ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

2024年正月旅 明倫学舎・萩城下町を見物&松陰神社で初詣

みなさん、こんにちは。

そして、あけましておめでとうございます。

・・・と言いたいところですが、なんと記念すべき新年の2024年1月1日に能登地方で地震が発生してしまったのは、あまりにも心外です・・・。地震にの被害に遭われた皆様のご無事をお祈り申し上げます・・・。

 

 

さて、気を取り直して本題といきましょう。

そんな元旦に関東を出発し、広島行きの夜行バスで広島へ向かいます。

 

広島駅で朝食

7:55頃、広島駅に到着。

広島駅に到着後、朝食をいただきました。

新幹線口のカフェのホットドッグとフライドポテトにホットコーヒーが美味しかったです。

 

新山口駅に到着

ということで、これから山口県の萩市へ観光に行くため、広島駅から新山口駅まで新幹線で移動し、更にそこから路線バスに乗り換えて萩へ進みます。

広島駅からこだま837号博多行きに乗車し、9:57に新山口駅に到着です。

ビクティニ:新山口駅に到着したよ。ここから萩へ行くのにはバスに乗り換えだ。

ゴンベ:山口といえばふぐが美味しいんだっぺ。

 

高速バス“スーパー萩号”

新山口駅から萩市へ向かうのには、新山口駅と萩市を直接的に結ぶ鉄道が通っていないので、バスでの移動が便利です。

“スーパー萩号”は新山口駅と萩市内を約1時間で結ぶ高速バスで、ほぼ1時間おきに1本出ています。

今回は始発の10:15発の便で萩へ目指します。

萩・明倫学舎前に11:15着。ここで下車します。

過去にも萩に訪れたことがあるのですが、これまで萩に訪れたのは、松江・出雲方面からJR山陰本線で東萩駅から来たのであり、今回で新山口駅から萩に来たのが初めてのパターンです。

 

萩・明倫学舎

ということで、今回は“明倫学舎”という観光施設を訪れました。

ここはかつて萩藩における人材育成の中枢として多くの先覚を育ててきた“藩校明倫館”です。

そして、萩は日本近代化の礎を築き、これまでの幕府時代から新時代を築いた人たちを育ててきた、明治維新胎動の地でもあるのです。そのため、萩は“世界遺産の町“とも言われています。

ここは『藩校』としての役目を終えた後、その跡地に“旧明倫小学校“として建てられ、近年まで授業が行われていましたが、平成30(2018)年には明治維新から150年を記念に“萩・明倫学舎“という観光施設として当時の萩の歴史を後世に伝えています。

 

明倫学舎 校長室

ということで、明倫学舎の中に入ってみましょう。

エントランスのある建物が『本館』で、約90メートルにわたる廊下や復元された教室や校長室など、当時の姿で復元されています。

ここは、校長室のあった場所です。

この部屋はかつて歴代校長が執務していた趣のある校長室に復元されています。この趣向を凝らした校長室が執務していた各歴代校長に士気が伝ったのではないのでしょうか。

 


明倫館(明倫小学校) 歴代校長

これは明倫小学校だったころの時代の歴代校長です。

初代時代は『明倫小学校』という名前でしたが、二代目には『明倫尋常小学校』、三代目と四代目には『明倫高等小学校』で四代目には『明倫第一小学校長』も兼務、五代目には『明倫尋常高等小学校』を担当していたようです。

萩市は、様々な学問を通じて明治維新に関わる多くの人物を産み出してきたのです。最初に亨保4(1719)年に創設された『萩藩校明倫館』では、幕末期に吉田松陰よしだしょういんが教え、高杉晋作たかすぎしんさく桂小五郎かつらこごろうが学んだことでも有名です。嘉永2(1849)年には現在地に拡大移転し、昭和10(1935)年3月にその跡地に『明倫小学校』が開校。平成26(2014)年3月に移転するまでこの地域の多くの子供たちが学んできたのです。そして、これまで小学校として使われてきた校舎を観光施設として萩の歴史を学ぶことができます。

また、そのうち本館は国の登録有形文化財にもなっています。

 

明倫学舎 校内

明倫学舎の校内です。

校内にある建物は4棟あり、それらの木造校舎は日本最大規模を誇っています。

写真の庭園を見ると校内の広さがわかります。

 

長州ファイブ

萩出身の先覚の中でも、とりわけ日本における工業化を推進させてきたのがいわゆる“長州ファイブ“です。

伊藤博文いとうひろぶみをはじめ、井上勝いのうえまさる井上馨いのうえかおる遠藤謹助えんどうきんすけ山尾庸三やまおようぞうの五人こそ、日本の近代化に貢献してきた精鋭たちだったのです。

 

~伊藤博文(1841~1909)~

初代内閣総理大臣で、いわば“内閣の父“といわれていたかの有名な人物です。

当時、吉田松陰が主宰していた松下村塾で学んでいたと言います。英国留学から帰国後、倒幕運動に参加し、“明治維新”という新しい時代が訪れました。また、政府の参与に登用され、岩倉使節団の全権副使として欧米を視察したことがあります。

明治6(1873)年参議兼初代工部卿こうぶきょうとなり、日本の工業化を築きます。さらに内務卿を経て明治18(1885)年に初代内閣総理大臣として就任しました。のちに枢密院すうみついん議長として憲法草案の審議に携わるなど、明治憲法発布ならびに立憲制確率に尽力してきたのです。また、計4度組閣し、元老として政界に重きをなしました。

幼名は利助、通称は春輔・俊輔(俊介)。号は春畝など。変名は花山春太郎。周防国熊毛郡束荷村(山口県光市)の農家に生まれ、父十蔵が萩の下級武士を継いだため伊藤姓を名乗る。来原良蔵や吉田松陰に師事。文久3年(1863)に井上馨(聞多)らとロンドンに秘密留学。翌元治元年(1864)に帰国し、4カ国連合艦隊下関砲撃の戦後処理に奔走。明治元年(1868)5月に兵庫県が誕生するや、初代知事となった。同4年には岩倉使節団の副使として欧米12カ国を視察。同11年に大久保利通が暗殺されるや内務卿となり、15年、勅命により欧州へ憲法調査に赴き、天皇制の権力機構を確立するため、主にドイツの専制的立憲君主制に学ぶ。帰国後は華族令を改正し、18年、初代総理大臣となった(計4回組閣)。憲法草案を練り、22年にこれを欽定憲法として発布。28年には全権として日清戦争講和をまとめ、33年には立憲政友会を組織。日露戦争後、韓国が日本の保護国となるや、38年、初代韓国統監として京城(ソウル)に赴き、韓国併合の基礎を作るも、ハルビン駅頭で韓国人に暗殺される。

 

~井上馨(1835~1915)~

初代外務大臣で、いわば“外交の父”とも言われています。

藩校明倫館を学び舎とし、先程の伊藤博文と同様、英国留学から帰国後に倒幕運動に参加しました。明治維新後、政府の参与に登録され、明治3(1870)年には造幣頭ぞうへいのかみとなり、大阪の造幣寮(明治10年に『造幣局』へ改称)開設に尽力しました。

大蔵大輔や工部卿を経て、明治12(1879)年には外務卿となり、欧化政策を進めて鹿鳴館ろくめいかん 時代を現出し、第一次伊藤内閣の初代外務大臣となります。農務省・内務・大蔵大臣などを歴任し、元老として政界・財界に重きをなし、尽力してきました。

幕末のころは聞多と称した。号は世外・三猿。周防国吉敷郡湯田村(山口市)に生まれ、志道家の養子となって萩城下に移り住む。藩校明倫館で学び、万延元年(1860)に藩主小姓役を任ぜられた。文久2年(1862)12月には高杉晋作・久坂玄瑞らと江戸・御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き打ちした。翌3年、伊藤博文(俊輔)らとロンドンに秘密留学し、西洋文明を目の当たりにして攘夷の不可を悟る。元治元年(1864)6月、伊藤と共に帰国。征長軍が迫るや恭順派と対立し9月、刺客の襲撃を受け重傷を負う。翌慶応元年(1865)、伊藤と共に長崎に赴き、薩摩藩名義で銃7,000挺を買い付けた。さらに薩摩に赴き、大久保利通らと薩摩・長州和解を話し合う。同2年9月には広沢真臣らと宮島で幕府使節勝海舟と談判して、長州戦争休戦を決める。王政復古で新政府に出仕。明治18年(1885)には初代外務大臣となり、幕末に欧米列強との間に結ばれた不平等条約改正のため尽力するも失敗。その後、農商務・内務・臨時総理・大蔵大臣などを務め、実業界にも多大な影響力を及ぼした。

 

~山尾庸三(1837~1917)~

箱館(現 函館市)で洋学を学び、英国留学から帰国後、明治3(1870)年 工部省の設置に尽力します。
翌年政府に建白書を提出し、工学教育を担う工学寮(明治10年工部大学校と改称、現 東京大学工学部)の創設を実現して、工学頭兼測量正に就任しました。
明治5(1872)年 工部大輔、明治13(1880)年 工部卿に昇進し、製鉄・鉄道・造船を中心に日本工業化に多大な功績を残してきました。その経緯から“工業の父“ともいわれています。
その後は工学会(現 日本工学会)の会長として後進を育成し、盲唖学校の設立にも尽力してきました。

萩藩陪臣(繁沢家の家臣)の家に生まれる。幕末ころは「庸造」と称した。萩に出て繁沢家に寄寓して学ぶ。さらに周防徳山や江戸でも学び、桂小五郎・斎藤弥九郎らの知遇を得た。文久元年(1861)、幕府の船亀田丸(船将・北岡健三郎)に乗り、ロシア・アムール地方を視察して、帰国後は箱館(函館)で武田斐三郎に師事。同2年12月、高杉晋作・久坂玄瑞らと、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き打ちするという過激な攘夷運動にも参加する。同3年、井上馨(聞多)らとイギリス・ロンドンに秘密留学。とくに各種工業を研究し、薩摩藩留学生の援助を受けて、グラスゴーで造船技術を学んだ。明治元年(1868)に帰国後は木戸孝允(桂小五郎)の勧めにより新政府に出仕。日本近代化のため近代工業の確立に尽力し、人材育成のため工学寮(現在の東京大学工学部)の設立を提唱した。明治13年(1890)に工部卿となり、以後は参事院議官、参事院副議長、宮中顧問官、法制局長官などを歴任。同31年(1898)に退官後は文墨を楽しみ、特に金魚を愛した。また、盲唖学校の設立にも尽くす。

 

~遠藤謹助(1836~1893)~

萩藩の博習堂(西洋兵学研究機関)で学びました。英国留学から帰国後、慶応2(1866)年に藩主が英国人と会見した際に通訳を実施。
明治3(1870)年 造幣権頭ぞうへいごんのかみとなり、大阪の造幣寮(明治10年造幣局と改称)で貨幣鋳造の近代化を推進します。そのため“造幣の父“といわれています。
しかし、お雇い外国人キンドルと意見が合わず、明治7年 大蔵大丞に転任する。明治14年 造幣局長となり、技術者を育て、日本人の力だけで銅貨鋳造に成功しました。
また、局内の桜並木を『通り抜け』として市民に開放したといいます。

萩藩士遠藤太市郎の弟として、萩に生まれる(墓誌による)。藩船壬戌丸に乗り組み航海術を学ぶ。文久3年(1863)、井上馨(聞多)・伊藤博文(俊輔)らとロンドンに秘密留学したが、慶応2年(1866)に急きょ帰国する。その理由は成績不振とも、病気のためとも言われる。帰国後は外交官として、藩主父子とイギリスのキング提督との会談で通訳を務めるなど活躍。明治元年(1868)、明治政府に出仕。開港間もない神戸の運上所に勤務し近代的な病院建設に尽力するなどした。同年11月から始まった大阪の造幣寮(のち造幣局)建設に関わり、同3年11月には造幣権頭(造幣頭につぐ地位)に抜擢される。銀本位制を主張したり、造幣関係の諸規則・諸制度の改革を唱えたりしたが、「お雇い外国人」の造幣首長キンドルと激しく対立し、同7年8月辞職した。しかし同14年11月に造幣局長として復帰。日本人による造幣技術確立を目指し、外国人技術者の排除に努め、同22年、日本人だけの手で銅貨鋳造に成功した。また同16年から、造幣局構内で桜並木の「通り抜け」を始めた。

 

~井上勝(1843~1910)~

箱館(現 函館市)で洋学を学び、英国留学から帰国後、明治4(1871)年 鉱山頭兼鉄道頭に就任。翌年鉄道頭専任となってから、新橋~横浜間に日本初の鉄道を開通させたことから“鉄道の父“と言われています。
明治10年には鉄道局長となり、大阪に工技生養成所を設立し技術者の養成ならびに日本人の力だけで京都・大津間の逢坂山(おうさかやま)トンネルを完成させます。
工部大輔などを経て、明治23(1890)年 鉄道庁長官に就任。明治29(1896)年 機関車の国産化を目標に汽車製造合資会社を設立しました。

萩藩士井上勝行の三男として萩城下土原に生まれる。幕末の一時期、野村弥吉と称した。安政2年(1855)、開明派として知られた父に従い、江戸・浦賀に赴く。同5年、藩命により長崎でオランダ士官より兵学を学ぶ。さらに同6年、江戸へ出て西洋砲術を修業した後、箱館(函館)で武田斐三郎に師事し、英国領事館員から英語を学んだ。文久3年(1863)には井上馨(聞多)・伊藤博文(俊輔)らとイギリス・ロンドンに秘密留学。鉱山学や鉄道の実業を学び、明治元年(1868)に帰国した。木戸孝允(桂小五郎)の推薦で新政府に出仕し、同4年、鉄道頭となって京浜間の鉄道敷設を指揮。翌5年これを開通させる。その後も関西の鉄道敷設を指揮し、日本人技術者の実力で逢坂山トンネルを完成させるという快挙を成し遂げた。同23年9月には鉄道庁長官となる(26年3月退官)。また同年には、貴族院議員にも選ばれた。明治29年、汽車製造合資会社を興して社長になるなど、鉄道事業による日本の近代化に尽くしたが、鉄道視察中にロンドンで客死。鉄道の父と呼ばれ、後年、東京駅前に銅像が建立された。

 

天秤ふいご

これはたたら製鉄に使われていた『天秤ふいご』です。

江戸時代は『鉄』の原料である砂鉄を木炭とともに炉で燃焼させて鉄を造っていました。その際、ふいごを踏むことで炉に風が送り込まれ、火を起こしやすくします。このようにして製鉄が行われた技法を“たたら”といい、日本近代化の前にはその技法が用いられていた伝統的な製鉄方法だったといいます。

萩市内には“大板山たたら製鉄遺跡“がありますが、それは周囲に炭の原料となる豊富な山林に恵まれていたからだといいます。原料の砂鉄は島根県から北前船を利用し奈古港で荷揚げされ、荷駄で運ばれていました。そして、たたら製鉄で造られた鉄は主に『丙辰船』の釘や碇などの部品に使われていたそうです。

 

鎖国時代の日本地図

これは鎖国時代の日本地図です。

当時の幕府は、日本が海に囲まれた『島国』という地形を活かして江戸時代前期には『鎖国』体制が取られていました。ところが、長崎を始め対馬(長崎)、薩摩(鹿児島)、松前(アイヌ)という4つの口で海外と通じていたと言います。つまり、幕府時代当時の日本でも、実際にはそれら4つの口が海外との交流を深めていたことになります。

 

長崎海岸之図

これは幕府時代の長崎の地図です。

当時、鎖国政策が行われていた時代において中国とオランダに限って貿易を認めていたと言います。その際、長崎の出島を通して海外からの貿易が行われていたことから、長崎は外国船の来航地とされ、海外との接点が許された特異な位置を占めていたのです。

ちなみにこの図は長門の萩藩士(?)が所有していたようです。

 

幕長戦争(四境戦争)

江戸幕府が京都で“禁門の変“を起こした長州藩の処分を行うため、周防国や長門国へ向けて征討の兵を駆り出した事件として“幕長戦争ばくちょうせんそう長州征討ちょうしゅうせいとう)”が元治元(1864)年と慶応2(1866)年の2回にわたり勃発しました。

中でも慶応元(1865)年5月の将軍・徳川家茂の出陣にはじまり、慶応3(1867)年1月23日の解兵令にいたる第二次長州征討は“長州再征”とも呼ばれ、幕末史上の一大事件にもなったそうです。そのため、長州側の立場上、当該事件を歴史的に捉えた場合、“四境戦争”とも呼ばれていました。

 

戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)の錦絵

これは、新政府軍が旧幕府軍に攻め込む様子が描かれた戊辰戦争はじめの戦となった鳥羽・伏見の戦いの錦絵です。

明治元(1868)年1月3日に鳥羽・伏見の戦いが勃発し、新政府軍約5千人、旧幕府軍1万5千人と兵力に大差があったものの、新政府軍に持っていた銃や軍装といった武器で戦略を上回り、戦闘意欲も旺盛だったことから旧幕府軍を撃退しました。そこから1年半にわたる戊辰戦争が勃発し、次第に日本へ明治維新が訪れることになります。

 

韮山笠(軍装)

これは新政府軍が軍装に使われていたと思われる『韮山笠』という防具です。

これは明治維新による近代化の影響を受け作られたものとされています。従来の甲冑や具足などの防具、筒袖、袴などの着物類は次第に使われなくなり、戦場において身動きの取れやすいジャケット・ズボン類が導入されました。また、冠り物といわれる笠や頭巾も様々な工夫がなされ、軍装に使用される品々は単純に西洋のものをコピーするだけでなく、在来のものとミックスしたことで、和洋折衷が進んでいったのもまさに明治維新の1つともいえるでしょう。

 

長州鉄砲

これは萩藩が作ったとされる鉄砲です。

これらの鉄砲は慶応2年の幕長戦争で使われていたものとされ、当時の萩(長州)藩の装備はエンフィールド銃が標準であったことから、萩で作られた鉄砲はエンフィールド銃であることが推測されます。エンフィールド銃は弾を銃口から込める前装式のライフル銃のことをいいます。また、明治元年の戊辰戦争では、萩藩はスナイドル銃という、エンフィールド銃をベースに更に改良した銃も使われていたと言います。これは銃身後部から弾を込める後装式に改良したものです。屈んだ状態で弾を装填できるため、戦場においては優位に立つことができたといいます。

 

萩の郷土料理(萩暦ランチセット)

本館にはレストランやお土産屋があり、食事や買い物ができます。

昼食に萩の郷土料理『萩暦ランチセット』をいただきました。さらにふぐ刺しもいただきました。歴史の文化がつまった郷土料理というだけあって見た目もかなり豪華絢爛です。やはり萩ならではの郷土料理はセンスが感じられます。

ビクティニ:いただきます。・・・とってもおいしい!特にふぐの刺身がうまい

ゴンベ:おいしいっぺ!山口といえばふぐだっぺ!

ムーミン:どれも料理がおいしい!容れ物なんかいい感じだし

みきゃん:みんな美味しいけん!

 

萩市のゆるキャラ“はぎにゃん”

萩市のゆるキャラこと“はぎにゃん”もいかつい顔に軍人っぽい服装がかっこいいです。

はぎにゃんは、当時、高杉晋作が結成した『奇兵隊』の隊服を着用し、毛利家紋の肉球バージョンの陣笠を被り、猫鈴の代わりに夏みかんをつけた、まさしく萩を象徴するようなキャラだといいます。

 

明倫学舎で行われるイベント

日によって明倫学舎では何かしらのイベントが行われていたりしています。

この日は和琴の演奏が行われていました。

 

明倫館 南門

これは藩校明倫館の正門として建てられた『南門』です。門上部には『明倫館』とかかれた扁額が掲げられています。

 

有備館

これは“有備館”という建物で、槍や剣道場として藩士の練武のほか、他国からの修行者との試合場としても使われ、あの坂本龍馬もここで試合をしていたと言います。

 

 世界遺産 萩・城下町
明倫学舎からレンタサイクル借りて城下町を散策してみます。

萩・城下町は、幕末に日本が産業化を目指した当時の地域社会における政治・行政・経済を表す資産で、城跡・旧上級武家地・旧町人地の三地区からなっています。

そのうち、旧町人地が城下町の大部分で、城下町やその周辺で営んでいた商業活動や小規模工業を基盤とした当時の伝統的経済の姿を表しています。当時の城下町に高度な匠の技があったからこそ、日本の産業化が急速に発展したと考えられています。また、産業化を試みた幕末の地域社会が有していた江戸時代の伝統や身分、社会経済構造を非常によく示していることが評価されています。

このような経緯から、萩・城下町も世界遺産の1つになっています。

ビクティニ:3年ぶりに萩の城下町を見た!昔と変わらぬ城下町の雰囲気に風流を感じさせられる・・・

ゴンベ:雰囲気がとてもいいっぺ!

ムーミン:まさに日本の風景だね!静かだし

みきゃん:ところどころに夏みかんがなっとる!

 

夏みかん
萩・城下町で見るのが、塀の上に突き出た夏みかんの木です。

夏みかんは、前年になった実を夏になって収穫しないでも今年の実がなり、前年と今年の両方の実が同じ木についた状態になります。その様子から代々続く意味で『夏代々』と呼ばれ、縁起物として正月の飾りにも使われていたりします。その夏みかんこそ、萩市のシンボル的な果樹でもあります。

ちなみに萩市では、『夏みかん丸漬』という夏みかんに羊羹を入れたようなお菓子もお土産として売られています。

 

松陰神社
続いて、松陰神社へ初詣に行きました。

ここは吉田松陰が祀られている学問の神社です。

松陰先生が殉節されてから31年後の明治23(1890)年8月、松下村塾出身者などの手によって、松下村塾の改修が行われ、そのとき松陰先生の実家こと、杉家の人々の手で松陰先生の御霊を祀る土蔵造りのほこらが建立されました。これが松陰神社の前身でもあるといわれています。また、ここには“学びの道”があり、松陰先生が残した25の珠玉の言葉が碑句を見ることができます。まさしく明治維新の功績を感じさせるもので、それらの碑句こそ、これからの受験生たちには良いヒントが見つかるのかもしれません。

ビクティニ:初詣するために松陰神社へやってきたよ

ゴンベ:お団子も売られてるっぺ

ムーミン:ここがあの有名な松陰先生の神社だね。明治維新ゆかりの神社らしい

みきゃん:山口県でも有名な神社じゃけんね

 

松下村塾
松陰神社の境内に入ると、松下村塾しょうかそんじゅくの塾舎があります。

かつて長州藩の藩校『明倫館』の師範を務めた吉田松陰先生が教えた松下村塾。塾舎は今も松陰神社の境内に現存し、平成27(2015)年には世界遺産になりました。ここは伊藤博文など明治維新を成し遂げた偉人たちが学んだ私塾です。

~松下村塾の歴史~

好学の杉家に生まれる

吉田松陰先生は、天保元年(1830)萩藩士杉百合之助の次男として長門国の萩城東郊に位置する松本村(現山口県萩市椿東の一部)に生誕。名は矩方、幼名は寅之助。杉家は家禄26石の貧しい半農半士の下級武士で、学問に熱心な家風だったという。

兵学修業

6歳の時、百合之助の次弟で、萩藩の山鹿流兵学師範を代々務める吉田家に養子に入っていた叔父吉田大助が亡くなると、その養子として家督を継ぎ、以後吉田大次郎と名乗る。

兵学師範となるために、百合之助の末弟の玉木文之進による苛烈なまでの教育を受け、10歳の時から藩校明倫館に出仕し、11歳の時、藩主毛利敬親の前で「武教全書」の講義を行い、藩主を感動させる程の秀才だったという。19歳で独立の師範となり、引き続いて22歳まで明倫館で山鹿流兵学を教授。

諸国遊学、そして脱藩

松陰先生は萩にとどまらず、日本各地を遊歴し、勉学に励む。20歳の時、萩藩領の日本海沿岸を防備状況視察のため旅したのを初めとして、南は熊本、北は津軽まで歩き、その総距離は1万3000キロに及ぶ。

22歳の時遊学した江戸では、佐久間象山等に師事し、天下の有志と盛んに交流を持つ。その過程で熊本藩の宮部鼎蔵などと東北視察を計画したが、運悪く藩主が江戸不在で、手形を得ることが出来きず。約束の出発日が来ると、約束を違えるのは萩藩全体の恥と考え、松陰先生は手形を持たないままに出発および脱藩。

東北視察から江戸に戻った松陰先生は、萩藩邸に自首、国許に送り返され藩士の身分を剥奪。しかしこの時藩主から10年間の遊学許可が出され、再び江戸に向う。この頃通称を寅次郎と改め、松陰という号を使い始める。再び踏んだ江戸の地で、松陰先生は日本にとって歴史的な瞬間である“ペリー来航”に遭遇。

下田踏海、獄を福堂となす

嘉永6年(1853)6月3日、浦賀に来航したペリーの艦隊を目の当たりにした松陰先生は大きな衝撃を受け、外国への密航を図る。翌年3月27日夜、伊豆下田沖に停泊していたペリーの艦隊に乗船した松陰先生と弟子の金子重輔は、アメリカ渡航を求めるものの、拒否される。その後、二人は江戸に連行され国許幽閉が申し渡される。 萩に帰った松陰先生は、野山獄に入れられ、金子重輔は病死。先生は『孟子』の講義をするなど、乱れていた野山獄の風紀改善に取り組んだことで獄内の空気は一変し、囚人達は互いに教え、学び合う、まさに福堂の場となった。

松下村塾で志士を育てる

安政2年(1855)12月、獄を出て杉家宅で幽閉された先生は、家族などを相手に、獄内に引き続いて『孟子』の講義をはじめる。これに近隣の子弟が大勢参加するようになると、杉家の庭先の小屋を改装し、塾舎とした。これがいわゆる現在も松陰神社境内に保存される松下村塾である。塾を主宰した松陰先生は数多くの人材を育て、その塾生達は明治維新を成し遂げる原動力となった。

東送、不朽の留魂

安政5年(1858)、時の大老井伊直弼は幕府に反対する者達を大弾圧する暴挙に出た、“安政の大獄”が起きる。松陰先生も安政6年(1859)5月25日、再びつながれていた野山獄から江戸に護送され、死罪を言い渡される。同年10月27日、江戸伝馬町の獄内にて、30歳で殉節された。

松下村塾の変遷

開塾~玉木文之進・久保五郎左衛門の時代

この時期の主催者/玉木文之進 久保五郎左衛門

松下村塾は、先生の叔父こと玉木文之進が天保13年(1842)、現在も遺る史跡『玉木文之進旧宅』で開いた私塾に“松下村塾”と名付けたのが始まりとされる。幼い時期の松陰先生もこの塾に通っていたという。玉木文之進が官職に就き、多忙になるとこの塾は閉鎖。 その後、松陰先生の外叔である久保五郎左衛門が開いた塾にこの”松下村塾”の名称が引き継がれ、この塾では吉田稔麿や伊藤博文などが学んでいった。

松陰先生、松下村塾を主宰

この時期の主宰者/吉田松陰先生

安政2年(1855)12月、野山獄を出て、自宅に幽囚の身となった松陰先生は、家族や親族に対して自室にて講義をされるようになる。

さらに近隣の子弟が数多く参加するようになり、安政4年(1857)11月、杉家隣の小屋を改装して8畳1間の塾が開かれる。この時より松下村塾は事実上、松陰先生が主宰する塾となり、それまでの玉木塾・久保塾とは性格を大きく変貌。尊皇攘夷を旨とし、儒学・兵学・史学などを始めとした広範な学問が教授され、ただ講義を聴くだけでなく、活発な議論もくり広げられていたという。

この塾より多くの優れた人材が巣立ち、明治日本の礎となる。

松陰先生の志を継ぐ

この時期の主宰者/馬島甫仙

松陰先生が安政5年(1858)厳囚の身となり、翌年東送、刑死されると、久坂玄瑞を中心として塾生達が勉強会を開くなどのかy移動を始める。しかし塾生達は多くが江戸や京都に出て尊皇攘夷運動に挺身して行き、文久元年(1861)には塾は閉鎖状態となる。 慶応元年(1865)、塾生の1人、馬島甫仙が帰郷、塾を再開。近隣の子弟を集め、松陰先生の思想を受け継いで教育を行った。馬島は明治3年(1870)、山田顕義の求めに応じて大阪に行き、塾は閉鎖。

萩の変、玉木文之進自刃

この時期の主宰者/玉木文之進

明治5年(1872)、玉木文之進が退官し、松下村塾を再開。しかし明治9年(1876)、元参議で松下村塾出身の前原一誠が起こした萩の変に、文之進の養子、玉木正誼を始め、塾生の一部が参加しはじめる。変は政府軍に制圧され、玉木文之進は先祖の墓前で自刃したことで、塾はまたしても閉鎖。

松下村塾、永遠の名を遺す

この時期の主宰者/杉民治

これを引き継いだのが、松陰先生の実兄、杉民治。明治13年(1880)、官職を退き、塾を再開させる。漢学を中心とした教育を行ったものの、明治25年(1892)、民治が萩の私立学校の校長に就任したため塾は閉鎖。ここに“松下村塾“は、50年の歴史に幕を閉じた。

 

境内の池に描かれた『迎春辰』の文字

池には、小石で『迎春辰』の文字が描かれていました。今年は辰年なので、『辰』の文字が入っていますね。

 

松陰神社の鳥居

松陰神社本宮前の鳥居です。

木造の鳥居としめ縄に荘厳さを感じさせます。

ビクティニ:ということで、ここで初詣です。・・・今年は奄美大島へいけますように・・・

ゴンベ:今年も美味しいものが食べられますように・・・

 

松門神社

松陰神社の隣にある小さな社は松門神社です。

昭和30(1955)年10月に松陰神社の新社殿が竣工され、退座祭も滞りなく斎行されたことから旧社殿を北側の現在地に移すとともに、塾生および門下生を祀るため、“松門神社”として改修され、翌年の昭和31(1956)年10月、松陰先生門人42柱を合祀して鎮座祭が斎行されました。平成22(2010)年10月、松陰先生御生誕180周年を記念し10柱を追加し、今ではあわせて52柱が祀られているそうです。

ムーミン:世界が平和になりますように・・・

 

津和野駅行きのバス
自転車を返却し、路線バスで津和野へ移動します。

ちなみに東萩駅や萩バスセンターから津和野までの運賃は2,200円です。

“萩津和野”と言われているように、一見すると萩と津和野は同じような場所に感じますが、実際には50kmほど離れている上に県が違います。萩市は山口県、津和野町は島根県にあります。

 

津和野駅のD51

津和野駅前には19時ごろに到着しました。

駅前に鎮座しているD51が現役時代の姿で煙を吐き出している演出が行われていました。

『さよならデゴイチ号』という表札と国旗を前面に掲げ、当時山口線を走っていた末期の姿で再現しています。

これは“D51型194号機”という、かつて山口線を走っていた蒸気機関車です。

 

津和野の旅館

今宵は津和野駅から歩いて3分ほどの所にある旅館に宿泊します。

“のれん宿明月”さんという旅館でお世話になりました。去年もお世話になったのですが、いかにも山陰の小京都に溶け込んだ和風の旅館で、旅館の方も大変親切だったので、あたかも田舎の家に帰ってきたかのようです。創業から1世紀以上たち、創業当時から変わらぬ雰囲気が漂う昔ながらの旅館なので、落ち着きがあります。

ビクティニ:また津和野にやってきたけど、何度来ても帰省してきたかのようでほっとする

みきゃん:ええ旅館じゃけん。素朴で趣があるけん

ムーミン:いい雰囲気の旅館だね。とても落ち着く・・・

 

のれん宿明月 館内

館内には貴重な江戸時代の骨董品や工芸品などが飾られていて、とても落ち着きます。

いかにも昔ながらの旅館で、中に入ると心が和みます。

 

のれん宿明月 夕食

夕食は、歴史的・地理的・社会的な要素が組み合わさった格の高い郷土料理が提供されています。

献立は去年に泊まった時とほぼ同じで素朴な感じで美味しかったです。山陰の小京都らしく格の高い料理に舌鼓です。しかも大浴場もあるので、かなりゆっくりできました。

ビクティニ:いただきます。・・・美味しい!

ゴンベ:おいしいっぺ!

ムーミン:心があたたまる・・・

みきゃん:おいしいけん!

 

津和野の旅館 部屋

お部屋もまさしく田舎の家に帰ってきたかのようで安堵できました。

まるで、昔におばあちゃんの家によく遊びに行っていたのを思い出します・・・。

ビクティニ:おやすみムーミン

ムーミン:おやすみなさい

 

『明倫学舎・萩城下町を見物&松陰神社で初詣』をお伝えしました。