ビクティニと昔ロマンのブログ

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富岡製糸場で座繰り体験をしてきました

皆さん、こんにちは。

今回は富岡製糸場で『座繰り体験』をしてきました。

 

富岡製糸場へのアクセスは上信電鉄

令和6年2月25日 雨

群馬県富岡市にある“富岡製糸場”へ訪れるため、高崎駅より上信電鉄にて上州富岡駅へやってきました。

富岡製糸場へは上州富岡駅から徒歩10分ほどでアクセスできます。

ビクティニ:今日は、富岡製糸場である体験を行うよ。

ぐんまちゃん:『座繰り体験』だね。前からやりたかったって言ってたから、ぼくとしては嬉しいよ。

 

養蚕・製紙技術の伝播

日本で製糸を始めたのは、文明開化ならびに技術革新の時代を迎えた明治維新のことで、製糸の生産を行うために、明治5(1872)年に富岡製糸場が建築されました。

しかし、紀元前3000年ごろから、中国にて絹生産が行われていたのです。

中国で生産された生糸は、アジア内陸部に交易路を通り、ヨーロッパへ運ばれました。そして、中国で培った養蚕・製紙技術は、10世紀にはイタリア、13世紀には北アフリカやポルトガル・スペインに伝わり、さらに15~16世紀にはフランスへ普及していきました。こうして、イタリアやフランスでは、絹生産の大所帯となり、明治維新を迎えた頃の日本における製糸技術はフランスから伝わったのです。

富岡製糸場で最初に導入された“フランス式の繰糸器”をはじめ、日本で開発された“諏訪式繰糸器”といった古典的かつ手動の繰糸器が使われましたが、大正に入ると、生産向上性のために、機械化が進められます。大正や昭和初期には御法川式多条繰糸機が使われ、さらに戦後からは製糸の自動化が進められました。

昭和27(1952)年には片倉K8型自動繰糸機、さらに昭和41(1966)年にはニッサンHR型自動繰糸機が富岡製糸場に導入され、国内のみならず、海外へも生糸の生産に貢献していきました。

しかしながら、海外からの安価な生糸の輸入が次第に普及したことから、比較的高価な国産の生糸は売れなくなりました。そして昭和62(1987)年には富岡製糸場は操業停止し、115年の歴史に幕を閉じることとなったのです。

富岡製糸場は、製糸の生産技術ならびに工場の建築技術など、日本の技術の進歩に貢献したからこそ、2013年に世界遺産に登録された理由にもなるともいえるでしょう・・・。

 

蚕の一生サイクル
生糸の材料となる『繭』をつくる蚕の一生サイクルです。

蚕は卵から生まれ、幼虫・蛹・成虫の順番で成長する昆虫です。孵化してから約1ヶ月間、『桑の葉』を餌として食べ、4回も脱皮を行うことで『繭』を作ります。繭は2~3日で作られ、更にそのあと2~3日で蛹となり、やがて『蛾』という成虫となり羽化します。

養蚕をする際には、蚕が繭になった状態まで育てたら殺蛹します。これは蛹が羽化し『蛾』となると、生糸の材料にはできないからです。また、蚕は変温動物で、気温によって発育経過は変わって来る可能性があるため、温度調整などの面から飼育がシビアとも言えるでしょう。

 

富岡製糸場

日本における文明開化の発展にして日本の製糸産業を支えてきたのが富岡製糸場です。

富岡製糸場は、生糸の生産向上ならびに作業効率化を図るべく、明治政府によって明治5(1872)年に設立されました。

その証拠に、東繭置所のアーチ中央にある『明治五年』のパネルがそれを物語っています。

民営化後も一貫して製糸を行い、更には製紙技術開発の最先端として国内養蚕ならびに製糸業を世界一レベルまで発展してきたのです。

当時、生産量が限られていた生糸の大量生産を実現した『技術革新』ならびに世界と日本との間の『技術交流』を主題とした“近代の絹産業に関する遺産”のことです。この大量生産の技術の発展により、当時は一部の特権階級のみに限られていた絹を国内はおろか世界中にも広がり、その生活や文化が一層豊かなものへと変えていったのです。富岡製糸場のほか、田島家・高山社・荒船風穴も、繭の試験飼育、蚕種製造、飼育指導、蚕種貯蔵などの優良品種の開発および普及に貢献しました。

これら“富岡製糸場と絹産業遺産群”を構成する富岡製糸場と3資産(田島弥平旧宅・高山社跡・荒船風穴)こそ“技術革新の場”であり、世界遺産としての価値が世界的に認められています。

 

東置繭所のフランス積みレンガ
富岡製糸場の特徴として、『フランス積み』といわれる技法でレンガの壁が造られています。

『フランス積み』とは、一段にレンガの長手と小口を交互に積む方式のことで、上の写真をよく見ると幅の短い四角と幅の長い四角が交互に並んでいるのが確認できます。これは長手(幅が長い四角)と小口(幅が短い四角)を中心を合わせて一段ごとに交互に積むもので、幅の長いレンガは普通のレンガと同じ平行に並んでいるもの、逆に幅の短いものは奥行へレンガが伸びているというイメージがわかりやすいかと思います。

このフランス積みを指導したのは“ポール・ブリューナ”というフランス人で、富岡製糸場の他に碓氷峠にある“めがね橋(碓氷第三橋梁)”や“丸山変電所”もそのフランス積みが採用されました。正式には『フランドル積み』と呼ぶそうです。

また、東・西繭倉庫のレンガに用いられているフランス積みは、当時横須賀製鉄所で働いていたフランス人のバスチアンがその設計を担当し、フランス人から教わったレンガの製造方法も、国内で焼いたレンガが用いられています。

 

繰糸所
操糸所は養蚕された繭から生糸を作るための建物で、製糸場ににおける中心的な施設です。

長さ140メートルに及ぶ長大な空間が確保された木骨レンガ造りの建造物で、内部には最終操業当時まで使われた機械がそのまま残されています。操業当初こそは『フランス式の操糸器』といった比較的簡単なものが使われていたのでしょうが、あとから次第に機械化・自動化が進み最終的にはニッサンのHR型自動繰糸機が当時のまま使われていたことが分かります。

 

操糸所の天井
天井には、頑丈な梁が屋根を支えています。

これは『トラス式構造』といい、梁同士を三角状に構成することによって、柱を建てなくても屋根を支えることができる優れものの工法が用いられています。また、明治時代には電気が普及していなかったため、照明の代わりに窓や屋根の上部にある『日照り窓』を伝って外部から日光を取り入れて作業していたのです。そのため、明治時代は日中しか作業ができなかったのかが推測できます。ちなみに工女さんがここで働くのには日曜日休みの8時間勤務という当時としては労働条件が良かったそうです。

 

座繰り体験

さて、本題の『座繰り体験』に参加しましょう。

今回の体験では、こちらの『座繰り器』を使用し、糸車に糸を巻いていきます。

この座繰り器は『手動』で、木製の歯車を用いて糸を巻く、いわゆる当時の『上州座繰り器』を模したものとなっています。左側の『糸繰り鍋』に入った15個の繭を煮出して糸を取り出し、歯車のついた手動の糸繰り機で糸を巻いていくという流れです。また、個人の任意で『お富ちゃん』の飾りと折り紙の飾りが付けられます。

 

糸繰り鍋に入った繭

繭から引き出された糸

糸繰り鍋で15個の繭から複数の糸を1箇所に集めて撚り合わせ、『太い糸』にしていきます。

1個の繭から吐き出される糸の長さは・・・

なんと1,500メートルにも及ぶとされています。

これだけの長さで1,500メートル以上ものの生糸の生産ができたのではないでしょうか。

これは『共撚式』といい、隣り合う生糸同士で互いに撚り掛ける方式です。

均質な生糸が繰れる反面、左右のバランスが崩れると生糸が切れやすいという欠点もあったようです。

ちなみに、繭の糸に含まれる『絹』は、いわば『シルク』というタンパク質の成分が含まれています。実はその『シルク』という成分は、糸の生産だけでなく、食用としても使われているそうです。

繭から糸を引いて行くと、やがて繭の表面が透明化し、中身の茶色い物体が現れます。それこそ『繭(蚕)のさなぎです。

 

みごぼうき(索緒ぼうき)

みごぼうきを使って繭から糸を取り出す

糸を出していない繭があったら、『みごぼうき(索緒ぼうき)』を使って繭から糸を取り出します。

そして、繭から取り出した糸を『最後の1本』になるまでひたすら引っ張り続けます。・・・とはいっても、その一本の糸はかなり細いもので、肉眼ではなかなか見えにくいと思うので、もはや感覚になるでしょう。

また、みごぼうきは繭からの糸取り出しだけでなく、糸繰り鍋のお湯をかき回す事によって糸が撚りやすくなる効果もあります。

最後の1本の糸になったら、束になっている『太い糸』にくっつけ、左手はハンドルを反時計方向に回していきます。もう右手は繭を鍋に落とし糸の先端を持ち続けます。

 

鼓車

すると、途中の『鼓車』で余分な糸は切り除かれます。

鼓車は、糸の『節(不純物)』を取り除いたり、余分な糸を切り離す役割を持っています。これを使うことによって、生糸の品質不良を防ぐことができるのです。もっとも、明治初期はこのような手動の座繰り器を使っていたのですが、品質が揃わないのと生産性としては乏しいという理由から、当時の明治政府から『機械化』を進ませることとなります。そこで生糸(絹)の生産向上を図るべく、繰糸の機械化と富岡製糸場が設立されることとなったのです。これにより、当時は身分の高い人や金持ちなど、一部の人にしか使い道が限られていた絹も一般人や庶民にも扱えるようになり、やがて海外にもその普及が及ぶようになりました。

このようにして、生糸(絹)の輸出における貿易および産業振興とともに、富岡製糸場の価値は非常に高かったとも言えるでしょう・・・。

更に昭和でも富岡製糸場での生糸生産が進み『自動化』も実現しました。

・・・・しかしながら、国産の生糸は高価である点、海外からも安価な生糸が入手できるようになってからというものの、日本の製糸業は次第に衰えていき、昭和62(1987)年には操業停止となり、115年の歴史に幕を下ろすこととなったのです・・・。

 

糸車と綾振り棒

最後に撚り合わさった糸は『綾振り棒』によって糸車に巻かれます。

綾振り棒は、ハンドルを回すと歯車と連動するように左右に振れます。というのも糸車に対して一定の幅で綾振り棒を動かすことによって、均等の幅で糸車に糸を巻き付けることができるのです。

 

完成した糸車

ということで、糸車の完成です!

当時であれば、糸車に巻かれた生糸は取り出して『絹糸』として国内各地や海外へ出荷されていたのですが、座繰り体験の糸車は記念としてお持ち帰りでき、飾りとして、あるいはちょっと工作してシェードランプにもできます。

他にも、『お富ちゃんバッジ』や繭1個もプレゼントしてくれました。また、糸を抜き切った透明の繭から取り出された蛹も全部いただきましたが、それらはタンパク質が多く含まれているため、食用としても使えるそうです。ちなみに佃煮すると美味しいとか。

 

★実際の座繰り体験の様子★


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ブリュナエンジン

これはブリュナエンジンの復元機で、富岡市の商工会議所工業部会により、工業振興および発展に寄与する目的で、また後世へ伝える工業会のシンボルとして造られたものです。

ブリュナエンジンは、富岡製糸場設立の際に導入された“横型単式筒蒸気機関(エンジン)”のことを指します。

稼働当時は、繰糸器そうしき(繭から糸を繰るための器械)と揚返器あげかえしき(繰った糸を巻き返す器械)の枠を回転させる動力として蒸気釜(ボイラー)とともに蒸気釜所に置かれていました。

製糸場の設立指導者であるポール・ブリュナによって導入されたものであることから“ブリュナエンジン”と呼ばれています。これは工業機械用の原動力としては日本において最古のものとされています。ちなみに写真のブリュナエンジンは『レプリカ』で、実物は愛知県犬山市にある博物館明治村にて保存されています。

 

荒船風穴の模型
蚕種ならびに製糸産業を行うためには、繭を保管する設備を確保する必要があります。

これは岩の間からの通し風を利用した蚕種貯蔵施設として用いられた『荒船風穴』です。貯蔵するのには『種紙(蚕の卵を産み付けた紙)』を約110万枚に及び、全国40道府県をはじめ朝鮮半島からも蚕種の貯蔵を引き受け、蚕種の多回数化に貢献しました。風穴は明治38(1905)年~大正3(1914)年頃にかけて1号から3号の順に建設されました。

 

高山社跡の模型

高山社跡は、高山長五郎が開発した近代養蚕法(清温育)の普及教育のため、明治17(1884)年につくった『高山社』の発祥の地です。

高山社には全国47道府県のほか中国や朝鮮からも生徒が集まり、養蚕における教育施設として確立しました。

 

田島家(田島弥平旧宅)の模型

これは弥平が通風を重視した蚕の飼育法(清涼育)を大成した場所で、文久3(1863)年に建てられた住居兼蚕室が現存します。

瓦葺きの二階建てで、屋根の換気用の越屋根(やぐら)が付いているのが特徴的です。この構造は弥平がしるした『養蚕新論』により、近代養蚕農家建築の基礎となり、高山社にもこの建築法が用いられていました。

 

官営時代の生産システム
官営時代の富岡製糸場では、主にブリュナエンジンやフランス式繰糸器が使われました。

中でも蒸気釜所内に設置されていたブリュナエンジンの動力は、繰糸場の床下まで延びたシャフトで導かれ、繰糸器および揚返器の直下のベベル・ギア(傘型歯車)で縦シャフトに伝動し糸枠を取り付けたシャフトを駆動させていたものと推測されます。他にも、検査器や台枠もフランスから導入されたものが多かったです。

 

三井時代
官営時代から三井、原、片倉時代の順に引き継がれていきました。

三井時代では、第二工場の新設、繰糸2人に対して煮繭工女は1人つくという人員配置、御法川式鉄製3口取りケンネル式と付属釜を増設するなど、設備の増強が図られました。さらには従来の共撚式をケンネル式に改良するとともに、明治34(1901)年にはケンネル式に統一されました。

 

原時代

原時代になると、第二工場が廃止され、すべての繰糸器が第一工場に戻されます。さらに生産性を高めるために20口取りの多条機が導入され、これまでの座繰りから立繰りにかわって操業する形となりました。この姿が製糸場で働く工女さんのイメージとして一番近いものではないでしょうか。

 

片倉時代

戦後の片倉時代では、さらに生産性を高めるために、繰糸機の巨大化ならびに自動機の開発が進められます。そして、昭和41(1966)年にはニッサンHR型自動繰糸機10セット(4800緒)を導入し、まさに国内最大級の工場へと進化していったのです。

 

製糸の手順

養蚕ようさんされた繭は製紙工場へ運ばれ、その繭は製糸の原料となります。

 

養蚕

掃立て

種紙についた蚕卵から孵化したばかりの毛蚕(頭が黒く毛が生えている姿・蛾蚕)を掃きおろし、餌である桑を与えます。これを『1令』といい、2日ほどで初眠に入ります。

桑摘み

蚕の餌となる桑の葉を摘みます。

桑くれ

蚕は最初は体長3mmほどですが、5令4眠と脱皮をくりかえし5令の頃には6~8mmにまで成長。その成長に合わせて桑の葉を与えます。

上蔟じょうぞく

5令になってから約7日後には、体がすき通る状態の『熟蚕(ズーサン)』と呼び、やがては頭を持ち上げて振り、糸を吐き始めます。こうした繭をつくる準備ができた蚕をまぶし(繭をつくる場所)に移します。

営繭えいけん

蚕は頭を『8の字』に振りながら1000メートル以上の糸を吐きます。約2~3日で繭をつくり、最初は柔らかった繭は徐々に固くなり、蚕は繭の中で蛹となります。

収繭しゅうけん

上蔟後、1週間前後で蔟から繭をはずして集めます。これを『繭かき』といい、繭の周りを毛羽をとって綺麗にした後、大きな布袋に入れ繭は製糸場へ出荷されます。

製糸

乾繭かんけん殺蛹さつよう

生糸を作るためには、まず繭の中にある蛹を殺さなければなりません。これは蛹が成長し『蛾』になると穴を開けてしまい材料として使用できなくなるためです。さらにカビが発生しないように乾燥させておきます。明治期は自然乾燥が主流でしたが、のちに火熱や蒸気熱による方式へと変わり、現在では加熱した空気による熱風乾燥式が使われています。

選繭せんけん

次に養蚕農家による収繭や出荷のため選繭が行われます。しかし、製糸場内でも潰れたり汚れたりした繭は取り除く必要が出てきます。そのため、下から光を当てる専用の検査台では肉眼でも判別できるよう工夫がなされています。

煮繭

振り分けられた繭は『煮繭しゃけん』という工程で煮出します。これは、繭に含まれる『セリシン』というタンパク質の成分で糸同士がくっついてしまうため、乾燥した状態で糸を引き出せません。そこでお湯に溶ける性質をもつセリシンを溶かすために湯や蒸気を使って繭を煮て、ほぐれやすい状態にします。

繰糸

1つ1つの繭から1本の糸口が出る状態にした後、数本の糸を収束し、繭から出る糸を足しながら用途にあった太さや長さの生糸になるように小枠へ巻いていきます。繭糸をそのまま収束すると抱合性の悪い糸になってしまうので、仮撚りした上で丸みのある抱合性のある良い生糸へ仕上げていきます。

揚返し

小枠に巻き取った生糸を枠周り150cmの大枠に巻きなおし、かせの状態にします。この際に、最初と最後の糸口が分かるよう一緒に結び、綛の形がくずれぬよう『あみそ掛け』をしてから生糸を大枠から外します。

仕上げ

揚げ返しされた生糸は乾燥しすぎているため、生糸は一晩以上置き水分量を安定させます。その後、1綛ごとにねじり留め、20綛を束ねて1かつにまとめ、6括ごとに段ボール(約30kg)にまとめて出荷されます。

 

磯部温泉

 

磯部温泉の旅館

磯部温泉の旅館 夕食

さて、富岡製糸場の見学後、近くにある磯部温泉の旅館に宿泊しました。

磯部温泉は、『温泉マーク発祥の地』でもあり、日本昔話『舌切り雀』の温泉としても知られています。磯部温泉の成分はナトリウムなので、塩気のある温泉です。また、夕食に出た上州豚の陶板焼きが美味しかったです。

他にも『磯部煎餅』も名物なので、お土産に持ち帰るのもよし。

富岡製糸場と磯部温泉のセットで楽しんでみるのも、群馬ならではの文化が味わえることでしょう。

ビクティニ:磯部温泉も結構いい湯ですな・・・

オオトリサマ:いい湯じゃな~

ぐんまちゃん:座繰り体験ができる上に磯部温泉もいいだろう?これこそ群馬の文化の1つさ

 

『富岡製糸場で座繰り体験をしてきました』をお伝えしました。