みなさんこんにちは。
今回は、佐渡金山を見学します。
佐渡の旅館での朝食も、佐渡らしく鮭の塩焼きや湯豆腐などの和物が出ていて美味しかったです。
旅館の部屋から見える加茂湖も広々しいです。
しかし、この日の天気は雨気味で加茂湖はややどんよりしています。運が良ければトキが飛ぶ姿が見られることがあります。
★両津エリア(ホテル)から佐渡金山へのルート★
朝9時にホテルを出て佐渡金山までクルマを走らせます。佐渡金山のある『相川エリア』は両津エリアとは東西反対の場所にあるため、40~50分ぐらいかかります。
ということで、佐渡金山に到着しました。
佐渡金山は、慶長6(1601)年に発見され、徳川家康の手によって開発された鉱山です。
この鉱山はおよそ400年近くもの間に採掘が続けられ、鉱山としては寿命が長かったのです。これは世界的に珍しい鉱山と言われています。江戸時代には徳川幕府の財政を支えたともいわれ、17世紀当時は金・銀の生産額は、南米のポトシ鉱山(ボリビア)やサカテカス鉱山(メキシコ)などとならび世界的に屈指の鉱山として栄えていましたが、平成元(1989)年3月には、資源枯渇のため、操業は約400年の歴史を刻み廃止となりました。
ビクティニ:昔はここで金を採っていたんだね。
ミュウ:ここは鉱山だったからね。
佐渡金山の入り口には、『道遊坑(どうゆうこう)』と『宗太夫坑(そうだゆうこう)』の二つに分かれています。
ここは『釜の口』という間歩(坑道)の入り口で、柱を四本に建てて構築したことから『四ツ留』とも言われていたのです。ここでは『宗太夫坑コース』から見学します。
ビクティニ:鉱山の中を探検してみよう。
ミュウ:これまた洞窟みたいなところへ入るのかな?
『宗太夫坑』は、江戸時代初期に造られた坑道で『間歩(まぶ)』といわれています。
ここは作業責任者あるいは位置などから、その名前が付けられた他、『青盤間歩』などと名付けられたそうです。そして、この坑道のトンネルは江戸時代に造られたため素掘りのままになっています。
宗太夫坑は、坑口の高さが約3メートル、幅2メートル、坑道の断面が大きい江戸初期に開坑された大型坑道とされています。また、平成6(1994)年には国の史跡に指定されています。
ビクティニ:昔の人たちは、ここを通って金の採掘作業をしていたのだろう。
ミュウ:まあ、ここはもともと作業用のトンネルだもんね。
佐渡金山での金採掘の歴史は、江戸時代より始まりました。
佐渡で採掘された金は、もともと当時の徳川幕府(江戸幕府)の御用達でもあったことから、江戸時代の年間産出量が約700~800kgと当時としては多かったと思われます。そして、明治以降に入ると採掘技術の向上とともに、昭和末期まで金の総産出量は次第に最盛期になっていきました。
江戸時代では、鶴子銀山の山師こと三浦治兵衛をはじめ、渡辺儀兵衛、同弥次左衛門によってこの『相川金銀山(現在の佐渡金山の一部)』が発見したことから始まり、徳川家康の支配下にありました。当時の相川は次第に金で栄えていったのです。そして元和7(1621)年には佐渡で初めて小判が造られ、のちに様々な形の小判が量産されていきました。金の他にも銀や銅などの産出量も豊富だったようです。ちなみに最盛期の総産出量では、金が約16.3トン、銀が約285トン、銅が約3千2百トンあったようです。これだけの生産量を見ると金はそれだけ貴重なものであるということが解ります。
日本の金銀銅の採掘地は佐渡だけでなく、島根県の『石見銀山』や栃木県の『足尾銅山』など、東北から九州の各地にかけて採掘が行われていました。
言わずもがな、佐渡から採掘された金銀銅は北前船を使って各地へ運ばれていたことが想像できます。そして、佐渡で採掘された金は江戸(現在の東京)へ運ばれていったのです。
日本における金の使用の歴史は古代の金印から始まったとされていますが、通貨として流通が始まったのは豊臣秀吉の天正大判、小判からともいえるでしょう。以後、各地の大名の開発により発行量が増大。近世の繁栄のさなか、物資は豊かに全国的に行き渡り、従来の米価体制と金銀銅貨の通貨体制が合わさり、二重の通貨経済となったのです。
佐渡で金を採取するに様々な方法が用いられました。
西三川エリアでは、『砂金採取』という方法で、『大流し』や『敷掘り』という方法で採取していました。採取方法としては、川床や海岸、あるいは砂利山の中に混じっているもので、佐渡では中世の頃から採取されていました。土砂を掘り出して水辺へ運び、金の比重が水の20倍ほどあるのを利用し、水中で土砂を篩い分け金粒を取り出します。これを『板取り』といい、中世の頃の当時は精錬の技術が未発達だったため、採取した砂金に熱を加えることで、金の塊を造る程度しかできなかったのです。
佐渡金山である相川金山では、『山金の採取』が行われていました。山金は、岩石中にある金のことで、坑道素掘りを行うことで採取できます。相川金山は、初め地表に露出した鉱脈を掘っていましたが、当時の坑道掘りの技術では約4百年前の文禄年間に、石見国(島根県)から来た鉱山開発者によって伝えられたことで、出鉱量を増大させました。掘った鉱石は繰り返し選鉱され、さらに灰吹法などの新技術で精錬され、高純度の金銀を得るようになったのです。
相川地区の海岸沿いでも、金銀山の出鉱量の減少を補うため、『浜流し』といわれる方法で近世中期頃より初められました。これも西三川エリアと同様、川や海岸に堆積した捨石や砂から金銀分を含んだ鉱石や砂金を再回収することを目的としています。時には民家の石置屋根の石などまでも対象としています。それらは、『外吹き買石』と呼ばれる専用業者により選鉱され、精錬工程も他の山金と同様に行われていました。
坑道の途中には、当時の様子を再現させるために人形が動いています。
江戸時代における佐渡金山では、このように多くの人手によって、金銀銅が採掘されていました。
江戸前期の承応2(1653)年、佐渡金山にもたらされた坑内排水(揚水)ポンプ、紀元1世紀の頃、ギリシャの哲学者・物理学者のアルキメデスが考案した『アルキメデスポンプ』が祖形とされています。それを京都にいた水学宗補(すいがくそうほ)がこの佐渡金山に伝えられました。承応2年から用いられていた水上輪を操作する樋引人足は、高賃金を稼げることから、農家の次男、三男が稼ぎに来ていたといいます。のちに無宿人も使われたものの、意外と少なかったようです。
ここは『杉右衛門断層』という佐渡金山の西端に位置し、南北に1.5km伸びる大きな鉱脈を断ち切っています。その鉱脈は『立合(たてあい)』といい、ここには石英脈の中に金銀が含まれていることから、石英脈を『白立合』と呼ばれていました。
このように石英岩を含んだ佐渡金山の坑道は、開山から百年足らずで海面下に至っています。坑道が深くなれば地下水が多くなり、水との戦いが採掘量に影響しています。
江戸時代、採掘坑を『間歩』、採掘場を『敷』、そして鉱石のことを『鏈』と呼んでいました。その間歩を取り仕切るのが山師であり、間歩の名前は山師の名前で付けられる事が多いようです。そのため、上下に連なるこの坑道は『宗太夫』という山師が稼行したものであり、江戸時代の姿が当時の状態で残っていることから、国史跡に指定されたのです。
『金掘大工』は坑内で採掘作業を行い、『荷揚げ掘子』は坑内で採った鉱石を大工頭(現場監督)のところに運び、叺(かます)に入れた鉱石を坑外へ運ばれます。
佐渡金山の岩盤は硬いですが、断層や岩質によって崩れやすい部分がある場合は、支柱で補強し坑道を維持していたのです。その補強工事を『山留普請(やまどめふしん)』といい、その工事の責任者は山留大工が担当、手伝堀子、丁場掘子を使い工事を行っていました。留木材は、島内から集められた栗や楢の木を使っていましたが、需要に追いつかなかったことから、島外からも木材が運び込まれたようです。
坑道の出入り口には検問所があり、掘子たちが鉱石や物資の不正持出しをしないようにするため、また運搬人の出入りを記帳し、賃金支払いの目安とするために行われました。坑内には、留木・油・たがねなどが持ち込まれ、掘子が坑内に運びます。『掘子』とはいわば坑内の雑役夫であり、運搬から作業の手元まで、現場の作業内容に応じて五種類に分けられていました。
坑内は、地上と違って酸欠になりやすい過酷な環境でもありました。
水上輪や手繰りの桶で汲み上げた水は、掛樋を通して排水坑道に集められ、坑外に排出されていました。また、灯火からの油や煙、石粉の立ち込めた坑内では酸欠になりやすい環境でありました。そこで、酸欠を防止するために『敷(しき/採掘現場)』に風を送る『唐箕(とうみ/送風機)』が使用されます。その操作をするのが『風送り掘子』です。『唐箕』は酸欠防止の道具として用いられました。また、採掘中に坑内で湧き出た水は、樋で横持ちし、斜面は水上輪を、垂直には『ツルベ』が用いられました。さらに平面ではこのように樋を使い坑外へ運び出す『掛樋(かけどい)』も設置されました。
照明は当初、松蝋燭や紙燭が使われていましたが、天和年間(1681~)より鉄製の柄のついた『釣』が登場したことで、携帯用照明として重宝されました。
佐渡金山では、たがねや槌(つち)を使って鉱石を掘る坑夫のことを『金掘大工』と呼んでいます。
金掘大工は、坑内の労働者の中において、技術者としては賃金がよくゆうぐうされていたのです。採掘は4時間毎の交替制で食事や休憩時間も設けられ、筵(むしろ)の上で横になることができたといいます。ところが、作業中も休憩場所も地中で過ごしていたため労働環境が悪く、一般的にその過酷な労働に耐えられずに辞めた坑夫も多かったようです。
江戸時代の半ばから地中の鉱石を求め坑道がますます深くなると、水揚げ機の使用がままなりません。
そこで手繰り水替による人海戦術が見直されることになります。水替人足の労働時間は隔日交替の一昼夜勤務できつかったものの賃金はよかったのです。しかしながら、常に人員不足だったこともあり、安永7(1778)年より幕末までの約90年間、江戸をはじめ大坂や長崎などの無宿人を水替人足として受け入れるようになりました。それでも記録によれば、その数は1,874人ともいわれ意外と少なかったそうです。なお、無宿人の賃金としては1日に付き米飯が1升2合・味噌・醤油・野菜などの他、塩代や小遣いなどが支給されたようです。他にも年間仕事着ミノ・笠代・布団代も支給されたそうです。
金鉱脈をさがすために、縦横無尽に掘り進められます。
鉱脈が見当たらい時は、脈の方向を推定し、直交する向きに開削していきます。小規模なものを『切山』といい、高さや幅も、かろうじて人が出入り出来る程度のものだったのです。そのうちの穴が『狸穴』といわれ、細い鉱脈をたどりつつ掘り進んだ坑道で、ようやく位の小さいものが多かったようです。
採掘作業の様子です。
採掘を行う際、金掘大工は『たがね』を『上田箸(うえだばし)』ではさみ、『槌(つち)』を用いてたがねを打ちながら採掘作業を行っていました。そのうち、上田箸はたがねが短くなってもつかむことができ、しかも手元の安全を守るのにも役立ったといいます。たがねは2日で1本消費されます。短くなったたがねは、坑外の『鍛冶小屋』に運ばれ再生されるというサイクルになっています。そして掘った鉱石は、大工頭が品質を確認したのち、区分けして運び出されます。
金掘大工の作業としては・・・
引立掘(ひったてぼり)・・・水平方向に掘る
冠掘(かんむりぼり)・・・上向きに掘る
台掘(だいぼり)・・・下向きに掘る
・・・といった感じでたがねや槌を使って鉱石を採掘していたということです。
実際に採掘作業で使われていた道具はこれがそうです。
『たがね』を『上田箸』にはさみ、尖ったのを掘る方向にあてて『槌』で打ち付けて採掘をしていたのです。『上田箸』は、たがねを挟むためのやっとこで、信州上田より来た山師(上田久二)が考案したものだそうです。
間切は、高さや幅、高さを決め、見積もりを立て掘った大規模な探鉱坑道のことをいい、奉行所が請負業者に発注されます。これは、坑内に大道を開く意味から、『大道間切』ともいわれていたそうです。掘られた間切は発注通り、あるいはどれだけ進んだかを検査を行います。その検査を『間切検査』といい、諸役人や山師、振矩師(ふりがねし/測量師)で行われます。紙のこよりを固くより作った『てへん』といわれる被り物をしている人は役職をもっています。
江戸時代中期には鉱石が減少し、一旦捨てた柄山(鉱石が含まれていない捨石)も回収され、粉成し精錬されるようになります。それらは捨石や拾い石を専門に精錬する『外吹買石(そとぶきかいいし)』という精錬業者のところに運ばれます。
さらに、『狸穴』という坑道にて細い坑道をたどりつつ大きな鉱脈を探します。その際、腹ばいで移動しなければならなかった上、落盤事故のリスクも重なるため、それだけ非常に過酷な現場であったことが伺い知れます。
このあたりの坑道は、『金銀鉱脈(白い石英)』をたどりながら、たがねや槌を使いながら掘っていました。この写真の薄緑色の母岩は『凝灰岩』で、火山灰が凝固したもので、約3千万年前のものとされています。ということは、大昔は火山があったと考えられます・・・。
奥の壁面に浮かび上がる縞模様が立合(鉱脈)で、その模様の黒い縞には多量の金や銀が含まれています。その富鉱帯を見つけると、祝いの儀式が行われていました。これがその間歩開きの祝いの儀式が行われている様子です。採掘を請け負った山師や金児が見守る中、棚の上では佐渡金山に伝わる独得の祭礼『やわらぎ』が行われていました。これは硬い岩盤が少しでも和らぐようにという祈りの神事のことで、山の神の心を和らげるという意味合いもあったのです。
宗太夫坑の坑口は江戸時代らしく坑柱で構成されています。
佐渡島の金鉱石には、白い石英の中に黒の縞模様が見えるものが多いのですが、これは銀の硫化物であり、その中に光っている粒が『自然金』いわゆる佐渡の金なのです。
江戸時代から使われていた金貨は、イメージで分かるように『大判』や『小判』が使われていました。
慶長から万延の時代にかけて墨入りの立派な大判が使われていたと思うと、持ち運びも大変だったことでしょう・・・。小判より更に小さい『一分金』もありました。佐渡で作られた金貨には裏面に『佐』の字が刻印されているのが特徴です。そのことから『佐字(さのじ)』とよばれていました。ちなみに大判に含まれる金は5割弱、小判や一分金には5~8割弱含まれているようです。
『佐渡小判』や『佐渡一分金』は、唯一佐渡に現存する唯一の鑑定書付きの小判ならびに一部金であり、享保年間(1716~1724年)に製造されたものと言われています。保存状態が非常によく、小判裏面の右上端には佐渡を表す丸に『佐』の文字が刻印され、小判師刻印は丸に『又』の文字、吹屋刻印は丸に『神』の文字が刻印されています。それらの刻印を『座人印』といい、筋神、利神、高神、又神の四種に限られています。そのうち『又神』は稀少な組み合わせです。
品位:金861/銀139 量目:小判17.78g 一部金4.43g
つづいて『道遊坑コース』も見てみましょう。
ここは、明治32(1899)年に開削され、佐渡金山の近代化に大きく貢献した明治官営鉱山です。この坑道の奥には、平成元年までに採掘されていた採掘跡が今でも当時のままで残っています。
佐渡島に金銀鉱山ができたのは、地下数千メートルに地下水がマグマの熱によって高温数百度かつ高圧の状態(熱水)で地中に存在します。その熱水に、金銀などの金属分が長い歳月をかけて溶け込みます。火山活動によってできた断層や岩石の割れ目に熱水が吹き出し、水中に含まれる金銀分が冷えて沈殿したものが、いわゆる『金銀鉱脈』なのです。
地盤が隆起したことで表面が削り取られ、『金銀鉱脈』が地表に露出した部分(露頭)
が多くあったことから、現在の『佐渡金山』として形成されたということです。
佐渡金山には、八つの主要金銀鉱山が走っており、いずれも金銀を含む石英脈であり、その規模は東西約3千メートル、南北約6百メートル、深さ約8百メートルに及び、平均脈幅は1~10メートルあります。平均品位は、鉱石1トンあたり金が約2.4~8.0g、銀が約50~120g。その白い石英脈の中に含まれる黒い縞模様が『銀黒』という銀の硫化鉱物であり、その銀黒の中にわずかながら金が含まれています。
運営体制も時代ごとならびに明治維新とともに変化していきました。
江戸時代では、江戸幕府や佐渡奉行所をを通して、山師による掘削作業、買石による精錬業者、坑夫、仕事師などで構成されていました。明治時代では、明治政府や官営佐渡鉱山をはじめ、技術の進歩とともに日本人技術者の他に外国人も雇われます。江戸時代では山方役や筋金役で構成されていたのに対し、明治では部屋頭という制度に変更されているものの、下の役で坑夫や職人が構成されているのは一緒のようです。
この坑道は、江戸時代では『次助坑』と呼ばれていました。このあたりも鉱柱で構成されています。
道遊坑は、道遊の割戸直下の金鉱脈(道遊脈)を採掘するため、明治32年に開削。さらに昭和6(1931)年には約1km先にある大竪穴坑とつながり、『通洞坑』と呼ばれるようになりました。地下深い場所で採掘された鉱石は、大竪穴坑経由で道遊坑内を通って高任粗砕場まで運ばれる作業を平成元年の閉山まで続けられました。このように明治維新の進歩とともに貢献された経緯から、『国の重要文化財』に指定されています。
この坑道の右上の小さな穴は、『煙穴』という江戸時代の手掘り跡です。
これは深い穴の中で作業を行うため、酸素が不足し、さらに灯火用の油や機械からの油などで煙が充満しやすい環境でもありました。そこで、外から空気を取り入れるために、このような小さな穴が掘られたものと考えられます。
道遊坑の坑内には、鉱石や資材などを運搬するためのトロッコレールが敷設されています。
『警笛鳴らせ』の標識も時代の進歩を感じさせられます。この坑道は先程の宗太夫坑とは対照的に近代化しているようです。
鉱物を運ぶために使用された機関車やトロッコが展示されています。
鉱物の運搬に使用された機関車は2トン蓄電池式のものです。鉱物の他に作業員や人車、台車の牽引に使用されました。その機関車は日本輸送機製で、佐渡金山では昭和13(1938)年に6代が導入されています。現在展示されている機関車は昭和30~40年代のものが主で、平成元年の閉山まで使用されていたものです。この機関車は、1トン鉱車だと10両ほどの牽引ができ、3段階に調節可、時速12~13kmで鉱物を運んでいました。24個の蓄電池が装備されており、作業が終わった後は充電されていたようです。機関車に連結されるトロッコは『鉱車』といわれ、採掘現場ならびに立坑経由で鉱石や廃石を運搬する場合に使われていたものです。これらの鉱車には約1トンの鉱石を積むことができます。これは立坑のエレベーターに積めるような大きさで設計され、手押しで出し入れができるよう、取っ手が設けられています。これは昭和20年代から使われたものとされています。
当時の佐渡鉱山は、このように複雑に入り込んでいます。そのうちの『宗太夫坑』や『道遊坑』もほんの一握りだということを感じさせられます。
明治期の金鉱脈(道遊脈)の採掘跡です。
ここが『道遊の割戸』の真下に位置しています。道遊脈は、山頂からこの付近までほぼ垂直に走っており、脈幅10メートル、長さ120メートル、深さ100メートルに及びます。その鉱脈を採掘するため、明治32年に道遊坑が掘削が行われ、閉山までその作業が行われていました。
佐渡金山の山頂部は江戸時代初期に手掘りで採掘され、山が割れたような形になりました。
そのような形になったのは山頂直下で垂直に採掘作業をしていたため、あのような形になったと考えられます。中腹部では、発破によって鉱石がこの付近に落とされたことで、トロッコに搭載して運搬していました。そのため、稼働していた頃は中腹から発破音や光を発していたようです。
明治期の鉱脈にはトロッコ用のトンネルまで整備され、稼働時にはトロッコがここを行き来していた場所です。
しかしながら、ここはトロッコの他にも作業員が通ったりすることがあるため、待避所や休憩所が設けられています。手前の左側の穴の奥には『無宿人休憩所』が設けられ、その坑口は江戸時代の手掘り跡です。そのため、明治時代に坑道を開削する時も、そのまま塞がずにしたとされています。
道遊坑の坑口は、明治時代に造られたものなのか、石材で構成されています。まるで鉄道用のトンネルのようです。
機関車やトロッコを整備するための機械工場も存在していました。
この工場は昭和初期に建設され、ここで機関車やトロッコの整備や修理の他に削岩機用のたがねもここで造られました。また、機関車の充電もここで行われていました。他にも、坑内には機関車の向きを変えるためのターンテーブルも設けられています。ここも国の重要文化財に指定されています。
鉄製の朱い櫓が高任立坑で、その左側には高任坑があります。
佐渡金山の出口に出ました。
『宗太夫坑』も『道遊坑』も、見学後はここから出ることになります。
お疲れさまでした。
★おまけ★
佐渡金山の出口では金箔ソフトや新潟名物の笹団子がいただけます。
ビクティニ:金箔のソフトってなんか意外と美味しそうに見えるし、なぜか幸せな気分(^^
ミュウ:笹団子も美味しいよ(*´∀`*
海鮮丼や寿司など佐渡近海でとれた海産物は絶品です。
ビクティニ:やはり佐渡のお魚は美味しいよね!いただきます!うまい!
ミュウ:わさびがちょっと辛い・・・。
にょろもう:エビ汁もうまいよ。
ゴンベ:すごいボリュームだっペ!いただきますだ~!ガツガツ・・・うまいだ~!
ここでは、佐渡にまつわる伝統や芸能・文化などの歴史をロボットによる劇場形式で紹介しています。順応天皇・日蓮聖人・世阿弥をはじめ、おけさ伝説・夕鶴伝説・安寿伝説など佐渡ならではの昔話が劇場形式で上映されています。佐渡の昔話を知るのには楽しいスポットです。
ビクティニ:佐渡にはこんなお話があるんだ・・・。
ミュウ:みんな人形でお芝居してるんだね。
最後までご閲覧おつかれ様でした。最後にトキ親子の写真で佐渡を後にします。
ありがとうございました。
おわり