ビクティニと昔ロマンのブログ

好きなポケモンと旅行に出掛けたり、鉄道名所(景観路線や歴史ある鉄道スポットなど)スポットめぐりや風光明媚な鉄道旅、日本の観光地の歴史や景観めぐりなどを紹介するコーナーです。よろしゅうお願いします。

熊本旅行記1日目 夏にこそ見るべき! 広島の平和記念公園と記念館を見学

皆さん、こんにちは。

今回は、夏休みに広島と熊本へ旅行に行ってきました。

 

広島の路面電車

関東から夜行バスで広島駅まではるばるやってきました。

今回は夏に広島へ訪れたということで、改めて平和の大切さを学ぶべく、平和記念公園へ行ってみましょう。

また、最近ではウクライナ問題でロシアによる戦争が後を絶たない時世だからこそ、訪れるべきだと考えています。

平和記念公園へのアクセスは、路面電車で訪れることができます。

広島の路面電車には様々な種類の車両が活躍しています。1両だけのものもあれば、何両も連結された連接車も見受けられます。いろんな路面電車が見られるのも広島ならではの光景です。

 

世界遺産 原爆ドーム
広島駅から路面電車で約10分・・・『原爆ドーム』のある平和記念公園にやってきました。

夏の時期に平和記念公園を訪れるのは初めてですが、訪問日が広島に原爆が落ちた8月6日に近い日ということもあり、多くの見学者が見に来ています。

原爆ドームは、かつて大正4(1915)年に『広島県物産陳列館』として建てられたもので、ドーム型が特徴な大胆なヨーロッパ風の建築物は全国的に珍しく、当時としては広島の名所だったそうです。当時は広島県の物産品の展示ないし販売の他、博物館や美術館としての役割も担っていたようです。その後は『広島県立商品陳列所』ないし『広島県産業奨励館』へ改称していきました。

ところが、1940年代には第2次世界大戦(太平洋戦争)が勃発し、次第に戦局が厳しくなった昭和19(1944)年には産業推奨館としての役割を失います。後に内務省中国・四国土木出張所や広島県地方材木・日本材木広島支社などの統制会社の事務所として使用されていましたが、昭和20(1945)年8月6日午前8時15分・・・ついに運命の時が来てしまったのです・・・。そう、広島に人類で史上初の原子爆弾が投下され、広島の街並みは壊滅したのです。この建物から南東約160メートル、高度約580メートル、爆風の圧力は1㎡あたり35トン、風速440メートルという恐るべき破壊力で多くの人々が亡くなりました。街の建物はおろか路面電車も爆風や熱線で全焼し、ほぼ崩壊に陥りました。そして、産業推奨館だった建物も無惨な状態で崩壊しました。一部は崩壊は免れたものの、崩落した箇所を見るとまさしく原爆の脅威が伺い知れます。

戦後、あまりの凄惨さから、いつしか『原爆ドーム』と呼ばれるようになったのです。

昭和41(1966)年には広島市議会が原爆ドームの保存を決議し、風化が進む原爆ドームを通して国内外の善意の募金によって2回の大規模な保存工事が施されました。平成に入ってからというもの、平成7(1995)年6月には国の史跡に指定、その翌年の平成8(1996)年12月にはユネスコ第20回世界遺産委員会メリダ会議にて、核兵器の凄惨さを世界中に伝えるべき建築物として『世界文化遺産』に登録され、今でも戦争の惨禍を物語っています。

 

原爆投下当時の様子の写真

 

原爆ドームならびに投下された原子爆弾の恐ろしさについてガイドのボランティアが解説しています。

原爆が投下された当日1945年8月6日8時15分17秒・・・。広島の上空に言葉に出来ないほど凄まじい閃光が走りました!正確にはかつて広島市の中心にあった原病院という建物の上空で炸裂したそうです。一瞬にして半径200メートルの火球が広がり、その中心温度が30万℃というとても考えられないような灼熱地獄と化しました!!表面で7千℃、さらに地表だけでもわずか1.4秒の間で熱線3~4千℃という信じられないような温度を達しました。これは鉄や金属でも軽く溶けてしまうような灼熱温度です。この強烈な熱線によって焼かれた人々は重度の火傷を負い、多くの人が亡くなったのです。火傷は熱線に直接面していた部分にのみ生じ、爆心地から3km弱離れた場所でも、素肌の部分は火傷を負ったといいます。また爆心地から600メートル以内の屋根瓦は、表面が溶け、樹木への着火も多く、爆心地より約3km以内の範囲では、建築物や電柱などは完全に焼けただれてしまいました。このような大惨事を起こさないためにも、二度と戦争をしてはならないという気持ちはとても大切だということです。最近ではウクライナではロシア軍による侵攻や戦争でウクライナの人々は今でもなお苦しんでいる人々が多いのではないでしょうか。この機会こそ、戦争を完全に消滅させ、平和の大切さを世界中に知ってもらいたいものだと思いました。

 

平和記念公園に捧げられた無数の千羽鶴
公園内にはたくさんの千羽鶴の折り紙が吊るされています。

これらの千羽鶴は日本の折り紙として代表的ですが、広島では『平和のシンボル』として国内各地はおろか海外からも数多く捧げられています。これは、今日の平和を祈願するために捧げられているのです。千羽鶴は、折り鶴を千羽作り糸で通したもので、『鶴は千年』という言葉から縁起の良い数としていわれるようになったといいます。 折り鶴や千羽鶴は、長寿祈願・幸福祈願・災害祈願・病気快癒という意味が込められていることから、平和のシンボルとして作られることが多いのです。このようにこれらの折り鶴が平和と結びつけて考えられるようになったのは、被爆から10年後に白血病で亡くなった少女こと佐々木禎子さんが大きくかかわっているからです。 

佐々木禎子さん(当時12歳)は、2歳のときに被爆したものの外傷もなく、その後元気に成長しました。ところが、9年後の小学校6年生の昭和29(1954)年に突然、病の兆しからか翌年2月に白血病と診断され広島赤十字病院に入院したのです。しかし、入院中に名古屋から折り鶴が贈られたのをきっかけに、回復の願いを込めて包み紙などで鶴を折り続けました。それが戦争の恐ろしさを折り紙の千羽鶴で訴えるきっかけにもなったのです。そして、8か月の闘病生活の後、昭和30(1955)年10月25日をもって逝去しました。

 

原爆の子の像

こうして、禎子さんの死をきっかけに、原爆で亡くなった方々や子供たちの霊を慰め平和を築くための像を作ろうという運動が始まりました。

全国からの募金で平和記念公園内に『原爆の子の像』が建立されました。

そして、『原爆の子の像』の周りには日本国内をはじめ世界各国から折り鶴が捧げられ、その数は年間約1千万羽、重さにして約10トンにも及ぶといいます。この像は年間を通じて、たくさんの千羽鶴が捧げられていることから、別称『千羽鶴の塔』とも呼ばれているのです。禎子さんの死を無駄にしないために、そして核兵器から世界中を守るためにも今日も平和を守っていきたいですね。

 

平和の灯
平和記念公園には台座の上に『平和の灯』が点けられています。

台座は、手首を合わせ手のひらを大空にひろげたような形を表現しています(高さ3メートル、幅13メートル、奥行き8メートル)。これは被爆時に水を求めていた犠牲者を慰め、核兵器廃絶とともに世界恒久平和を希求するために建立されたといいます。

今でもなお一心不乱に灯り続ける『平和の灯』は、全国12宗派から寄せられた“宗教の火”であり、溶鉱炉など全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が昭和20(1945)年8月6日生まれの七人の広島の乙女によって点火されました。この火は、昭和39(1964)年8月1日に点火されて以来ずっと燃え続け、『核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう』という反核悲願の象徴となっています。毎年、核兵器廃絶や被爆者援護の充実を訴え、広島県内の市町村を一周する『平和の灯リレー』がしばしば行われています。また、平成6(1994)年に広島市で開催されたアジア競技大会の聖火に点火されるなど、各種行事において平和のシンボルとして採火されています。この場所では毎年8月6日8時15分に多くの追悼者を慰霊し、世界平和を祈る黙祷が行われます。広島に原子爆弾が落とされてから今年で77年になります。しかしながら、戦争の惨禍を訴える世代は次第に減少しつつあり、平和に向けた未来のためにも次世代に引き継いでいかなければならないでしょう・・・。

 

安らかに眠ってくださいの石碑

 

戦争で奪われた多くの尊い命が今でもこの地で眠っています。

石碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」というメッセージが刻まれています。広島や長崎に落とされた原子爆弾によって多くの人々が犠牲になったことを考えれば、戦争というのは人を不幸にするものです。広島では約13万人、長崎では約7万人という多くの尊い命が失われたことを思えば、これからも戦争をなくし、誰もが平和に生きていきたい気持ちもあったことでしょう・・・。もし、戦争がなければなくなった人々の運命は変わっていたのかもしれません。

 

平和記念資料館に設置された時計台

 

平和祈念資料館にも見学してみましょう。

記念館のロビーには時計台が設置されていますが、普通の時計の他に広島に原爆が落ちてからの日数と世界中で核兵器実験が最後に行われてからの日数が表示されています。最後に核兵器が使われて1年も経っていないということは、まだまだ核兵器が使われている国があるようです(北朝鮮の弾道ミサイルなど)。特に最近のウクライナ情勢でいつ核兵器が使われるのかも分からないので、1日でも早く戦争が終わってくれることを切に願うばかりです・・・。

 

ローマ法王平和アピール碑

 

この石碑は昭和58(1983)年に建立され、イタリア在住の杭谷一東(くえたにいっとう)(広島県出身)が制作したものです。

イタリアのカラーラ産白色大理石に、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の行った『平和アピール』の中から選ばれた一節が、和英両文で刻まれています。碑は2枚の石を三角柱のように合わせ、上部の抽象彫刻像は世界中が肩を寄せ合って調和と安定、共存を未来へ向けて志向する状態を表し、人類の平和への願いが込められているといいます。石碑には『戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命を奪います。戦争は死そのものです。過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。ヒロシマを考えることは、核戦争を拒否することです。ヒロシマを考えることは、平和に対して責任を取ることです。』と刻まれています。

これには昭和56(1981)年2月25日、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が、広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前において、核兵器廃絶を訴えた『平和アピール』は、全世界の人々に多大の感銘を与えました。これを造形し平和祈念の一つのよりどころにしようと、当時の被爆者であった藤枝良枝(ふじえだよしえ)さんなどから声が上がり、同記念碑建立委員会が結成され『平和アピール』から2年後の昭和58(1983)年2月25日、広島平和記念資料館1階ロビーで除幕式が行われたそうです。

 

被爆前の広島市の様子

原子爆弾が投下される前の広島市の様子です。

元安川の手前には現在の『原爆ドーム』となる建物が写っています。築造当時は『広島県物産陳列館』だった建物ですが、この上空に原子爆弾が落とされ、ここが焼け野原に一変することになるとは誰が予想したのでしょうか。周辺には多くの民家が立ち並んでいたようですが、それらも原爆で一気に消滅する運命に・・・。

 

被爆後の広島市の様子

 

原子爆弾が落とされた広島市の様子です。

見ての通り瓦礫だらけの焼け野原と化しています。

あんなに立派だった物産陳列館の建物も見事に無惨な姿に様変わり、てっぺんの丸い屋根も鉄骨だけ残し、周りを囲っていた建造物も崩れ落ちています。水を求めては野垂れ死になった人々も徘徊していたという姿を想像したらと思うと、本当に核兵器は酷いものだということが実感させられますよね・・・。

原子爆弾が落とされた地点

被爆前から原爆投下後の広島市の変遷

これは昭和20(1945)年8月6日当日、広島市に落とされた原子爆弾の爆心地とその周辺のマップです。

当日、少なくとも半径3kmの範囲で多くの民家や建造物が失われ、この被爆によって約 14万人の命を落としました。この甚大な被害を考えれば、いかに戦争の恐ろしさが感じ取れます。原爆投下後の広島には何十年も植物は生えないといわれるほどだったそうです。

 

核兵器の非人道性や恐怖を訴える作品『さく裂の瞬間』
平和記念資料館では、作品や遺物、資料、証言などを通して世界の人々に核兵器の恐怖や非人道性を後世に伝えています。
それをいわゆる『ノーモア・ヒロシマ』と呼んでいます。

これは被爆した少年を描いた『さく裂の瞬間』です。

その少年は当時17才、爆心地から1kmにいたようですが、さく裂時の閃光があまりにも凄まじい破壊力であったためにその少年も犠牲者の一人となったのです。こうして一発の原子爆弾が、無差別に多くの尊い命が奪われ、生き残った人々の人生も大きく変わることになったのです。

 

被爆直後の御幸橋の様子

これは被爆当日の8月6日午前11時頃に撮影した、爆心地から約2.3km離れた場所にある御幸橋での様子です。

大火傷を負い逃れてきた負傷者が水を求めるため、この場所に群がっていました。この写真を撮るのにはあまりの酷さからか20分ほどためらい、ようやく撮った1枚がこの写真だそうです。この写真を見る限りでは、あまりにも凄惨な光景で、戦争や核兵器はこれからの子供たちの未来を失うことが感じ取れます。被爆前とはかなり変わり果てた姿で子供たちは「助けて」「水をください」などと母親にすがる姿や水を求める姿、そして「目を開けて」と子供の名前を呼び続ける半狂乱な母親の姿も。もはや言葉では言い表せないほど無惨で、この写真の撮影者が撮りづらい気持ちになるほど地獄な光景だったことが分かります。

 

爆心地から6km離れた場所から撮影した写真

これは広島市の中心から約6km離れた場所から撮ったものですが、キノコ状に舞い上がる煙は、あまりにも異様な光景です。
この光景を見た人の証言によると「真っ赤、いや違う、黒味がかかった朱色、そんな気もする。とにかく過去一度も見たことのない、あざやかで、強烈な色だった」とのことで、とても信じられない惨状だったというのが伺い知れます。 

 

炎上する広島市街

これは広島市郊外から撮った写真ですが、郊外にも煙の波が迫ってきているのが分かります。市中には凄まじい灰色の煙が覆い、7箇所ぐらいの場所から火災の煙が出ていたといいます。そのうち、全市にわたり広がっていき、あたり一面灰色の煙に包めれていきました。この写真を見れば、戦争が生み出した地獄絵図といっても過言ではありません。 

 

原子爆弾によってぼろぼろになった遺品

原子爆弾によってぼろぼろになった服や帽子、靴などの遺品も展示されています。


それらの惨状から見ると、ところどころに亀裂や穴が空いており、原爆の恐ろしさを物語っています。原爆が投下された8月6日の広島は、瞬く間に瓦礫の原と化してしまったのです。そして、何が起こったのかさえ分からぬまま、多くの尊い命が奪われていきました。生き残った人も大火傷で大いに顔が膨れ上がり、焼けただれて垂れ下がった皮膚、そして血みどろの身体・・・いずれも想像したくない変わり果てた姿で大火の中を彷徨っていたことでしょう・・・。

 

放射熱によって溶けた鉄や金属

原子爆弾が放った放射熱によって溶解した金属が原型をとどめていないほど変形しています。

その放射熱は軽く1,000℃は超えてしまうので、鉄や金属のような頑丈なものでさえもご覧の写真のように溶けてしまうのです。 これを見るとまさしく原爆の恐ろしさを垣間見ているかのようです。

 

折れ曲がった鉄骨

建物を支えていた鉄骨も見事に折れ曲がっています。

この鉄骨は、かつて存在した広島富国館7階内部天井にあったもので、これも恐るべき爆風によって大きく折れ曲がり、破損しているのかが分かります。

 

崩落を免れた煙突

一方で崩落から免れたものもあります。これは鉄筋コンクリート造の煙突で醤油醸造場にあったもので、避雷針こそは破損したものの、この煙突だけは崩落を免れたようです。しかし、ところどころに黒く汚れた箇所がありますが、おそらく爆風を受けた痕跡と思われます。煙突の横にあるのは噴水の吐水口で、それは広島県物産陳列館(後の原爆ドーム)の中庭に設置されていたものです。

 

『御幸橋』の名板と橋の瓦礫

橋も被害を受けました。写真左側の金属物は、相生橋の橋桁です。部分的に矢印でさしてある箇所は爆風によって変形した箇所です。この爆風によってコンクリート製の歩道は津波のように大きく持ち上がり、崩壊したそうです。

 

上部がずれたレンガ塀

広島陸軍被服支廠(ひろしまりくぐんひふくししょう)にあったレンガ塀です。上部の漆喰に亀裂が入り、見事にずれ持ち上がっています。これは強烈な爆圧振動による作用でずれたもので、窓の鉄扉もその爆風によって押し曲げられたそうです。

 

車輪が歪んだ自転車

自転車をはじめ様々な備品も被害を受けています。自転車を見てみると、完全に車輪のスポークが抜けており、フレームやハンドルも曲がり、もはや使い物にならないほど原型をとどめていない状態です。

 

金庫

この金庫はかつて営んでいた薬局にあったものです。この金庫は兄が夫婦の遺骨とともに形見として持ち帰ったもので、中に入っていた米や書類などは炭化し大いに焼け焦げていたようです。

 

投下直後の縮景園裏の川岸の様子を描いた絵

原爆投下直後の縮景園の様子を描いた絵です。

このように作品を通して戦争や核兵器の恐ろしさを物語っているのかがよく分かります。猛火から逃れるために多くの人が川に飛び込む姿が見受けられます。しかし、溺れている人もいたようで、川に飛び込んでもどのみち助からなかったことを考えれば、地獄絵図だったことでしょうね・・・。

 

広島に降った『黒い雨』
原子爆弾が落とされた直後、空に広がった灰色の雲から広島市をはじめその周辺各地に『黒い雨』が降りかかりました。

それは原子爆弾の雲に含まれた多量の放射能を含んだ細かいチリが上昇気流で吹き上げられたため、このように『黒い雨』として降ってきたからなのです。原爆が落とされた昭和20年8月6日の天気は晴れだったということもあり、土やホコリを含んだ雲が上昇気流によって上空で火球が上昇し水蒸気が水滴となってきのこ雲が形成されていきました。その上昇気流に乗った空気中の水蒸気が温度の低い上空で冷えて空気中のホコリなどと付着し氷の粒や水滴となり、それらが大きなると重さとともに雨として降ります。当然、この雨粒には放射能が含まれているので、浴びれば二次災害になると言っても過言ではありません。この雨を浴びたり、あるいは雨水を飲んだ人は更に被爆し、命を絶っていったのでしょう。この作品は、広島市に降った『黒い雨』によって更に苦しい状況が続いた風景を描いています。喉が渇き我慢できずに大空に向けて大口を開けて黒い雨を飲もうとする女性の作品には・・・

 

そのうち 雨が降ってきました くろい くろい雨 大きなつぶの雨空にむかって その雨をのもうと 口を大きくあけましたあつくて あつくて からだ中が 火のかたまりのように なっていたから水が ほしかったのです

 

当時は夏だったこともあり水が欲しかったでしょうが、放射物質を含む黒い雨を飲み込んだ女性はもがき苦しんでしまったに違いありません・・・。

一方で黒い雨から逃げる人の作品では・・・

 

黒い雨が原爆投下直後で降った。雨に油がまじった様な、ぬるぬるしたものが、身体中についた。空は黒雲におおわれ、逃げまとう人に、不気味な不安をもたらした。

 

・・・というように『黒い雨』には有害物質が含まれているので、屋根の下や軒下へ避難しようとする姿も見受けられたのでしょう。これらの作品は、原爆が落ちたあとも地獄のような日々が続いていたということを伝えたかったに違いありません・・・。

 

黒い雨に濡れたシャツ

これは大竹町(現:大竹市)の義勇隊員として広島市内の建物疎開作業現場へ向かう途中で被爆し、火傷を負うのとともに黒い雨を浴びて被爆した岩本徳三さん(当時28才)が着ていたシャツです。このシャツはおろしたばかりの新品だそうですが、黒い雨によってシミが残っています。

 

『黒い雨』が降った範囲

昭和20年8月6日当時に降った黒い雨の範囲は、昭和28(1953)年の報告によると広島市をはじめ西側や北西部を中心に降ったとされています。

しかし、平成20(2008)年度の調査によると、更に広い範囲で降ったのではないかという報告があるようです。実際には現在の広島市でいう東側や北東部を除く市域のほぼ全域と周辺部で黒い雨が降った可能性があるということです。

 

人影の石

この石段は、住友銀行広島支店の入り口階段を切り出して移設したものです。

この銀行の開店前に階段に腰掛けていた人は、近距離で原爆が炸裂し、逃げることもままならないまま、この場所で死亡したものと思われます。原爆の強烈な熱線によって階段は白色っぽく変色、腰掛けていた部分が影のように黒くなった跡が残っています。これは自分の親族のものではないかという申し出が、複数のご遺族から寄せられているようです。

 

猛火に巻き込まれた路面電車

原爆投下直後の広島市は激しい炎に包まれ、次第に火の海と化していきました。

かつてあった建造物は次々と炎に飲み込まれ、路面電車も例外なく火の海に包まれていきました。その電車に乗っていた人も猛火に巻かれ、無惨な姿のままで亡くなったのです。また、民家や建物の下敷きになったまま、這い出ることもできず生きたまま炎に焼かれました。

 

溶けた仏像

この仏像は善応寺にあった仏像です。

爆風や高熱火災によって溶けてしまっています。ここまで溶けた仏像を見ていると、いかに戦争の惨さが思い知らされます。

 

高熱火災によってぼろぼろになった遺物

原爆が放った高熱火災によって溶けた小銭や瓶、置き時計、人形など、無惨な状態になっています。

特にガラス系のものは高熱火災によって大いに溶けてしまっています。ここまで無惨な遺物が原爆の酷さを物語っています。被爆した時の温度は1,000℃を超えているので、ガラスは軽く溶けてしまうのが想像できます。

 

広島に贈られた医薬品

広島市に贈られた各医薬品とその他医療関係の各備品です。

カーゼや消毒液、ピンセット、救急箱など、治療関係のものが広島に贈られました。展示されている制帽にはちょっとしたエピソードがあり、その制帽をかぶっていたセツ子さん(当時26歳)は広島第一陸軍病院江波分院にて被爆し、大量のガラス片を浴びても、懸命に負傷者の治療に専念したということがありました。その制帽はその後の救護活動でも使用されていたものです。

 

中学生の遺品

市立中学校の1・2年生は、建物疎開作業中に被爆し、多くの犠牲者を出しました。

この衣服は、亡くなった生徒が着ていたものです。それぞれの衣服には、子を失った親の深い悲しみが込められています。

 

梶尾さんが使っていた財布と学生服

県立広島工業高校1年生の河本梶尾さん(当時12歳)は中島新町の建物疎開現場にて被爆し亡くなりました。

父親と兄は何度も捜すもその行方がわからず、代わりに梶尾さんの学生服の上着が見つかったようです。9月頃、家族はその学生服を遺骨代わりに葬儀が行われ、その後、多くの負傷者が収容されていた似島から梶尾さんの遺骨と財布が届いたといいます。

そのお話によると・・・

優しく、利発で賢い兄でした。被爆の数日前、短い休みで帰省してきた兄と近所の川で釣りをして遊び、「今度帰る時にはお土産を買ってきてね」と別れました。まさかその時には、それが最後の別れになるとは思いもしませんでした。

疎開現場にいた梶尾さんが被爆すとは思っていなかったことを思えば、酷いことだと思いました。せめて、最後まで使っていた財布や学生服は残してあげたいと思ったのでしょう。

 

綜智さんが着けていた手袋

崇徳中学校1年生だった浅野綜智さん(当時12歳)は、八丁堀の建物疎開作業現場にて被爆しました。顔や手足に大火傷を負い、翌日に捜しに来た親戚の人に発見されました。救護にあたっていた軍医の手当を受け、叔母の家に連れ帰られましたが、その日の夜遅くに息を引き取ってしまったのです。8月14日の朝、愛媛県大三島の実家から父親と祖母が駆けつけた時には、すでに遺骨となっていました。この手袋は綜智さんが被爆時に身に着けていたものだそうです。

そのお話によると・・・

「6日の夜は寝たらしたいと間違われて焼かれてしまうと思い、寝なかったんだ」と話しました。叔母が「寝なかったのなら眠いのでしょう。今日は早く寝なさい」と声をかけると、そこにいたみんなに「おやすみなさい」と言って眠り、そのまま息を引き取りました。

 

敏子さんが身に着けていた腕時計

名川敏子さん(当時22歳)は幟町の自宅で被爆、崩落した民家の下敷きになって亡くなりました。

出掛けていた妹が戻り、崩れた建物にむかって「姉ちゃま!」と何度も呼びかけるも返事はなく、迫ってきた火の海を前になすすべがなくその場を離れました。火災がひどく、すぐに戻れなくなった父親は、日も暮れた頃に自宅の焼け跡から白骨となった敏子さんを見つけました。この腕時計は、敏子さんの遺骨の腕の下にあったものです。その時計の針は敏子さんが亡くなったと思われる1時ごろを指したまま止まっています。

手記によると・・・

あたりを見ると座敷の中央と思われるところに白骨が横たわっているではないか。すぐに敏子だと気付いた。あぜんとして一人で泣けるだけ泣き、そして唯々冥福を祈るのであった。

大火に見舞われる中、家の下敷きになった敏子さんを前に何もできなかった悔しさもあったことでしょう・・・。  

 

遺骨を包んだハンカチ、漢和辞典

 神徳高等女学校3年生の後藤君子さん(当時14歳)は、建物疎開作業に動員された際に被爆しました。

母親が必死に捜し回るも行方は分からぬままです。ハンカチは、君子さんが大切にしていたものです。母親は、学校で火葬した大勢の人のお骨の1つを君子さんの遺骨として、このハンカチに包み持ち帰りました。辞書は勉強熱心だった君子さんが使っていたものです。お話によると出かける時、スコップか鋤(すき)を肩にかついで振り返り「お母さん、今日も南瓜炊いておいてね」といったのが姉の最後の言葉だったとなりました。母はお骨の粉でも残っていればハンカチを大切にしていました。

 

保義さんが使っていた計数器・はさみ・硯・ものさし・名札・日記帳

県立広島第一中学校1年生の天野保義さん(当時13歳)は、学校校舎内で被爆しました。翌日、学校からの知らせで、知人が収容先に迎えに行くと、保義さんは耳の下に大きな穴が開き、全身血だらけになっていました。自宅で家族が懸命に看病したものの、8月8日の朝に亡くなりました。これらの遺品は、自宅にあった保義さんが使っていたもので、日記によると、原爆が投下される1年前の8月6日の出来事が記されています。これらは亡くなるまで大切に保管されていたそうです。

手記によると・・・

うわ言に「お父さんが待っている」と申しました。平素は(亡くなった)お父さんと言った事のないのにやはり父の霊が迎えに来られたものと思いました。そのまま息を引き取りました。その時の一同の悲しさと何といって良いか。もう生きがいもない真っ暗闇になったようでした。

 

食べることのなかった弁当と水筒

県立広島第二中学校1年生の折免滋さん(当時13歳)は、建物疎開の作業現場にて被爆し、亡くなりました。

展示されている弁当箱と水筒は、骨となった滋さんの遺体を母親が見つけ出した際、遺体の下にあったものです。お弁当の中身には、米や麦、大豆の混合ごはんと千切りにしたじゃがいもの油炒めが入っていたそうです。滋さんはお弁当を楽しみに出掛けたものの、お弁当を口にすることなく、お弁当も虚しく朽ち果ててしまいました。

せっかく楽しみにしていたお弁当が食べられなかったのは悲しいですね・・・。

 

建物疎開

広島市における疎開場所

建物疎開というのは、空襲による火災が広がるのを防ぐため、予め建物を取り壊し、空き地を作ることをいいます。

写真のイラストにあるように、家を解体しているのがわかります。この作業には広島市内だけでなく、近隣の町村からも多くの人が動員され、ノコギロやロープなどを使い人力で行われました。また大人だけでなく、現在の中学校1・2年生にあたる国民学校高等科の児童や中学校・高等女学校の1・2年生も動員されました。しかし、8月6日は広島市中心部にて大規模にこの作業が行われる日となっていたことから、多くの人が屋外での作業中に被爆し、亡くなっていったのです。広島市における疎開場所はマップの赤で示した範囲で8月6日当時に行われたと思われる主な場所です。

 

疎開先で受け取った手紙

国民学校から疎開してきた子供たち宛の手紙です。

当時、幟町国民学校の八尾洋二さん(当時12歳)・咲子さん(当時9歳)兄妹は疎開していたことから被爆は免れました。しかし、市内の中心部に残っていた両親や中学生の兄、3歳の妹の家族4人を原爆で亡くしました。洋二さんや咲子さんは疎開先で受け取った家族からの手紙を大切に保管していました。

この手紙の内容には・・・

~お兄さんから洋二さん・咲子さんへ~

此の間このような葉書を出しましたが、これは往復葉書と言って、返信の所を切って手紙を書いて出せばいいのです。

~お母さんから洋二さんへ~

三日位前に小包一個出しました。

中のものは次の通りです。

洋ちゃんのもの

1.ランニングシャツ一枚

2.運動服一枚

3.袋大小二枚

4.ソロバン、

5.紙入れ、・・・・・・

~お母さんから咲子さんへ~

皆にかわいがっていただけるようなよい子になって下さい。もう泣き虫じゃないでしょうね。かわいい咲子ちゃん 母より さよなら

~お父さんから洋二さん・咲子さんへ~

山の中の変わった生活、都会で見られない花や草や川や山よく見、よく知ろうとつとめるのがいいと思います。これからもおなかなどこわさぬよう元気で遊びなさい。それが何より一番うれしいことです。

被爆した広島市から逃れ、両親や兄を失くした田舎へ疎開した子供たちも辛い心境だったことでしょう・・・(´;ω;`) この手紙での連絡を最後に二度と会えない両親や兄を思えば、悲しくなります・・・。

 

被爆翌日に疎開先の弟たちにあてた葉書

広島女学院高等女学校4年生の四竃裕子さん(当時15歳)は、学校内で被爆し、倒壊した建物の下敷きになって頭などに大けがを負いました。

裕子さんは自分の体のことよりも疎開先にいた弟たちを心配し、翌8月7日にこの葉書を書きました。やがて一家は再開することができましたが、裕子さんは9月4日に家族に見守られつつ亡くなったのです。

その手紙の内容としては・・・

更ちゃん招ちゃん、お元気?長い事お手紙出さないでごめんね。昨日不意に敵機が来て、広島は少なからずやられたけど、姉ちゃんは元気でいます。まだお父さんお母ちゃん、揚ちゃんの事はわからないけど、力を落とさないでみんなのことを無事である様にお祈りしてて下さいね。

自分が犠牲になっても、家族の未来のことを思い、この手紙を書いたのでしょう・・・・(´;ω;`)

 

薬包紙に書かれた遺書

県立広島第一高等女学校の教師だった光谷幸子さん(当時29歳)は生徒の引率で建物疎開作業に従事していた時に被爆し、大火傷を負いました。

この遺書は、被爆翌日の夕方、収容先で死を覚悟した幸子さんが救護にあたっていた女学生に、代筆してもらったのです。紙には女学生の手についていた血のシミが残っています。幸子さんは生徒たちのことを心配しながら8月8日に亡くなりました。その薬包紙に書かれた遺書には・・・土橋の作業地において、第一発において、すでに身に半分以上のやけどを負いました。その時すでに死んで居たはずの身が、まつわりつく生徒のためにくるしみをこらえて、まだ正確には分かりませんが、不幸かの世界の数に入ったもののおびただしそれらをつまびらかにしないでめされるのは誠に残念申しわけない事で御座居ます。幸子さんが、これからの生徒たちの未来のことを思いながら、この文書を遺して逝去したと思うと、生徒思いな人だったことでしょう・・・。

 

出せなかった履歴書

 当時、女子挺身隊員として動員されていた片山菊枝さん(当時17歳)は、宇品の陸軍船舶司令部(通称『暁部隊』)で被爆しました。

大きなけがは特に無く、軍の命令によって金輪島で、9月10日まで救護活動にあたりました。除隊時には疲れ果てていましたが、元気になったら就職するからとこの履歴書を書きました。ところが、次第に体調が悪化し、年末には寝たきりになり昭和21(1946)年5月19日に亡くなりました。そのお話によると家族想いの姉は寝たきりになってからも「私が元気になったら勤めに出るけん。みんなに楽させてあげるけん」と言っていました。優しくて大好きな姉でした。本来なら就職するはずだった菊枝さんが、被爆によって体調を崩し、しまいには就職できずに逝去したということを考えれば、戦争は人生を左右されるどころか、奪ってしまうほど凄惨なことだと思います・・・。

 

後遺症と戦った日記

昭和20年9月から昭和21年8月までの日記

この日記は昭和20年9月から翌年8月までの日記です。

広島工業専門学校機械科1年生だった木村一男さん(当時18歳)は学校の教室で被爆。背中にガラス片が突き刺さり、左手に火傷を負いました。戦後復学したものの身体は徐々に弱まっていき、被爆から3年後の昭和23(1948)年8月9日に亡くなりました。日記によると、苦境に抗う強い意志、症状に対する焦り、将来の夢、13歳で被爆死した妹・幹代さんのことなど、一男さんの心の叫びがつづられています。幹代さんは一男さんの妹で、当時は県立広島第一高等女学校1年生でした。彼女は建物疎開に動員されていた時に被爆したのです。全身火傷を負い8月7日に亡くなりました。

 

昭和23年1月から4月までの日記

その日記の内容によると・・・ 

~昭和20年9月から昭和21年8月までの日記~

1945年9月1日 俺は絶対に死なない。俺が亡くなったら、老い行く母父を誰が養うか。

9月7日 幹代の命日。生きてあらば、ああもしよう、こうもしてやろうと思うことが多々ある。

9月8日 教授になりたい。うんと勉強して。留学して。こんなことを考えていると向学研究心鬱物として起り、じっとしていられなくなる。どうしても帝大教授になってやる。熱力学の研究と結びつくのも何かの因縁であろう。

1946年4月17日 広島の復興に従って人々の頭からは、あの凄愴は薄れてゆく。亡くなった幹代たちの学徒はどこの宙で眺めているやら。

 しかし、昭和23年からは彼の人生は次第に悲しい運命を迎えることになります・・・

 ~昭和23年1月から4月までの日記~

1月20日 身体が次第に弱ってゆく。

1月21日 勉学さっぱりすすまず。腹痛。腸カタルらしい。

1月31日 学校へゆく雑沓が体にこたえる。全く不愉快極まりない。運動不足が根本原因なのであろう。ファイト全くなし。ばか!!ばか

3月8日 下痢。咳がついて胸が苦しい。

4月28日 終日。体だるし。

これを最後に一男さんは逝去しました・・・。被爆した後遺症にも負けまいという気持ちと生きる希望を持っていた一男さんは数年で絶望を味わうことになったのです。そう考えるとやはり戦争は人々を不幸にしてしまうものです・・・。

 

仮火葬場へ運ばれる遺体

被爆後の広島の惨状は、絵画や作品を通して後世へ語り継がれています。

これは、遺体をリヤカーで仮火葬場へ運ばれる時の様子を描いたものです。被爆当時34歳だった秋山和男さんが64歳のときに描いたもので、爆心地から1km離れた鉄砲町の様子が描かれています。

作者の言葉には・・・

被爆者の死体は車に積みかさね兵舎の広場にある仮火葬場へ運ばれていました。

親族の言葉には・・・

(父は)「他界された人たちの姿はきれいにしておいてあげたい」と言い続けながら一つ一つの作品を制作していきました。

せめて多くの犠牲者たちの心を慰めてあげたいという気持ちが伝わります・・・。もし、日本が戦争をやめていれば、こんな悲しい思いをしなくて済んだでしょう・・・。

 

学徒の遺体に弁当が供えられていた

これは、学徒の遺体に弁当が供えられていた様子を描いたものです。

爆心地から800メートル離れた8月7日朝の土橋にて多くの遺体が並べられたのを見たと思わしき宮地臣子さん(当時34歳)が63~64歳に描いたものです。

この作品には・・・

キレイニナランダ動員学校の死体焼ケ残ッタベントウガ供ヘラレテイタ(略)ワガ子ヲ探シナガラモドウカコノ中ニイテクレナト祈ル気持デアッタ

食べ物もろくに口にもしなかった学徒たちにとってお弁当は最大の望みだったことでしょう・・・。この学徒の遺体の中から臣子さんは自分の息子が紛れ込んでいるのではと思い、無事でいてほしいと願ったと当時は思っていたに違いありません・・・。

 

火葬に思わず合掌する

これは8月8日の原爆ドームに近い爆心地からわずか160メートルの猿楽町にて火葬が行われた時の様子を描いたものです。

当時34歳だった小早川泰造さんが64歳に描いたもので、死体を焼いている所を見てあまりの酷さに本人も思わず手を合わせていたのだそうです。

作品には・・・

八月八日午後九時 原爆ドーム近く負傷した兄を古江に運ぶ途中死骸を焼いている 思わず合掌

負傷していた彼の兄を運んでいる途中で、たくさんの遺体が火葬されているのを見て思わず涙をこぼしながら合掌をしていたのでしょう・・・。

  

火の玉・人魂(燐光)

 これは8月6日の夜の爆心地から950メートルにある国泰寺町にて火の玉(人魂)が燃えているのを描いたものです。被爆当時47歳の小林岩吉さんが77歳の時にかいたもので、鎮魂を想い描かれたものでしょう。

作品には・・・

公会堂建物そかい跡で 石をまくらにうつらうつらふと目があき 前方があかるい 見れば火の玉がふわりふわりすうと帰りてくる 人魂もえてゐる人魂みんなぎらぎら もえていた夜があけて火の玉が もえていたあたりにわ 何人もの焼死体が おりかさなって ころがっていた 合掌

戦争で多くの命が奪われた人たちを慰霊してあげたいという想いで描かれているのが伝わります。

 

リヤカーで被災者を運ぶドイツ人神父

被災者をリヤカーに乗せて救護所へ運ぶ2人の外国人の姿も見られる絵画もありました。

一人はドイツ人神父でもう一人はK・ルーメル先生だったそうです。当時はその姿を見て、善行に敬意を表してそれを感謝の気持ちとして絵にしたのだとか。

少しでも助けてあげたいという気持ちはとても偉いことだと思います。

 

憲兵に連行される被爆したアメリカ兵捕虜

被爆しても、まだアメリカ兵は捕虜として取り扱われ、憲兵に連行される姿も見受けられたといいます。

他にも水を求めたり、野垂れ死になったり、あるいは川に溺れたアメリカ兵も見受けられたようです。

被爆してもまだアメリカ兵に対して相当な憎悪を感じていたのでしょうか・・・。

 

救援バスに乗っていた留学生

被爆後の8月6日の午前10~11時ごろ、バスや消防車が救援にやってきた姿も見られました。

その時に一人の被災者の前には東南アジアからの留学生2人が乗っていたようです。実は南方東南アジアの留学生の宿舎は大手町八丁目の『興南寮』前川アパートで同じ町内で面識があったそうで、二人共けがはしていないようです。

この二人は救援のためにやってきたのでしょうか?

 

掛け時計

この時計は被爆翌日の8月7日、中島本町の自宅兼理髪店跡から、遺骨とともに見つかったものです。

寄贈者である濱井徳三さん(当時11歳)は市外に疎開していたため無事でしたが、自宅に残っていた父親の二郎さん(当時46歳)、母親のイトヨさん(当時35歳)、姉で安田高等女学校3年生の弘子さん(当時14歳)、兄で修道中学校1年生の玉三さん(当時12歳)の4人は亡くなりました。ただ1人残された徳三さんにとって、原爆投下の前日、両親と姉が疎開先に遊びに来たのが家族との最後の思い出になりました。掛け時計の針は8時16分を指したまま止まっています。おそらく被爆時に止まったものと思われます。家族を失っても1人で生きていかなければならなかったので、かなり辛い気持ちだったかと思いますが、それでも生きたいという気持ちがあるのはとてもたくましいことだと思います。

 

革ケースと万年筆

この革ケースと万年筆は、5人家族の弟である友田宏英さん(当時16歳)の遺品です。

宏英さんは髪の毛が抜けて高熱にもがき苦しみながら8月27日に亡くなりました。もう1人の弟、貞成さん(当時12歳)は市立中学校1年生で建物疎開作業に動員されていましたが、被爆し行方がわからぬままです。姉の澄子さん(当時18歳)は毎年8月6日が近づくと貞成さんの消息を求め必ず、広島市が公開する『原爆罹災者名簿』を見に行ったといいます。

 

ストップウォッチ

これは、当時爆心地から790メートル離れた中国軍管区司令部にいた佐伯力さん(当時33歳)が所有していたもので、彼女も司令部内で被爆しました。

臨月の妻、多鶴子さんに代わり、彼女の両親が翌日から入市し、力さんを捜すも見つけることができませんでした。数日後、力さんの同僚から彼女はひぼ即死だったということを知らされました。このストップウォッチは疎開先の自宅に残され、力さんが招集前に青年学校の教頭をしていた頃に使用していたものです。力さんの死から4日後に娘の博子さんが生まれました。多鶴子さんは、戦後実家の蕎麦屋を営みながら6歳と4歳の息子、生まれたばかりの博子さんを育てました。

 

眼鏡

この眼鏡は佐伯敏子さん(当時25歳)の母親こと茂曽路モトさん(当時54歳)がかけていたものです。

モトさんは自宅で被爆し行方不明になりました。一方、郊外にいた敏子さんは、被爆当日から市内に入り肉親を捜し続けました。1ヶ月後の9月6日、敏子さんの義兄が焼け跡からモトさんの頭部を風呂敷に包み持ち帰りました。顔は焼け落ち、後ろにかすかに肉と髪のみが残るだけで、かつてかけていた眼鏡がくっついていたといいます。その後、敏子さんは被爆から約2ヶ月あまりの間、13人の親族を失いました。戦後、敏子さんは病に苦しみながらも子供たちを育て、40年以上にわたり平和記念公園にある原爆供養塔の清掃を続けました。

 

原爆孤児の記録『孤児とともに』

この原稿は、かつて比治山国民学校の教員だった斗舛良枝さんは、被爆時に泊まり込みで迷子収容所の子供の世話にあたりました。

五日市に広島戦災児育成所が解説された後、夫で幟町国民学校教員の正さんとともに出向し、夫婦で住み込み子供たちの教育にあたりました。この原稿は斗舛夫妻が孤児と過ごした日々の記録です。原稿の内容を見る限りでは、被爆時は地獄のような日々を過ごしながら子供の世話をしていたようです。戦後からしばらくして宮島へ遠足に連れて行ったエピソードもあるようです。悲しくても生きようという気持ちが伝わってきます。

 

書籍『原爆の子』

広島大の長田新教授は広島市内の学校や孤児収容施設に呼びかけ、原爆で苦しんだ子供たちが書いた手記を集めました。

これらは昭和26(1951)年10月、『原爆の子』として出版され、この書籍には現在までに十数カ国語に翻訳されています。この書籍を通して戦争の惨さや虚しさを学び、少しでも平和の大切さを伝わればと思います。 そして、核兵器や戦争によって、かつて幸せであった家族は失われていったのです。生き残ってもただ1人で毎日を過ごさなければならない孤独感、病の苦しみや死への不安が老人から生きる気力を奪われ、まさに絶望な日々は続きました・・・。

例えば、広島三大祭である『とうかさん』を楽しみにしていた年配の男性が左目の視力を失ったり、あるいは屋外で食事の支度をしていた一人暮らしのお婆さんが次第に自由がきかなくなり、松葉杖で支えて生活するなど、様々な不自由に見舞われました。原爆は、人々の体や心に深い傷を残していきました。

絶え間のないケロイドの痛み、度重なる手術は、体だけでなく心も衰弱させていきました。年月が経ち現れる放射線による障害が長期にわたり人々を苦しませ、健康な人でもいつ発症してもおかしくなかった病の不安からは逃れられなかったといいます。ある一家は体調が回復し漁に出られるようになっても、生計を支えていた妻を亡くし絶望的な生活を迎え、残された子供たちとともに一家は崩壊したり、数えても足りない銭にため息をつく日々を送った絶望的な生活を送る人、そして、家を失った子供たちは餓死の恐怖に怯えて過ごす姿もありました・・・。こうして戦後になっても、核兵器による被爆、あるいは後遺症によってみじめな生活は続いていたのです・・・。今年で戦後77年目となった今、我々にできることは、このような悲劇を繰り返さないためにも、戦争の恐ろしさや平和の大切さを学び、それを世界中に伝えることです!

 

ポツダム宣言の発表

昭和20年7月、アメリカのハリー・トルーマン大統領は、ドイツにあるポツダムにてイギリスやソ連の首脳との会談で協議が行われた上で、翌26日にはアメリカ・イギリス・中国の3カ国の連合国が日本に無条件降伏を求めるために『ポツダム宣言』を発表しました。

これは日本に対して太平洋戦争の降伏を勧告するとともに、戦後の対日処理方針を表明したものです。この宣言には、日本の領土の限定ならびに武装解除をはじめ、戦争犯罪人の処罰、日本の民主化、そして連合国による占領などを規定を目的とする条項が含まれています。この内容には、まさに日本が降伏するために重要なものと考えられていたのです。

ところが、当時は天皇制存続の保証が記されず、また原爆の存在や仕様を暗示する言葉もなかったのか、この頃の日本はポツダム宣言の受諾を拒否しました。そのため、8月6日には広島へ、8月9日には長崎へ原爆が投下される引き金にもなったと言われています。また、8月8日のソ連対日参戦に追い詰められたことから、8月14日に『ポツダム宣言』を受諾し、その翌15日には日本が降伏し、これがいわゆる8月15日は『終戦の日』になったと言われています。

この事実は15日正午の玉音放送(ぎょくおんほうそう)にて国民に伝えられ、太平洋戦争における人的被害は、日本では民間人も含めて約250万人が死亡、アジア諸国での死者は1800万人に上ったとされています。これだけで多くの尊い命が落とされたことを考えれば、戦争は二度としてはならないということが分かりますね・・・。

8月6日に広島へ原子爆弾が投下される事になったのですが、これには以下の経緯があったといいます。昭和20年春から、アメリカは投下目標都市の検討を始め、投下目標は、直径3マイル(約4.8km)以上の市街地を持つ都市の中から選びました。その後、爆風で効果的に損害を与えることができるなどの条件で投下目標の選定は進み、目標都市への空襲を禁止しました。7月25日には広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの目標都市の1つに8月3日ごろ以降、最初の原爆を投下する命令を下しました。その後、新潟は除外し、8月2日には第一目標に広島、更に投下日を8月6日とする命令を発したのです・・・。

 

日本において原爆の模擬爆弾が投下された箇所
原爆の実戦での使用に備えるため、原爆投下に専念する部隊が新たにつくられ、アメリカ国内の砂漠などで繰り返し投下訓練を行いました。

昭和20(1945)年に部隊はマリアナ諸島のテニアン島へ移動し、日本の地理に慣れ、目標へ確実に投下するための訓練として日本の各地に通称『パンプキン』と言われる模擬爆弾が投下されました。これら『パンプキン』の投下によって約400人以上が犠牲者を出したといいます。投下目標とされていた広島や長崎をはじめ小倉・新潟以外の日本各地に『パンプキン』が7月20日からポツダム宣言受託日の8月14日まで約49発が投下されました。模擬とはいえ、これだけでも相当な被害者が出ていたということが分かります・・・。本当に戦争というのは恐ろしいものです・・・。

 

広島に投下された原子爆弾の模型『リトル・ボーイ』
これが8月6日に広島へ落とされた原子爆弾の模型です。

名前は『リトル・ボーイ』で、実際の大きさとしては、長さ約3メートル、直径約0.7メートル、重さは約4トンもありました。これが投下されたことで広島の市街は一瞬にして崩壊し、約14万人の命を奪っていったのですね・・・。実際には約32万人が亡くなったのではないかという説もあるようです。

 

長崎に落とされた原子爆弾の模型『ファット・マン』
続いて8月9日には長崎へ投下されました。

こちらは『ファット・マン』という名前で、実際の大きさは長さ3.2メートル、直径約1.5メートル、重さ約4.5トンと広島の原子爆弾より若干大きめです。長崎では約7万人が亡くなったとされています。こちらも実際には約19万人がなくなったとされているようです。こうして後遺症も含めると合計で約51万8千人いるという計算になります(※あくまで2021年度のデータです)。

 

原爆被害調査日誌

原爆が投下されてから1ヶ月過ぎた広島では、昭和20年9月21日から30日にかけて調査が行われました。

理化学研究所の中山研究員の調査日誌には広島で原爆による植物への影響についての内容が記されています。

 

広島爆撃調査報告書の草案

原子爆弾が投下されてから数日経った8月10日、大本営調査団は、陸海軍や京都帝国大学などの調査隊とともに、それぞれの資料を持ち寄って会議を開き、広島に落とされた新型の爆弾が『原爆』であることが確認されました。

この報告書には判決として『原子爆弾ナリト認ム』と正式に記されました。これが世間に『原爆』といわれるきっかけにもなったとも言える証拠品の1つです。

 

放射線測定のため採取された被爆の砂

これは原爆投下後の広島市内にて採取されたもので、東京の理化学研究所に送られた砂です。

採取日は8月10日に行われ、この中に入っていた銅線から放射線が検出されました。この試料は『黒い雨』の降雨地域の検証にも活用されたそうです。

 

原爆の熱線で被爆した瓦

原爆の熱線は爆心地から約500~600メートル離れた場所でも、セ氏2千℃もあり、この範囲内にあった屋根瓦は、表面が溶けブツブツの泡状になるという、そそるべき現象が見られました。

 

焼き抜かれた文字

鉛筆の芯は鉛が使われているため、熱線に反応して文字の部分だけ広く焼け抜けてしまっています。

 

爆心直下の清病院の鉄平石

爆心の中心部にあった清病院のコンクリート塀の上にあったものです。

拡大してみると表面が溶け黒色のガラス状の物質が露出しているのが分かります。その一部が弾け裏返しになってゆ着しています。

このように、原爆のさく裂後に発生した火球の表面温度だけでも、わずか0.2秒でセ氏7,700℃に達し、放出された熱線は、さく裂後の0.2~3秒までの間に、地上に強い影響を与えました。爆心地周辺の地表温度はセ氏3~4千℃にも達し、爆心地から半径3.5kmまでの範囲にいた人も大火傷を負いました。特に約1.2km以内で、遮るものさえないまま熱線の直射を受けた人は体内の内部組織にまで大きな障害を受け、そのほとんどが即死し、あるいは数日のうちに死亡していったのです・・・。

 

世界の核弾頭数

 

日本は戦争がなくなっても、世界中にはまだ核兵器を所有している国はあります。

特にロシアやアメリカでは核弾頭数が多く、ロシアが一番多いようです。核兵器の実験が初めて行われたのは北朝鮮で、今でも時々弾道ミサイルの実験が行われることが多々あるようです。弾道ミサイルの実験は困ったものです・・・。そして、ウクライナ問題のこともあり、1日も早くロシアの戦争も終わってほしいものです・・・。

 

市内にて路面電車の線路の復旧作業に従事する人々

 

日本は昭和20年8月15日に終戦を迎えます。

原爆による傷病の苦しみは続きました。疎開してきた子供や戦地の兵士、外地の市民などが広島に戻ってきながら、衣食住に最低限必要な物資さえも不足な状況に人々の暮らしはまさに過酷なものとなっていたのです。しかし、日本が敗戦となったことで、米国を中心とした連合国軍に占領され、社会は大きく変化していきます。

生活の貧困こそ続いたものの、それでも広島の人たちは道路や橋を復旧させ、廃墟にバラックを建て、屋根のない教室で勉強するなど、生活再建のための地道かつ力強い努力が続けられたことから、海外からの支援も多く寄せられたのです。上の写真は、被災した路面電車の線路の復旧作業をしている光景ですが、鉄道や道路に限らず電力や通信などの都市機能の復旧は始まっているのです。また、かつて復旧に重要な役割を果たしていた軍隊は終戦で機能しなくなったものの、周辺地域からの救援活動が続き、復旧は徐々に進められていきました。

 

広島平和記念都市建設法
終戦直後から数多くの広島を復興都市・構想が提案されました。

広島市は昭和21(1946)年に復興都市計画を決定しましたが、当時は財政難だったことから難航したといいます。こうした状況から打開するべく広島市は国に働きかけ、昭和24(1949)年に『広島平和記念都市建設法』が制定されました。この法律に支えられ平和記念公園などの記念施設や多くの道路、橋などが建設され、広島市の都市基盤としての整備が進みました。

土地区画整理が進むにしたがいバラックは姿を消していき、これまで荒んでいた焼け野原だった街は大きく変貌していったのです。昭和27(1952)年3月には『広島平和記念都市建設計画』が建設省からの認可を受け、平和記念施設の建設をはじめ、復興に向けた大規模な事業が動き始めました。

 

原爆病院での治療や無料診断が行われた

1950年代以降は被爆者援護施策の成立および拡充が進められます。

かつて連合国軍による占領下で、原爆症研究は公表が制限されていましたが、昭和27(1952)年の主権回復後は日本人医師らによる研究が進展し、後障害や偏見に苦しむ被爆者の姿が明らかにされていきます。これは原爆症を解明し、被爆者を救援しようとする努力が現在に至るまで続けられているのです。昭和32(1957)年に原爆医療法、昭和43(1968)年には原爆特別措置法が制定されました。更に平成7(1995)年には被爆者援護法によって二法が一体化され、保険、医療及び福祉にわたる総合的な被爆者援護対策が講じられることになります。

このように、広島市は、在外被爆者や黒い雨体験者に対する支援の充実など、一層の救護拡充を国に求めています。

アメリカの原爆症調査では、ハリー・トルーマン大統領は昭和21(1946)年11月、原爆による後遺症調査のための機関設置を指示。更に昭和22(1947)年3月、広島に原爆障害調査委員会(ABCC)が開設され、翌年、長崎でも活動を開始しました。

広島では昭和27年ごろから後遺症の治療を求め被爆者の団体が形成され始めました。昭和31(1956)年5月、複数の被爆者団体が話し合い、原爆被害に対する国家補償などの目標を掲げ、広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)を作りました。続いて同年8月には日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が形成され、全国の被爆者の支援に取り組みました。しかし、組織化が進んだとは言え、差別を警戒し被爆者として名乗り出ない人もいたそうです。

被爆者への法的援護では、被爆者や広島市は、国に対し治療費の援助などを求める活動が行われました。その努力の結果、昭和32年3月に原爆医療法は成立し、被爆者が定義されると被爆者健康手帳の交付がされました。更に健康診断も行われ、国が治療費を負担する制度ができたものの、不十分な点もあったようで、引き続き被爆者の救護の拡充が訴えられたといいます。

被爆症研究の進展では、占領期も日本人医師らは原爆症の研究を続け、サンフランシスコ講和条約締結以降は研究発表が急増するなど、原爆症の研究が本格化していきました。昭和34(1959)年には、多くの医師の参加を得て第一回原子爆弾後障害研究会が広島市にて行われ、後遺症への有効な治療法を求め医師たちの努力が続けられたのです。

被爆者への医療支援として広島市を中心に昭和28(1953)年1月には広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協)が設立。市民病院にて無料診断が行われるなど、被爆者への治療支援が始まりました。広島柳が崎にて被爆し、故郷に帰国した外国人や渡航した日本人には長い間被爆者援護制度は適用されていなかったのですが、昭和42(1967)年には韓国原爆障害者救護協会の発足を始め、在外被爆者への援護を求める運動が大きくなり、司法に訴える動きも相次ぎました。21世紀に入ると平成14(2002)年には大阪高裁で判決を受け、その翌年からは被爆者救護法に基づく諸手当の支給が開始され、現在では被爆者が居住する国の日本大使館などでの被爆者健康手帳や諸手当の申請ができるようになり、医療費の支給も行われています。

 

平和な世界をつくる

原爆が投下された日から2年後の昭和22年8月6日、広島市は初めて平和宣言を発表しました。

それ以降、原爆被害の実相と世界恒久平和を今でも訴え続けています。

兵器廃絶を願う市民の運動は、昭和29年のビキニ事件を機に大きく広がりました。現在では、核実験や原爆事故で被爆した人たちへの医療支援ならびに多様な活動が続けられています。したがって、人類と核兵器は共存できないのです。原爆の地獄を味わった世代のように苦しみや悲しみを経験させてはならないという被爆者の思いを受け止め、受け継いでいく気持ちと営みが更に求められていくことでしょう・・・。

 

市民による平和運動
市民らによる平和運動は、占領下で原爆被害にもとづき始まったものです。

これは、ビキニ事件を機に盛り上がり、昭和30(1955)年8月に原水爆禁止世界大会が広島で開催されました。これは現在も繰り返される核実験への抗議としての原爆死没者慰霊碑前での座り込みは昭和32年に始まりました。原爆被害の実態解明や被爆体験を伝える活動も市民の平和運動の大切な柱です。また、医師らによって旧ソ連核実験場周辺の住民やチェルノブイリ原発事故被爆者への医療支援が行われるなど、市民も活動は多面的に続けられています。

 

被爆体験の継承・伝承
原爆や核兵器の恐ろしさを後世に伝えるべく、様々な取り組みが行われています。

占領軍による報道や出版の規制がなくなった頃から原爆の被害を広く伝えるべく、様々な取り組みが行われ、昭和27年には市民が協力し、映画も制作されたエピソードもありました。ところが、都市化が次第に進行し、1960年代後半、原爆を知らない世代の増加が指摘されたことで、原爆の『風化』が懸念されたといいます。そこで被爆者らは、自分たちの経験を語ると同時に、手記や絵画で表し、証言をビデオに収めるなどの活動がなされました。今では、被爆体験のない人でも、被爆地の記憶を受け継ぎ、国内外で次世代に語り継ぐ取り組みが行われています。

 

原爆ドーム保存活動の呼びかけ
その中でも、『原爆ドームの保存』が大きなきっかけとなりました。

原爆ドームはかつて『広島県物産陳列館』として建てられたもので、広島に原子爆弾が投下された昭和20年8月6日には、もはや原型をとどめていないほど崩壊した姿から、戦後には『原爆ドーム』という呼称で呼ばれてきました。1950年代当時、市民の間では「悪夢を思い出させる」という理由から撤去を求める声もあったそうです。しかし、中高生たちで作る広島折鶴の会の呼びかけを機に、広島市議会は昭和41(1966)年には全会一致で原爆ドームの保存を決議しました。これは楮山ヒロ子さんが白血病で亡くなり、いち早く原爆ドームの保存運動が始まったきっかけにもなったと言われていますこうして、保存のための募金が呼びかけられ、昭和42(1967)年には第1回の保存工事が行われました。この呼びかけは、原爆ドームの保存を決議したことで募金運動の共同提案を原爆病院の入院患者に依頼した時のものです。

 

子供たちも感想と復元作業中の地図
原爆の被爆体験のお話を聞いたり展示を見学した子供たちの感想が、証言者や平和記念館に毎年多く寄せられています。

また、被爆前の中島地区を、聞き取りを基にし、復元をする調査が行われていました。その作業の過程で、調査結果を反映した地図も作成されました。このように平和を伝えるボランティアも度々行われているのは大いに良い取り組みだと思います。

 

資料館の展示を通してのメッセージ

人権の擁護者であるオスカル・アリアス・サンチェス さんからのメッセージです。

この記念館の展示物を見てきましたが、世界中の人々に平和の大切さや戦争の惨めさを学んでほしいという気持ちを無駄にしないためにも、平和の大切さを心に刻み込んでおきたいものです。

 

平和記念公園を見学した感想
最後に、ノートに感想を書いてきました。 

やはり戦争や核兵器は人々に不幸をもたらし、家族や人生を壊してしまうものだということを学びました。また、二度と同じ悲劇を繰り返さないためにも、平和への尊重はとても大切なことだということを改めて学びました。そして、この体験を後世に伝えるというテーマもとても大切なことだと思いました。しかし、日本以外の国では今でも戦争をしている国があるので、1日も早く戦争がなくなってくれることを、心から祈りたいと思います。

さて、長くなりましたが、今回も読んでいただき、ありがとうございました。

 

『夏にこそ見るべき! 広島の平和記念公園と記念館を見学』終わり