ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

2023年 正月旅行 山陰・長崎方面 オランダ文化が息吹く長崎市内を観光

皆さん、こんにちは。

今回は、オランダ文化が今でも息吹く長崎市内を観光します。

 

眼鏡橋(長崎)
長崎市内に架けられた2連アーチがいかにもメガネのような橋です。

そう、これが“長崎の眼鏡橋”です!

群馬県の眼鏡橋よりだいぶ小さいですが、高さはそこそこあります。

こちらの眼鏡橋は寛永11(1634)年、興福寺の黙子如定(もくすにょじょう)によって架設されたものです。

川面に映った影が双円を描くような姿が『メガネ』に似ていることから、長崎の人々からは『めがね橋』と親しまれましたが、明治15(1882)年には、その名前は正式に『眼鏡橋』へ命名されています。この眼鏡橋は東京の『日本橋』、山口県の『錦帯橋』とともに日本三名橋に数えられています。

 

長崎の中島川に架かる石橋群
長崎市内を流れる中島川流域には、眼鏡橋をはじめたくさんの石橋が架けられています。

これらの石橋は、風頭山の麓に建てられた寺社への参拝の為、17世紀に架けられたものと言われています。このように石橋と寺社の縁のある中通りは、多くの町人が暮らし、今でもこれらの石橋を通して長崎の人々の生活を支えています。また、このまちには、かつての開港時代によって形成された名残も見られます。

 

川岸から見る眼鏡橋

川の水位が低い時は、川岸に降りることができます。

これは、川岸から写した眼鏡橋です。

正面から見てみると、まるでフクロウの顔ようにも見えます。

ビクティニ:これが長崎の眼鏡橋だね!メガネというよりフクロウの顔に見えるのはぼくだけかな?

ビクティニポンチョのピカチュウ:たしかにフクロウに見えるかも

くまモン:アーチが2つあるから眼鏡橋だモンね

 

中島川で見られる野鳥
市街地を流れる川でありながら、様々な生き物が見られます。

散策していると、川の中で小さな白い鳥を見つけました。

『コサギ』です。他にも『ハクセキレイ』や『カワラバト』、『アオサギ』などの野鳥も見られます。市街地の中を流れる小さな川でのバードウォッチングもまた楽しいものです。

中島川に生息する生き物は、野鳥の他にも鯉やスッポンなどが見られます。また、最近では鮎も見られるようになったそうです。

 

長崎の名所『出島』

長崎の名所はいわずもがな『出島』が有名です。

出島は、江戸時代における鎖国政策の一環を目的に造られた人工島として寛永13(1636)年に築かれました。

かつては、ポルトガル人によるキリスト教の布教を禁じるため、徳川幕府は岬の突端に人口の島を築き、そこにポルトガル人を収容する目的で使われていたのです。そのため、ポルトガル人が住んでいたことから『南蛮屋敷』とも言われていたそうです。

ビクティニ:これが『出島』なんだね。かつては鎖国のために築いた『島』だったんだよね・・・

くまモン:出島は昔、徳川幕府によってできた島なんだけど、実際は鎖国のためにあるような島だったんだモン。熊本城みたいなものだモン。

 

出島について

徳川幕府の命によって築造された『出島』は寛永13(1636)年に完成し、約200年ものの間、国内で唯一西欧に開かれた窓として日本の近代化に大いに貢献してきたのです。

『出島』は、扇子のように『扇形』をしているのが特徴です。

もっとも、明治維新とともに役割を終えた『出島』の周りは埋め立てられており、扇形の原型は薄れています。それでも長崎市は出島の復元整備を行い、建物や景観は徐々に当時の姿に戻りつつあります。現在では16棟の建造物が復元されています。

 

乙名詰所 ふすま復元
正面から入ると、『乙名詰所』という建物が目に飛び込みます。

ここは出島の関係者が出入りする表門の正面にあたる場所で、乙名と呼ばれる長崎の町役人の詰所です。

復元の際、当時オランダ人が長崎で作らせた出島の模型を参考にしています。乙名詰所の模型には華やかな柄のふすまが張られていたのです。柄にはインド更紗に似た文様のほか、伝統的な花菱の文様などがありました。出島で使われている壁紙やふすま紙には木版摺りの『からかみ』と渋紙摺りの『更紗』という2種類の手法で作られています。

 

日本に輸入された物(皿・織物など)
出島は、かつて鎖国時代だった日本にとって世界に開かれた一番重要な窓口でもある築島だったのです。

この島でオランダ人らが常駐ならびに暮らしていた出島こそ、『日本にあったヨーロッパ』または『ヨーロッパに一番近かった日本』として親しまれ、ヨーロッパ人や日本人にとても特別な場所だったといいます。出島を拠点に行き交うヒト(商館員と交流があった人や長崎を訪れた人)・モノ(貿易品など)・コト(社会的な出来事)は、ただ単に物流を行うだけでは片付けられない、江戸時代の文明や文化において重要な役割を持っていました。いわば、ここ出島は日本と世界との交流を深める『つながり』を示す場でもあったのです。

上の写真は、海外から日本に輸入された主な貿易品の例です。主に磁器や毛織物など、普段の生活に欠かせないものを中心に日本と海外の間で、趣向を凝らしつつ貿易が行われてきたのです。

 

日本に輸入された鉱物や染料・薬剤など
日本では生産できないものも各国から輸入されます。

鉱物や染料・薬品など、日本ではできない原料は外国で生産し、それらを日本へ送られます。そして、鉱物は銭や金物などの加工に、木のチップは着物などの染料に、種子からは薬剤などに使われたりなど、様々な用途で使われました。

 

縞織物『唐桟』
江戸時代において人気を博していた『縞織物』はインドから伝わったといいます。

この木綿縞織物は、インドのコロマンデル産で、セント・トーマス港から運ばれたことから、『桟留(さんとめ)』『唐桟留(とうさんとめ)』『唐桟(とうざん)』と呼ばれていました。当時、インドから輸入された縞織物は日本では大いに流行し、江戸時代において粋な和装文化を代表する1つとなりました。桟留はその人気から、現在の愛知県の尾州縞、岐阜県の美濃縞、埼玉県の川越唐桟(川唐)など、各地で模倣されていきました。

 

ポルトガル船 カラカ・アトランティカ
日本に初めてポルトガル船がやってきたのが天文19(1550)年、長崎県の平戸に来航したときのことで、これを機に日本との交易が始まったのです。

その後、元亀2(1571)年に長崎港が開港し、さらには長崎県の至る場所に教会が建てられ、長崎は本格的な貿易の拠点として発展していきました。

その開港の背景とともに多くのポルトガル船が長崎に訪れるようになり、長崎と外国の文化を互いに受け入れ合うようになっていったのです。

写真のポルトガル船『カラカ・アトランティカ号』も日本の長崎に来航したポルトガル船の1つで、キャラック船です。全長30~60メートルで丸みを帯び、複層式の船首楼および船尾楼を備えています。

 

オランダ船 フリースランド

関ヶ原の戦いが勃発した頃の慶長5(1600)年のこと、豊後臼杵(大分県)へのオランダ船来着によって始まります。

その時に日本とオランダの交流が初めて実現しました。

長崎にやってきたのが慶長14(1609)年のこと、先程のポルトガル船と同様、平戸に入港したことから始まります。

上の写真は、寛文3(1663)年に建造されたオランダ軍艦『フリースランド号』で、全長58メートルあり、80門ものの大砲を持つのが特徴です。

 

出島から海外へ輸入出した貿易品
長崎の開港によって、出島の貿易文化は次第に浸透していきました。

出島に運ばれた世界各地の貿易品は、長崎での落札を経て大坂などの都市を経由し、日本の各地へ流通してゆきました。また、反対にやはり出島を通じて日本から輸出された産物や美術品などがオランダ船によって海外へ運ばれ、これを受け入れた地域の生活や文化にまで影響を与える現象を生み出して行きました。

当時の江戸時代の知識人たちは、好奇心と向学心に富み、出島に駐在するオランダ商館長や商館医、阿蘭陀通詞(オランダ通訳)と会い、時には交流し、先進的なヨーロッパ学術や文明に触れることで、これまで鎖国体制にあった日本にも新たな風習が浸透していきました。このように歴史の痕跡を残そうとした影響の数々は、多様かつ深い文化をもたらした唯一の舞台となったのが、ここ出島という小さな築島だけだったのです。

上の写真は、出島を通じて行き交った様々な貿易品の数々です。

国内で作られた品物は海外へ輸出したり、あるいは海外で作られた品物は国内へ輸入されたりなど、出島を通じて日本と海外の貿易が盛んになっただけでなく、色んな文化との交換が実現できたということですね。

 

様々な芸術を纏ったケンディ

これは『ケンディ』という仏具の水瓶です。

『軍持(ぐんじ)』ともいわれ、仏教で用いられる水瓶を指すサンスクリット語『クンディカ』に由来するもので、東南アジアから中国、さらに日本へと広がっていきました。独特な形状や模様を施した頸や注ぎ口が芸術的です。

もともと、大航海時代の16世紀に、東洋貿易の覇権を握っていたポルトガルによって、大量の中国磁器が東南アジアやヨーロッパへ運ばれましたが、その中に『ケンディ』もあったのです。熱帯気候の東南アジアでは、ケンディは水を冷たく保つことができ、形態にも便利であることから重宝されていたそうです。

日本の窯で作られたものは、いわゆる『有田焼』というもので、形状的にも趣向がなされ、水瓶本体に豪華な模様や装飾が施されているものもあれば、シンプルでありながら花や鳳凰を纏った日本風の模様が施されるなど、いずれも芸術的なものです。また、金属製の蓋・鎖がついているタイプもあります。

 

駕籠

江戸参府には『駕籠』を用いて江戸へ出向いていました。

参府の際には、商館長のほか商館員と医師の2~3名が随行していました。他にも日本人の検使や江戸番大通詞、日本人の書記や賄方(まかないがた)、日雇頭などが加わり、総勢60名以上になったと言われています。

検使や商館長が乗っていた駕籠は、立派なものに乗っていたそうです。

二人ががりで担ぐものもあれば、馬で運ぶタイプもありました。

 

カピタン部屋
ここはかつてオランダ商館長(カピタン)の事務所および住居として使われた『カピタン部屋』といわれる場所です。

出島で一番大きな建物で、日本の役人や大名などが出島を訪れる際、接待の場所としても使われていたそうです。ここは『客間』といわれる場所で、文政11(1828)年に福岡藩主こと黒田斉清がカピタン部屋に訪れた際の記録によると、奥の涼所を御座所にあて、従者や商館長の席があったといいます。

 

カピタン部屋での宴会の様子

上の写真は、石崎融思(1768~1846年)が描いた『蛮館図』をもとに、カピタン部屋での宴会の様子を再現したものです。

模型の写真の奥にある帽子の人物が商館長で、食事を楽しむ商館員たちや、給仕、演奏をする召使い、さらに遊女たちの姿で賑わっていました。

ビクティニ:当時のごちそうは豪華だったろうね・・・

くまモン:羨ましいモン

 

カピタン部屋2階内部(商館長の部屋)
カピタン部屋の内装は、何もかもが豪華絢爛という印象です。

見れば見るほど洋風建築のセンスの良さが伝わってきます。

これは商館長の部屋で、1809年に完成した際、商館長ことヘンドリック・ドゥーフには遊女との間に生まれたばかりの男子がおり、『道富丈吉』と名付けられ、この部屋で7歳になるまで商館長とともに暮らしていたのです。

なお、天井や壁紙には『唐紙』という和紙が使われているそうです。

 

カピタン部屋に飾られた調度品
カピタン部屋では、至るところにセンスの良い調度品が飾られています。

これらの調度品や道具類は、かつてオランダ商館長や商館員たちが貿易業務やプライベートで使っていたものです。ここでは、ティータイムや貿易の作業を行っていたのでしょう。

 

居間

ここは居間です。

当時はここの窓から海が見えたそうです。ここから見る海を眺めながら酒盃を傾ける商館員や役人たちの姿が想像できます。かつてはサロンとして使われていたのでしょう。

ビクティニ:もし、出島が原型のままだったら海が見れただろう・・・

くまモン:昔はここから海が見れたモンね

 

女中部屋

この部屋は『女中部屋』で、商館長に仕える日本人の女性が使用した部屋と思われます。

当時、出島に着任された商館員は、妻子を同行することが許されなかったのですが、遊女だけは唯一出島に入っていい事になっていたのだそうです。カピタン部屋を描いた絵画にも商館長や商館員とともに遊女の姿が見られます。商館長に仕える日本人の男性使用人の部屋は別にあったものの、遊女に関する部屋は、商館長の生活空間に近いこの部屋が『女中部屋』にあたるそうです。

 

図書館
出島は貿易のみならず、西洋の最新知識を求めるために多くの人々が訪れた交流の場でもありました。

そのための質問や要望に答えるべく、百科事典をはじめ様々な書籍を備えた図書室も欠かせません。天明8(1788)年にカピタン部屋を訪れた司馬江漢の絵には書棚に本が並んでいる様子が描かれ、江漢の『西遊旅譚』の中にも紅い幕が下がった書斎についての記述が見られます。

 

ヘトル部屋
これは『ヘトル』という次席商館長が住んでいた場所です。

この建物の2階がその住まいで、商館長に仕える日本人の使用人も2階の一部か使われていました。1階は東南アジアの人々の使用人が使用していた他、商館用の食糧も保管されていたようです。

 

水門
この門は、出島で取り引きされる貿易品をオランダ船から荷揚げしたり積み込んだりするのに通していた場所です。

ここから見ると、左側の扉が『輸入』、右側の扉が『輸出』の門として使われていました。

 

検使部屋跡
貿易品の輸入出を行う上で、検使が必要でした。

検使は長崎奉行に直属する上級役人で、荷役取引の管理が主な業務だったといいます。水門から運び込まれた輸入品のうち、衣類や食料品などは、すぐに検使の面前で下級役人によって検閲を行っていたのです。

 

天秤量り
これは、オランダ船が運んできた輸入品の砂糖などを計量するためのものです。

秤の一端に、籠や袋につめられた砂糖を置き、さらにもう一端には分銅を置きます。すると、竿が水平になった時の分銅の総重量で砂糖などの重さを測ります。

 

築足し石垣

これは、最初に荷揚場が築かれた17世紀中頃の石垣の一部です。

荷揚場は出島ができた当初にはなかったため、後に3回築足しが行われました。この石垣は、出島築造当初に西側にあたる場所にあります。当初の出島は扇形をしており、西側には築足しがなかったことが平成9(1997)年の調査で判明されたそうです。

 

一番船船頭部屋

この建物は、オランダ船が港に停泊していた際、2階西側に船長が滞在、東側は商館事務員の住居として使われていたものです。

基本的なスタイルとしては、2階は住居、1階は倉庫として使われるのが、当時の出島でのオランダ人用建物の一般的な使われ方をしていたそうです。

 

倉庫
出島は貿易を行うための場所であるため、ほとんどの建物の1階は倉庫として使われていました。

19世紀はじめの当時、この土間には天秤や分銅、木炭、砂糖などの不良品が置かれていたというオランダ商館長の記録に残されています。写真の天秤は、出島において銅や砂糖の計量に使われていたものです。

 

伝えられた出島の景観
長崎に『出島』を築造する計画のために模型を作らせました。

当時のオランダ人たちにとって、日本は憧れの的でもあったのです。さらに、日本の情報を収集を行い、その巨大な模型は製作されました。それがオランダ・ハーグの王立骨董陳列館に展示されると、ますます人気を博していたといいます。

 

描かれた出島
扇形の出島は、まさしく長崎の象徴でもありました。

長崎港全体を見渡す風景をはじめ、出島全体を描いた鳥瞰図、オランダ商館の内部などの様々な絵画は日本やオランダのみならず世界各地からも注目を浴びました。それらの絵画は当時の様子を描いたもので、見る限りではまさしく出島の賑やかさを物語っているのではないでしょうか。

 

記録された出島

当時の出島の様子は、オランダ商館員が著した書物や絵図、さらには外国人居住地時代にかけて撮影された写真などによって世界各地へ発信していきました。

世界において唯一オランダの国旗が掲げられたのは、ここ出島だけです。

その国旗こそ、出島でオランダ人が暮らしてきた名残とも言えるでしょう・・・。

 

一番蔵・二番蔵
出島で貿易を行うために、品物の保管をする『蔵』が用いられました。
水門から近い場所に『一番蔵』という蔵があり、かつては砂糖が保管されていた場所です。

外観は日本式の土蔵そのもので、耐火造りになっています。当時のオランダ人は蔵を花の名前で呼んでいた記録があり、一番蔵のことを『バラ蔵』と呼んでいたそうです。一方、二番蔵は染料に使われる蘇木が保管されていました。絵図によると、当時の出島には、17ものの蔵があったようです。

 

一番蔵の構造
一番蔵および二番蔵の復元にあたっては、伝統的な木造建築の技法によって行われました。

木や竹・土などを使用し、伝統的な大工や左官の技術によって本物の土蔵を復元するのは至難の業ともいえます。この伝統的な工法で、蔵の復元ができたのです。

 

 

ブロムホフの出島模型(一番船船頭部屋)
ブロムホフの出島模型は、当時の建物の外観や仕上げについて貴重な情報が復元の参考になります。

これは実物から30分の1の縮尺で作られています。

平面寸法などは、図面と出土された遺構と照らし合わせています。また、古写真も参考にしながら、当時の様子に近い姿で復元しているのです。

 

出島の輸出品変遷グラフ
オランダ貿易における主な輸出品は、江戸時代では『銀』が中心だったのです。

当時、日本産の銀は良質であったため、オランダも日本との貿易はこの銀を目当てに取引が行われていたといいます。ところが、海外へ大量の銀が流出されたのを問題とした幕府はそれを制限し、一時輸出を禁止にしていた『金』を元禄小判で輸出させたものの、品質が悪くオランダにとっては不人気だったそうです。そこで、17世紀後半より代替品として『銅』の輸出を進めます。これを機に幕末まで銅が輸出品の主力となっていったのです。他にも薬品や陶磁器、漆製品、醤油や味噌などの樽ものも輸出されていました。

 

コンブラ瓶

出島から出土された『コンブラ瓶』は、19世紀後半ごろ、長崎県にある波佐見にて焼かれた醤油や酒の容器で、海外に輸出されたものです。瓶に描かれた『ZAKY』は酒、『SOYA』は醤油を表しています。

 

棹銅入箱

この木箱は、大坂・住友家で鋳造した銅を箱詰めにしたものとして、出島から輸出されたものです。

長さ7~8寸(約23㎝)、重さ半斤(300g)の輸出用棹銅(さおどう)200本(百斤分60kg)が詰められています。

 

VOCマーク銅貨(1790年製)

連合オランダ東インド会社は、オランダ本国より貿易地において貨幣の鋳造を行うことを許可し、日本から輸入された銅を用いて銅貨が鋳造されていました。会社が解散した後、インド政庁にて貨幣が作られ、棹銅を等分に切断しVOCのマークが刻まれたものをコインとして特定地域へ流通していきました。

 

オランダ東インド会社の日本銅の売り先

日本銅の輸出先
日本からの原料として海外へ輸出された銅は、銅貨をはじめ家庭用品や建材など、生活に欠かせないものとなったのです。

日本の銅は『ダンスのパートナー』に例えられるほど連合オランダ東インド会社に大きな収益を与えました。オランダとの貿易で日本から輸出された銅のほとんどがアジア各地へ転売され、主に銅銭の鋳造をはじめ、家庭用品や装飾、屋根材、武器、船底包板などにも使用されました。また、ヨーロッパの市場価格次第でオランダ本国にも送られ、銅相場に影響をもたらしていったのです。

 

輸出磁器梱包

磁器や陶器などの割れ物は、このように藁などで梱包して海外へ輸出していました。

これは荷師といわれる専門職人によって梱包された肥前磁器です。小口切りと言われる周囲のわらを切りそろえて梱包したもので、尺皿が呼びを含めて21枚入っています。沈香壺の場合は蓋を逆さにして梱包し輸出が行われました。

 

沈香壺

輸出向けに作られた肥前磁器の沈香壺。ヨーロッパでは飾り物として使われていたそうです。

 

地球儀

これは、アムステルダムのファルク家で製作された地球儀と天球儀です。

ファルク家は17~18世紀前半に地図を製作、出版していたものの、その工房が『地球儀工房』と言われるほど。箱書きには『天保十五年 辰春』とあり、オランダから輸入された際、一対で入手したものと思われます。

 

反射式覗き眼鏡

オランダで製作された覗き眼鏡です。

眼鏡絵を置き、レンズを覗くと鏡に映った絵が立体的に見える珍しい構造です。これは約300年前に製作されたもので、当時の感動を今に伝えています。

 

カットグラス蓋付き壺

これは、オランダで作られた蜜漬けなどに使われた容器です。

飾り物としても使われ、19世紀中期に製作された品のある品物です。

 

オランダ船が運んだ食材や植物【原産地】
出島は、日本にはない食材や植物の受け入れを担っていたのです。

当時、オランダ船が日本に運ばれた『オランダナ』は今の日本では大変馴染み深い野菜があります。それが今で言う『キャベツ』のことです。

出島には、これまで日本になかった植物がオランダ船によって次第に普及していったのです。ヒマワリやマリーゴールドなどといった観賞用植物、トマトやジャガイモ、パイナップルなどの食材など、我々が普段の食卓に使用している野菜や果実は、出島を通したオランダとの深いつながりがあってこそ成り立っていると言ってもいいでしょう。

 

鑑賞や食材に使用された植物
写真の植物は、かつて日本にはなかった種類が多かったのです。

頭には『オランダ』の名をつけて呼ばれた植物は、いつしか日本でおなじみの食材へと変わっていくことになります。こうして我々の食生活に欠かせない野菜が普及したのは、この出島を通しての文化から成り立っているともいえます。

 

更紗の織物
出島を通じてヨーロッパやアジアから輸入された織物は、日本の文化に異国の彩りを与えていたのです。

江戸時代、出島を通じて世界から様々な織物が我が国においても浸透していきました。ヨーロッパからは毛織物の更紗やビロードなどの繊維製品が輸入されたことで珍重され、さらにインドからも縞物や更紗などの綿織物、海黄などの絹織物も人気が高いことから、17~18世紀にかけて多く輸入されました。ところが、19世紀にはイギリス進出によって東インド情勢の変化および産業革命の影響などから、ヨーロッパ産の縞物や更紗などはそれに置き換わるように変わっていったのです。

写真の織物は『更紗』と言われるもので、平織りの木綿布に手書きや型付技法などによって花柄や幾何学文様などを染め上げたものです。

更紗は、その美しい文様から人気を博し、多く導入されました。敷物や着物などをはじめ、小物では風呂敷や帯、煙草入れ、財布や巾着などの袋物にも重宝されたそうです。

 

その他の輸入品
他にも東南アジアから香辛料や服飾材料、さらにはヨーロッパからの陶器など、江戸時代の日本の生活に普及していったのです。

主に伽羅・沈香などの香料、丁子・桂皮・胡椒などの乾薬、鹿皮や鮫皮などの皮革、服飾品に加工する材料としてべっ甲や象牙、サンゴなど、錫や鉛などの鉱物も輸入されました。さらに19世紀にはオランダやイギリスなどの銅版転写陶器なども多く輸入され、国内に流通していったのです。

 

オランダ船による中継貿易
オランダ船が日本に運んだ商品や文化は、ただ単にオランダから運ばれただけではないのです。

連合オランダ東インド会社は、拠点であるバタヴィアを中心にヨーロッパやインド、ペルシア、東南アジア、中国、そして日本(長崎出島)などを結ぶ中継貿易が行われていたのです。オランダ船はそれらの地域間を往来し取引をしたものの、各々の地域が必要とする商品を運び販売する一方、そこで見返りとなるその地域の産物を商品として仕入れ、今度はそれを求める地域に持ち渡り転売することで大きな利益をもたらしていったのです。

 

長崎港に入港するオランダ船(長崎港俯瞰図より)
出島のオランダ商館を通して行われてきた日蘭貿易も、時代の変化とともに貿易の内容も変わっていったのです。

当初、貿易は国内の商人に任されており、オランダ側も有利な条件で取引が行われてきましたが、幕府の貿易統制の強化によって、貿易額の規制および縮小ならびに見直しがなされます。元禄11(1698)年に長崎会所を設置、さらに本格的な官営事業として幕府による管理とともに、長崎貿易は厳しく規制されたことで次第に縮小化していき、安政6(1859)年の開国を迎えることになります。

 

入港の様子

オランダ船が長崎に入港する時期は季節風の関係上、6~7月(現在で言う7~8月)と決められていました。入港した後、出港地や乗組員数などを調べたり、積荷目録を提出させて積み荷の検査などが行われていました。荷役作業は2~3日ほどかかり、検使役の点検を受け、東インド会社が行う貿易品『本方荷物(コンパニヤ)』と商館員の私的な貿易品『脇荷物(カンパン)』に区別していたようです。

 

出土された文皿と珊瑚
二番蔵で復元のために行われた発掘調査で見つかった珊瑚と文皿の破片です。

遺構の下からは、粉のように細かく砕いた珊瑚の層が発見されています。これは、湿気をきらう輸入品の蘇木などの収納庫であったことから、湿気防止に使われたものと思われます。

左の皿の破片は、二番蔵の北側にあったゴミ穴が検出され、『VOC』の文字が描かれた皿の破片などの陶磁器類が多く出土されたものです。これはオランダ商館員が使用していたもので、使用後に破棄されたものと思われます。

 

砂糖の種類
長崎における砂糖の輸入は、ポルトガル船が入港した元亀2(1571)年から始まります。

江戸時代に入り、幕府の政策からポルトガル人は隔離されていましたが、数年後にはポルトガル船の来航が全面的に禁止されると、寛永18(1641)年、平戸にあったオランダ商館が出島に移転されます。さらに中国貿易も寛永12(1635)年より長崎港に限定され、砂糖は長崎に来航する中国船(唐船)とオランダ船によってもたらされることになります。

 

長崎街道(シュガーロード)
九州の玄関口にあたる小倉と長崎を結ぶ『長崎街道』は、当時の鎖国政策がとられた江戸時代の五街道ならびに脇街道の中で唯一海外へつながる街道だったのです。

16世紀にポルトガル人が来航すると、キリスト教をはじめとする南蛮文化が伝わり、とりわけイスラムの砂糖食文化の影響を受けたポルトガルの食文化は、長崎から九州だけでなく、全国的に広がっていきました。

17世紀に入ると、オランダ船や中国船によって長崎に輸入された砂糖の大半が、大坂に運ばれ全国的に流通しましたが、砂糖の文化や菓子の技術は長崎街道よ行き来する職人や商人、医者といった人々によって、長崎はもとより全国的に普及していったのです。

 

 

砂糖から作られた菓子
ポルトガルとの貿易港として発展してきた長崎に様々な貿易品が送られてきましたが、その1つが『南蛮菓子』も含まれています。

主に、かすていら(カステラ)、ぼうる(ボウロ)、かるめいら(カルメラ)、金平糖、びすこうと(ビスケット)、タルトなどのポルトガルならではの砂糖菓子が作られました。寛永16(1639)年にはポルトガル貿易は禁止されましたが、これらの南蛮菓子は以後も『異国渡りの菓子』として浸透し、今でも普及しています。

オランダ商館と唐船からもたらされた大量の砂糖は、元禄11(1698)年以降、幕府が設立した海外貿易などの事務を行う長崎会所が一括購入し、大坂の問屋を通して販売開始。ところが、販売とは別に『もらい砂糖(商館員や中国人の個人的な取引を認められてもらったもの)』や『こぼれ物砂糖(運搬中に袋が破れてこぼれ、それを日雇いの人が拾ったもの)』、『贈り砂糖(貿易で余ったものを興福寺や福済寺など中国ゆかりある唐寺に寄進し贈ったもの)』といわれるものがあり、それらも会所で入札されましたが、その多くが市内に出回ったことから、長崎の砂糖は他の地域に比べ潤沢なものが多かったのです。

そのため、砂糖は長崎の代名詞にもなっています。

 

長崎を代表する砂糖菓子『カステラ』
長崎の代表的なお菓子として親しまれている『カステラ』。

16世紀に港を開き、ポルトガルとの貿易を始めました。 その頃、ポルトガルから伝来した『カスティーリャ王国(今のスペインにあった当時の王国)のお菓子』が、カステラのルーツと言われており、カステラの語源もこのカスティーリャ王国に由来しているという言い伝えがあります。また、カステラの起源はスペインの焼き菓子『ビスコチョ』やポルトガルの焼き菓子『パン・デ・ロー』だという説もあるそうです。

今では長崎のお土産はもちろん、一般的なお菓子としておやつにも愛用されています。

 

ビリヤード台

ビリヤードは、出島で暮らすオランダ人の間では人気の娯楽の1つでもありました。

当時は、商館員やオランダ人たちでビリヤードを楽しむ姿があったことでしょう・・・。

実は、日本に初めて伝わったのが、当時の鎖国時代にあった出島だったという言い伝えがあるようです。

 

日時計

この日時計は、オランダ商館長ことヘルマン・クリスティアン・カステンス(1766~1767年)が出島の庭園に設置したもので、彼のイニシャル『HCK』が刻まれています。この日時計は午前6時から午後6時まで測ることができます。

 

オランダ船につまれていた大砲

昭和39(1964)年に市内の浦上川河口付近から引き上げられていたものです。

かつてはオランダ船に搭載されていたもので、何かの拍子で海中に落ちたものと思われます。鉄製の砲身上面にアムステルダムをあらわす『A』と連合オランダ東インド会社のロゴマークが刻まれている『VOC』の文字が刻まれています。

 

蘭学をもたらした三学者
出島に在籍していた商館医たちがもたらした蘭学とともに文化の交流は深まっていきました。

西洋の科学や文化の流入にあたり、出島のオランダ商館員が大きな役割を果たしたということです。中でも、商館医は日本と西洋との間の科学・文化的な交流の担い手でもあったのです。西洋医学はもとより科学技術の紹介ならびに指導を行い、蘭学の発展と日本の近代化に大いに貢献してきたのです。

シーボルトは帰国後に大著『日本』などを刊行しましたが、先学のケンペルやツュンベリーの調査方法を大いに参考にし、日本に関する様々な研究を行ってきたのです。そのことから、彼らは『出島の三学者』といわれています。

 

シーボルト著『日本』

これは、出島和蘭商館医ことフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本で収集した資料をもとに出版したものです。

その中には、日本やその周辺地域に関する研究が記録されています。当初は分冊されていましたが、いずれも4冊でまとめられています。

 

蘭学を紹介した人々
阿蘭陀通詞の中には翻訳のみならず研究者として蘭学に貢献した人もいたのです。

鎖国時代にあったヨーロッパの中で通称を許されていたのがオランダのみで、西洋の様々な情報や科学、文化は主にオランダ語で紹介されました。阿蘭陀通詞は、これらを通訳および翻訳することで、広く日本に伝える役割を果たし、さらには辞書の作成をはじめ、医学や科学技術などの知識や技術を自ら研究および習得し、蘭学の発展に大きく貢献したのです。

かつて阿蘭陀通詞をつとめていた志筑忠雄(1760~1806年)は病気から1年でやめたものの、蘭書研究を進め、ニュートンの物理学・天文学を紹介した『暦象新書』などを著しました。ケンペルの『日本誌』の付録を翻訳し『鎖国』の言葉を作ったことでも知られています。杉田玄白は「阿蘭陀通詞として古今第一の人なり」とたたえていたそうです。

 

蘭学を発展した人々
蘭学の発展は長崎よりはじまり、江戸や大坂へ進展していきました。

西洋の科学・文化の研究は長崎の阿蘭陀通詞を中心に始まりました。8代将軍徳川吉宗による享保5(1720)年の漢訳洋書輸入制限の緩和をはじめとする実学奨励の政策をきっかけに本格的な学問として発展していきました。また、オランダ商館長の江戸参府などもあり、18世紀には蘭学は江戸で盛んになり、京や大坂などへも広がっていったのです。

 

解体新書

蘭学者である杉田玄白らは、小塚原刑場での腑分け(解剖)をきっかけに、ヨハン・アダム・クルムスの解剖学書のオランダ語版を翻訳し、他の図版も加え、安永3(1744)年に出版したのが『解体新書』です。これは学校の歴史の教科書で見たことがあるかと思います。この『解体新書』の出版で蘭学の発展に大いに貢献したのは有名な話ですね。

 

蘭学事始

杉田玄白が文化12(1815)年までにまとめた蘭学に関する回想録です。

幕末まで写本で伝わっていましたが、福沢諭吉および玄白の子孫が明治2(1869)年に上下2巻で出版したものです。

 

蘭学の応用によって生み出された器具
西洋の技術を応用し、日本の職人によって独自の発展を遂げ、様々な器具が発明されました。

蘭学の対象とされた学術や技術は語学・医学・生物学・化学・物理学・天文学・暦学・世界地理・西洋史などの自然科学や人文科学、測量術、航海術など幅広い分野で活かされました。それらの西洋諸科学は、書籍とともに関する医療用具、実験用具、光学、測量機械、地理学や天文学に関する模型などの学術用具、時計などの精密機械は西洋にて製作・使用された器具などによって生み出されたのです。輸入されたものは実際に使用された他、日本人の職人たちによってその仕組についての研究も行われ、それらのモデルとして試作されたりしましたが、中には日本向けに使用するために改良を加えたりなどの工夫もなされ、応用ならびに発展した例もあります。

 

エレキテル

この『エレキテル』も蘭学の応用によって生み出されたものの1つです。

これは発電のために使われたものと思われます。

この構造は以下の通り

①ハンドルを回す

②ベルトでつながれた内部の円筒が回転

③円筒と接触している銀紙ばりの皮製の枕との摩擦で静電気が起こる

④その静電気を伝導鎖に通す

⑤内部に鉄くずを詰めて周りを絶縁したガラス瓶に電気を貯める

⑥ガラス瓶から出ている銅線から電気を伝える

このようにして発電が行われ、このエレキテルは主に医療関係に使われた他、見世物としても使われていたようです。

 

出島の地層断面図
出島は、海中を埋め立てて造られた人工島です。

もともと中島川の河口部に、弓なりに土砂が堆積した小高い部分を利用し、さらに上から土を盛り造られました。調査によると、大きな安山岩を敷き込んだ出島の土台部とその上の礫層(小さな石の層)が確認されています。出島では、潮の干満に合わせて海水面の高さが変化しますが、潮の影響を受けやすい部分までは礫層で構成されています。

 

かつての出島の姿
当時、寛永13(1636)年にはポルトガル人によるキリスト教の布教が禁じられていました。

そこで住民と隔てるため、長崎市の中心部を流れる中島川の河口に位置した岬の突端に人工島が築かれることになりました。

それが『出島』という扇形が特徴的な人工島です。

寛永18(1641)年にポルトガル人の来航が禁止されると、平戸にあったオランダ商館が出島に移され、これ以降、鎖国期における西洋に開かれた唯一の窓口となり、海外から様々な貿易品をはじめ学術や文化が伝えられたのです。

ところが、安政6(1859)年の開国以降、出島の周囲は徐々に埋め立てられ、さらには中島川の変流工事によって、北側が削り取られました。明治37(1904)年に完成した第二期港湾改良工事で完全に内陸化し、かつての扇形は原型がなくなりました。

 

現在の出島

江戸時代の出島は約1.5ヘクタールあり、周囲約560メートルの扇形の人工島でしたが、島内には商館員の住居や輸入品を納めるための蔵、日本人詰所や庭園などがあったのです。建築当時の様子ははたまた謎ですが、自然災害や火災による建物の焼失などに見舞われた時期もあり、建物の増建築や石垣の修復が行われ、徐々に元の出島の姿へ変貌しつつあります。もし、元の出島の形に復元されるとすれば40年後になることでしょう・・・。

 

ミニ出島
出島の東側には出島のミニチュア模型が展示されています。

これは『ミニ出島』というもので、川原慶賀が描いたとされる『長崎出島之図』をもとに1820年頃の出島を再現しています。昭和51(1976)年に長崎市が製作したもので、縮尺は15分の1になっています。

ビクティニ:これは出島の模型みたいだ。なるほど、まるで扇子のような形をしているわけだ・・・

ビクティニポンチョのピカチュウ:昔は貿易をやっていた島だから、倉庫とか多かったんだろうね。今で言う物流センターみたいなものだよ

 

旧長崎内外倶楽部
島内で唯一の洋風建築が一際目立ちます。

ここは『長崎内外倶楽部』という、明治32(1899)年に倉場富三郎(T.B.グラバーの息子)や荘田平五郎などを発起人として、長崎に暮らす外国人と日本人との交流の場として設立されたものです。現在の建物は、明治36(1903)年に英国人のF.リンガーによって建てられた洋風建築で、昭和43(1968)年に長崎市に買収され、今では資料館や休憩施設になっています。

 

長崎内外倶楽部のレストランで食事

長崎内外倶楽部にはレストランも併設されており、オランダ貿易のまちとして栄えてきた長崎ならではの洋食が堪能できます。このレストラン部屋は1903年から時を刻み続けた場所です。

昼食に長崎和牛のカツカレーをいただきます。

ビクティニ:最後の昼食は長崎らしく洋食ですね。いただきます!・・・おいしい!

ビクティニポンチョのピカチュウ:商館人もこれを食べたのかな?おいしい!

くまモン:長崎名物も美味しいモン!

 

長崎内外倶楽部の内部

内部は、洋風建築らしいデザインです。

築当時の姿のままで残っているのが貴重ですね。暖炉が設けられているのも洋風建築の特徴でもあります。

 

長崎内外倶楽部のエピソード
長崎内外倶楽部の設立および経営を尽くした倉場富三郎は、クラバーと日本人女性の子供として生まれ、長崎で生涯を過ごしました。

当時、富三郎の生みの親でもあったグラバーは、かの有名な伊藤博文と縁があったようです。

ホーム・リンガー商会は、製茶や漁業、保険、ホテル業などを営んできました。これは、これまで営んできたグラバー商会を引き継ぐ形で設立されたのです。ホーム・リンガー商会に勤務してきたトミーこと富三郎は、年とともに昇進を重ね、新会社となる『汽船漁業株式会社』の専務に任命されました。また、日本で初めて蒸気トロール船を導入するなど、これまで磯業が中心だった長崎の漁業を一新した水産業を司ってきたのです。

長崎内外倶楽部は、これまで定めてきた外国人居留地という制度の廃止とともに日本人と外国人の間で交流を深めるために『社交クラブ』として創設されたものです。

当時の長崎市長こと横山寅一郎をはじめ、三菱造船所所長こと荘田平五郎、長崎商工会議所会頭こと松田源五郎、リンガー、グラバー、倉場富三郎などの多くの著名な日本人や外国人の商人や政治家たちによって発起されました。

明治32(1899)年8月1日に西浜町の料亭『西洋亭』で初会合が開かれ、日本人125名、中国人5名、欧米人20名が出席しました。その後、毎年例会が開催され、当初は商工会議所ホールで行われていましたが、3ヶ月後の同年11月には浜町の『港湾事務所』の建物に移転、明治36(1903)年、倉場富三郎は雇い主のF・リンガーに内外倶楽部を出島に新築移転する要請をしました。この要請が成功したことで、F・リンガーが建築費の大半を負担し、出島7番に『内外倶楽部』の建物が新築されました。富三郎たちの願いで、江戸時代にも外国に開かれていた出島に建てられた内外倶楽部の建物は、現在に至るまでその場所に置かれました。度重なる保存修理工事とともに、当時の内外倶楽部の姿が出島で大切に保存されています。

 

大浦天主堂

さて、出島と同じく長崎のシンボルである大浦天主堂にも行ってみましょう。

実は、大浦天主堂には2つの歴史的な出来事と関わりがあると言われています。

1つは慶応2(1597)年の日本二十六聖人の殉教です。正式には『日本二十六聖殉教者聖堂』と言い、文久2(1862)年には26人の殉教者たちが聖人に列せられたのを受け、捧げられた教会です。そのため、大浦天主堂は殉教の地である西坂に向けて建てられています。

もう1つは、慶応元(1865)年の『信徒発見』です。大浦天主堂は文久4(1864)年に建てられたもので、翌年2月から公開が始まったその約1ヶ月後の3月17日に、浦上の潜伏キリシタンたちが信仰の告白をして名乗りあげました。プティジャン神父は大喜びでフランス・ローマに報告しています。

パリ外国宣教会のフューレ神父は、文久3(1863)年1月22日に来崎、2月14日大浦南山手の居留地に隣接する南山手乙1番(現在地)を入手。
さらに、8月初旬に来崎した同宣教会プティジャン神父に新築する天主堂の設計図を示し、『二十六聖殉教者聖堂』と命名する考えを伝えました。その後、翌年1月に熊本県天草出身の請負人、小山秀之進と契約をなして、天主堂建設に着手。建設工事は、バリ外国人宣教会日本総責任者ジラール神父の指示を仰ぎながらプティジャン神父の指導で行われました。教会自体は煉瓦造ですが、外観を保つため表面は漆喰で白く塗られています。

文久4(1864)年12月29日に工事は竣工し、その翌年2月19日、ジラール神父を始め、フランス領事、長崎港内に停泊中のフランス、ロシア、オランダ、イギリス各国の軍艦艦長臨席のもとに荘厳に献堂式が行われ、落成を祝い各国の軍艦が祝砲を打ち盛大に挙行されました。天主堂は、守護の聖人たちの殉教地である西坂の聖地に向けて建てられています。建設費は現在に換算すると4億円前後の工事費がかかったそうです。

禁教令が解除されると信者数の増加に伴い、増改築および修復が行われます。

創建時の御堂を包み込むように行われ、正面を約6メートル前に出し、左右を約2メートル広げ、後方を約3.6メートル伸ばし、さらに面積は当初の2倍の大きさに拡張、内外ともにゴシック様式に統一されました。

昭和20(1945)年8月9日の長崎原爆投下では、屋根や正面大門扉、ステンドグラスなど、甚大な被害を受けました。国庫の補助を受け修復工事が行われ、昭和27(1952)年6月30日、5ヶ年の歳月を費やして工事は完了しました。

大浦天主堂は、国内において洋風建築輸入の初頭を飾る代表的な建築物です。

昭和8(1933)年年1月23日、国宝に指定されましたが、原爆による損傷の修復完了後、昭和28(1953)年3月31日、文化財保護委員会により国宝に再指定されています。

ビクティニ:前に行った天草の教会より立派だ!主よウクライナに平和があらんことを・・・

ビクティニポンチョのピカチュウ:戦争のない世界になりますように・・・

くまモン:熊本城が元の姿になってくださいモン・・・

 

長崎空港で食べた角煮まんじゅう

さて、出島と大浦天主堂の見学を終え、飛行機で帰路につきます。

長崎市街からは空港行きのバスが結構出ているので、空港へのアクセスが容易なので助かります。長崎空港では角煮まんじゅうが売られていたのでおやつにいただきました。

 

長崎ちゃんぽん

長崎に来たら食べたいと思っていた名物の長崎ちゃんぽんも早めの夕食としていただきました。

三人:いただきます!・・・おいしい!!!

 

さらば長崎

さあ、もう飛行機に乗る時間なので、搭乗口へ向かい飛行機で長崎を後にします。

ビクティニ:長崎ありがとう!初めてきたけど楽しかった!次来る時は五島や平戸にも行ってみたい・・・

ビクティニポンチョのピカチュウ:さあ、帰ろう!

ビクティニ&ピカチュウ:最後まで見てくれてありがとう!またお会いしましょう!さようなら!

 

『オランダ文化が息吹く長崎市内を観光』終わり

2023年 正月旅行 山陰・長崎方面 THE END