ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

正月旅行 錦帯橋と岩国城を観てきました

みなさん、こんにちは。

年が明けて2022年になりました。

 

さて、今回は山陰から山陽へ移動し、岩国市にある『錦帯橋』『岩国城』を見物してきました。

 

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岩国駅

錦帯橋へのアクセスは、JR岩国駅から路線バスに乗り換えます。

厳島神社のある宮島からも近いことから、広島市街や宮島からのアクセスが良いです。他にも新幹線の新岩国駅からのアクセスがありますが、本数は少なめなのでJR岩国駅からの訪問がおすすめです。

ビクティニ:あけましておめでとう。今日は錦帯橋を観てきます。

ミュウ:錦帯橋はどんな橋なのか気になるよね~。

 

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錦帯橋

JR岩国駅からバスで約10分ほどで『錦帯橋』に到着します。

錦帯橋は錦川に架かる木造橋で、秋芳洞と並んで山口県を代表する有名観光地の1つであり、岩国のシンボルでもあります。

世界的にも芸術的な景観を放つ錦帯橋は延宝元(1673)年、第三代岩国藩主こと吉川広嘉によって創建されました。これまでここに掛けられた橋は、度重なる錦川の洪水によって流されていきましたが、広嘉の斬新な発想ならびに藩の技術者たちの地道な努力で現在の橋の形として完成します。ところが、昭和25(1950)年のキジア台風によりそれも虚しく流されてしまいましたが、その後の3年後の1月に再建されました。そして、度重なる失敗を活かしつつ、様々な工夫を凝らした錦帯橋は流されること無く、現在の美しい姿を保っています。この橋は平成13~15(2001~2003)年に渡る工事で掛け替えられています。

 

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岩国城が見える錦帯橋

名勝にして日本一の名橋でもある錦帯橋は下から見ると、三つのアーチ形の橋が芸術的です。

橋の向こうに見える岩国城山の背景とはマッチし、周囲の景観とよく調和しています。

錦帯橋の全長は橋面に沿うと210メートル直線で193.3メートル幅5メートル橋脚の高さが6.64メートルになっています。このように優雅なデザインを放つ錦帯橋には木組みのアーチや橋脚、その橋脚を支える敷石などを築き上げた技術が込められているからこそ、現代の土木技術においても通用する技術と称されるほどで、まさに当時の岩国藩の技術の高さを裏付ける匠の技術は、今でも活かされています。

ビクティニ:下から見ると大きな橋だ!碓氷峠のめがね橋ほどじゃないけど、見事なデザインだよ!

ミュウ:この橋の向こうに見えるお城も絵になるね!

シャワさん:この川は『錦川』っていうのか・・・。きれいな川だな~!

ゴンベ:ここにはれんこんコロッケやみかんが売ってるっぺ!

 

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錦帯橋を渡ってみると・・・
錦帯橋を通ってみましょう。

この橋を通る時は、通行料として大人1名310円を受付に払ってから通行券を受け取ります(ただし、夜間は無人だが通行料は料金箱に入れる)。

この橋は五連の構造になっており、そのうち中央の三連の橋はアーチ橋と造り方がまちまちです。これには意味があり、『流されない橋を作りたい』という当時の技術者たちの熱い思いや独自に発展した架橋技術によって生み出された技術の賜物でもあったのです。なお、中央にある三つのアーチ橋は、厳密には『迫持式(せりもちしき)』といわれています。

ビクティニ:橋の一部が階段になっているよ。それにしても、何のためにこんな立派な橋が架けられたのだろうか・・・?

ミュウ:向こうに見えるお城に行けるようにするためじゃない?

 

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錦帯橋のアーチ部が階段になっている

錦帯橋を渡る途中で、三つのアーチに差し掛かる時に階段を上ったり下りたりする箇所があります。

実はその独創的なアーチ橋を模る構造には『ある秘密』が込められているのです。

それは、『桁の迫り出し』というもので、1番桁より4番桁は橋脚に固定されます。その橋脚を固定するには、『沓鉄(くつてつ)』といわれる金具が使われます。さらに2番桁からは『楔(くさび)』を桁の間に入れることで勾配をゆるめ、『巻金(まきがね)』といわれる帯鉄で束ねて、アーチが形成されます。

5番桁からは、桁の全長の3分の1を、下の桁先より迫り出して取り付けます。各々の桁は、先端は『鼻梁(はなばり)』、桁尻は『後梁(あとばり)』に取り付けられて固定されます。このように、11番桁までを順次、『楔』を間に入れ、勾配をゆるめて桁先を迫り出します。

そして、両側の橋脚からのばした桁の間に『棟木(むなぎ)』を入れて結合します。さらに両側の9番桁の間には『大棟木(おおむなぎ)』を、同じく10番桁の間には『小棟木(こむなぎ)』を桁間に挟むように入れます。

こうして、迫り出し工法や棟木を用いることで、初めて美しいアーチが完成するということです。

★詳しい構造はこちら★

【錦帯橋】岩国市公式ホームページ>技術>構造:独創的なアーチ構造

 

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錦帯橋の下を流れる錦川

錦帯橋の真下には『錦川』という川が流れています。

錦川は、山口県北東部にある周南市(旧都農郡鹿野町)を起点とし、南東に流下したのち、北東へ大きく蛇行し、最終的には岩国市を経て瀬戸内海へ注ぎ流れます。この川は文字通り山口県内を流れる二級水系錦川本流の河川です。長さは110kmあり、山口県で一番長い河川です。比較的水質が良く透明度が高いことから、川魚が棲みやすい環境でもあります。

そのため、古くより川魚の漁が盛んであり、特に夏になると『鵜飼い(うかい)』という漁が行われます。

『鵜飼い』は、文字通り『鵜(ウ)』という水鳥を利用して鮎などの川魚を獲る伝統的な漁法の一つです。鮎漁が解禁される初夏になると、夜にはこの橋の下で篝火を焚きながら何艘ものの小舟が浮かび、鮎漁が行われます。それぞれの鵜は鵜匠(うしょう)や船頭さんで操られ、舟の篝火に照らされた川面を泳ぐ鵜が鮎を追う姿が、まさに夏の錦帯橋ならではの風物詩の一つに数えられています。なお、この鵜飼の行事は当時の岩国藩主である吉川公からも愛されていたと言われており、現在でも伝統的な漁法やいでたちを再現したものとして夏季には屋形船から実際に鵜飼をしている様子を間近に観ることもできます。

ビクティニ:きれいな川だね。まるで昔に家族旅行で秩父の長瀞に行ったのを思い出した・・・。

ミュウ:ここは昔から鵜という鳥が魚を捕まえて漁をしているんだって。

 

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錦帯橋の橋脚
江戸時代の錦帯橋の橋脚は、『空石積橋脚(からいしづみきょうきゃく)』といわれる工法が用いられていました。

まず、河床の2~2.7メートル下にマツの杭を打ち込みます。その上にマツの丸太を井桁状に組み、編木基礎とします。その上に石を積み上げることで、橋脚としての基礎ができあがります。河床より『岩国式穴太積み』といわれる工法によって橋脚外部には石を積み上げ、内部には『栗石(ぐりいし/丸みを帯びた川石)』や土などを埋め込みます。橋の桁を受けるところには、『隔て石(へだていし)』を取り付け、桁を受けるようにします。その上部には大石を重りとして載せ、周囲を土で固めます。これには桁尻部分が土に覆われてしまうので、腐りやすいことから、約20年ごとに架け替えが必要と言われています。

 

昭和25(1950)年の錦帯橋の流失後、橋脚の構造は大きく変更されました。

強固な剛性をもつケーソン工法によって深さ10メートルの基礎を土台とし、橋脚にはコンクリートに構築、壁面を石張りに変更。さらに今後の洪水に備えるため、橋脚(中央2基)を約1メートル高くし、桁を受ける部分には鋳鉄の『沓鉄』が設置されることで強固になります。この工事によって桁尻部分が斑竹すること無く、50年ごとの架替えが可能になったのです。

これが『流されない橋を作りたい』という悲願として現在の錦帯橋が実現したのです。橋脚の麓や川床には水勢を弱めるため、石が敷き詰められたり、写真のように川の流れる方向に対して橋脚の先端が尖っているのも、水圧の抵抗から橋の流失を防ぐためだと言われています。

 

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鮎の塩焼き

錦帯橋では、鮎の塩焼きが食べられます。錦川でとれた鮎はあっさりした味わいで、骨まで食べられるくらいです。鮎の塩焼きと一緒にビールを飲むというのが、お決まりです(笑)

ビクティニ:いただきます!・・・クセがなくてうまいこと!

ミュウ:冬なのに鮎が食べられるとは思わなかった。美味しい!

ゴンベ:うまいっぺ!

 

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吉香公園の噴水
錦帯橋を渡った先にある『吉香公園』は、旧山口県立岩国高等学校の跡地に造られた大きな公園で、日本歴史公園百選に選ばれています。

中央にある噴水が放水され、晴れた日にはきれいな虹を見せてくれます。ここは市民の憩いの場になっている他、吉川氏の居館跡(吉香神社境内)も公園化され、岩国市の登録有形文化財の錦雲閣、岩国出身の旧帝國軍音楽隊長であり作曲家の田中穂積像と、作曲した名曲『美しき天然』の歌碑があります。

ビクティニ:七色の虹を久しぶりに見たな・・・

ミュウ:きれいだよね~(^^

 

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ウミウ(海鵜)

文字通り錦帯橋の鵜飼いでは、『ウ(鵜)』という水鳥が活躍しています。

日本に生息しているウは4種類あり、『カワウ』『ウミウ』『ヒメウ』『チシマウガラス』があります。川などで見かけるウはほとんど『カワウ(川鵜)』ではありますが、全国各地で鵜飼いとして活躍するウは、主に『ウミウ(海鵜)』が使用されています。

ここで飼育されているウミウは、茨城県日立市で捕獲されたもので、そこで捕獲したウミウは、全国的に鵜飼い実施地へ供給されます。ここに飼育されているウミウも日立市で捕獲されたもので、夏場には鵜飼いとして活躍します。

実際に鵜飼いを観たいのであれば、夏の時期に錦帯橋へ訪れてみるのがいいでしょう。

 

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岩国城へのロープウェイ
さて、岩国城にも行ってみることにします。

岩国城へは、ロープウェイを利用して行くことができます。吉香公園より城山の尾根山頂まで3分で結び、後方の吉香公園や錦帯橋、さらに瀬戸内海も見渡せます。他にも紅葉谷公園からアプローチする登山道から岩国城へ歩くというルートもありますが、紅葉谷からロープウェイの山頂駅まで1.5kmあり、約20~30分ほどかかります。しかし、新緑や紅葉の時期には、美しい景観をみせてくれます。

なお、ロープウェイは往復で560円(小人260円)、片道で260円(小人150円)です。

 

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岩国城への案内板

ロープウェイのりばより岩国城までは約300メートルあるので、ここからは山道を経て岩国城へ向かいます。観光地とはいえ、山道を歩いているうちにあたかも登山に来ているような感覚を覚えます。

 

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岩国城

山道を歩いていくうちに、もう1つの岩国のシンボル『岩国城』に到達しました。

岩国城は、初代岩国領主こと吉川広家(きっかわひろいえ)によって慶長13(1608)年に造られた山城です。

錦川をを見下ろせる標高約300メートルの横山山頂に築かれた要害堅固な旧横山城(かつての岩国城)、いわば『城山』として建てられました。さらに山麓の城主の居館ならびに藩政を司る役所からなり、山麓部分を『土居』と称し、横山城には本丸を中心に北の丸と二の丸を配し、周囲に5基の櫓を設け、本丸北隅には三層四階の望楼型天守を築きました。これは南蛮風の外観を持つ、いわば『桃山風南蛮造り』という独特の造りでしたが、築城7年にして一国一城令により、惜しくも取り壊されてしまいます。現在の天守は、昭和37(1962)年に再建されたもので、当時の姿と同様、三層四階かつ望楼型の姿で保存されています。

ビクティニ:松江城も美しかったけれど、岩国城もこれまた美しいお城だ!

ミュウ:松江城の周りはお堀に囲まれていたけれど、このお城は山の上にあるお城なんだ。

 

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錦帯橋を世界遺産候補に

資料館の中には、錦帯橋の架替え時の写真や当時の写真などが飾られています。写真を見れば、いかに錦帯橋の架替え作業が大変だったかがよく解ります。それもあり、世界遺産の登録を目指している姿勢にあるようです。

 

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御太刀
天守内に入ってみましょう。

ちなみに入城料は270円(小人200円)です。

城内に入ると様々な名刀が展示されています。

例えば、この刀は江戸中期に造られたもので、陸奥守藤原包保作(むつのかみふじわらかねやすさく)ならびに於好以南蛮鉄鍛之(おいて?いなんばんてつきたえこれ)による銘があります。これは田島忠氏が寄贈したもので、コレクションの1つとして大切に保管されていたそうです。

 

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刀身の名称

刀の各部分にはそれぞれ名称が付けられています。刀の部分に当たる『物打』や『切先』なんかは相手を討つ部分として使われていたでしょう・・・。

 

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名刀 兼房

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宇多國宗

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藤原兼正

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相州住秋廣

長刀から短刀まで様々な名刀が展示されています。当時は戦のために造られていたものとはいえ、博物館や資料館などに展示されているのを見ると、あたかも美術品でさえ感じ取れてしまいます。それぞれの刀に名前が付けられているのもまた奥が深いですな・・・。

 

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鉄扇

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火縄銃

他にも槍や鉄扇、火縄銃など様々な遺品も田島氏によって保管されていたものです。それらの遺品は長州藩が使われていたものと思われます。

 

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刀剣の製造に使われた道具
刀剣を造るにあたる道具も展示されています。

日本刀を造る時、『水減し(みずへし)』『折返し鍛錬』『焼入れ』といった工程を経て初めて完成します。

簡単に言えば、『玉鋼(たまはがね)』を硬さで選別するため『水減し』ならびに『小割(こわり)』、厳選した玉鋼を精錬するため『折返し鍛錬』、さらに刀としての形を造り上げる『素延べ』『火造り』、日本刀の重要なところである刃文や反りを決定づける『焼き入れ』、形を整える『鍛冶押し』、最後に名前を刻む『銘切り』の工程を経て初めて日本刀が出来上がるというわけです。

 

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毛利氏と吉川氏の家系図

吉川氏は吉川経義(きっかわつねよし)を始祖とし、駿河国(静岡県)に定住していたようです。16世紀より、出雲国(島根県)の尼子氏と周防国(山口県)の大内氏が対立する中、12代吉川国経(きっかわくにつね)は妹を尼子経久に、娘を毛利元就(もうりもとなり)に嫁がすなど周囲の有力大名と婚姻関係を結ぶことで、融和政策に乗り出します。これにより、吉川家は毛利家と姻戚関係にあったのです。その後、14代目吉川興経(きっかわおきつね)は尼子氏側に属し、大内氏方の毛利家対立することになるも、この状況に反対する吉川経世(きっかわつねよ)は次期吉川家当主に毛利元就の次男である元春を擁立させることになりました。元春が当主になったのち、弟に当たる小早川隆景(こばやかわたかかけ)とともに毛利家の勢力拡大に貢献していきます。のちに岩国城を構築する吉川広家(きっかわひろいえ)は、元春の三男であり、長男の元長(もとなが)は病死。次男の元氏(もとうじ)が他家に婿養子となったことで、家督を継ぐこととなったのです。

 

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関ヶ原の戦い

江戸中期に差し掛かる慶長5(1600)年には、徳川家康が率いる東軍と石田三成が率いる西軍を中心に対立する『関ヶ原の戦い』が起こります。

当時は豊臣秀吉の下、五大老の一人である中国地方を支配していた毛利輝元(もうりてるもと)は、石田三成の要請によって西軍の総大将となり、まず伏見城を攻略。さらに安濃津城(あのつじょう)攻めを吉川広家などに命じました。その際、広家は時勢や戦況を冷静に判断し、輝元の重臣こと福原広俊(ふくはらひろとし)と今後の動きを相談、のちに戦における毛利軍の中立ならびに毛利氏の領国112万石を保証することについての決戦前夜に東軍の家康側と密約を結びました。ところが同年9月15日、『関ヶ原の戦い』が勃発するも、密約どおりに毛利軍は動けず、さらに西軍の小早川秀秋(こばやかわひであき)などが東軍に寝返ったこともあり、この戦は東軍の勝利に終わりました。

これにより、一歩も動けなかった西軍はあっけなく惨敗。徳川家康は日本の政権ならびに征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)として江戸幕府が開かれることとなります。

なお、西軍が敗れた理由には以下の一説があげられると思われます。

■理由その1:兵力が劣っていた島津軍と宇喜多軍

 西軍に与した諸大名は多数いたが、なかでも島津義弘と宇喜多秀家には大きな期待が寄せられていた。

 

 島津氏は薩摩、大隅などを領した大大名で、宇喜多氏も備前、美作などを支配する大大名だった。しかし、この両者は、ともに共通する難題を抱えていた。それは、家中騒動である。

 

 慶長4年(1599)から翌年にかけて、庄内の乱が勃発した。庄内の乱とは、島津氏とその重臣・伊集院氏との家中騒動である。

 

 乱は容易に鎮まらず、終結には徳川家康の仲介を必要とした。結果、島津家中の弱体化が進み、関ヶ原合戦では軍役に見合った軍勢を送り込むことができなかった。

 

 同じく慶長4年(1599)末から翌年初めにかけて、宇喜多騒動が勃発した。宇喜多騒動も、宇喜多氏と重臣との家中騒動である。

 

 乱はすぐに鎮圧せず、鎮圧に際しては家康が仲裁を行った。結果、宇喜多家中の弱体化が進み、関ヶ原合戦では多くの牢人(浪人)衆で軍事編成を行わなくてはならなくなった。

 

 島津氏も宇喜多氏も西軍の主力と目されていたが、島津氏の軍勢は数があまりに少なく、宇喜多氏の軍勢は牢人(浪人)衆が多くまとまりがなかった。これは三成にとっても大誤算で、西軍が負けた要因となった。 

 

■理由その2:逡巡した挙句、西軍に与した小早川秀秋

 小早川秀秋も西軍の主力と目され、東軍の鳥居元忠が籠る伏見城(京都市伏見区)では、大いに軍功を挙げた。

 

 しかし、諸書が記すように、秀秋の心は東軍にあったといわれている。以後も秀秋は本心を隠すかのごとく、西軍に従って戦った。

 

 黒田長政は秀秋の心中を察してか、何とか東軍に引き入れようとした。その結果、関ヶ原合戦の前日の9月14日、秀秋は家康と起請文を交換し、東軍に味方することになったのだ。

 

 合戦当日の9月15日、松尾山に陣取った秀秋は、早朝にはじまった合戦と同時に西軍の陣営に攻め込んだ。

 

 これにより、西軍は大敗北を喫した。秀秋は家康からの「問鉄砲」に驚き、西軍に攻め込んだというが、それは創作であると指摘されている。

 

■理由その3:前日に寝返った毛利輝元

 毛利輝元は西軍の総大将として、かなり早い段階で大坂城に入城した。一方、輝元を支える家臣の吉川広家は、東軍の黒田長政を通して情報を入手し、最後までいずれに与するか考えていた。

 

 一方の輝元の政僧・安国寺恵瓊は、一貫して西軍派だった。広家と恵瓊は、あまり仲が良くなかったといわれている。

 

 広家は東西両軍の情勢を分析した結果、東軍が有利と判断し、輝元に東軍に寝返るよう説得した。

 

 広家の説得は功を奏し、関ヶ原合戦の前日の9月14日、輝元は家康と起請文を交換し、東軍に味方することになったのだ。

 

 合戦当日の9月15日、南宮山に陣取った毛利氏の軍勢は、少しも動かなかった。事情を知らなかった恵瓊は逃亡し、戦いは東軍の勝利に終わったのである。

 

■まとめ

 三成は「西軍が勝つ!」と信じて行動していたが、老獪かつ調略に長けた家康のほうが一枚上手だった。合戦当日、すでに三成は勝利の目はなく、敗北が確定していたのである。

・・・こういった背景が勝算にあるどころか、三成でさえも予想しなかった出来事が敗北につながったと言われています。

 

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岩国城 平面図

岩国城には、本丸を中心に北東に『北ノ丸』、北西に『水の手』、そして南西には『二ノ丸』で配置されています。南側には『大手門』、東側には『御本門跡』、北西側には『埋門跡』があります。他にも様々な櫓や矢倉跡があり、『虎口(ここう)』といわれる小さな出入り口が何箇所か設けられていたのも山城ならではの特徴でもあったようです。

 

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琵琶

お城の中とはいえ、琵琶も展示されているのは意外ですね・・・。昔は城内で琵琶の演奏をご披露していたのでしょうか。

 

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くさり鎌

忍者が使うようなくさり鎌も展示されていました。大昔は岩国城に忍者とかが侵入したのでしょうか・・・?

 

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八間星兜二枚胴具足
お城ならお馴染みの甲冑も展示されています。

これは戦国時代に造られたと思われる甲冑であることが想像できます。

胴は、二枚の胴板を蝶番(ちょうつがい)で留めた『二枚胴』という形式で、右脇の部分が前後に開閉するものです。また、大腿部を覆う草摺(くさずり)は五間五段であり、その可能性が高い造りになっているのが特徴的です。

兜は『六間筋兜』であり、兜前面にあたる前立(まえたて)には、獅子の顔を模した獅噛(しがみ)に類する意匠が施され、まさに武将としての勇猛さを物語っています。また、兜側面に付された吹返(ふきかえし)には、巴九曜の家紋が描かれています。なお、吉川家家老の香川家も同様の家紋が用いられています。

 

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吉川家略伝

吉川家の略伝も展示されています。

 

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岩国藩 宮庄筆頭家老

当時の岩国藩 宮庄筆頭家老の肖像画も展示されています。

 

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木版

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書状

木版や書状も展示されています。

 

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黒漆地蒔絵角盥

角盥も展示されています。これは、左右に二本腕の棒状のものが突き出ており、かつては貴婦人の部屋であらゆる面で使用されたものです。本器は、黒漆地に蒔絵した室町末期に作られたものと思われます。

 

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錦帯橋の模型

縮尺50分の1サイズの錦帯橋の模型も展示されています。この模型は、地元の横山佳人氏によって制作されたもののようです。これを一人で細かいところまで作ったのは大したものだと思います。

 

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錦帯橋 版画

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錦帯橋 石版画

錦帯橋の版画や石版画も展示されています。カラフルな版画には、錦帯橋を渡っていく通行人や川で鵜飼いをしている姿はもちろん、お祭りをしている様子など、当時の賑やかさを物語る作品が展示されています。

 

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岩国城に関する新聞記事

日本の名城百選に誘致しようとアピールする新聞記事の切り抜きも飾られています。これは、麓にある錦帯橋とのコントラストが見事にマッチしていて、美しい景観を魅力に岩国の観光としてアピールしていたのですね。もっとも最近は例の病気の影響で観光客は以前より減っているかと思いますが・・・。

 

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岩国城天守 最上階

さて、最上階に到着です。

ここからは、眼下に城下町や錦帯橋、錦川。さらに瀬戸内海も見えます。

しかし、ここはかつて徳川率いる東軍に備えるための『見張り台』として建造したものだといわれています。もっとも、昭和30年代に再建されたものなので、一部がコンクリートで出来ていますが。

ビクティニ:おお、ここが最上階か!

ミュウ:結構高いところまできたね。

 

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岩国城から見る錦川と瀬戸内海

岩国城の最上階からは真下に吉香公園をはじめ、錦帯橋錦川、さらに向こうを見渡すと瀬戸内海と島々が見えます。

ビクティニ:おお、さっきぼくらが渡ってきた錦帯橋だ!

ミュウ:向こうは海が見えるよ!

 

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岩国城から見た錦帯橋

先ほど渡ってきた錦帯橋も見下ろしてみるとこんなに小さく見えます。何人か渡っている人たちの姿も見えます。

 

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天守の床に描かれた地図
天守最上階の床には当時の城下町の地図が描かれています。

岩国城はもちろん、城下町や錦川までも描かれています。しかし、肝心の錦帯橋が載っていません。ということは、この地図は橋が完成する前の寛文10(1670)年頃のものと思われます。

 

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岩国城 石垣

岩国城の石垣にはかなり年季が入っています。

それもそのはずそれらの石垣は約400年前のものだからです。

かつて旧横山城があった天守台跡をはじめ、北ノ丸や二ノ丸、水の手にもこのような石垣が観られます。特に北ノ丸の方は、かつて天守台に使われた石垣と思わしき石が残骸として転がっているのではないかという説があるようです。築城から7年しか経っていなかったとはいえ、取り壊されるに早かったという無念さが残る一方で、あちらこちらに当時の石垣が今でも残っているだけでも、貴重なものかと思います。他にも『大釣井』という井戸があるのですが、それは築城時に作られ、非常時の武器弾薬の格納庫ならびに落城時の脱出口を兼ね備えたものであるといわれています。

 

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ロープウェイ乗り場にある時計塔
さて、見学が終わったところで下へ降ります。

ロープウェイが来るのを待つ間、よく見てみると時計塔が広場に建っています。その時計塔の内部には鵜飼いのからくり人形が入っていて、一定の時間になると周期的に音楽が流れるようになっています。しかも『鵜飼い音頭』になると中のからくりが動き出すようです。

 

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ロープウェイから見る城下町

ロープウェイからは錦帯橋や錦川、城下町、瀬戸内海の景色が楽しめます。

 

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吉香公園 石碑

吉香公園にある石碑には『岩国中学校跡地』『岩国高等学校跡地』の文字が刻まれています。ここが昔は学校の敷地内だったというのを考えれば、時代の流れとともに観光地として公園になったということが感じられますね。さらにもう1つの石碑には『岩国市民憲章』が刻まれています。

 

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西日を浴びる錦帯橋

午後になると太陽が西の方へ行くので、錦川が輝しく見えます。昼過ぎには人がまばらになるので錦帯橋と錦川の写真はきれいに撮れました。西日を浴びた錦川はこれまた美しいです。

 

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名物 岩国寿司
遅めの昼食になりましたが、錦帯橋の入り口にあるレストランで名物の『岩国寿司』をいただきます。

岩国寿司は別名『殿様寿司』ともいわれ、城下町らしい豪華な具がのった四角いちらし寿司のような形が特徴的です。もともとは祝い事や献上品として作られ、一度に10升もの酢飯や鮮やかな具材を交互に、何層も重ねて職人たちが押し蓋の上に乗って押し固めていたそうです。そして、出来上がった寿司を1人前ずつに切り分け、大勢で分け合っていただきます。具材には椎茸や錦糸卵、レンコン、春菊、穴子などが使われています。

ビクティニ:これが名物の岩国寿司か!いただきます!・・・うまい!

ミュウ:美味しい!

シャワさん:上品な味だな。うまい!

ゴンベ:うまいっぺ~!

 

『錦帯橋と岩国城を観てきました』をお伝えしました。