攻撃も予想される危機感に藩を離れていた晋作に助けを求めます。そこで、晋作は6月に徳川幕府による理不尽な身分制度(いわゆる士農工商)を覆すため、身分に因らない画期的な軍隊・奇兵隊を結成、奇兵隊開闢(初代)総督となります。その時に晋作は「おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり」という句を詠んだのです。これは「面白くもない世の中を面白くするのは心である」という意味で、幕府の言いなりになっている日本を変えるためには、自らの心を動かすことで変えられるという意志で詠んだものと思われます。
文久4(1864)年8月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、下関は外国艦隊に占領されます。その時、長州藩は未曾有な滅亡の危機に陥りますが、晋作が外国連合軍との交渉の任を命じられ、イギリス海軍提督との講和会議に臨みます。そして、講和条約の中で提示された条件を晋作は受け入れ、長州を救いました。
しかし、同年11月、徳川幕府から長州藩に武力討伐という危機に迫っていました。幕府の討伐軍にはおよそ15万に対し長州藩はおよそ4千ととても勝ち目がありません。さらに幕府に対する対峙力を持っていた流石の晋作らでさえも暗殺者に狙われるほどピンチに追い込まれます。そこで、功山寺にいる五卿の前で「今こそ長州男児の肝っ玉をご覧に入れます」と気勢を挙げ、日本の改革に勇気のある者を待つことにしました。そこで、晋作が待つ功山寺に集まったのは、伊藤博文が率いる力士隊、石川小五郎が率いる遊撃隊ら、長州藩諸隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)。さらに奇兵隊ら諸隊も加わりました。そして、正義を掲げる晋作のもとに町人や農民なども集まり、最終的には約3千に上りました。慶応元(1865)年、俗論派(保守派)の首魁・椋梨藤太らを排斥し、藩論を倒幕に統一することに成功しました。
慶応2(1866)年1月、桂小五郎(後の木戸孝允)らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結しました。同年6月にもまた幕府による第二次長州征伐(四境戦争)が起きますが、今度は晋作が海軍総督として、幕府の長州討伐軍を撃退、周防大島を奪還に成功しました。それから幕府の勢力は次第に弱まっていきます。同年7月、将軍徳川家茂の死去の知らせを受けた幕府軍総督小笠原長行は戦線を離脱し、幕府軍は敗北しました。幕府の権威は大きく失墜し、慶応3(1867)年10月14日、江戸幕府第15将軍徳川慶喜は江戸幕府による政権を明治天皇に返上(王政復古)。同年11月には大政奉還へと導かれ、日本は鎖国から解放されました。
しかし、晋作は長く戦い続けた間、病に冒されていたのです。肺結核のため、桜山で療養し回復に努めるも、慶応3(1867)年4月14日深夜に死去しました。こうして、彼が求めていた幕府の崩壊こと大政奉還を拝めることもなく逝去しました(享年29年)。こうして短い生涯ながらも、松陰の教えを活かし、近代の日本の未来を切り開くための時代を駆け抜けた勇猛果敢なエピソードが日本の歴史に刻まれたのです・・・。
ビクティニ:なるほど、もし日本が鎖国されたままだったら、今の日本はないと言っても過言じゃない。むしろ開国することで、今の日本が様々な国から支えられているということだ。
ミュウ:まさに日本の危機を救った勇敢な人だったんだね・・・(´;ω;`)
さて、萩の城下町を一通り回ったところで、昼食に。昼食は東萩駅前にあるレストランで『指月山御膳』をいただきました。茶そばや寿司、酢物、日本海で採れた海の幸を使ったお刺身などが入った、上品な昼食でありました。
ビクティニ:豪華な昼食だ!さすが萩!いただきます!
ミュウ:お寿司が美味しい!
にょろもう:緑のお蕎麦も美味しいよ~。
『正月旅行 厳冬の山陰旅 正月の萩城下町めぐり』をお伝えしました。