ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

2023年 正月旅行 山陰・長崎方面 山陰の小京都“津和野”で初詣・観光&DLやまぐち号に乗車

皆さん、こんにちは。

今回は、山陰の小京都こと津和野で初詣ならびに“DLやまぐち号”の乗車しました。

 

山陰本線の車窓(日本海の夕焼け)
松江駅からJR山陰本線・山口線の列車で津和野駅まで進みます。

途中で車窓から見る景色が宍道湖や日本海の車窓が楽しめます。そして西へ進んでいくにつれ日本海の景色が変わっていくのが楽しいものです。

ビクティニ:やはり夕焼けの日本海はいいよね・・・

ビクティニポンチョのピカチュウ:夕焼け空に浮かぶ雲もいい感じ

13:20に松江駅を出発した普通列車は益田方面へ進んでいきます。今回のダイヤによれば途中の江津駅では特急おき5号に連絡することになっているそうですが、後続の特急は人身事故(?)によって大いに遅れているようです。そして、江津駅では特急の通過を待たずに出発しましたが、その分18切符での移動距離が進んでいるので、ある意味乗り得になったのかもしれませんw

 

益田駅

17:17 益田駅に到着。

ここで山口線の列車に乗り換えになりますが、とりあえず次の列車が特急おき5号新山口行きを待ちます。ちなみに益田駅から出る山口線の列車は特急も含めて1日9本しかありません。

これから泊まる津和野の旅館での夕食の時間ということもあり、なるべく早い時間で津和野に到着したいのですが、特急はかなり遅れているがために、まさにいつ到着するのか分かりません。そんな中、宿の方と連絡しつつ、駅員さんに聞いてみると、特急は概ね18:20ごろに到着するそうです。中には、新山口駅で新幹線に乗り換えるため、新幹線の切符を購入手続きをする乗客も多くいたようです。

ビクティニ:とにかく18切符で益田まで来れたけど、特急はめちゃくちゃ遅れてるみたいだ・・・

ビクティニポンチョのピカチュウ:なるべく早い時間で宿に行きたいけど事故があったんだから仕方ないよね・・・

 

津和野駅に到着

大いに遅れてやってきた特急おき5号に乗車し、夜19時ちょうど、津和野駅に到着しました。

予定では17:26に津和野駅へ到着する予定でしたが、この日は特急が大幅に遅れていたことから、到着が19時とだいぶ遅い到着です。

最終の普通列車だと到着時間が21時となり、流石に遅くなるのでどうしても特急に乗らざるを得ないのです。そして、今回の遅れで到着が19時で遅めだったので、宿の方から迎えに来てもらう形になりました。

ビクティニ:ようやく津和野駅に到着した。昼過ぎに松江を出発しても、やはりここに到着するのに6時間はかかった・・・。

ビクティニポンチョのピカチュウ:本当なら4時間ほどで到着するのだけど、それでも結構かかるのか・・・。島根県って広いのね。

 

津和野の旅館 のれん宿 明月
今回、津和野に泊まった宿は『のれん宿 明月』さんにお世話になります。

昔ながらののれん宿で、まるで古民家にいるかのような昔ながらの旅籠といった感じです。囲炉裏に最近ではあまり見かけない『帳場』、そして江戸・明治期から使われたであろう骨董品などが展示されています。

なんでも創業から百年以上の老舗旅館であるということもあり、どこか昔懐かしい素朴さが感じられます。

ビクティニ:まるで田舎のおばあちゃんの家に帰ってきたよう。心が安らぐ・・・

ビクティニポンチョのピカチュウ:宿の中はあったかいね。列車の旅は長かったよ・・・

 

津和野の旅館での夕食

夕食も山陰の小京都らしく品があります。

おせち料理にこんにゃく刺し身、鍋物、刺し身などの田舎料理がいい感じです。

ビクティニ:いただきます!・・・うまい!田舎の味はいいね

ビクティニポンチョのピカチュウ:田舎のおばあちゃんが作ったようで素朴・・・おいしい!

くまモン:うまかばい!地酒もうまかばい!!

 

津和野の旅館の部屋

部屋には、生け花が飾られているのがいいですね。

いかにも昔ながらの旅館と言った感じで、大変温かみがあります。小さな田舎町の宿で旅の疲れを癒やすのもまた楽しいひとときです。

ビクティニ:明日は太皷谷稲成神社へ初詣に行こう

ビクティニポンチョのピカチュウ:太皷谷稲成神社といえば、なんかたくさん鳥居が並んでいて、長い階段を登るみたいだね・・・

 

津和野の旅館での朝食

朝食も品があります。

湯豆腐にだし巻き卵、焼き魚、茶碗蒸しなど、日本の朝食そのものです。

ビクティニ:湯豆腐は大好き。いただきます!・・・うまい!

ビクティニポンチョのピカチュウ:豪華な朝食だね。おいしい!

くまモン:美味しいモン!

 

津和野の城下町
津和野の城下町を散策します。

津和野町は、島根県の西南部に位置し、『山陰の小京都』といわれているほど静かで落ち着きのある街並みです。

古くから残る城下町をはじめ、『源氏巻』という和菓子も名物で、太皷谷稲成神社やカトリック教会、森鴎外のふるさととしても有名です。

清々しい朝の城下町を散策するのは楽しいもので、この日は雪1つ積もっておらず晴れ渡った大空がまさに初詣にはうってつけです。

ビクティニ:やっぱり朝の津和野は清々しいね。

ビクティニポンチョのピカチュウ:まるで江戸時代から残る宿場町みたい。

 

津和野の水路で泳ぐ鯉
そして津和野の印象は通りの水路にたくさんの鯉が泳いでいます。

金魚のような更紗模様の鯉がいれば白や黒の鯉も泳いでいます。

殿町通り脇の水路を優雅に泳いでいる鯉を見ると心が和みます。菖蒲の花が咲く6月はもっと風流でしょうね。まさしく小京都の雰囲気そのものです。

津和野町は『鯉が泳ぐ町』として知られています。当時の殿町通りは江戸期の面影をよく残し、明治18(1885)年の国道整備とともに、新たに道路の両側に水路が設けられ、現在の姿になっています。そして、津和野のイメージともいうべき鯉は、民俗学者こと宮本常一の提案から、昭和9(1934)年に放流されたのがその始まりとされ、また水路に花菖蒲も植栽され、今や津和野のあるべき名所にもなっています。

 

津和野のカトリック教会
昔ながらの城下町に建つ西洋のゴシック建築物が一際目立ちます。

これが津和野のカトリック教会です。

内部は畳敷きになっており、鮮やかなステンドグラスが印象的です。明治中期、ビリオン神父によって建てられ、外観はいかにもカトリック教会らしい単塔式のゴシック建築です。もともと津和野は長崎のキリシタン教徒の殉教地でもあったため、津和野町はキリシタンに関係深い場所でもあります。また、隣接する『乙女峠展示室』では、殉教資料が展示されています。

 

津和野町役場(津和野庁舎)
城下町の殿町通りに建つ武家屋敷のような建物は津和野町役場(津和野庁舎)です。

かつては大正8(1919)年に鹿足郡役所として建てられたものです。

その後、郡役所の制度が廃止されると、一時期は警察署として使われたものの、昭和30(1955)年の町村合併により津和野町役場になり、今でも現役の町役場庁舎として使われています。歴史的建造物として当時の面影を残す外観は良好な状態で保存され、多くの訪問者や観光客を魅了します。大正期に流行した和風公共建築で、木造瓦葺き平屋建て。両脇の部屋を前面にせり出し、平等院鳳凰堂をイメージしたような外観です。

表門は家老大岡家の正門が明治初期に取り外され、保存されていたものを昭和50年代に今の場所に戻し、併せて周囲の土塀なども復元されています。

ビクティニ:いつ来ても素敵な城下町だね

ビクティニポンチョのピカチュウ:古い建物がいっぱいあるよ

 

鷺舞の像
殿町通りの先にあるスクランブル交差点の広場には『鷺舞の像』のモニュメントが鎮座されています。

津和野川が流れており、殿町通りの藩校養老館のすぐ近くにあります。

まるで神社神楽の踊りのようです。

鷺舞は、400年の歴史を持つ津和野の伝統文化の1つです。いわば津和野町のシンボルでもある『鷺舞』は、もともと中国の七夕伝説のカササギに因むもので、太皷谷稲成神社への参道途中にある弥栄神社に伝わる伝統芸能だそうです。

 

参道から見える山口線の鉄橋と列車
参道からはJR山口線の列車が見えます。

山口線は新山口駅と益田駅を結ぶローカル線ですが、列車本数としては少ないので、参拝道中に見れたらラッキーですね。山口線を走る列車はオレンジ色のキハ40系普通列車と特急おき号、そしてSL(DL)やまぐち号が見れます。

 

太皷谷稲成神社の階段と無数の小鳥居
さて、太皷谷稲成神社へ参拝に行きます。

太皷谷稲成神社へは、何百段もののある長い階段をのぼり、たくさん立ち並ぶ無数の小鳥居をくぐっていくとたどり着きます。

やはり稲荷神社というだけあって伏見稲荷神社を彷彿するような参道です。このように鳥居がたくさん建つ神社は他には無いぐらいです。

 

太皷谷稲成神社から見た津和野の町並み
長い階段を登り切ると、太皷谷稲成神社に到着します。

この神社は高台にあり、津和野町の町並みや津和野川、山々の景色が眺望できます。

津和野の町並みには屋根が赤い民家が目立ちます。島根県や山口県では赤い屋根の民家を見かけることが多いですが、これは『石州瓦』という瓦が使われています。

 

太皷谷稲成神社 本殿

太皷谷稲成神社は、安永2(1773)年に津和野藩主七代亀井矩貞(かめいのりさだ)公が津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するために創建された神社です。

三本松城(津和野城)の鬼門にあたる東北端の太鼓谷の峰に、京都の伏見稲荷神社から斎きまったのがはじまりとされています。明治の版籍奉還まで藩主亀井家の祈願所として維持され、藩主以外の参拝は禁止されていたものの、廃藩後は一般庶民も参拝できるようになり、今や津和野のパワースポットにもなっています。

ビクティニ:今年はSLばんえつ物語号に乗車できますように・・・

ビクティニポンチョのピカチュウ:ウクライナの戦争がなくなり、世界が平和になりますように・・・

作者:今年も仕事が安定しますように・・・

 

津和野のお菓子
初詣後は、津和野名物のお菓子をいただきます。

『源氏巻』という津和野名物のお菓子です。

細長い形で、カステラのような生地にこしあんが包まれた和菓子で、島根県では10軒ほどの和菓子屋さんでしか取り扱っていないのだそうです。

源氏巻が誕生したきっかけも諸説がありますが、当時津和野を治めていた藩主の妻が紫色の餡を生地で包んだ和菓子に感動し、源氏物語に登場する和歌を詠んだのが有力説とされています。または、当時の津和野藩主が公家の接待を仰せ使い、部下に相談したところ、罵倒され部下を殺害しようとしたのを見た家老がカステラ生地に小判を包み、ご機嫌を取ったことがはじまりという説もあるようです。

ビクティニ:津和野に来たら『源氏巻』は食べたい。・・・おいしい!

ビクティニポンチョのピカチュウ:抹茶のお菓子もおいしい!

くまモン:島根のお菓子もいいんだモン!

 

森鴎外旧宅
津和野は森鴎外のふるさとでもあります。

森鴎外の生まれた森家は代々津和野藩の藩医で、50石どりの家柄でもありました。森鴎外(林太郎)は文久2(1862)年1月19日にこの家で生まれ、明治5(1872)年に11歳で上京するまで津和野で過ごしてきました。

鴎外が津和野で過ごしたのはわずか11年で、その後は戻ることすらありません。写真の旧宅が11年間鴎外が過ごした場所なのです。彼の遺書に記された「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という言葉を見ると、彼自身にとってこの家での幼き日々の生活がいかに重要な意味をもっていたことから、かつて津和野で過ごした日々を物語っています。

旧宅は森家が上京した後、人手にわたり一時は他所に移築されたものの、昭和29(1954)年には鴎外33回忌にあたり津和野町がこれを買い戻し現在地に復元しました。

この旧宅も建築130年、老朽化が著しいため、昭和59(1984)年秋に解体し、全面的に修理されました。現在では昭和44(1969)年に国の史跡に指定されています。

なお、その当時の様子は作品『ヰタ・セクスアリス(ウィタ・セクスアリス)』の中にも描かれています。

 

森鴎外記念館から見たDLやまぐち号の通過を見送る

これから森鴎外記念館を見学しようとした時、『DLやまぐち号』が通過していくのが見えます。

本来ならD51やC57といったSLが通過するのが見えるはずなのですが、いずれも修理中であるがため、ディーゼル機関車DD51型が代行しています。しかし、昔の山口線もディーゼル機関車が茶色い旧型客車を牽く旅客列車は見れたはずなので、これでも不自然には見えなくもないです。むしろ、現役時代のディーゼル機関車としての雰囲気が出ていて、当時の津和野らしさが感じられます。

 

森鴎外の遺物
森鴎外記念館にも見学してみましょう。

1862年、津和野で生まれた森鴎外は、その6年後に発足した明治維新を機に、日本の近代国家を目指すべく、先進文明国の文化を輸入し、文明開化ならびに富国強兵の道を歩むことになるのです。

この激動の時代とともに、わずか十歳までの少年期は津和野で過ごし、上京とともに、軍医として国家に忠誠を誓いつつ、父親であり、また作家としての2つの道を苦悩・挫折を乗り越えそれぞれの道を歩み続けてきたのです。

その名残として、展示物には当時の軍の勲章や講章、鉄道切符、その他生活用品などが展示されています。

 

鴎外誕生160年・没後100年 特別展

『鴎外誕生160年・没後100年 特別展』が催されていたので、見学してみましょう。ここでは約60年間、鴎外が過ごしてきた遺品が展示されています。

 

森鴎外が取得した章

森鴎外は、当時の明治維新とともに歩んできた生き証人でもありました。

当時、日本陸軍に貢献してきた名残として様々な章が贈られています。

従軍記章

将卒の別、軍功の有無を問わず戦地に従軍もしくはその戦役に関する軍務に従事した軍人ならびに軍属に贈られた。

①明治27~28年

銅製で、宝珠の形、表には菊花紋章に陸軍連隊旗と海軍軍艦旗が交叉する図があり、裏に「明治二十七八年従軍記章」の文字が刻まれ、これは日清戦争に従事したものに贈られた。鴎外は明治27(1894)年11月13日から翌年10月4日まで出征しており、明治29年11月に授与されている。

②明治37~38年

銅円形で、表には菊・桐の紋章および陸軍連隊旗と海軍軍艦旗が交叉する図があり、裏には月桂樹と戦捷草(棗椰子の葉)が交叉し中央に盾のある図がある。盾には「明治三十七八年戦没」の文字が刻まれ、これは日露戦争に従事したものに贈られた。鴎外は明治37(1904)年3月7日から明治39月1日12日まで出征している。

③同じく銅円形。表の上部に菊花紋章に陸軍連隊旗と海軍軍艦旗が交叉し、下方に桐の花枝の図。裏には「大正三年乃至九年戦没」の文字が刻まれている。第一次世界大戦(1914~1918)に従事したものに贈られた。大正三年乃至九年戦没従軍記章令(大正4年11月6日)には「大正九年二月以後ニ於テ授与スル従軍記章ノ裏面ノ文字ハ大正三年乃至九年戦没ノ文字トス」とあり、鴎外は大正9年2月以降に贈られたものと思われる。

帝国憲法発布記念章

円型で、表には菊花紋と高御座ならびに大勲位菊花章頸飾章の図、裏に「明治二十二年二月十一日大日本帝国憲法発布記念章」の文字が刻まれ、金銀の2種類が製作され、その内が銀。憲法発布式に関わった親王以下の者に贈られた。

韓国合併記念章

銅円型で表の上部には菊花紋章、両側には桐樹と李樹の花枝の図、裏には「明治四十三年八月二十九日韓国合併記念章」の文字が刻まれている。韓国合併に直接関与ならびにそれに伴う要務に関与した者や、合併の際朝鮮に在勤していた官史などに授与された。『鴎外日記』には明治43(1910)年8月30日の条に「官報朝鮮合併を発表す」とあるように、鴎外は大正元(1912)年8月1日に授与。

日本赤十字社記念章

明治21(1888)年6月21日、日本赤十字社は有功章社員章条例を定め、二種類の表章を製作し特別な有功者および社員に授け、表彰することとした。同年10月26日、日本赤十字社は、万国赤十字社創立25年記念式典を挙行、特別功労者に有功章を授与。

鴎外は、ドイツ留学中の明治20年9月22日、万国赤十字総会に出席、上司石黒忠悳(ただとく)に代わり、日本代表としてドイツ語で演説している。なお、『自紀材料』の明治21年12月25日の項に「赤十字社特別社員に列せらる」とある。

変形十字形の七宝焼で表中心部の上部に鳳凰、左右に桐、下部に赤十字の印。

もう一つは、円形で表中心部の上部に鳳凰、左右に桐、下部に赤十字の印。

いずれも「明治二十一年日本赤十字社」の文字が刻まれている。

大婚二十五年祝典之章

円形。表には菊花紋章と双鶴。その左右に藤花の図、裏に「大婚二十五年祝典之章大日本帝国二十七年三月」の文字。明治天皇皇垢の成婚25周年記念章。金銀の2種類製作され、そのうちの銀。明治27(1874)年3月9日の大婚25年祝典に招待された者に授与。

大礼記念章

銀円形。表は上部菊花紋、両側には桜橘枝と万歳旗の図柄。裏には「大札記念章大正四年十一月」の文字。大正天皇の即位・大嘗祭の式典に招待された者に贈られた。『鴎外日記』大正4(1915)年11月10日の条に「即位式に列す」、同年同月の14日には「大嘗祭に列す」と記されている。また、『盛儀私記』に式典の様子が記された。

 

森鴎外が愛用した角帯と九谷焼の湯呑

これは、森鴎外が愛用した角帯と九谷焼の湯呑です。

おそらく作家時代に愛用したものと思われます。

 

『恭檢持己』の扁額

森鴎外が描いたと思わしき扁額も展示されています。

これは大正3年に行われた東北・北海道巡察の際に書かれたものと推測されます。

①書き下し 恭檢(きょうけん)己(おのれ)を持(じ)す

②口語訳  人に対してはうやうやしく、自分自身は慎み深く振る舞うこと

③出典   『論語』額尚第一

 

『気逸骨勁』の扁額

これも森鴎外が描いたと思わしき扁額です。

これは鴎外の日記や母・峰子宛書簡から小倉赴任時に作られたものと推測されます。

①書き下し 気逸(きひつ)にして、骨(ほね)勁(つよ)し

②口語訳  精神は気力が十分に満ちており、肉体は壮健である

③出典   『文心雕龍』中国最初の総合的・体系的な文学理論書

 

『齠齔』の扁額

『齠齔(ちょうしん)』の扁額も展示されています。

これは『七言律詩』というもので、大正4年7月18日の鴎外日記と、同年7月23日付けの賀古鶴所宛書簡に記されており、内容は鴎外が自らの人生を振り切り返るものとなっています。同年12月8日の鴎外日記に、この扁額を島根県出身の軍医中嶋範造に送ったことが記されています。鴎外はこの翌年4月13日に陸軍を退官しています。

①書き下し 

齠齔(ちょうしん)より天下に奇為(きた)らむと期するも

其れ如ん路遠くして半途に疲れたるは

三年海外に程雪を経て

両度軍中に革死を免(まぬか)る

酔裏の放言客の怒りに逢ひ

緒余の小技人に嗤(わら)はる

老来殊(ろうらいこと)に覚ゆ官情の薄きを

柱(ちゅう)に題せしは頭(こうべ)を回らせば彼も一時

乙卯冬日 源高湛

②口語訳

幼少の頃から将来天下の優れた人物になることを期したが、その道は遠く、中途にして疲れいかんともしがたい。

海外に留学し、修学すること三年、

二度に渡る従軍は、幸いにして戦死を免れた。

酒に酔っての不用意な発言が、人の怒りを買い、

余技たる詩文を書いて人に冷笑された。

年をとってこのかた、殊に宮仕えの意欲(出世への意欲)も薄らいだ。

一生を振り返って見ると、若い頃天下の奇才たらんとしたことは一時の夢にすぎない。

 

『童蒙入学門』鴎外筆者本

これは、鴎外が7歳の時に反抗養老館に入学した時に筆写したものです。

これらは鴎外自筆のもので現存する最古のものと思われます。

出来栄えの良さに感激した養老館教師の今井正臣(大岡盤谷)が巻尾に『八歳 森五木童記』と墨書きし、鴎外が綴じて保管していたもので、明治10年に巻末に識語(筆者本の由来を書き加えたもの)、見返しに全7巻の題名を書き加えた。

幼いながらも書き方はしっかりしており、最後まで字が乱れることのない丁寧な字であることから、鴎外の几帳面さや粘り強さを物語っています。

 

『ハウブトマンが最近の二作』原稿

これは、明治41年5月1日発行の『歌舞伎』第94号にて発表したものです。

その後、『ハウブトマンが最近の二作』と改題し、大正15年2月22日発行の『妄人妄語』に収録されました。

 

『衛生遇記二則』原稿

明治23年6月16日発行の『衛生新誌』第23号の『言葉』欄に『紺珠居士』の署名で掲載されたものです。

 

鴎外が子どもたちに送った手紙

鴎外が子どもたちに送った手紙も展示されています。

送った時期が大正であることから、東京にいるとき、出張している時の状況を鴎外が手紙で伝えたりしていたのでしょう・・・。仕事中、子どもたちが恋しい気持ちがあらわれています。

 

昔の山口線の写真

昔の山口線の写真も展示されています。

いずれも大正末期に撮影されたもので、当時は蒸気機関車が主力だったんですね。

機関車は外国から輸入されたものがほとんどのようです。

山口線が津和野まで開通したのが大正11(1922)年8月なので、開通したばかりの写真なのでしょう。なお、益田駅まで開通し、山口線が全通したのはその翌年の4月のこと。

 

島崎藤村『山陰土産』

島崎藤村作の『山陰土産』という書籍も展示されています。

この小説の中で、山陰の風景がどんな感じかという内容で書かれています。

 

森鴎外のデスマスク

鴎外没後100年特別展示で『森鴎外のデスマスク』も展示されていました。

これは新海竹太郎氏という彫刻家が作ったものだそうです。

 

西周旧居
森鴎外記念館の対岸へ渡ると西周の旧宅があります。

かつて西周が少年・青年期の4~25歳まで(1833~1853)の間、ここで過ごし、生涯の基礎を築いた屋敷です。西家は外科医として代々津和野藩に仕えていました。屋敷は東西約32メートル、南北約31メートル、面積約1,107平方メートルの屋敷に主屋、土蔵、土塀、庭園が配置されています。主屋は嘉永6(1853)年4月の大火による焼失後の再建ではありますが、土蔵は焼失を免れ、周の勉強部屋と伝えられる1階の3畳間は当時のままになっています。また、全体にこの地方の小規模な武家屋敷の構えをよくとどめており、貴重な遺構となっています。

主屋は、木造平屋建で、桁行11.8メートル、梁間9.7メートル。寄棟造、茅葺き、各面の下屋は杉皮葺きになっています。大火後は、他の建物を移築改造したものと考えられています。

 

津和野駅前に展示されているD51

改築された津和野駅
さて、初詣と観光をしたところで、津和野駅に戻ります。

津和野駅前にはかつて山口線で走っていたであろうD51型蒸気機関車が展示されています。デゴイチは以前より綺麗に整備されています。また、津和野駅の駅舎も工事でさらに綺麗になりました。ただ、津和野駅は無人駅になっているようです。

ビクティニ:昔より綺麗になったね。デゴイチもだいぶ綺麗に整備されている。新しい津和野って感じだね

ビクティニポンチョのピカチュウ:いい雰囲気だよ

 

DLやまぐち号
津和野駅からDLやまぐち号に乗車します。

機関車はDD51型ディーゼル機関車に牽引されますが、客車はSLと同じ35系客車が使用されています。

本来ならば、機関車はD51またはC57が活躍するはずなのですが、残念ながらいずれも修理中なので、代わりにDD51が牽引することになっています。

ビクティニ:今年は『津和野稲成号』ではなく『やまぐち号』なのね。そして、前もディーゼル機関車が牽いていたな。最近はSLの出番がないみたい・・・

ビクティニポンチョのピカチュウ:ディーゼル機関車が牽く茶色い客車列車みたいだね

 

DLやまぐち号の車窓

15:45津和野発 DLやまぐち号新山口行きに乗車。

DLやまぐち号は津和野駅を出発し、新山口駅へ向けて坂道を下っていきます。

停車駅は徳佐駅、鍋倉駅、長門峡駅、篠目駅、山口駅、湯田温泉駅の順番に停車し、17:30に新山口駅へ到着します。

山口線の沿線は、赤い屋根の民家と田園風景が広がるのどかな風景が続きます。この日は雪はなく、晴れ渡った青空が清々しいです。

ビクティニ:山口線の景色はいつ見ても穏やかだね~

ビクティニポンチョのピカチュウ:今日は晴れていて景色はいいね

 

篠目駅

篠目駅までやってくると田園風景の景色は終わり、ここから先は長い下り坂が続きます。

篠目駅は、大正6(1917)年7月に山口線がこの駅まで延伸し、終着駅として開業しました。今では山口線の中間駅で、SLやまぐち号の撮影スポットにもなっています。この駅ではレンガ造りの給水塔があり、開業当初から設置され、当時走っていた蒸気機関車への給水が行われていましたが、今では使われなくなっています。

ビクティニ:昔はこの駅でSLの給水が行われていたんだ。でも、ここの給水塔は今では使われていないみたい

ビクティニポンチョのピカチュウ:ここも昔ながらの田舎駅だね。この先の坂道を下ると山陰地方は終わりかな?

 

新山口駅

17:30新山口駅に到着。

新山口駅に到着した後、すぐに山陽本線のりばへ行きます。

そして、17:33発 普通列車 下関行きに乗り換えて、九州方面へ進んでいきます。

ビクティニ:乗り換え時間は3分しかないから、すぐさま乗り換えだ。DLやまぐち号ありがとう!

ビクティニポンチョのピカチュウ:新幹線は使わず山陽本線で行くのね。どこまで?

作者:今日は下関を通って門司港まで進みます。

 

下関駅に到着

18:42 下関駅に到着。

さて、ここから門司港へ行くために連絡船で行こうと出口へ向かいます・・・。

しかし、突然入線ベルが鳴り出し列車が入ってきたのか、出口に行かず関門トンネルを通る列車に乗り発車を待ちました。

 

ビクティニ:下関に着いたら連絡船で門司港に行って夕食にしようと思ったら関門トンネルを通って門司港についたのが7時半過ぎになった。

ビクティニポンチョのピカチュウ:関門トンネルなんて初めて通ったよ

 

門司港駅

そして、門司港に到着したのは19:34のこと。

夜の門司港駅は、昼間とは違った印象で煌びやかです。

ビクティニ:前に門司港へ来たことがあるんだけど、夜の門司港駅もまた綺麗だ!

ビクティニポンチョのピカチュウ:なんかおしゃれで明るいところだね!だって欧米系の音楽も流れてるもん

 

門司港の夜景
門司港の夜景が美しいです。

イルミネーションもまた冬の門司港の雰囲気を醸し出します。

関門海峡に浮かぶ関門橋の明かりが美しいです。

門司港は日本三大港の1つとして数えられています。かつて、明治から昭和初期にかけ栄華を誇った街として発展し、近代日本を支えた港町として栄えてきました。 明治22年に石炭などを扱う国の特別輸出港にも指定され、貿易港としての地位を確立してきたのです。当時は日清戦争や日露戦争の勃発という時代の激動とともに栄え、中国大陸が近いこともあることから軍需品や兵士たちを送り出す重要な港にもなり、米や兵器、軍服などの品物を扱う商業が目覚ましく発展していったのです。このように様々な歴史を刻んできた門司港は、平成7(1995)年に『門司港レトロ』として生まれ変わり、今では年間200万人以上の人が訪れる観光地になっています。

ビクティニ:やっぱり門司港の夜景はきれいだな。まるで東京のレインボーブリッジみたい!

ビクティニポンチョのピカチュウ:九州のお台場といったところかな?

くまモン:どう?門司港の夜景も最高だモン!

 

門司名物『焼きカレー』
門司港といえば『焼きカレー』が名物になっています。

門司港で焼きカレーが名物になったのは、いろいろ諸説があります。

当時、明治から昭和のはじめにかけて、海外との貿易港として栄えてきた門司港には数多くの洋食店が立ち並んでいたのです。その中で西洋と東洋の良さが混在したハイカラなメニューが生まれます。そして昭和30年代にはとある喫茶店で『焼きカレー』というメニューが登場したとされています。余ったカレーをグラタン風にオーブンで焼いたところ、実に香ばしく、美味しく仕上がったことから、のちにお店のメニューとして出し、お客さんから好評を頂いたという逸話があるそうです。そして、いつしか庶民の味として、地元の人たちの間で浸透していったのです。

ビクティニ:ようやく夕食だ。いただきます!・・・うまい!この前門司港に来た時は焼きカレーが食べられなかったんだ。

ビクティニポンチョのピカチュウ:ドリアみたいで美味しそう!いただきます!・・・おいしい!

くまモン:でしょ?門司港には美味しいものがたくさんあるんだモン!

 

門司港の夜景

この日は門司港のホテルに宿泊しました。

ホテルの部屋からは門司港の夜景が見えます。ショッピングモールやビル群の明かりが煌やかに港の水面を照らしています。

ビクティニ:門司港の夜景は素敵だな・・・。まるで九州のお台場みたい・・・

ビクティニポンチョのピカチュウ:ほんとだね

くまモン:九州の夜景もきれいだモン?

 

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